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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.13 (2000/10/20)
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先月の初め頃だったと記憶しているのですが、NHK教育の番組で広末涼子とヨー
スタイン・ゴルデルが対談していました。あなたが一番好きな哲学者は誰ですかと
『ソフィーの世界』の作者に問われて、広末涼子がニーチェですと答え、永劫回帰
って、いまのこの一瞬がとても大切なかけがえのないものだということを教えてい
るんだと思います、と概略そのように語っているのを聴いて、これは結構「深い」
と思い、それと同時になにかしら懐かしいものがこみあげてきたものでした。

実は、私が大学一年の時に読んだのが『ツァラトゥストラ』で、これが最後まで読
みきった初めての哲学系の書物だったのです。(高校の頃、キルケゴールとスピノ
ザの本を買ってはみたものの、かたや眩暈をおこしそうな文章、かやた石を齧って
いるような文章に、ほとんど手がつけられなかった。でも、この歯がたたない経験
こそが実は貴重なものだったのだと、後になって気づくのですが、これはまた別の
話題です。)

なにかにとりつかれたのではないかと思うほど、夢中になって一気に読み進め、読
み終えてからもしばらく微熱が続き、自分自身の(その当時はまだそんな言葉はな
かったのですが)OSがすっかり入れ替わってしまったような感覚にしばしば襲わ
れたことを、いまでもくっきりと覚えています。もちろん何も「理解」できてはい
なかったのだと思いますし、実はいまでもニーチェはよくわかりません。でも、そ
んなことは大した問題ではない。

言葉にはできず割り切れないけれど、しかし身体にしっかりと根ざしたある「感覚」
につつまれたことは、それこそが哲学書をよみえたことの確かな証だったのだと思
うのです。はたしてこのことと関係があるのかないのか、うまく説明はできないけ
れど、鷲田清一氏は『「聴く」ことの力──臨床哲学試論』で、次のように書いて
いました。

《「子供の教育のにおいて第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人
生が楽しいということを、つまり自己の生が根源的において肯定されるべきもので
あることを、体に覚え込ませてやることである」、と永井均もその著『これがニー
チェだ』のなかで述べている。(中略)他者をそのままそっくり肯定すること、条
件をつけないで。カントのいうような無条件の命令(定言命法)ではなく、無条件
の肯定である。こういう贈り物ができるかどうかは、ふたたびそのひとが、つまり
贈るひと自身が、かつてたった一度きりであっても、無条件でその存在を肯定され
た経験があるかどうかにかかっている。》

《臨床哲学の理念をめぐるディスカッションをしていて、しばしば方法がないとか、
確かな答えがないとか、いつまでもおしゃべりしているばかりだとか、参加者から
不満を口にされることがよくある。曖昧なことを割り切って分類しないまま、事を
進めるときのその「どっちつかず」が不安を醸すのだろうとおもう。割り切れない
ものを割り切れないままに受容しながら、しかもなんらかの解決にいたろうとする
ときの困難である。(中略)しかしこの臨床哲学にみられる「どっちつかず」を、
看護や介護が他者の(セルフ)ケアのケアとして「仲介的」であるのと同じように、
ケアするひととその自己理解を部分的にも「仲介」するいとなみであると考えれば、
ここで哲学もまたテクストの他者としての「現場」でその同一性を揺さぶられ、お
のれをたえず更新してゆくのだということになるだろう。臨床哲学はそこをみずか
らの「現場」として、そこに立とうとしているのである。》
 

●23●黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ:2000.9)

 同じシリーズから出ている長谷川宏著『ヘーゲル『精神現象学』入門』は、確か
「主体=実体」という簡潔なキーワードでもってヘーゲルのあの悪文──たとえて
いえば悪性新生物が「形態」をもとめてのたうちまわっているような文章(ただし、
私はあの「悪文」がとても好きなのだ、といっても原文を読めるはずもなくて、長
谷川訳以前の「悪訳」でしかしらないのだけれど)──でもって綴られた『精神現
象学』の肝心要の部分を鮮やかに叙述していたと記憶している。黒崎氏の著書も「
現象」の一語を理解すればカントの、少なくとも第一批判の実質はほぼ理解できる
のだと読者の頭に徹底的に叩き込み、これもまた長谷川氏の著書がそうだったよう
に、そこからの、つまりさんざんその魅力を語り読者を誘惑してきた当の書物から
の脱出方法まで懇切に伝授してくれる。入門書とはそうでなければならないと思う。

 著者は──第一版での、悟性(自発性)にも感性(受動性)にも属さない「第三
のもの」としての構想力の位置づけを決定的に変更した──『純粋理性批判』第二
版から最晩年の『オプス・ポストゥムム』にいたるカントの道は「思想的退化」で
あったと書いている。《カントは…『純粋理性批判』で開示した力動的(ダイナミ
ック)な真理観の展開をとざし、再び、固定的な体系による真理観へと退歩してい
ったのである。》著者は続けて、ニーチェの文章──《真理とは、それなくしては
特定の種類の生物が生きることができないような一種の誤謬である。》(『権力へ
の意志』)──に即して次のように書いている。
《ニーチェによれば、生物としての人間が安定した生を営むためには、世界は生成
変化しているものであってはならず、固定的で堅固なものとして表象されなければ
ならない。しかし、このように表象するのは、生にとって有益であるからであって、
それそのものが「真理」だからではない。/ニーチェの表現は多分に生物学主義的
ではあるけれども、カントがかいま見、そこから退避しなければならなかった〈新
たな〉真理の本質を明確に表現しているように私には思われる。》

●24●榎並木重行『ニーチェって何?』(洋泉社新書y:2000.5)

 序「少女と覆い」と第一章「認識」まではコクがあって結構よかった。第二章「
真理」第三章「道徳」第四章「意志」でちょっとダレて(著者の語り口がハナにつ
いてしまったのだ)、後語「槌(ハンマー)とハエ」でイキをふきかえした。気に
いらないところも多々あったけれど、後語に出てくるいくつかの話題、たとえば「
ニーチェは多様な声で語る」とか、哲学は覆いをはがすことではなくて、『偶像の
黄昏』の副題にあるように槌(ハンマー)を持ってすることだ──《つまり、ニー
チェって打検士なんだね。普通は輸入缶詰など叩いて、その音とか振動から中身の
状態を察知する打検士、ニーチェが叩くのは人間や真理といった価値だけど、どち
らも音を聴くより、音を立てる仕事である点で一致する。/ただ、缶詰なら中身が
問題なんだけど、人間や真理については仮面とか、皮膚とか、覆いとか、むしろ表
面で起こっていることこそが、とらえられる必要がある。》──云々だけでも、そ
して(カントを中間において、スピノザとの関係で)ニーチェへの関心を高めてく
れた刺激剤として、読む「価値」はあった。本書の、というよりニーチェのキーワ
ードは「生存条件」なのだと思う。(ところで本書の章建ては、どことなく『善の
研究』の構成、第一編「純粋経験」第二編「実在」第三編「善」第四編「宗教」を
思わせるところがあると思った。が、これはたぶん勘違いだろう。)

●25●スピノザ『知性改善論』(畠中尚志訳,岩波文庫)

 その昔、マキアヴェリとトクヴィル、ケルゼンを「素材」にして、デモクラシー
をめぐる政治思想を論じてみたいと夢想したことがある。スピノザがマキアヴェリ
を高く評価し、その全集と『君主論』の単行本を所蔵していたことを知って、素材
が一人増えた。──ところで『知性改善論』は退屈だった。すこぶる退屈だった。
この退屈さはどこから来るのだろう。スピノザはわれらの同時代人なのであり、だ
からこの未完の著書の新しさをもはや感受できなくなっているのではないかという
解釈が一つ。いま一つは、これと裏腹な関係にあるのだが、スピノザが設えた世界
のうちにすむ人間には、あるいは進化の段階を一つ上った生物には、もはや以前の
記憶は復元できないのではないかという解釈。それはちょっと違うようにも思うが、
うまく書けない。『知性改善論』が退屈なのではなくて、この世が退屈なのだ、と
でもいえばいいのか。(あるいは、スピノザは私に、「オマエハ一個ノ機械ナノダ」
と告げている?)

 補遺と余禄。本書は京都の古本屋で700円で購入した。1980年7月発行の第34
刷で、定価は150円。ちなみに、同じ時期、神戸の古本屋で200円で買ったジ
ンメルの『哲学の根本問題』(勝田守一他訳,岩波文庫)は昭和17年5月の第4刷
で、定価は40銭。これはまだ読み切っていないので、なんとも評しようがない。
ここではスピノザに言及した箇所を二つ、現代表記で抜き書きしておこう。(ジン
メルのこの書物は、できれば達意の新訳で読んでみたいものだと思う。)

《感覚はわれわれに「存在」を与えることはできぬ、却って反対に「存在」とはわ
れわれが感覚に与えるものであり、芸術の拘わり知らぬ形而上学的なものである。
(略)存在の普遍性、統一並びに形而上学的超感的意義をこのように組織すること
は、哲学的思弁の全歴史を通じていろいろな仕方で遍く行われている。古典的には
パルメニデスより二千年以上も下ってスピノザによってつきつめられたのである。
スピノザの第一の関心は、一般に近世の先験的な哲学のそれと同じく実体の概念に
向かっていた。》(第二章「存在と生成」)

《スピノザ主義的思惟方向によればこの両者[主観と客観]はその存在上絶対的実
体統一に達してしまっており、そうして両者の様相にその形而上学的実在的な実存
が実現して行くのである。(略)[これに反して、主観と客観がその本質において
分裂している場合は]しかし主観或は客観という範疇の下に実在をもち、そうして
この様々に複雑な現実のもとに、それらのうちに現実的になるものの統一を打ち建
て、それらにそうすることによって真理の可能性を与えるところの内容の理念的宇
宙がそこに成り立つ。この『第三王国』の発見は──それが未だ完全に明瞭な公式
化と認識論的確立とを得てはいないにしても──主・客の問題の世界史的解決の一
つをそのイデア論において示したプラトンの形而上学的偉業である。》(第三章「
主観と客観」)

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