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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.19 (2000/11/10)
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 □ アリストテレス『心とは何か』
 □ 桑子敏雄『エネルゲイア アリストテレス哲学の創造』
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アリストテレスにプラトン。ギリシャ哲学の、というより西欧哲学の大御所を同時
進行的に読みました。これまで、プラトンの『国家』と『テマイオス』を申し訳程
度に、そして『饗宴』を授業かなにかで義務的に読み囓ったことは別にして、この
二人の哲人の著作にはほとんど接することがなかったので、実に新鮮かつ驚きと発
見に満ちた時間を体験しました。

古典とよばれる書物を読むことの面白さは、たとえば「イデア」や「エイドス」や
「エネルゲイア」といった、いまや手垢にまみれた(?)言葉や概念の「意味」が、
具体的な議論や叙述に即して、まさにいきいきと立ち上がってくるその「現場」に
身をおくことにあるのだと思います。そして、議論の進め方やちょっとした言い回
しがもたらす微妙な「違和感」にこだわってみることで、逆に「現代」がもつ思考
や感性などの「枠組み」のようなものが照らし出されるとしたら、それこそ古典を
読む醍醐味というものでしょう。(一度この味を覚えてしまうと、もう病みつきに
なってしまいそうです。)

ところで、今回、『心とは何か』と『パイドン』を合わせ技で読み進めていくうち、
どういうわけか「アフォーダンス」をめぐる議論が気になってきました。そこで急
場しのぎに、佐々木正人さんと河本英夫さんの対談が掲載された『現代思想』vol.
27-10(特集「感覚の論理」,1999.9)と、同じく佐々木正人さんと写真家の畠山
直哉さんの対談が収録された『談』No.64(特集「「視覚論」再考」,2000.10)
を購入し、いまそれぞれに収められた文章やインタビュー記事を少しずつ読んでい
るところです。プシューケー(ただし、霊魂ではなく心、つまり桑子訳によるアリ
ストテレスのプシューケー論)とアフォーダンス。このあたりになにかしら豊かな
鉱脈が隠されているように思うのですが、これはまだ茫漠としています。

ついでに書いておくと、『談』の編集後記に「言語、移動、視覚と特集を組んでき
たが、これらを踏まえて次号では「触れる」ということについて考えてみたい」と
ありました。『心とは何か』が、感覚能力、思考能力、運動能力と議論を進め、最
終章で再び「生存に対する触覚の役割」を取り上げていたこととあいまって、あま
り確かな根拠は示せないものの、私のヌース(直観的理性、もしくは妄想的理性?)
がなにやら立ち騒いでいます。――いつもの引用癖が出て、少し長くなってしまっ
たので、アリストテレス編とプラトン編(次号予定)とに分割して報告します。
 

●36●アリストテレス『心とは何か』(桑子敏雄訳,講談社学術文庫:1999.2)

 この書物は三度読まれるべきである。可能態(デュナミス)と実現態(エネルゲ
イア)の区別をめぐる第二巻第五章の叙述に準拠するならば、一度目は知的能力を
もつものの一員として、二度目はすでに文法的知識(アリストテレスの思想の骨格
をなす諸概念に関する知識)をもっているものとして、そして三度目は知的能力を
はたらかせているものとして。――再読に際しては、訳者の懇切かつ適切な解説を
読み込むといい。できれば訳者の著書『エネルゲイア』を概観しておくとなおいい。

 心(プシューケー)は生物の原理(アルケー)である。すべては冒頭に出てくる
この言葉に尽きているのではないか。(ここで私は、津田一郎著『カオス的脳観』
の、たとえば「人工知能の研究で得られるのは生物的な知能ではなく全く別物の知
能である」といった文章を想起している。)つまり、アリストテレスにとって心と
は生きている身体(ソーマ)がもつ能力なのであって、心と身体とが一つであるか
どうかという問題を立てて探求すべきでないことは、蜜蝋と印形とが一つであるか
どうか、一般的には形相=実現態と質料=可能態が一つであるかどうかを探求すべ
きでないのと同じである。(これは第二巻第一章に出てくるくだり。それにしても
本訳書の索引には「蜜蝋」の項目まで出てきて、ちょっと嬉しくなった。私にとっ
ての名著の目安はこういうところ。)

 しかし、本書第三巻第五章でアリストテレスは、直観的理性(ヌース)あるいは
「作用する理性」(nous poietikos:ラテン訳は intellectus agens で、能動
知性とも)について、「この理性は、本質において実現態であって、分離されうる
もの」である、そしてそれは「分離されているときに、ただまさにそれであるとこ
ろのものであり、それだけが不死で永遠である」と書いている。分離不可能な心身
が、作用する理性において分離可能なものとされる矛盾。訳者の解説によると、こ
れらのことが古来、「作用する理性」の問題として議論されてきた。

 アリストテレスがいう作用するヌース、つまり本質においてエネルゲイアである
能動知性を、たとえば文字によって表現されたもの、端的に書物のようなものと考
えてみることで、この矛盾を解消することができるのではないか。(ここで私は、
信原幸弘著『考える脳・考えない脳』の、たとえば「構文論的構造をもつ表象の操
作としての思考は、この[脳と身体と環境からなる]大きなシステム全体によって
産み出される」といった文章を想起している。)

 エネルゲイア(energeia)のラテン訳は「actualitas」で、これらの語は一般
に「エルゴン ergon」=「働き」のうちにあるものを意味するとされているのだが、
ハイデガーは「エルゴン」を「作品」(制作されたもの)と解した。このハイデガ
ーの説を強引に「参照」することで、プラトンが『パイドン』でその不死性を論じ
た「魂」ともども、思考能力としてのプシューケーの不死性の意味を考えることが
できはしまいか。それともこのような捉え方は問題を矮小化することになるのだろ
うか。――ここで私が想起しているのは、講演録『ボルヘス、オラル』(木村榮一
訳,水声社)に収められた「不死性」でのボルヘスの次の言葉だ。

《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち
現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダ
ンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなん
らかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるので
ある。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれ
の残した作品のなかに存続しつづけるのである。》

 いずれにしても『心とは何か』は、心と生命(ギリシャ語のゾーエー? それと
もビオス?)の問題に関心を寄せる者にとって必読の文献であると確信したのだが、
本書がかくも面白かったのは、訳者(訳文・訳注と解説)の功績が大きいと思う。

 余録。桑子敏雄教授(東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻)
の研究室のホームページ[http://www.valdes.titech.ac.jp/~kuwako/]はとて
も印象的だった。「研究室の概要」には、次の忘れがたい文章が出てくる。(桑子
氏の『西行の風景』や『環境の哲学』も、いずれ読んでみたい。)

《価値構造分野の研究を担うこの研究室では、変化しにくい伝統的な価値と現代の
先端的な科学技術(環境、生命、情報にかかわる技術)が含むきわめて流動的で変
化の激しい価値との衝突の問題を価値構造の研究としてとらえ、その衝突の分析と
高い次元での解決のための提案を行うことを課題としています。(略)21世紀を環
境(E)、生命(B)、情報(I)の相互浸透の時代と捉え、 EBIの価値構造を研
究します。そこで、「えび」がこの研究室のトレードマークです。》

●37●桑子敏雄『エネルゲイア アリストテレス哲学の創造』
                       (東京大学出版会:1993.12)

 期待して読み始めたのだが、序文とあとがき、それからイデアとエネルゲイアの
関係を論じた第一章やヌースを論じた第八章が印象に残ったくらいで、専門家向け
の専門的な議論に終始しているように思えて、読み進めるのにやや難渋した。とい
うよりも、端的な断言を求めて読み流した読み手の姿勢に問題があったのだと思う。
以下、若干の文章を抜き書きしておく。

 まず序文から。――エネルゲイアはアリストテレスの学問体系の造山運動の中心
となった概念である。プラトンがイデア論によって解決しようとした問題(事物の
同名性の問題)にアリストテレスはエネルゲイアという発想で立ち向かったのであ
る。エネルゲイアという概念の意味はそれが解決しようとしたさまざまな問題の文
脈に即して把握されなければならないのである。何が本当の存在であるかという問
いは「実体とは何か」という問いを要請するのだが、古来問い求められてきたこの
問いにアリストテレスは「実体とはエネルゲイアとしての形相である」と答えた。

 あとがきから。──《…アリストテレスは質料の二つの意味を区別し、そうする
ことによって類と生成を異なった次元で論じているのではないか。そしてその二つ
の次元はまさに今においてあるエネルゲイアとしての実体を定義し、説明するため
の座標軸ではないか…。二つの座標軸とは、個―普遍という時間性を含まない軸と
運動という時間的な軸であり、この二つの軸によって、わたしたちは生成変化する
ものとして自然を把握することができるのである。さらにこのように理解すること
のなかから、実体を定義し説明する人間の知性という能力についても視野が広がっ
てきた。知性は能力であり、その能力の実現態こそが実体としてのエネルゲイアを
把握し、また説明するのである。端的な意味で存在する世界の事物についてわたし
たちが探求しているということは、エネルゲイアとしての実体にエネルゲイアとし
ての知が出会っているということなのである。/これがいまわたしが到達しえた地
点の概略である。》

 そして、私にとって本書の最大の収穫は、アリストテレスの解釈に現代の心身問
題の視点を導入する「最近のアリストテレスの心理学の哲学の研究」の趨勢をめぐ
って書かれた次の文章だった。(今後、古典をひもとく際のゴールデン・ルール!)

《たしかに…現代的な問題関心の網にアリストテレスの哲学がどのように捉えられ
てくるかを見ることはそれなりに興味あることであろう。しかしわたしたちはむし
ろ現代的な視点そのものを批判する際のかてとするために古典を読むのではないか。
とすれば現代的な網の目からこぼれ落ちてしまうかもしれないアリストテレスの論
点をさぐることにこそ意義があるのではないか。》(第八章)

 余録。西田幾多郎の『善の研究』第三篇第九章に、アリストテレスの「エンテレ
ケイア」(桑子訳では終局態で、エネルゲイア=実現態と同義とのこと)に言及し
た箇所があったので、パラグラフごと引用しておく。

《さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想という
ものは何から起こってくるので、善とはいかなる性質のものであるか。意志は意識
の最深なる統一作用であってすなわち自己そのものの活動であるから、意志の原因
となる本来の要求あるいは理想は要するに自己そのものの性質より起こるのである。
すなわち自己の力であるといってもよいのである。われわれの意識は思惟、想像に
おいても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においてもみなその根柢に
は内面的統一なるものが働いているので、意識現象はすべてこの一なるものの発展
完成である。しかしてこの全体を統一する最深なる統一力がわれわれのいわゆる自
己であって、意志はもっともよくこの力を発展したものである。かく考えてみれば
意志の発展完成は直ちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成 self-
realization であるということができる。すなわちわれわれの精神が種々の能力
を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆる
 entelechie が善である。)竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するよ
うに、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳と
は自己固有の性質に従うて働くの謂にほかならず」といった。》

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