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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.4 (2000/10/01)
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前回、『コンセント』の感想文の末尾に書いた二つ目の「過剰」に関連しての補足。
香山リカさんのメールマガジン「香山ココロ週報」(No.027?No.030)に掲載され
た対談で、田口ランディさんは「ユキの職業なににしようかなって思ったときに、
すごく金融っていうものとしっくりくるなって感じがあって。金融って好きなんで
すよ。自分が株をやるわけじゃないんですけど、あの世界ってすごくバーチャルで、
絶対的な世界の一面だなって。私がパラレルに存在してるっていうところが面白い
なって思ってるものですから」と語っていました。
☆「香山ココロ週報」[http://www.so-net.ne.jp/stress/kayama/]

「過剰」なものと聞いて(といっても私が勝手に使っただけなのですが)、「過剰
は美である」というウィリアム・ブレイクの言葉を題辞に掲げたジョルジュ・バタ
イユの『呪われた部分』(邦訳二見書房。著者はこれを「経済学の著書」と呼んで
いる)を連想しました。本の「腰巻」の文章をそのまま引用しておきます。「《呪
われた部分》とは戦争や生殖や奢侈に使用されるべく運命づけられた過剰エネルギ
ーであり、本書はこうした非生産的消費を通して人間の内奥を探る!」。

ついで、バタイユから連想されたのがピエール・クロソウスキーの『生きた貨幣』
(邦訳青土社)で、これもまた「腰巻」の文章を抜き書きしておきます。「無形の
欲動が波立ち騒ぐ身体の普遍的コミュニケーションを思考し、資本主義的な経済体
制の限界領域を検証する、現代思想の特異な名著」。二つではおさまりが悪い(?)
ので、あともう一冊、妙木浩之さんの『心理経済学のすすめ』(新書館)の「腰巻」
から。「「すべての心理的現象は経済的である」という心理経済学の考え方は新鮮
でした──村上龍」。そして『コンセント』の腰巻。「僕がこの10年で読んだ中
で最も上質で面白かった小説のひとつだ。──村上龍」

などと、結構をつけて嬉しがっている場合ではないのであって、長きにわたって(
といっても『貨幣』は今年の一月から)それぞれ本棚の勝手な場所に居座っては恨
めしげに背表紙を向けているこれら三冊の書物たちとは、いつか決着をつけなけれ
ばならない。その際のキーワードは、もちろん「経済学と心理学」や「金融システ
ム論と心的構造論」といったわかりやすいものであってもいいのですが、私の目論
見としては、今回取り上げた本のなかで山内志朗さんが引用している木村敏さんの
「リアリティ reality」と「アクチュアリティ actuality」の対概念、これに田
口ランディさんが金融の世界を形容する語として使った「バーチャリティ virtua
lity」と(これは私が勝手に持ち出したものですが)「ポシビリティ possibili
ty」の対概念を組み合わせてみたい、などと「構想」しているのです。

実をいうと、いま挙げた四つの語彙は、第四の書物、フェリックス・ガタリの『分
裂分析的地図作成法』(邦訳紀伊國屋書店)に出てくる「二組のカテゴリー」その
ものです。ただし、ガタリは「リアルなものと可能的なもの」「アクチャルなもの
とバーチャルなもの」の二組の対概念を考え、それらを交叉させて「四つの機能体」
を導き出していて、私もこれに準拠したいと考えています。

ガタリの四つの機能体とは、実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽
象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信
号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的
「テリトリー」(T:Territoires)、潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)
「世界」(U:Univers)のことなのですが、これでは何のことやらさっぱりわか
りません。私自身は「リアルなもの=実」「可能的なもの=虚もしくは無」「アク
チャルなもの=現」「バーチャルなもの=空もしくは夢[む]」と訳して、現実だと
か空虚だとかの概念を導き出せないかと考えをめぐらせてはいるのですが、これも
また夢現の類でしかありませんし、だからどうなんだと自分でも思います。

とにかく読まなければ何も始まらない。一つの脳で四の五の考えてもだめなので、
やはり複数の(私の直観では最低五つの)脳を使って思考しないと、経済と精神の
関係、とはつまり世界の「秘密」は解けません。それとも、コンセントにプラグを
差し込むか、世界のホストコンピュータ(アカシック・レコード)にアクセスする
か、アンテナを立てるか。《皮膚の表面が一メートルも広がったように感じる。無
数の振動を皮膚が拾ってしまう。アンテナになっている。身体感覚が膨張し巨大な
受容体になっている。この世のあらゆる周波数を受信している。制御できない。ま
るで壊れたラジオみたいだ。》(『コンセント』)──もちろん、秘密は解かれる
必要はないし、そもそも世界に秘密なんてないという考え方もあるし、その方がど
うやら正しいのではないかとも思うのだけれど。
 

●6●西田幾多郎・香山リカ『善の研究』(哲学書房:2000.7)

 正確なタイトルは『能動知性5 実在と自己 西田幾多郎 善の研究』で、 叢書能
動知性第一期全十巻中の第五巻。能動知性とはアリストテレスの『霊魂論』に由来
する二つの知性の一つ(他の一つは受動知性もしくは可能知性)で、坂部恵著『ヨ
ーロッパ精神史入門』(岩波書店)第八講によれば、能動知性を個人に属すると見
るか「超個人的な宇宙霊魂のごときもの」と見るかをめぐって古代ギリシャ以来解
釈が分かれていて、「普遍者が個に宿る」という西欧中世における考え方のひとつ
の原型が能動知性の個人への内属という考え方に見られるのだそうだ。いまもっと
もクールな(私にとってという意味)言葉を冠したこの叢書はとても魅力的で、と
りわけ第七巻「茶の本 岡倉天心+養老孟司」とか第十巻「文明論之概略 福沢諭吉
+大澤真幸」などはいずれ手にすることになりそう。しかもこれが第一期というの
だから、先が楽しみ。哲学書房の本は造本も装丁も紙質もすべていい。本書もそう
だったけれど、全頁が毅然かつ丹念に「編集」されている。新しく「哲学文庫」が
刊行されるそうで、これも楽しみ。

 と、こういうことを書きたかったわけではない。本書に収められた香山リカ氏の
「自我境界の融解」を取り上げたかったのだった。冒頭、「LIFE──坂本龍一オペ
ラ1999」に描かれた「時空間を越えて連続する共生体としての大いなる生命」と、
厚底サンダルで転倒した際の頭蓋内出血で孤独な死を迎えた少女の「世界とも自分
ともかかわりを持たない刹那的な生命」とを対比させ、ついで、「西田哲学やそれ
と共通項を持つ現象学的精神病理学」(安永浩や木村敏など)と、フロイト‐ラカ
ンへ続く「心的構造論を前提とする精神分析学や自我心理学」とを対比させ、そこ
に「私たちが直面している裂け目──現象学的立場と分析的立場との間に開いた」
を見出し、そして、自我心理学の中でも現象学的アプローチを行い、終生「自我」
の感覚や「自我境界」の感覚にこだわりつづけたフロイトの徒パウル・フェダーン
の議論を紹介しつつ、「究極的には、一点の曇りもなき純粋経験から、自己と世界
に関するありとあらゆることがつまづくことなく分岐発展していきついに宇宙ある
いは神に到る、という西田的なモデルが真実であると考えて行くことに果たして問
題はないのであろうか」と疑問を呈し、マルチメディアの時代において西田的な
「宇宙の統一力にも自然につながっていくはずの自己の統一作用を持てなくなった
彼ら」の「解離性障害」のメカニズムに触れ、仮説の域を超えないと断りながら、
ある人たちは、あの厚底サンダルの少女のように細分化された今、そのときの自分
を懸命に生きていこうとするだろうと述べる。そして、結びの文章。
《西田の考えた「一の統一的自己」とはかかわりを持たない新しい「私」。/そこ
から静々とこぼれ出ていく新しい「自然」。それは、美しくもなければ力強くもな
いが、決して「正常」の失敗形態としての「病理」でもなければ、唯一無二の「現
実」に対して捏造された「仮想」でもない。その新しい「自然」の風景とそこにぽ
つりぽつりと集まってくる、その内面に「よるべなさ」を抱えた新しい「私」の行
く末を、私たちは見守って行くしかないのである。》
 早足で一息に「要約」してしまうと、やや図式的な印象はまぬかれない。ここに
述べられたことは、たとえば森岡正博氏の『意識通信』(筑摩書房)や斎藤環氏の
『文脈病』(青土社)に書かれたことを、どれだけ先へ進めているのかも私には見
定められない。ただ、新しい「自然」という言葉は、妙に印象に残った。《…若い
人に限って見てみると、「私は私」という自明性をもたらす統一作用はさらに弱ま
っており、もはや「自然な自明性の喪失」ならぬ「『自明性の喪失』は自然」とし
か言いようがない事態が、さまざまなレベルで認められる。》──著者もまた、臨
床の人なのだと思う。

 本書の予想外の収穫は、表紙にその名が挙がっていない山内志朗氏の文章「解題
:『善の研究』という書物」にめぐりあえたこと。短いものだけれど、実にたくさ
んの刺激と着想に満ちたものだった。たとえば、山内氏は、木村敏「リアリティと
アクチュアリティ」(『講座 生命 '97』所収)を踏まえて次のように書いている。
《リアリティは、木村敏が述べるように、公共的な認識によって客観的に対象化さ
れ、ある共同体の共有規範としてその構成員の行動や判断に一定の拘束を与えるも
のだ。……問題なのは、リアリティは、リアリティそのままでは流通しないことだ。
リアリティは貨幣と同様に、個人において再認され、実感され、同化されなければ
ならない。木村敏はそれを「アクチュアリティ」と言う。個体化されたリアリティ
がアクチュアリティだと言ってもよいだろう。》山内氏は続けて、西田哲学の特徴
は本来結びつき得ない概念や言葉を「絶対矛盾的自己同一」や「個物即一般」とい
った一つの語句に閉じ込める凝集力・強度(intensity)にあるのであって、この
「強度」は木村氏のいう「アクチュアリティ」やドゥンス・スコトゥスの「このも
の性」に、さらに椎名林檎の世界へとつながっていくという。そして、アクチュア
リティの希薄な現代にあって、椎名林檎に代表される「現代の表現者」のように、
概念的思惟の鈍重な歩みを嫌い、無媒介的・直接的な「天使的飛躍」が生み出す眩
暈や快楽(幻想としてのアクチュアリティ=強度の昂進)によるのではなく、これ
と同じく直接的で具体的なものを舞台とし直観を重んじつつも、西田幾多郎のよう
に直接的・具体的なものを「一般者」として捉え、個体と普遍の相即するものとし
て個体化を捉えること、つまり公共性としてのリアリティを内在化したアクチュア
リティを問題にすることが必要なのではないか(リンゴからキタローへ)と示唆し
ているのである。香山氏の議論とは一見正反対の方向を向いているけれど、私は、
どこかしら深いところで響きあうものがあるように思った。

 補遺。山内氏の文章を読んでいて思い出したのが、『コンセント』に出てくる沖
縄のユタ(上地ミヨ)が主人公に語る言葉だった。(ここに、香山‐山内の議論を
つなぐ補助線があるように思う。)《私にはあなたに教えるべきことは何もありま
せん。あなたはとても新しい命です。私たちとは違うものをもっている。私たちが
古い自然の巫女なら、あなたは新しい地球の巫女の卵なのかもしれない。……私た
ちは神懸りにならずに神と繋がる方法を知りません。でも、あなたは知っているよ
うです。そのように生まれついているようです。たぶんこれから、あなたのような
方々がどんどん生まれてくるのだと思います。新しい自然が生み出した新しい巫女
です。》(284-5頁)

 さて、肝心の『善の研究』だが、以前確かに読んだはずだという鮮明な、でも厳
しく追求していくと曖昧になる記憶がある。何度読んでもいいのだし、本棚に二冊
並んだ(二度買っている)岩波文庫版よりも、図版や一種の紙上リンクやらいろい
ろと編集上の工夫が凝らされた(第二編を最初に配列して、しかもこれに続く他の
三篇より活字のポイントを大きくするなど、実に新鮮)本書で、改めて読んでみる
ことにしよう。

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