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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.26 (2000/12/20)
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 □ 養老孟司『毒にも薬にもなる話』
 □ 中村雄二郎『精神のフーガ』
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毎年、この頃になると気持ちがそわそわし始めて、やがて「不連続な棚卸」と名づ
けている恒例の作業に精を出すことになります。その年に「自腹を切った」本で、
訳あって最後まで読み終えていなかったもののうち、読まずに年を越せるか! と
思う本を手当たり次第、まるで冬眠前の熊のごとくに読み散らかしては、いつか、
牛が反芻するように玩味できる時の来るまで、とにかく脳髄の、いずこかは知らね
どしかるべき場所に蓄えておくという、ずいぶん過酷な作業です。

その時の自分の自然な関心に逆らって、ひたすら義務的に山羊のように書物を「食
らう」わけですから、ただでさえ胃が、いや頭がぐしゃぐしゃの消化不良状態にな
る上に、そういう時に限って、本屋の新刊コーナーに魅力的な書物が次々と並ぶも
のですから、これはもう苦行そのもの。(いまも頭痛に悩まされながら書いていま
す。)あまり意味のあることとも思えないのですが、習い性になった年末行事なの
で、これだけは納得いくまで(消耗しきるまで)やらないと気がすまない。
 

●55●養老孟司『毒にも薬にもなる話』(中公文庫:2000.11/1997.10)

 私は毎月『中央公論』を、それも養老孟司氏と米本昌平氏のエッセイだけを欠か
さず読んでいる。今年の3月号に掲載された「オウム事件と日本思想史」で、養老
氏は「わが国の専門家たちは、方法論が専門を規定するのではなく、対象が専門を
規定すると信じているに違いない」と苦々しい口調で述べていた。《ヒトの死体を
分析すれば解剖学だが、解剖学の方法で別な対象を分析すれば、それは解剖学では
ないと思うらしいのである。それは学問分野の切り取り方の「形式」であって、学
問という「機能」の反映ではない。だから日本の学問はしばしば機能的ではない。
つまり、「役に立たない」のである。》

 たとえば考古学者が考古学の方法論を用いて、すなわち資料の分析を通じてオウ
ム事件を論じることは「学問の機能」なのであって、「素人がブツブツいう、文句
とはまったく違う」。これと同様に、解剖学者が「与えられた形つまり形式をどう
解釈するかという解剖学の方法論」を使って、解剖学という科学の対象以外の事象
を論じたとすれば、それこそが学問の機能なのであって、「先生は博学ですナ」な
どと揶揄する輩には、このことがまったく解っていないのである。──怒れる養老
孟司の面目躍如。

 『毒にも薬にもなる話』には、1993年から1997年にかけて『中央公論』に掲載さ
れた文章(社会時評)と、1991年から1993年に『アステイオン』に発表された文章
(臨床諸学に関する論考)が収められている。「臨床時間学」に始まって「臨床歴
史学」に「臨床経済学」、「臨床哲学」から「臨床生物学的歴史学」、はては「臨
床中国学」やら「臨床歴史学的実在学」を経て「臨床政治学」で終わる後者の文章
群が抜群に面白い。《「人間の考えることは、いずれにせよ脳の機能である」。そ
ういう観点から諸学を見れば、学問はどう見えるのか。この作業を一般化して、臨
床学と呼ぼう。》

 そういう観点から社会の出来事を見れば、それはどう見えるのか。その作業を一
般化して、臨床社会時評と呼ぶことができるのではないか。何か事あれば「解剖学
者の養老孟司さんに聞いてみよう」、そうすれば必ず「ああ、やっぱり」と思う答
えが返ってくるだろう。このリフレイン(リトルネロ)あるいは「養老節」がたま
らない。ああ、やっぱりと思わせるのはそこに一貫した「方法」があるからで、そ
れは実は大変なことなのだと思う。

 付記。いま図書館から借りてきた養老孟司著『カミとヒトの解剖学』(法藏館:
1992.4)をぱらぱらと眺めている。著者紹介の文章が面白いので引用しておく。(
この本には、『仏教』に1988年から1991年にかけて連載された文章が収められてい
て、そこに「臨床宗教学」や「臨床仏教学」という言葉が出てくる。また睡眠時間
が奪われそうだ。)

《心身二元論的な人間観や、文科・理科をはじめとする細分化された「専門」の袋
小路を、すべては脳において一元化されるとする「唯脳論」によって一挙に覆し、
同時にその営みが優れた文学作品たりうるという、まったくオリジナルなジャンル
を創造する。「臨床宗教」ともいうべき本書のほかに、併行して「臨床哲学」を雑
誌に連載、また現在「臨床文学」を準備中。》

 「臨床哲学」はそのものずばりのタイトルで刊行されているし、「臨床文学」と
は『身体の文学史』のことだろう。どちらもとても面白い本だった。(養老孟司の
文章は確かに面白い。面白いが、一気にたくさん読んではいけない。この人の文章
には飛躍がある。論理や発想の飛躍ではない。短いセンテンスとセンテンスの間に
一呼吸おかれた文章とでもいえばいいか。むしろ「間」というべきかもしれない。
だから「間合い」を図りながら「気合い」を入れて読まなければならない。一時に
たくさん読むと消耗する。というか、斬られる。)

●56●中村雄二郎『精神のフーガ 音楽の相のもとに』(小学館:2000.6)

 一頃、熱心に読んでいた。たしか『臨床の知とは何か』(岩波新書:1992.1)あ
たりまでは結構刺激を受けていたのだけれど、そのうちあきたらなくなって、この
著者の本にはほとんど食指が動かなくなっていた。(結局のところ「カタログ本」
じゃないかと、不遜にもそう思うようになってしまったのだ。この気持ちは、大森
荘蔵、永井均といった紛れもない「哲学」者の文章に惹かれていくのと、ちょうど
正比例の関係をもって、私のなかで確固たるものとなっていった。)

 それでも『精神のフーガ』だけは、なぜか出版された時から読んでみたいと思っ
ていた。それが一体なぜなのか、とうとう我慢しきれずに読んでみて、得心がいっ
た。この本もやはり「カタログ本」の一種ではあったのだが、ここまでくるとそれ
はもう名人芸というべきだ。

 収められた十五の文章を、著者はそれぞれ三箇月に一度というペースで調べ物を
しながら書き継いでいったのだそうだが(1995年から1999年にかけて刊行された小
学館版『バッハ全集』全十五巻に連載)、そこに流れていた時間と脈打っていたは
ずの律動に身を添わせ、丹念に少しずつ行間を埋めながら読み進めていくうち、た
とえはまずいけれど、発酵しきった漬け物、それでいながら素材の新鮮さが失われ
ていない漬け物が、読み手の脳髄のなかで読み手の懐の深さと大きさに応じて熟成
していくとでもいえばいいのか、とにかくとても濃密な読書体験を味わった。

 本書の最終章で、著者は「音楽と哲学と数学の一致」という観点からバッハと重
ね合わせてライプニッツの哲学世界を扱っている。一致するかどうかは別にして、
私はこれまで「神学と哲学と数学」の三学(無限をめぐる三学?)に関心を寄せて
きた。それらの根底に生命感覚とでもいうべきものがあるのではないか(そして、
それらを突き抜けたところで情報の概念を精錬することができるのではないか)な
どと考えてきた。ここに音楽という(古代的というより原始的でしかも未来的な)
第四の学を導入し、たとえば神学と音楽、あるいは神学から流出した(と断言して
しまおう)自然(科)学と音楽の関係等々を、著者がいう「哲学リズム説」(究極
の実在をリズムのうちに見る考え)に照らして思索をめぐらせてみることで、なに
か途方もない世界が開けていくのではないだろうか。

 付記。今村仁司氏が『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』で、「デモクリトス
からヘラクレイトスを経てプラトンにいたる Rhuthomos 論は、思考の本質をめぐる
論戦の歴史である。これはきわめて大切な論点であるが、ここでは示唆するにとど
める。」(33頁)と書いていて、おいおいそんなところで仄めかしは止めてくれよ
と欲求不満を募らせていたのだが、『精神のフーガ』の、たとえばアウグスティヌ
スを扱った文章(「魂のリズム論」)やドゥルーズ&ガタリの「リトルネロ」の概
念を取り上げた文章(「さえずる機械」)などを読んで、いや本書全体から立ち上
がってくる香気にくるまれているうち、何かが氷解していくのを感じた。(バッハ
の『フーガの技法』を聴きながら。)

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