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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.35 (2001/02/11)
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 □ 笠井潔『国家民営化論』
 □ 太田肇『ベンチャー企業の「仕事」』
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NAMへ至る柄谷氏の「思想的軌跡」を遡行する、補遺のニ。『国家民営化論』は
途方もない未来社会を夢想しているようでいて極めて現実的、『ベンチャー企業の
「仕事」』はしっかりと現実を見据えながらもいまだ到来していない未来を構想し
ている。一見、まったく志向も方法もジャンルも異なる二つの書物が、ある回路を
通じて結びついていることを「発見」することは、本を読むことがもたらしてくれ
る愉悦の一つです。

私の読書癖は、つねに複数の書物を同時進行的に読むことです。たとえ深夜、ミス
テリー小説に読み耽っているときでも、必ずかたわらに何かかためのテキストを常
備しておいて、箸休めのように時折ながめては、そこにとんでもないリンクが張ら
れていることに驚嘆するのです。というか、そうしたリンクをうまく「発見」でき
たときに、濃厚な読書の悦びを感じるわけです。

ところで、『国家民営化論』と『ベンチャー企業の「仕事」』には、抽象的・観念
的ではない、もっと具体的なつながりがありました。それは、以下の文章のなかで
も引用した「会社を使って自分の仕事をする」(笠井氏)と「インフラ型組織」(
太田氏)です。これらのアイデアと、柄谷氏の『原理』で取り上げられていた「投
資事業有限責任組合法」を使った生産協同組合がどうつながっていくのか。──議
論はこうして出発点へと回帰していきます。

若干の落穂拾い。『原理』を読んでいて、柄谷氏が何度か名前を出していたアント
ニオ・グラムシのことが気になってきました。そこで、『囚われ人、アントニオ・
グラムシ』(アウレリオ・レプレ著,青土社)を眺めてみたのですが、これは伝記
で、それはそれで熟読すれば面白かったのかもしれませんが、そもそも手っ取り早
くグラムシの思想を知ろうという魂胆が間違っていたのでしょう、書き抜いておき
たいフレーズにはめぐりあえませんでした。
 

●74●笠井潔『国家民営化論 ラディカルな自由主義を構想する』
                 (光文社知恵の森文庫:2000.12/1995.11)

 著者の基本的な認識は、所有権をはじめ人間の権利は、市場において無数の譲渡
や交換が暗黙のうちに反復的に行われている事実に由来するフィクションである、
というものだ。ここでいう「フィクション」は、たとえば国家主権を論理的に導き
出す社会契約説のような虚偽意識として否定されるべきものではない。

 著者はいう。われわれは貨幣や市場と共存しなければならないのであって、それ
を恣意的に廃止すれば人間性の概念から否定的に逸脱しかねない。このことはカン
ボジアの虐殺共産主義や文化大革命時の中国、ソ連の収容所社会主義において如実
に示されている。「市場と貨幣の不可避性を徹底的に思考することのない微温性と
曖昧性」において、悪徳商人を罰する水戸黄門に拍手する視聴者大衆や通俗的進歩
主義者の心性はヨーロッパ中世のユダヤ人差別と同根なのある。

 国家を前提とすることなく人権をとらえる「ラディカルな自由主義」は、思想の
自由を主張しながら経済については自由反対を唱えるリベラリズムや、経済の自由
を主張しながら思想の自由に反対する保守主義の欺瞞的なダブルスタンダードを、
マルクス=レーニン主義とはちがう方法で批判する。それは、国家の市場への解体
を思想的核心とする点で、個人主義的アナーキズムの徹底によるアナルコ・キャピ
タリズムの理論と共鳴するものなのだが、ただ一点、資本主義を「主義」とみなさ
ない点において異なる。

 つまり、資本主義は経済活動をマネーゲームとしてシステム化した点で自給自足
的な共同体経済とは異なるにせよ、それは主観的に肯定したり否定したりできる対
象ではなく、思考の前提と見なすべき所与・不可避性なのである。だからラディカ
ルな自由主義者は「資本主義に代わる空想的な社会プランの構想に熱中するよりも、
より悪くないかたちで貨幣や市場と共存できるシステムの構想」をめざすのである。
その理念は、ニ○世紀社会主義の実験と惨憺たる結末が不可避のものとしてもたら
したのであって、アナルコ・キャピタリズムとは思想的系譜も出生の由来も異なる。
ラディカルな自由主義は、革命を否定する「革命」思想なのだ。

 以上が本書のいわば「原理」である。私はほぼ全面的に賛同する。そこから、警
察や裁判所の民営化、税金や個人財産相続の廃止、安楽死や自殺の人権化、企業法
人の寿命設定等々のラディカルな主張が出てくるのだが、私は、それらは極めて現
実的な主張(現実主義的ユートピア思想!)であると思う。正確に述べておくと、
ラディカルな自由主義もまた「主義」ではないというべきかどうか、あるいは「構
想」する主体は何か、そこから出てくる政策もまた「実験」なのではないかなど、
見極めておくべき論点はいくつかある。ただ、たとえば次の文章を読むかぎりで、
私は著者の主張にほぼ全面的に賛同するのである。

《経済外的な強制で、賃労働制を廃止することなど不可能である以上、ラディカル
な自由主義の理念を掲げた独立生産者の群生が、企業の社会的専制の土台を侵食す
ることが望ましい。現代社会において、「会社に雇われて会社の仕事をする」から
「会社を使って自分の仕事をする」方向に、労働観が変容しはじめている事実には
疑いえないものがある。その方向性を徹底することから、独立生産者のユートピア
もまた実現可能なものとして、あらたに構想されうるだろう。》(236頁)

《また協同組合には、ラディカルな自由社会においても不可欠である、固有の役割
が期待される。というのは、市場における競争を好まない人々の自由もまた、尊重
されなければならないからである。(中略)産業社会や都市生活に身を置くことさ
え望まないタイプ……マネーゲームをはじめ、あらゆる社会ゲームの勝敗と無関係
に、静かに穏やかに暮らしたいという諸個人は、協同生活組合を結成し、農業を基
礎に自給自足の集団生活を試みることもできる。(中略)コミューンは、「愛の関
係」において労働を組織しようとする。愛の関係と労働関係の無矛盾的な一体化は
前近代的な家父長制を、最悪の場合にはテロリズムが支配する閉鎖集団をもたらし
かねないのだが、それでも相互の合意からコミューンを形成する人々の権利を、ラ
ディカルな自由社会は尊重しなければならない。》(237頁)

《最後に述べておきたいのは、ラディカルな自由主義もまた、想定されるかぎりの
最良の制度にすぎないという点である。制度の領域とは別に、人間の魂の領域が存
在する。簡単にいえば、これまで芸術や宗教が担当すると考えられてきた領域であ
る。/個人には自由に生きるための条件が、なによりも優先的に与えられなければ
ならない。そのために国家が邪魔であるなら、国家は廃止されなければならない。
/しかし自由に生きるための条件は、それを前提として、なにを個人が究極的にめ
ざすのかまでを決定しうるものではない。なんのために生きるのか、どのような人
生を理想とするのか。ようするにそれが、魂の領域に属する問題ということになる。
》(273-274頁)

●75●太田肇『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書:2001.1)

 著者の持ち味である実証性、イデオロギー化した言説や慣行への批判精神、そし
て性急に理念を語らず常に現実との接点を意識しながら理論化を試みる着実な方法
論が見事に融合している。ベンチャー企業の光(新しいワークスタイルや組織の可
能性)と影(ベンチャー企業の組織やマネジメントに内在する矛盾)を精緻に描き
切り、その将来を期待をこめて展望した本書は、著者のこれまでの実証的・理論的
研究の集大成にして今後の新たな展開を期待させる、その意味でも画期的な著書だ
と思う。

 実証性について一例をあげるならば、一般に成果主義の弊害とされる事柄、たと
えば利益を絶対視した反倫理的行為などは成果主義自体に内在するものではなく、
活動と評価の場が外部に開かれていない組織の病理現象であるとする指摘は鋭い。
また、成果主義と能力主義の違いを分析した上で、大多数のベンチャー企業が掲げ
る成果主義が「日本型能力主義」(労働力の流動性が低い閉ざされた組織内での、
年功という大きな枠の中での処遇制度)と大同小異であることを示す第4章、さら
に「相対的に低い報酬で大きなモチベーションを引き出そうとする」日本企業特有
のマネジメントが多くのベンチャー企業においても見られる実態を摘出する第5章
の叙述は、本書に深い説得力を与えている。

 理論面では、インフォーマルでウェットな人間関係に根ざした「有機的組織」へ
の批判(組織尊重から個人尊重へ)をベースとして、組織と個人をめぐる「間接的
統合」の理論や「仕事人[しごとじん]」モデル、さらには「インフラ型組織」(
伝統的な日本企業のようにメンバーを抱えるのではなく、メンバーに仕事の場を、
すなわち設備・機器、情報、賃金、人的支援、ブランド、さらには孤独感への対応
といった一種のインフラストラクチャーを提供することに重点をおいた組織)の提
示など、著者がこれまで主として現状分析のために用いてきた、あるいは現状分析
のなかで鍛え上げてきた概念が、本書第1章から第3章で試みられたモデル構築の
ための工具として、いわば総動員されているのである。

 本書がもつ今後の展開への可能性は、たとえば次の一文に濃縮されていると思う。
《近代組織論の祖、C.I.バーナードは、組織を「二人以上の人々の意識的に調整
された活動や諸力の体系」と定義している。彼によれば、そもそも組織にとって重
要なのは、コミュニケーション、貢献意欲、および共通目的であり、物的な条件や
人間そのものではないのである。/一方、個々のメンバーの立場からすれば、組織
は「特殊利益を獲得するための手段」と定義することができるのではなかろうか。
組織化することによって、あるいは組織にメンバーとして加わることによってはじ
めて、…さまざまな利益を獲得できるのである。したがって、個人主義で組織が形
成される場合には、組織化することに伴う諸々の不利益が、「特殊利益の獲得」と
いうメリットを上回らないことが条件になる。/このように割り切って考えるなら
ば、仕事のみで結びつくネットワーク組織やバーチャルカンパニーの出現は、組織
本来の姿への回帰現象といえるかもしれない。》(110-111頁)

 ここで述べられているのは、「インフラ型組織」の発展形となる新しい組織観の
方向である。私は、組織がもたらす最後の「特殊利益」、あるいは究極のインフラ
ストラクチャーは「経験」なのではないかと考えている。著者が「ベンチャー企業
は、ある意味でニ一世紀における仕事と働き方を「実験」する場である」というと
きの実験、さらには著者が使う「仕事」という概念そのものが、私がいう「経験」
にほかならない。

 それは市場や貨幣がもつ機能の根源にある純粋な媒介作用(もしくは社交作用)
といっていいものだし、自由と責任を語りうるメタフィジカルな次元を開く機能で
あるといってもいい。──唯名論と実念論、経験論と観念論を「超克」する「態度
変更」へと導く「経験」の場としての組織。純粋媒介組織。私はそれを端的に「共
同体」と呼ぶ。

 ところで著者は本書の終章で、一九八○年頃までの、「組織化された能力主義以
前」の日本企業が処遇面では年功序列が支配的であったものの、その草の根(職場)
レベルで個々人の能力や適性、意欲に応じて仕事が与えられてきたと指摘している。
《それは、イデオロギーとしてではなく、社会や職場で自然に形成された慣行もし
くは風土であり、「草の根的な個人主義」とでもいうべきものである。》

 そして、新しいベンチャー企業の組織について、まず報酬の面ではアメリカ型の
制度を導入し、仕事の面では「本来の日本企業の特徴である草の根的な個人主義を
生かしながら、そのなかに個人の自由と自己責任の原則をビルトインすること」を
提唱している。ここでいわれる「草の根的な個人主義」の実態はおそらく「実証」
されえないだろうし、「理論」的に分析することもできないものだろう。それは著
者のこれまでの「方法」を超えた領域に属しているに違いない。「経験」とは、つ
まり「歴史」とはそういうものだ。しかしそれはもちろん本書の欠陥などではない。
むしろ私はそこに可能性を見る。

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