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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.39 (2001/02/23)
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 □ トルーマン・カポーティ『冷血』
 □ D.H.ロレンス『翼ある蛇』
 □ 川端康成『山の音』
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文庫で読む20世紀文学血読百篇(挫折編)、最終回。
 

●83●トルーマン・カポーティ『冷血』(瀧口直太郎訳,新潮文庫)

 カポーティはこの「ノンフィクション・ノベル」を執筆するまで三年に及ぶ調査
とさらに三年近くを資料整理に費やした。“冷血”なまでに事実の細部を探求し関
係者の心理のひだに至るまで渉猟し、編集し再構成し、さらにはフィクション創作
の技巧の粋を尽くして一個の作品に仕上げたわけだが、彼をこれらの作業に没頭さ
せた原動力は何だったのか。1959年11月、アメリカ中西部の農村ホルカムで現実に
起こった農場主クラター一家四人殺し事件の真相と顛末は、カポーティの筆によっ
て完璧に「再現」されたのか、文学的に「再生=創造」されたのか。

 もっとも、私にとってはそんなことは大した問題ではない。現実というものは収
斂と拡散がないまぜになり、あるいは必然と偶然、劇的葛藤と散文的弛緩が混交し
たとりとめのないものなのであって(実際、『冷血』の緊密な構成の細部にはその
ような現実の痕跡が時折顔を出しているように思う)、その意味で現実は常に人間
の想像力の素材として、完結し得ない闇の部分を持っている。ジャーナリズムとは、
部外者の立場でいわば「大衆的」想像力を駆使してこの闇を埋める営みである。カ
ポーティが費やした歳月は事件の核心に、つまり現実がかかえる闇の中に身を置き、
内側から闇を照らし出す前代未聞の立場を獲得するために必要な時間だったのだろ
う。

 とはいえ、闇を体験することとこれを表現することとは別の次元の話だ。結局、
「生きた彼らを最後に見たもの」と題された第一章が克明に描き出す生々しい事件
を、運命劇として抽象化させたり偶然の事件として風化させることなく、根源的な
恐怖を体験させ、様々な想像を喚起する出来事として読者に「記憶」させるために
書かれ、そして見事に成功した点にこの作品の価値がある。

 付記。犯人の二人組ペリーとディックが収容された「死の独房」の仲間の一人に
魅力的な純粋殺人者がいる。両親と姉を射殺したローウェル・アンドルーである。
アンドルーを主人公にしたもう一つの『冷血』が読みたい。

●84●D.H.ロレンス『翼ある蛇』(宮西豊逸訳,角川文庫)

 男と女の神話的な結合による<西欧的>自我の檻からの<救済>の物語。そんな
類の思想が表に出すぎていて、読物としての陶酔はなかった。しかし、くどいほど
繰り返されるヒロインの内面の葛藤の描写が思想の観念性・平板性をぬぐい、肉体
の奥深くにうごめく宇宙的なエネルギーの渦の中で精錬させる。

 翼ある蛇とは、古代メキシコの神ケツァルコアトルのことだ。ケツァルはアステ
ク族が霊鳥と崇めた鳥の名、コアトルは蛇。アイルランド生まれ、40歳の女性ケイ
トが、古代の神を現代に甦えらせようとするドン・ラモンと将軍シプリアーノ(彼
自身、もう一つの古代神ウィチロポチトリの生れ変りを自称する)と出会い、やが
てシプリアーノの妻(と言うよりウィチロポチトリの花嫁マリンチ)となる。男、
と言っても一人の男以上の男に隷属することの逆説的な恍惚、再び押し寄せる固い
自我の殻との戦い。ケイトはやがて大洪水以前の、おそらくは氷河期以前の古い人
類の意識へと<回帰>する。

 この作品を読みながら、蛇という語が何箇所どのように使われているのかを分析
しようと頁を折っていった。「蛇のような黒い目」「蛇のような宿命的な音調」「
蛇のような不気味な反抗」等々。直喩、陰喩とりまぜほとんど全頁に出てくるこの
キーワードの使用例を分類し解析すれば何か面白い評言が出来るのではないかと思
ったのだが、面倒になって止めた。虚しい作業に終わりそうに思えたからだ。 

●85●川端康成『山の音』(新潮文庫)

 16編の、それぞれ印象的な表題(「山の音」「蝉の羽」などいずれも「〇の〇」
という型で表記される思わせぶりな、いわば俳句の季語のように凝縮された意味の
場を示す記号)を持つ短編から組み立てられた長編小説である。

 各編は独自の世界(と言っても、立体的な奥行きや形而上的な存在を織り込み濃
密に構造化された世界ではなく、微細な感情や感覚といった表面的な心理の動き、
あるいは花や鳥や樹やさかなといった自然物によって繋ぎ止められた平面的な世界)
を持ちながら自己完結することはなく、前編や後編、そして全編に対して開かれ相
互に依存しあっている。それも有機的にではなく、むしろ無機的に、あたかも静物
(死んだ物)の表面を細部にわたって克明に描き出すように。

 また、各編は季節の推移に沿って並べられ、その中でいくつかの出来事が同時に
進行していくのだが、それらは本編の主人公(と言うより、彼の視聴臭覚を通して
読者が小説世界へ参入する特異点)である老人が言うように、時とともに解消され
てしまうのである。自らのうちに時間を取り込み劇的な葛藤をもたらすわけでも、
互いに錯綜し全体を創発するわけでもない。徹底的に表層で展開される小説なので
ある。感情の流れ、自然現象、人間関係、社会的事件、これらの素材が相互に浸透
しあうことなく表層に並置されるだけなのだ(日本料理のように、あるいは小津安
二郎の映画のように?)。主人公の心理は分析されることなく、能面への接吻だと
か聞こえるはずのない山の音であるとか、ことごとく外面的な行動や感覚に仮託さ
れる。夢や回想でさえ、小説の世界にある深みを与えることなく、ただ表層へと還
元され尽くすのである。

 この小説の中で唯一、表層が綻び不可視の世界をかいま見させる契機があるとし
たら、それは主人公の息子の嫁である菊子、主人公が性的な(と言ってもいいだろ
う)思いをそれと気付かず寄せている可憐な、まだ成熟しきっていない女性の存在
だろう。菊子(花の名が割り当てられていることには、おそらく菊子をも表層の体
系のうちにかすめ取ろうとする作者の戦略が潜んでいるに違いない)の心理、生理、
そして性的身体は一切記述されることがない。

 様々な相での解読が可能な、それでいて不思議な透明な空虚感、崩壊感を漂わせ
ながら再生への希求のような意志が伺えないでもない(それは菊子の妊娠に託され
るが、結局成就しない)、すべてが語られているようで多くの語られない不在を抱
えた、批評的言説を誘惑する作品だ。

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