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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.36 (2001/02/17)
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 □ スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティ』
 □ トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』
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最近、仕事がたて込んでいて、あまり本が読めません。そこで、新しい読書体験を
仕込むまで、昔書いた感想文を紹介させてください。

湾岸戦争やバブル崩壊が話題になっていた頃、そういった時代状況とは何のかかわ
りもなく、「文庫で読む二十世紀文学血読百篇」という作業をやっていました。結
局、十冊で挫折したのですが、その時の「記録」が残っているので、四回にわけて
掲載します。以下は、その記録の冒頭に書いた「決意表明」からの抜粋です。

これは根拠の乏しい仮説なのだが、人はおよそ三十代の後半までに一つの「体系」
を構想し終えるのではないか。たとえばヘーゲルが『精神現象学』を書き上げたの
が三十七歳の時だった。逆に太宰治が瓦解したのも三十九歳になる寸前のことだっ
た。

体系を持った者は強い。(ペストには勝てないが。)人間は精神活動をする生物だ
から、精神の建造物を背負わないと生きていけない。それは思想の体系でも倫理コ
ードでも生活のスタイルでもなんでもいい。とにかく、生来の資質や才能といった
ア・ポステリオリな人為的原理を持たないと、その人生は危ういものになってしま
うのではないかと思う。原理をソフトウェアと言い換えてもいいだろう。もっとく
だいて、技巧(タクト)と言ってもいい。

村上春樹が「フィッツジェラルド体験」というエッセイの中で、「小説とは結局の
ところ人生そのものであるという認識」について述べている。そうであれば、小説
を読み、その「技巧」を読み解くことで、もしかすると私は私自身の体系を構想で
きるかも知れない。四十歳になるまでに残された時間を使って、「血読百篇」に挑
戦してみる価値はあるというものだ。
 

●76●スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティ』
                         (村上春樹訳,中公文庫)

 五編の短編と一編のエッセイからなる。いずれも絶品。最初の一頁からフィッツ
ジェラルドの世界が広がり、一読、後を引く(というより、何かの拍子に叙述の細
部から全体に漂う雰囲気まで含めて丸ごとふいに甦ってきそうな)独特の香りが残
る。心の中にしっかりとフィッツジェラルドのための一区画が用意されたようだ。
つまり、これから先いつでも安心して彼の作品を読むことができるということ。安
心してとは、扱われる題材や登場人物の差異を超えて、あらかじめ期待する読後感
がそのつど新鮮な思いとともに得られるという意味。

 フィッツジェラルドの作品には固有の世界がある。たとえばこのことを、私がい
ちばん気に入った作品「氷の宮殿」で見てみよう。これは輝かしい文壇デビューを
飾った1920年、24歳の時に書かれた作品で、あらすじはとてもシンプルだ。南部
育ちの少女サリー・キャロルは北部の青年ハリーと婚約して、雪の季節に彼の故郷
を訪れる。地上三階建ての氷の宮殿で催された松明行列を見物したあと、サリー・
キャロルは宮殿の地下迷路でハリーとはぐれ、二時間ばかり氷の中に置き去りにさ
れる。発見されたとき、彼女は「家に帰りたい!」と絶叫する。

 この作品はまるで合わせ鏡のように、異なった世界を混在させている。南部と北
部、金色の陽光と雪の洞窟の中の松明、怠惰と快活、犬科の人間と猫科の人間、共
同墓地と氷の宮殿、そして青いりんごと青い桃。反復と象徴的再現がこの作品の特
徴的な「技巧」だ。そして物語は完結しない。

 第1章では、「絵壷を彩る金色の絵の具」のような陽光の中で、サリー・キャロ
ルは青いりんごをかじりながら欠伸をこらえている。北部の男と婚約したことを非
難する男友達にむかって彼女は言う。私の中には二人の私が棲んでいるの。一人は
あなたの好きなものぐさでけだるい私。だけどそれとは別に私の中には一種のエネ
ルギーのようなものがあって、それが私を冒険へと駆り立てるの。

 第2章。サリー・キャロルはハリーと共同墓地を訪ね、29で死んだマージェリ
ー・リー(サリー・キャロルは彼女の生年と没年、名前しか知らない)への憧れに
似た思いを語る。

 第3章。ハリーの住む街へ。初めて見る雪。そこで9歳年上の文学部教授デンジ
ャラス・ダン・マグルーと出会い、好きになる。「犬科」のハンサムな男達の中に
あって彼は南部の男と同じ「猫科」であった。

 第4章。ハリーの母親と妹への嫌悪。因習の化身で個性のかけらもない女達。そ
してハリーの「まったく南部人ときた日には」という何気ない言葉に端を発する深
刻ないさかい。

 第5章。10年ぶりのカーニヴァルで作られた高さ50メートルの氷の宮殿での
松明行列。地下の迷路での出来事。「北の化身」とともに闇の中に取り残されたサ
リー・キャロルの脇にマージェリー・リーの幻影が現われ、デンジャラス・ダン・
マグルーが彼女を発見する。「ここから出して! 家に帰りたい! 明日よ! 明
日よ!」

 第6章。再び金色の陽光の中でサリー・キャロルはけだるく青い桃をかじって男
友達がやって来るのを眺めている…。

 物語は一巡して振り出しに戻っている。はたしてその間の出来事は彼女の夢だっ
たのか現実だったのか。この作品で駆使されたフィッツジェラルドの「技巧」は決
してきらびやかでも独創的でもない。でも、完璧に人生の(というより「青春」の)
時間の構造を再現している。

●77●トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』(河野一郎訳,新潮文庫)

 1948年、カポーティ24歳の時の作品。ほぼ二年かけ各地を転々としながら書き
上げた処女長編。この一作で彼は文壇の「新彗星」としての地位を確実なものにし
たという。

 この作品は様々な「物語」からの中断された引用で成り立っている。正確に言う
と、「物語の種子」(きっと誰もが少年少女期に確実なリアリティを感受しつつ夢
想していた世界の残骸、いや雑多な印象や感覚を拡大して聞きかじりの言葉を接着
剤として組み立てていたアナザー・ワールドの断片)を万華鏡のようにばらまき、
そのどれ一つとして十全に展開させないまま宙吊りにしておいて、いきなりひとま
とめに廃棄する。そして最後に明かされる事の真相というのが、喘息持ちのランド
ルフ(13歳の主人公ジョエルの父の従兄弟)の女装趣味というあっけないもの
(だったと思う)。

 『 Other Voices, Other Rooms 』とは、やがて失われる少年期の内面世界のこ
とであり、「溺れ池」の伝説とともに崩壊したクラウド・ホテルの一室に封じ込め
られた「未来」である。「物語の種子」あるいは「物語の残骸」とは、たとえば幼
い頃に別れた顔も知らない父親からの突然の手紙、バスも汽車も通じていない街(
ヌーン・シティ)の「沈みゆく館」、謎の女、対照的な姉妹フローラとアイダベル、
廃ホテルに住む隠者リトルサンシャインが語る「溺れ池」の伝説、ランドルフの数
奇な経験と物言わぬ父親、アイダベルとの逃避行、カーニヴァルで知り合ったミス
・ウィスティーリア(小人)からの性への誘い、等々である。

 全編を染め上げる雰囲気は訳者が指摘するようにゴシック小説風であり、またポ
ーの「アッシャー家の崩壊」のイメージが漂っている。いやポーだけではなくプル
ーストやマーク・トウェインなど、おそらく若きカポーティが読みあさったに違い
ない読書体験が「玩具箱をひっくり返したように」ばらまかれているのだろう。

 雑然とした切れ切れの素材を、絢爛な文体と二年がかりで計算し尽くした構成の
中にちりばめたこの作品は、おそらく成熟という身体的かつ精神的な出来事をめぐ
る秀逸なレポートなのだ。

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