メールマガジン「不連続な読書日記」【No.0】




●サンプル1●

☆浅田彰『映画の世紀末』(新潮社:2000.4)

 ヴィム・ヴェンダース(「奇跡の映画」)は2本、ジャン=リュック・ゴダール(「映画の奇跡」)は4本、ストローブ・ユイレ(「唯物論」)はたぶん未見、ピエル・パオロ・パゾリーニ(「墓碑」)は3本か4本。映画体験をめぐる記憶能力に著しく欠けるため、もしかしたらもう少し見ているかもしれないけれど、本書で取り上げられた監督たち――「映画の前線を考えるにあたって絶対不可欠と思われる何人かの映画作家」(後書き)――の作品にはほとんど接していない。『ショアー』も『スペシャリスト』もまだ断片的な映像しか見ていないけれど、そんなこととは関係なく楽しめたし、確かに「書物として書き直せば数冊分にもなるであろうアイディアが盛り込まれている」と思う。

 収められた短文や講演記録、四人のゲストとの対話の中で、「政治」と題されたパーツでの鵜飼哲との対話が面白かった。鵜飼氏による「記憶と歴史」というテーマの提示(記憶=『シネマ』のドゥルーズ、歴史=『映画史』のゴダール、等々)を受けて、浅田氏はゴダールは「映画だけが歴史を語れるのだとさえ言うわけです」と述べている。「映画だけが、固有の技法としてのモンタージュ――ただし既存の用法をはるかに超えた高次元のモンタージュによって、同時進行する複数の系列の遭遇と分岐としての歴史を語ることができるのだ、というわけです。」(242頁)

 ついでに同じ対話から、印象に残ったその他の断片(いずれも浅田氏の発言)を引用しておく。「…ドゥルーズが『シネマ2』の第七章でとつぜん映画におけるカトリシズムということを言い出す。いまやわれわれは、それ自体が悪しき映画のようになってしまったこの世界を信じられなくなってしまった。この世界をふたたび信じること、とくに身体を通じて信じることが、現代の映画の重要な問題なのだ、と。それで、、ゴダールがまさにそれをやっているんだ、と言うんですね。」(234頁)「映画というのは、物語以前に、とにかく現実が映ってしまうというリュミエール兄弟的な驚きから始まる。」(254頁)――「墓碑」での四方田犬彦との対話に出てくるパゾリーニの「自由間接主観ショット」の概念も刺激的。
 
 

●サンプル2●

☆鎌田東二『神道とは何か』(PHP新書:2000.4)

 高校生にもわかってもらえる本を書きたいと思いつづけてきたと著者は書いていて、その意図は成功していると思う。確かに高校生にも「わかる」だろう。しかしそれではいったいどれくらいの人が本書を通じて「神道とは存在感覚である」(80頁)という著者の主張を、そして「この大気そのものの中に何かがある」(ラフカディオ・ハーン)といった「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)を「実感」できるだろうか。

 あるいはまた本書は次の方法論的宣言を自ら実証しているだろうか。《…伝承されてきた神話や物語や儀式を外側から観察し調査し、それを分析するだけでなく、私たち自身の内側に起こってくる感覚の変容、あるいは身体の変容そのものをも、現象学的な研究の対象として考えていくべきであると私は思う。/折口[信夫]の言葉を使って言えば、実感と実証を結びつけるという作業が必要なのである。とりわけ神道のような伝承的宗教や信仰体系においては、この実感を基にした考察、洞察は不可欠であると思われる。》(33頁)

 本書が失敗作だといいたいのではない。それどころか旺盛な執筆活動を展開してきた著者の現時点での集大成ともいうべき水準を示す著書だと思う。──たとえば《神は存在世界の存在論である。仏とは人間世界の実践論であり、認識論である。》(190頁)とか《神道が神主(神がかりする者)だとすれば、仏教は審神者[さにわ](神がかりを正しく査定し位置づける者であ》る(210頁)といった指摘は「深い」。

 結局のところ言葉のありようなのだろう。語り得ないもの(聖なるもの、超越的なもの、ハレ、非日常等々だけではなくて、そもそも言葉の意味も)をいたずらに神秘化して「示す」よりは、本書のように「高校生にもわかってもらえる」平易で日常的な言葉を使って記述する方がはるかに「生産的」だ。というのも、永井均流にいえばマンガという表現形式にともなう約束事(「ふきだし」の中では実際に発音されたせりふも文字で示される)と同様、言葉の「意味」はもともとこの世界に属していない(表現=記述=伝達できない)のだから、そしてそれが「語り得ない」ものの実質なのだから。──《マンガの世界に、文字はあるが音声はじつはないのと同様に、われわれの世界には、言葉は存在するが言葉の意味はじつは存在しない(言葉の意味を語ることができない)。だからわれわれは、言葉の意味するところを言葉で語ることが──究極的には──できない世界の中に閉ざされているのである。》(永井均「哲学への懐疑」,別冊『世界』「この本を読もう!」(第675号,2000年5月)所収)

 本書にもし「不満」があるとすれば、《出口王仁三郎や折口信夫や宮沢賢治が大正十年に述懐したことは、言葉がどこかかなたから来訪し、自分の口や手を通して次から次へと溢れ出てくるというシャーマニズム的な体験である。彼らはシャーマンや霊媒のような立場に立って、向こう側からやってくる言葉を取り次ぎ、この世の言葉に翻訳し語り伝えているというわけである。》(176頁)といった文章にうかがえる無媒介的かつ直接的で透明な“生命論的言語観”(?)をつきぬける視点がないということ──それが、本書で(おそらくは意図的に?)言及されていないユダヤ・キリスト教的な言語観(使徒的言語観? 言語=物質論?)と関係するのかどうかは解らないけれど──なのだが、もちろんこれはないものねだりでしかない。(ちなみに『情報の歴史』では大正十年の年表に小川未明や野口雨情の「童詩」が記載されている。これは松岡正剛著『日本流』で取り上げられていたものだ。)

 著者が本書の姉妹篇の筆頭に挙げている『宗教と霊性』が本棚に眠っている。ときおり断片的に読んでは刺激を受けているのだが、そろそろ読み通してみようと思う。
 
 

●サンプル3●

☆トマス・ハリス『ハンニバル』上下(高見浩・新潮文庫:1999/2000.4)

 下巻(第三部)で明かされる六本指の怪物ハンニバル・レクター博士の過去と実体。──リトアニア生まれで十世紀に発する貴族の息子。かのバルテュスのいとこ。ナチ戦車隊の砲撃で両親を失い、妹ミーシャを飢えた脱走兵たちに喰われるという経験を幼少期にもつ。広壮で堅固な「記憶の宮殿」を築き(第六部でレクターはクラリスと宮殿の部屋を共有する、さながら逆しまのレダと白鳥のように、“肉”を超えて?)、ミーシャの乳歯を糞便の穴の中から復原しこの世にミーシャのための場所を確保すること、つまりエントロピーの逆流(時間の逆流)を望み、高等数学の方程式や天体物理学と素粒子物理学の記号を駆使して数式の計算に没頭しひも理論を何度も検証する。

 最初はこうした生物学的・心理学的なレクター像に異和感を拭えなかった(いっそSF的・進化論的な超人類として描く方が面白いと思った)し、“組織小説”の定石を超越した結末にやや不満が残った(スパイ物、警察物、サスペンス物、ハードボイルド物等々の面白さの大半はその組織対個人の図式にあると思う)のだけれど、やがて「ハンニバル−ミーシャ」と「メイスン−マーゴ」の二組の兄妹の際立った対比(「人喰い・精神医学者」対「やわらかな肉・記憶の中の乳歯」と「人工呼吸器を装着した骸骨」対「レスビアンのボディビルダー」、あるいは「復活=反復」対「復讐」)や“行動する天使=戦士”クラリス(明晰な光)の“成長譚”といった物語の骨格に思いをめぐらせていくうち、これはもしかすると前人未到の小説世界を拓くまったく新しいタイプの作品なのではないかと思えるようになった。(言語によって編集された虚構世界=精神世界からの帰還を読者に許さない小説?)

 本書のもう一つの骨格。フィレンツェ(第二部)と新世界(第四部)との、あるいはレクター博士の「記憶の宮殿」とコンピュータ・ネットワークとの対比。──メイスン・ヴァージャーはおそらく電子メディアを通じて出現した(あるいは電子メディアを駆使する)怪物で、これに対するもう一人の怪物を特徴づけるのは味覚と嗅覚。この二つの感覚(レクター博士はクラリスに「この二つは人間にとって最も古く、精神の中核に最も近い感覚だ」と語っている)に密接に関連する本書のキーワードが“肉”で、それは、夢に出てくる肉は失われた幼年期の自己の存在価値の等価物である(新宮一成氏が『夢分析』でそう書いている)こととおそらくは関係するだろうし、そして「記憶の宮殿」が構築されるのもハードディスク上ではなくてやはり“肉”のうちなのであって……と、一気に読み切ってどんより疲れた頭の中を整理のつかない思考の細片がいくつも去来している。

《よろしい、そのフライパンを覗き込んでみたまえ、クラリス。その上にかがみ込んで、見下ろすのだ。もしそれがきみの母親のフライパンなら──おそらく、そうだろうけれども──それを構成する鉄の分子中には、その前で交されたすべての会話の波動が含まれているはずだ。そう、さまざまなやりとり、他愛のない苛立ち、恐るべき告白、淡々と災厄を告げる声、唸り声、そして愛の詩の波動が。/テーブルの前にすわるのだ、クラリス。そしてフライパンを覗き込みたまえ。よく手入れされているフライパンなら、それは黒い深淵のように見えるはずだ。ちがうかね? それは井戸を見下ろすのに似ている。(中略)われわれは炭素が複雑に複雑に進化した存在なのだよ、クラリス。きみも、フライパンも、いまや地中でフライパンのように冷たくなっているきみのパパも。すべては依然としてそこにあるのだ。聞くがいい。本当の二人はどういう声を発して、生きたのか──懸命に闘っていたきみの両親のことだ。きみの心をふくらませているイメージではなく、具体的な記憶に耳を傾けたまえ。(中略)正直な鉄を透視して、答えたまえ。……きみは自分の望みしだいで、いくらでも強い人間になれるのだ。/きみは戦士なのだよ、クラリス。敵は死に、赤子は救われた。きみは戦士だ。/最も安定した元素は、周期律の真ん中、ほぼ鉄と銀のあいだに現われるのだ、クラリス。/鉄と銀のあいだ。まさしくきみに相応しいではないか。》(上巻59-61頁)