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■ 不連続な読書日記 ■ No.38 (2001/02/21)
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□ フォークナー『八月の光』
□ ミッチェル『風と共に去りぬ』
□ ヘンリー・ミラー『暗い春』
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●80●フォークナー『八月の光』(加島祥造訳,新潮文庫)
この作品の主人公は誰なのか。訳者あとがきによれば多くの批評家によってこの
問題が論じられてきたらしい。分量から言えば、ジョー・クリスマスという、素性の知れない黒人男と白人娘の
間に生まれ祖父の手でクリスマスの夜に孤児院の玄関に捨てられ、養父を殴り殺し
(?)放浪の旅の末たどり着いたジェファスンの町で愛人を殺害しリンチによって
殺された男についての記述が最も多い。しかし作品の導入部と終結部で重要な役回
り(錯綜した過去の重みに喘ぐ人物と町そのものによって織りなされる迷宮のよう
な物語世界の開示と終局を、ジョー・クリスマスをめぐる重苦しい出来事とはほと
んどかかわりなく読者に告知する)を担うリーナ・グローヴという娘の存在も無視
できない。さらに元牧師のハイタワーやリーナへの滑稽な恋心を抱くバイロン・バ
ンチも気がかりだ。結局主人公探しは、作者の思想の代弁者としての主人公探しといった意味では頓
挫するしかないだろう。フォークナーはただ人物を、それもなんらかの思想を仮託
された象徴的なあるいはアレゴリカルな人物をではなく、原初の光、キリスト教以
前の太古の光を浴びた人間達のそれぞれに悲劇的な「運命」を描きたかっただけな
のだ。強いて言えばジェファスンの町そのもの、そしてギリシア悲劇のコロスのよ
うに、しかし唱和することない呟きやささやき、怒号でもってジョー・クリスマス
やハイタワーやバイロン・バンチの「運命」を取り沙汰する群衆がこの作品の隠さ
れた主人公なのだろう。落穂拾いを一つ。いずれも「名」をめぐるものだ。身重な娘リーナを捨てた恋人
(ただし彼女自身は知ってか知らずかこのことを認めない。ここにも「運命」に支
配される、と言うよりは内面心理によって構成されたいわゆる近代人とは異なる人
物造形の手法がうかがえる)の名はルーカス・バーチ。本当の名はブラウンだがリ
ーナはそのことを知らない。人伝にジェファスンにそんな名前の男がいると聞いて
やってくるが、そこで出会うのがバイロン・バンチで、この取り違えが物語の開示
を告げるエピソードとなる。次にジョー・クリスマスという名。(本当の名はジョイだが本人はおそらくこの
ことを知らされないまま死ぬ。)クリスマスの夜に拾われたのでそう呼ばれていた
が、後に養父がマッケカンと名付ける。しかし彼はクリスマスという名にこだわる。
さらにハイタワーの「わしは自分の名をつぐ子を持っておらん。…彼女〔リーナ〕
はもっと子を持つだろうな…それが彼女の生涯、運命だ。平然たる従順さで強壮な
種族を大地に産みつけるんだ」という述懐。男の悲劇は名にアイデンティティを求
めざるを得ぬことなのだろうか。●81●ミッチェル『風と共に去りぬ』(大久保安雄他訳,新潮文庫)
フォークナーの『八月の光』を読んで、黒人、南部、強いていえばこの程度の連
想が未完の対策GWTWに向かわせた。個人的な事情だけれど気力・体力・知力と
も最低の状態にあえぎながら、時として唯一の慰めとなった断続的な読書時間をな
んとか積み重ねて読了した。それから二月ばかり、何をどう書き留めておけばよい
のかいたずらに考えあぐねていた。この小説は、やはり三日三晩くらいで一気に読
みきるべき作品だ。いま未完の大作と書いた。続編が刊行されたからそう言うのではない。説明しよ
うのない直感でそう思った。スカーレットが生き続けるかぎり、この小説は未完で
ある。でも、小説が完成するとはそもそもどういうことなのだろう。そういえば、
ウージェーヌ・シューの『さまよえるユダヤ人』を読んだときもやはり同じ思いを
抱いたものだ。「運命」を担った人物なり事件を素材として書かれた小説は、もち
ろんそれがよく出来た虚構であるかぎりにおいて、読者のあくなき物語への欲望を
手のつけられないところまでかきたてるものであるらしい。新たな小説が書かれ、
読まれ、あるいは「実人生」で反復・模倣される事情は、どうやらこのあたりにあ
るらしい。ところで、何をどう書き留めておけばいいのだろう。とりあえずスカーレット、
バトラー、アシュレ、メラニーの四人の登場人物をめぐる「構造分析」を試みると
面白そうだと指摘しておくにとどめる。●82●ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳,福武書店)
大学生の頃、映画『クリシーの静かな日々』を観た。『北回帰線』には挫折した
けれど、映画には不思議な気分(濃密と浮遊感の混在というおうか)が漂っていて、
印象深かった。ミラーの文章からどうしてあんな世界が開かれるのか、その時はよ
く判らなかった。短編集『暗い春』を読み終えて、なんとなく合点がいった。ミラーの文章はことごとくモノローグで、それも自動記述風の溢れるばかりの言
葉の洪水なのだが、独白の主体である〈私〉へのこだわりが驚くほど希薄なのだ。
〈私〉の内面心理や感情の動きなど歯牙にもかけず、ひたすら言葉で具体的な他者
や事物を、つまりは都市の記憶そのものを再現し、更新する。言葉の奔流が終わっ
た時、読後、躍動した精神のしばしの休息の時、意味や目的や観念ではなく不思議
な静寂の気分が漂い、それがまるごとヘンリー・ミラーという異質な〈私〉にまつ
わる不安や喜悦や諦念の確かな実在を告知している。極彩色の猥雑なまでに豊穰な夢から醒めた時の、細部を言葉に置き換えようとす
るやたちまち瓦礫の山と化してしまう危うい全体感の記憶(それは幼少期の記憶に
似ている)の表現。ミラーが達成した文章上の離れ業は、このことに尽きる。最後に一言。しばし陶然となった読書体験を支えたのは、もしかすると訳者の和
文の力によるものではないか。そう言えば、以前マードックの『鐘』(丸谷才一訳)
を読んだ時にも、同じことを感じた。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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