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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.1 (2000/09/25)
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先日、久しぶりに街の大きな本屋に立ち寄ってみると、知らないうちに、珈琲を飲
みながらじっくり腰を落ち着けて「只読み」することができるようになっていて、
ちょうど近くに自然科学のコーナーがあったものだから、早速、脳科学の棚から最
近気になっていた新刊書やらいずれ読まねばと思い定めていた本をどっさり持ち出
し、とっかえひっかえ読みながら至福のひとときを過ごしました。新しいシステム
に不慣れゆえの背徳の甘美な慄き(?)を感じながら。

その時読んだ本のなかでは、養老孟司さんの『臨床哲学』と『臨床読書日記』がこ
とのほか刺激に満ちていました。もっとも、私は養老さんの文章を読むと、たいが
い無条件に刺激を受けてしまうのですが、この二冊の書物をあわせ技で読み込むこ
とで、ちょっとした読書論を仕上げることができるのではないかなどと思ったもの
です。たとえば、本を読むことは脳内世界(純粋哲学の世界)に属することなのか、
それとも森羅万象の世界(臨床哲学の世界)に属することなのか、書物が拓くのは
「可能世界」なのか「現実世界」なのか、モノとしての書物とそこから立ち上がる
世界との関係は哲学でいう「心身問題」とパラレルで、そうすると読者とは「観測
者」のことではないのか、等々。このあたりのことはいつか、池田晶子さんとかハ
ンナ・アレントだとかの著書も踏まえながら、腰を据えて考えてみたいと思ってい
ます。

さて、予告編ばかりであまりたいした「前口上」は述べられませんでした。だから
というわけではないですが、今回は、私が(本名で)参加している某メーリングリ
ストで試みられた「マルチ・ブック・レビュー」での「書評」を二本掲載します。
少し肩に力が入りすぎていますが、そこが「創刊号」にふさわしいのだと勝手に思
い込んで。
 

●1●金沢創『他者の心は存在するか』(金子書房:1999.11)

 読者の思索を促す豊かな素材と議論に満ちた書物である。とりわけ進化論的な
「私」の表現レベルを論じて「今、ここにある感覚情報の宇宙」という根源的存在
へ降る最終章が素晴しい。真正の哲学の問題とは自然科学書の最後の頁に記される
ものであるとするならば、ここに叙述されているのは出来合いの心身論や意識論、
他我論をめぐる退屈な哲学談義ではなく、自らの感覚と直観と生の現実に即した思
考の果てにまぎれもない哲学の問題とその言語的表現を見出した者の驚きである。
 このような著者の驚きが読者である私(もうひとつの宇宙)に伝達され理解され
さらなる思索を導くことのうちに、他者とのコミュニケーションをめぐる奥深い謎
が孕まれている。哲学の問題とはこうした類の謎をかかえて生きる者、生きて行か
ざるを得ない者をとらえる「哲覚」とでもいうべき感覚にほかならないのであって、
それは本来ヒトが自然科学を志す契機ともなるはずのものだ。この感覚の外部に立
った哲学的言説や科学理論は、ここでいう外部の設営そのものも含めて死んだモデ
ルにすぎないだろう。
 寺田寅彦はかつて科学者がもつべき要素として、数理的分析能力や実験によって
現象を体系化し帰納する能力とともにルクレチウス的直観能力を挙げ、ルクレチウ
スのみでは科学は成立しないがルクレチウスなしには科学はなんら本質的なる進展
を遂げ得ないと書いた。真正の哲学的センスと自然科学的センスが融合した本書は
科学的思索の書であると同時に「科学」批判の書であり、哲学的思索の書であると
同時に「哲学」批判の書である。
 ところで内容の豊穰はその過剰につながる。第II章から第IV章にかけて多彩に繰
り出される方法論的・理論的検討は鋭く示唆に富むが、著者自身の議論との有機的
な関係は必ずしも明快ではない。叙述に不足があるのではなく、素材が過剰なので
ある。また第IV章後半の議論と第V章の議論では問題や方法の次元と質が異なって
いる。著者が本当に書きたかったのは後者だと思うが、ある意味で本書は第IV章で
完結している。ここには構成上の過剰がある。さらにいえば、随所にちりばめられ
た科学者としての著者の態度表明ともいうべきメタ・メッセージが本論に繰り込ま
れ明示的に展開されることもない。
 しかし以上の事柄は少なくとも私にとって本書の魅力の一部である。これらの切
断面をつなぐことで未だ言語化されていない著者の「宇宙」に迫るスリリングな読
後の作業が残されているし、ベイトソンの進化理論=メタローグ説の眩暈的世界を
彷彿とさせる本書の構成上の多次元性が私自身の哲学の問題をめぐる思考を刺激し
てやまないからだ。完成された書物がもたらす陶酔は読者の思考を奪うのであって、
本書最終章のテーマに即していえばそれは失敗したコミュニケーションの残香にす
ぎないのである。

●2●養老孟司編『脳と生命と心』(哲学書房:2000.4)

 脳や生命や心をめぐる現象と認識について考えるとき、「from soup to nuts」
という語句が威力を発揮するのではないかと思う。たとえば、茂木氏の志向性の概
念を「from 〜 to 〜」と、クオリアを「〜」とそれぞれ対応させ、計見氏のいう
肉体もしくは内臓(「こころ」とその枕詞である「むらぎも」の語源がともに内臓
の意をもつことから)や団氏の「物質の雑音状態」等々を「soup」に、そして郡司
氏、池田氏が論じている記号(郡司氏の場合はサインでなくシンボル)や団氏の
「生命=安定状態」等々を「nuts」に関連させることで、本書全体のラフな見取図
が描けそうだ。
 あるいは、質料から形相へ、可能態から現実態へ、普遍性から個別性へ──そし
てギリシャ語の「ヒュポスタシス」(サブスタンスにつながる「実体」の意味とと
もに「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの、濃いスープ」の意味をもつ)
からラテン語の「ペルソナ」へ(坂口ふみ著『〈個〉の誕生』参照)──などと読
み替え、これを、素粒子は豆を煮たスープのようなもので、それを観察すると煮る
前の豆に戻る云々と天外伺朗氏が語っていたこと(茂木氏との共著『意識は科学で
解き明かせるか』)と組み合わせることで、天外氏の比喩がもつ遡言的かつ反エン
トロピー的な含意も含めて、本書のもう一つのテーマである「物質の問題」(松野
氏)を考える上で欠かせない視点が導かれる。
 さらにいうと、その経験の確立に時間を要し、つまり再現性が弱く、いいかえれ
ば一回性や個人性の要素が強く、したがって同一性の特定が困難な触覚的知覚を
「soup」に、本来触覚との協働を抜きにしては考えられないにもかかわらず、いっ
たん成立すると身体性から抽象され、無時間性や再現性や反復可能性や公共性が強
くなる傾向をもつ視覚的知覚を「nuts」にそれぞれ置き換えてみることで、分量・
内容ともに本書の骨格をなす茂木氏と郡司氏の二つのセッションを架橋する軸をし
つらえることができそうだし、本書のハイライトの一つである澤口氏と茂木氏の応
酬がもつ意味を解き明かすヒントが得られそうに思う。もっとも、編者による簡潔
にして要を得た総括が示されているのだから、これ以上、言葉遊びに類する駄弁を
重ねるのは控えたい。
 それにしても養老氏の「まえがき」と「あとがき」は感動的なまでの刺激に満ち
たもので、討議を終えて興味をもった根本的な問題として氏が綴る文章──「たえ
ず変化していくものとしての生物というシステムと、それ自体は変化しないという
性質を持つ情報とが、どのようにして関係しているか」──の含蓄を吟味し玩味す
るためにこそ、本書は熟読されるべきである。(これは私の直感が語らせる蛇足に
すぎないのだが、養老氏がいう根本的問題は「神」や「聖性」の問題へとつながっ
ていくのではないだろうか。)

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