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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.10 (2000/10/14)
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西欧古代・中世哲学特集、その二。折りにふれて読んだ関連書物から、もっとも深
い感銘もしくは強い示唆を受けた二冊の書物をめぐる感想文もしくはエッセイ擬き
を紹介します。

付録。中世哲学の森で途を見失わないための語彙集(私の頭の中で徐々に形をなし
つつあるもの。ただし粗にして未完)から。――その一。「客観 obiectum」は「
主観 subiectum」と対をなす語ではなく、「現実に存在する物」に対する「思惟内
容として存在する物」すなわち観念(心に投影された事物の姿)を意味していた。
畠中尚志氏はこれに「想念」の訳語をあたてている。(スピノザ『知性改善論』訳
者註)主観と客観が対になったのは、カントの時代だった。

その二。ハイデガーによれば、「real」を「実在的」と訳すのは(少なくともカン
トの時代までは)間違い。「real」はラテン語で物を意味する「res」に由来する
語で、可能的なものであれ現実的なものであれ、ある事物の「事象内容」に関わる
といった意味である。たとえば、「一点から等距離にある点の軌跡である」という
ことが円の事象内容、つまりそのレアリテートなのである。(出典:木田元著『ハ
イデガー『存在と時間』の構築』)

その三。「抽象」は、13世紀までの通常の用法では、経験的素材をもとにそこか
ら能動知性によって供給される「可能的形象」を純化し洗い出すことを意味してい
た。(出典:坂部恵著『ヨーロッパ精神史入門』)──その他にもいくつかあった
のだけれど、いまとっさには思い浮かばない。
 

●17●坂口ふみ『〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人びと』
                            (岩波書店:1996)

 オリゲネスの『諸原理について』と同時並行的に、坂口氏のこの濃密に圧縮され
た内容とその代償かとも思われるどこか吃音めいた叙述のスタイルをもった著書を
読み進めていて、何か底知れない豊かな鉱脈を堀りあてた思いに興奮さえ覚えたの
だが、しかし巨大なフラスコを使った壮大な化学実験の現場に立ち合った盲人のご
とく、矢継早に繰り出される、匂いをかいだことすらない化学物質(教父)の名や
手にしたことのない化学器具(概念)の操作音に翻弄され、すっかり方向を見失っ
てしまった。だから、「カルケドン公会議で明確な姿を現わした「カテゴリーを超
える個存在」」といった、ほとんど本書のさわりに相当する記述がもつ衝撃的とい
ってもいい内実について、ただそれは「純粋な個としての個、かけがえのない、一
回かぎりの個の尊厳」といった語り口がはらんでしまう「近代的」な(「現代的」
なというべきか)響きとはおそらく微妙に異なるものである(したがって無限にか
け離れていくものである)としかいえず、ましてやいま「化学実験」の比喩で表現
しようとした神性(超越性)と人性のアマルガム、ギリシャ語のヒュポスタシス(
沈殿)とラテン語のペルソナ(仮面)との「概念のポリフォニー」をめぐる著者の
屈折した叙述を腑分けすることなど到底できそうにない。

 ※ これは本書にはじめて接した時の感想文で、その後「概念のポリフォニー」
  をめぐる抜き書きを別のところでやりました。(ちなみに、本書は養老孟司
  『臨床読書日記』でも取り上げられていた。)
     [http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/19.html]

●18●坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店:1997)

 私が『ヨーロッパ精神史入門』を読み始めたのはその副題「カロリング・ルネサ
ンスの残光」に惹かれたためだ。それというのも「カロリング朝ルネサンスを代表
するアイルランド出身の哲学者ヨハネス・エリウゲナ」への強烈な関心がここ一年
ほどかけて徐々に醸成されていた(エリウゲナ症候群とでも名づけようか)からな
のだが、そのエリウゲナの『ペリフュセオン』(自然について)の一節──《神は
その卓越性のゆえに、いみじくも「無」(nihili)と呼ばれる。》──とC.S.パ
ースの文章──《考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的
な先入観──思考においても、存在においても、発達過程においても、「確定され
ないもの」(the indefinite)は、完全な確実性という最初の状態からの退化に由
来する、という先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者──
「定まらないもの」(the unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」
の両極としての、「確実性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、
認識論的にも、形而上学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論
者の側にあるのである。》──が並んで引用されている頁を書店での立ち読みの際
たまたま目にしてただそれだけのことで衝動買いに走った。

 エリウゲナという筆名はW.ジェイムズが『宗教的経験の諸相』で「キリスト教神
秘主義の源泉(fountainhead)」と性格づけた偽ディオニユシオス・アレオパギテ
ースの(ネオ・プラトニズムの系譜に連なるプロクロスの哲学とキリスト教神学と
を結合した)ギリシャ語の著書をラテン語訳した際に、アイルランドを意味する古
代ケルト語と「…から(で)生まれたもの」を意味するラテン語の接尾語を組み合
わせて自ら考案したもの。十七世紀以来「ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ」と
誤って呼ばれるようになったが、ここに出てくる「スコトゥス」とは「スコティア
人」の意味で、スコティアは当時一般にアイルランド(スコットランドではない)
を指す言葉だったというから、結局「アイルランド人のアイルランド人のヨハネス」
という畳語になってしまう。──エリウゲナの「名」をめぐる話は『中世思想原典
集成6』(平凡社)に収められた『ペリフュセオン』の訳者解説に書いてあった。

 坂部氏によると、古代地中海世界に対する「ヨーロッパ世界」が確立され「知性
─理性─感覚、神学─哲学─自由学芸、という、以後数百年にわたってヨーロッパ
世界を支配することになる思考と学問と教育制度との序列」の基礎が据えられたの
が九世紀で、その代表的哲学者がエリウゲナ。以後、ノミナリズムによって神学と
哲学との間に亀裂が入った十四世紀、次いで1770年から1820年にかけて第二の亀裂
が哲学と自由学芸(個別科学)との間に入り、現在は1960年以降の第三の亀裂の時
を迎えているというのだが、この間一貫して、エリウゲナの「理解を絶しアクセス
不能な光の闇」や「神化」(テオーシス)の思想に発する精神の地下水脈が──ニ
コラウス・クザーヌスやライプニッツの「垂直の個体概念」からパースの哲学へ、
そしてT.E.ヒュームによって受容されたベルクソンの「内包的多様体」やホワイ
トヘッドの形而上学、ボードレールの「万物照応」やヴァレリーの「錯綜体」、さ
らにデリダの「いまだ名づけえぬもの」等々へと──流れていた。

 ※ この文章はメールマガジン『カルチャー・レヴュー』11号(2000/06/01発
  行)に掲載していただいた「ヒューム熱」の草稿から抜粋しました。同誌バッ
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