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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.17 (2000/11/5)
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 □ 信原幸弘『考える脳・考えない脳』
 □ 津田一郎『カオス的脳観』
 □ 心の科学研究会G.N.C/ひるます『オムレット 心のカガクを探検する』
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私がここ数年取り組んでいる(?)テーマを列記すると、無意識、仮面、魂や霊性、
心脳問題、西欧神学(なかでも受肉と三位一体論と普遍論争)の五つで、ごく最近
になって、これらは密接不可分の関係を取り結んでいるのではないかと思うように
なりました。そこで、この一冬をついやして、これまで断片的に考えてきた事柄を
集大成(?)してみようと計画を建てたのですが、それにしてはまだちゃんと読ん
でいない基礎的な文献の数が多すぎて、着手早々、この「プロジェクト」は頓挫の
危機にさらされています。

本を読むこと、つまり先人の思索の跡をたどることもさることながら、そもそもこ
れらの問題群にどういう関心をもって、あるいは態度でもって取り組むつもりなの
かといった基本的な「スタンス」が、私の場合どうやら曖昧模糊としていることの
方が、より根本的な難点です。知的好奇心の一言で片付けてもいいようなものなの
ですが、五つのテーマを一括りにして「感覚と抽象」と、とりあえず規定してみる
ならば、カメラをもって文献を渉猟することよりも、カメラ・オブスクラの中に入
り込むことの方が大切なように思えてくるのです。分かりにくい言い方ですが、生
身をもって解釈学的循環を生きることの大切さに気づいたということです。

このこととどう関係するかはうまく説明できないのですが、小泉義之氏は『ドゥル
ーズの哲学』(講談社現代新書)で、解けない微分方程式をめぐって、数理科学者
がコンピュータを駆使して数値解を計算する過程に関して次のように書いています。

《ドゥルーズの解釈はこうだ。以上の過程の全体が、自然界と生物界においては、
自然物と生物に畳み込まれている。だからこそ、数理科学の計算過程の全体は、遊
びであるにしても、リアルな遊びなのである。自然物と生物は、解けない微分方程
式を、自ら条件を設定して、自ら解いている。だからこそ、数理科学においても、
微分的なものはリアルであるし、そこから現実的なものを差異化して分化する過程
もリアルなのである。端的に言えば、現に風が吹くから、現に人間が生きているか
ら、リアルなのである。》(53-4頁)

また、榎並重行氏は『ニーチェって何?』(洋泉社新書y)で、「科学の発展は…
知られていないものを知られているものに還元しようとする本能から発している」
というニーチェの言葉を受けて次のように書いていました。

《例えば、生命は分子で書かれた設計図によって伝えられている、なんていう。で
もそれは、生命のほうがすでにある既知のものとしてあるから、分子水準で書かれ
ている、計画─設計[プログラム]されているみたいなことがいえるんで、じゃあ、
計画─設計から生命が説明できるのかというと説明できない。(略)脳科学でも同
じこと。例えば、脳の局所性──、脳のどこが刺激されるとこういう反応が起こる
というんだけど、結局それも、われわれが脳でやっていると思っていること、つま
りは、われわれが感覚、認知、感情、思考、そして精神一般について知っているも
の、慣れ親しんできたが故に知っていると思っているものを、脳の部署に振り分け
て、神経と化学物質の記号法で語り直しているにすぎない。(略)もし、われわれ
がわれわれの精神について知っていること、要するに慣らされていてわれわれの不
安を呼び起こさないものが、誤謬、あるいは偽りだったら、どうなる? すくなく
とも、脳の科学研究から、この疑いが出てこない限り、当然、答えも出てくること
はない、ということだ。》(37-9頁)

この二人の言い方は、似ているようでいてどこか違っていると思うのですが、これ
もまたうまく説明できません。結局何が書きたかったのかも分からなくなってきま
した。──脳のはたらきについて脳を使って考えること、そのためには「表現」(
文字を綴ること、端的に生きること等々)が不可欠であること。考えているのは「
脳」でも「私」でもないこと。脳は身体の一器官として、つまり物質の塊として取
り出せるのだが、ブツとして取り出した脳はもはや脳ではないこと。いくつかのア
フォリズムめいた言葉が浮かんでは消えていきます。不得要領。
 

●32●信原幸弘『考える脳・考えない脳 心と知識の哲学』
                        (講談社現代新書:2000.10)

 これまで分析哲学系の書物にはあまり親しめなかった。たとえばクリプキの『ウ
ィトゲンシュタインのパラドックス』。面白くて巨大な刺激を受け、私がこれまで
に読みえた哲学書のベストテンに入ることは間違いないのだが、一頁進むごとにパ
ソコンのOSを入れ替えなければならないといった感じで、読み進めるのにとても
難渋した記憶がある。(これと似た読書体験は、大森荘蔵晩年の三部作でも味わっ
た。)だから、名著と評判の高い『心の現代哲学』(勁草書房)はいつか読まねば
と思いつつ、なかなか手が着けられなかった。その点、本書は「啓蒙書」としての
構成が素晴らしく、初学者への配慮も行き届いている。心の哲学の最先端の思索を
堪能した。

 まず、心の働きと脳の働きは同じだとする心身一元論の妥当性を短い文章でもっ
て明らかにし(はじめに)、それでは「心の働きがいかにして脳の働きと同じであ
りうるか」という「心のモデル」をめぐる二つの学説、古典的計算主義(第1章)
とコネクショニズム(第2章)のそれぞれの主張と相互の異同をきわめて要領よく
紹介し、次いで直観・無意識のメカニズム(第3章)とフレーム問題(第4章)を
題材として、知覚や直観、スキーマの形成といった心の働きを説明する学説として
はコネクショニズムの方がふさわしいことを説得力ある叙述でもって示唆し、しか
し最終章で、心は「脳と身体と環境からなるひとつの大きなシステム」なのであっ
て、「そのサブシステムである脳はコネクショニストシステムであり、また古典的
計算主義システムのほうは主として環境に足場をおくシステムだという見方」を提
示する。

 思考をめぐる緻密かつスリリングな議論を経て、脳は「構文論的構造を欠くニュ
ーロン群の興奮パターンの変形装置」なのだが、それだけではなく、脳は「そのよ
うな変形をつうじて、外部の環境のなかに外的表象を作り出し、それを操作するこ
ともできる」、つまり「構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この[脳
と身体と環境からなる]大きなシステム全体によって産み出される」と結論づける
最終章が本書のハイライトで、実は私は本章をまず最初に読んで興奮した。

 付記。本書と同時に、アリストテレスの『心とは何か』(桑子敏雄訳,講談社学
術文庫)を読み終えた。そこに出てきたいくつかの命題──心は生きている身体の
原因であり原理である(89頁)、知的能力の対象(普遍)は心そのもののうちにあ
る(100頁)、感覚対象の実現態(エネルゲイア)と感覚の実現態とは同じで、一
つである(142頁)、心的表象は感覚とも思考とも異なる(150頁)、心的表象は一
種の運動である(154頁)、実現態にある理論的知識は、その対象(事物)と同一
である(164頁)等々──、あるいはまた懇切かつ詳細な訳者の解説──「人間に
は思考する器官がないとアリストテレスは考えた」(219頁)等々──と本書の叙
述がないまぜになって、いま私の脳は(いや、精確にいえば「運動皮質の興奮パタ
ーン」として出力された「内語」は)何らかの外的表象を生み出すべく猛烈にはた
らいている。

●33●津田一郎『カオス的脳観 脳の新しいモデルをめざして』
                        (サイエンス社:1990.10)

 以前、西垣通著『こころの情報学』(ちくま新書)で紹介されているのを読んで
以来、著者のカオス脳理論に関心を寄せつづけてきた。ようやく本書を書店で見つ
け、迷わず購入、一息に読みきった。今後、心や脳の問題を考えるたびに繰り返し
味読すべき常備書。脳とは「大規模ではあるが有限であり、しかも個々の要素が強
く相互作用し合い歴史性を背追っているような生命情報システム」である。そんな
要約では語り尽くせぬ豊穣さをもった書物。活字のポイントを小さくして数箇所挿
入されたコラム風の文章に味がある。この人はきっと科学エッセイの名手になれる。

 付記。矢沢サイエンスオフィス編集『最新脳科学 心と意識のハードプロブレム』
(学習研究社:1997)に掲載されたインタビューで、著者は、カオスの数理的構造
の研究を通じて脳に興味を覚えるようになった自己の研究の遍歴について、それは
「特定の分野の“色”のついた研究による個別の普遍性を求めるのではなく、どの
分野もある意味で共通してもつ普遍項を見いだそうとする研究」へ向かうこと、要
は「自然界に共通する論理構造を見たかった」のだと語り、「こうした傾向は、自
然科学的というよりは、むしろ数学と哲学に立脚した思考にもとづいて自然を見る
という立場を定着させるであろう」と述べている。(数学と哲学に「神学」や「経
済学」を加えれば、私がこれから進みたいと夢想している「カオス的遍歴」に一致
する。)

●34●心の科学研究会G.N.C/ひるます『オムレット 心のカガクを探検する』
                            (広英社:1999.1)

 これはちょっと比類ない書物で、冒頭からいきなり虜になってしまった。絵と吹
き出しが複雑なポリフォニーを奏で、その上に、いま思いつくだけでもゼベット博
士の逮捕や坂口の失踪、伊丹堂をめぐる市井譚、伊丹アヤコとオムレットといった
未来・過去・現在におよぶ四つのレベルの物語が同時進行し、さらにコラムによる
補遺が加わるといったその多層多重の表現世界は、かのヨハン・コメニウスの『世
界図絵』(略称:オルビス)にも匹敵する快挙であると断じていいだろう。(高山
宏氏あたりの発言だったら、説得力があったろうに。)

 もちろん吹き出しの中で議論される「心のカガク」の探検が本書のハイライトで、
その水準の高さ、内容の的確さにまず驚嘆させられたのだが、複数のキャラクター
を配しての対話など、マンガというジャンルがもつ威力を思う存分発揮したその叙
述と構成が何よりも素晴らしいのである。「アラユル本には/なにか作者が/意図
しただけで/ない不思議な/メッセージが/隠されている」(148頁)といった、
随所にちりばめられたアフォリズムも素晴らしい。末尾に「TO BE CONTINUED」と
ある。続編を心待ちにしている。

 付記。「何がリアルかってのは、どーしたら分かるんですか?」と質問を受けて、
伊丹堂が「フィーリングで分かるもんじゃ。つまり感情じゃ。人間の感情というも
のは、自然にリアルをめぐって起きるようになっとるのじゃ。(略)まっ、アンテ
ナを研ぎすますつもりで行けばいいのじゃ!」(122頁)と答えているくだりは、
田口ランディの傑作『アンテナ』の出現を予言しているようで面白かった。

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