『大論理学』ノート[3-3]
 
 
 
 

【第44回】第3巻第3篇、理念
 
 小泉義之氏は『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書)の中で、<ヘーゲルは、国家の独立は国民の最高の名誉であり自由であるとした上で、国家の独立は戦争によって勝ち取られ戦争を通して維持されると主張した>とし、<現代人のほとんどは依然としてヘーゲル主義者である>と書いています。
 
<多くの人は、「統一国家」によって平和が保障されているとか、「民族的独立」や「国民国家の自立」は良いことであると信じ込んでいる。そして、国家や民族を基本単位にして政治や文化について論じている。特に日本人のほとんどは戦争肯定論者である。>
 
 日本人のほとんどが戦争肯定論者であるかどうかはさておき(小泉氏の指摘はおそらく正しい)、現代人の多くが小泉氏の規定した「ヘーゲル主義者」であることは間違いないと思います。それは日常的な思考の枠組みという意味でのイデオロギー、いわば思考の生理なのであって、そこから抜け出ることはほとんど不可能に近い。(私自身は、友情と同情と非情のトリアーデでもって脱出が図れるのではないかと考えたことがありますが、いまだにそれを思想や理論として語ることはできません。)
 
 今回読んだ文章の中で、ヘーゲルは国家について次のように語っていました。
<もし或る対象、例えば国家が、その理念に全然一致しない場合には、云いかえると、むしろ国家の理念が全く存在しないような場合には、或いはもしも国家の実在性が(自覚的な各個人がこれであるが)概念に全然一致しない場合には、国家の魂と身体とは分離することになろう。即ち魂は遊離した思想の領域に飛び去り、身体は個々の個体に分解するであろう。しかし、国家の概念は全く本質的に各個人の本性を構成するものであるから、国家の概念は支配的な衝動として各個人の中に存在する。そのために各個人は、この概念を、たとえ単に外的な合目的性の形式においてではあれ、実在性の中に移そうと努力することになるのであり、云いかえると、その概念に満足を与えるようにせざるを得ないことになる。そうでなければ、個人は滅亡するほかはないであろう。たとえ、その国家の実在性が概念に一致することの最も少ないような最悪の国家でさえも、それがなお実存するかぎりは、やはり理念なのであって、各個人はやはり権力者としての概念に服従しているのである。>
 
 おそらくヘーゲルの時代には、国家とは輝くばかりの「理念」であったに違いなく、世界戦争後に生きる後世の人間がヘーゲルの国家観をあれこれ取り沙汰するのは「ルール違反」なのかもしれません。その意味では、ヘーゲルとヘーゲル主義者とは違うといえるかもしれない。(ヘーゲルの国家観を批判したいのであれば、まずその生命観を否定してかからなければならないと私は考えていますが、そこまで徹底した思惟を展開している人がいったいどれほどいるのでしょうか。)
 
 しかし、『大論理学』のヘーゲルが、概念と実在性との統一としての理念を説明するために国家を例にあげるのは、それもまた「ルール違反」だったのではないかと私は考えています。(1997.9.27)
 
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◆理念◆
 理念は概念と実在性との統一であり、十全な概念であり、客観的な真理(真なる有)である。そして、<すべての現実的なものは、それが理念をその中にもち、理念を表現するものであるかぎりにおいてのみ存在する>のであり、客観的世界と主観的世界、すなわち(表象や記憶に関する悟性的了解ではなく、理性による概念的理解の)対象はそれ自体が、その心・魂としての概念とその身体としての実在性との一致なのである。
 
 たとえば、人間や生命体は、心と身体が分離すると死んだ自然(機械的世界や化学的世界)になる。また、国家や教会のような全体は、その概念と実在性(この場合の実在性とは、自覚的な各個人)が解体すると実在することを止める。つまり、理念こそが概念と実在性との統一なのであり、<理念をもたず、即ち概念そのもの自身との統一をもたない精神>は死んだ精神であり、物質的な客観にすぎないのである。
 
 さらに理念は、いま述べた概念と実在性との統一という一般的な意味をもつにとどまらず、主観的概念と客観性との統一という、より規定的な意味をもっている。まず、主観的概念は規定有としての実在性をその特殊性と個別性の中にもち、次に、客観性は<概念の規定性から自分との同一性に帰一した全体的な概念>である。そこでは、無関心な外面性としての客観性は没落しており、したがって理念は客観性を含むにもかかわらず非物質的である。
 
 こうして、理念のより立ち入った諸規定が出てくる。第一に、理念は概念と客観性との同一性(普遍)であり、第二に、概念の向自有としての主観性とこれとは区別される客観性との関係であると同時に、<自分を個体性と個体性の非有機的な自然とに分離するとともに、再びこの自然を主観の力に連れ戻し、最初の単純な普遍性に復帰する過程>である。そして第三に、理念は第一の規定である同一性と第二の規定である過程との同一性としてある。
 
 このような理念の中で概念は自由を獲得したのであって、この自由のために理念は最も激しい対立をも含むことになる。すなわち、<永遠に対立を産出するとともに、またこの対立を永遠に克服し、以って対立の中で自分自身と一つになる>ものこそが理念なのである。
 
 理念は、はじめは単に直接的に存在するにすぎず、そこでは概念は<その客観性から区別されたものとして単純に自分の中にありながら、その客観性を貫通するものであり、自己目的として客観性の中に自分の手段を有し、客観性を自分の手段として立てるが、しかしこの手段の中に内在的にあり、手段の中で実現された自己同一的な目的となっているような概念>である。このような理念は、その直接性のために個別性をその実存の形式とする。すなわち生命がこれである。
 
 しかし理念とは過程であるから、生命のこの個別性は止揚され、内的なものであった概念はその客観性を自分自身と同等なものとして措定する。こうして理念は、<認識と意欲としての、真と善との理念>となる。もっとも、最初はこの理念も有限的な認識・意欲、すなわち主観的な精神にすぎず、生命がそうであるように客観的世界を自分の前提とするものなのである。
 
 しかし、主観的精神(有限的精神)の活動性は、この前提を止揚しこれを措定されたものとするところにあるのであって、その意味で<客観的世界こそ却って有限的精神が自分自身を認識する基盤である観念性なのである>。こうして、<精神は理念を自分の絶対的真理として、即且向自的にある真理として認識する>。すなわち、理念は絶対的な理念、無限的な理念となる。そして、<その中では[無限的な理念としての真理の中では]認識と行為とは宥和され、理念は自分自身の絶対的知識となる>のである。
 
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◆「ゲーデルの不完全性定理は、論理ではなく、理論についての定理である」──とは、竹内薫氏の解説。(同氏によれば、論理[logic]は「筋道が通っていること」であり理論[theory]は「うまくやる方法」のことであって、言語学でいうところの「意味論」[semantics]と「構文論」[syntax]に、あるいは真偽性と証明(計算)可能性にそれぞれ対応する。)
 つまり、ゲーデルの不完全性定理は、数学「理論」の中では証明不可能な命題で、その理論を外部から観察している人間にはそれが真であることがわかるものが存在する、ということを「証明」してみせたものである。(と要約していいのかどうか。)
 また、竹内氏はロジャー・ペンローズの議論の核心をゲーデルの不完全性定理を使って次のように解説している。
 ゲーデルは、計算システムF内で「私は証明できない」という意味を持つゲーデル文G(F)を構成した。G(F)は実際に証明不可能であるから真であるが、Fにはそれがわからない(証明できないから)。
 Fの性能を拡張したF’を考えて、人間の数学者を計算システムF’によって完全にシュミレートできると仮定する。すると、F’内でもF内と同様の議論が成り立ち、真であるが証明不可能なゲーデル文G(F’)を構成することができるが、これは矛盾である。
 したがって、人間の数学者を計算によって完全にシュミレートできるシステム(強いAI)は存在しない。(人間の思考力は、人工知能より本質的にすぐれている。)
 ──ここには、ヘーゲル論理学の叙述と(論理的に)相同なプロセスが示されている。 ヘーゲルが「Aの真理はBである」(ここでBはAよりも論理学的に高次なカテゴリーに属している)というとき、BはシステムA内で構成されたゲーデル文にほかならないのである。
(ところで、「Aの真理はBである」と語るヘーゲル自身はいったいどこに位置しているのだろう。また、このプロセス[F→F’→・・・]は一つの悪無限なのではないだろうか。それとも、この無限の螺旋運動を通して根源的忘却としてのロゴスが身をもって生きられているというべきなのだろうか。)
 
*竹内薫「ツイスターとペンローズのプラトン的世界」およびロジャー・ペンローズ「影への疑いを超えて」3の訳者解説(いずれも、ロジャー・ペンローズ『ペンローズの量子脳理論』所収(竹内薫/茂木健一郎訳・解説,徳間書店))
 

【第45回】第3巻第3篇第1章、生命
 
 ヘーゲルは、<もし時間と空間とについて、ここに前以って云ってよいとすれば>と断わった上で、論理的生命がその中にもつ客観的有の多様性──遍在する魂としての概念がそれらの中にあってあくまでも一つのものとしてある多様性──は、<空間と時間の中で、全く差別的で自立的な並存であるところの無関心な存立をもつ>と述べています。
 
 ここでヘーゲルが<前以って>というのは、『自然哲学』の叙述に先立っての意味にほかならないと思うのですが、そうするとヘーゲルの「体系」のこの部分(『論理学』の段階)では、まだ時空は生じていないわけですね。──もっとも、これはいまさらいうまでもないことでした。しかし私たちは(いや、私は)、ともすればこのことを失念してしまうのです。そして、たとえば『論理学』最終巻最終篇に出てくる「理念」を時間的に最後に出現するものと勘違いしたり、ヘーゲルが外面や内部という言葉で叙述しているものを空間的対象として表象したりしてしまう。
 
 上記の引用文でヘーゲルが表現しようとしている「論理的生命」の概念は、本当に掴みにくいものです。それが自然的生命とも精神の中の生命とも異なるものだという説明は、確かに読めば判るのですが、そこまでいうのならあえて「生命」などという紛らわしい語彙は使わず、たとえば「天使的存在性」や「ζ」などの記号で表記した方がよほど判りやすかったのではないかと思ってしまいます。(「機械」や「化学」や「目的」も同様です。)
 
 とはいえ、『論理学』のこの部分であえて「生命」を論じるところがヘーゲルのヘーゲルたるゆえんであって、だからレーニンも、<生命を論理学のうちにひきいれるという思想は、客観的世界が人間の(最初は個人的な)意識のうちに反映され、そしてこの意識(この反映)が実践によって検証される過程という見地からすれば、当然であり、また天才的である>(『哲学ノート』松村一人訳)と絶賛しているわけです。(もっとも、私はレーニンとはおそらく異なる観点からヘーゲルの叙述にひきつけられているに違いないのですが、そのことはまだうまく語ることができない。)(1997.10.5)
 
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◆生命◆
 具体的で実在的な生命の理念を問題にするのは、論理学の領域を踏み越えることだと思われるかもしれない。しかし、論理学は<空虚な死んだ思想の形式以上のもの>すなわち絶対的真理を対象にするのであるから、概念の自分自身の把握としての認識、単なる現象ではなく真理そのものがその中にあるところの認識を(論理学が)問題にするのは当然である。<認識とは、概念が向自的なものでありながら、しかも主観的なものとして客観的なものに関係するかぎりの概念であるから、概念は前提されたもの、または直接的なものとしての理念に関係する。>そして、論理学が扱うこの直接的なものが生命である。
 
 このように、<即且向自的に真なるものとしての理念>こそが論理学の対象である。しかし、理念をめぐる考察が空虚なもの、無規定的なものにならないようにするためには、理念はまずその直接性において、すなわち生命という規定性の中で把握されなければならない。ところで、論理学が扱う生命は<純粋理念としての論理的生命>、いいかえれば理念の中にある生命なのであって、自然哲学が扱う自然的生命とも、精神と結びついている生命とも異なるものである。
 
 まず、自然的生命は、非有機的自然の中にその制約をもち、現実的な形態の多様性がその理念の契機となっているような自然である。それは<自然の外面性が自分の中に向い、主観性の中で止揚されることによって到達される>ところの最高の段階である。これに対して論理的生命は、現実性の形態をとるものを前提としたり、その実在性の諸契機として外面的な現実性の形態をもったりすることはない。それは、あくまでも概念を前提とし、主観的概念をその魂として客観的な全領域を通じて自分の実在性を媒介し、概念の形式の埒内にその実在性の諸契機をとどめるのである。
 
 次に、精神の中の生命は、一面では精神と対立し(精神の手段としての生命)、他面では精神と一つのものとなっており(精神の身体としての生命)、そしてこの統一が再び精神によって純粋なものとして生み出されるといった関係の中にある。それは、自然的生命と同様、外面性の規定性をもっている。すなわち、自然的生命が自然の多様な形態によって前提・制約されていたように、精神の中の生命は精神の目的と活動性によって規定されているのである。これに対して論理的生命は、そのような前提・制約としての客観性(自然)からは自由であり、またこのような主観性(精神)に対する関係からも自由なのである。
 
 ここで論理的生命(理念の中にある生命)について、より立ち入って見てみよう。第一に、生命は普遍性である。生命がその中にもつ客観性は、概念によって貫かれており、その部分あるいは外的な反省によって区別されているものもそれ自身の中に全体としての概念をもっている。このような多様な外面性の中での概念の遍在としての生命は、反省関係や形式的概念の規定に固執する思惟にとっては絶対的な矛盾であり、不可解なものだろう。
 
 第二に、生命はその客観性の存在根拠・内在的実体であり、<特殊的区別の種的な衝動>である。それは<生命のこのような特殊化[単純な概念によって貫かれた多様な外面性]を統一の中に連れ戻して、統一[種]の中に保つところのもの>なのである。そして第三に、客観性と特殊化との否定的統一としての<自己関係的な、向自的にある生命>は個別的なものである。こうして、ここに生命の判断(分裂)が生じる。すなわち、生命はまず自分を個別的主観として客観から分離し、かつ概念の否定的統一となすことで、自分を直接的な客観性の前提とするのである。
 
 以上のことから、生命はまず生命的個体として、客観性に対して無関心なものとして前提されるものである。次に、生命は自分に対立する客観性を止揚するところの生命過程へと推移する。この過程を通して生命は自分自身と他者との統一である普遍となる。すなわち、生命は最後に類の過程へと推移する。<この過程は一面においては、生命の概念への復帰であり、最初の分裂の反復、即ち新たな個体性の生成と最初の直接的個体性の死とである。>しかし他面においては、それは自分自身に関係する概念の生成、すなわち認識への推移でもある。
 
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◆ヘーゲルが述べていること、たとえば<部分として区別されているもの、或いはその他の外的な反省によって区別されているものも、それ自身の中に全体としての概念をもっている>(訳書269頁)あるいは<原子的物質の絶対的多数性としての客観性の外面性の中にあるこのような生命概念の統一>(訳書270頁)などは、それぞれ無限集合論や素粒子物理学の語彙を使って現代風にいい直すことができるのではないか。
 
 ヘーゲルが『論理学』で、多様な世界がそこにおいて生成するところの宇宙の存在論の叙述を試みたのであれば、そしてそれがヘーゲルの「天才」によって時空生成以前の宇宙の叙述に成功しているのであれば、その後の人類が見出した、そしてこれから見出すであろうあらゆる自然法則はすべて、あらかじめ『論理学』の中に折り畳まれているはずだ。
 
◆デカルトは『省察』第二で、「私はある」という命題は、私によっていいあらわされるたびに、あるいは精神によって把握されるたびごとに、必然的に真であると書いている。ヘーゲルが『論理学』の冒頭で論じた「有と無」は、「私はある」という命題が把握されるたびごとに「有」が「無」から生成するということ──あたかも脳内のニューロンが発火するたびごとに意識が現われ、ニューロンが発火を止めるたびごとに意識が無くなるように──を叙述していたのかもしれない。
 
 デカルトが「私はある」と言表したとき、彼は(『省察』第一の「懐疑」の結果)記憶も感覚ももたない存在であったのだから、そこには時間も空間もなかったはずだ。ヘーゲルが『論理学』で叙述しているロゴスも、時空生成以前の世界で稼働していた。そうすると、ヘーゲルがいう「成」とはいったい何なのだろう。蜜蝋の蜜蝋らしさ(つまりクオリア?)を感覚している私のことなのだろうか。
 

【第46回】第3巻第3篇第1章、生命「A 生命的個体」
 
 昨日仕事で神戸から東京へ日帰りで出かけた新幹線の中で、『宮沢賢治・時空の旅人』(竹内薫/原田章夫,日経サイエンス社)と『弔いの哲学』(小泉義之,河出書房新社)を読み、『ヘーゲル論理学の体系』(武市健人,こぶし書房)の序論を読んで、八重洲ブックセンターで購入したアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(上妻靖・今野雅方訳,国文社)と雑誌『数学のたのしみ』創刊号(1997.6;日本評論社)をぱらぱらと眺めました。
 
 おかげで腰は痛くて目はしょぼしょぼするし頭の中はぐしゃぐしゃで、とてもヘーゲルの叙述を要約したり文章を書いたりできる状態ではありません。が、なんとか十月中に『大論理学』を読み終えたいと、今日は体育の日だからと理不尽に余力を総動員して取り組んだものの、やはり「生命的個体」の節で力尽きました。だれかに強制されているわけでもないのですから、ここは無理をせずゆったりと大団円を愉しむことにします。
 
 ところで、いま脈絡なく取り上げた五冊の書物は、いずれも「論理的生命」について考える際の独特の切り口を示していました。というより、そのような観点で読めばヒントになる箇所がそれぞれにあったということです。実は今回このあたりのことを紹介したいと予定していたのですが、どうも元気が足りません。ですからここでは予告あるいはほのめかしだけで終わります。(この話題は、ポリロゴスから「撤退」して現在個人的なホームページ[http://www.sanynet.or.jp/norio-n]に「連載」しているエッセイで、近く取り上げてみようかと思っています。これもできればですが。)(1997.10.10)
 
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◆A:生命的個体◆
 生命の理念はその直接性のゆえに、<はじめて向自的であるような即自的な措定作用>あるいは創造的な前提作用をもっている。この自己規定作用によって、生命は特殊的なもの、すなわち無関心な普遍性(客観性)としての生命と主観的個別性としての生命へと分離する。このような両項への分割(判断)は、直ちに推論となる。
 
 まず第一の規定(無関心な普遍性)について見てみると、それは概念と実在性との統一としての理念である。しかし、それは直接的な理念である点で客観性にほかならない。前に出てきた客観性において、概念は実在性の中にまったく没入し、その内的なもの(したがって実在性に対して外的な反省)であるにすぎなかったが、ここでいう客観性は概念の契機として措定されたもの、すなわち<本質的に主観に内属するものであり、しかも自立的なものとして措定され、主観に対して無関心な直接的有の形式の中にある抽象的な普遍性>と見られなければならない。
 
 次に第二の規定(主観的個別性としての生命)について見てみると、それは概念の主観性あるいはその自由な自己統一であり、生命の理念の真の中心性をなすものである。生命的個体は、まず心[Seele]としての生命、あるいは<それ自身の中で完全に規定されている自分自身の概念として、端初をなす自動的原理>である。しかし、この心はその直接性の中にあっては同時に外面的であり、それ自身の中に客観的な有の面(身体)をもっている。心はその身体性を手段・媒介として、外面的な客観性と結合するのである。
 
 ここに出てきた客観性(身体)は主観的統一の中に取り入れられたものであり、そこには概念が内在しているのであるから、機械的関係や化学的関係あるいは全体と部分といった抽象的な反省関係はこの客観性には属さない。生命体がもつこのような客観性が有機体[Organismus]である。有機体は目的に対する手段・道具であるが、概念がその実体をなしているのであるから、それは完全に合目的的であり、手段・道具そのものが実現された目的となっている。
 
 また、有機体は外面性から見れば多様であるが、それは肢体[Glieder]の多様であって部分の多様ではない。各肢体は個体性の中にあって外面的なものであり、そのかぎりで(機械的または化学的関係の下にある普通の客観性へと)分離可能なものである。したがって、否定的統一としての生命的個体は、概念の規定性の抽象的契機(肢体)を実在的な区別として措定しようとする衝動をもつ。この衝動は、<自分に外面的な他の諸契機を止揚し、これを犠牲として自分を生み出すが、しかし同時にまた自分自身をも止揚して、自分を他の諸契機の手段にしようとする衝動>である。
 
 生命体のこのような自分自身を相手にする過程は、まだ全く個体性の内部でのみ行われる。すなわち、生命体の外面的な側面の動揺と変化は、生命的個体における概念の顕在を意味している。というのも、否定性としての概念は客観性を自分の中にもつものなのだが、それは客観性の無関心的存立が自己止揚的なものとして立ち現われるかぎりにおいてのみだからである。したがって、概念は自分の衝動によって自分を産出するのであり、そしてそれは産出されたものがそれ自身産出者であるということを意味しているのである。
 
 ところで、生命的個体の客観性(身体)は概念によって魂を吹きこまれ、概念を実体としてもつものであるから、それ自身の中に概念の諸契機(普遍性・特殊性・個別性)を本質的区別としてもっている。<それ故に、これらの三つの区別を外面的に表わす形態は、またこの三つの規定の面から区分または切断されている。>
 
 個体の生命的客観性は、第一に普遍性である。普遍性の概念は、それ自身の中における絶対的否定性として単純な直接性であって、この絶対的区別の概念は「感受性」によって直観し得るものとなる。感受性とは<無限な規定の可能な受容性>としての自己内在性であるが、この受容性は多様なもの・外面的なものとはならず、普遍性(感受性)の中において単純な原理としてある。<感受性は従って、自分の中にある心の定有と見ることができる。というのは心は、すべての外面性を自分の中に受け入れるが、しかしこれをまた自己同等な普遍性の完全な単純性に還元するものだからである。>
 
 個体の生命的客観性は、第二に特殊性(措定された区別の契機)である。この第二の契機は、<単純な自己感情の中で観念的な規定性としてあり、まだ実在的な規定性とはなっていない>感受性を開封するものであって、それはすなわち「興奮性」である。興奮性を通じた自己規定(判断または有限化)によって、<生命体は前提された客観性としての外面的存在に関係することになり、客観性との交互作用に這入ることになる>。
 
 個体の生命的客観性は、第三に個別性である。特殊性(興奮性)の中にある生命体は客観性を手段・道具として直接的に自分の中にもつが、この直接性が(実在的な)自己反省によって止揚される。すなわち<概念の統一がその外面的な客観性の中で否定的統一として措定される>のであって、このような「再生産」の契機が出現するとともに生命は現実的な個体性となり、自己関係的な向自有となる。そして、それは同時に外部への実在的な関係でもある。
 
 こうして、<個体が自分を主観的全体性として措定するとともに、また外面性に対する関係としての個体の規定性の契機を措定することによって、個体は全体性となる>のであるが、これによって生命の過程は個体性の制限を脱して、いまや前提された客観性そのものへの関係へと推移する。
 
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◆主観性の意味について。
 
 ヘーゲルは『大論理学』序論で、論理学は「客観」的論理学としての有の論理学・本質の論理学と「主観」的論理学としての概念の論理学とに区分されると書いていた。そしてこのようにいうときの「主観」とは、外的なものによらず自分を規定する自由な自立的主体のことであると書いていた。
 したがって、ここ(概念論)でいわれる主観性とは、意識の経験(認識主観)をいうものではない。それは既に『精神現象学』で叙述され尽くしているのであって、ここ(論理学)では存在論が展開されているからである。(どのような資格においてあなたはそのような存在の理法を論じる立場に立つことができるのかと問われれば、そのような質問をあらかじめ封じておくために、私は『精神現象学』すなわち「意識の経験の学」を書いたのだとヘーゲルは答えるだろう。)
 
◆切断[insectum]と昆虫[Insekt]との関係について。
 
 生命体が本質的な区別としてもっている概念の三規定が外面的に表現されると、その形態は普遍性・特殊性・個別性のそれぞれの規定の面から「切断」されている。──このようにヘーゲルが書くとき、そこに切断[insectum]と昆虫[Insekt]との語彙としての類似性が巧みに表現されていると訳註にあるが、これはどういう意味なのだろうか。
 昆虫の生物学的特徴の一つはその体が頭部・胸部・腹部に三区分されることだが、その程度のことであれば単なる言葉遊びにすぎないだろう。あるいは、多くの昆虫がその成長過程で顕著な変態を示すことが念頭におかれているのだろうか。
 

【番外】
 
 前回、体力不足のためほのめかすだけに終わった「五つの書物が 一つにつながる話題」を紹介します。(1997.10.12)
 
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◆歴史の概念をめぐる素描(あるいは宮澤賢治の四次元感覚)
 
 デカルトが始めたもう一つのこと(数学的言語で書かれた世界の解明あるいは「普 遍数学」の探究)を取り上げる前に、少し寄り道をします。
 
 小泉義之氏の『デカルト=哲学のすすめ』に、祈りから始まる新しい言語ゲームの 可能性について言及した文章がありました。このことをもっと踏み込んで論じたもの はないものかと思っていたところ、同氏の近著に『弔いの哲学』(河出書房新社)が あることを知り、早速読んでみました。
 
 同書の末尾に小泉氏は、<死んだ子の顔を想起すること、死んだ子の歳を数えるこ と、死んだ子の名を呼ぶこと、それが弔うということであ>ると書いていて、そのよ うな振る舞いだけが死んだ人を「英霊」や「犠牲者」に、つまり匿名の「死者=亡霊 」にまつりあげることのないやり方であるとしています。
 
 おそらくは、<日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじて アジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か>(加藤典洋「敗戦 後論」)といった言説を念頭におき、そのような問題のたて方そのものを無効にする ような根底的な批判を試みた(と思われる)この書物のキーワードは、死とは生体が 「死体」になるというただそれだけのことにほかならず(死者=死体)、したがって <誰かの死と私の生の断絶を思い知ること>あるいは「死者の名」を唱え続け死者を 亡霊にしないことこそが弔いである──この二点に尽きると思いました。
 
 これだけの引用や説明では、この書物の要約にも紹介にもなっていませんね。そし て、小泉氏のいう「死者の名」を唱えることが、祈りから始まる新しい言語ゲームの なんたるかを考えるヒントなのかもしれません。しかし、ここで取り上げたいのはそ のことではなくて、死とは生体が「死体」になることにすぎないこと、そうであるに もかかわらず歴史とは常に誰かの死と誰かの生とを結びつける「神話的権力」(小泉 氏)によって構成されてきたものであることを、いま少し立ち入って考えるためのラ フスケッチを描いておきたいのです。
 
 宮澤賢治の作品に、他者のために自らの身体を食糧として差し出す生き物(たとえ ば蠍)の話が出てきます。私は、このエピソードは(あるいは『法華経』の教えにし ても同じことだと思う)自己犠牲や利他行為の徳を称揚するものなどではなく、自然 の摂理あるいは自然史(誌)的な事実を表現しているものだと考えています。
 
 生き物は皆死んで、他の生き物の食糧になる。あるいは、死とは死体=食糧になる ことにすぎない。(もしかすると、ギリシア神話のメタモルフォーゼとはこのような 「食物連鎖」を意味していたのかもしれない。)──小泉氏も前掲書で、<誰かの死 と誰かの生のあいだに、何らかの現実的関係が成立するのは、誰かの死体を誰かが食 べる場合と、誰かの臓器を誰かが移植される場合だけである>と書いていました。
 
 生き物の死はいかなる物語(意味)にも属することなく、ただ事実として日々生成 するものであるとしても、近親者や戦友や友人や愛する人(動物)の死には意味はな いのでしょうか。私はあると思います。そしてこの「意味」を通して死者は残された 者のうちに「存在」し、そこに一つの「物語=歴史」をかたちづくっていくだろうと 思うのです。
 
 しかしここでいう意味とは、共同体や国家など具体的な個人の名を捨象して設営さ れた生の舞台に生起するものではなくて(つまり哀悼や追悼ではなく、死者の名を唱 える祈りのうちに示されるしかないものとしてあり)、また死者が残された者のうち に存在するといってもそれは観念や表象といった心理的なものとしてあるわけではな く(つまりなんらかの記号や建造物によって象徴されうるものではなく、そういって よければ原理的・論理的なものとして存在しており)、だからそこから生まれる歴史 にしても物語られ忘却されることはあっても編纂され解釈されるもの(制度的に記憶 され続けるもの)としてあるわけではないのです。
 
 宮澤賢治の作品群が示している「四次元感覚」とは、残された者が死者とともに存 在することができる不可能な場所への方向感覚のことであり、一種の生命感覚のこと だったのだと私は考えています。
 
 たとえば「あらゆる透明な幽霊の複合体」(『春と修羅』第一集序)や「すきとお ったかなしみ」(宮澤賢治の詩篇にこのような詩句があったかどうか)といった語彙 は、現象の背後や深層に──これらの言葉がさし示す場所や位置や方向についての厳 密な論証と明晰な直観を欠いたまま──事柄の本質だとか真の意味だとかを措定しよ うとする思考形態、いいかえれば匿名の他者たちの死を契機として歴史を編纂してし まう思考形態とは無縁な、もう一つの(生命感覚に裏打ちされた)歴史感覚の可能性 を示しているのではないでしょうか。
 
◆歴史の概念をめぐる素描(あるいはヘーゲルの三つの生命)
 
 最近ある人から、あなたは「他者」をどのように定義されますかと問われて、他者 とは時間のことなのではないかと答えました。そのとき私の念頭にあったのは、実は 三年前に亡くなった父親のことだったのです。
 
 私は哲学上のいわゆる自他問題には(いまのところ)まったく「問題」性を感じて いないのですが、他者を死者におきかえて、そして自他問題を他者の認識の問題では なく他者=死者の(それも私との間に具体的な関係をもった死者の)存在の問題とし て構成するならば、そこから汲めども尽きぬ「問題」が立ち上がってきます。
 
 ところで、他者が時間の問題であり、あるいは他者=死者と私とが共在しうる空間 の問題であるとしたら、それはまさに時空を扱う相対性理論の射程範囲に属するもの だといえるでしょう。
 
 竹内薫氏と原田章夫氏の共著『宮沢賢治・時空の旅人』(日経サイエンス社)は、 「文学が描いた相対性理論」というサブタイトルからもうかがえるようにアインシュ タインの特殊相対性理論への優れた誘いの書であると同時に、文学という営みがその 根源においてはらんでいる生命や他者の問題、すなわち時空の問題が宮澤賢治という 希有な人物によっていかに詩的に表現されたかを──そして詩的表現が数学的表現と 拮抗しうるもう一つの厳密な表現であったことを──いきいきと描いた読み物でした。
 
 相対性理論(時空論・重力論)や量子論、そしてロジャー・ペンローズが意識の問 題を解明する鍵になると予言した量子重力論。私は、カントールの連続体仮説やリー マン予想、ポアンカレ予想といった現代数学の問題とともに、これらの理論物理学上 の話題にかぎりない刺激を感じており、その正確な理解を抜きにした哲学的言説は最 終的に駄弁にすぎないものとなるのではないかとさえ思っています。
 
 そしてそれとほとんど同じくらいの重みをもって、たとえばマラルメやランボーや パウル・ツェラン、宮澤賢治や吉岡実、イリアスや万葉集などの詩篇から一つの時空 を、つまり宇宙の実在を感じ取ることのできない知性を信用できないのです。
 
 とはいえ、上に述べた事柄は私の願望あるいは訓戒にすぎず、ここでいま扱ってい るテーマとは直接の関係がありませんでした。(ただ一つ気になったことをノートし ておくならば、竹内氏は、特殊相対性理論においてアインシュタンがそうしたように 「光速度不変の原理」を採用するかどうかは<早い話が哲学の問題なのです>(前掲 書124頁)と書いています。これはどういう意味なのでしょう。)
 
 話を戻します。私はいま他者の死を契機とする「歴史の概念」について考えるため の予備作業をしているのでした。歴史といえば、哲学の分野ではまずヘーゲルですね (?)。竹内氏が前掲書の巻末に寄せた文献案内の中に、次のような文章が出てきます。
 
<すべての〈存在〉の根幹には〈区別〉がある。…さて、“KNOTS AND PHYSICS” の著者のカウフマンは、/およそ〈区別〉あるところ、四次元時空とローレンツ変換 あり/という驚くべき関係を数学的な「証明」の形で示唆している。つまりローレン ツ変換は、どこからともなく偶然に出てきたものではなく、どうやら、存在と認識と いう哲学的問題と密接に関連しているらしいのである。/〈区別〉については、ヘー ゲルのあとをうけて現代フランス思想でも大きなテーマとして扱われている…。/ま た、この問題は、最近発展している「結び目理論」などの現代数学の最前線とも密接 に関係している…。>
 
 ローレンツ変換や結び目理論、現代フランス思想云々はさておきます。ここでは、 区別のあるところに四次元時空があり、この区別がヘーゲルに由来すると示唆されて いる点に注目します。
 
 私はここ一年近くヘーゲルの『大論理学』を読み続けていて、ちょうどいま最終巻 「概念論」最終篇「理念」の第一章「生命」に取り組んでいるところなのですが、そ の総論部分でヘーゲルは、生命には論理学(ヘーゲルがいう論理学は形式的な思惟法 則の学ではなく、一種の存在論だと考えてください)が扱う「論理的生命」と自然哲 学が扱う「自然的生命」、そして精神哲学が扱う「精神の中の生命」の三種類がある と述べています。以下、私なりの要約と引用(武市健人訳『大論理学』下巻,岩波書 店)で紹介し、次回へつなぎます。
 
 論理学が扱う生命は<純粋理念としての論理的生命>、いいかえれば理念の中にあ る生命なのであって、自然的生命とも精神と結びついている生命とも異なるものである。
 
 まず、自然的生命は、非有機的自然に制約され、現実的な形態の多様性がその理念 の契機となっているような自然である。それは<自然の外面性が自分の中に向い、主 観性の中で止揚されることによって到達される>ところの最高の段階である。これに 対して論理的生命は、現実性の形態をとるものを前提としたり、その実在性の諸契機 として外面的な現実性の形態をもったりすることはない。それは、あくまでも概念を 前提とし、主観的概念をその魂として客観的な全領域を通じて自分の実在性を媒介し 、概念の形式の埒内にその実在性の諸契機をとどめるのである。
 
 次に、精神の中の生命は、一面では精神と対立し(精神の手段としての生命)、他 面では精神と一つのものとなっており(精神の身体としての生命)、そしてこの統一 が再び精神によって純粋なものとして生み出されるといった関係の中にある。それは 、自然的生命と同様、外面性の規定性をもっている。すなわち、自然的生命が自然の 多様な形態によって前提・制約されていたように、精神の中の生命は精神の目的と活 動性によって規定されているのである。これに対して論理的生命は、そのような前提 ・制約としての客観性(自然)からは自由であり、またこのような主観性(精神)に 対する関係からも自由なのである。
 
◆歴史の概念をめぐる素描(あるいはベンヤミンの歴史の天使)
 
 前回紹介したヘーゲルの叙述は、たぶんわけのわからないものだったろうと思いま す。私自身も、訳書を読んでいるときはそれなりに「理解」していたのですが、いま あらためて要約を眺めてみるとそれもあやしくなってきます。自分の中にいつのまに かできていた「ヘーゲル論理学を読むときの構え(時空感覚)」とでもいうべきもの から離れると、同じ対象であっても「理解」が成り立たなくなるのです。
 
 自問自答の禅問答めいてきましたが、ヘーゲル『大論理学』を読み続けてきて時折 おそわれた眩暈のような感覚をあえて表現してみました。(これと同じ事態が、なま の歴史感覚や生命感覚、四次元感覚──この宇宙や生き物や歴史はなぜいまあるよう なものとしてあるのだろう、なぜぼくはぼくなんだろう──との遭遇のうちに、その つど反復されているに違いないと考えているのですが、このことについてこれ以上思 索を重ねることは残念ながらいまの私にはできません。)
 
 さて、話を元の文脈にもどすために、ここで強引な「圧縮」を試みます。ヘーゲル のいう三種類の生命を小泉義之氏が『弔いの哲学』で使った用語におきかえると、次 のように図式化できるのではないか、そして、そこから三つの異なった歴史の概念が 生まれてくるのではないか。
  ・論理的生命   ⇒ 死者の名  ⇒ 存在の歴史?
  ・自然的生命   ⇒ 死者=死体 ⇒ 食物連鎖の歴史?
  ・精神の中の生命 ⇒ 死者=亡霊 ⇒ 共同体の歴史?
 
 しかし、このことを詳しく説明するには相当な「体力」が必要なようです。ここで は、なまの「素材」を並べておくだけに止めます。(要するに、詳しく叙述するのが ちょっと面倒になったということですね。)
 
 第一の素材。なぜ死を歴史の概念の契機とするのか。これはまだ噛りはじめたばか りの書物からの(勘を頼りの)引用にすぎません。アレクサンドル・コジェーヴ『ヘ ーゲル読解入門』(上妻靖・今野雅方訳,国文社)の第九章「ヘーゲル哲学における 死の観念」から。
 
 コジェーヴは『精神現象学』からの文章──<死は完成であり、個体が個体として [すなわち個別者として]共同体[=国家=普遍者]のために引き受ける至高の労働 である>([]はコジェーヴによる挿入)──を引用した後で、次のように書いてい ます。<このように、「死の能力」は、単に人間の自由と歴史性との必要十分な条件 であるばかりか、人間の普遍性の必要十分な条件であり、それがなければ人間は真に 個体とはならぬであろう。>(409頁)
 
 第二の素材。ヘーゲルの哲学の体系について。私はヘーゲル哲学の初心者にすぎな いので、以下の引用はたんなる請売にすぎません。武市健人(『大論理学』の訳者) は『ヘーゲル論理学の体系』(こぶし書房)の序論で、論理学−自然哲学−精神哲学 の三位一体で構成される『エンチクロペディー』の体系について次のように指摘して います。
 
<エンチクロペディーの体系は周知のように「論理(ロゴス)──自然──精神」の 三つの主要契機からなる。そしてその三つの体系化の仕方に、ヘーゲルの哲学体系の 独自性がある。ヘーゲルはこの三つの契機をそれぞれ存在論の各項と見、それに各々 の哲学を見るから、各々は論理学、自然哲学、精神哲学となる。…三位一体論から云 えば、論理(ロゴス)は父なる神、自然は子、精神は精霊に当る。論理学は、天地創 造以前の神の国の叙述である。論理は神そのものであり、神の存在の本質である。こ れに対して、自然と精神とは、また世界創造後の世界を意味し、従って自然哲学と精 神哲学は創造後のこの世界の国の叙述であり、その本質の叙述である。これについて は周知のように、ヘーゲル自身大論理学の序論で、論理学が「自然と有限精神創造以 前の永遠な本質の中にあるところの神の叙述」であることを述べている。>
 
 天地創造以前の世界では時間も空間も(したがって次元も)まだ創造されてはいな いわけですから、ヘーゲルの論理学は相対性理論以前の世界を叙述するものになりま す。そして、そこには現実的に展開される前の自然と精神が折り畳まれているわけで す。(なお、民族と国家が織りなす世界史を対象とするヘーゲルの歴史哲学は、同書 によれば「精神哲学」の一分野に位置づけられる。)
 
 このようなヘーゲル論理学の現代的な意味(あるいは可能性)は、たとえば自然界 の四つの力(重力・強い力・弱い力・電磁力)の分岐プロセスとその統一理論が、現 代数学でいう「ζ(ゼータ)関数の統一理論」とパラレルに論じることができるといっ たところにあらわれているのではないか。その意味では、ヘーゲルが『大論理学』で 試みたことこそが本当の意味での「普遍数学」(普遍学)だったのではないか。私は (胸を踊らせながら)そんなことを考えています。
 
 「ζの世界」の特集を組んだ『数学の楽しみ』創刊号(日本評論社)に、<ζの世 界は生物の世界によく似ている>とありました。そこに多様性と統一があるからとい うのです。そういえば、同誌に掲載された「ゼータの世界を眺めて」で中島さち子氏 は次のように書いています。
 
<数学の真髄にはつねに素朴な人間の感覚があり、それは2000年前,いや人が人にな る前から(?)流れている自然なものですが,それはより雄大な,世界を統一する構造 理念への準備であったかも分かりません.人が直観している最も原始的な宇宙の関数 は何なのか──数学に哲学などの名を付けるのはあまり好きではないのですけれども ,もともと文学も医学も生物学も,すべて共存しうるのでしょう.この不確定で混沌 に満ちた学問は,ゆっくり,最も原始の世界に同化してゆく感じがします.>
 
 ──脱線ばかりで、タイトルに掲げた「素描」の域にすら達しないままに終わりそ うです。最後に引用した実に気持ちのよくなる文章(筆者は現役の高校生なんですね )に出てくる「原始の感覚」とでもいうべきものが、歴史の概念について考える際の 一つの足場になるはずだということを結論にしておきましょう。そして、いま一つの 足場を考えるための「素材」として、ベンヤミンの絶筆ともいうべき文章をメモして おきます。
 
<かれ[歴史の天使]は顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺める ところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみな く廃虚の上に廃虚を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。た ぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて 組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるば かりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。 強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでいく。その 一方ではかれの眼前の廃虚の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶ ものは、〈この〉強風なのだ。>(野村修訳「歴史の概念について」)
 

【第47回】第3巻第3篇第1章、生命「B 生命過程」「C 類」
 
 ヘーゲルがここで叙述しているのは自然的生命についてではなく、あくまで論理的生命の過程についてなのです。だから頻出する生物学的な用語(たとえば再生産や分裂、同化、繁殖や生殖や死、さらには感情、苦痛、欲求など)は、いずれも論理学の用語として転用されたものなのであって、前にも書いたように、これらの語彙をそれ自身に意味のない任意の記号におきかえたとしてもなんら差し支えないのです。このことは、繰り返し繰り返し確認しておく必要があると思います。
 
 しかし、そうはいってもヘーゲルの叙述が自然的生命の過程を念頭においたものであることは否定できないし、そもそも自然に先立って論理の世界(神の世界)を仮構すること自体が一つの転倒であるとする立場もありうるわけですから、読み手としてはここはそのような二つ世界を重ね合せることで、極限にまで抽象化された叙述を透かしてそこに折り畳まれた豊穰で多彩な自然の具体相の躍動を感受する愉楽に身を委ねるのが得策ではないでしょうか。
 
 そのような態度で臨んだとき、「生命過程」の節に描かれているのは自然に対する生命の(というより人間の)根源的な暴力性の論理学的な原型・雛型などではなくて、むしろ生命を産出する能産的な自然と自然のうちに包摂されながら自然のいわば「意志」のようなものとしてこれを包摂しようとする生命とが、図と地の反転よろしく相互に連関しあう様相が(論理学的に折り畳まれて)叙述されているのではないかと──かなり「外挿的」な読み解きではあるものの──私は考えました。
 
 ところで、「類」について述べた最後の段落に、生殖における生命の死が精神の出現につながるといった叙述があります。ここには精神の起源に対するヘーゲルの深い洞察が示されているように思います。自然から精神への推移の過程が(『自然哲学』や『精神哲学』に先立って)どのように(論理学的に)叙述されるのか。迫りくる終局を前に、いよいよ最後の山場にさしかかったようです。(1997.10.18)
 
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◆B:生命過程◆
 自己目的的な主観である生命的個体が、他在として無関心に存在する外的客観世界に関係する過程、すなわち生命過程は欲求から始まる。ここでいう欲求とは、生命体が自己を否定されたものとして措定して他者(客観)に関係するとともに、この自分の「喪失」の中にあって自己を維持し自己同等的な概念の同一性としてあろうとするものである。あるいは、他者(客観)を自分と同等な自立的世界として措定し、これを止揚するとともに自分を客観化しようとする衝動のことである。
 
 ところで、このように生命体が自己を客観的外面性の形式において規定しつつ自己同一的なものであること──概念が自分を自分との絶対的な不同等性に分裂させながら、一方でこの分裂の中における絶対的同一性であること──は、絶対的矛盾である。生命体はこの矛盾の感情、すなわち苦痛をもつのであるが、しかしこの矛盾こそ<生命体の苦痛の中にある現実的な実存>なのである。
 
 生命体(主観)はその欲求によって外的存在(客観)に対し力を加え、これを征服する。すなわち、客観的過程としての生命過程を通じて機械的・化学的過程は内部過程へと推移し、この内部過程によって生命体は客観を我がものとし、自分の手段とするのである(同化)。
 
 こうして生命体はその自己感情を獲得し、また、はじめは無関心的な前提であった客観性とのこのような合一によって生命体は現実的統一となり、さらに自らの特殊性を止揚して普遍性にまで高められる。このような実在的・普遍的な生命が、すなわち類である。
 
◆C:類◆
 生命過程を通じて、生命的個体は<自分自身を向自的にその他在[客観的世界]の否定的統一として、即ち自分自身の基礎として措定>し、<現実性に基いて自分を産出する>ものとなった。しかし、生命的個体は生命過程を通していま一歩進んだ規定を獲得する。それが、<自分と以前の自分の無関心的な他在との同一性としての類>にほかならない。
 
 類の関係は矛盾である。というのも、それは<同時に他の自立的な個体でもあるような個体のもつ個体的自己感情の同一性>であるから。したがって、ここに再び衝動が生じることになる。──ところで、類ははじめはまだ直接的なものであり、個体は即自的には類であるが向自的には類ではないのであって、個体の普遍性(他の生命体との同一性)はまだ内面的・主観的なものでしかない。そこで個体は、他の個体との同一性を措定し自分を普遍性として実現しようとする願望(類の衝動)をもつのである。
 
 このような類の衝動によって実現される同一性、すなわち分裂から自分に反省する類の否定的統一は、自己を客観化しなければならないような概念にすぎないものではなく、現実的な理念から産出された現実的な概念である。それは、普通の知覚によって見られ得るものとして出ているところの<生命的個体の萌芽>なのであって、そこでは主観的概念が外面的な現実性をもっているのである。
 
 このような類の自己反省は、類が現実性を獲得する過程、あるいは<生命的種族の繁殖>と見ることができるだろう。しかし、それは単なる反復にすぎないものであって、理念はこの無限累進の中ではその直接性のもつ有限性から脱却できない。ところが、この類の過程の中で、個々の個体は相互に無関心な直接的実存を止揚して類の否定的統一のうちに死んでいくのであるが(個別性の没落)、この過程はその所産としての高次の面を、すなわち実在化された類という面をもっているのである(個別性の産出)。
 
 <生殖においては生命的個体性の直接性は死ぬるが、この生命の死は精神の出現である。>──類として即自的にあった理念が単純な普遍性であるところの実在性を獲得すると、理念は向自的なものとなる。それは<普遍性をその規定性と定有としてもつ普遍>、すなわち認識の理念である。
 
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◆和辻哲郎『風土』(第五章「風土学の歴史的考察」、三「ヘーゲルの風土哲学」)から。──
 
<ヘーゲルの体系は彼自身の探究の旅を反映している。初め歴史的現実から出発した彼は、この現実の根柢に存する理法へと迫って行った。そうしてそれが把捉せられた時に、これを抽象的一般的な論理として仕上げた。そこで次にはかかる論理が自然や歴史を通じていかに己れを実現して行くかの段階をたどることになる。『エンチュクロペディー』における体系がそれである。従って彼の論理学が「思惟の根本形式」を示すとともにまた「現実の構造」を──すなわち絶対的精神が己れを有限性の内に実現する規定の連関を──示しているとせられるのも、ゆえなきことではない。歴史的現実としての己れを展開し来たる論理は、もと歴史的現実の理法として見いだされたものだったのである。しかしもしこの体系的連関を無視して単に思惟の根本形式に過ぎない論理学が、すなわち絶対的理念に朝宗するところの観念の体系が、それ自身の規定に従って、まず他者としての自然になり、さらに己れに還って精神となると考えるならば、論理的関係そのものがすでに自然や精神における個性化への進行を含まなくてはならなくなる。思惟が現実を産み出すというふうに解せられるのは、右のごとき考えにもとづくのである。我々はヘー・
Qルの考えがそうであったとは思わぬ。ヘーゲルにおける「精神」は、観念として己れを自覚するとともにまた己れを客体化して自然となり、さらにこの自然において己れを実現しつつ文化を形成して行くような、主体的なるものである。だから思惟や観念も精神には違いないが、それだけが精神なのではない。物質もまた精神なのである。論理はこのような精神の働き方なのであって、単なる思惟形式ではない。かかる意味において論理は精神の働きであるところの現実の構造を示すのである。>
 

【第48回】第3巻第3篇第2章、認識の理念
 
 ヘーゲルは、純粋な学としての論理学は究極の学であるとともに始元の学であると述べています。つまり、論理学は具体的諸科学の成果が達成された後で叙述されるものであるとともに、具体的諸科学の成果をあらかじめ叙述するものでもあるというわけです。
 
 このように表現される論理学の叙述主体、あるいはそのような学を「認識」するのはいったいだれなのでしょうか。それはロゴスであり、同じことだが概念もしくは理念であると答えてみたところで、それではそもそもロゴスとは何か、なぜ君はロゴスなるものを認識できるのかと問いは続きます。ここで私の認識の根拠が実はロゴスにあるのだなどと切り出すと、紛糾は果てのないものになっていくでしょう。
 
 またヘーゲルは、認識するもの(主語としての概念)と認識されるもの(述語としての概念)との同一性をめぐる循環論について、そのような論理的「欠陥」のうちに迷いこみ、それを経験することのうちにこそ真理へと向かう思惟の躍動があるのだといった趣旨のことを述べていました。(同様の議論は、無限累進から高次のカテゴリーへの推移をめぐってこれまでも再三繰り返されました。)
 
 ここでもまた、このように表現されるプロセスに身をもって巻き込まれていくのはいったいだれなのかという疑問がわいてきます。(「身をもって」とか「だれ」といった語彙を使って疑問文を組み立てること自体が無効かもしれません。)このような疑問はいまさらという気がしますし、これまではむしろヘーゲルの圧倒的な力業(とそれがもたらす一種の陶酔)の前にそんな疑問は快く吹き飛ばされてしまったものなのですが、今回のテーマである「認識」という語彙の語感に引き寄せられて、初歩的な疑問がふうふつと噴き出してきました。(1997.10.26)
 
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◆認識の理念◆
 生命が直接的な理念であったのに対して、認識[das Erkennen]は判断のかたちをとる理念である。<この判断を通じて理念は、概念そのものがその実在性であるような主観的概念と、生命としてあるような客観的概念との二つに分れる。>すなわち、理念とは自分自身を対象とする自己関係であり、理念の定有(理念の有の規定性)は理念自身の自分自身との区別にほかならない。そして、このかぎりで思惟、精神、自意識は理念の規定となるのである。
 
 カントはヒュームの懐疑論の流儀に従って、すなわち自我を自意識の中に現われるものとする主張の上に立って前代の精神・心の形而上学を批判した。そして、自我が自分自身を思惟するものであるという自意識の本性を欠陥のある循環論と名づけた。しかし、カントが非難したこの関係を通してこそ<直接的な経験的自意識の中に自意識と概念との絶対的な、永遠な本性が現わされる>のである。というのも、自意識こそが定有する(経験的に知覚可能な)純粋概念であり絶対的な自己関係であって、この関係が分離的な判断として自分自身を対象とすることによってはじめて循環論が形成されるものだからである。
 
 さて、論理学において精神の理念は生命の理念の叙述を通して、その真理として出てきたものであった。生命にあっては理念の実在性は個別性としてあり、普遍性・類は内在的なものであるにすぎず、したがって生命はまだ理念の存在の真の叙述やその真のありかたではなかったのである。以下、精神の理念に論理的に属している形式の面からこれを考察するに先立って、そのような論理学の対象となる精神とは別の諸形態にある主観的精神について(精神哲学の叙述に先立って)概観しておこう。
 
 心という言葉をきくと、それは一つの物だという考えが浮かぶ。心のあり場所といった空間的規定や、時間性の制約の下で心という物がいかに不滅でありうるかが問題にされるのである。まずモナドの体系は物質を心的なものにまで高める(ことでこの問いに答えた)。そして「人間学」は、自然との共感の中に生きるものとしての自然的精神(物質性の中に沈没した精神)を考察する。これに対して「精神現象論」は、これより高次の形態にある精神(意識)がその他者(即自的にある客観)の側で現象する展開過程を考察する。最後に「心理学」あるいは「精神の学」は、向自的な精神(感情・表象・思想など精神自身の規定に対して働きかけるもの)が有限性から解放され無限的精神として把握されるまでの行程を叙述する。
 
 これに対して、精神の理念を叙述する論理学にあっては、いま述べた三つの学の中で考察される問題、すなわち<精神が自然、直接的規定性、素材、或いは表象と絡み合っているような展開行程>を見る必要はない。というのも純粋な学としての論理学は、究極の学としてこの行程をすでにその背後にもっているからであり、最初の学としてこれを前方にもっているからである。
 
 精神の論理的理念は自分自身を対象としてもつ自由な概念である。もっともこの理念も直接的・有限的・主観的なものであり、<まだその現象の中にある絶対的理念そのもの>である。すなわちここでは理念は実現されるべき目的であり、それが求めるものは概念そのものと実在性との同一性としての真なるものなのである。ところが、そもそも概念とは対象の中で作用し対象の中で自分に関係するもの、したがってまた客観の中で自分に実在を与えることで真理を見い出すものなのであるから、そこでは対象は客観としてそれ自身でその性質をもつものとして主観に作用するのではない。むしろ、端緒の理念・主観としての理念が対象を概念規定に変ずるのである。
 
 このように、<認識するもの[主観的な理念]は自分の概念の中に即自的に客観的世界の全本質性をもっている>。したがって認識としての理念の過程は、客観的世界の具体的内容を概念と同一のものとして措定するとともに、概念を客観性と同一のものとして措定するところにある。
 
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◆訳註(37)で、『精神現象論』がヘーゲルの全体系の中で占める位置は認識論であるとされている。このことに関連して、武市健人『ヘーゲル論理学の体系』(こぶし書房)の文章を引用しておく。──
 
 <大論理学の始元論の中で、ヘーゲルは純粋知、即ちロゴスを実体とする純粋学としての論理学が、無前提、無媒介の学でなければならぬことを云っている。…しかし、そう云いながら、他方では論理学の始元は精神現象論によって媒介されていることを云っている。ここにヘーゲルの矛盾が指摘される。…けれども、この論理学の始元の無媒介性と精神現象論による媒介性とは、ダイメンションを異にするものである。後者の面は、その純粋の始元が我々人間の認識にとっての関係を示すところの、云わば認識論的側面であり、前者の無媒介性は始元の存在論的側面だからである。それで、認識的には論理学の始元が精神現象論に媒介され、その過程を通してはじめて始元が明らかになるにしても、一度び始元が開示されるかぎり、始元がすべての原理としてすべてを支配しているのであり、精神現象論の媒介そのもの、その過程そのものが、論理学の始元によって媒介されるものであり、始元の媒介によってすでに媒介されていたこと、始元が前提となって、その媒介があったために、精神現象論の過程も可能であったことが明らかになるのである。>(40-41頁)
 
 ここでいわれている「人間の認識」と理念としての認識とは、おそらく「ダイメンション」を異にしている。とはいえ、後者が前者を超越しているなどと単純な二元論でとらえると、たとえば数学的プラトニズムがもつ「真理」はおそらく見えてこないだろう。
 

【第49回】第3巻第3篇第2章「A 真の理念」「a 分析的認識」
 
 数学の王ガウス(1777-1855)が残した日記の第一項に、正十七角形の作図法を発見した時の覚書が残されています。高木貞治『近世数学史談』(岩波文庫)から該当部分を書き抜きます。<円の等分の基づく原理,それに由って幾何学的に十七等分等々.[1796年]3月30日.ブラウンシュワィヒに於て>
 
 ここに出てくる<円の等分の基づく原理>とは後に『整数論』(1801)で展開される円周等分論のことで、方程式「x^n−1=0」の理論にほかなりません。ヘーゲルが訳書312頁でいうガウスの有名な発見(平方剰余や原始根)はこの円周等分論と関係しているようなのですが、残念ながらいまの私にはこれ以上追究することはできません。
 
 ところで、ヘーゲル(1770-1831)はガウスと同時代の人なんですね。ヘーゲルがその時代の最先端の数学に通じていたことはいまさらいうまでもないことですが、さて私たちのうち何人がたとえば「フェルマーの大定理」の証明を理解できるかと考えたとき、ほんの少し暗澹たる気持ちになります。
 
 それはともかくとして、私は、概念と実在性との一致・統一としての真の理念をめぐるヘーゲルの議論が実質的に数学論であること(分析的認識が算術と代数学を、総合的認識が幾何学をそれぞれ素材として叙述されていること)にいたく興味を覚えています。
 
 森毅氏は『数学の歴史』(講談社学術文庫)で、十九世紀の数学は「純粋」数学性と非ユークリッド幾何の成立でもって特徴づけられ、そのいずれもがガウスに徴候として見られると書いています。これと同じことが「哲学の王」(?)ヘーゲルにもいえるのではないでしょうか。(1997.11.2)
 
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◆A:真の理念◆
 真理、すなわち概念と実在性との統一は認識のうちにある。ところで、認識とは<自分の実在化によって自分を実現し、またまさにこの実現において自分の主観性と前提された即自有とを止揚する概念>であるから、認識の理念はその活動性において考察されなければならない。
 
 認識の活動性は、現に存在するもの[das Vorhandene]に対して受動的となることによってそれがあるがままの自分を示し得るようにすることである。このように対象から主観的な障害物を除去し、現に見出されるものとしての諸規定を受容し把握する認識(存在するものの把握[das Auffassen]としての認識)は、すなわち分析的認識である。
 
◆a:分析的認識◆
 分析的認識は同一性の形式(抽象的普遍性の形式)を原理とするものであって、他者への推移(差異的なものの結合)はこの認識そのものからは出てこない。
 
 分析的認識は前提された個別的・具体的な対象から出発する。そして、分析は概念を基礎とするのであるから、対象の中に直接的に含まれている概念諸規定が分析の所産である。すなわち<分析的認識は所与の素材を論理的諸規定の中へ転化するもの>なのであって、そこでは措定がそのまま前提の意味をもつ。すなわち、論理的なものは主観的な活動性(分析的認識)の所産として単に措定されたものではなく、対象の中に即自的に存在する既成のもの[ein Fertiges]なのである。
 
 分析的認識がこのような転化であるかぎり、その規定は対象に即自的に所属する直接的なものであり、したがって主観的媒介なしに対象から把握されるべきものである。また、分析的認識は没概念的で非弁証法的なものであるから、それは単に所与の区別をもつにすぎず、区別の展開もただ素材の規定に沿って行われるにすぎない。
 
 一般に算術や代数学の認識方法は、徹頭徹尾分析的である。たとえばカントが総合的命題と見た「5+7=12」についていえば、そこには他者への推移はなく、ただ没思想的な機械的操作(演算)の単なる繰り返しがあるにすぎない(証明は不要)。これに対して微積分計算(解析学)の根底には質的な量の規定があり、量からこの質的量への推移はもはや分析的ではない(証明が必要)。
 
 このように、課題そのものによって措定されない(証明を要する)諸規定に達すると、分析は総合的なものとなる。<分析的認識から総合的認識への一般的な推移は、直接性の形式から媒介へ、抽象的同一性から区別への必然的推移の形をとる。>
 
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◆森毅氏の『数学の歴史』(講談社学術文庫)第十三章から。──
 
 <数学的概念が数学的法則性としてとらえられるためには、数学的対象の認識を必要とする。この〈対象と機能〉、十九世紀後半以後の用語でいえば〈集合と関数〉になるわけだが、かの超時代的なライプニッツによって予言されたものが、実体化しはじめたことに、十九世紀数学の顕著な特性はある。
 さきの啓蒙主義時代の問題意識の凝結は、こうして始まる。根の置換の法則性をとらえ、置換群を実体化させるためには、根を付加しての数体の認識が必要なわけだが、おそらくその起源はガウスに求められるだろう。そればかりか、群とくに可換群を、ラグランジュの数論の法則的解明に最初に使ったのも、おそらくガウスであった。十八世紀では断片であった方程式論と数論が、十九世紀になると代数学に彫琢されていくわけだが、その端緒には現代流にいえば〈体〉と〈群〉の概念が必要であったわけで、それはおそらく、最初はガウス、そして夭折したノルウェー生まれの天才アーベルによると考えてもよい。>
 
 なお、同書によれば、アーベル(1802-1829)がベルリンに下宿していたとき、二階に住んでいたヘーゲルと喧嘩したという説があるそうだ。
 

【第50回】第3巻第3篇第2章「A 真の理念」「b 総合的認識」
 
 困った。何も書くこと(書きたいこと)がない。今回読んだところはこれまでで最も面白くなかった。ヘーゲルはこんなことを書くために長々と論理学を叙述してきたのか。
 
 もっとも、たとえばユークリッド幾何学に関する記述などは(流し読みをしたのであまり責任はもてないけれども)さすがに急所を衝いていたように思うし、ゲーテの色彩論に準拠して、色はまず主観性と客観性との中間にスペクトルとして浮遊している「抽象的なもの」として純粋にとらえなければならない云々と述べているくだりにぐっときたことは確かです。
 
 しかしまあそれはそれだけのことであって、総じて陶酔できる要素が不足していた事実は否めません。そもそも理念篇そのものにシャープな「否定性」の切り込みが欠けるきらいがあります。もうなかば完成した作品を前にして、読み手(書き手ではない)の側の緊張が弛んでしまったのでしょう。(単に体力の問題かもしれない。)(1997.11.9)
 
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◆b:総合的認識◆
 分析的認識は客観に対する概念の直接的な関係であり、存在するものの把握[das Auffassen]にすぎない。これに対して総合的認識は存在するものの概念的把握[das Begreifen]であり、差異的なものをその統一(同一性)において把握する。
 
 しかし、このような抽象的同一性(あるいは有)から相関関係(あるいは反省)への推移によって概念が獲得する実在性は、内的な同一性であり単なる必然性であってまだ概念ではない。というのも、そこでは客観は概念的諸規定の中で措定されてはいるものの、この概念諸規定は相関関係(あるいは直接的な統一)の中にあるにすぎず、まだ概念が主観としてあるといった統一の中にはないからである。
 
 したがって、総合的認識は客観世界を概念に転化するが、ただそれに形式を与えるだけであって、この認識が対象の中でもつ概念の存在には個別性(規定的な規定性)が欠けている。同様に、総合的認識は様々な命題や法則を見出してその必然性を証明するが、この必然性を事物の必然性として、すなわち概念から証明するのではないのである。
 
[1.定義]
 総合的認識の第一の契機(段階)は定義である。定義とは、直接的表象・直観的定有としての客観(個別)がもつ多様で豊穣な規定を単純な諸契機に還元すること(対象が実在するために必要な諸々の外面性を取り除くこと)であり、定義を通して対象は概念へと連れ戻される。
 
 ところで、定義の対象のこのような客観性は必然性の判断の中で<最も近い類>として出てきた普遍、すなわち<特殊的なものの区別に対する原理であるという規定性をもつ普遍>である。そして、対象がもつ区別は種差[spezifische Differenz]に基づくものであり、種差によってこそ対象は規定的な種となり他の諸々の種との分離が基礎づけられるのである。
 
 定義は、自己反省をもたない直接的な概念である。諸々の対象(自意識的な合目的性の所産や幾何学の諸対象、自然や精神など)に対する定義の規定は、ただその現前(定有)に見出される特性から取られるのであって、したがって定義の内容は直接的なものでありいかなる権利づけももなたい。しかし、直接性は一般に媒介に基づいてのみあり得るものである。すなわち定義の内容の規定性は単に直接的なものではなく、他の規定性によって媒介されたものなのであって、この意味で定義は分類へと推移する。
 
[2.分類]
 総合的認識の第二の契機(段階)は分類、すなわち特殊化である。分類とは、普遍性を基礎として最初の普遍の分割として自分を叙述するものであって、この普遍から特殊へという概念に属する進行こそ<総合的な学、即ち体系と体系的認識>の基礎であり、その可能性である。
 
 分類は抽象的普遍の形式の中にある対象から始められる。なるほど直観は具体的現実性を端緒とするものであるが、ここで議論しているのは認識なのであるから、単純なものすなわち普遍(最初の概念契機)を始元としなければならない。定義によって直接的に取られた端緒の対象(抽象的普遍)からの進展こそが分類なのであり、抽象的なものから諸々の特殊性と具体的存在の多彩な形態への展開こそが認識にふさわしい行程なのである。
 
 しかしながら、分類には<それ自身として規定されているものという原理>が欠けている。ここでは特殊は普遍や分類一般に対して全く偶然的なのである。真の分類へと至るためには、対象の自己関係的な個体性や個別性を打ち立てる分類根拠(動物の分類における食器官、植物の分類における生殖器官)を基準としなければならない。
 
[3.定理]
 総合的認識の第三の契機(段階)は定理、すなわち個別化である。分類によって普遍性から特殊性へと進展してきた総合的認識は、特殊性から個別性へ、すなわち個別性を内容とする定理へと推移する。ここでは、<自己関係的な規定性、対象のそれ自身における区別、及び区別された規定性相互の関係>が考察されなければならない。
 
 定義と分類が「指摘」するのみであるのに対して、定理は「論証」され「証明」されなければならない。というのも、概念は個別性の中で実在性へと推移し、実在性を通ることによって理念となるのであるが、定理の中に含まれている総合(実在性の各規定)は差異的存在の結合にすぎず、まだ統一が措定されていないからである。
 
 ここで公理について一言する。公理は絶対的に最初のものと見られ、したがって証明を要しないものと考えられている。しかし、公理も本当は定理であって、それは他の学問(主として論理学)から来た命題なのである。ユークリッドの幾何学においても、公理の名の下に平行線に関する一つの前提(相対的に最初のもの)が立てられている。この公理は本来は平行線の概念から演繹され証明されるべきものであったが、概念はユークリッドの学問の埒外にあるものであったがゆえに、証明を要しない前提とされていたのである。
 
 総合的な学問の代表である幾何学の諸定理には、単に対象の個々の関係を含むだけのもの(例:三角形合同の定理)と対象の完全な規定性を表す関係を含むもの(例:ピュタゴラスの定理)との二種類がある。前者から後者への推移は普遍から個別性への推移であり、後者は対象の諸規定を完全に挙げ尽くした命題、すなわち第二の定義あるいは実在的な定義と名づけうるものである。この命題は証明を要するものであり、したがって差異的な諸規定の統一をもたらす媒介が示されなければならない。
 
 証明とは、<結合されたものとして定理の中で云い表わされているものの媒介>を意味する。ここでいう媒介は、幾何学の証明における補助線のように、定理そのものの中に与えられた規定から導き出されたものではない。このように証明のための材料をどこか別のところから持ち込む準備が「構成」[Konstruktion]であり、証明は<諸々の外的な状況から関係の内的状況に推論する外的反省>である。
 
 総合的認識において、概念の対象は概念に適合しない。というのも、ここではまだ概念は自分の実在性(対象)の中での自分との統一に達していないからである。したがってこの認識の中では、概念と実在性との統一としての理念はまだ真理に達していない。概念が即且向自的に規定されたものとなるとき、理念は理論的理念(真の理念)から実践的理念(善の理念)へと推移し、すなわち行為となる。
 
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◆ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン『色彩について』(中村昇他訳、新書館)から。──
 
 <われわれは色の理論を見いだそうとしているわけではない(生理学の理論にも心理学の理論にも興味はない)、われわれが見つけたいのは色の概念についての論理学なのだ。>(24頁)
 <色には類似と対立がある。(これは論理学である。)>(79頁)
 <スペクトルの発生についてのゲーテの学説は、発生の理論、つまり不充分であることが証明された一つの理論なのではなく、そもそもまったく理論ではないのである。というのも彼の学説によっては、何も予言することができないからである。むしろそれは、ジェームズの心理学のうちに認められる類の曖昧な思考図式なのだ。ゲーテの色彩論に関してはいかなる決定実験も存在しない。/ゲーテと意見が一致する人は、ゲーテが色の本性を正しく認識していたと思っている。ここで言う「本性」とは、色にかかわる経験の集積ではなく、色の概念のうちに[ふくまれている]ものなのである。>(110頁)
 
 私たちは色の定義や分類を行い、色に関する定理を立てることができるのだろうか。あるいは、色彩を分類するための枠組み(タクソン)とはいったい何なのだろう。
 

【第51回】第3巻第3篇第2章「B 善の理念」
 
 前回、総合的認識をめぐるヘーゲルの叙述が全然面白くないと書きました。面白くなかったのは(感想として)事実なのですが、後になって、私はそこで使用されていた語彙、たとえば理念や認識、真、分析、総合、定義、分類、定理などを手垢にまみれた術語として見ていたのではなかったか、だから手垢にまみれた叙述をしか──端的にいえば、定義し分類し定理を立てる(証明する)といった「人間」の活動の叙述をしか──そこに読み取れなかったのではないかと「反省」しました。
 
 認識するのは誰なのか、あるいは何なのかといえば、それは概念でしょう。概念が概念自身を対象とする「探究」のプロセスがヘーゲルのいう認識にほかならず、このプロセスを通じて現実的なものとしてのロゴスが獲得されていくのです。だから、概念のもつ衝動や概念の活動を「人間」のそれととらえることは、間違いだとはいえないまでも、極めて片手落ちな読み方だということになるのです。
 
 私は一年前『大論理学』に取り組むに際して、ヘーゲルの叙述に即してリテラルに読むことを基本方針として掲げました。このことを忘れかけていました。(1997.11.16)
 
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◆B:善の理念◆
 理論的理念は没規定的なものとして客観的世界に対立し、そこから規定的内容と充実とを汲み取るものであった。これに対して、実践的理念は現実的なものとして現実的なものに対立する。そこでは主観の規定性そのものが客観的なものとなるのであって、この、概念の中に含まれていて概念に等しい規定性──しかも個別的な外面的規定性の要求を含んでいる規定性が、善あるいは意志の概念である。
 
 しかし、善の理念は<主観性の規定性を伴った絶対者以上のものではな>く、そこにはなお二つの世界が──すなわち<明澄な思想の純粋な空間の中にある主観性の国>と<開かれぬ闇の国であるところの、外面的多様の現実性の要素[エレメント]の中にある客観性の国>とが──対立している。この欠陥を克服するためには、外的規定性が真に存在するものという形式を獲得しなければならない。すなわち、善の理念は真の理念によって補足されなければならないのである。
 
 この推移によって、現実性──<悪であるか、または無関心なもの、即ちそれ自身の中に自分の価値をもたないところの単に規定可能なものであるか>のいずれかにすぎない抽象的な有──は止揚され、さらには<単に主観的な、内容上制限されている目的としての善の規定>が止揚される。こうして概念は自分自身と同一的な全く自由な概念として措定され、主観は自由な普遍的な自己同一性としてあることになるのである。
 
 ところで、このような成果の中で認識は実践的理念と合一したものとして回復され、同時に所与の現実性も実現された絶対的目的という規定をもつことになる。現実性はいまや<その内的根拠と現実的存立とが概念であるような客観的世界>として存在するのであり、これがすなわち絶対的理念である。
 
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◆レーニンは『哲学ノート』に次のように書いている。<認識は……自分の前に、主観的な意見とは独立に存在する現実としての真に存在するものを見出す。(これはまぎれもない唯物論だ!)人間の意志、人間の実践が自らその目的達成をさまたげるのは……それが認識から自分を切りはなし、外的現実を真に存在するもの(客観的真理)と認めないことによってである。必要なことは認識と実践との結合である。>(松村一人訳、岩波文庫、209-210頁)
 
 また、ヘーゲルは──確か一度だけ──<行為の推論>(訳書351頁)という語を使用しているが、このことについてレーニンは次のように書いている。<「行為の推理」……ヘーゲルにとっては行動、実践は論理的「推理」の一つ、論理の一つの格である。そしてこれは正しい!といっても、もちろん、論理学の格が人間の実践のうちでその別の姿をもつという意味においてではなく(これは絶対的観念論である)、反対に人間の実践が何億回となく繰りかえされることによって、それが人間の意識のうちで論理学的格として固定されるという意味においてである。これらの諸格は、まさに(そしてひたすら)この何億回という繰りかえしによって先入的判断の堅固さと公理的な性格をもつのである。>(同書210-211頁)
 
 ここでレーニンは概念を「人間」に、概念の他者(他在)を「自然」にそれぞれ置き換えて考えているのである(同書204頁参照)。それはしかしヘーゲルの学の体系に忠実な読み方ではない。(もっともヘーゲルは、完全な善の理念が要請以上のものではなくそこには主観性と客観性との対立があることを述べた所で、この解決不可能な矛盾の展開過程を『精神現象学』の中で詳細に考察しておいたと書いている。ここに「概念=人間」と読解する根拠があるといえばいえるようにも思うのだが、この点──ロゴスの学としての『論理学』と意識の経験の学としての『精神現象学』との関係をめぐる議論とも深く関係してくることもあり──いまの私にはあまり自信はない。)
 
 私たちは『論理学』をヘーゲルの体系に即して忠実に読まねばならぬ義務を負っているわけではないのだから、レーニンの読解はレーニン自身の思想を表現しているものとして十分に成り立ちうるものではある。(ただし私にとってレーニンの読解は、わかりやすいものではあるがいまひとつ刺激に欠ける。そもそも<何億回という繰りかえし>が、どことなく「科学的」な雰囲気をもった表現として問答無用で使われている点が気にくわない。)
 
◆ヘーゲルは、直接的定有の規定しかもたない現実性が止揚され善の目的が実現されたにもかかわらず再び悪無限的に善の推論が反復されるのは、概念論以前への後戻り、すなわち本質論において<空しいものとせられながら、やはり実在的なものとして前提された、あの現実性の立場への後戻り>であって、この後戻りの根拠は抽象的実在性の止揚が直ちに<忘却>されることにあると書いている(訳書352-353頁)。
 
 ここで私が想起するのは、すべての物象化は忘却だというアドルノの言葉である。
 

【第52回】第3巻第3篇第3章、絶対的理念
 
 途方もなく豊穰でかつ空虚な『大論理学』の巨大な円環を閉じるこの最終章を、私はほとんど「詩論」として読みました。さらに大胆な(そして軽率な)評言を繰り出すならば、これはほとんど魔術的言語の秘蹟の叙述なのではないかとさえ思ったのです。(ここでいう魔術的言語とは、たとえば「光あれ」と語ればそこに光の充満した空間が出現しているといった、表現と認識と存在が一つになった言語、あるいはその実質が私に掴めているとは思えない「啓示」の言葉を想定しています。)
 
 ヘーゲル自身は、それを<根源的な言葉>[das urspruengliche Wort]と表現しています。要約でも引用しましたが、ヘーゲルはこの謎めいた言葉について次のように述べているのです。<この根源的な言葉は表現されるもの[eine AEusserung]ではあるが、しかしそれが表現されるときには、その表現は外的なものとして直ちに消滅しているといった性質のものである。>
 
 表現されるとともに、つまり対象を名指し召喚するとともに消滅してしまう(透明なものとなってしまう)言葉。──私は上に「謎めいた言葉」と書きました。しかしそれは私のドイツ語への無知ゆえの、いたずらなミスティフィケーションなのかもしれません。
 
 今回は「方法」をめぐる考察まで。「体系」については次回へ。(1997.11.22)
 
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  [1] 論理的理念
 理論的理念と実践的理念との同一性であるところの絶対的理念は、種々の異なる形態をもつ。というのも、すべての規定性を含み、自己規定・特殊化を通じた自分への復帰をその本質とするものこそが絶対的理念にほかならないからである。この理念を種々の形態の中で、すなわち実在的な有限性(自然)や観念的な有限性(精神)、無限性(芸術)や神聖(宗教)といった特殊な諸形態の中で認識するのが哲学の任務であり、哲学こそが絶対的理念を把握するための最高の形態(概念)である。
 
 ところで、絶対的理念の「論理」もまたその一形態ではあるが、しかしそれはすべての特殊的形態を自分の中に止揚し包み込んでいる普遍的な形態である。論理的理念はその純粋な本質の中にある絶対的理念であり、したがって論理学はこの理念の自己運動を<根源的な言葉>として、すなわち<表現されるものではあるが、しかしそれが表現されるときには、その表現は外的なものとして直ちに消滅しているといった性質のもの>である言葉として叙述するのである。<それ故に理念は、ただこのような自らの言葉を聞くという自己規定の中にあるものにほかならない。>
 
 論理的理念は無限的な形式として、自分自身をその内容とする。理念がもつ規定性とその全過程が論理学の対象であり、この過程から絶対的理念がそれ自身として出現したのであるが、しかしこの理念の規定性は全く形式としてあるのであり、それは全く普遍的な理念としてあるものなのである。したがって、ここでさらに考察されなければならないのは内容のもつ形式の普遍的な面、すなわち「方法」である。
 
  [2−1] 方法(始元)
 方法とは<自分自身を知る概念>、すなわち自分を絶対者(主観的であるとともに客観的であるもの)として対象とする概念そのものの運動にほかならない。<方法は認識の、即ち主観的に自分を知る概念の様式であるとともに、また客観的な様式であり、或いはむしろ諸々の物の実体性である。>しかし一方で、概念そのものと方法との区別の観点からいえば、方法とは<概念を考察する概念>としてわれわれの知識に属するものであり、この知識にとって概念は<認識する活動性の道具または手段>としてあるものである。
 
 このように、概念諸規定とその様々な関係によって方法は構成される。そしてこのことを考察するためには、まず「始元」から始めなければならない。──始元をなすものは直接的なものであり、普遍的なものである。ここでいう普遍の直接性とは<向自有を欠く即自有>にほかならない。したがって、始元は単に即自的にある絶対者から始められるべきであり、またその進展は「流出」ではなく、この普遍がまた個別であり主観でもあること、すなわち自分自身を規定して真の絶対者(即且向自的な存在)へと至る過程の叙述にほかならない。始元とは具体的全体性であり、それ自身の中に進行と発展との始元をもっているのである。
 
 この始元の全体性は具体的なものとして自身の中に区別をもつが、その直接性のためにそれはまず差異的存在としてある。ところが始元は自分に関係する普遍性(主観)として、この各差異的存在の統一でもある。──以上に述べたことが進展の最初の段階、すなわち差別の出現=判断=規定作用一般である。絶対的方法は、このように<対象のそのものの中から直接に規定的なものを引き出す>のであるが、それというのも<絶対的方法は、それ自身が対象の内在的な原理であり、魂だからである>。この総合的であるとともに分析的でもある判断の契機によって<始元の普遍は自分自身からして自分を自分の他者と規定する>のだが、この判断の契機こそ「弁証法」的契機にほかならない。
 
  [2−2] 方法(弁証法)
 弁証法の第一の過程は、直接的なものが媒介されたもの(他者に関係するもの)として措定されること、いいかえれば普遍が特殊として措定されることであった。そこから生ずる第二のものは第一のものの他者(すなわち第一の否定者)である。この他者は第一のものの規定をその中に含んでいるのであって(その意味で第二のものは第一のものの真理である)、したがって第一のものは本質的に第二のものの中に保存され[aufbewahrt]保持されて[erhalten]いるのである。(このように積極的なものをその否定者の中に確保することこそ、理性的認識における最も肝要な点である。)
 
 ところでこの第二のものは自分の中に自分自身の他者を含んでおり、それは矛盾である。この矛盾の止揚が弁証法の第二の過程をもたらす。すなわち、第一の段階では直接的なものが即自的に含んでいた区別が措定されたのであるが、この第二の段階では媒介されたもの(第一の否定者)が即自的に含んでいる統一が措定されるのである。(このように矛盾の思惟こそが概念の本質的契機なのであって、否定性こそが概念の転回点をなすもの、<一切の活動性、即ち生命的な自己運動と精神的な自己運動との最内奥の魂であり、すべての真なるものを真なるものたらしめるところの弁証法的魂>なのである。)
 
 この弁証法的推移から生じる第三のもの(すなわち第二の否定者)は、再び直接的なものである。しかし、それは<他在を通じて自分を実在化し、この実在化の止揚を通じて自分と合致し、その絶対的実在性、その単純な自己関係を回復した概念>なのであって、<この第三のものは静的な第三者ではなくて、むしろまさに自分自身と媒介する運動であり、活動性であるような統一としてある>のである。それは再び始元であり弁証法的過程の基底なのであるが、それはもはや単に直接的に取り上げられたものではなく演繹され立証されたものである。こうして、対象はいまやそれ自身が「内容」としての規定性を獲得することとなった。
 
(ここで一言しておく。それは、弁証法的過程を「直接的なもの」−「媒介されたもの」−「直接的なものと媒介されたものとの統一=第二の直接的なもの」の三分法で見るか、「直接的なもの」−「媒介されたもの=第一の否定者」−「第二の否定者」−「直接的なものと媒介されたものとの統一=第二の直接的なもの=第一の否定者と第二の否定者との統一」の四分法で見るかは、そのいずれを採用してもよいということである。)
 
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◆ベンヤミン「翻訳者の課題」(野村修訳、岩波文庫『暴力批判論』所収)から。──
 
<ところで、もしあらゆる思考が努力の的とする数かずの究極的な秘密が、みずからは沈黙しつつ、うちとけてそのなかに保たれているような真理の言語があるとするならば、この真理の言語こそ──真の言語にほかならない。そしてまさにこの言語を予感し記述するところに、哲学者が自身のために希望しうる唯一の完全ないとなみがあるわけだが、この言語は、じつは翻訳という翻訳のなかに、集約的に秘められている。…じじつ、翻訳のなかに表出されるあの真の言語への憧憬を、自身のきわめて独特な特質とするような、哲学的な天分というものがある。>(83頁)
 
 ベンヤミンがいう純粋言語、すなわち<諸言語の互いに補完しあう志向の総体によってのみ到達可能となるもの>(77-78頁)であり<もはや何ものをも意味せず表現しない純粋言語>(87頁)とは、ヘーゲルのいう<根源的な言葉>のことなのだろうか。そして「翻訳」とは、根源的な言葉として叙述される絶対的理念の自己運動そのものの別の表現なのだろうか。
 

【第53回】第3巻第3篇第3章、絶対的理念
 
 論理学はここに完結しました。いささかの規定性ももたない有から始まってすべての論理学的規定性を内包した有へと、つまり「存在する理念」としての自然へとロゴスは推移し、ヘーゲルの叙述は一つの巨大な円環から次なる円環(自然哲学)へと途切れることなく進んでいきます。
 
 いったいこれは何だったのか。『大論理学』を叙述すること、そしてそれを読むことの意味は何だったのか。──ほんのわずかの解放感とともに、どことなく苦いものが私の脳髄を浸しています。
 
 ちょうど十三箇月かかりました。読み終えたとき、世界が変わっているのではないかと期待していました。しかし、格別の変化はありません。それもそのはずで、有論を読んでいたときしばしば訪れた陶酔は、その後しだいに疎遠なものとなり、後半その叙述の大半を充分に咀嚼できないまま先を急いだため、ともすれば機械的な作業に終始したように思います。
 
 読み散らかしたというほかはない残骸、廃虚を前にして、いつかまたこれらを補正し組立て直すだけの力と意欲が湧いてくるまで、そのまま放置しておくしかないと観念しました。(1997.11.29)
 
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  [3] 体系と円環
 弁証法的進行(方法の行程)を通じて対象は内容としての規定性を獲得し、方法はこの<演繹されたもの>としての内容を契機として「体系」にまで拡張される。すなわち、結果としての規定性から見れば始元もまた一個の規定されたもの(媒介されたもの・演繹されたもの)にほかならず、こうしてここに論理的始元から前方への進行(絶対的形式としての方法)と後方への遡行(全体性の体系としての方法)とが一つのものとなる。
 
 詳説すると、まず結果としての規定性は<過程の崩壊の結果その規定性がもつことになった単純性の形式>のためにそれ自身一つの新しい始元であり、それは前の始元とは区別されるから、認識は内容から内容へと進行していく。この進行は<豊富化の過程>であって、最も豊富なものが最も具体的なもの(最も主観的なもの)なのである。
 
 ところが、この進行の<最高の研ぎ澄まされた尖端>は純粋な人格性なのであるが、絶対的弁証法を本性とするこの人格性こそ<一切のものを自分の中に把握し、また保持する>自由なものなのであり、自分自身を最初の直接性(普遍性=単純性)となすものなのである。このように、始元の前進的な規定の進行と始元への漸次的な遡行(始元の後退的な基礎づけ)とが同一のものであることとなる。すなわち方法は一つの「円環」をなしているのである。
 
 いまや論理学は絶対的理念の中で、その始元である単純な統一(有)に復帰している。すなわち、論理学の始元であった<有の純粋な直接性も、媒介を通じて、云いかえると媒介の止揚を通じて、理念に適合した自己同等性に達した理念にほかならない>のであり、<この有はいまや充実された有であり、自分を概念的に把握する概念であり、具体的な、しかも全く内包的な全体性としての有である>。理念がこのような<有の形式における全体性>としてあるとき、それは自然である。