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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.11 (2000/10/15)
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西欧古代・中世哲学特集、その三。久しぶりに養老孟司さんの本を読み、いつもと
変わらぬ刺激を受けました。(この「反復」はほんとうに不思議で、それはかつて
確かに私のうちに生起したものであったはずなのに、そのつど新しく、というより
そのつど「初めて」訪れるのです。)たとえば「二つの情報系」(生物が持つ遺伝
子系と神経系のこと)という文章の次の一節。少し長くなりますが、養老武士なら
ぬ養老節が典型的に出ていると思うので、まるごと書き写しておきます。(ちなみ
に、冒頭でいう「主張」とは、たとえばドーキンスや進化心理学の諸書にうかがえ
る「遺伝子万能主義」をさしています。)

《どのような主張を、たとえば遺伝子についてくり返そうと、言語による主張自体
は脳という情報系に含まれてしまう。だからその主張自体を実験的に消すことは簡
単である。当人の脳を麻酔すればいい。したがって遺伝子系と神経系とは、「二つ
の情報系」というしかないのである。両者は二匹のヘビがたがいに尾をくわえてい
るという、なじみの構図になるほかはない。たがいに相手を飲み込もうとすれば、
それは可能かもしれない。しかしあとにはなにも残らないのである。

 二つの情報系という見方をとるならば、生物の科学はやはり二つに分離する。一
つは現代生物学のほとんどで、それはいまでは遺伝子系を対象とする科学である。
残りのほんの一部が神経系すなわち脳を対象とする科学である。ところが後者は、
「いわゆる生物学」の外部にむしろ大きな広がりを持っている。じつは人文・社会
科学を脳の科学に含めてよいと思われるからである。こうした「脳科学」は人間界
のできごとを扱っており、その多くの部分はヒトの脳機能、すなわち脳という情報
系の性質に依存している。死体に残されている情報が、遺伝子系に含まれる情報だ
というのと同じような意味で、歴史や社会に含まれる情報は脳機能についての情報
である。むろん人文・社会科学者たちは、自分たちが脳研究者だとは夢にも思って
いないと思う。しかしそれは、そう思っていないだけのことである。》

それから、あとがきに出てくる次の一節。「解剖学を定年にした」あとの残された
時間で自分の考えの体系をまとめようと思うのだが、私はそれを勝手に「人間学」
と呼んでいる云々、と述べられたくだりに続くもので、ここには、先に引用した一
節ともども「養老学」と呼ぶしかないものの実質、エッセンスが凝縮されていると
思う。(ちなみに、養老学の方法論は、「二つの情報系」に出てくる次の一文、「
解剖学とは遺伝子系の最終産物を脳という情報系に翻訳する作業だ」に尽きている
と思います。)

《人という尺度は、脳と身体でできている。脳は意識を与え、その意識がさまざま
な表現を生み出す。いまの人はその表現のなかに溺れて、しばしば自分の居場所す
らわからなくなっている。脳のなかを泳いでいるのである。そのプールの大きさを
測るのが脳の科学であろう。脳科学自体が溺れてしまうと思う人もいるだろうが、
こればかりはやってみないとわからない。

 その点、身体という尺度は、間違いようがない。そのかわりどうにもならない面
を持っている。身体は完全には意識化できないからである。表現のためには身体が
必要だが、その身体が完全な意識にはならないということが、人間のアポリアであ
る。身体のほうは、詰めるところまで、意識で詰めてみるしか仕方がない。日本の
伝統・文化という「表現」のなかでは、それが型の問題になっている。》

二つの情報系を「見えるもの」と「見えざるもの」に関連づけ、さらに知覚と想起
(あるいは運動)、絵と詩(あるいは音楽)、建築と文学、『エチカ』第二部以降
と第一部、等々へと重ね合わせていくことで、スピノザが磨いたレンズの中を現代
へ(もしかすると久遠の未来へと)向かって伝達されている何かの屈折率を測定す
ること。──謎めいた呟きを残して、次号へ。
 

●19●養老孟司『臨床哲学』(哲学書房:1997.4)

 再読、三読(以下、無限に続く)されるべき書物。オッカムならぬ養老孟司の「
カミソリ」(いや時として「雷」か)は「ヒゲ」(「論理化できない決断の集積」
としての生)を愛しむ。第一章「臨床哲学」に収められた四つのエッセイ──「哲
学と脳梁」「ヘッケルの〈真理〉」「個体発生と二つの可能世界」「オッカムとダ
ーウィン」──はいずれも『季刊哲学』に連載されたもの。以下は、引用によるそ
の勝手な編集。(抜き書きをしていて、唐突にニーチェを想起した。中世哲学の「
臨床」に、スピノザの屈折率を介してニーチェが立ち会っている?)

《哲学に対する現実からのフィードバックは何か。それが無いという立場もあるか
もしれないが、それなら純粋数学の言語版であって、好きにやってくださればよろ
しい。そういうものを私は純粋脳過程と呼んでいる。ここで議論しようと思うのは、
もう少し高級でない哲学の話である。それで、ためしに臨床哲学という題をつけて
みた。》《哲学では話が丸まる。(略)私のつたない解釈を言えば、話が丸くなる
のは、それが脳内過程だからである。》

《数学的な理論は、脳の法則性を脳の外に出したものである。こんなことは当り前
のことだと思うが、納得する人はあんがい少ない。》《臨床哲学の第一の前提は、
ヒトの精神活動は主として脳の機能だ、というものである。なぜ「主として」かと
いうと、脳だけ切り出したら精神活動が維持できる、と誤解する人がかならず出現
するからである。》

《臨床哲学というのは、哲学の具体的な応用であると同時に、哲学者の臨床分析で
もある。》《…デカルトの症状の特徴は、本人も繰り返し主張するように、考えの
明証性にある。それはおそらく皮膚の感覚性連合の特徴であろう。だからこそ、視
覚と触覚なのである。》

《哲学者に聞きたい疑問の一つは、その哲学者個人の「現実とは何か」である。た
とえばこれが、哲学の臨床たる所以である。》《…私の考える現実を定義しておく
必要があろう。私の言う現実とは、どのような意味であれ、われわれの脳の機能状
態に影響するものを呼ぶ。》《もし哲学者が、脳の外の世界と脳の中の世界の厳密
な対応を考えるならば、その哲学者は自然科学者になるほかはない。》

《要するに、世界の認識に関する私のイメージはこうである。中心に脳が位置する
空間がある。その世界の辺縁は柔らかい布によって包まれ、空間は閉じている。空
間の外にはわれわれの呼ぶ「外界」が存在するが、それをわれわれは布を通してし
か認知できない。この布がわれわれの知覚系に相当している。布を通して見た世界
はさまざまであるが、そのどれが「現実世界」であるかは、よくわからない。(略)
このような「布の中の空間」がいかに成立したか、それは生物の発生と進化を考え
るしかない。》

《…受精卵とはつねに可能世界である。それが現実世界に転化するには、発生過程
を完了する必要がある。》《…有性生殖による個体発生の成立は、二つの可能世界
を発生させたのである。一つは、遺伝子の新しい組み合わせによる個体という可能
世界。(略)もう一つは、個体発生の系統的なズレによって生じる「進化」という
可能世界。これがついにはわれわれの脳を成立させ、おかげでわれわれは可能世界
と現実世界という、抽象的な問題まで背負い込むことになった。》《…計算するよ
りも発生させて見た方が早い…。》

《切り落とすには、ヒゲがいる。われわれの「科学」に必要なものは、カミソリで
はない。じつはヒゲである。》《…オッカムもダーウィンも、ヒゲがなぜ生じるか
については、うまく返答できなかった。(略)ヒゲの発生については、…運動系を
吟味するしかない。(略)知覚系の機能が運動系の試行という「偶然」に依存する
こと、これが学問がたえず直面するパラドクスである。知覚系を意識するより、運
動系を意識する方が困難である。そもそも意識とは、自己の脳の機能に対するなん
らかの「知覚」であり、運動すなわち「意図」に隣接するとはいえ、まだ運動に到
ってはいない。運動の意識化は、ニュートンの古典力学を出ていないらしいのであ
る。》

●20●山内志朗『普遍論争』(哲学書房:1992.11)

 中世哲学が晦渋で暗い論理を駆使しているといったステレオタイプ化したイメー
ジは、スコラ哲学を知りつくしていたルネサンス期のフマニストたち(エラスムス
ほか)の「戦略的」罵詈雑言が今日まで影響を及ぼしているからであって、中世哲
学と近世哲学とは実は連続している、あるいは「ルネサンス=光」「中世=闇」の
通俗的図式は信用できない(ブルクハルト的図式「ルネサンス=中世+人間」に対
するジルソンの図式「ルネサンス=中世−神」への共感)、そのことを、普遍論争
の表層を覆う化粧・仮面(「中世哲学においては、普遍が名称なのか事物なのかを
めぐって、数世紀の間激しい論争がなされた」といった記述)を剥がして、その深
層にある「見えるもの」(身体的なもの、地上的なもの、有限者、偶有性、現前、
…)と「見えざるもの」(精神的なもの、天上的なもの、無限者、実体、非現前、
…)という図式をてがかりとして見通してみたい。──これが著者の目論見で、そ
れは十分達成されていると思う。明快な語り口をもった書物。(九十頁に及ぶ「中
世哲学小辞典」が付録についていてとても便利。常備し折にふれ再読したいが、六
千九百円はちと高い。)なお、本書は「中世哲学への招待」第一巻で、第二巻では、
存在の一義性とアナロギアの対立や個体性の原理、精妙博士(Doctor subtilis)
ドウント・スコトゥスとオッカムの対立といった話題が扱われるという。

 少し長くなるが、本書の「転回点」に位置する文章を引用しておこう。《私は中
世哲学の表看板としては、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉の方がよいのではな
いかと思っています。〈見えるもの〉を通して〈見えざるもの〉に到ろうとする傾
向が主流であると言いたいのです。……このモチーフは様々なところに見られます
が、聖書のなかの一節が重要になります。「今われらは鏡をもて見るごとく見ると
ころ朧なり、然れど、かの時には顔を対して相見ん」(コリント前書一三・一二)
というのは中世では決定的なイメージではなかったかと思えます。この世のもの、
つまり被造物は〈見えるもの〉としてあって、無限なもの、神的なものはすべて〈
見えざるもの〉としてあるが、この〈見えざるもの〉とは人間の認識の枠内に登場
しないということではなく、「鏡の中に見るごとく、謎において」(per speculum
 in aenigmate)見えているものです。この朧にしか見えないような認識の仕方は
必ずしも否定的に扱われるわけではなく、そのようにしか人間は無限なものを認識
できない以上、その構成を吟味して、「鏡」というのは自分自身の精神のことなのだ、
という有力なモチーフも登場してきます。また、「顔を対して(face ad faciem)
見る」ということは、中世の神学では至福直観(visio beatifica)と称されて、
それがどの様にして可能になるのかが盛んに論じられたりしました。これは一般に
は身体性を脱することによってなされると考えられたわけですが、モチーフだけ取
り込まれて実はいろんな邪宗に流れ込んでいくということにもなったようです。と
にかく、こういう〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉というモチーフは中世哲学に
おいて最も基本となる図式と私には思われます。》

 著者は続けて、「見えるもの」と「見えざるもの」は神と被造物、個人と他者、
ある言語と他の言語といった「共通の尺度を持ちえない断絶(共約不可能性)の基
本的モデル」になるという。現代は「共約不可能性」を実体化し、それへの対処の
仕方を失った時代である。著者は、中世哲学に共約不可能性に関する分析を期待す
る。《…私にとって中世スコラ哲学とは共約不可能性の系譜なのです。共約不可能
性を推し進めれば、へたをすると、分裂病に近づきます。うまく行っても、離人症
です。そして中世の哲学者の記述は分裂病に酷似していると言われる場合もありま
す。しかし、中世の哲学者は精神の健全さを失っていないということがあります。
哲学に興味があるということ自体、精神の異常さの発露であるというのであれば、
それはそうかもしれませんが、中世哲学において精神の健全さは失われていないと
すると、その健全さを支えていたのは何かということに一つの鍵があるように思え
るのです。》

 以下、記号をめぐる議論(なぜ中世哲学において記号論が成立しなかったのかな
ど)、中世論理学における「代表」の理論(代表と基体の関係、単純代表と普遍論
争の関係など)へと議論は展開していくのだが、このあたりは正直いってやや難渋
した。もう少しじっくりと熟読玩味していたなら、たぶんスリリングな叙述を楽し
めたはずだとは思うけれど、肝心の(私の関心事の)「共約不可能性」云々をめぐ
る議論が次巻に委ねられると知って、ちょっと力を落としてしまったのは事実。

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