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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.27 (2000/12/28)
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 □ 小沼純一『サウンド・エシックス』
 □ 八木雄二『中世哲学への招待』
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先日、旅先のホテルで、酔い覚ましにテレビのチャンネルをとっかえひっかえして
遊んでいるうち、「井上陽水 ハロー、グッドバイ」という番組(NHK)がヒッ
トして、つい風呂に入るのも忘れ、結局最後まで観てしまいました。

町田康が歌う「東へ西へ」やUAの「傘がない」がとても新鮮だったし──衝撃的
といっていいかもしれない。実際、陽水も町田の(「パンク」化された?)「東へ
西へ」を聴いて、自分はこの歌をこれまで間違った歌い方で歌ってきたのではない
かと思う、といった趣旨の感想を述べていた。以下は私の感想だけれど、UAが歌
う(乾いた情感のこもった?)「傘がない」を聴いて、というよりその声と表情を
ブラウン管を通して観ていて、一度だけ京都のどこだったかで生で見た浅川マキの
黒ずくめの姿が目に浮かんできた。UAが歌うたとえば「赤い橋」などを聴いて、
浅川マキも陽水と同じ感慨を洩らすのだろうか──、それから陽水が歌う「星のフ
ラメンコ」や「旅人よ」もなかなか捨てがたくて、武満徹さんがたしか「言葉は歌
から生まれた」と発言されていたのを、なぜか懐かしく思い出していた。

何がいいたいのかというと、音楽、というより歌は、時代を語る言葉を生み出す母
体(原体験?)だったのではないかということ。いや、時代というより世代を語る
言葉というほうが精確かもしれません。──ちなみに、養老孟司さんは『毒にも薬
にもなる話』に収められた「臨床哲学または同世代的考察」という文章で、次のよ
うに書いていた。

《…時代性より、世代性のほうが、普遍性が高い。ことばの世界では、むしろ逆に
考えられているであろう。時代とは、多くの世代を含んで成り立つ。それなら、世
代論とは、その局部にすぎない。そんな局部を考えても、意味がないではないか。
 自然科学は局部しか見ない。しかし、解決できる問題は、それで解決してきた。
できない問題は、はじめからできないと思って、科学の外に置いている。ことばの
うえでより広義だからといって、広いほうが普遍的だとはかぎらない。ものごとの
具体的な解決は、狭義のほうが早いからである。もっとも哲学はそういう考えかた
はとらない。そう言ってしまえば、それでおしまい。》(中公文庫,265頁)

ところで、件の番組では(「人生相談」というコーナーで!)井上陽水と対談した
柳美里さんの言葉が面白かった。陽水の音楽は垂直ではなくて水平、つまり横にな
って聴ける音楽なのだけれど、聴いているうちに背中が浮いてくる。これと同じ、
聴いていて背中が浮いてくる音楽はもう一つあって、それはバッハ。──こうして、
前回の『精神のフーガ』とのつながりができた(?)ところで、旅先で読んだ本か
ら二冊(偶然、いずれも平凡社新書)を紹介します。(グレン・グールドの弾く『
ゴールドベルク変奏曲』を聴きながら。)
 

●57●小沼純一『サウンド・エシックス これからの「音楽文化論」入門』
                          (平凡社新書:2000.11)

 読者の力量に応じて、というより読み手の側の音楽体験の広がりと深度(震度と
いうべきかもしれない──魂の震え=律動の度合いといった意味で)に応じて、深
くも浅くも(面白くも面白くなくも)読み解くことができる不思議な書物だ。文章
は平明かつ平易なのだが、そこで展開されている議論はきわめて高度だと思う。

 著者は「あとがき」で「本書の計画をたててから、あっという間に何年か経って
しまいました」と書いている。だからという訳ではないのだけれど、この書物はか
なり周到に考え抜かれた構成と射程をもっていて、「音楽の倫理」という(特異な
?)テーマに関して考えられるかぎりのアクチャルな素材を収集整理し、それぞれ
の項目ごとに(展開可能性という意味で)刺激に満ちた序説的考察を加えている。

(各章末の文献案内と作品紹介を兼ねた注が本文との間で奏でるポリフォニーが面
白い。ただし、もっと遠慮せず突っ込んでいいのではと思える箇所もあったような
気がする。それも、後半の「身体と音楽」や「生命と音楽」といった重要な章で。
──音楽は栄養であり、薬であり毒であると規定した箇所で、ジャック・デリダの
著書に触れつつ「パルマコン」という古代ギリシャ語をもちだしてくるのだが、そ
こから先の展開が見えない、というか、通りがかりにちょっと言及しただけでしか
ない書きぶりになってしまっている、など。)

 たとえば著者は、モーリス・ブランショやジャン=リュック・ナンシーの書物か
らインスピレーションを得て、ひとつの音楽が通じるイマジネールな共同体──「
音楽が始まる前にも後にも存在しないが、音楽がそこにあるときだけは仮想的にあ
りえてしまう共同体」(37頁)──について語り、ひとつの音楽はひとつの制度で
もあることから、複数の音楽に共感できることが複数のそのときだけの共同体を実
現することにつながり、ひいては複数の制度のあいだを行き来し通路をつなげるこ
とでもあると書いている。

 これは実は本書の問題系の中心あたりに位置する論点なのであって、以下、音楽
と場所の関係(57頁)や音楽が生まれ育つ共同体(80頁)の話題、また、音楽はひ
ととひととの「あいだ」にある(143頁)とか、音は何かと何かが出会って発され
る(154頁)といった議論、さらには、生物におけるリズムの内在化(232頁)や音
楽的記憶(256頁〜)をめぐる議論等々へとつながっていくのだが、それぞれの叙
述に際して、性急な理論化や概念語の使用を禁欲し、具体的な現象や体験に即した
思考に徹しようとするそのスタイルは、穿った見方をすれば音楽の模倣、とりわけ
「思考の道の音楽」(インド音楽で即興的な音楽を意味する「マノダルマ・サンギ
ータ」のこと。これに対して既製の音楽=作品は「カルピタ・サンギータ」で、あ
らかじめ準備された音楽を意味する。本書113頁)を志しているのではないかとさ
え思わせる。

 このあたりの経緯というか「戦略」については、最終章の、本書のタイトルにし
てテーマでもある「倫理」にはじめて言及した箇所(本書それ自身の「かたち」に
言及したメタ・メッセージでもある)で、著者自身が次のように吐露しているので、
引用しておこう。

《とはいえ、倫理の興味深いところは、他の哲学でも文学でも同様なのですが、倫
理とは何かという枠組みそのものを同時に問うてゆくところにあるわけで、その意
味では、個々の問いを投げ掛けつつ外枠を確定し、あるいは移動してゆくというこ
とになるわけです。そして倫理とは、AがBである、あるいはAがBでなくてはな
らない、なるべきだということですむことではありません。むしろ或る全体的な「
かたち」であり、問いはひとつではない──だからこそ「エシックス」と複数形を
とる──のです。言い換えれば、複数の問いを種子のように蒔いて、その種子が芽
をだして生育したところこそが、その問いの広がりの場なのです。だからこそその
場は総体として成り立ちながら、時々刻々と変化し、位置を変え、増殖してゆくは
ずでしょう。》(270-271頁)

●58●八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」の
               はじまりを知るために』(平凡社新書:2000.12)

 カバー裏に「“精妙博士”ドゥンス・スコトゥスの哲学を軸にしてヨーロッパ的
思考を理解するための要をさぐる、アクチュアルな中世哲学入門」と印刷されてい
る。そもそもヨハネス・ドゥンスの哲学を新書で読めること自体、快挙というほか
なくて、私はただもうそれだけで感激してしまったのだが、本書を読み進めていく
うちにその感激は興奮に変わっていった(とりわけ最終章「時間と宇宙」は秀逸)。
濃密な刺激に満ちた読書体験を堪能したあとでは、あれこれ「書評」めいた繰り言
を弄するのはいやになる。以下、心にとどめておき反芻したい事柄をいくつか、ほ
んのさわりの部分をメモしておこう。

 中世神学は「神の科学」であった。──《したがって、神学者の示す「神の存在
証明」は、決して個人の信仰心に訴えるものではなく、むしろまったくその反対に、
客観的科学であろうとしたものである。(中略)近代科学を、教会からの離反とし
てのみ見る人には、教会を支えた神学が、実は科学性を追及したものであり、それ
が近代科学を生み出したという側面を見落としてしまうだろう。》(61-62頁)

 中世神学において、神の三位性(父と子と聖霊)に照応する人間精神の三つのは
たらきは、記憶、理知(知識)、意志(愛)である。──以下、「記憶」をめぐる
ヨハネスとベルクソンの所説の類似へと及ぶ叙述(135-145頁)は刺激的。

 ヨハネスの自由意志説は、現実の世界を可能性(本質的偶然存在)として理解す
る。このような世界こそ、近代科学を成立させてきた世界だった。──《ヨハネス
のこの主張は、直接的には意志の自由の根拠を明らかにするためであったが、偶然
的存在一般の性格として理解されていくことで、可能性についての新しい理解を生
み出すものだった。つまり可能性は現実によって排除されるのではなくて、可能性
は、現実とは別であって、それはそれとして存在する、という観念である。言い換
えると、ヨハネスによって、可能的世界と現実世界が共存する世界理解が認められ
るようになったのである。》(192頁)

《ヨハネスにとって、この世界は神の創造物である。言い換えると神の意志によっ
てはじめて在ることができる存在である。神がいないと考えれば、この世界は明日
には無いだろう。この根源的な偶然性は、この世界の本質的な側面である。それは、
ヨハネスの神学において、意志の自由性が、世界の必然性と同じように、原理的と
見られることと連動している。ヨハネスの神学においては、根源的な偶然性と、も
のの間に生じる必然性は、このように決して矛盾することはない。それは当然のよ
うに両立している。現代の量子力学の戸惑いは、ヨハネスの神学にはないのである。
》(209頁)

 ヨハネスは時間の空間的理解を否定し、神がこの世界に現実に関わる場面を「こ
の今」すなわち「永遠性の瞬間 instans aeternitatis」だと考えた。──《「瞬間」
instans とは、ラテン語では「とどまらない」を意味する。まさにここに、ヨハネス
における空間思考の「破れ」の証拠がある。なぜなら、「永遠」とは元来、ある状態
に「とどまる」stans ことを意味したからである。したがって、ヨハネスが言ってい
る「永遠の瞬間」とは、「永遠なる神に属する瞬間」のことであり、それは神に、「
とどまらないもの」が属することを、何と意味している。これはまったく驚くべきこ
とである。(以下、略)》(221頁〜)

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