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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.12 (2000/10/16)
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西欧古代・中世哲学特集、その四。最終回です。アウグスティヌスやトマス・アク
ィナスといった「ビッグネーム」を扱った書物(たとえば、山田晶さんの『アウグ
スティヌス講話』)、それからエリウゲナやヤコブ・ベーメの著書など、取り上げ
たいものはいくつかあったのですが、読み直したり新たに「読みおろし」たりする
時間がなくて断念。ま、このテーマは今後とも末永く私の脳髄にからまりついてく
ることだろうから、それらはまた別の機会に。

予定していたスピノザの『デカルトの哲学原理』については、たった一度、それも
ざっと概観しただけで、この恐ろしい書物を要約したり寸評することなど不遜の極
みというもの。(実際、私はスピノザが怖くなるときがある。)だからこれもまた
別の機会に。その他、ローマ法、パンデクテン法と中世哲学といったテーマも唐突
に頭をよぎったのだけれど(中井久夫さんの『西欧精神医学背景史』105頁あたり
がそのヒント)、これも別の機会に。

メールマガジン創刊以来、ちょっと気分が紅葉、いや高揚して(浮かれて)、この
ところ立て続けに発行してしまいました。いつまでも余韻に浸っていては息が続か
なくなるし、それにそもそも読んでいただく姿勢に欠けていると、ようやく気づい
て、次回からは当初考えていた方針──月に三〜五通程度、そのときどきに読んだ
書物のうちから、これは、と思うものを記録する──に立ちかえることにします。
 

●21●クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』
                (下中直人訳,平凡社ライブラリー:2000.8)

 スピノザまで、というよりデカルト以前の西洋哲学史を「復習」しておこうと思
って、全15章を逆に、つまりマイスター・エックハルトやニコラウス・クザーヌ
スから始めてソクラテス以前の自然哲学者へと遡って読んでいった。ここに記され
ている事柄はいずれも中途半端に聞き知っている、というよりどこかで読んだ覚え
のあるものばかりで、だから概説書を読むときに必要な慎重さを欠き、十分な時間
と手間(参考文献による補足など)をかけずに一気読みしてしまったものだから、
二千年に及ぶ哲学史をめぐる極めて散漫で断片的なな印象しか残っていない。それ
でもスピノザとの比較という「読書軸」がまがりなりにもあったので、いくつか有
益な手がかりが得られたように思ったのだが、それも記憶の彼方に消えてしまった。
(どういうわけか、たぶん同時進行的に読んでいた浅田彰著『映画の世紀末』の読
後感が混在してのことなのだろう、表象不可能なものの記憶と表現不可能なものの
歴史、といった語句が本書を読み終えたばかりの頭のなかでとぐろを巻いている。)

 旅行者はあらかじめ持ち合わせていたものしか持ち帰らない。たしかそんな格言
があった。ヘラクレイトス(からストア学派へ、そして…)とパルメニデス(から
ゼノンを経て原子論者へ、そして…)、ネオプラトニズムと東方キリスト教父、世
界霊魂の説を唱え因果的決定論と自由意思論の矛盾を孕みやがて新プラトン主義に
「吸収」されていったストア(柱廊)学派への関心など、どれもこれも以前からく
すぶっていたものばかりがあいかわらず疼いている。本書を読んで、アウグスティ
ヌスとドゥンス・スコトゥスあたりを(それから気は進まないけれど、やっぱりア
リストテレスとトマス・アクィナスは)いつかきちんと押さえておかなければいけ
ないのだろうと思った。

●22●エディット・シュタイン『現象学からスコラ学へ』
                   (中山善樹・九州大学出版会:1986.12)

 ユダヤ人家庭に生まれ、フッサールに学び、現象学的研究を通じてカトリック信
仰へと導かれ、カルメル会シスターとしてオランダ、エヒトの修道院で十字架のヨ
ハネやディオニシウス・アレオパギータの研究に取り組み、アウシュヴィッツのガ
ス室で生涯を終えた。編訳者によると、エディット・シュタインは「哲学の本来の
主題は、第一の真なる存在であり、それを根源的な仕方で探求するためには、哲学
は神学によって、理性は信仰によって本質的な仕方で補完されなければならない」
との確信をもっていたという。本書に収められた五つの論文のうち「フッサールの
現象学と聖トマス・アクィナスの哲学、対決の試み」「マルチィン・ハイデッガー
の実存論的哲学」「神認識のさまざまな道──ディオニシウス・アレオパギータと
彼の象徴神学」の3編を概観した。次の抜粋は『存在と時間』における「現存在」
とは何かを論じたくだりから。

《人間が身体を持っていることは論議の余地がない。それについては詳しく論じら
れない。それに対して「魂」という語について語られる場合には、それは殆どこの
語の背後には、明確な意味がないということ以上のことを意味していないとされる。
このことは、ここには唯物論的な見解が伏在しているというふうに誤解されてはな
らない。反対に、「霊魂」(これは勿論、使われてはならない言葉なのであろうが)
に或る優位が認められていることは、明確に表明されている。〔著者註:ハイデッ
ガーが現存在の空間性について言っていることを参照せよ。〕現存在の分析が、か
つていかなる霊魂論も到達しえなかったほどの明晰性を与えるのは明らかであろう。
》(117頁)

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