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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.23 (2000/12/3)
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 □ 氷上英廣『ニーチェの顔』
 □ 今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』
 □ 小田亮『レヴィ=ストロース入門』
 □ ジル・ドゥルーズ『原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ』
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このところ本業(といっても、まったくもって本業意識の欠けた雑事)に時間をと
られて、あまり集中的に本が読めませんでした。そういう時にかぎって、後先考え
ず手にとって読みかじった書物たちが、内面的、といってもいい繋がりを見せてく
れるものだから、あ、これはあの本のあの箇所やその本のその箇所と、これこれこ
ういう筋道で関係づけられるのではないかといった「アイデアの種」のようなもの
が、もしかしたら勘違いかもしれないものの、やたらたくさん見えてきて、もう少
し時間があればじっくり確認できるのに、と欲求不満が堆積する。

ところが、いよいよ待望の休日を迎えると、気力、体力、脳力のいずれも最低の状
態で、せっかく暖めてきたアイデアの数々(!)が、もうどうでもよくなってしま
うのです。──いま思い出せる範囲で大雑把に、今回取り上げた書物間の繋がりの
いくつかをメモしておくと、まずベンヤミンとドゥルーズはニーチェとライプニッ
ツとストア派を介して、またレヴィ=ストロースとベンヤミンはゲーテやマルクス
やフロイトや「変換」の概念等々を介して関係づけられます。(このあたりのこと
は今村仁司著『ベンヤミンの〈問い〉』でも論じられていた。)

あるいは、小田亮氏は『レヴィ=ストロース入門』で、「レヴィ=ストロースがブ
リコラージュの比喩によって示した、断片の思考ともいうべき野生の思考」につい
て、レヴィ=ストロース自身がその現代における例としてシュールレアリズムを挙
げたことを紹介したあとで、次のように書いています。《そして、ベンヤミンの「
モザイク」からドゥルーズの「横断性」まで、現代芸術に発想源を求めている現代
思想のなかに、レヴィ=ストロースのブリコラージュの発想と類似する「断片の思
想」をみつけるのはそれほど難しくない。》(146頁)

その他、もっとたくさん「種」はあったはずだし、そのいくつかが私の脳髄のどこ
かにわだかまっているのをうっすらと感じはするですが、それらを鮮明なかたちで
引き出す作業に費やす根気が底をついてしまったので、このあたりで止めて、他日
を期すことにします。(こうやってまた「他日」が堆積する。)
 

●43●氷上英廣『ニーチェの顔』(岩波新書:1976.1)

 達意の文章で綴られた、ニーチェをめぐる九つのエッセイ集。軽やかな叙述と深
い陰翳に彩られた、これは忘れがたい書物だ。──たとえば「いろいろな孤独のす
がたがある」という書き出しで始まる「犀・孤独・ニーチェ」では、ニーチェが仏
典スッタ・ニパータの復唱句から採って座右の銘とした「われはさまよう、ただひ
とり犀のごとくに」が紹介されている。

《これはニーチェの言った言葉、というよりむしろニーチェの愛した言葉であった。
犀というあの異形の、重厚だが、時には獰猛な突進ぶりを見せるといわれ、前史的
な遺物のごとく、古風といえば古風、ユーモラスといえばどこか悲しくユーモラス
な東洋的動物が、孤独で不屈な思想家ニーチェの姿と重なって忘れることができな
い。》

●44●今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫:2000.11)

 人間の存在について、あるいは人間存在の時間的構造について、別の考え方を提
出すること。──「歴史の概念について」第九テーゼの「歴史の天使」をめぐる解
釈の中で示された今村氏のこの指摘が、ベンヤミンの仕事の本質を衝いている。

 本書で著者は「仮説的解釈」をまじえながらベンヤミンの「難解なテクスト」へ
の接近を試みたという。それはたとえば小林秀雄の中断されたドストエフスキイ論
やベルクソン論に見られる「祖述」(『文学のプログラム』での山城むつみ氏の言
葉でいえば「原作を反復的に創作する」こと、もしくは「創作」=「批評」)とは
まったく異なる態度なのだが、今村氏のベンヤミン読解には圧倒的な透明感がある。
別の言葉でいえばそれはそう解するしかないのではないかと思わせる説得力があっ
て、これはある意味でとても危険な書物だと思う。

 本書から汲みとることができる豊穣な含意から、ここでは一つの切り口を素描し
ておこう。──今村氏によると、ベンヤミン独自の「歴史的唯物論」の要点はプラ
トンのイデア論をライプニッツのモナドロジーとつなぐところにあるという。ここ
に出てくるモナドとは「集団的想像力の歴史的構成力」の産物たる「像」または「
形象」あるいは「出来事」(レヴィ=ストロースが『野生の思考』で「純粋歴史」
と呼んだもの)のことである。そしてベンヤミンの歴史哲学(「イデオ=モナドロ
ジー」としての、いいかえると「神学的=唯物論」による概念的把握としての歴史
哲学)とはメシア的役割を果たすもの、つまり「過去の救済の哲学」である。

《かりに歴史の完成すなわち終わりに達したとしよう。そのとき、人類が経験して
きたすべてのこと、すべての事件・生活・経験は何ひとつ失われない。すべてが救
済され、すべてが意味をもつ(あるいは「与えられる」)。ベンヤミンの言い回し
でいうなら、すべてが「引用される」のである。(中略)この意味で、ベンヤミン
はオリゲネスのアポカータスターシスという言葉を借用する。オリゲネス神学にお
けるこの用語の意味は、森羅万象(特殊には万人)は善悪の差別なしに神の国に回
帰することである。この文章[「歴史の概念について」第三テーゼ]を書いたとき、
ベンヤミンがストア派の倫理学を想起したかどうか明らかでないが、ストアの倫理
のなかにも、歴史の回帰がある。(以下、略)》(102-104頁)

《人間たちの一歩一歩の歩みごとに、生きるそのつどに、廃墟が産出される。(中
略)この廃墟のなかで歴史の天使または歴史哲学者は、破壊された断片を「寄せ集
める」(これをギリシア語におきかえると、レゲイン/ロゴスになることに注意す
べきである)、あるいは「断片を組み立てる」(構成であり構築であるが、これは
概念的思考である)などのふるまいをする。そうすることで、過去の「ありえたか
もしれない可能な生」、「可能態にある生」を現実的なものに変えるのである。あ
りえたかもしれない可能性とは、それがまだ生命を失っていないことを意味するの
であって、実現を期待する可能態である。これを現在のなかへと取り戻し、呼び戻
し、甦らせるのが、歴史の天使の仕事である(論理の仕組みからいえば、ここでは
プラトンのイデア論ではなくて、アリストテレスの可能態/現実態に近い)。》(
123-124頁)

 こうして、今村氏自身が「かつていちども思想の歴史のなかに登場したことはな
い…ベンヤミンのすぐれた思想的遺産」のアポカータスターシス、あるいはその概
念的把握を試みているのである。(「救済」=「批評」?)

 補遺。古東哲明氏は『現代思想としてのギリシア思想』で、ニーチェの「永劫回
帰思想は、万物世界は同じように繰り返すという「アポカタスタシス思想」の焼直
しだ」(195頁)と書いている。また『ニーチェの顔』に引用された『漂泊者とそ
の影』からのアフォリズムで、ニーチェは次のように書いている。《永遠のエピク
ロス。──エピクロスはあらゆる時代に生きていた。いまも生きている。》

 あるいは「歴史の天使の仕事」と「夢の仕事」(フロイト)、「神話の仕事」(
レヴィ=ストロース)との対比。──《…レヴィ=ストロースは、フロイトが『夢
判断』のなかで、夢の顕在的内容と潜在的な夢思想とを区別しながらも、夢の本質
は、その潜在的内容にあるのではなく、変形を行う夢の作業にあると述べていたよ
うに、無意識の本質を変換の構造的規則に求めている。その無意識の変換の規則は、
神話や夢の作業といったブリコラージュの作業がブリコラージュによって明らかに
なるのと同様、自己を空虚な無意識とすることによって可能となるのである。》(
小田亮『レヴィ=ストロース入門』234頁)

●45●小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書:2000.10)

 かつて『悲しき熱帯』と『野生の思考』を読んだときの濃密な読後感が甦ってき
た。レヴィ=ストロースはいまだ汲み尽くされてはいない。本書を読み終えて、あ
らためてそう思う。

 たとえば「身体的な相互性を含む〈顔〉のみえる関係における多元的なコミュニ
ケーション」によって結ばれる「真正な社会」と「法や貨幣やメディアに媒介され
た間接的で一元的なコミュニケーション」によって結ばれる「非真正な社会」の二
つの社会の存在様式の区別は、そのあり得る誤解(「真正な社会」を「純粋な民族
文化や真正な不変の伝統をもつ無垢で非暴力な共同体」ととらえる)を本書によっ
て充分解いた上であれば──つまり「真正な社会」の様態を「はじめて出会う人と
のあいだの関係を〈顔〉のある関係として結ぶことであり、これからも出会うこと
のない人たちや死者との関係も〈顔〉のある関係として想像することを意味してい
る」(230頁)ものとしてとらえ、そして「出来事の独自性[ベンヤミンが「アウ
ラ」と呼んだもの]ないし〈顔〉を語る歴史[純粋歴史]のみをもち、出来事とし
ての歴史を「記憶」として構造に吸収するような、野生の思考」(220-221頁)が
はたらく社会であるととらえるならば──社会と歴史の変革と認識をめぐる(ベン
ヤミン的な?)想像力への接続が果たせるし、とはすなわちとてつもない可能性に
満ちた未知の思想への接続が果たせるのではないか。

 その他、記録しておきたい事柄は数多くあるが、ここでは一つだけ。──第1章
「人類学者になること」で引用されている「私が哲学をやめて民族学に志したのは、
明らかに、人間というものを理解するためには内省に閉じ篭ってばかりいてはだめ
だと、たった一つの社会…だけを考察するのでは不十分であると…いうことが理由
になっていたことは間違いありません」(『遠近の回想』)と、最終章「歴史に抗
する社会」に出てくる「私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンテ
ィティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のよ
うに私自身には思えます…」(『神話と意味』)のレヴィ=ストロースの二つの言
葉がとても印象に残った。

●46●ジル・ドゥルーズ『原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ』
              (原田佳彦・丹生谷貴志訳,哲学書房:1986.11)

 本書に掲載された二つの文章──「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」(丹
生谷訳)、「ルクレティウスと模像」(原田訳)──はいずれも『意味の論理学』
の「付論」に収録されている。

 そういえば『意味…』は途中までしか読んでいなかった。『千のプラトー』『襞』
『スピノザと表現の問題』『ニーチェと哲学』等々と、ドゥルーズの本はその多く
が読みかけのままになっていて、とにかく最後まで読み終えたのは『アンチ・オイ
ディプス』くらいだ。何が書いてあるか分からなくなって断念したわけではなくて、
もしかしてこういうことが書かれているのではないかと、勘違いかもしれないけれ
ど突然ドゥルーズが提示している「概念」の「使い方」が見えたとたん、頭が活性
化(妄想化?)してしまって、丹念に活字を追うパトス的愉楽(?)から身を引き
剥がされてしまうのだ。

 たとえば、ドゥルーズ/ガタリの「器官なき身体」とはプラトンの魂=プシュー
ケーのことなのではないか、などとふとひらめいた途端、私の想像力が書物を離れ
て飛翔してしまうといったことの繰り返し。(なお、ここで例として挙げた「器官
なき身体=プシューケー説」は古東哲明氏によるもので、私自身の「オリジナル」
なアイデアはこれとは違うもの、たとえば「器官なき身体=ES細胞説」のような
より「唯物論」的なものだったのではなかったかと記憶しているが、随分と昔のこ
となのではっきりと覚えていない。)

 本書の二論文はいずれも短いものなので、想像力が飛翔する寸前で読み終えてい
た。第一の論文では「他者なき世界」の三つの意味をめぐる議論、第二の論文では
アトムの結合体に由来する「流出」「摸像(シュミラークル)」「幻像(ファンタ
スム)」の三種の二次的な結合体をめぐる議論が刺激的だったのだが、読み終えて
しばらく時間が経ってしまったのではっきりと覚えていない。(いずれにしても、
ドゥルーズの書物は一生読みつづけることになるだろう。)

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