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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.2 (2000/9/27)
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昭和後期から平成にかけての日本文学が、二人の村上をもちえたことはとても幸福
な出来事だった。――ずいぶんとエラそうな物言いですが、少なくとも私の場合は
そうだったしそうであり続けているということです。龍さんの作品では迷うことな
く『テニスボーイの憂鬱』が私のベスト。ハルキさんの作品では、いろいろ迷った
すえ、やっぱり『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』か『ねじまき鳥
クロニクル』三部作かなあ。(福田和也さんも『作家の値打ち』で「世界文学の水
準で読み得る作品」、百点満点でいえば90点以上にこの三作品を挙げていて、な
ぜかうれしかった。)

ところで、硫酸、いや龍さんのエッセイや対談など、要するに小説以外の文章や発
言からは、いつもひりひりと「情報」が伝わってきて、これを作家の肉声とか熱い
思いなどと表現すると全然違うものになってしまう。やはり「情報」としかいいよ
うのない「物質的な観念」みたいなものを感じるのだけれど、ハルキさんの小説以
外の文章は、紀行文を別にするといまひとつのれなくて、だからあまり読まない。
(そういえば、龍さんの紀行文というのはあまり思い出せない。)インターネット
を使った活動でも、ハルキさんのより龍さんの方が私には面白い。結局、私は村上
春樹がつくりだす(虚構)世界に惹かれていて、一方、村上龍の場合は、彼と(現
実)世界とのかかわり方に刺激を受けているのだと思う。この二つは結局同じこと
だという考え方もあるだろうけれど。

ハルキさんの小説は一昨年から「系統的」に読み返していて、作品を読んで触発さ
れたことやイメージが広がった事柄を中心に、引用集というか断想集というか、と
にかく頭に浮かんだことどもをモザイクみたいに、「無意識をめぐる冒険」という
タイトルのもとに編集した文章を「四部作」で書いています。(私の個人的なホー
ムページ〔http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/〕)に掲載しているので、もし
よろしかったらご覧下さい。タイトルページの「補遺と余禄」のコーナーから「BA
CK NUMBER」をクリックしていただければ、目次が出てきます。──と、さりげな
くPR。)

このタイトルは、いうまでもないことでしょうが『羊をめぐる冒険』からとってい
ます。「羊」はムラカミ・ワールドの無意識のシンボルだという、ごくごく単純な
発想から編集作業を始めたのですが、そのうち、どうやら象や鼠、鳥が一組になっ
ていることに気づきました。もちろんそれ以外にも猫やその他いますぐには思い出
せない重要な動物たちがたくさん出てきたと思うですが、鳥は人工衛星につながる、
といったような意味で、これら四つの動物がことさら重要なものに思えてきて、私
はそれを「ムラカミ・ワールドの三獣一鳥構造」と名づけています。(このことは
「無意識をめぐる冒険・第三部」にメモしておきました。と、再びPR。)

龍さんについても、何かまとめてみいたいと、現在(心の)準備中ですが、まだ読
んでいない作品が多いのでいつになることやら。──というわけで、今回は、両村
上の最新作を並べてその感想文を紹介します。(このうち、ハルキさんの分は、「
無意識をめぐる冒険・第四部」に書いたものを手直ししています。と、くどい。)
それにしても、今回は予定外に長いものになってしまいました。これも「創刊第2
号」ゆえの「気負い」のなせるわざです。
 

●3●村上龍『希望の国のエクソダス』(講談社:2000.7)

 久しぶりに小説らしい小説(?)を読みたくなった。──2001年6月から2008年
9月(だったかな?)にまで叙述が及ぶ章立てのない長編小説。この作品は三つの
パーツに分けることができるだろう、そうすることに何か意味があるのかどうかは
別として。「ナマムギ」の発見からテツ(本編の話者)と中村君との出会い、ポン
ちゃんの登場までの発端部。(いつも思うことだけれど、村上龍は物語の発端部の
書き方が実にうまい。とはつまり小説世界の造型力に秀でているということ。優れ
た小説家がもつべき当然の資質。)円圏・アジア通貨基金構想の実現とその直後の
通貨危機から2002年6月、サッカーのワールドカップ開幕一週間前の衆議院予算委
員会でのポンちゃんの「答弁」で終わるハイライト。(「インタビュー小説」とで
もいうべき趣向が面白かったし、何よりもテツと由美子が懐石料理を食べながら経
済を語る場面は秀逸。)そして、ASUNAROの北海道野幌市への移住と地域通貨イク
スの発行による「独立国」化への軌跡が描かれたやや長い後日談。(小説的虚構世
界の文法を大きく逸脱しているのではないかと思ったけれど、読んでいてここが一
番面白かった。この部分を書くために村上龍は物語世界を造型したのではないか。)
あとがきがまたいい。「この小説は、著者校正をしながら、自分で面白いと思った。
そんなことは実は初めてで、なぜ面白いと思ったのか、いまだにわからない。わた
しの情報と物語が幸福に結びついたのかも知れない。」(ここに出てくる三つの語
彙、情報・物語・幸福、は村上龍の小説世界のキーワードである。)メディア批判
と教育、経済。これらは著者がJMMでいままさに取り組んでいる問題群そのもの
で、だからこの小説が面白くないわけがない。

 追記。日経新聞(2000年9月24日付)の読書欄で山城むつみ氏は、ポンちゃんが
国会に参考人として招致され、演説するところが本書のヤマで、「そこまで、読み
手の関心を強く引っ張ってきた本書のドライブはその後、急に失速してしまう」と
書いている。(この点はまったく同感。)それはなぜかというと、作者はこの作品
で「希望」について書きたかったのだが、「それを小説の文脈に実際に書きとめた
とき、作者は、描こうとしていた「希望」をめぐって根本的な疑問を感じたのでは
ないか。今の日本の社会は希望を必要としているのだろうか、と」。現に、作者は
ポンちゃんに「果たして希望が人間にとってどうしても必要なものかどうか、ぼく
らにはまだ結論がありません」と語らせている。小説の結末で、「希望の国」を建
設しているポンちゃんたちに共感しながらも、主人公(テツ)はそこで暮らす決心
がつかない。「おれはまだ結論を出していない」。それが本書の結語なのである。
──と、山城氏はいうのだが、確かに、あそこに描かれた「国」はどこか奇妙なと
ころがあって、なにか人間の想像力を超えた未知の政治問題が息づいているような
気がして、少なくとも私は永住する気持ちにはなれないと感じたし、作者の思想(
こういう言葉はあまり使いたくないのだが、ここでは、作者が何を書こうと思いを
めぐらせ、何を想いながら書いたか、その実質といった程度の意味で使っている)
をめぐるかなり慎重な吟味が必要だと思った。それでもやはり私はポンちゃんの国
会演説以後の叙述が(たぶん小説的感興とは別の次元で)おもしろかった。政策論
や制度論に必要な「生の素材」の提供という意味で(?)。

●4●村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社:2000.2)

 村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』で取り上げた六つの短編小説は、
その順番どおり『神の子どもたちはみな踊る』の六つ作品と対応させることができ
るのではないかと思う。──吉行淳之介「水の畔り」と「UFOが釧路に降りる」。
そこでは空虚が移動する。水の畔り=圧倒的な暴力の瀬戸際。デタッチメント。─
─小島信夫「馬」と「アイロンのある風景」。家を建てる話と家(?)を燃やす話。
家(ハウス、ホーム)と馬(ホース)との関係、絵と絵の中のアイロンとの関係。
妄想的外部装置と焚き火。現世的コミットメントと遊離的デタッチメント。──安
岡章太郎「ガラスの靴」と「神の子どもたちはみな踊る」。ガラスの靴と踊る神の
子。肉的なものと単性生殖。父の不在。──庄野潤三「静物」と「タイランド」。
記号化された世界。生きることと死ぬることは等価である。静物と石。──丸谷才
一「樹影譚」と「かえるくん、東京を救う」。嘘と本当、夢と現実。「樹の影」の
世界と「ぼく」自身の中の「非ぼく」の世界。変身、転生、変貌。呪術的世界とミ
ミズ(肉)。妊娠と虫。──長谷川四郎「阿久正の話」と「蜂蜜パイ」。翻訳論と
伝達論。日常と非日常。
 本書に収められた作品から、ここでは公表されたものとしては最も新しい「蜂蜜
パイ」を取り上げ、若干の考察を加えておく。(以下の文章は、上で述べた事柄と
は直接の関係はない。)

 まず、要約。――「蜂蜜パイ」に出てくる淳平について。兵庫県の西宮市に生ま
れ育ち、時計宝飾店を経営する父をもち、早稲田大学の商学部と文学部の両方に合
格したけれど「経済の仕組みを勉強して、4年間を無駄にするつもりはなかった」
ので両親には商学部に入ったと嘘の報告をして文学を学び、関西で家業を継ぐこと
を求める両親とは義絶状態になっている。「生まれながらの短編作家」で、36歳の
現在までに『雨の中の馬』『葡萄』『沈黙する月』など四冊の短編集のほか音楽の
評論集数冊と庭園論の本、ジョン・アップダイクの短編集の翻訳などを上梓。《彼
は自分の文体を持っていたし、音の深い響きや光の微妙な色合いを、簡潔で説得力
のある文章に置き換えることができた。》
 学生の頃、淳平は高槻と小夜子の三人で「親密なグループ」を形成していた。高
槻と小夜子が「深い仲」になった後、クラスに出なくなった淳平のアパートの部屋
に小夜子がやってきて、高槻とは違う意味で淳平のことを必要としているのだと言
った。《「何かをわかっているということと、それを目に見えるかたちに変えてい
けるということは、また別の話なのよね。そのふたつがどちらも同じようにうまく
できたら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけど」》
 卒業して半年後に高槻と小夜子は結婚した。小夜子が30歳を過ぎてまもなく女の
子を出産し、淳平が名付け親になった。《「今だから言うけど、小夜子はもともと
は、俺よりはお前に惹かれていたんだと思うな」と高槻は言った。(略)「何はと
もあれ、これで俺たちは四人になった」、高槻は軽い溜息のようなものをついた。
「でもどうだろう。四人というのは、はたして正しい数字なのだろうか?」》──
娘の沙羅が二歳になった頃、高槻と小夜子は離婚する。
 神戸の地震のニュースを見て以来、地震男に小さな箱に押し込められると真夜中
にヒステリーを起こすようになった沙羅に、淳平は熊のまさきちと親友とんきちの
蜂蜜と鮭の交換の物語を語ってきかせる。鮭が川から消えてしまい、とんきちはま
さきちから蜂蜜をただでわけてもらうようになったのだが、どちらかだけが与えら
れるのは本当の友だちのあり方ではないと、山を下りたとんきちは猟師の罠にかか
って動物園に送られる。《「かわいそうなとんきち」/「もっとうまいやり方はな
かったの? みんなが幸福に暮らしましたというような」と小夜子があとで尋ねた。
/「まだ思いつかないんだ」と淳平は言った。》
 離婚後、高槻は淳平に「小夜子と一緒になるのはいやか?」と言う。《「僕がひ
っかかるのは、そんな風に取引か何かみたいにやりとりしていいもんだろうかとい
うことだ。これはディセンシーの問題なんだよ」/「これは取引なんかじゃない」
と高槻は言った。「ディセンシーとも関係ない。お前は小夜子のことが好きなんだ
ろう。それから沙羅のことだって好きなんだろう。違うのか? それがいちばん大
事なことじゃないか。たぶんお前にはお前のややこしい流儀みたいなものがあるだ
ろう。それはわかるよ。俺の目には、ズボンをはいたままパンツを脱ごうとしてい
るようにしか見えないけどね」》
 沙羅にせがまれて淳平の前で「ブラはずし」(服を着たままブラジャーをはずし
てそれをまたつける)をやった夜、小夜子は淳平と初めてセックスをした。《「実
を言うと、私はずるをしたの」/「ずるをした?」/「ブラはつけなかったの。つ
けるふりをして、セーターの裾から床に落としたの」(略)長い時間をかけてお互
いを確かめてから、淳平はやっと小夜子の中に入った。彼女は誘い込むように彼を
受け入れた。でも淳平にはそれが現実の出来事だとは思えなかった。薄明りの中で、
どこまでも続く長い無人の橋を渡っているみたいだった。》──そのとき寝室のド
アがそっと開けられ、そこに沙羅が立っていた。《「地震のおじさんがやってきて、
さらを起こして、ママに言いなさいって言ったの。みんなのために箱のふたを開け
て待っているからって。そう言えばわかるって」》
 淳平は、夜が明けて小夜子が目を覚ましたらすぐに結婚を申し込もうと思う。そ
のとき淳平の頭の中では、とんきちとまさきちが離ればなれになることなく山の中
で幸福に親友として暮らすことができる物語のもう一つの結末がかたちをとってい
った。《とんきちは、まさきちの集めた蜂蜜をつかって、蜂蜜パイを焼くことを思
いついた。少し練習してみたあとで、とんきちはかりっとしたおいしい蜂蜜パイを
作る才能があることがわかった。まさきちはその蜂蜜パイを町に持っていって、人
々に売った。人々は蜂蜜パイを気に入り、それは飛ぶように売れた。》
《沙羅はきっとその新しい結末を喜ぶだろう。おそらくは小夜子も。/これまでと
は違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中
で愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、
そんな小説を。でも今はとりあえずここにいて、二人の女を護らなくてはならない。
相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない。たとえ空が落
ちてきても、大地が音を立てて裂けても。》

 この短編小説には、文学的営みそのものをテーマとする叙述のうちに経済行為や
精神分析との関係を連想させる仕掛けが、村上春樹のこれまでの作品以上に見やす
いかたちで織り込まれている。――たとえば女性(小夜子)をめぐる取引(交換)、
猟師の罠と小夜子の「ずる」、子(沙羅)の命名を端緒とする家族(非?エディプ
ス的なもう一つの親密なグループ?)の形成、地震男と箱、フロイトがファルスの
象徴であるといった「三」や新宮一成氏が結婚に結びつけた「四」(『夢分析』第
四章)等々。
 蜂蜜パイを焼くこと(子を産み育てること?)は家族を形成することであり、長
編小説を仕上げることでもある。そうすると「これまでとは違う小説」とは、たと
えば新しい家族小説とでもいうべきもの──家族というオーガニズムやシステムを
叙述するのではなくて、いま仮に家族と名づけた媒介形式そのものを純粋に造形す
る小説──のことなのだろうか。それともそれは──修正された物語の結末で、と
んきちとまさきちが山の中にとどまったように──媒介(蜂蜜パイ)の導入を通じ
て結びついた家族による、もう一つのデタッチメントの物語への移行(退行)でし
かないのだろうか。
 村上春樹は『スプートニクの恋人』で、単独者の鏡(媒介)なき二重化の世界と
でもいうべき透明な寂寥感と陰影に満ちたムラカミ・ワールドのうちに、なにか血
なまぐさいものとしての象徴(媒介)性を招き入れようと試みた。それは、今村仁
司氏が『貨幣とは何だろうか』でいう「貨幣小説」に、すなわち「人間関係を媒介
し、関係の安住と秩序あるいは道徳と掟の世界をつくりだす媒介形式を主題とする」
小説に関連づけて考えることができる試みだったのかもしれない。
 今村氏は、貨幣は供犠と墓に通じると書いている。そうだとすると、村上春樹は
「蜂蜜パイ」を書くことで、『スプートニクの恋人』の最後で示唆した世界の造形
を、つまり供犠(媒介)としての沙羅(=さら=更・新、また双樹の「二」につな
がる?)の消去(地震男の箱=墓に閉じ込められること、『スプートニクの恋人』
のすみれのように?)なき「媒介形式」の造形を、より「現実」的な場面設定のも
とで試みたなどといえるのだろうか。
 あるいは、もしかすると淳平と小夜子と沙羅は「どこまでも続く長い無人の橋」
を渡って地震男がふたを開けた箱の中の世界へ、つまり「山の中」へ入っていった
のかもしれない。(山=あの世=超越論的世界・小説的世界、町=この世=経験的
世界、蜂蜜パイ=死者=貨幣。)そして村上春樹は「蜂蜜パイ」を書くことで、た
だ一度しか起きなかった単独の出来事の普遍性を、つまり唯一のものの複数性(反
復可能性)という不可能な出来事を叙述する小説の可能性を示唆しようとしたのか
もしれない。
 補遺。今村氏はまた、貨幣は文字に通じると書いている。『スプートニクの恋人』
のすみれは文字を使って小説を書き、そしておそらくはフロッピー・ディスクにコ
ピーされた文字のように、血も流さず小説世界から消去されてしまった。淳平もまた
文字を使って小説を、ただし短編小説を書いている。文字が貨幣に通じ供犠に通じる
としたら、血も流さず消去もされないで長い小説(物語)を書き終えることは、もし
かするととてつもなく孤独で奇蹟的な出来事だったのかもしれない。

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