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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.29 (2001/01/14)
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 □ 佐々木正人『知覚はおわらない』
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心と脳の関係をめぐる問題、つまり心身論ならぬ心脳論への私の関心は、養老孟司
著『唯脳論』を読んで以来のもので、それは茂木健一郎氏の『脳とクオリア』にめ
ぐりあうことで決定的なものになりました。

その後、大森荘蔵の時間論や自我論(「無脳論」)を媒介に、永井均氏の「独在性
の私」論や池田晶子氏の「魂」論などとも接続され、私の関心は心脳論ならぬ「魂
脳論」へと深化(?)していったのですが、最近では、信原幸弘著『考える脳・考
えない脳』(「構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、脳と身体と環境か
らなる大きなシステム全体によって産み出される」云々)やアリストテレスの『心
とは何か』(「プシューケーとは生命の原理である」云々)を経て、なにやら「新
局面」を迎えつつあるように思っています。

いまひとつ、これは何度読みかけても途中で思考が活性化してしまって最後まで一
気読みができない、それほどの刺激に満ちたジェスパー・ホフマイヤーの『生命記
号論』や、ホフマイヤーがDNAと並んで「本書のもう一人の英雄」としてその名
をあげるチャールズ・サンダース・パースの記号論・形而上学との間のシナプス結
合が、私の脳髄のなかでじっくりと成長しつつあります。

というわけで、今回は心脳論の「お勉強」のためのノート(抜き書き集)、その一。
 

●62●佐々木正人『知覚はおわらない──アフォーダンスへの招待』
                            (青土社:2000.10)

 著者が「あとがき」に書いている言葉がとても印象的だ。《一つの思考を自分の
ものにすることは、一輪車に自在に乗れるようになったり、キノコの味がわかって
くるといった経験に類比できると思う。何度も繰り返しているうちに、まず少しは
変わったかなという程度の感覚が得られて、ますます止められなくなる。私と生態
心理学との付き合いもその手のものなので、つたない「アフォーダンスのお稽古」
に付き合っていただくのはどうかと思った。》

 これはある意味で本書のエッセンスを示すメタ・メッセージになっている。だか
ら「お稽古」をはじめるどころか、まだ稽古場を外から眺めているにすぎない私と
しては、ただ、アフォーダンスとは「行為することで現れてくる環境にある意味」
である(42頁)とか、知覚が知覚行為と環境の二重性をもつ(ジェームス・ギブソ
ン)──「知覚とは環境についての見えであると同時に、知覚者の行為についての
見えでもある」(83頁)──ように、想起も過去と現在の二重性をもつ(エドワー
ド・リード)のであって、「現在進行中の環境との接触は、この二種の二重性のせ
めぎあう場である。というか知覚はいつも活動しているわけであるから、「想起の
二重」が、「知覚の二重」に介入する機会をいつもうかがっている」(84頁)とい
った記述を記憶にとどめ、繰り返し反芻しては、いつかその含意を自分のものにで
きる日の来ることを夢見るしかない。

 というのも、アフォーダンスをめぐる議論は頭では分かった気になれるし、なに
がしかの眩暈のようなものさえ覚えるのだけれど、何度読んでもいまひとつ「自分
のもの」にできたとは思えないのだ。

 話はすこし横道にそれるが、大森荘蔵氏は『時間と存在』(青土社:1994)の「
はじめに」で次のように書いていた。《正直に言って、昔、物理学の学生であった
私は、自然科学的世界の空性という自分で出した結論に納得がゆかない。これまで
も度々経験したことだが、自分で出した奇怪な考えに馴れるのにかなりの年月が必
要だろう。》

 まして他人の脳が出した結論に納得するためには、進化論が適用される程度の年
月が必要なのかもしれない。(これは余談だけれど、ここで大森荘蔵の名を想起し
たことには何か「深い」関連がありはしまいか。)──以下、本書を読んで強烈に
印象に残った箇所をいくつか引用しておく。

 その一、アフォーダンスと脳、情報のスープ、大きなシステムなど。《いままで
の心理学は、脳にとらわれすぎていた。「アフォーダンス」はそれを決定的なかた
ちで転倒させました。大事な情報は脳のなかにあるんじゃなくて、むしろ世界のほ
うこそ情報の濃厚なスープなんだと。要するに、無尽蔵にある情報のスープから、
僕らは生きるため、有用性のフィルターを通して、必要な情報を部分的に引き出す
わけですね。》(51頁)《脳障害の事例などでも明らかですが、中枢神経系という
か、神経の特殊な構築物である脳が、外界にある意味を特定するような〈情報〉と、
そこに住む動物の〈行為〉を〈協調〉させるために、重要な役割を果たしているこ
とはおそらく間違いない。ただ、意味は脳で「作られる」というよりは、脳をも組
み込んだ大きなシステムによって「発見」される。というか、環境にある意味=〈
アフォーダンス〉を特定する情報を組み込んだかたちで動物の行為がある〈組織化〉
をするのだと思う。》(110頁)

 その二、ギブソンの生態光学。《包囲光がギブソンによって「発見」されるまで、
光はあくまで点から発する線だった。視覚の科学は焦点の集合である「像(イメー
ジ)」を基礎にしていた。「像」は、人間が環境にあることを何かのサーフェスに
書きつけた結果にすぎない。それはおそらく人間の行為の結果であり、視覚の根拠
ではありえないのにである。/ギブソンは重力や熱や振動と同じに光がミーディア
ムに満ち、私たちを取り囲んでいることを認めた。点と線の光ではなく、包囲する
光から視覚を考えると、像はいらなくなる。では像に変わって何が視覚の根拠にな
るのだろう。/想像を越える速さでサーフェス間を往来し、空中で散乱し、ミーデ
ィアムを完全に「密」に満たす光は、ミーディアムのどの場所もすべての方向から
包囲する。環境はミーディアムとサブスタンスとを分けるサーフェスのレイアウト
である。》(202-203頁)

 その三、ギブソンとプラグマティズムの伝統。《また、このような考え方[サー
フェスのレイアウトが視覚の根拠であるとする考え方]へと彼を促したアイデアが
二つあったと思います。一つは、「意味」はあるものではなくて、発見されるもの
だということ。最初にカテゴライズされた意味があるのではなく、意味というのは
多様に発生する。ここにはプラグマティズムのチャールズ・サンダース・パース(
一八三九〜一九一四)の存在についての定義の影響がみられます。二つめは、そう
いう「意味」の〈同時性〉。私たちは一つのことを考え、ひとつのことを見ている
動物じゃなくて、つねにたくさんのものに包囲されていて、同時にそれらを見てい
るものだということ。これはウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」に影響を受
けていると思う。(中略)プラグマティズムの発想のコアになっている多様性を肯
定する「意味」の理論と、〈同時性〉を主張する「意識」の理論。それらが〈サー
フェスのレイアウト〉、境界がなくて、なおかつ意味の発生と探求を同時に認める
〈入れ子〉の理論へと接続していく転換になったと思います。》(108頁)

 その四、ギブソン「視知覚への生態学的アプローチ」(邦訳、『生態学的視覚論』
)の佐々木訳から、「異所同時性」をめぐる文章。《……動き回る観察者は世界を
どの観察点からも見ていないこと、したがって厳密にいえば事物の遠近法になんか
気づくことができないということは真実なのだ。これが意味することは根本的だ。
移動する観察点で世界を見る、十分に広がった路のセットを十分に長い時間をかけ
て見ることで、世界を、まるで世界のあらゆるところに同時にいるかのように、す
べての観察点から見はじめる。何も隠されることなく、すべての場所に同時にいる
ということは、神のようにすべてを見えるものにすることである。どの物もすべて
の方向から見え、どの場所もそばにある場所とのつながりとして見える。世界は遠
近法でながめられない。変化する遠近法構造から基底をなす不変構造が創発してく
る。》(218頁)

 余録。はじめてアフォーダンスの概念に触れたときの印象、つまり(私の場合で
いうと)佐々木正人著『知性はどこに生まれるか ダーウィンとアフォーダンス』
(講談社現代新書:1996)を読んだときの感想文をひっぱりだしてみると、「この
本を読み終えたとき世界の見え方が変わっていることを期待していた。概説書では
そこまでいけないか」などと生意気なことを書いている。

 本を読んでいるときには目から鱗が何枚も落ちる体験をしていたと記憶している
のに、読み終えたとたんにこのありさまで、かといって概説書ならぬ専門書を読ん
で「お勉強」すれば、世界の見え方を更新する「一つの思考」を自分のものにする
ことができるかというと、そういうものでもないだろう。やはり「お稽古」が必要
なのだと思う。あるいは表現。

 佐々木氏には写真家、造形芸術家といった表現者との対談が多くあるのだが、最
近読んだ村上龍との対談「暴力・身体・環境」(『大航海』No.37[2001.1])で
のやり取りがちょっと面白かったので、両者の発言をそれぞれ一つずつ抜き書きし
ておく。

《…ぼくはこの十年くらい、小説でカギ括弧を使うことに違和感があるんです。カ
ギ括弧付きの小説のスタイルというのは、ある種定型で、「愛してる」Aはそう言
った、「おれもだ」Bはそう応じた、などと書くわけです。ところが、当たり前で
すが、人間というのは、こうやって佐々木さんと話していても、ぼくは手を握って
いたり、煙草を持っていたり、窓の外を見たり、そういった、会話とは直接関係の
ない行為をしたりしているわけですよね。カギ括弧を使うとそのあたりは表現でき
ない。》

《村上さんは映画をお撮りになってますけど、映画ではフレームに外があり、それ
は死滅していないと思うんですよ。映画では、…われわれを包囲する時間がありえ
ますよね。ヴィジュアルメディアのなかにはそういうことを配慮せずに、あたかも
小さいところにすべてがあるかのごとく作られているものもある。これは知覚の原
理ではなくて、言語の原理なんです。/これはつまり「括弧」の原理です。それは
表現の必然です。ぼくは括弧の存在自体はいいと思うんです。ただ、その括弧に周
辺がにじんでくるような感じに作れるかどうかというのが勝負です。》

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