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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.21 (2000/11/15)
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 □ 神崎繁『プラトンと反遠近法』
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西洋哲学の古典を読む、プラトン編(そのニ)。私のプラトンへの関心は、シモー
ヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』(冨原眞弓訳,みすず書房)に端を発しています。
(そこでは、ギリシアにおける唯一の近代的な意味での「哲学者」であるアリスト
テレスと対比させて、ギリシア的霊性・神秘的伝統を引き継いだ一人の神秘家とし
てのプラトンが描かれ、またプラトンの「国家」は「魂を表象する純然たる象徴、
虚構」であると指摘されていました。)

その後、プラトンについて書かれた書物をいくつか渉猟し、エリック・A・ハヴロ
ックの『プラトン序説』(村岡晋一訳,新書館)で決定的になりました。(そこで
は、対話法は「意識を[ホメロス的な]夢の言語から目覚めさせ、抽象的な思考へ
と意識を鼓舞するための武器」であり、イデアとは「イメージ」に対置される「概
念」にほかならず、したがってプラトンの思想は「イメージ的な言説に替えて概念
的な言説を採用しようという呼びかけ」、すなわちホメロス的なイメージ思考から
概念的思考へ、叙事詩的言語から形式的・抽象的言語への革命であったと書かれて
いました。)

その『序説』と同じ出版社から出た『プラトンと反遠近法』は、刊行直後に購入し、
気にしながら今日まで未読だったものです。アリストテレスの『心とは何か』と並
行して『パイドン』を読んでいるうち、かつてのプラトンへの「思い」が徐々に復
活してきて、それに加えて、雑誌『談』のインタビュー記事でエディターが、今回
の視覚についての特集は『プラトンと反遠近法』がきっかけだったと述べているの
を読んで、我慢できなくなり、大急ぎで読んだしだいです。(ちなみに、『エネル
ゲイア』の桑子敏雄氏と神崎繁氏は、大学院以来の学友だったようです。それぞれ
の著書のあとがきにそれぞれの名が出てきました。)
 

●39●神崎繁『プラトンと反遠近法』(新書館:1999.2)

 序章「遠近法の神話」で粗描される系譜が実に面白い。私の関心に引き寄せて固
有名を列記すると、まず、遠近法成立以前からの遠近法批判者にして古代エジプト
風没遠近法的絵画の愛好者、そしてイデア論という無視点的世界描写を目指し、対
話法というある意味で遠近法的な表現形式を採ったプラトン。

 次いで、モナド論において、無視点的というよりあらゆる視点というべき神の絶
対的な視点とさまざまな生命体における個別的視点とを対比させ、「一方では、万
人に共通な理性による客観的世界の理解という啓蒙主義的普遍主義を満足させなが
ら、他方では、個々人やその独自の発達段階に応じた世界の見方の個別性を強調す
るロマン主義をも許容しうる」きわめて有用な認識論的比喩として遠近法を使用す
る嚆矢となったライプニッツ。(この記述に接して、いつか読もうと思いつづけて
きたドゥルーズの『襞』をいよいよひもとくことにした。)

 そのような「バロック的(あるいはアレクサンドレイア的)共存」の不徹底さを
破壊し、光の遠近法からいわば力の遠近法へと転調させた反遠近法主義者ニーチェ。
そして、ニーチェの圧倒的な影響にもかかわらず、遠近法をニーチェ的な相対主義
の陥穽から免れる歯止めとして導入しようとした、パノフスキーやゴンブリッジ、
オルテガやベンヤミン(ウィトゲンシュタインも?)などの「ハプスブルク体制の
崩壊を経験した世代」。さらに、マクダウェルやクリプキ、ギブソンの「自己と環
境との共知覚や知覚と行為の相互作用といった一連の着想」への言及。

 以下、第一章「ミーメーシス」、第二章「測定術」へと、汲み尽くせぬ世界の広
がりと射程の深さを湛えた華麗かつ豊穣な叙述が続く。そのすべてを読み解き得た
とは到底思えないし、実をいうと第一章から第二章にかけてそこでいったい何が論
じられているのかといった方向感覚を失っていたのだが(『エネルゲイア』でもそ
うだったけれど、読者に要求される学識の水準が相当高い)、第三章「ミーメーシ
スからファンタシアーへ」と終章「隠喩としての遠近法」で再び(私の)視界が開
けてきた。

 ヘレニズム期アレクサンドレイア(ロレンス・ダレルがいう「五つをこえる性」
を内包する都市)のオリゲネスやプロティノスから、シェイクスピアを経由してラ
イプニッツへと到る「世界劇場」の比喩をめぐる系譜、そしてプルースト(おそら
くはベルクソンも)へと到る「時間の遠近法」をめぐる系譜、さらにはパスカルの
『円錐曲線試論』への言及。《われわれが懐疑論者やプロティノス、そしてまたプ
ルーストに到るまでの系譜を辿ってきた理由は、…人間はどうして世界を常に何か
を通して、見ようとするのかということである。実物を見ているのに、しかし、こ
れも「何かを通して」だと考えるのは何故かということである。》(第三章3「も
う一つの世界劇場論」)

 これら著者積年の蓄積と構想のすべてを吐き出した万華鏡のような叙述に接して、
私は、かの高山宏氏の著書を想起していた。これはまぎれもなく「超」哲学史の書
物だ、と。第三章の冒頭で著者は、文献学者時代の若きニーチェの草稿を紹介する
に際して「誰しもこの年齢には、一つや二つの書かれざる幻の名著を持っているも
のだ」と書いている。ニーチェにとっての「幻の名著」とは「デモクリトスを起点
として、古代哲学史そのものを読み替えようという、哲学的野心」だったというの
だが、実は『プラトンと反遠近法』とは著者自身の「幻の名著」(しかも複数の)
だったのではないか。

 再読、三読、熟読玩味されるべき書物だ。著者愛用の「既読感(デジャ・リュ)」
に似たものにつきまとわれながら、私は本書を読み終えた。いや、この世には読み
終えることなどできない書物がある。窓を穿つべきモナドたち、多世界へと向かう
接線群に満ちた豊穣な書物。──『談』(NO.64)に掲載されたインタビューで、
著者は次のように述べている。(次作の刊行が待たれる。)

《われわれがものを見るときには、むしろアリストテレスの共通感覚のように、じ
つは触覚でも聴覚でも視覚でも共通して捉えられるもの、たとえば、ものの動きや
形の変化などをベースにしているんじゃないでしょうか。(略)ヨーロッパ思想の
視覚優位の伝統をつくったのは、結果的にはプラトンであり、それで視覚中心主義
だと断罪されるわけです。しかしプラトンから言わせれば、自分は視覚に囚われて
いるものを解放しようとしたんだと言うでしょう。(略)今の西洋思想に起こって
いる問題の元凶はプラトンだと、そう言ってしまえば簡単ですが、それは非常に複
雑なプロセスでできたものです。それを私は遠近法を例に探ってみたわけです。次
は少し視覚からは解放されたいので、感情論をやりたいと思っています。視覚優位
ではなく、触覚とか体感とか、人間がもっているもっとベーシックな生命感覚をた
どり直してみたい。》

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