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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.28 (2001/01/07)
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 □ 鶴岡真弓『ジョイスとケルト世界』
 □ 鎌田東二・鶴岡真弓編著『ケルトと日本』
 □ ジョン・オドノヒュウ『アナム・カラ』
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もうかれこれ二年近く前のことになりますが、岩波文庫でヴォリンゲルの『抽象と
感情移入』(草薙正夫訳)を読んで、小著ながら、文字どおり巻を措く能わずの興
奮を覚えたことがあります。

簡にして要を得た叙述。いささかの隙なく構築された論理の織物。そうであるにも
かかわらず、いやそれゆえにスケールの大きい想像力の飛翔とひりひりするような
刺激(ほぼ同時期に出版されたアインシュタインの論文にも似た読後感)を与えて
くれる書物。──と、その頃の手控えには書いています。

このヴォリンゲルについては、西田幾多郎が「歴史的形成作用としての芸術的創作」
(岩波文庫『西田幾太郎哲学論集』第三巻所収)で大きく取り上げていました。た
とえば次の文章。

《ヴォリンゲルは北方古代の夢想的な装飾線には、始もなく終もなく、中心もない
というが、それは線の連続、線の形についてのことであろう。東洋画の線は固、無
始無終、現実即実在の歴史的空間を把握するにあるのである、我々の自己の於てあ
る場所を限定するのである。東洋画は、物において心を現すのでなく、心において
物を現すのである。東洋芸術の線はギリシャ的に有機的でもない、然らばといって
ゴシック的でもない、ましてエジプト的でもない、仏即是心的である、自然法爾的
である。ピラミッド、パルテノン、ゴシックの塔と茶室というものを並べて見たな
らば、思半に過ぐるものがあるであろう。ドヴォルシャックはゴシック建築におい
ては必ずしも質量を排除しようとはせなかった、かえってそれをイデアの表現とし
たというが、東洋芸術においては質量が即イデアであるのである。東洋芸術には、
彼の芸術史において、古典芸術においてと異なった意味において、自然に対する新
たなる関係といっているものとまた異なった意味においての、自然に対する新なる
関係というべきものがあるのであろう。》(174頁)

いきなり何の説明もなく二冊の本をとりあげました。これらは私にとって、同時期
に読んだ鶴岡真弓著『ケルト美術への招待』(ちくま新書)と切り離して考えるこ
とができない三冊の書物たちのうちだったのです(いま一冊はドゥルーズ/ガタリ
『千のプラトー』)。

と、またまた唐突に話題をふりかえてしまいました。「ケルト」をめぐる書物をと
りあげたくて、その前口上をあれこれ考えあぐねているうち、こんなものになって
しまったのですが、もしかするとこれは、パソコンの壁紙にはりつけた「ケルズの
書」の装飾文字を眺めすぎたためなのかもしれません。(エクトル・ザズーの『ラ
イツ・イン・ザ・ダーク』を聴きながら。)
 

●59●鶴岡真弓『ジョイスとケルト世界 アイルランド芸術の系譜』
                   (平凡社ライブラリー:1997.3/1993.4)

 私は鶴岡真弓ファンだ。以前、NHKの人間大学(1998年4月〜6月期)で「装
飾美術・奇想のヨーロッパをゆく ケルトから日本へ」が放映されたときは毎回か
かさず観たものだし、テキストはいまでも大切にとってある。(1998年4月から7
月にかけて東京都美術館で開催された「ケルト美術展」も観に行ったたし、図録は
いまでも大切にとってある。)

 そういうわけで、鶴岡氏のケルト三部作(と、私が勝手に名づけている書物たち)
──『ケルト/装飾的思考』と本書(岩波書店版の原題は『聖パトリック祭の夜』)
と『ケルト美術への招待』──を、刊行された時期を逆行しながら少しずつ、年単
位の時間をかけて読んでいる。

 ラフカディオ・ハーン(第一章「漂白の亡霊」)にジェイムズ・ジョイス(第二
章「エグザイル」、第三章「西方[ヒスペリア]の詩学」)、そしてオスカー・ワ
イルド(終章「女神モリガン」)の三人の文学者を大きくとりあげた本書の圧巻は、
やはりウンベルト・エーコの議論に準拠しながらジョイスと「ケルズの書」の関係
を論じた第三章だろう。

 「『ケルズの書』のように書きたい」と独白したジョイス。どのように書いたら
いいのかと問われて「『ケルズの書』を研究したまえ」と答えたジョイス。「…怪
獣文字のごとく、「渦巻」「組紐」「動物」という、オーガニシズムを溢れさせ、
のたうちまわり、融合し、変化し、無限循環的回転体と化す『ケルズの書』の装飾
の奇想天外のイメージを借り」て、フィネガンズ・ウェイクの「カオスモスを疾走」
(203頁)したジョイス。

 谷川渥氏が解説(「極大の渦を巻く」)で指摘しているように本書自身がケルト
の装飾文字さながらの構成をもち、またアイリッシュの饒舌さながらの文体に彩ら
れている。無限に「再生」するもの、原理としてのケルト。──そういえば『ユリ
シーズ』(丸谷才一他訳)が第二部の「12 キュクロプス」あたりで中断したまま
になっていた。再開しなければ。

●60●鎌田東二・鶴岡真弓編著『ケルトと日本』(角川選書:2000.12)

 鶴岡真弓ファンの私は、ケルトマニア(予備軍)でもある。老後の愉しみ(?)
の種として、ささやかなものだが、ここ数年少しずつケルト関連の書物と資料を収
集している。

 本書には、名著『宗教と霊性』の鎌田氏の論文が二本(「畏怖する精神」「妖精
の国と妖怪の国」)と鶴岡氏の論文が一本(「「ケルト的なもの」はなぜ賛美され
たのか──近代国民国家の創造とケルト性」)、それに両氏の対談(「習合とエグ
ザイルの精神」)が収められている。いずれも力のこもった、ケルトマニア必読の
文章だった。

 対談のタイトルに出てくる「習合」と「エグザイル」、あるいは鎌田氏の論文に
出てくる「モノノケ・ランド」と「フェアリー・ランド」という対語が、日本の神
道とケルトの宗教との比較軸を見事に表現していると思う。

 そのほか、栩木伸明氏の「W.B.イェイツとたそがれのケルト」と龍村仁氏の「
「直観」でつかむケルト」を面白く読んだ。──栩木論文の結論部分が印象的だっ
たので、引用しておく。

《イェイツが民族的にケルトであったかなかったということは問題の本質ではない。
彼はアイルランドという場所の地霊に感応してケルトになった。ケルトとは場所が
もつ磁場に導かれた精神状態のことではないだろうか。だとしたら、ケルトとはつ
ねに発見され、更新されてゆく「生きている伝統」である。それがそもそも「神話
」であり「フィクション」であるのなら、「真正」か否かを問おうとする議論はじ
めから意味をもたない。》

●61●ジョン・オドノヒュウ『アナム・カラ ケルトの知恵』
                   (池央耿訳,角川21世紀叢書:2000.8)

 ゲール語で「アナム」は魂、「カラ」は友を意味する。(つまり、アナム・カラ
とはスプートニク、旅の連れのこと?)。著者 John O'Donohue はアイルランド生
まれの詩人で哲学者。訳者あとがきによると、1990年にヘーゲルで博士号を取得し、
現在はエックハルトを研究テーマとしている。論文に「石・記憶の殿堂」「水・大
地の涙」「火・魂の炉端」「風・神の息」があるという。(いずれも魅力的なタイ
トルだ。)

 第一章「親愛の神秘」で「人間同士が認識し合い、覚醒を促しあう不変の親和」
について考察し、第二章「五感の精神性」では肉体と魂の境目・界面・接点として
の感性を語り、第三章「輝ける孤独」では内界の感性である思索が沈黙と孤独の浸
透を通じて神秘的な風景を描き出す「内的親愛の技法」を探る。

 以下、第四章「労働──成長の詩学」、第五章「加齢──内なる収穫の美」、第
六章「死──水底の地平」と続くこれら六つの章は、螺旋を描きつつ一つの円環を
なし、文字には記されていない第七の隠れた章を取り巻いている、と著者はプロロ
ーグで書いている。

《古来、人間存在の根底にありながら、形もなく、価値も測り知れない深い神秘が
この隠れた一章の主眼である。つまるところ、本書は詩的な思索の形を借りた友愛
現象学の試みであり、ケルト人の精神構造に窺われる叙情的な思弁に想を得ている。
…想像力豊かなケルト人と心の対話を交わして、そこに提示される親愛の哲学と精
神の主題を展開することが本書の狙いである。》

 だからこの書物を「読み終える」ことなどできない。読むたびに起動され立ち上
がってくるもの(アカシック・レコード?)へとつながった、これはそうした種類
の書物、つまり叡智の書なのだ。──ひととき心愉しい抜き書き作業に没頭したな
かで、一つだけ、とりわけ印象に残った文章を引用しておく。

《魂は心と肉体の曲面である。西洋思想では、魂は肉体に宿ると理解されている。
魂は肉体のある限られた狭い箇所に閉じ込められている。そして、魂は白いものと
する考えが一般的である。人が死ぬと魂は肉体を離れ、虚ろになった肉体は崩壊す
るという。が、果たしてそうか。実を言えば、古代の考え方では魂と肉体の関係が
これとは逆で、肉体は魂に宿る。魂は肉体よりも大きな広がりを占め、同時に肉体
と心を満たしているのである。魂のアンテナは意識や自我よりもはるかに感度がい
い。》(87頁)

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