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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.34 (2001/02/10)
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 □ 柄谷行人『倫理21』
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NAMへ至る柄谷氏の「思想的軌跡」を遡行する、補遺の一。(長くなったので二
回に分けます。)やはり『倫理21』をはずすわけにはいかないでしょう。それから、
前々回に言及した笠井、太田両氏の著書を取り上げます。これらの作品を通して、
私はいま、共同体というものについて考えをめぐらせています。

共同体について考えるとき、いつも思い出す場面があります。高校2年のとき、ホ
ームルームで読書会をやることになって、私も含めて数人が大江健三郎の「セブン
ティーン」を推薦しました。数日後、担任から「まった」がかかって、結局取りや
めになったのですが、そのかわり、天皇制について討論会をやることにしました。

このあたりのことは記憶が混濁していて、まったく別の出来事が一つになってしま
っている可能性が濃厚なのですが、それは本筋とは関係しないのでこの際無視しま
す。(司会役を担当した男子生徒が、黒板に「天皇性」と大書して大恥をかいたこ
とを懐かしく思い出しますし、その彼と最近ある会合で再会したら、母校の国語の
教師になっていたので、お互い大笑いしたことも忘れられません。が、これもまた
本筋とは無関係。それにしても、高校生がホームルームで天皇制を真剣に議論する
時代がかつてあったのですね。そういえば、ちょうどその頃、はじめてデートした
女の子と、自衛隊は軍隊かどうかを議論したことも思い出した。)

さて、私はそのとき、ほとんど誰にも理解されない意見を発表しました。たぶん、
自分でも何をいっているのかよく分かっていなかったでしょう。「それについて議
論することこそがその当のものの実在を生み出してしまう類のものが世の中にはあ
る。天皇制とはまさにそういうメカニズムが働くことで初めて世に実在する何かだ。
だから、天皇制を否定することなどナンセンスだ。認識するとは肯定することだ。
あるいは肯定しなければ認識できない。天皇制反対と君達は主張するが、その言葉
でもって何を否定しようとしているのか君達には分かっていない。」

「反対されること、いいかえれば、かまってもらうことで天皇制(的なもの)は生
き延びていくことになる。だから、そのあたりの機序を自覚しないで、ただ心情的
に反対したり観念的に否定したところで、一切の現実的有効性はない。かえって君
達の「敵」に力を与えることになるのだ。だから僕は、天皇制を擁護する。それは
戦略的にそうするのではなく、真剣に擁護する。つまり最終的な否定のためではな
く、自由であるために擁護する。──まず肯定せよ。つまり認識せよ。そして、自
由であれ!」

もちろん、高校生だった私が、いま鍵括弧をつけたとおりの発言をしたわけではあ
りません。天皇制イコール無条件でナンセンスといった、底の浅い議論がだらだら
続いたものだから、だんだんと腹が立ってきて、ついかっとなってあえて天皇制擁
護論をぶちあげてしまったにすぎません。(それ以来、私はすっかり右翼扱いで、
三島由紀夫の事件があった翌日、たまたま風邪で学校を休んだときなど、ずいぶん
とあらぬ誤解を受けたものでした。でも、案外、あのホームルームで発言したとき
の私は、単純な天皇制擁護論者だったのかもしれないし、いま上に書いた発言は、
かなり歪曲されているのかもしれません。)

要は、事実とは何か、より正確にいえば「事実とは何か」と問うことはいったいど
ういう行為であるのか、なのだと思います。天皇制について考えるとき、それが「
実体」として、自己同一的なものとして存在するのはなぜか、あるいは単なる事実
にすぎない存在がなぜそのような「実体=虚構」として観念されるのか、という問
いそのものよりも、そのような問いが成り立ってしまうのはなぜか、それはどうい
う種類の問いなのか、そしてそのような問いを立て、解明しようとする試みがもた
らすものは何か、を問うこと。

ここに出てきた「天皇制」を「共同体」に置きかえれば、私がいま考えをめぐらせ
ている問題の存在構造のようなものがくっきりと見えてくるように思います。「日
本的なもの」とか「資本主義」と置きかえてもいいし、もっといえば、個人、主体、
内面、等々に置きかえてみてもいい。また、「事実とは何か」を「経験とは何か」
に置きかえてもいいでしょう。

子安宣邦さんは『「宣長問題」とは何か』のちくま学芸文庫版あとがきで、次のよ
うに書いています。《ここ[引用者註:本居宣長が『古事記』に「やまとことば」
を問うたこと]では問いが回答を成立させるのである。「日本とは?」の問いが、
「日本」という回答を言説上に作り出していくのである。この回答される「日本」
とは、新しい問いとともに、新しく言説上に作り出されたものである。近代日本に
反復されるのは、この問いと回答との結合からなる「日本」の言説上における創出
である。》

アソシエーションであれコモンズであれ、非資本制的企業組織であれボランタリー
経済であれ、それらは「事実」として存在し、私たちの「経験」をかたちづくるも
のだと私は考えます。しかも、それはおそらく「いま‐ここ」において、より正確
にいうと「いま‐ここ」においてのみ、事実として存在するものだと思うのです。

「それは何か」という問いが創出する回答が、たとえば「共同体」という観念であ
るとしたら、つまり『倫理21』での言い方をもじっていえば、善悪にかかわる道徳
的規範でもって規制される「世間」あるいは「ムラ共同体」のようなものだとした
ら、そのような意味での共同体を私は忌避します。

でも、そうした「問い‐回答」とは別の次元で、つまり『倫理21』での言い方をも
じっていえば、理論的(構造論的)領域の超越論的還元(括弧入れ)によって存在
する実践的(倫理的)な位相、メタフィジカルな次元において、私は「共同体」を
肯定します。いってみれば、それは一種の「生存条件」のようなものだからです。

人はこのような意味での共同体を否定することはできない。それはちょうど、人が
ヒトとしての「生存条件」を否定したり、自ら創出することができないとの同じこ
とです。それは、よその国や未来において成就するユートピアなどではないし、ま
してや、それへの適応を強制される想像物などでもない。あくまで「いま‐ここ」
において、事実としてある共同体を肯定=認識すること、そして自由であること。

それを、つまり自由であるための「生存条件」を「共同体」と呼ぶかどうかは、言
葉の問題にすぎない。でもあえて、私はそれを「共同体」と呼ぶ。
 

●73●柄谷行人『倫理21』(平凡社:2000.2)

 読み返すたびに、同じ興奮が反復する。知的興奮ではなくて、もしそういう言葉
があるとすれば、実践的=倫理的興奮。読んでいるあいだ、それ自体を取り出して
「理論的」に論じてみたところで「何の意味もありはしない」(マクベス)メタフ
ィジカルな次元が、名状しがたいリアリティをもって立ち上がってくる。「カント
その可能性の中心」とも題すべき、柄谷氏の「転回」点を明晰に示す画期的な論考
だと思う。

 著者によると、スピノザ、あるいはマルクス、フロイトはその生き方において実
存的で、あらゆる共同体に背立する単独者でありコスモポリタンであった。彼らに
共通するのは、構造主義的な思考である。たとえばスピノザは、われわれは自然(
情念)によって複雑に規定されていてそこには自由意志などないのだが、ただ原因
を認識することはできる、つまり認識のみが、あるいは認識しようとする意志のみ
が自由である(認識することが「エティカ」である)と考えた。カントはこのスピ
ノザ的な決定論を全面的に受け入れている。そして、まさにその上に立って「自由
(自律性)はいかに可能か」を問うたのである。(ポスト構造主義者としてのカン
ト!)

 カントは、自由は「自由であれ」という命令(義務)においてのみ存在すると考
えた。自由や責任は「態度変更」によって、すなわち決定論的な因果性を「括弧に
入れる」ことで開かれるメタフィジカルな次元(「善悪の彼岸」)においてのみ語
りうるというのである。この点で、倫理をめぐるカントの思考は、道徳を弱者の思
想として攻撃し、また一貫してカントを攻撃したニーチェの思考に接近していく。

 著者によると、ニーチェの「運命愛」は、諸原因に規定された運命をそれが自由
(自己原因的)なものである「かのように」受け入れよ(括弧に入れよ)というこ
とにほかならない。それはまさにカント的な倫理性である。ただニーチェとカント
の違いは、ニーチェが自然必然性を括弧に入れることを強調したしたけれど、時に
はその括弧を外してみなければならないことをいわなかったこと、つまりニーチェ
は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生み出す現実的諸関係を見よ
うとしなかった点にある。

 そのほか、カントにとって「パブリック」とは国家や文化(私的なもの)を括弧
に入れること、つまり自ら世界市民として考えそのように意志するかぎりにおいて
存在するコスモポリタンのことである。あるいは「物自体」とは他者のことなので
あって、それは対話が成り立たない他者、つまり異なる「共通感覚」をもった他者、
典型的には死者や未来の人間のことである。そして「他者を手段としてのみならず、
同時に目的として扱え」というカントの道徳法則は生産関係にも及ぶものであって、
マルクスのコミュニズムはカントの延長として必然的に出てくるものである、等々、
カントの思索をめぐって繰り出される著者の斬新な読解は実に刺激的だ。

 もちろん本書はカント哲学の研究書なのではない。そこには戦争責任について考
えるというテーマが貫かれている。歴史の分野での心身問題とでもいうべきもの、
すなわち理論的(構造論的)把握における個人と実践的(倫理的)な位相における
主体の問題を、カントの思索のアクチュアリティを摘出することであぶりだしてい
くその叙述が何よりもが刺激的なのである。

 私はいま、岩波現代文庫から同時に刊行された廣松渉著『物象化論の構図』と中
島義道著『カントの時間論』を並行して読んでいる。そこで扱われている素材、本
質的普遍者(実念論)と実存的個別者(唯名論)との二元論、あるいはマルクスに
おける疎外論から物象化論への移行、そしてアリストテレス的な客観的時間とアウ
グスティヌス的な主観的時間の二元論、あるいはカントにおける時間の「超越論的
観念性」と「経験的実在性」の問題は、私の脳髄のなかで本書と融合され響きあっ
ている。(「二元論を生きること」としての倫理?)

 付言。朝日新聞の「思潮21」(2001.2.3付大阪)で、岩井克人氏が資本主義の倫
理について次のように書いていた。《「売れればよいというものではない」──そ
れが資本主義の倫理です。/あまりにも陳腐に聞こえる言葉であるかもしれません。
だが、この倫理はまさに資本主義とともに生まれてきたものです。そして、資本主
義が「売れなければならない」という以上の論理をもたない社会である限りにおい
て、これ以上の論理はありえないのです。》

 岩井氏は、オースティンの『高慢と偏見』は結婚市場の中で娘たちがどのように
自分を「売って」いくかを描いた小説であるとして、女主人公エリザベスを「売れ
なければならない」という論理を超越してしまう娘、つまり「売れればよいという
ものではない」という倫理をもつ存在ととらえている。《『高慢と偏見』は面白く、
楽しく、そして「偉大」な現代社会の倫理の書なのです。》

 たしかに精神や文学はつねに経済の問題として考えることが可能だし、むしろ批
評とはそうあるべきなのだと思うが、それにしても岩井氏のいう倫理は「興奮」を
誘わない。

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