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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.31 (2001/01/20)
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 □ 金子勝『日本再生論』
 □ 宇沢弘文『社会的共通資本』
 □ 金子郁容『コミュニティ・ソリューション』
 □ エリック・スティーブン・レイモンド『伽藍とバザール』
 □ 山形浩生『新教養主義宣言』
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年に一、二度、経済学者の本が無性に読みたくなります。それも、現代的な課題を
スマートに(知的に、あるいはクールにという意味です)、かつ怒りをもって(熱
い心をもって、あるいはオプティミスティックにという意味。絶望の中で最後の希
望をもって、といってもいい)論じきった「極論」の(原理的な)経済書。

そういう「気分」になったとき、最近は、自然に金子勝さんの著書に目がいくよう
になりました。(そのほかでは、コミュニティ・マネーの西部忠さんとか、シルビ
オ・ゲゼルの森野栄一さんなど。)

というわけで、今回はその金子氏の最近の単著『日本再生論』から出発して、同時
に読み進めていったものや以前読んだものをいくつか、数珠つなぎにしてみました。
──「共有という思想」や「自己なるものの所有」といった金子氏の言葉が、これ
らの根底に鳴り響いているように思います。
 

●64●金子勝『日本再生論 〈市場〉対〈社会〉を超えて』
                                               (NHKブックス:2000.11)

 『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書:1999)を読んで以来、金子
氏の議論から目を離せない。「福祉政府」や「債務管理型国家」など、神野直彦氏
との共同作業によるオルタナティブの政策提言はきわめて「現実的」なものだと思
うし、グローバリズムに基づく市場原理主義や日本的同調・無責任体質(共同体主
義)へのラディカルな批判に根ざした社会経済時評の舌鋒は小気味いいものなのだ
が、金子氏の真骨頂は、何といっても「制度とルールの問題を軸にして、現実社会
の仕組みを解き明かしてゆくポリティカル・エコノミーの視点」(本書19頁)の一
貫性と、「弱い個人」の仮定を起点とするその理論的考察の明快さ──たとえば、
自己決定権と社会的共同性の相補関係の問い直しによる、弱者救済の制度から社会
全体でリスクを分担する仕組みへのセーフティネット概念の更新──にある。

 これまでの言説・論考の集大成にして総索引の意義をもつ本書の序章で、著者は
まず、市場対政府もしくは小さな政府対大きな政府といった「冷戦型政策思考」の
無効性を宣告する。そして「新しいリスク」──発生する確率は低いがいったん起
きると社会全体に極めて大きな被害を与えるリスク、一人ひとりでは負えないリス
クのこと。著者は、自然災害、科学技術・システムに由来するもの、因果関係を特
定しがたい「社会病理」の三つのリスクを示しているが、これらは宇沢弘文氏によ
る「社会的共通資本」の三つの範疇、すなわち自然環境、社会的インフラストラク
チャー、制度資本(教育、医療、金融システムなど)とおそらく関係していると思
う──と「新しい格差」──OSやネットワークといったルール・知識の掌握によ
る winner-take-all 現象、あるいは所得と世代と学歴の三つの複合化された格差
──を踏まえた「新しい政策課題」として、「リスクシェア、公共性の論理に基づ
く社会的責任制度の構築」と「ルール・知識の共有による格差解消、平等・多元的
生き方の確保」を示している。

 以下、国際会計標準や金融ビッグバン、IT革命をめぐる「国際的な争い」に関
する議論を経て、財政赤字や格差をめぐる日本の政策課題へと向かう本書の叙述は
説得力と示唆に富んだ指摘──たとえば、本当に実現すべき政治改革は代議制民主
主義と直接民主主義の関係を問い直すことである、等々──に満ちている。なかで
も、終章で論じられた「共有という思想」の知的革新や「自己なるもの」の所有を
めぐる議論がとりわけ刺激的だった。──後者の論点について、村上龍との対談で
の著者の発言を以下に抜き書きしておく。(そういえば、村上龍の名はたしか本書
でも三度出てきた。)

《ぼくは最近、マルクスと逆のことを言っているんです。自己なるものを所有する、
その所有そのものを再建しなければならないと。マルクスが言うこととは逆なんで
すよ。所有を廃棄するとかじゃない。簡単にいうと、資格制度や年金を一元化して
参加できるものを提言しているんです。(中略)マルクスのいうような個体的所有
でもない。多元的な価値が保たれた共同体を作らなければならないのですが、ヒン
トになりうるのは、ドイツのマイスター制度みたいなものですね。(中略)履歴書
に学歴を書かないかわりに、多様な個性を認める資格をたくさんつくることですよ。
(中略)市場主義は才能があればいいっていうけれど、結局、才能というのは、自
分の才能を発見する能力なんです。あるいは我慢できる能力なんです。》(村上龍
×金子勝「多様化社会の条件」,『大航海』No.35[2000.8])

●65●宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書:2000.11)

 本書第1章で著者は、社会的共通資本(Social Overhead Capital)の考え方を
めぐって三つの説明を与えている。

 その一。社会的共通資本とは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々
が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持
続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」(4頁)を意味する。
具体的には、自然環境(自然資本)、社会的インフラストラクチャー、そして制度
資本(教育、医療、司法、行政、金融制度など)の三類型があり、都市や農村も複
合的な社会的共通資本である。

 その二。社会的共通資本は、「分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得
分配が安定的となるような制度的諸条件」(4頁)であり、ジョン・デューイのリ
ベラリズムの思想を根拠とするソースティン・ヴェブレンの「制度主義」(Insti
tutionalism)の考え方を具体的な形に表現したものである。

 その三。社会的共通資本は、「それぞれの分野における職業的専門家によって、
専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるもの」であって、
政府や市場の基準・ルールにしたがっておこなわれるものではない。《この原理は、
社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、
運営は、フィデュシアリー(fiduciary:受託・信託)の原則にもとづいて、信託さ
れているからである。》(23頁)

 以下、農の営みとコモンズ(共有地:著者は「社」もしくは「農社」という訳語
をあてている)をめぐる議論、ル・コルビュジエの「輝ける都市」批判とジェーン
・ジェイコブスに準拠した「最適都市」(Optimum City)の提唱、さらに、「本来
的な意味でのリベラリズムの理想」(3頁)が実現された「ゆたかな社会」の基本
的条件としての学校教育と医療の制度、脆弱な制度資本である金融システム、そし
て最終章での地球環境問題(著者はそこで宗教やスピリチュアリティ、文化的伝統
の問題と経済学をリンクしている)へと、著者積年の学問的探求と社会政策的思索
の蓄積に裏打ちされた議論が続いていく。

 静かな知的興奮とともに読み終えて、社会的共通資本としての大学の意義は何か、
あるいは専門家としての経済学者(たとえば新古典派)が管理運営する社会的共通
資本とははたして何なのだろうかと考えた。

●66●金子郁容『コミュニティ・ソリューション
           ボランタリーな問題解決に向けて』(岩波書店:1999.5)

 豊富な事例分析を踏まえた、理論と実践への導きの書。以下、思い出せる範囲で、
本書から抽出できる「命題集」を試作してみよう。

▼コミュニティ・ソリューションとは、メンバー間の密接な情報共有とアクティブ
なインタラクションによって「情報と関係性の共有地(コモンズ)」を作り、お互
いを相互編集することで問題を解決することである。(15頁)▼自生したルールと
ロールを尊重する人々の範囲がコミュニティの境界線を形成する。(24頁)▼ベネ
ディクト・アンダーソンが「コミュニティはイマジナリー・メモリーによって維持
される」といった、そのようなイマジナリーな情報の共有と共同利用によって形作
られてきたコモンズを基礎とするのがコミュニティ・ソリューションである。(24
頁)▼ボランタリー・コモンズの形成と運営をめぐるキーワードは、「ルール=自
生した規則性」「ロール=自発的にわりふられた役割性」「ツール=コミュニケー
ションのための道具性」「弱さの強さ」「相互編集プロセスと編集者」の五つであ
る。(39頁)▼信用とは情報の情報(メタ情報)である。(112頁、270頁)▼政府
・権限による「ヒエラルキー・ソリューション」や市場による「マーケット・ソリ
ューション」は、自発的で他の情報とつながることで本来の力を発揮する情報を扱
うことが不得意である。どちらも個人と問題とを切り離して問題を解決しようとす
るからだ。第三の選択肢としての「コミュニティ・ソリューション」は、関係に依
存して問題を解決しようとする。関係に依存することは自己完結できないことであ
るが、その弱さを強さに編集しなおすことがコミュニティ・ソリューションの極意
である。(112頁、160-163頁)▼「ソーシャル・キャピタル」とは、関係性のメモ
リーがコミュニティに蓄積されたものである。それはコミュニティの文化遺伝子(
ミーム)であり、それによって運ばれる感動と人間性に対する信頼性の伝染がコミ
ュニティ・ソリューションの秘密である。(171-172頁)

 ところで、本書を読んで一つだけ分かりにくい事柄があった。それは──『ボラ
ンタリー経済の誕生』(松岡正剛・下河辺淳他との共著)でも感じたことなのだけ
れど──「編集」という概念の内実とその射程である。たぶん「ボランティアが経
験する不思議な力」(143頁)といった言い方で著者が表現しようとしているもの
が鍵になるのだろうと思うのだが、これは今後の宿題。

 また、本書を読んで気になったこと。たとえば次の文章など、ずいぶんと誤解を
招きやすい表現だと思う。──《われわれは、いま、数百年に一度という大きな社
会の変革期の真ん中にいる。その変革は、ある意味では近代に最盛期を迎えた社会
システムの解体をもたらしているという側面がある。そんな中で、コミュニティ・
ソリューションが代替案ではなく、まさに、問題解決の中心であった近代以前の時
代を振り返り、伝統的社会のコミュニティにおける関係性の相互編集とそのメモリ
ーの蓄積としてのソーシャル・キャピタル構築に関する知恵を参考にすることも悪
くないであろう。[以下、結・講・座という「一セットのコミュニティのソーシャ
ル・キャピタル構築のノウハウ」の研究から「コモンズの相互編集と関係のメモリ
ーの蓄積の仕方」をめぐる五つの基本型を導き出す刺激的な考察が続くのだが、こ
こでは省略]》(202頁)

 ここに書かれているのは、もちろん中世や近世に帰れということではない。そん
な怠惰で安直なことではなくて、高度に知的な、原理的な抽象力を駆使した強靭な
知性にしかなしえない作業(歴史に学ぶこと?)がここでは提言されている。それ
は LETS その他のコミュニティ・マネーをめぐる議論においても妥当することだと
思うし、だからまた、事実としての「共同体」と「共同体主義」の違いに似た、あ
る微妙な、しかし決定的な取り違えが起こりやすいクリティカル・ポイントをはら
んだ議論だとも思う。問題は、どれだけ「現在」にリアリティを感じていられるか
ということなのだろう。

●67●エリック・スティーブン・レイモンド『伽藍とバザール』
                      (山形浩生訳,光芒社:1999.3)

 訳者あとがきにあるように、本書は「オープンソース・フリーソフトの基礎文献
が、同時にそれ自身オープンソース・フリーソフト的なビジネスモデルの実験とな
っている」し、翻訳そのものが「バザール方式」での実験によるもので、現にいま
でも山形氏主宰の「プロジェクト杉田玄白」で全文公開されている。

 第一部「伽藍とバザール 」、第二部「ノウアスフィアの開墾 Homesteading the
 Noosphere」(「ノウアスフィア」とは一般に「ヌースフィア」、つまりティヤー
ル・ド・シャルダンの「精神圏」のこと)、第三部「魔法のおなべ The Magic
 Cauldrom」、それから訳者による著者インタビューをまとめた第四部まではHP
で読める。

 ここまででは、オープンソース・ソフトの所有権とコントロールを支配する慣習
の根底にある理論がロック式の土地所有権理論と似た所有権概念であること、ハッ
カー文化とは参加者が時間とエネルギーと創造性をあげてしまうことで名声を競う
「贈与文化」であることを分析した第二部がとりわけ面白かった。

 そして、第五部が訳者解説。山形氏の鼻息が聞こえてきそうな次の一節など最高。
《最近は、リナックスが話題になってきて、いろんな人がオープンソースがどうし
たとかシェアウェアがどうしたとか、きいたふうなことを言ってくれる。でもフリ
ーソフトのコードの一行も書かず、ドキュメントの貢献もない、寄付をしたことが
ない。まして使ってすらいないとおぼしき人物が「フリーソフトは生き残れるか」
などとしたり顔で語るのをみると、ぼくはついつい「テメーはなにをしたね」と言
いたくなる…。フリーソフト・オープンソースは、生き残らせたい人、普及させた
い人が生き残らせて普及させるものだ。》(245頁)
 

●68●山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社:1999.12)

 極論の書。極論のイノチは論理と価値体系にある。この「価値体系」を著者は「
教養」と呼ぶ。教養なき輩の言説や表現や翻訳は断じて無価値である。

 第1章(人間・情報・メディア)で教養の意義を述べ、第3章(文化)で論理の
一旦に触れ、返す刀で日本文化の「ローカル」性を撃ち、第5章で価値体系の端緒
は「おもしろさを伝えること」にあると喝破する。第2章(ネットワークと経済)
と第4章(社会システム)はその応用篇。

 本書に収められたフィリップ・K・ディック『死の迷路』あとがきが気に入った。
《もしあなたがこの現実の虚構性などというものを本気で信じているとすれば、そ
れは単にあなたが他人との接触の薄い生活感の欠如した卑しい抽象的な生を生きて
いるというだけのことだ。》

 著者のHPでの自著紹介によると、ほんとうは『ぬるぬる』という書名にしたか
ったらしい。そのタイトルをひねり出した晶文社のHPに掲載されている著者との
対談で、宮崎哲弥氏は「OSとしての教養」をめぐって、それは「いろんな事物の
背後に抽象的な原理や本質をみてとる思考」のことで、数学もしくは数理的思考、
広い意味の哲学だと語っている。

 ──そういえば、ベストセラー『経済のニュースが面白いほどわかる本・日本経
済編』(中経出版)を書いた「カリスマ塾講師」の細野真宏氏も、出身は数理系だ
とある雑誌(エコノミスト)で紹介されていた。

 これに対して山形氏が「僕は出が工学部なもので、数学的というよりも工学的な
発想かもしれないな」と語っていたのがおもしろい。もっとおもしろかったのが、
次のやりとり。

宮崎:しかし、山形さんは趣味としての教養ではイマイチで、やっぱり社会を変革
 するような、結構真っ当な啓蒙を構想されているようにも読めるんですけどね。
山形:うん、全員を啓蒙するんじゃなくて、エリート軍団をつくって、どんどん世
 の中を変えていくようなことをやりたい。」「宮崎 同世代ぐらいの頭のいい人
 って最後はみんなそういうな。宮台(真司)さんも福田(和也)さんも。

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