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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.37 (2001/02/19)
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 □ ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』
 □ ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』
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文庫で読む20世紀文学血読百篇(挫折編)、そのニ。

●78●ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』
                         (中野圭二訳,新潮文庫)

 昔、某大学院で組織論を勉強していた頃のこと、教授やゼミの仲間と酒を酌み交
わしながら談論する機会が何度かあった。教授は東京と宝塚に住居を持ち、東京へ
行くたびに新着の洋画を観ては私達に感想を聞かせてくれ、それを肴に話が弾むこ
とがたびたびあった。

 なかでも「ホテル・ニューハンプシャー」を話題にした時は面白かった。確か教
授が、一つ一つを取り上げれば荒唐無稽な出来事が唐突に次から次へと生起し、ア
メリカの片田舎からウィーンへそしてニューヨークへと舞台は転変する、まるで分
裂病者の妄想のように物語は進行するのだが、観終わると奇妙に一貫している不思
議な映画だった、というような話をしてくれた。私達は教授の評言に刺激を受けて、
雑談はやがて「リゾーム状組織」の可能性といったところへ落ち着いていった。

 その後実際に映画を観て、あ、これは現代の神話を造形しようと目論まれた物語
なのだと思った。家族をめぐる神話、いや神話とはそもそも家族の物語なのだから
神話そのものを造形(再現ではない)することが、アーヴィングの意図だったのだ
と。

 もっとも今思い返すと私にとって映画「ホテル・ニューハンプシャー」は、フラ
ニー役のジョディ・フォスターの強烈な存在感に尽きるものだった。今回原作を読
んでいて、これは紛れもなくジョディの(正確に言えばもちろんジョディ・フォス
ターによって演じられたフラニーの)イメージそのままだと、一種のファン心理か
らわくわくしながら読みふけった。そういうわけで私にとっての『ホテル・ニュー
ハンプシャー』は、ほとんどフラニーの物語となった。(フラニーをめぐる愛の物
語。語り手たる「私」つまりフラニーの弟にして近親婚の相手方となったジョンは、
神話の語り部である。アーヴィングがこの作品は現代の「おとぎ話」だと言ったの
は、そういうわけなのだ。)

 ところで、神なき時代における神話とはスキャンダルに他ならない。──登場す
るのは多かれ少なかれフリークめいた人物ばかりだし、出来事はことごとくスキャ
ンダラスだ。とは言えフリークの証であるスティグマは聖痕と記すのは気が引ける
ほど卑俗で、時として滑稽なしろものである。スキャンダルはアーヴィング独特の
語り口(些末な細部の不当な拡大や何でもない語彙の意味あり気な反復、事件の予
告と回顧談の挿入による過剰なまでの物語性の付与など)によって、常に象徴的な
高みから引きずり降ろされる。

 アーヴィングが造形しようとする神話は、私達が知っているそれから限りなくず
れていく。だが、紛れもなくこの物語は現代の神話なのだ。ホテルとは家族が傷つ
け合いながらも夢を育むべき神殿なのだし、狂暴性と滑稽なまでの優しさを併せ持
つ半人半熊のスージーは、死とレイプからの救済を司る司祭なのである。

●79●ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(蕗沢忠枝訳,新潮文庫)

 どこから手をつけ何をどう論じればいいのだろう。“意識の流れ”の源流ヘンリ
ー・ジェイムズのいささか古めかしい幽霊譚を読み終えてから二週間近く、私はノ
ートに綴る言葉を探しあぐねていた。

 物語は二重の虚構のなかで展開される。第一の虚構。暖炉を囲んで数人の男女が
怪談話に興じている。誰かが「幽霊が子供に出たという怪談には初めてお目にかか
った」と言うと、“私”の友人が「もし、子供ということが、ねじの回転(ひねり)
を一段と利かせているというのなら、では、ふたりの子供では、どんなものでしょ
う?」「もちろん、それじゃふた回転(ひねり)の効果になるぜ! ついでに一つ、
その話を拝聴したいものですな」というわけで、友人が20年前に入手したある女
性の手記が朗読されるという趣向である。

 第二の虚構への導入に際して、気になる会話が交わされる。朗読を始める前に「
題は何となさいますの?」「題はありません」「ああ、ぼくはあるな!」最後の言
葉はこの小説の第一の語り手である“私”のものだ。もちろんヘンリー・ジェイム
ズ自身は『ねじの回転』という題をつけている。それは第一の虚構に関して言えば
確かに“ひねりの利いた”ものではあるにせよ、第二の虚構の物語、つまりイギリ
スの古い貴族屋敷の家庭教師に雇われた若い女性が幼い兄妹につきまとう亡霊から
教え子を救おうとする恐怖譚に関しては、いささか意味不明のタイトルである。た
だ、家庭教師の手記に次のくだりがある。

《わたしはただ“自然”を信頼し、重要視していかなければならない。いま、わた
しの恐ろしい試練はもちろん、不愉快な方向に押し進められてはいるが、しかし結
局、ただ一回転(ひねり)すればふつうの美徳に変わるのだから、善い方の状態に
なるネジの一回転を、わたしはあくまで追求していくべきだ。》

 深読みをすれば、ヘンリー・ジェイムズが言いたいのは、幽霊との遭遇といった
不自然で非現実的な心象世界もネジの一回転で現実世界とつながってくるというこ
とだ、フロイトのいう深層心理は表層に現われる意識とどこかでつながっているの
であり、まさにそのような心理のメカニズムこそが『ねじの回転』のテーマだった
のだ云々と、もっともらしい理屈はつけられるだろう。

 第二の虚構の物語が、意味ありげな暗示と手がかりを読者に示しながらもいくつ
かの謎(亡霊達の死の原因は何だったのか、マイルズの退学の理由は、また彼はは
たして死んだのかどうか等々)を解き明かさないまま終わっているのも、まさに私
達の心理がそのような宙吊りの決定不能な状態にあるからに他ならないと言えるの
だろうか。

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