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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.14 (2000/10/24)
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 □ ベルンハルト・シュリンク『朗読者』
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高校の頃読んだ本のなかで著者(たしか加藤諦三さん)が、若いうちはたとえば『
ジャン・クリストフ』のような文学書を読め、哲学・思想系の書物を繙く前に、と
書いていたのを覚えています。あれから幾星霜、この「教え」はまったく実践され
ず、哲学・思想系と文学系、その他諸々のジャンルをいったりきたりしてきました。
私はそれはそれでよかったと思っています。

哲学系の書物が、著者に固有の実在感のようなもの(哲学の問題)をめぐる言語を
使っての悪戦苦闘の記録であるとするならば、文学系の書物は、虚構世界の造型を
通じてこれもまた著者に特有の触感のようなものを言語化し、問題としてさしだす
営みなのであって、だから両者はウロボロス的な関係を取り結ぶほかはなく、それ
ぞれが皮膚感覚や内臓感覚、いずれにせよ生理的な感覚に根ざしている以上、それ
らの書物に出会うにふさわしい読者の側の年代や経験の容量というものがあるに違
いありません。

『明治文学遊学案内』(筑摩書房)で編者の坪内祐三さんが、次のように書いてい
ました。《負け惜しみでなく、私は、自分が早過ぎた読書家でなかったことを良か
ったと思う。(略)大人になって、まだ目を通していない、つまり未知の名作や古
典があることは、実は、とても幸福なことだ。その意味で、明治文学は、名作や古
典の宝庫だ。》また、「ある種の名作には、初めてその作品に出会うにふさわしい
年齢が考えられる」として、『三四郎』や『青年』『たけくらべ』はできれば十代
かせいぜい二十代のはじめ、『浮雲』以下の二葉亭四迷の三部作の本当の面白さが
わかるのは三十過ぎか四十過ぎ、云々。

たしかに、この年になってまだ読んでいない「名作文学」がたくさんあるのはほん
とうに幸せなことだと思うし、かつて、よくわかってなかったとは思うものの、た
くさんの「名作」に親しんだことも、それだけ多く再読・再会の幸せが残されてい
るということです。実際私が、冬眠をひかえた熊のように、読めるうちにできるだ
けたくさんの本を読んでおきたいと念じて、いくつもの本を同時進行的かつ重層的
に、中断と再開の繰り返しのなかで読み散らかしてきたのは、再読・三読の悦びの
ためなのだと思います。(老後に備えて?)

たとえば、いま思い出せるかぎりで書きだしてみると、『ジャン・クリストフ』は
全体のほぼ四分の三、『失われた時を求めて』や『チェホフ全集』は三分の二、『
アンナ・カレーニナ』は二分の一、ジョイスの『ユリシーズ』は三分の一、といっ
たぐあいに、数年、ときには十数年かけて断続的に読み進めている文学書があって、
それらは私の脳髄の折り畳まれた襞の中で、それぞれ一つのくっきりとした世界を
アクティブにかたちづくっています。(また、マルケスの『百年の孤独』やユルス
ナールの『黒の過程』、それから『源氏物語』等々もそれぞれ冒頭を齧っただけで
中断しています。でもそれは放棄ではなく、あくまで中断なのであって、何かのき
っかけがあって内圧が高まってくれば、いつでもすっと入っていける余熱のような
ものが残り火としてリアルに疼いているのです。)

一方、最後まで読みきった作品のうち、いまでもその虚構世界にはまっていたとき
の体感がリアルに残っているものがあります。ナボコフ(ただし短編)やロレンス、
バタイユやパヴェーゼ、カポーティやオースターの作品ならどれでも、単品ではド
ノソの『夜のみだらな鳥』、グラックの『シルトの岸辺』、マードックの『鐘』、
デュラスの『タルキニアの子馬』、ソレルスの『黄金の百合』等々と、書き出した
らとまらなくなる(ほど読んでいるわけではないけれど)し、こうやって思い出す
だけでとても幸福な気分になってきます。

さて『朗読者』。初めて書店に積まれたのを見て、直感的に、これはいずれ読むこ
とになるだろう、そして「忘れられぬ(私の中で生き続ける)書物」の一つになる
だろうとわかってしまいました。こういう幸福な出会いは、時折おとずれます。そ
の時は、手元不如意かなにかそんなくだらない理由のため、手に取っただけで他日
を期したものの、その後、ブームといってもいいほどの評判になって、なぜか購入
するのが気恥ずかしくなっていたのですが、どうにも我慢がならなくなって先日つ
いに入手して、一気に読み終えました。──いま一冊、その時同時に買ったもので、
これほどの書物たちといちどきにめぐりあえたことは、まことに欣快と、しばし至
福の時を味わった途方もない本があるのですが、これについては別号で。
 

●26●ベルンハルト・シュリンク『朗読者』
              (松永美穂訳,新潮クレスト・ブックス:2000.4)

 まず書き出しの数ページが素晴らしい。それこそが傑作の徴で…、などといまさ
ら絶賛するのも気恥ずかしくなるし、評言を繰り出すのが嫌になる。(言葉によっ
て汚染される感動。でも、その感動が言葉によってもたらされたものだというアイ
ロニー。結局のところ、言葉には二種類あるということ。ハンナを生かしつづける
言葉と殺してしまう言葉。)だから、ここではハンナのためにミヒャエルが朗読し
た書名を記録するだけにしておこう。《朗読がぼくの通儀であり、彼女に対して話
しかけ、ともに話をする方法だった。》──十五歳のミヒャエルが朗読したもの、
『エミーリア・ガロッティ』(レッシング)、『たくらみと恋』(シラー)、『の
らくら者日記』(アイヒェンドルフ)、『戦争と平和』、ミヒャエルの父(第三帝
国下の大学の哲学講師だったが、スピノザの講義をすると予告したことで職を奪わ
れた)がカントについて書いた著書。ハンナの服役後八年目から恩赦が認められる
までの十年間、カセットに録音してミヒャエル(法史学の研究者になっている)が
刑務所に送ったもの、『オデュッセイア』、シュニッツラーとチェーホフの短編、
ケラーやフォンターネ、ハイネやメーリケの作品、カフカやフリシュ、ヨーンゾン
やバッハマン、レンツ、ミヒャエル自身の著書、シュテファン・ツバイク、ゲーテ。
(起訴状と判決文も朗読されるが、これはミヒャエルによるものではない。)

 本書を読みながら、グレン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』を聴いていた。
四回、聴いた。いま五回目を聴きながら、本書の三部構成がとても気になってきた。
生と歴史の反復(と変奏!)の形式としての三部構成?──《なんて悲しい物語な
んだろう、とぼくは長いあいだ考えていた。(略)いまのぼくは、これが真実の物
語なんだと思い、悲しいか幸福かなんてことにはまったく意味がないと考えている。
(略)傷ついているとき、かつての傷心の思い出が再びよみがえってくることがあ
る。自責の念にかられているときにはかつての罪悪感が、あこがれやなつかしさに
浸るときにはかつての憧憬や郷愁が。ぼくたちの人生は何層にも重なっていて、以
前経験したことが、成し終えられ片が付いたものとしてではなく、現在進行中の生
き生きしたものとして後の体験の中に見いだされることもある。ぼくにはそのこと
が充分理解できる。にもかかわらず、ときにはそれが耐え難く思えるのだ。ぼくは
やっぱり、自由になるために物語を書いたのかもしれない。自由にはけっして手が
届かないとしても。》

 読んでいて気になった箇所が一つある。《ハンナが読み書きを習う勇気を持って
くれたことは、未成熟から成熟への一歩を踏み出したことでもあり、それは啓蒙へ
の一歩だった。》──このことと、ハンナの次の言葉を組み合わせると、『朗読者
』が湛えるあの痛切感、ハンナの悲劇性(あまり的確な語彙ではない、「ハンナの
悲しみ」でもないし)とその自死の意味が「解明」できるのではないかと思ったの
だが、そういう「きいたふうな」評言を繰り出すのはやはり嫌だ。《裁判所だって、
わたしに弁明を求める権利はない。ただ、死者にはそれができるのよ。死者は理解
してくれる。》

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