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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.16 (2000/10/30)
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 □ 村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』
 □ 荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』
 □ 斎藤貴男『カルト資本主義』
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私は勤め人で、今年大学に入った子供がいる。まっとうな勤め人で世の父親は、た
いがい通勤電車のお世話になる。私の場合、片道二十分の通勤時間が格好の読書の
機会で、たいがい文庫や新書で無聊をいやす。これも世の少なからぬ勤め人の習性
だと思う。私の「定番」は、往路は『ベンヤミン・コレクション』(ちくま学芸文
庫)、復路は『失われた時を求めて』(ちくま文庫)と決まっているのだが、ここ
数か月、次々と出版される新書類に翻弄され続け、遠ざかっている。──で、最近、
結構いける本を立て続けに読んだので、紹介します。(そのうちの一冊については
ずいぶんと批判していますが、でもとてもおもしろい読み物であったことは事実な
のです。現に私は、読み始めたら途中でやめられなくなったのですから。)

ところで、高山宏さんの『奇想天外・英文学講義』に「つながらない限り、面白く
はならない」(208頁)という究極の言葉が出てきました。それはまったくその通
りで、「不連続」なものに「連続」を見出す喜びにまさるものはありません。たと
えば、今回とりあげた三冊が三冊とも高山本につながっているのだから、この偶然
には嬉しくなってしまいます。(実をいうとこの三冊と並行して読んだもう一冊、
信原幸弘さんの『考える脳・考えない脳』、他の書物と一緒にできれば次号で紹介
したいと予定しているものですが、これもまた『奇想天外』と深いところでつなが
っていたのです。少しだけ先走ると、それは心的表象と外的表象を含めた「表象」
という語に関係しています。)

まず、高山宏さんが超米文学者の一人としてその名をあげていた(236頁)のが柴
田元幸さん。荒俣と高山の二人の宏(視覚道の達人)のつながりはいまさらいうま
でもないでしょうし、実際『奇想天外』でも畏友荒俣の名は何回か出てくるのです
が、そういった外形的なものだけでなく、内容的にも二つの書物はしっかり相互リ
ンクを張っているのです。

その一例をあげると、かたや『奇想天外』が「推理小説と暗号学」といった文脈で
江戸川乱歩の『二銭銅貨』をとりあげ、作中、銅貨の中に封じ込められていた書き
付けの暗号を解いた名探偵明智小五郎が「一六六○年代のイギリスの専門家」とさ
れていること(暗号学はまさにピューリタン革命後、一六六○年代のイギリスに生
まれた!)を踏まえて、「江戸川乱歩も御本家のエドガー・アラン・ポーもコナン
・ドイルも、暗号を中心に成り立っているテクストだ。端的にいえば推理小説は、
マニエリスム以外の何物でもない」(89頁)、さらに「江戸川乱歩という推理小説
家の処女作で注目すべきは、暗号解読の技術の話だけではない。一九二○年代の東
京が一六六○年代のイギリスを呼び起こす他ないびっくりするような脈絡が隠され
ている。それは、一六六○年以降のイギリスにおける貨幣問題であり、つまりは兌
換という、「契約」でのみ成立する経済的表象の問題である」(90頁)と書けば、
かたや『プロレタリア文学』は、「乱歩は元来プロレタリア文学として書いた作品
[『芋虫』]を、やむを得ぬ事情のために怪奇小説として発表した」(60頁)ので
あって、乱歩が探偵小説と銘打った処女作『二銭銅貨』もまたプロレタリア文学と
呼んで差し支えのない小説で、「乱歩は推理小説の処女作において「盗み」も「貨
幣」もともに意味を失うというきわめて政治的な小説を完成させた」(65頁)と書
いているのです。

その他にも、メロドラマの誕生をめぐる「グラン・ギニョール」への言及(229頁)
や、明治末から昭和初年にかけての日本近代文学とマニエリスムとの関係(197頁)
をめぐる『奇想天外』の叙述は、ホラー小説のルーツとしての「グラン・ギニョー
ル」への言及(40頁)や、プロレタリア文学を「公共的なホラー小説」(223頁)
とする『プロレタリア文学』の叙述に重ねあわせて読むことができます。

最後に『カルト』。コナン・ドイルやルイス・キャロルのオカルティズムをめぐる
高山さんの語り、というより『奇想天外』全編が明らかにする泰西文化史、とりわ
け現代企業社会の原型をつくった一六六○年代のイギリス──たとえば次の一文、
《かつての経済学部の人がデフォー[『ロビンソンクルーソー』]をよく読んだ理
由を考えてみる必要はある。なぜなら、近代の経済の基本的なシステムは、王立協
会の中の経済部門がすべて発明していたからだ。貨幣、株式会社、株式形式の銀行、
ロイズの保険などなど、考えてみると、我々の今日の経済活動はあらかた、この時
代のイギリス人の頭の中から生まれたようなものなのだ。》(86頁)──や、ジャ
ーナリストとしてのデフォーやスウィフトに関する叙述──とりわけ、「ファクト
という言葉が、「つくられたもの」というラテン語の原義から、今日いう「事実」
「確証があるデータ」という意味になった」(83頁)経緯──へとつなげていくな
らば、読み物としてはよくできた本書につきまとうある種の視野狭窄ゆえの生真面
目さから解放されるのではないかと思いました。
 

●29●村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書:2000.10)

 少し前から翻訳をしてみたいと思うようになっていた。たとえばロレンスの短編
などを休日の午後、たっぷりと時間のあるときに楽しみながら翻訳することで、他
人の脳を使って遊んでみたいと考えるようになっていた。その思いが少しずつ高ま
り、私の英語力に見合った「手頃な」素材を物色しかけた矢先、本書にめぐりあっ
た。初級編、中級編、上級編と段階的に進んでいく(?)二人の翻訳名人の芸談義
と競訳(村上がオースターを訳し、柴田がカーヴァーを訳す)を憧憬と陶酔をもっ
て読み終えて、その思いがますます嵩じてきた。

 本書で村上が「翻訳的自我」(211頁)という言葉を使っていたのが面白かった。
そこへ到るまでの発言を、前後の脈略抜きに思いだせるまま抽出しておくと、村上
はまず「翻訳とはエゴみたいなものを捨てることだと、僕は思うんです。」(63頁
)と語り始める。──昔、印刷術のないころには、現実的な必要に応じた写経や写
本を通じて「人々は物語の魂そのもののようなものを、言うなれば肉体的に自己の
中に引き入れていった。魂というのは効率とは関係のないところに成立しているも
のなんです。翻訳という作業はそれに似ていると僕は思うんですよね。翻訳という
のは言い換えれば、「もっとも効率の悪い読書」のことです。でも実際に手を動か
してテキストを置き換えていくことによって、自分の中に染み込んでいくことはす
ごくあると思うんです。」(111頁)──「僕が感じるのは、翻訳をしているとき
には一つの仮面を被るというか、ペルソナを被るみたいなところがあって、…自分
の立場の置き換えみたいなのが常に行われていて、それは、精神治療的な見地から
言っても意味のあることなんじゃないかという気がしなくはないんです。」(198
頁)──「翻訳というのは、極端に濃密な読書であるという言い方もできるかもし
れない。」(199頁)──「僕が言いたいのは、自己表現的な部分は、柴田さん本
人が思っているよりは強いんじゃないかということなんです。無意識的にというか、
まるで自分の潜在的人格を愛するように…」(210頁)──「柴田さんの「翻訳的
自我」と、まで言ってしまうと言いすぎかもしれないけど、でもくっきりとしたも
のは見えてきますよね。」(211頁)

 捨ててこそ、浮かぶ自我あり、翻訳道。──西田幾多郎も書いている。《自己の
真摯なる内面的要求に従うということ、すなわち自己の真人格を実現するというこ
とは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の
主観的空想を消摩しつくして全然物と一致したるところに、かえって自己の真要求
を満足し真の自己をみることができるのである。》(『善の研究』第三篇第十一章)

●30●荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書:2000.10)

 もう何年も前、プロレタリア文学に取り組みたいと著者が語っている記事を読ん
だ記憶がある。ずっと心待ちにしていた。着々とやっていたのだと思うと、あれは
空耳だったのかとほぼあきらめていた私としては実にうれしい。かつてプロレタリ
ア文学の総本山をめざした平凡社の「食客」荒俣宏の(物足りなさすら感じさせる)
外連のない淡々とした語り口からつむぎ出される世界は、音楽や映画とまだ未分化
だった頃のエンターテインメント文学の猥雑なまでの「破天荒」さを視覚的に示し
ているように思った。《或る意味からすれば、プロレタリア文学とは「公共的な変
態小説」「公共的なポルノ小説」「公共的なホラー小説」のことでもある。公共と
は、人前でも展示し得るようにモザイクを入れたもの──処置済みの有毒物件、と
いう意味に受け取ってもらってよい。》(223頁)

 第一部「プロレタリア文学はおもしろい」(初級編?)で『蟹工船』(小林多喜
二)や『セメント樽の中の手紙』(葉山嘉樹)と並んで江戸川乱歩やアンリ・バル
ビュス(『クラルテ』)、フリッツ・ラング(『メトロポリス』)を一瞥し、第二
部「プロレタリア文学はものすごい」(中級編?)で平林たい子や『海に生くる人
々』(葉山)とともに坪内逍遥や壷井栄(『二十四の瞳』)を取り上げ、そして第
三部「プロレタリア文学は奥深い」(上級編?)では島崎藤村(『破壊』『夜明け
前』)や志賀直哉(『城の崎にて』『暗夜行路』)に言及する。中野重治をもう少
し掘り下げてほしいという気もしたけれど、この組み立てはアラマタにしかなしえ
ない快挙だと思う。

●31●斎藤貴男『カルト資本主義』(文春文庫:2000.6/1997.6)

 ソニーの超能力研究と猿股修二をはじめ永久機関に群がる人々を題材とした第二
章まで、読み物としての面白さと素材の組み立てのうまさは感じたものの、本書の
意図がいまひとつ鮮明ではなかった。京セラの稲盛和夫を呪術師ととらえた第三章
あたりから、著者の主張が明確になってくる。以下、科学技術庁のオカルト研究や
EM(有用微生物群)、オカルトビジネスのドン船井幸雄、ヤマギシ会、そしてア
ムウェイ商法と続く「八つの物語」の叙述を通じて著者が警告を発しているのは、
そこに従業員の内面まで管理しようとする徹底した企業の論理や民族主義、全体主
義をもたらす道筋が見え隠れしているということだ。バブル崩壊後の閉塞状況下に
おける日本の企業社会を特徴づける新たな「価値」体系は、ニューエージ・ムーブ
メントや新霊性運動といった世界的な潮流の地域的現象なのであって、わが国の歴
史風土はそうした潮流と実に相性がいい。著者はそれを「カルト資本主義」と規定
し、人々を思考停止へと誘うその「方便」性(それはたとえば映画『のび太のねじ
巻き都市[シティ]冒険記』に出てくる得体の知れないデープ・エコロジーの「神
様」へとつながっていく)を憂慮し戦慄する。

 著者の批判は全面的に正しいものだと思う。しかしその正しすぎる正しさは無力
で底が浅い。少なくとも「人たらし」の稲盛和夫や船井幸雄の実践と思想を「労務
管理」の一言で切ってみせたところで、そんなことは経営者や経営コンサルタント
にとって当然のことなのであって、なんの批判にもなっていない。著者の「個人的」
な違和感を徹底的に論理的に追求し、それが職員の内面を管理し思考停止においこ
む「普遍的な」筋道を実証してみせなければ、批判は当の二人に、そして読者であ
る私には届かない。あるいは事実をして語らせたいのであれば、「労務管理」なし
に組織を経営してみせているそのような事実を示すことしか方法はない。(そもそ
も啓蒙・教養と洗脳をめぐるつっこんだ議論を抜きにして個人の内面を云々したと
ころで、説得力はない。)

 この無力と底の浅さは、著者もまたその中にいるわが国のジャーナリズムやマス
・メディアが「カルト資本主義」に拮抗しうる対抗軸や深さの次元を提示できない
まま、ステレオタイプな言説を繰り返すしかないことの現れである。(もちろん「
わが国のジャーナリズムやマス・メディア」一般をひとくくりに批判してみせたと
ころで、何も言ったことにはならないのだけれど。)第一、本書の論法がそっくり
そのままジャーナリズムやマスコミ産業への批判にも使えることへの「反省」が著
者には一切うかがえない。ただ一箇所、船井幸雄の「マスコミの人間は頭が固い」
という批判への反論というかたちで、それは頭の固さではなく「実証不可能な仮説
を、他に言われるまま安易に信じ込んでしまう人々よりは、人間が人間として最低
限持っていなければならない論理や筋道を大事にしている証左」(446頁)なので
あって、それこそがマスコミの存在理由たる「権力へのチェック機能」を支えるも
のなのだと主張しているのだが、私はまったく納得できなかった。

 そもそも「わが国」だとか「わが国の歴史風土」だとか、そんな粗雑な無定義語
でもって著者はいったい何を語っているのか、私にはさっぱりわからない。ジャー
ナリストの生命はその「歴史観」にあると思うのだが、それはあるカリスマ的人物
の人脈や経歴や隠蔽された意図などを暴いてみせることとは何の関係もない。端的
にいってたとえ偽善者の欺瞞性やスキャンダルを暴いたところで、その偽善者が事
実としてもつ力を無効にすることはできない。(対案を出す必要はないが、「起源」
をめぐる構造は抉り出してみせるべきだ。ナチスは軍事力という「全否定」の力で
もって粉砕されたけれど、その思想の構造はまだ解明されていない。)あるいはソ
ニーの「オカルト重役」天外伺朗への取材意図の説明として、著者は「ハイテク企
業に所属する科学者が、世間でオカルトと形容されている分野に取り組んでいるこ
とに関心があります。この間のギャップを考えてみることで、現代社会のある断面
が見えてくると思うのです」(51頁)と語っているのだが、こんな説明を受けたな
ら私だって取材を断るだろう。偉大なる常識人ならぬ思考停止に陥ったただの「世
間」人の声しか、そこからは聞こえてこないからだ。世間の常識(その実質はよく
わからないが)に寄りかかったとたん、そこにあるのはもう一つの思考停止でしか
ない。

 今日、書店で『意識が拓く時空の科学』(徳間書房)という新刊書を立ち読みし
た。本書でも名の出てくる湯浅泰雄氏が顧問、猿股修二氏が組織委員長を務め、ジ
ョセフソンがオープニング・レクチャーを担当した「第2回意識・新医療・新エネ
ルギー国際シンポジウム」(平成10年11月、早稲田大学井深大記念ホール)の記録
で、茂木健一郎氏も登場する実に面白そうな書物だった。私はもともとこういう話
題が好きなのだ。だから、本書『カルト資本主義』をこき下ろしたのではない。好
きだからこそ、本書のような批判はとても大切だと思う。その叙述力と構成力と取
材力の高さを損なう知的水準の低さが残念なのだ。志が低いのではない、「ハイテ
ク企業に所属する科学者」が「世間でオカルトと形容されている」分野に取り組む
ことを「ギャップ」ととらえるその問題設定の水準が低すぎるのだ。

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