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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.25 (2000/12/12)
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 □ 古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』
 □ 藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』
 □ クリスチャン・デカン『フランス現代哲学の最前線』
 □ 田中久文『日本の「哲学」を読み解く』
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哲学って、結局、言葉でしょ。──それはそうなんだけれど、確かに「ロゴス」に
しても「無」にしても、それは結局、抽象的な概念をあらわす言葉でしかないのだ
けれど、でもそこには無限といってもいいくらいの具体的な経験と悲哀と思考と出
来事が折りたたまれていて、そうした概念のポリフォニーや倍音を聴きとる「器官」
をはたらかせなければ、「哲学って、結局、言葉でしょ」というのもまた言葉でし
かないでしょ。

《形而上学の言語は多様な意味に縁取られている。》(クリスチャン・デカン『フ
ランス現代哲学の最前線』167頁)

《考えてみれば、どのような抽象語も、もとはといえば普通の日常語から出てきた
ものである。日常語は原則的に事象から人間の言語への「置き換え」であるから、
どこまでも「喩え」またはメタファーの痕跡を消し去ることは不可能である。概念
的な用語は抽象的であっても、どこかに喩えと比喩の性質をひきずっている。この
事態をなげかわしいこととみなすのではなくて、逆にそれを可能なかぎり引き伸ば
すこと、これをこそベンヤミンはめざしていたと思われる。》(今村仁司『ベンヤ
ミン「歴史哲学テーゼ」精読』49-50頁)

《ラテン語のペルソナ[仮面]には、徹頭徹尾社会のうちなる個人というニュアン
スがあり、役割、人に与える影響、印象、尊厳といった含意がある。ヒュポスタシ
ス[沈殿、基礎]には、元来そうした意味合いはまったくない。そのかわり、ヒュ
ポスタシスにはまた、ペルソナにはまったくなかった宇宙的視野と連関がある。ヒ
ュポスタシスは自然学的・形而上学的な存在論のことばであり、ペルソナは劇場と
法律と日常生活のことばである。この両者が等置されて、一つの同じ対象を指すと
されるとき、その対象には複雑な交響が生じ、多様な倍音が生じる。キリスト教思
想の中核となったペルソナ=ヒュポスタシスは、このようにしてきわめて豊かな概
念となった。>》(坂口ふみ『〈個〉の誕生』138頁)
 

●51●古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』(講談社選書メチエ:1998.4)

 こういう本が読みたかった。以前、中沢新一氏が文庫版「南方熊楠コレクション」
全五巻の解説で、熊楠の思想は構造主義やポスト構造主義を先取りしている、とい
った論調で全巻通していた(これらの文章はたしか『森のバロック』に収められて
いる)のを読んだ記憶があって、それはそれでとても面白かったのだけれど、しか
しちょっと「ずるい」し、だからどうなの?と思ったことがある。これに対して古
東氏は意表を衝く「変化球」(たとえばプラトン哲学を身体論として読む)を織り
交ぜながら、文字通り「ギリシア哲学」の「現代(思想)性」(アクチュアリティ
)を、いや「別のはじまりとしての」あるいは「来るべき哲学」としてのギリシア
哲学を説得力ある叙述で描ききっている。無尽蔵といってもいい刺激に満ちた第一
級の「啓蒙の書」だ。

《「過去のなかに未来をみる」というベンヤミン的歴史哲学が、おもいあわされる。
起源への回帰であるような未来、あるサイクルを完了する未来、というのであろう
か。また、「ギリシア哲学をギリシア人より以上に理解すること」をつうじ、「別
のはじまり」を模索し、きたるべき新しい「別の思索」を待望したハイデガーのこ
とも、念頭にうかぶ。……哲学はいま、「第二[旋回目]のはじまり」をむかえた。
「第一のはじまり」、つまりギリシア哲学を、あらためて学びなおさなければなら
ない。……くりかえす。ぼくらはいま一度、ギリシアを生き直している。ギリシア
哲学は現代の思想である。》(17-18頁)

●52●藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』(岩波新書:1980.7)

 著者によると、自然科学的思考の原型──「世界の基礎的なあり方は知覚とは独
立別個のものであり、また価値(善い、悪い)とも無関係であるという、単純だけ
れども強力なひとつの考え方」(78頁)──が成立したのは、デモクリトスの原子
論とアリストテレスの実体−属性のカテゴリーの区別が出そろったときである。

 世界や自然をめぐるこのような自然科学的思考とは別の哲学的世界観の原型を求
めて、著者はプラトンの「プシューケー」(ハイゼンベルクはヘラクレイトスの「
火」を「エネルギー」で置きかえたが、著者はむしろ「プシューケー」のほうがふ
さわしいという)や「コーラ」、アリストテレスの「エネルゲイア」(ソーマの「
運動の論理」であるキーネーシスとの対比において、つまりプシューケーの活動と
しての)にその可能性を見出している。

 本書で面白かったのは「物の尊厳性」をめぐる著者の「弁明」だ。(それと同時
に、デモクリトスの原子論の取り上げ方に不満が残った。『現代思想としてのギリ
シア哲学』を読んでますますストア派に関心が高まり、本書を読んでなお一層「原
子論」に惹かれている。)

《要するに、解体しなければならないのは、虚構としての「物」であり、尊厳性を
確保しなければならないのは、天然自然の物とでも申しますか、つまり真の個体と
しての物であります。後者すなわち真の個物とは、さまざまな性質なり属性なりの
たんなる──つまり、何の根拠も必然性もない──集合とはけっして等価であると
は思われない。アリストテレス自身が実体というときに意図していたのは、こちら
のほうだったでしょう。》(110-111頁)

●53●クリスチャン・デカン『フランス現代哲学の最前線』
                  (廣瀬浩司訳,講談社現代新書:1995.7)

 フランス哲学とは実は「多様性の総体」なのであって、哲学と人類学と文学がし
ばしば混じりあっていることがフランスの豊かさなのだ。──このような「序」の
規定を受け、以下、十章にわたって、歴史学・人類学・地理学、美学、社会学・法
学、科学、等々との交通、ギリシャ哲学やアングロ・サクソンの思想やドイツ哲学
との関係をまじえながら、綺羅星のごとき固有名をちりばめた渦巻星雲を、たとえ
ばドゥルーズやデリダのほぼ全業績をそれぞれ二十頁弱で要約しきるといった猛ス
ピードで叙述している。一読後、軽い眩暈に襲われた。

●54●田中久文『日本の「哲学」を読み解く』(ちくま新書:2000.11)

 著者によると、西田幾多郎は「常に最も直接的で具体的な立場」から出発して「
絶対無」の哲学を打ち立てたのだが、この「無」は西田自身が否定した独断的な形
而上学的原理として実体化されてしまう危険性を絶えずもっていた。そこで西田は
「無」を「具体的な現実における人間と世界との動的な関係を成り立たせる働き」
として捉え直そうと悪戦苦闘を重ねた。和辻哲郎の「空」、九鬼周造の「偶然性」、
三木清の「虚無」はいずれも西田哲学が抱えていたこの問題を乗り越えようとした
もう一つの「無」の哲学にほかならない。

 ところで西田の「無」は一方で「人生の悲哀」のただなかにいる人間に深い慰め
をもたらす「生きた力」でもあった。《私の「無」というのは各人の自由を認めい
かなる罪人をも包む親鸞の如き暖かい心でなければならぬ。》(和辻哲郎宛書簡)
しかし、たとえば西田の「無」の形而上学性・宗教性を最も徹底して克服しようと
した三木の「虚無」の哲学をみると、そこからもたらされるのは「異様な」孤独感
でしかなく、西田がもっていた「エスプリ・ザニオモ(動物精気)」(三木清「西
田先生のことども」)のごとき生命力すなわち「生きた力」は見失われている。

 著者は、三木の抱いていた「虚無」感こそ現代のわれわれが深く共有しているも
のなのではないかという。そして西田と三木の中間に位置する和辻や九鬼の哲学の
営みは、三木の「虚無」と同じような地点から出発しながら、それを「生きた力」
をもった「無」としてとらえ直していこうとするプロセスではなかったかというの
である。

 和辻の「空」の哲学の根柢には「個人性」と「全体性」との渋滞なき「否定の運
動」による「不断の創造」というダイナミズムがあったし、九鬼の「偶然性」の哲
学もまた間断なき「二元論」を生み出す「無」の働きに根ざしたものだった。しか
しこれらの「可能性」が充分に発揮されることはついになく、和辻、九鬼自身が最
終的に持ちだした「絶対空」や「絶対者」という独断的な形而上学原理によって封
印されてしまったのである。

 本書が試みているのは、一九三○年代の社会的・思想的状況のなかで「窮余の一
策」として生まれた「無」の哲学がもっていた「大いなる可能性」の救済の方向を
見極めることだ。著者によるとそれは「独断的な形而上学的原理」を前提とせずに
「無」や「空」や「偶然性」の哲学を成り立たせることだという。(私自身は、和
辻や九鬼と文学のかかわり、三木の歴史哲学に可能性の種子を見出せはしまいかと
思ったし、何より西田がもっていたという「デモーニッシュなもの」に関心がある。
あるいは、哲学と体質の関係。)

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