「日本思想」ノート[1]
 
 
 
 

 ■ 柄谷行人「日本精神分析再考」(『文學界』1997.11)をめぐって/1997.11.21
 
 柄谷氏の文章は、語られている事柄と事柄とのつながりに独特の「間隙」があり、それもほとんど一行単位でアクロバティックな論理と引用の「非連続的連続」が矢継早に繰り出されるといった趣があって、一筋縄では要約できないシロモノです。
 
 個人的な経験からいえば、そこで何が語られているかを突き詰めて探るよりも(私の場合、それをやると読後一種の「不健康」な気分に襲われる)、むしろその語り口から刺激を受けて自分なりの思索を開始するきっかけとして読むのに適したテクスト(再び私の場合でいえば、途中まで読むと脳髄が刺激を受けて勝手に思考し始めて、常に最後まで読み切ることのできない「未完」のテクスト)だと思うのです。
 
 つまり、柄谷氏のテクストは語られている内容と語りの形式(というより息遣い)とが渾然一体となっており、要約してしまうとその文章の切れ味は消去され、夥しく挿入された引用文中の観念や言葉たちが相互にはりめぐらせていた緊密なリンクの体系が崩れ去ってしまうわけです。
 
 しかし、ここでのテーマは柄谷氏のテクストや柄谷氏の思索のスタイルそのものの精神分析ではなくて、「日本的なもの」について考えをめぐらせるきっかけとして「日本精神分析再考」を取り上げようということなのですから、この論文を私なりに「暴力的」に要約しておいても構わないでしょう。
 
 
 要点は二つあります。説明抜きでキーワードを紹介しておくと、第一に「日本的なもの」を考える際、西洋との比較ではなく<中国−朝鮮−日本という地政学的な関係構造>の中でこれを見なければならないということ。第二に漢字・仮名・カタカナの三種の文字による<奇怪な書記法>のうちにこそ「日本的なもの」があるということ。
 
 この二つの論点を連結するために柄谷氏がもちだすのが精神分析学由来の二つの概念、すなわちフロイトの「抑圧」の概念とラカンの「排除」の概念なのです。抑圧とは原理・体系によるリゴリスティックな抑圧=去勢を通した「主体」の形成を説明する概念であり(ここで抑圧されるものが無意識となる)、排除とはまさにこのような原抑圧の排除=不在をいうもの(その結果主体の形成は未完結に終わり無意識が「露出」される)です。
 
 これらの概念を上述の第一の論点に関連づけると、そこに<地政学的な関係構造>が出てきます。というのも、抑圧が生じるのは、世界宗教であれ文字であれ原理的・体系的な文明を生み出した帝国の周辺地域においてだからです。(エジプト帝国に対するギリシア、ローマ帝国に対する西ヨーロッパ、さらには西ヨーロッパ大陸に対するイギリス等々。)しかし中国大陸−朝鮮半島−日本列島という配置は、とりわけ徹底的な抑圧を蒙った朝鮮半島の存在によって、日本を外来的・普遍的なものによる抑圧から免れさせたのです。
 
 日本は外来のものを何もかも受け入れてきました。たとえば日本には歴史的に到来したすべての仏教の宗派が残存しています。しかしこのように何もかも受け入れながらそれらが外来的なものとしてあり続けていること、そして同時に天皇制のような古代的・神話的なものが外来的なものと原理的に対立することなく残存し続けていることは、実は<ある種の排除の形態>なのだと柄谷氏は指摘しています。
 
 本居宣長は「からごころ」と「やまとごころ」の対概念によって、制作的・作為的なもの=<現実的な微細な差異を抑圧する態度>=外来的なものと、生成的なもの=<歴史的古層>=日本的なものとを峻別しました。しかしむしろこれらがその出自を明示しつつ雑居していることこそが「日本的なもの」の形態であり、それは前者による後者の「抑圧の不在」すなわち「抑圧の排除」がもたらしたものであるというわけです。
 
(そのような「排除」が日本で成り立ったのは体系的な抑圧の強かった朝鮮が介在していたからであり、その意味では「からごころ」とは「漢意」ではなく「韓意」であったというべきであると柄谷氏は指摘している。)
 
 このことをつきつめると上述の第二の論点、つまり<「歴史」がそれによって記述されるエクリチュールそのものの歴史性>の問題にいきつくでしょう。日本の書記法(エクリチュール)の最大の特徴は漢字の使用法にあります。まず日本だけがそれを訓(日本語の音)で読んだこと、そしてそのように「内面化」されながらも(あるいはそうであったがゆえに)漢字は外部的なものにとどまったことがそれです。
 
 漢字仮名の交用という日本の書記法において、漢字は外部的で抽象的な概念を表記するものとして使用されてきました。そこにカタカナによる外来語の表示が加わることで、三種の文字を使って語の出自を区別するという日本独自の<奇怪な書記法>が成立し、しかもそれが千年以上も続いているのです。
 
 フロイトは無意識を「象形文字」として捉えていました。ラカンはこれを踏まえて、無意識=象形文字を常に露出させている日本語のような文字の使い方をする者には精神分析は不要だと語っています。
 
 柄谷氏はこのことを紹介し、漢字を受け入れたとき韓国では抑圧=去勢が生じたのに対して日本は「訓読み」によってこれを免れたが、そのとき日本で生じたものこそが「排除」だったのだと議論を展開しています。そして多くの論者が指摘する日本的なもの、すなわち<確固たる主体がなく原理的な機軸がない>といった<「日本的」ということがあるとしたら、ここにしかない>と結論づけているのです。
 
 
 柄谷氏が強調しているように、「抑圧」がエディポス的で唯一・集中的な権力をもたらすのに対して、「排除」がもたらす権力は<「抑圧の不在」が抑圧に抵抗する者を抑圧する>といった構造をもつものになります。『玉勝間』(十四の巻一〇〇〇段)の引用を踏まえて、柄谷氏は次のように書いています。
 
<死ぬのはたんに悲しい、と宣長は言う。まさに「何も包み隠すことがない」。ここから見れば、あらゆる宗教が虚偽である。これは死への恐怖を克服しようとする意志を偽善・作為と見なすことによって否定するものである。それはまた、あらゆる権力を、作為的=偽善的なものと見なすものである。しかし、それは必ずしも権力への否定にはならない。それは権力に対する抵抗をもそのようにみなすからであり、むしろ反権力の偽善(漢意)を絶えず暴露し、かえって現在の権力を、それが不純さ・矛盾をむき出しにしているがゆえに肯定するのである。宣長が朱子学を批判しながら徳川体制を肯定したように。(人がまっとうな正義や思想を語れば「鳥肌が立つ」タイプの知識人は、このような「やまとごころ」の持ち主である。)>
 
 ここで述べられているのは、かつて丸山真男が「無責任の体系」と呼んだ天皇制の権力構造にほかなりません。(ちなみに引用文中の括弧内で言及されている知識人は、『敗戦後論』の加藤典洋氏に間違いないでしょう。)柄谷氏は<日本が「天皇制の構造」を保存しているかぎり、グローバルな環境において存続することができないことは明瞭である>と書き、そのような排除がもたらす権力構造に対してどう対処すべきかについては、論文末尾に坂口安吾「続堕落論」からの引用を示すだけです。
 
 私自身はいまのところ柄谷氏の議論(排除の権力構造論)に対して、これをどのように捉えるべきか態度が決定できません。ただ柄谷氏が示した二つの論点は極めて有益なものだと考えています。
 
 第一の論点についていえば、たとえば『宗教と霊性』(角川書店)に収められた文章の中で鎌田東二氏が示唆する比較論、つまり「ユーラシア大陸東西の二つの島国」アイルランドと日本、ケルト・リバイバル(W.B.イェイツ)と神道リバイバル(平田篤胤)の比較論などを通して鍛え上げることができるのではないか。
 
 第二の論点についていえば、たとえば柄谷氏自身が示唆しているように西田幾太郎の「場所の論理」=「日本語の論理」をその歴史性において問い直してみることでさらに深めることができるのではないか。あるいはまだ思いつきの域を出ないけれども、たとえば忘却と痕跡に基づくベンヤミンの言語哲学・歴史哲学の認識方法を使い、日本の書記法をもってしても露出されない「無意識」を日本語で書かれたテキストから読み取ることで、「日本的なもの」の論理構造をより明瞭に叙述することが可能となるのではないか。
 
 この最後に述べた事柄に関して、私は、加藤周一氏が朝日新聞夕刊に連載している「夕陽妄語」の最近のエッセイ(「宣長とバルトーク」1997.10.22)を念頭においています。以下、加藤氏の所説の要点を紹介します。
 
 宣長の「からごころ」(物の理)と「やまとごころ」(人情の自然)の対比は『源氏物語』の美学の評価にとってはきわめて有効なものであったが、そこから(宣長がそうしたように)皇国ナショナリズムを抽きだすことは論理的に不可能であること。
 これに対して、伊藤信宏氏が『バルトーク──民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中公新書)で描いたバルトークは、<「ナショナリズム」に動機づけられながら、民謡を収集し分類する過程で、徹底的に分析的な態度をとり、遂に音楽的「ハンガリー心」の内容を、明瞭で普遍的な概念の組み合わせによって、叙述するに至った>こと。
 このような、「ナショナリズム」の呪力の否定ではなく<肯定の否定を通じて、それを創造力に転化する、弁証法的過程>こそがナショナリズムを克服する道筋であること。
 
 日本的なものを考える際、私たちは西洋対日本や中国対日本といった非歴史的・非政治的で粗雑な比較文化論によるのではなく、バルトークのように具体的なもの(たとえば古典文学)に即して、しかもそれが醸し出す「日本的なもの」の磁力に身をもって巻き込まれ、より微細なレベルに踏み込むことを通して解明していくべきなのでしょう。
 

 ■ 大澤真幸『戦後の思想空間』(ちくま新書)をめぐって/1998.9.6
 
 大澤氏の著書を読むのはこれで二冊目。最初に手にしたのが1988年刊行の博士論文『行為の代数学』(青土社)で、これは数学者スペンサー=ブラウンが『形式の法則』(大澤真幸・宮台真司訳,朝日出版社)で構築した「指し示しの算法」を使った社会システム論の試みであり、氏自身の言葉を使えば最広義の「論理学」の試みです。
 
 この本は実際「驚異の」という(「腰巻」で使われていた)言葉にふさわしい刺激と可能性とそして初々しさとでもいうべき決然たる断言のちりばめられた素晴しい出来映えでした。そしていまあらためてひもといてみると、すでにこの時点で大澤氏の多岐にわたる関心の一つの方向として、明治以降の日本の近代化と天皇制の関係をめぐる理論的考察の問題が大きくクローズアップされていたことが分かります。
 
 たとえばやや長めの「あとがき」に次の文章が出てきます。<私としては、…ここで獲得された「論理学」に有意義に相関させながら、一個の日本社会論を構想できると思っている。>──『戦後の思想空間』はまさに十年後に明らかにされたその成果の一つであるといえるでしょう。
 
 
 ここで取り上げたいのは「後記」です。そこにはこの三章建ての書物が昨年「戦後思想」を主題として三回連続で行われた講演に手を加えたものであること、講演というものの性格上、論理の緻密さと論証の完全さと構成の周到さを欠いているけれども 講演でなければ言わなかったような内容が含まれているし、講演であればこそできた極端な単純化や乱暴な断言にもときには意味があるだろうといったことが書いてある。
 
 柄谷行人『〈戦前〉の思考』(文藝春秋)の「あとがき」にある次の文章と比較してみてください。<もちろん、本書は(加筆したとはいえ)講演録だから、平易であるかわりに一種の単純化をまぬかれてはいない。本当は、もっと緻密に書かなければならないと思う。しかし、たぶん講演という機会がなければ、こういうことを発言しなかっただろう。>
 
 いずれもこの種の書物に似つかわしいごくありふれた物言いであって、これらの素材だけを使って性急な一般化を行うべきでないことは重々承知の上で(一般化のためにはそれこそ緻密な論理と完全な論証と周到な構成が必要)あえてその愚をおかすならば、両氏はここで「講演会」という(黙して文章を綴る場合とはまったく異なる独特な)コミュニケーションの場においてこそ語られる思想、遂行される思考の存在に言及しているのだと思うのです。
 
 ここで、本論で展開されている議論を少しだけ(我流で)借用した思いつきを述べますと、講演者とは「予言者」の位置にあるのではないでしょうか。一対多の対面関係にさらされ、空間的にも質的に区切られた「特異点」に身を置く講演者は日常とは異なる身体的な状態を強いられます。
 
 彼は自らの「無意識」を否応もなく露出させつつ、聴衆の身体群が(バターのように)連続しガス状の「精神」を浮遊させる瞬間をキャッチし、たちどころに両者を──つまり自分自身の無意識と群衆のそれとを──ひっくるめて言語化しなければならないのです。まさに「思想」の場にふさわしい状況だと私は考えます。
 
 もう一つ思いつきを書きます。いま私はピーター・ゲイの『歴史学と精神分析』(岩波書店)を読んでいます。「歴史の無意識」といったテーマについて考えてみたいと思ったからです。「後になって考えてみるとよく理解できる」という日常ありふれた経験の意味を考えれば歴史の概念について見えてくるものがあるのではないかというのが出発点です。いってしまうと鼻白むほどあっけない動機です。
 
 これとの関連で小浜逸郎氏が『無意識はどこにあるのか』(洋泉社)で書いている文章を引用します。<無意識は、「後の」または「他者の」意識によって無意識として「気づかれる」ことで初めて意識のなかで存在を許される。それは現にそれが働いていたと見なされる時点においては、主体にとってそれをそれとして措定することが原理的に不可能なのである。>(151頁)
 
 これもまた極めてあたりまえのことです。私自身はこれに「いまここで集団的に夢見られている」無意識という類型をつけ加えることはできないかと目論んでいるのです。そしてそこからの「目覚め」としての歴史概念が成り立つのではないかと考えているのです。(いうまでもなくこのアイデアはベンヤミンの『パサージュ論』に基づくものですし、今村仁司氏がすでに『ベンヤミンの〈問い〉 「目覚め」の歴史哲学』(講談社)で論じておられます。)
 
 フロイトが「子供時代はもうない」といったように、歴史的事実は常に「もうない」ものにほかなりません。(ちょっと意味が違うかもしれません。)あるのは「いま」であり「記憶」であり「身体」です。これらがすべて「講演会」というコミュニケ ーションの場には用意されているのです。
 
 ましてそれが日本の近現代の歴史や「戦後の思想空間」といった事柄をテーマとするものであれば、その場に露出し浮遊するものこそが「歴史の無意識」なのではないでしょうか。そして「講演者」とはまさにこの無意識にかたちを与え言語化する役割を引き受けた「予言者」(超越的他者)なのではないでしょうか。
 
 私は「座談会」というコミュニケーションの場にも独特な構造があるように思います。多対多がおそらくは円卓を囲んで交す発言の連鎖は、たとえば裁判のように経験的に培われた厳密なルールの遵守によって超越的次元が仮構されるわけではなく、ただだらだらと循環し水平的に円環を描くかその場の雰囲気(対立であれ親和であれ)のなかに拡散してしまうのが本来の姿でしょう。
 
 そして(これは直観にすぎませんが)そのような座談会が一つの経験として成り立つ条件が「外部」だと思うのです。それは正確には漠然と差し示され比喩的に言及される「外部性」というべきでしょう。
 
 いうまでもありませんが私がここで念頭においているのは「近代の超克」をテーマに開催された座談会のことです。そしてこの座談会について考える際、そのコミュニケーションの場としての構造、いいかえれば思考空間のあり方の分析を抜きにはできないのではないかということをいいたいのです。(しかしそこから先を私自身が考えているわけではないし、大澤氏の著書をめぐるこの文章のテーマからやや脇道にそれてしまいそうなので、この話題はここまでです。)
 

 昼食のあと少し固いめの本を読みながら、うつらうつらしてきたら十分かそこらの仮眠をとるのが日課になっています。いつだったかの『アエラ』の特集でサラリーマンの午睡が話題になっていましたが、私の場合もうかれこれ十年以上も前からの習慣なので、そうと気づかぬうちに流行の先陣を切っていたわけです。
 
 昨年、東浩紀著『存在論的、郵便的』(新潮社:1999.10)を二月かけて読んだのも、そういった夢うつつの中での出来事で、これがまた実に心地よい体験でした。もちろん、読み方が読み方なので、細部に立ち入ってのきめ細かな意味をつかむことはもとより全体の結構もたよりなくはかなげだった(あくまで読者の側の話)のですが、そうであるにもかかわらず淀みないスピードでずんずん読み進めることができたのです。(「純粋消費」などという言葉がもしあるとすれば、それはちょうどこのような快楽をもたらす経験をさすものなのかもしれません。)
 
 『週間東洋経済』(1999.2.13)の書評欄では、<80年代初頭に出た、浅田彰の『構造と力』のように、早熟な思想家の処女作は、著者の意図を遥かに超えて時代の行方を予言する。本書もまた、21世紀における市場社会の“脱構築”を冷徹に予告しているようだ。>(古田隆彦)と紹介されていました。私にとっては後半やや意味不明の評言でしたが、「市場社会の“脱構築”」という言葉の内実をどう構成するかによっては、評者のいわんとすることがわからないでもないような気もします。
 
 いずれにせよ、七◯年代以降のデリダはなぜあのような奇妙なテクストを書いたのか(暗号のようなテクストでもって何を語ろうとしたのかではなく)を終始一貫してテーマに据え、後半に進めば進むほどますます抽象度に磨きがかかる文体や「……である。どういうことか。」といった歯切れのよい叙述のテンポでもって、「高密度でビット数の高い音楽のような哲学」(PLAYBOY[1999.2]掲載のインタビューにおける東氏の発言)に仕上げた力量は並みではありません。
 
 前置きが長くなりました。今回取り上げたいのは──先日の朝日新聞(3月30日付夕刊)の「ウォッチ論潮」で松原隆一郎氏が大きくとりあげていた──東氏の最近のエッセイです。これは実にシャープで明快で、提示された論点はいずれも奥行きの深い可能性をはらんでいるものだと思います。
 
 ──ちなみに、松原氏は「論壇崩壊?」のタイトルのもと、昨今、論壇に発して広く話題を呼ぶような論考が激減したのはなぜかと問い、東氏の所説を紹介しつつ、読み手の側における知識欲の「オタク」化や関心の分裂、そして書き手の側におけるアカデミズムとジャーナリズムの二極化に伴う批評の形骸化や思想上の党派の「オタク」化にその原因を求めています。
 
 これに対する処方箋として、論壇時評や書評といった「品定め」だけでなく、焦眉の課題を示し論者の主張の要点と焦点を軸に再構成すること(メタ・クリティーク的作業)の大切さと、発言の場の公共性に即した作法を踏まえ、相手との信頼にもとづく論争を通じて「公論」を生みだす文化の成熟の必要性が指摘されているのですが、率直にいって私は、ここでいわれる「公共的な論壇」なるものはいったいどこにあるのだろう、そもそも松原氏はどのような「高み」に立って(あるいはどのようなメディア的戦略のもと)そうした議論を展開しているのだろう、などと考えてしまいました。
 
 ■ 東浩紀「棲み分ける批評」(『Voice』1999.4)をめぐって/1999.4.3
 
 「浅田彰と福田和也に象徴される九◯年代批評の問題」──この副題に出てくる二人の批評活動を対比させていけば、東氏のこの文章のエッセンスを要約することができるでしょう。
 
◎浅田彰=批評のアカデミズム化=高い知的緊張(メッセージ的強度)=社会的効果の喪失(あるいは社会的効果の意図的な無視)=メッセージ的批評=メディアの意識の欠如=左翼知識人
 
◎福田和也=批評のジャーナリズム化=高い社会的緊張(メディア的戦略)=社会的効果への強い自覚=メディア的批評=メッセージの意識の欠如=右翼(新保守)の代表的論客
 
 浅田彰と福田和也によって代表されるアカデミズム的批評=批評の知的機能とジャーナリズム的批評=批評の社会的機能の「棲み分け」がもたらすもの、つまり両者の分離と(対立なき)曖昧な共存関係が現在の批評の形骸化をもたらしている、と東氏は指摘します。
 
 しかし、ここでいう「批評の形骸化」の原因は個々の論者たちの実践や戦略にではなく、全体として複数の批評を棲み分け共存させる条件(批評のあるべき姿ではなくその条件)にこそあるのであって、問われるべきは<この社会では、批評的なメッセージがなぜ批評的に流通しないのか>という問いです。
 
 以上が、エッセイの前半。後半で、東氏はこの問いに対する直接的な解答にかえて、以下の二つの視点を提出しています。
 
 
 第一の視点。まず東氏は、このような「棲み分け」をもたらした九◯年代の社会的・文化的環境を「徹底化されたポストモダン」と名づけます。
 
 七◯年代末にリオタールが、<複数のモードが混在し、どれもが支配的になることなく並立しつづける文化状況の到来>への警告のために「ポストモダン」という言葉を用いたことからいえば、九◯年代は──特定のモードが(逆説的に)ポストモダンと呼ばれる特権的位置を占めることができた八◯年代に比べて──はるかに徹底してポストモダン的だというのです。
 
 さて、徹底化されたポストモダン的環境にあっては、社会全体をひとつに纏め上げる意味づけのネットワーク(大きな物語)は機能不全に陥り、そこで流通する記号は社会的な意味を剥奪されます。九◯年代に一般化したオタク的消費行動に見られるように、記号は消費者の感情移入によって満たされるほかない空虚な容器、無意味な「情報」として漂流するしかないのです。
 
 論壇のメッセージもまた、そうした無意味な「情報」としてオタク的に消費されるしかありません。人々が、記号の内容よりその伝達の事実性に敏感に反応する(メディアのメッセージ化)条件下にあって、批評文のメッセージ的強度(意味)とメディア的戦略(流通可能性)は構造的に両立不可能となるのです。
 
 浅田と福田の戦略(一方は、文章を書かないことで浅田彰という名の意味=ブランド力を保持し、他方は、文章を書きすぎることで福田和也という名をかぎりなく無意味に近づける)は、九◯年代の記号的条件から導かれる論理的かつ相補的な帰結なのであって、彼らの棲み分けを撹乱するためには──不毛な党派性に陥るしかない「批評のあるべき姿」を夢想するのではなく──現在の記号のあり方をめぐる具体的かつ詳細な観察が必要だ、と東氏は指摘しています。
 
 
 第二の視点。東氏は、アカデミズム的批評とジャーナリズム的批評の「棲み分け」の問題は、日本の文芸批評がかかえてきた思考と日本語をめぐる伝統的な問題に関係している──「批評の条件」とは、社会的条件の問題であると同時に、批評を可能にする言語的条件の、つまり文体の問題でもある──と指摘しています。<どういうことか。>
 
 東氏の慎重な議論を大雑把に括ってしまうと、<日本の哲学は、ものを考えるための日本語をいまだ適切なかたちで提出したことがない>のであり、したがって<文芸批評はこの国では長いあいだ本来なら「哲学」と呼ばれるべき思考の表現まで過剰に担いつづけてきた>。
 
 ところが、徹底化したポストモダン的状況において、批評の言語はもはやかつての特権的役割を担うことはなく、またそれを期待されてもいない。
 
<というのもメッセージ的強度とメディア的戦略の分割とは、見方を変えれば、アカデミックな批評には思考(メッセージの強度)はあるが日本語(流通可能性)がなく、逆にジャーナリスティックな批評には日本語はあるが思考がないという、思考と日本語の分割にほかならないからである。>
 
 総括。<アカデミズムとジャーナリズムの分割を撹乱し、細分化した批評たちの文脈を横断するためには、また別の言語[思考の強度と流通可能性をともに備え、「情報」の横溢のなかを意味を失わずに漂うことのできる日本語]、思考のための新しい文体が必要とされるだろう。>
 
 
 以上の要約では、二組の固有名詞を(意図的に)省略しました。小林秀雄と西田幾太郎、加藤典洋と高橋哲哉。
 
 まず、東氏はエッセイの前半で、知的緊張と社会的緊張をともに備え、批評的なメッセージを批評的に流通させた「健全な」批評の書き手として、小林秀雄の名をあげています。そこでは、小林秀雄が西田幾太郎について、その思考が本物であり文章が強度に満ちていることは認めつつも、メディアを介した他者との相互応答を欠けているゆえにその強度は「健全」でないと考えたことが、小林の「學者と官僚」からの引用をまじえて、紹介されていました。
 
<メッセージの強度はメディアとの相互応答なしには健全でいられない──昭和初期の大衆社会と都市文化を背景に現れた小林にとって、これは批評家としての一貫した信念だった。そしてこの基準に照らせば、現在の批評はたしかに健全さを失っている。>(ただし、東氏は続けて、ここでいう「健全さ」を必要以上に強調すること、つまり小林であれだれであれ「批評のあるべき姿」を過去に求め、その基準から現在の批評家たちを断罪することの不毛さを指摘しています。)
 
 次いで後半、上述の第二の視点に関して、再び「學者と官僚」からの一文が紹介されています。前半部分とあわせ、まとめて(現代表記で)引用しておきます。
 
<西田氏は、ただ自分の誠実というものだけに頼って自問自答せざるを得なかった。自問自答ばかりしている誠実というものが、どの位惑わしに充ちたものかは、神様だけが知っている。この他人というものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤独が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれてはいないという奇怪なシステムを創り上げて了った。>
 
 そしてエッセイの最後で、この小林秀雄と西田幾太郎の関係、つまりジャーナリズム(文芸批評)の言語=語り口とアカデミズムの言語=語り口の対立が、九五年から九七年にかけて行われた加藤典洋と高橋哲哉の論争に重ねあわされます。
 
 この「太平洋戦争の死者たちをいかに追悼するか」をめぐって争われた論争で、加藤氏は、アカデミズムに属する高橋氏の「語り口」を問題にし、いまアカデミズムの言葉が力を失っている原因は、敗戦が引き起こした精神分析的歪みに遡ると指摘しています。
 
 東氏はこのような加藤氏の論のたてかたと主張に同意しつつ、しかし、批評の文脈が多数化し「語り口」もまた多様化した九◯年代においては、「文学の言語」がアカデミズムの語り口より優位にあるとする小林以来の文芸評論家の自負──文芸批評が哲学的言語の貧しさを代補するという自負──はもはや成り立たない(事実、高橋は説得されなかった)と書いています。
 
<…加藤が採るべきだったのは、古い文芸批評の語り口ではなく、むしろまったく新しい語り口、アカデミズムとジャーナリズムを同時かつ横断的に説得できる別の文体ではなかったか。>
 
 
 補遺(というより個人的な備忘録)その一。先の文章で「意図的に」と書きました。それはもちろん、東氏の文章のエッセンスを示す上で必須ではない事柄だったから、という意味ではありません。むしろ、小林秀雄と西田幾太郎、加藤典洋と高橋哲哉の四人の思想家・文章家の名があげられていることが、このエッセイの魅力を倍増するものです。
 
 もっともそれは私の個人的な事情ゆえのことで、というのも、小林敏明『西田幾太郎 他性の文体』(太田出版)と加藤典洋『敗戦後論』(講談社)の二著が読みかけのまま本箱におさまっていて、これらに本腰を入れて取り組むことを皮切りに、たとえば「二◯世紀日本思想の文体論的考察」といったテーマへの手がかりをえられはしまいかなどと夢想していたからです。(そういう「こだわり」があったから、「意図的に」ひとまとめにしたわけです。)
 
 補遺その二。「哲学的日本語の貧しさ」あるいは「別の言葉」「新しい文体」に関連して、最近旺盛な執筆活動を展開している書家・石川九楊氏の日本語論が想起されました。残念ながらいま手元に資料がないので、ここで適切な文章を引用したりその所説を要約したりするわけにはいきませんが、このテーマについても今後の宿題として心に止めておきます。
 
 補遺その三。東氏は、<日本の哲学は、ものを考えるための日本語をいまだ適切なかたちで提出したことがない>という文章に注をつけていて、そのなかで次のように書いています。
 
<では哲学が思考のための適切な言葉である場所──国家──がどこにあるのか、それはここではとりあえず問わないでおこう。というのも、哲学とはそもそも思考するための不適切な言葉に耐えることだという考え方も──たとえばベンヤミンの翻訳論のように──ありうるし、むしろそのほうがハイデガー以降の大陸系哲学にとっては一般的だったとも言えるからである。>
 
 後段、特にベンヤミンの翻訳論云々のくだりは以前から本格的に取り組みたいと考えていたテーマなので、「翻訳者の使命」を読み直し、さらにデリダのベンヤミン論などにも接して、東氏の所説を確認のこと。(なお、前段の意味がよく理解できないので、これも宿題。)
 
 補遺その四。空虚な容器としての記号=無意味な「情報」について。ここでいわれる「情報」と村上龍がいう「情報」とを比較せよ。