「心脳問題」ノート〔1〕



■茂木健一郎「意識における非局所性の起源」(サイエンス社『数理科学』No.448/2000年10月)
 

 茂木氏の文章にはいつも刺激を受ける。同じ主張が繰り返し反復的に述べられているように見えるけれども、掲載される媒体の文脈に即しながら、そのつどこれまでとは違う切り口からの表現や微妙に異なる概念規定、新たなアイデアの種子が織り込まれていて、著者の思考の現場に立ち会っているような臨場感を味わうことができるからだ。

 量子場脳理論に関する高橋康氏の論文を巻頭に掲げた本誌で、茂木氏は、「ニューラル・ネットワークの振舞いは量子的なレベルにまで下がらなくても記述できる」のであり、「ニューロンの活動の古典的で局所的な相互作用の積み重ねからできるシステムに、非局所的な表象が重生起〔supervenu〕する」という一見矛盾した事態をいかに解明するかが「もっとも本質的な問題」であると主張している。そのために強調されたのが「アンサンブルのレベルの振舞い」あるいは「相互作用する素粒子からなるシステムの振舞い」といった概念である。それらは別段新しい主張でも表現でもないのだけれど、私にはとても新鮮に感じられた。

 いま述べたこととも関連すると思うのだが、私は、本稿を読んで二つの「疑問」を抱いた。一つは、そこに書かれた事柄(因果性:【A】)をめぐって、いま一つは本稿では明示的に取り上げられなかった事柄(言語と物語:【B】)をめぐって。この二つの「疑問」は大いに関係している。また、自分なりに考えていく(というより、本稿を再読していく)過程で、いくつかの「小さな疑問」(【C】)が派生的に生じてきた。これらについてじっくりと考えてみる(というより、茂木氏の著書を読み直してみる)ことで、先の二つの「疑問」をめぐる私自身の理解も深まるだろうし、もしかすると「独自」の思索を開始する手がかりかアイデアのようなのが得られるかもしれない。だが、それはまた他日の宿題に残しておくとしよう。
 

【A】因果性をめぐって

 第一の「疑問」は、因果性の概念をめぐるものだ。私には、以下に引用する二つの文章の間に微妙な差異があるように思えた。

 引用1:《意識の問題は,伝統的な認識論的な文脈というよりは,むしろ,実在論的な文脈でとらえられるべきである.すなわち,現時点の知見を総合すれば,脳の中のニューロンの活動がある形で生じた時,どうやら必然的にクオリアや自己意識を含む心的表象が生じてしまうらしいのである.……そこには,ある力の下で粒子がある軌道を通って動くというのと同じくらいの必然性がある.ただ,それが,因果的な必然性とは関係があるが,微妙に異なる必然性だというだけである.つまり,ニューロンの活動がある形で生じた時,それに対応する特定の心的表象が生じてしまうという,因果的な必然性とはまた別の方向の,必然的な自然法則があると見なすべきなのである.意識は,自然現象の一部なのであり,脳のニューロンの活動と心的表象の精密な対応関係は,自然法則の一部だと見なされるべきなのだ.》(「意識における非局所性の起源」第1節)

 引用2:《ここで,確認しておかなければならないことがある.それは,確かにクオリアをはじめとする意識の問題は物理主義にとって深刻なチャレンジではあるが,一方で,上のような意味での物理学の因果性〔引用者註:ある時間パラメーターを前提にして、「ある時刻における系の状態が与えられた時、それに基づいて、微少時間後の系の状態が導出される」という意味での因果性〕を何ら否定するものではないということである.意識を生み出す脳のニューロンの活動は,究極的には相互作用する素粒子からなるシステムの振舞いとして記述される.複雑ではあれ物理法則に従う系であることは,意識の問題を考慮したとしても特に疑う必要があるとは思えない.「脳=因果性に従う物質系」という大前提を疑わせるような証拠は一切存在しない.すなわち,意識は,あくまでも,物理学的な因果性に従って時間発展する脳内の物理的過程に寄り添った(随伴した)形で生じる現象なのである.》(「意識における非局所性の起源」第4節)

 この二つの文章の間に矛盾はない。脳内の物理的過程が「物理学的な因果性」に従うという主張と、そのようなニューロンの活動とこれに必然的に「随伴」して生じる「心的表象」との「対応関係」が「因果的な必然性とはまた別の方向の、必然的な自然法則」に従うものであるという仮説とは、そもそも対象とする局面が異なっているがゆえに両立する。ただ、ここで少し気になる言葉遣いが見られる。「因果的な必然性」(引用1)と「物理学的な因果性」(引用2)とでは表現が微妙に、しかし決定的に異なっているのではないかということだ。

 それはおそらく、ニューロンの活動がある形で生じた時,それに対応する特定の心的表象が「生じてしまう」(引用1)という言い方と、意識を「生み出す」脳のニューロンの活動(引用2)という言い方とが決定的に異なるものであることの反映なのではないかと私は考えている。それは、「対応して生じる」ことと「生み出される」こととの違い(実在論的な文脈で?)、あるいは「随伴する」ことと「導出される」こととの違い(認識論的な文脈で?)などと言いかえることができるかもしれない。端的にいえば、「引用1」での茂木氏は自分自身の脳に即した経験を脳科学者としての知見をまじえて語っているのに対して、「引用2」での茂木氏は自分以外の脳の観察結果を叙述している。だから、前者では(現にそこに)意識があることの「必然性」が、後者では(そこには観察されない)意識を生み出す、もしくは説明する「因果性」が問題とされているのである。この二つは、まったく異なる種類の問題だと思う。

 もっとも、「因果的な必然性」と「物理学的な因果性」は同一の事態を別の表現で言いあらわしているにすぎないのだとすれば、話は簡単だ。つまり、脳内過程は物理学的な因果性に従うが心と脳の関係はそうではない、しかしそれもまた物理学的な因果性とは異なる未知の自然法則に従うのだという仮説が一点の曇りもなく提示されていることになる。それでは、次の文章はどうだろう。私は微妙な、しかし決定的な違和感を覚えた。

 引用3:《もはや,意識が,脳のある特定の部位に宿るなどと考える人はいない.意識が,脳全体のニューロンの活動を反映したシステム論的な性質であることを,脳科学は日々明らかにしている.では,数百億のニューロンの発火の非局所的な属性を反映した意識は,いったい,いかなるプロセスを経て出現してくるのか?……興味があるのは,ちょうどツイスター変換が,相対論的な時空において,光の軌跡という非局所的な実体を点に変換するように,意識が,脳の中の物理的過程と,脳の中の時間的,空間的に非局所的な実体を,局所的な実体に変換するような未知の変換を通して関係している可能性である.実際,物理的空間の中でぐにゃぐにゃと折りたたまれた大脳皮質上で時間的にも空間的にも広がりを持って分布したニューロンの発火が,私たちの意識の中では視野という秩序を持った時空構造の中にクオリアとしてコンパクトに表現されるプロセスは,ツイスター類似の変換によって記述される可能性がある.ペンローズのもくろみは,ツイスターを通して,物理的因果性をよりよく理解することだった.意識が脳の中の物理的プロセスの非局所的な性質に随伴するためには,ツイスター類似の変換を通して,脳を含む物理系を支配している因果性の本質を再検討する必要があるのかもしれない.》(「意識における非局所性の起源」第5節)

 私の理解では、ここで茂木氏が主張しているのは、物理学的な因果性の本質を再検討することでニューロンの活動と心的表象との関係を説明できるのではないか、つまりツイスター類似の「未知の変換」こそが「因果的な必然性とはまた別の方向の、必然的な自然法則」そのものなのではないかという仮説である。もしそうだとすれば、問題が二つ生じてくる。

 第一の問題は、脳内過程に関する法則と心脳関係に関する法則が結局は一つ(その本質が解明された因果性)になるとすると、先に述べた仮説(脳内過程は物理学的な因果性に従うが心と脳の関係はそうではない、しかしそれもまた物理学的な因果性とは異なる未知の自然法則に従う)との間で矛盾が生じるということだ。もっとも、この二つの仮説の間には、「ニューロンのダイナミックスの局所性」と「意識の非局所性」との矛盾という問題が介在しているのであって、本稿の叙述自体がいわば弁証法的に深化していると考えれば、この矛盾はそもそも問題ではない。物理学的な因果性の本質が解明されたならば、先に述べた仮説は棄却されうるということなのだから。

 それでも第二の問題は残る。それは、茂木氏がツイスター類似の変換によって(その関係が)記述される可能性があると示唆する二つの実体、「脳の中の時間的,空間的に非局所的な実体」と「局所的な実体」の意味に関係する。私にはこれがよく解らなかった。素直に読めば、前者は「物理的空間の中でぐにゃぐにゃと折りたたまれた大脳皮質上で時間的にも空間的にも広がりを持って分布したニューロンの発火」に、後者は「クオリア」に相当するのだろう。そうすると「クオリア」は局所的なものになってしまうが、クオリアを含む意識は非局所的なものだったのではないのか。それとも意識は非局所的だが、これに属する個別具体のクオリアは局所的だというのだろうか。しかし、それでは「数百億のニューロンの発火の非局所的な属性を反映した意識」の出現過程を説明したことにはならない。

 また、茂木氏のいう「実体」とは、物質的基盤をもつものを意味しているのではないかと思うのだが、そうするとクオリアは物質なのだろうか。クオリアを含む意識は物質的過程と密接に関係はするのだけれど、物質そのものではないのではないか。(物質を非物質に変換することを因果性でもってどのように説明するのか。非局所性から局所性への物質的「変換」プロセスそのものが意識もしくは意識の起源なのだとか、そもそも非局所的なレベルで見た物理「系」がすでに物質ではないのだといった趣旨ならまだ解る。が、それでも物質と非物質の境界がどこにあるのかといった疑問は解消されない。)

 だが、そうだとすると、それでは脳の中の「局所的な実体」とはそもそもいったい何なのかが解らなくなってしまう。それがニューロンの相互作用だとすると、「引用3」での茂木氏の仮説は、結局、特定のクオリアに対応するニューロンの相互作用(もしくは特定のクオリアに一対一で対応する「クオリア・ニューロン」とでもいうべきものの発火?)がツイスター類似の変換によって「大脳皮質上で時間的にも空間的にも広がりを持って分布したニューロンの発火」から出現するプロセスが、心脳関係を説明するプロセスと相同であるとするものになってしまう。(茂木氏はここで「表現」という言葉を使っているが、もしかするとこれには重要な意味が込められているのだろうか。)

 「引用3」をめぐる私の理解が足りなかったのかもしれない。本稿全体の記述を参照しながら、もう少し丁寧に規定し直してみよう。──ニューロンのダイナミックスすなわち「脳の中の物理的過程」の古典的で局所的な相互作用の積み重ねから、そのアンサンブルのレベルにおいて、「数百億のニューロンの発火の非局所的な属性」あるいは「システム論的な性格」をもった「脳の中の時間的、空間的に非局所的な実体」が生じ、さらにこれを「局所的な実体」へと「変換」する未知の法則がある。それは物理学的な因果性の本質を「因果性の舞台となる時空間構造はいかにして生まれてくるのかというところまで遡って」再検討することによって得られる。

 ここまではいいだろう。問題は、まず「実体」とは何かであり、次に「意識が、脳の中の物理的過程と、脳の中の時間的、空間的に非局所的な実体を、局所的な実体に変換するような未知の変換を通して関係している可能性」という文章の読み方だ。

 まず、「実体」を「物自体」のようなものだと考えてみる。認識論的な文脈ではなく、実在論的な文脈でそう考えてみる。次に、「脳の中の時間的、空間的に非局所的な実体」を「物理的空間の中でぐにゃぐにゃと折りたたまれた大脳皮質上で時間的にも空間的にも広がりを持って分布したニューロンの発火」として現象する(観察される)ものと、そして「局所的な実体」を「私たちの意識の中では視野という秩序を持った時空構造の中に…コンパクトに表現される」クオリアであると「正確に」読んでみる。そうすると、ツイスター類似の変換とは、ある特定の時空構造をもったシステム(実体と言ってもいいだろう)間の変換を、たとえばシステムA(脳を含む物理系、ただしアンサンブルのレベルにおいて見たもの)をシステムB(意識)のうちに「表現」することを意味していることになる。

 ここで、システムAそのものではなく、これに属する事象をシステムAのうちに「表現」する変換は「ある時刻における系の状態が与えられた時、それに基づいて、微少時間後の系の状態が導出される」という意味での物理学の因果性に従い、これに対してツイスター類似の変換はある特定の時空構造そのものを「表現」するより本質的な意味での因果性に従う。実在論的な文脈ではなく、認識論的な文脈でならそう考えることができる。(というのも、カント的に言えば、時間と空間は感性的直観の二つの純粋形式なのだから。)

 比喩的にいえば、脳が脳を認識する(表現すると言ってもいいだろう)プロセスが、心脳問題を解明する鍵である。「引用3」が提示する仮説は、そういうことなのではないのかと(いまの)私は考えている。だが、このように語ってみたところで、そこからは何も出てこないし何も始まらない。認識論的な文脈(引用2)においても実在論的な文脈(引用1)においても、茂木氏がいうように、新しい幾何学が必要なのだ。アインシュタインは、自分は言葉や数学の記号では考えない、幾何学の形で考えるのだと語ったそうだが、そのような「概念の幾何学」(視覚的な、つまり鳥瞰図的な見通しのきく幾何学ではなく、身をもって粘土を捏ね焼き物を焼くときに必要な触覚的な幾何学?)とでもいうべきものが必要なのだろう。
 

【B】言語と物語をめぐって

 私の「疑問」の第二は、なぜ茂木氏は本稿で「物語」論に言及しなかったのかというものだ。物理的因果性の本質をなすもの、あるいは「因果的な必然性とはまた別の方向の、必然的な自然法則」とは「物語的因果性」あるいは「物語的必然性」(法哲学者ドゥオーキンの言葉を借りるならば「物語的整合性」)のことだと言ってしまえばよかったのではないか。そして、ここでいう「物語」とはツイスター変換類似の時空構造の変換(意識の表現=産出?)を司る脳内過程の機能だと言ってしまえば、そこから何が始まり何が出てくるか(たとえば「場」の物語的構造の解明といったような?)は別にして、少なくとも私にはよく「理解」できたはずだと思うのだが、このあたりのことを考えるためには、言語をめぐる茂木氏の議論をおさえておく必要がある。

 本稿では二度、言語について触れられている。一度は数学言語と自然言語との関係をめぐって、もし前者が後者に優越しているところがあるとすれば、それは数学言語の方が物理的な因果性とより強く結びついている点に求められるという指摘(第4節)。これについては、参考文献に挙げられている「言語の物理的基盤─表象の精密科学へ向けて」(大修館書店『言語』Vol.28,No.12/1999年12月)から引用しておく。いま一度は、本文ではなく「クオリアと志向性を通した脳のシステム論的理解」と題された図の解説(第5節)。この解説は重要だと思うので、以下に書き抜いておく。

引用4:《…極論すれば、私たちが主体的に行なう感覚と運動の連合の全てが、前頭前野や側頭野を中心とする志向性のダイナミックスを介在しての言語であるとみなすことができるのである。このような視点から見ると、…数学的言語と自然言語の間には、実は本質的な違いはないと考えられる。……今後、必要となるのは、「表象の精密科学」とでも言うべきアプローチであると私は考える。ここで、「表象の精密科学」とは、従来、数学的言語だけに求めてきた精密さ(exactness)を、自然言語、さらにはクオリアや志向性といった心的表象にも見い出し、物質、言語、心的表象を、一つのシームレスな構造、世界観の下につなぐことである。そして、世界の発展を記述する言語としての数学的言語の役割を見直し、その背後にあるより深い言語構造を見い出すことである。その時、世界が従っている秩序を本当の意味で与える、普遍的な「言語的世界」が視野に入ってくるだろうと私は考える。》(「言語の物理的基盤─表象の精密科学へ向けて」)

引用5:《外界から入力した感覚情報は,クオリアとして表現される.前頭葉を中心とする志向性のネットワークは,クオリアを脳内の世界モデルに接続するとともに,脳全体のシステム論的な情報処理メカニズムを支える.言語は,この志向性のダイナミズムから生じる.》(「意識における非局所性の起源」第5節図)

 ここで確認しておきたいことが二つある。一つは、数学的言語が物理学的な因果性とより強く結びついていることの意義は、数学的言語の方が「世界の発展を記述する言語」として優れている、つまり予測能力をもっている点にあること。いま一つは、世界には、物質としての脳が属する世界と心的表象が属する脳内世界(正確には世界モデル)、そしてこれら二つの世界の根底にある言語的世界(脳のうちに物質的基盤をもった世界)の三種類があること。これらを私なりに総合すると、物語が関係するのは第三の世界であり、それは「世界の時空構造の変換過程を表現する」物語言語とでも言うべきものによって記述される(産出される)世界のより深い構造に根ざしたものだ、などと言えるのかもしれない。

 これは前々から感じていたことなのだが、茂木氏の「クオリア〔qualia〕─志向性〔intentionality〕」はカントの「感性〔Sinnlichkeit〕─悟性〔Verstand〕」あるいは「感性の形式(時間・空間)─純粋悟性概念(カテゴリー)」を、また茂木氏の「表象〔representation,Vorstellung〕」はカントの「現象〔Erscheinung〕」を思わせる。(もう少し正確に書いておくと、「クオリア」は「物自体〔Ding an sich〕」によりシフトしているように思う。)となると、カントの「構成力〔Einbildungskraft〕」に対応するのは、いったい何だろう。私はそれが、どういうわけか本稿では言及されなかった茂木氏の「物語」なのではないかとにらんでいる。──余談はこれくらいにしておいて、少し長くなるけれど、物語をめぐる茂木氏の文章を「脳」(青土社『現代思想 臨時増刊号』Vol.28?3/2000年2月)から引用しておこう。

引用6:《私は、クオリアを真摯な研究の対象にし続けることによって、脳科学が究極的には「東京物語」や「ファウスト」のもたらす感動をも説明できるまで発展し続けるという方向性を担保することができると考える。その際、人間を含む世界における「物語」の構造に注目しながら脳科学を続けていくことが重要であると考えている。……ここに言う「物語」とは、単に、我々が世界をどのように受け止めるかという認識論に留まらず、世界の実在性、ないしは因果性にまで踏み込む概念であることに注意すべきである。例えば、脳の中の時間的、空間的に広がりをもったニューロンの活動が、我々の心という表象のレイヤーにおいてはコンパクトな「クオリア」として認識されるという事実は、世界の因果的発展形式の本質に関わる何かを示唆していると考える。すなわち、時間的、空間的に広がりを持ったプロセスが、因果的には一つの要素として機能し、これらの要素が絡み合うように相互作用することによって、世界が発展していくというようなことがあるのではないかと考える。そして、私たちの脳の中では、そのような因果発展形式が現に進行しており、その現象論的な現れが、クオリアだろうと考えるのだ。クオリアとニューロンの活動の間の関係を理解することは、究極のところ、脳を含む世界の因果的発展方式を理解することだと考えるのである。……物理的時空間の中では広がりを持つ要素が、因果的には一つの単位となって世界は時間発展している。クオリアの存在がそのことの何よりの証左であり、また、量子力学における非局所性と相対論的時空構造の間にも、上のような世界の時間発展の形式が現れている。そして、このような世界発展の形式の中から、「私」という主観性ないしは主体性が出てくるのではないだろうか?……素粒子の間の相互作用によって世界の時間発展を記述する還元論的な世界観に留まらない、「物語」的としか言い様のない因果的発展方式を考えることが重要だと私には思えてならないのだ。この「物語」の中では、一生に一度しか起こらないような「要素」の結びつきが、決定的かつ永続的な意味を持つ。この物語的な時間発展の様式は、人間の心の中では、豊かで多様なクオリアとして表象され、そしてこれらのクオリアたちは、それを支えるニューラル・ネットワークの活動が感覚器や運動器との間に持つ連関を通して世界とつながっている。このような世界の発展方式を明らかにしてはじめて、私たちは心脳問題を本質的な意味で解決ないしは変質させ…ることに成功するのではないか。私にはそう思えてならないのである。》(「脳」)

 ここでとりわけ重要な点は「人間を含む世界」という規定だ。これは先に抽出しておいた三つの世界とどのような関係にあるのだろうか。私の解釈では、いや「私の理論」ではと言うべきかもしれないが、「人間を含む世界」とは、複数の脳を含む世界、それも物質としての・心的表象を随伴させる・言語の物質的基盤としての脳を複数個含む世界のこと、さらに極論すれば死者の脳をも含む世界、端的にいえば「歴史」的世界のことなのではないか。

 もしそうだとすれば、これほどの射程をもった「物語」論あるいは「物語的因果性」の概念は、ニューロンの活動の古典的で局所的な相互作用の積み重ねからできるシステムに、なぜ非局所的な表象が重生起するのかをテーマとする本稿にとってはやや大きすぎるものだった。少なくとも、物語的因果性の概念をもちだすためには、言語についてもっと論じておかなければならないし、そうなると意識システムと言語システムとの関係をめぐるより精緻で困難な議論も必要になってくるのだけれど、そもそもそれは本稿のテーマを超えている。(歴史における時間的な非局所性と局所性をめぐる議論、たとえば法律学でいう時効の遡及効に類似した「変換」を実在論的な文脈で議論することなどは可能かもしれない。いずれにせよ、物語を論じようとするかぎり、法学理論の参照あるいは法的言語をめぐる理論への接近は欠かせないと私は思うのだけれど、これは余談というより蛇足だ。)──以上が、なぜ茂木氏は本稿で「物語」論に言及しなかったのかという「疑問」に対する私の「仮説」なのだが、これはもはや本稿の解釈を超えている。
 

【C】いくつかの小さな疑問

〔a〕表象について
 本稿冒頭の定義によると、意識とは「クオリア、志向性、クオリアと志向性が結びついてできる表象、「私」の存在、自己意識など」を指す概念である。ここに出てくる五つの要素(クオリア、志向性、…)は相互に関係づけられている(意識の構造あるいはシステムとしての意識)のだが、この点は今はおく。「など」にはたとえば本稿で一度だけ使用される「イメージ」や「記憶」等々が含まれるのだろうと思うが、それも今はおく。本稿で多用される「心的表象」という語は、おそらく「クオリア、志向性、クオリアと志向性が結びついてできる表象、「私」の存在、自己意識など」を総称しているのだろうが、それもまた今はおく。

 それぞれもう少し精緻な概念規定が必要なのではないかと思う反面、大胆に仮説を提示する局面では、スコラ的煩瑣主義に陥らずむしろ大雑把な言葉遣いに徹する方が生産的なのだと思う。ただ、茂木氏の議論が常に知覚体験、それも視覚を軸として展開されることから、知覚以外の感覚質や運動感覚、想起体験や夢(睡眠時の経験)、さらには「無意識」が茂木理論でどのように位置づけられるのかがよく見えないし、「表象」という語はいかにも視覚体験と親和的で、むしろ「現象」の語を採用する方がいいのではないかとさえ思うのだが、この点も今はおく。

〔b〕意識について
 私が解らなくなるのは、「私たちの意識、およびその中に生じる心的表象」(第1節)といわれるときの「意識」と「心的表象」との関係だ。「大脳皮質上で時間的にも空間的にも広がりを持って分布したニューロンの発火が、私たちの意識の中では視野という秩序を持った時空構造の中にクオリアとしてコンパクトに表現されるプロセス」(引用3)といった使用例を見ても、本稿冒頭の意識の定義はやはり舌足らずだと思う。

 また、茂木氏は、「「意識」と呼ぶか「情報処理プロセス」と呼ぶかは言葉の問題に過ぎない」(第1節)というのだけれど、そのように言い切るための前提を議論しておく必要があるだろう。(そもそも誰も「私の意識」とはいうけれど「私の情報処理プロセス」とは言わない。)さらに、茂木氏は、「前頭葉を中心とする志向性のネットワークは、クオリアを脳内の世界モデルに接続するとともに、脳全体のシステム論的な情報処理メカニズムを支える。言語は,この志向性のダイナミズムから生じる」(引用5)と書いているが、志向性のダイナミズムに支えられる意識システムと、志向性のダイナミズムから生まれる言語システムとは、それではいったいどういう関係にあるのか。(ついでに書いておくと、茂木氏は、「私」とは表象結合の枠組みだと言う。そうすると「私」と志向性のダイナミズムと意識の三者は、いったいどういう関係にあるのだろう。茂木理論における「私」のすわりの悪さ。意識を超過するものの意識への再参入?)

〔c〕脳と意識の関係について・その他
 本稿では、心脳関係を言い表わす多くの言葉が使用されている。随伴、対応関係、重生起、生じる、生み出す、生まれてくる、出現する、反映する、等々。それらはそれぞれの文脈に応じて使い分けられているのだとは思うが、それにしても気になって仕方がない。(また、そもそも何が、あるいは「誰」がこれらの関係を見定めるのだろうか。)本稿では、「脳のシステム論的理解」や意識のシステム論的理解(?)に関する(局所性と非局所性の関係をまじえた)立ち入った検討はなされていない。これを抜きにして脳と意識の関係を議論しても、いたずらに「混乱」するばかりではないのか。

 ──その他にも「小さな疑問」や本稿に触発されて思いついたこと(たとえば、カント以前のスピノザのいわゆる「心身並行論」の意味を現代の脳科学の知見を踏まえて再検討することの有効性など)はいくつかあるのだけれど、ここまでにしておこう。だんだん非生産的な方向へ走ってしまいそうだし、本稿を読んだときの鮮烈な刺激を自分で殺してしまいそうだから。ここから先は、茂木氏の脳を借りずに、自分の脳で考えるべきだと思う。