『大論理学』ノート[3-2]
 
 
 
 

【第37回】第3巻第2篇、客観性
 
 ヘーゲルは本篇序説の中で、いくつかの直接性の形式――すなわち有、定有、実存、現実性と実体性、そして客観性――を表現する言葉が、哲学的な概念の区別の正確さが問題でない場合(つまり日常生活)にあっては同義に使われてもよいと述べたすぐ後で、次のように書いています。
 
<哲学は、表象の世界のために作られている日常生活の言語の中から、概念の規定に近いと思われるような表現を選ぶ権利をもつ。日常生活の言語から選ばれた言葉に対して、哲学が用いるのと同一の概念が日常生活においてもこの言葉に結びついていることを立証することは、必ずしも必要ではない。なぜなら、日常生活は何らの概念ももたず、表象だけをもつのであって、普通には単なる表象にすぎないものの概念を認識するものこそ、哲学にほかならないからである。だから哲学的諸規定のために使用される表象の表現の中に、たとえそれらの規定の区別の曖昧さが出て来るとしても、われわれはそれに満足しなければならない。…たとえこれらの表現[実存、有、現象、現実性と客観性]が同義に用いられるべきだとしても、哲学は元来、このような言葉の徒らな過剰を哲学の区別のために利用する自由をもつであろう。>
 
 このことに関してヘーゲルが挙げている例は、繋辞[sein]が同時に有を意味するという(いまとなってはいいふるされた、インド=ヨーロッパ語族に特有の)文法構造に由来する概念の混同であり、抽象的な言い回し――「風はもう、ずっと前から実存することなしにあった」――なのです。(後の例を読んで私は、その出典は失念しましたが、サンスクリット語では「彼は使者として赴いた」というべきところを「彼は使者性を帯びて赴いた」と抽象的に表現するといった話を連想しました。)
 
 ヘーゲルらしくもない言い訳がくどくどと叙述されているところに、かえってヘーゲルがその哲学体系を紡ぎだしていった現場が示されているのではないかと私は思うのです。いうまでもなく、それは日常言語が使用される場にほかなりません。(このあたりにも、ヘーゲルとウィトゲンシュタインをつなぐ線が、それもいわゆる「前期」だけではなく「後期」のウィトゲンシュタインとの間に引けるのではないかと思わせる理由があります。ただし、だからどうなのだといわれても困るし、私もそれ以上に議論を展開させるだけのアイデアをいまのところもちあわせているわけではない。)
 
 判断、推論とややゆったりと読んできて、もはや元のペースには戻れなくなりました。夏はやはり暑いことだし、世の中はお盆を迎えていることだし、最近、賢しらに論をたてることにちょっと飽きてきたところだし、──そういうわけで、締まりのない報告でした。(1997.8.10)
 
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◆客観性◆
 概念の客観性への推移とは概念から存在への推論であって、いわゆる神の存在論的証明はこの論理的行程が神という特殊的内容へ適用されたものにほかならない。もっとも、神の概念からその有への推移をいうとき、その有が<抽象的な反省または没概念的な表象という意味における主観的なもの>、すなわち感性や抽象的思考の域にとどまるものであるとすれば、<存在を概念から捻出してはならぬ>というカントの厳しい批判を免れることはできないであろう。これに対して本篇で論じる客観性は、いまだ<神的な実存ではなく、理念の中に現われる実在性ではない>とはいえ、<存在論的証明における有または定有よりも遥かに内容のあり、高次のもの>である。
 
 客観性には二つの意味がある。第一に、客観は自我(主観的観念論における絶対的な真)と対立するもの、より一般的には主観の関心・活動の対象としての<直接的な定有の中にある多様な世界>である。第二に、客観的なものは(理性的な諸原則や完全な芸術作品のように)あらゆる偶然性を越えたもの、すなわち<制限と対立とをもたない即且向自的に存在するもの>である。この第二の意味における客観的なものは、たとえそれが結局は意識(主観)に所属するものであるとしても、その<即且向自性>は客観的なのである。
 
 叙述の現在の段階では、客観性はまず概念の領域における直接的なものであり、そこでは概念の全体性がそのまま有と同一である。しかし次に、概念は自分の主観性の自由を回復しなければならないから、直接性としての客観性は目的としての概念に対する否定的なものとなり(第一の意味の客観性)、概念の活動によって規定されるものとなる(第二の意味の客観性)。
 
 概説すれば、直接性としての客観性にあっては、そのすべての契機が自立的であり互いに客観として並存している(機械観)。しかし、この統一は客観そのものの内在的な法則にほかならず、各客観(各契機)の関係も法則に基礎づけられたものとなり、それらの自立性は止揚される(化学観)。最後に、各客観の自立性が止揚され本質的な統一として措定されること、すなわち各客観の自立性と主観的な概念(統一)とが区別されることによって、概念は<即且向自的に客観性に関連するものとして、即ち目的として措定されたのである。>目的としての概念は、主観的なものであるという自分の欠陥を自分で止揚するものとして措定されている概念なのであって、したがって最初は外的な合目的性にすぎないものの最後には内的な合目的性、すなわち理念となる。
 
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◆『現代思想』8月号に掲載されている座談会での上野健爾氏の発言。──<…日本の哲学者の多くは数学というか自然科学をきちんと勉強していないように見受けられます。…例えば、…『大論理学』の中に無限論があります。日本語訳を読むと正直言って意味が分らない。…数学のきちんとした述語があるにもかかわらず、自分達で勝手に述語を作って訳しているわけです。また私が理解する限りでは、ヘーゲルは少なくとも当時の、あるいは当時よりは少し遅れるかもしれないけれどもラグランジェぐらいまでの微積分は自分なりに勉強し、理解して、自分の言葉で語ろうとしているんです。しかし一方で、ヘーゲルを翻訳したりヘーゲルを議論されている方々が、数学をそこまできちんと理解しておられるのかどうか、あるいは一九世紀後半に完成した実数論をきちんと理解しておられるのかどうか。>
 
 私は、ヘーゲルはもちろんのことマルクスやベルクソン、とりわけウィトゲンシュタインを論じた様々な文章に接するなかで、それらが決定的に数学への言及を欠落させていることに疑問をもち続けてきた。また、『大論理学』有論を読みながら、そのレベルはおよそかけ離れているにせよ、上野氏が述べられているのと言葉の上では同じもどかしさを感じ続けていた。だから、上に引用した発言には──自然科学者や数学者が社会の問題や彼らがそう規定するところの「哲学」の問題に言及する際にも、もっと哲学を勉強して「哲学」から自由になっておくべきなのではないか、という思いを一方でいだきながらも──完璧に賛同できる。
 
 いま一つ上野氏の発言から取り上げたいのは、「術語」の言語としての特異性である。そもそも術語とは固有名なのか、それともABC・・や123・・や甲乙丙・・などと同じ符号にすぎないのか。ヘーゲルの曲がりなりにも結構のついた数学をめぐる文章の直訳が、術語の違いゆえにプロの数学者に対して意味が通らないことの不思議。ヘーゲルが、<哲学は、表象の世界のために作られている日常生活の言語の中から、概念の規定に近いと思われるような表現を選ぶ権利をもつ>というとき、そこには術語という特異な言語への独特の感覚が示されているのではないか。
 

【第38回】第3巻第2篇第1章、機械観
 
 ヘーゲルは、本質論で絶対者を論じた際にライプニッツの哲学を取り上げて、モナドの中に個別化の原理が本質的なものとして立てられていることは最も重要な点であるが、それは思弁的な概念にまで高められておらず、そのため個別化の原理がまだ不十分であると批判していました。ところで、機械的客観の本性が多数性であり、だからこそ複合され、混合されることができ、また集合して一個の客観となることができるというとき、それはまさに<閉鎖的であるために相互の作用を全然もたないと考えられたモナド>そのものにほかなりません。
 
 しかしヘーゲルのいう客観は、本質論で扱われる実体ではなく概念を内在させた存在である──訳者註では、<客観は概念の他在である>と表現されている──わけですから、やがて、諸々の客観がそれぞれ自立性をもち相互に無関心なものであることと、ある客観は他の客観によって規定されたもの(被規定有)であることから帰結される事柄、すなわち諸々の客観はただ一つの規定性のもとにあることとの間に矛盾が生じ、この矛盾が措定される(明示される・意識される)ことによって機械的過程が生じていくことになります。(ここから先、かのレーニンが『哲学ノート』に<まったくの無意味ではないにしても、ひどくわかりにくい>と記した、ヘーゲル特有の文体による叙述が展開される。)
 
 ──それにしても、ヘーゲルは夏に読む哲学書にはふさわしくありません。夏は、人間であれ社会であれ歴史であれ自然であれ、およそ森羅万象の内奥に息づいているものをすべてあからさまに感覚的表象の世界にさらけ出す力に充ちている。規定されたものも無規定的なものも、規定するものも規定されるものも、すべてをくっきりとした輪郭をもたない有と無の境界上に誘い出す。(だからこそ、夏は化外・異界のものの季節なのでしょう。)もっとも、ヘーゲルが叙述する客観そのものとは、真夏の正午の日の光にあぶり出された(根源性や深層性を根こそぎされた)世界なのかもしれません。というわけで、今回は「A 機械的客観」まで(で力尽きた)。(1997.8.17)
 
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◆機械観◆
 客観性は<自分の統一の中へ復帰した概念の全体性>であるから、内在的に概念をもつ。そのかぎりで客観性の中にも概念の区別はあるが、しかしこの区別された存在はそれぞれが客観的全体性であり、完全かつ自立的な客観なのであるから、それらの関係はあくまで外面的なものにすぎない。これが、物質的であれ精神的であれ機械観の本性である。すなわち、機械観における客観性はまだ判断(概念の分割)として措定されてはいないのである。(判断として措定された客観性が、次章で論じられる化学的客観である。)
 
◆A:機械的客観◆
 客観は普遍的なものである。しかしこの普遍性は、諸々の特性の共通性という意味ではなく、<特殊性を浸透し、そのためにまた特殊性の中で直接的な個別性となっているような普遍性>である。したがって、客観は質料と形相とに区別されない。つまり、質料が客観の普遍で形相は特殊・個別であるといったものではない。強いていえば、それは「形相をもった質料」である。また、客観の中では特殊性は全体性の中に反省しているのであって、この全体の諸部分はそれぞれが全体性(客観)なのである。
 
 このように客観は、いかなる規定的な対立をもその中にもたないかぎりで無規定的である。もっとも概念が本質的に規定的であるかぎり、内在的に概念をもつ客観性は完全な多様性という規定性をもつ。しかし、多様性は何らの規定をももたない全体を構成しているのであって、この<無規定的規定性>が、いいかえると多数性が客観にとっての本質的なものである。すなわち、機械的客観はそれ自身において多数性であり、複合・集合である。
 
 ところで、客観がそれ自身の中にもつ諸々の規定性を区別したり統一する形式は、外面的・無関心的なもの(混合・排列)である。すなわち、客観はその全体性の規定性を自分の外に、つまり他の客観の中にもつのであって、それは無際限に進む。この無限累進の自己復帰がもたらす一個の世界は、<無規定的な個別性に基いてそれ自身として完結した普遍性、即ち一個の宇宙>にほかならない。
 
 このような機械的客観の世界にあるものは決定論である。なぜなら、そこには自己規定の原理は存在しないからである。つまり客観は、他の客観によって規定される被規定有であるが、そのことに対して無関心なのである。ところが、ここに矛盾が現われる。というのも、ある客観の規定性が他の客観の中にあるとすると、互いに無関心な両者の間にはいかなる規定的な差異も存在しないことになり、したがってそれらの規定性は同一のものとなるからである。この矛盾が、<その規定性において互に反発しあっている多くの客観の否定的統一>であり、機械的過程にほかならない。
 
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◆ヨハンネス・スコトゥス・エリウゲナは9世紀の哲学者・神学者で、新プラトン主義的スコラ学の体系化に取り組んだ人物。松浪新三郎『哲学以前の哲学』(岩波新書)によれば、エリウゲナはその著書『自然の区分について』のなかで、自然を次の四つの段階に分け、これらを一つの循環体系として構成した。
 1.創造して、創造されない自然(万物の根源としての父なる神)
 2.創造して、創造される自然(子=イエス・キリスト)
 3.創造せずして、創造される自然(世界。人間をも含む)
 4.創造されず、創造しない自然(万物の目的としての神)
 
 なにしろヘーゲルは古今東西の哲学の集大成を目論んだ人物なのだから、エリウゲナにおける自然とヘーゲルの客観(性)といった類の考察はもとより可能だ。<無規定的な個別性に基いてそれ自身として完結した普遍性、即ち一個の宇宙>としての世界、決定論が支配する一個の世界とは、エリウゲナの区分にしたがえば、「創造して、創造される自然」を即自的に内在させたところの「創造せずして、創造される自然」に相当するのだろうか。
 

【第39回】第3巻第2篇第1章、機械観「B 機械的過程」
 
 白川静氏の「漢字の思考」(『文字遊心』所収、平凡社)という講演記録を読んでいて、次の文章を見つけました。<紀平正美という早稲田大学の教授がいました。ヘーゲル哲学の研究者でした。その人がヘーゲルの具体的絶対論という立場から、[無門関]の解釈を試みるということで、大正七年に[無門関解釈]という本を出している。私は若いころに読みましたが、たいへん面白くてわかりやすい本だった。禅僧たちは哲学を学ばずに、本当に公案がわかるのかと思うくらい、よくわかる本でした。しかしべつに西洋哲学を借りなくても、中国人は昔からそういう考え方をしているのです。>
 
 ここで、中国人が昔から<そういう考え方>をしていたと書かれているのは、次のような意味です。『無門関』に、趙州という僧が、「いかんかこれ、祖師西来の意」(ダルマが中国に来て仏教を広めようとしたのは一体どういうつもりだったのか)と尋ねられて「庭前の柏樹子なり」と答えたと書かれている。白川氏は、これは普通の問答としては答えになっていないけれども、ある象徴的な意味でなにかを答えているのだと指摘しています。長くなりますが、白川氏の議論を以下に引用します。
 
<だいたい漢字というものが、そういう象徴性をもっているものです。つまりスペリングで音で写すのでなく、象形字でそれを表現するのですから、文字そのものが一つのシンボルです。漢字を使う人の間には、そのような思索のしかたが、本来的にあるのではないかと思うのです。だから禅宗は中国で成立するのです。まったく中国的な仏教ですね。彼らは不立文字、文字を用いないということを原則としている。ことばという以上、その表現はすでに限定されたものであるから、本当のことは言えない、というのです。本当のことは、その物以外には言いようがない。物はその物にあらざれば説明することができない。ほかのことばで、置き換えることはできないという。もの自体が絶対的なものであるということになるのです。
 だから「いかんかこれ、祖師西来の意」に対して「庭前の柏樹子」と言ったのは、庭前の柏樹子そのものが、象徴的にその本質を具現している、その物なんだ、ということです。妙な論理のようですが、絶対的なものは、その物以外にはありえないのだから、「祖師西来の意」は「祖師西来の意」以外にはないのです。他に説明のしようがないのですよ。だから「庭前の柏樹子」といおうが、「庭前の雑草である」といってもよいし、「屋根の雀である」といってもいいし、「かわらけである」といってもいいし、なんと言ってもいいわけです。つまりその物が、その物以外のものを以て表すことができない物である、ということを説明する、という説明になっているわけです。だからその物以外には、なに物でもありえないと同時に、特殊がすでに絶対であるとすれば、またなに物でもそれに代わりうるのです。>
 
 長々と引用したのは、一つにはヘーゲルの叙述が、言葉と物、表現と表現されている事柄との相互参入によって進行するトリッキーなものであり、禅宗の公案を思わせるものであると常々感じていたこと(ぜひとも『無門関解釈』を読んでみたい)、一つには「機械的過程」を通して客観が<その物以外のものを以て表すことができない物>へと自らを高めつつあるのではないかと思われたこと、そして最後に、このような物質(自然)界と精神界にまたがる客観のプロセスが漢字というメディアの生成と展開の中に実はあらかじめ示されていたのではないかと考えたからです。
 
 それにしても白川氏の論考は実に面白く刺激的で、昨年完結した『字統』『字訓』『字通』の三部作は、ヘーゲルのそれとは異なる、しかもはるかに壮大なスケールで叙述された東洋の『大論理学』なのではないかと思います。(1997.8.23)
 
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◆B:機械的過程◆
 機械観は概念の領域に所属するものであるから、前に本質論で論じた因果関係の真理(即且向自的に存在する原因が本質的に結果でもあり、被措定有であること)が機械観の中で措定されている。すなわちここでは、各実体のもつ因果性は単に表象されたものにすぎず、この表象された因果性が機械観なのである。<というのは、因果性が単なる実体間の同一的な規定性として、従ってこういう同一性の中における各実体の自立性の没落として単なる被措定有であるということこそ機械観だからである。>そして機械的過程とは、この機械観の概念の中に含まれているもの(矛盾)の措定である。
 
[a:形式的な機械的過程]客観相互の作用は、普遍性の形式の中での客観の同一的な関係の規定にほかならず、それはすなわち伝達である。ところで、客観的なものそのものは、単に形式の上だけではなく即且向自的に普遍であって、個別性はここでは非本質的なものである。したがって、伝達可能なもの(普遍)は、精神的領域におけるそれ(法律、習俗など理性的観念一般)であれ、物質的領域におけるそれ(運動、熱、磁気、電気など)であれ、個別性による抵抗を受けない。
 
 このように客観相互の作用においてまず客観の同一的な普遍性が措定されると、同様にして特殊性も措定されねばならず、したがって各客観はその自立性を証明し、普遍性の中に個別性を打ち立てることになる。<この個別性を打ち立てるはたらきは一般に反作用である。>しかし、反作用と作用とは同一のものであって、作用は、<自分の中に閉じこもった無関心的全体性>としての客観の上での表面的な変化にすぎない。
 
 客観は第一に、直接的には個別として前提されている。第二に、他の客観に対する特殊である。そして第三に、その特殊性に対して無関心なものとして普遍である。そして、形式的な機械的過程(作用・伝達と反作用・配分)の成果として生じるものは、概念の前提された全体性の措定であり、<伝達された普遍が客観の特殊性を介して個別性と結合されているところの結論>としての概念である。
 
 この静止(成果)の中で、成果は自分の規定性に対して無関心である。この意味で成果とは最初に機械的過程の中へはいっていった客観への復帰であるが、それはこの運動を通じてはじめて客観として規定されたものなのである。つまり、概念の上から見れば成果は最初の客観と同じものであるが、始まりにおいては成果がもつ規定性はまだ措定されてはいなかったのである。
 
[b:実在的な機械的過程]客観は形式的な機械的過程を経て、静止へと推移した。この成果(静止)は単に外面的な規定性にすぎないものだが、それはまた措定された規定性なのであって、<客観の概念は媒介を通して自分自身に還帰したのだから、客観は規定性を自分に反省した規定性として、その中にもっている>のである。いまや客観は<相互に明確に区別された客観>であり<他のものの壊し得ない自立性>をもったものとなり、自立的な個別性と非自立的な普遍性との対立をもつことになる。こうして機械的過程はより複雑な関係へと、すなわち実在的な過程へと推移する。
 
 形式的過程と同様に、実在的過程の最初の契機は伝達であり、第二の契機は抵抗から始まる配分である。そして、伝達された普遍性がこれを受け入れる客観の規定性に適合しない場合、いいかえれば客観の個別性が伝達されるものに対して受容性をもたない場合、抵抗は圧倒され客観は破壊される。このような客観的な普遍性、あるいは客観に対する圧力[Gewalt]であるところの力[Macht]こそ、運命[Schicksal]である。<運命が盲目的と云われるかぎり、云いかえると、運命の客観的な普遍性が主観によって、主観の特殊的な個別性において認識されないものであるかぎり、運命は機械観の圏内にある概念である。>
 
 運命に関して二、三述べておく。生物の運命とは類である。というのも、諸々の生物は個体としては無常であり、類を<現実的な個別性>としてもたないからである。また、単に生きているにすぎない諸々の自然は、低次の物と同様に反なる客観にすぎず、運命をもたない。これらに対して、<本当に運命をもつものは自意識のみである>。というのも、自意識は自由であり、自我の個別性の中にあって客観的普遍性(運命)に対して自己を対立させることができるからである。自意識は行為をなすことによって自分を特殊的なもの(抽象的な普遍性)とし、自分にとって未知な本質(運命)がしのび入る「窓」となるのである。行為のない民族は、運命を動かし外に向かってはたらく規定性をもつ個性を欠いており、そこでは主観も一個の客観にすぎず、機械観の関係に落ち込んでいる。
 
[c:機械的過程の成果]以上の過程を経て、客観は客観的に個別的なものとして規定された。ここから生じる成果は、<個体的な自立性>としての中心[das Zentrum]であり、<それ自身において自分を特殊化する普遍性であり、不動の区別>であるところの法則[das Gesetz]である。
 
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◆ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中で、漢字について次のように書いている。<周知のように、中国には表音文字のほかに、個々の音や音のつらなりとして単語をあらわすのではなく、文字の形でイメージをあらわす表意文字(漢字)があります。漢字は大きな利点をそなえているかに見え、ライプニッツをはじめとする多くの偉人たちが感心しています。が、利点などどこにもない。文字とそれがあらわす音を比較しただけでその欠点はあきからで、文字と音が分離している中国語では、そのむすびつきがきわめて不完全です。ドイツ後の場合なら、アルファベットの一つ一つが個々の音をあらわしていて、文字を読めばその音がはっきり発音できるから、文字がどんなことばをあらわしているかで、まようことはない。>(長谷川宏訳)
 
 白川静氏の「漢字の思考」によれば、文字はまず神話表記法的な神聖文字、つまり形・音・義の三つをもつ象形文字として成立し、後にその頭音だけをとってアルファベットとなるのだが、この象形文字からアルファベットへの推移をもたらすのは、文字成立の条件を充たした古代王朝の衰亡である。
 
<象形文字はほかの地域では早くなくなって、すべてアルファベットになってしまう。それは文字が成立した神話的な世界を、その古代王朝がどこまで持続することができたか、という問題です。古代王朝が滅びて、代って他の民族が支配し、他の民族のことばが入ってきたりして、文字はその表記のために転用され、アルファベットになってしまう。カナのように音だけを表すものになってしまう。
 中国では、そういう文化的征服を受けることがなかった。だから象形文字がいまでも残っているのです。これはきわめて正統的に残っているのだと、わたしは思っている。退化したのでもなく、取り残されたのでもない。あくまでも正統的にのこっている文字体系である。>
 
 したがって漢字の中には古代の神話的世界、習俗、思惟方法がそのまま残されている。白川氏が挙げている例でいえば、たとえば「文字」を取り上げてみると、まず「文」は全身正面形を表しており、その古い字形は胸にあたる部分に「×」が書かれていた。これは加入儀礼に際して施した文身(入墨)を表現しているのである。また「字」は生まれた子が家のみたまやにお参りをしている形で、氏族員として認めてよいかを祖先霊に伺い、許可を得て字(あざな:呼名)をつける儀礼を表現している。
 
 このようにそもそも文字は古代のイニシエーション儀礼を象るものとして生成し、儀礼を通して表現されていた観念とその運動を体現しているのである。ヘーゲルが『大論理学』で叙述しているロゴスの展開過程は、漢字の生成と展開の中に形・音・義の三位一体において示されている。ただ一点、違いがあるとすれば、徹底的な略奪と根底的な征服、すなわち文化的征服の歴史がそこに介在しているかどうかだろう。
 

【第40回】第3巻第2篇第1章、機械観「C 絶対的機械観」
 
 デウス・エクス・マーキナという言葉があります。ギリシア古典劇のクライマックスで唐突に出現しては、すべてをあっけなく解決してしまうこの機械仕掛けの神が属しているのは、ヘーゲルがいう意味での<中心>ではありえません。むしろ世界の諸関係を無造作に断ち切り、<中心>と<法則>を解体してしまうもうひとつの「原理」だと考えるべきでしょう。
 
 今回は骨が折れました。物質界における中心点(中心物体)が、普遍・特殊・個別という概念の三規定へと自らを推移させながらあくまで普遍性にとどまり続ける「推論」の過程は、頭では理解できるのですが、具体的な像が浮かんでこない。だから、要約も論理の推移の表面をなぞるだけにとどめました。それこそ、機械仕掛けの要約。
 
 もっとも、有論や本質論を読んでいた頃であれば、このあたりは平気で素通りしていたに違いありません。判断や推論に関する叙述を気を入れて読んで以来、細かい論理の筋道が気になるようになったのは、「進歩」の証なのでしょうか。
 
 ただ、精神界における中心点が、たとえば政府と市民と市民生活(欲望または外的生活)の三つ組──それぞれ普遍・特殊・個別の三規定に対応している(と思う)──へと自己展開して、<自己同一的な重力>を根本規定とする<自由な機械観>を形成するという例は、比較的わかりやすいものでした。(ここに出てくる重力とは、シャルル・フーリエが提唱した「情念引力」のようなものなのでしょうか。)
 
 判然としない部分も少なからず残りますが、先へ進むことにします。(1997.8.31)
 
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◆C:絶対的機械観◆
 
[a:中心]相互に分立する多様な客観は中心点[Mitteipunkt]に集中し、この客観的な個別性あるいは本質的な規定性は<互に機械的に作用しあう客観間の実在的な媒辞>を構成する。諸々の客観は、この媒辞によって即且向自的に結合されているのである。
 
 物質界において、非本質的な個々の物体(多様な客観)は中心物体との合一、というよりむしろ静止のうちに統一されているのだが、しかし各客観の外面性が同時に措定されているのであるから、この統一は一つの当為であるにすぎない。各客観が中心に向かってもつ傾動[Streben]こそがそれらの絶対的な普遍性なのである。
 
 中心物体は客観的全体性の即自有であるにとどまらず、むしろその向自有である。したがって、それは一個の個体であり、内在的な形式であり、各客観を一つに結合するところの自己規定的な原理である。<それは自分を規定的な概念の区別[三つの異なる客観]に分割しながら、しかもあくまでもそのその自己同等の普遍性の中にあるような統一[媒辞]である。>
 
 こうして、全体性の各契機が概念の関係(推論)となり、したがって三つの異なる客観(たとえば、政府と市民とその欲望または外的生活)が相互に媒辞とその両項の規定をとることになると、全体性は自由な機械観となる。そこにおいて各客観の根本規定をなすものは、<特殊化の中を一貫してある、自己同一的な重力>である。そして、各客観が外面的規定性としてもつ秩序が内在的で客観的な規定へと推移すると、それは法則である。
 
[b:法則]法則の中で、観念的実在性(客観的な全体性の魂)と外面的実在性(「傾動」的実在性)とがより明確に区別される。すなわち、外面的な客観性を観念性の中へ絶対的に連れ戻す統一が自己運動の原理であり、<この概念そのものの区別であるところの、生動体(das Beseelende)のもつ規定性>こそが法則なのである。
 
 本章の最初で検討した諸々の客観はその中心を外部にもつものであり、したがってこのような各客観の機械的過程は死んだ機械観にすぎず、そこにあるものは規則[eine Regel]でしかない。自由な機械観だけが法則をもつ。というのも、法則とは<その区別の観念性の中で、ただ自分にのみ関係するもの>なのであり、しがって自由な必然性だからである。
 
[c:機械観の推移]法則とは、客観的な全体性の「内的な」概念である。したがってそれは物体の中に沈没しており、法則と客観の対立はまだ現われていない。しかし法則は<客観に内在する観念的な区別>なのだから、客観の定有は概念によって措定された規定性であることになり、前に中心点に対する求心的な傾動をもっていた客観は、いまや中心点に対して対立する客観に向かっての傾動をもつことになる。こうして中心性は互いに対立した各客観間の関係となり、自由な機械観は化学観へと推移する。
 
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◆法則について。再び『脳とクオリア』から。──茂木氏は、心(意識)と脳の関係を考える際の最大の鍵はクオリア(質感)の問題であるとして、その解明の前提となる基礎的な仮説として次の二原理を掲げている。
 
《認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。私たちの認識の特性は、脳のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみ説明されなければならない。》
《認識におけるマッハの原理=認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。ニューロンは、他のニューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するニューロンには意味がない。》
 
 したがって、クオリアは、相互作用によって連結されたニューロンの発火のパターンとして特徴づけられることになるのだが、ここに成り立つ仮説が次の原理である。
 
《クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火のパターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する。》
 
 茂木氏は、<クオリアの先験的決定の原理が主張していることは、クオリアの起源がどのようなものであれ、それは自然法則の一部と見なされなければならないということである>とし、<この結論は衝撃的である>と述べている。というのも、<もし、クオリアが一定の条件の下に神経回路網という物質の振る舞いに随伴して生じるものであるとすれば、そのような可能性は、従来の物理学では考慮されて来なかったまったく新しい自然法則の領域の存在を示唆する>からである。
 
 従来考えられてきた自然法則とは、<脳の中のニューロンが、物質としてどのように振る舞うか[どのような時間的・空間的なパターンで発火するか]を記述するに過ぎない>ものである。<一方、クオリアの先験的決定の原理が示唆する自然法則は、脳の中のすべてのニューロンの発火パターンが完全に与えられた時点、そこから始まる。つまり、従来の自然法則が終わった時点から始まるのだ。>(前掲書第5章)
 
 茂木氏は最後に、クオリアの問題は、古来「プラトン的世界」と呼ばれてきた理念や概念の世界の実在と深い関係をもつのではないかという<信念>を表明している。
 ──ヘーゲルが「絶対的機械観」の項で論じた法則、あるいはヘーゲル論理学そのものが叙述するロゴスの弁証法的自己展開の「法則」との関係について、ここで軽率に論じることは控えて、今後の宿題としておこう。
 

【第41回】第3巻第2篇第2章、化学観
 
 物理学者と化学者と生物学者が哲学者に転向したら、それぞれどのような哲学をすることになるだろう。昔、友人とそんなことを話題にした記憶があります。私の回答は、物理学者は認識論に、生物学者は存在論や形而上学に興味を示すだろうし、あるいはこの関係は逆転することもあるかもしれないが、しかし化学者は間違いなく実践哲学、それも社会哲学に興味を示すだろう、というものでした。
 
 素粒子、力、質量といった抽象的な概念によって物質過程を探究する物理学者や、物質過程と化学的過程を統治することによって自己を編集する生命過程を解明する生物学者とは異なって、化学者が研究の対象にするのはそれぞれに異なった化学的特性を示す具体的な物質の集積体であり、それら相互の化学反応の過程なのだから、化学こそが、集団と集団が相互の錯綜のうちに力学的変化を超えた「化学的」変容をきたす社会のアナロジーとしてふさわしいのではないか。
 
 概ねそのような「理屈」をぶったのですが、いずれにせよ酒席での戯言、本気でそういったわけではない。ただ、私がそのとき念頭においていたのが、物理化学者にして哲学者のマイケル・ポラニーだったということを述べたいがために、十年近く前の(どういうわけか今だに鮮明に記憶している)会話を紹介したしだいです。
 
 ただし、この話題には先がありません。ポラニーの暗黙知の理論とヘーゲル論理学との関係について少し書いてみようと予定していたのですが、考えてみれば暗黙知は何にでも関係づけられそうだし(たとえば、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム)、私のいまの知識や経験では生産的な議論が展開できるとは思えないからです。(まだ十分に読み切っていないポラニーの主著『個人的知識』の訳書には、「脱批判哲学をめざして」という副題が添えられています。このあたりをもっと深く追究できれば、ヘーゲル哲学との関係で面白いのではないかと思う。)
 
 ところで、今回の「化学観」では、親和性、原基、中和、還元など、自然科学としての「化学」から多くの語彙が転用されていました。また、ヘーゲルの叙述そのものが化合物の理論とのアナロジーにおいて読みうるものであることは明らかです。このような、物質界(自然)と精神界(歴史等)とを同時に貫通し、その根底にあるところの「論理」の推移と「化学」的過程との間にアナロジーが成り立つのは、考えてみれば実に不思議なことです。
 
 それは、そもそもヘーゲルの叙述が「わかる」こと、「わかってしまう」ことの不思議さにつながっているものだと思います。ヘーゲルはいったいどこで考え、どこで書いているのか。その叙述が位置している「場所」はいったいどこにあるのか。機械観から化学観へ、そして目的観を経て生命へという推移の必然性は、私にはよく「わかる」ものなのですが、それはヘーゲルによって厳密な叙述が与えられた(にすぎない)普遍的な道理なのか、それともヘーゲルの叙述によってはじめてもたらされた(あるいは、ヘーゲルが掬いあげることによってはじめて知られることになった)「感覚」のようなものなのか。(1997.9.7)
 
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◆A:化学的客観◆
 化学観[Chemismus]の関係は、元素的自然の形式によって叙述される本来の「化学」的過程と解してはならない。物理的元素ともいうべき部分からなる気象学的関係や生命体における性の関係もここでいう化学観の図式に属するものであり、またこの図式は愛・友情といった精神的関係の形式的基礎をなすものだからである。この意味の化学観は、客観性全体の中で判断の役目をもつものである。すなわち、化学観は客観的になった差別と過程との契機を形成しており、最初から規定性と被被措定有から始まる。
 
 化学的客観はまず、外的にではなく自分に反省した自立的全体性であり、いいかえれば(人格が単に自己関係的な「原基」であるのと同様に)まだ差別的なものとして規定されていない個体なのであって、したがってこの特殊的な客観は<それ自身からは把握されず、一方の客観の有は他方の客観の有なのである>。
 
 このような内在的規定性は、特殊的客観の実在的な類であるところの個別的概念の具体的契機である。<従って化学的客観は、その直接的な被措定有とその内在的な個別的概念との間の矛盾であるから、化学的客観はその定有としての規定性を止揚するとともに、概念の客観的全体性に実存を与えようとする傾動である。>こうして、化学的客観は自発的に化学的過程を開始する。
 
◆B:化学的過程◆
 化学的過程は、緊張関係にある二つの特殊的客観の親和性[Verwandtschaft]の関係から、すなわち<他方の客観の一面性を止揚し、相互の和解と結合を通じて、その両契機を含んでいる概念に実在性が一致するようにしようとする傾動>から始まる。
 
 この二つの客観を結合する媒辞(物質界における水、精神界における記号・言語)は、<いわば化学的客観の実存、その過程、及びこの過程の結果の理論的要素>であるにすぎない。推論の両項をなす二つの客観の関係は、この要素の中で行われる伝達であり、この過程の結果、概念と実在性との矛盾が除かれ、差別は直接的に止揚される。そこに生じる産物は「中和的なもの」であり、それは、その中で対立の緊張と過程の活動性(否定的統一)とが消滅しているような形式的な統一にすぎない。
 
 ところで、この統一はそれ自身が実存であり、中和的客観の外にある自立的な否定性となっている。それはいまや、<自分自身の中で自分の抽象に対して緊張することになり、自分を消盡して外部に向かうところの、自分の中で燃え立つ活動性となる>のである。
 
 この否定的統一と中和的客観との分裂は、化学観の出発点となった二つの客観の対立の回復と見ることができる。そして再び、形式的・外面的な媒辞を通じて(化学観の全体性をなすところの選言推論を通じて)、その成果として一個の「中和的なもの」に結合する。すなわち、<それ自身の中でその抽象に復帰する>という規定性をもつ、本源的に規定された元素的客観へと復帰するのである。この自分の概念への復帰によって化学観は自分を止揚し、より高次の領域へと推移する。
 
 このような化学的過程(化学的変化、中和的化合の過程)に見られるのは、次の事実である。<客観は即ち直接的な、一面的な規定性の面で他のものに関係するのではなくて、むしろ或る根源的関係の内的全体性の面から、客観が実在的関係のために必要な前提を措定し、それによって、その客観がその概念をその実在性と結合するための媒辞を獲得するということである。>
 
◆C:化学観の推移◆
 化学観は<無関心的な客観性と規定性の外面性との最初の否定>であって、それはまだ客観の直接的な自立性・外面性が伴っているから、化学観それ自身はまだ自己規定の全体性ではない。しかし、以上に叙述した必然的な過程を通して外面性と被制約性とが止揚され、概念は外面性によって制約されない全体性へと推移していったのである。このことを、化学的過程に出てきた三つの推論に即して見てみよう。
 
 第一の推論は<形式的中和性を媒辞とし、緊張の状態にある客観を両項にもつ>ものであり、この過程の中では差別された両項の間の外面性が止揚され、<即自的にある規定的な概念とその定有的な規定性との間の区別>が止揚された。
 
 第二の推論は<第一の推論の成果である実在的中和性を媒辞とし、分裂を行う活動性とその成果、即ち無関心的要素とを両項とする>ものであり、この過程の中では実在的統一の外面性である「中和的なもの」としての結合が止揚される。詳説すれば、形式的な活動性が無差別的な各規定性の中へ止揚され、これらの規定性の内的概念が自分の中に帰った絶対的な活動性となる。すなわちこの内的概念は、<自分の中で規定的な区別を措定し、この媒介によって自分を実在的な統一として構成するような絶対的活動性>なのであり、この概念の媒介は<内在的な前提の作用>にほかならない。
 
 第三の推論は先行する二つの過程の回復であり、概念の自己実現であって、この過程を通して抽象的な外面的直接性が止揚される。──こうして、概念は客観的定有のすべての契機を自分の単純な統一の中に組み入れ、客観的な外面性から完全に解放される。ここに生じた客観的な自由な概念とは、即ち目的[der Zweck]である。
 
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◆マイケル・ポラニーは、化合物と言語との類似について次のように述べている。(前後の文脈を抜きにした引用にどのような意味があるのかともし問われれば、断章取義も一つの「方法」だととりあえずは答えておこう。これは、いわずもがなの自問自答。)
 
<化学は、何百万という異なった化合物がそれより少数の──約百──の恒久的かつ同一の化学元素により構成されていると主張する。各元素は名称と、それに付された特徴的な記号を持っているので、任意の化合物をそれに含まれる元素のタームで記述することができる。これは、一定の言語の単語で文を書くのに対応する。この平行関係はもっとおし進めることができる。所与の構成要素を持つ化合物の内部構造を詳記するための括弧の使用は、文を構成する単語によって表示される事物の間の内部関係を示す文法構造に類似である。>(『個人的知識』長尾史郎訳、ハーベスト社)
 
 化合物の理論はさらに社会編制の原理とのアナロジーが可能だろう。そして同時に、アナロジー的思考の安直さ、危険性を指摘することも。(化学的世界にリアリティを感得できるものだけが、化学的事象と理論を言語や社会現象の解明のためのアナロジーとして使用する「資格」をもつ。)
 
 ──これは私の直観にすぎないのだが、形而上学とは実はアナロジーの学なのではないか。(そこには、「認識=存在」とでも定式化できる思惟の法則のようなものが秘められているのではないか。)そしてアナロジー的思考を批判するためにこそ、いま形而上学を学ぶべきなのではないか。
 

【第42回】第3巻第2篇第3章、目的観
 
 岩波版『大論理学下』の訳者註(22)で、武市健人氏は、<機械観、化学観、目的観の展開は、云うまでもなく自然の原理を論理の形で、原理的に叙述するものである>とした上で、ヘーゲルの自然観が<客観性(自然)を概念(形相)の他在として、客観性の中に概念(ロゴス)を見ている点は、客観性(自然)の中にデュナミスを見るものとして、結局アリストテレス的観点に立つものであることは否定できない>と指摘しています。また、訳者註(28)では<「機械観」が、どちらかと云えばプラトン的なものを原型に見ているのに対して、「化学観」はアリストテレス乃至スコラ的なものを見ていると云うことができるであろう>とされ、同(29)では<目的観はアリストテレス的な生物学的自然に定位しているものと見てよい>とされている。
 
 ここに出てくる「アリストテレス的観点」と「プラトン的原型」の区別が、私にはよく判りません。(これは批判として書いているのではなくて、私の哲学史的知識の問題として書いている。だから、この点は今後の宿題。)それよりも、そもそも「客観性」の篇でヘーゲルが展開している議論は「自然の原理」をめぐるものなのだろうか、という疑問が拭えないのです。(ヘーゲルの自然観は『自然哲学』に即して云々されるべきであって、論理学においては──たとえば化学観の説明の中でヘーゲルが、気象学的関係や性の関係とともに愛や友情といった精神的関係の例を提出していることを踏まえて──あくまでも自然と精神を通底するものとしての論理の運動をこそ見るべきなのではないか。)
 
 レーニンは『哲学ノート』で、機械的関係を精神や魂などが形を変えたものとする見方は空虚な類推をもてあそぶものだと記しています。また、(客観性をめぐる叙述のうちに見られる)ヘーゲルの「天才的な」諸思想は史的唯物論を崩芽の状態で示していると書き、自ら、機械観と化学観を自然に目的観を人間の実践的活動(目的を実現しようとする活動)にそれぞれ置き換えることによって、かつヘーゲルの叙述をひっくりかえすこと──人間の合目的的な活動が論理学的な公理やカテゴリー(推論における論理的「格」)に包括されるのではなく、むしろ実践的活動が人間の意識に何億回となく「推論」を繰り返させたことがそれらの公理の意義であると見ること──によって、ヘーゲルの諸思想を唯物論的に再構成してみせていました。
 
 レーニンはそうすることで自己の思想を語ってみせたのであって、それはそれで極めて意味のある哲学的な「実践活動」だとは思うのですが、私はやはりここはヘーゲルの叙述に即して「リテラル」に読み進めていくことにしたい。(たとえその叙述が、外面的かつ偶然的なヘーゲルの「主観的目的」(思想)によって<貫通>され、これを<伝達>するにすぎないものであったとしても。)
 
 今回は「A 主観的目的」「B 手段」まで。「C 実現された目的」は次回。(1997.9.14)
 
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◆目的観◆
 目的観[Teleologie]は機械観と対立させられる。機械観における客観はいかなる自己規定をもなし得ない外面的な規定性(機械的原因の概念)であったのに対して、目的観における客観は<自由なもの>すなわち<自由な実存の中にある概念>だからである。
 
 自然の研究は、自然の各特性を内在的な規定性として概念的に認識することを旨とするものである。機械観(および化学観)は、規定を行う外面的なものがそれ自身客観であるかぎりたしかに内在的原理といいうるものではあるが、そこでは各規定性は単なる必然性の形式によって本質的なものとなるにすぎず、それらの内容はそれに無関係である。これに対して目的観では内容(自分に反省した統一、即且向自的に規定されたもの)が大切になるのであって、というのも形式(諸々の区別と各区別の被措定有との関係)と内容とを区別するのが目的観だからである。
 
 したがって、外面的・偶然的な規定性の中にある内容(機械観・化学観の内容)に基づく合目的性の形式がそれだけで目的観の本質的なものを構成することになると、それは「外的目的性」にすぎず、この外面的な目的関係の中には機械的因果性が顔を出している。しかし、目的観は機械観よりも高次の原理、すなわち<機械観のもつような外面的な被規定性を完全に脱却したものであるところの自由の原理>をもつものなのであるから、そこでは目的はそれ自身において無限な全体性として、「内的目的性」としてとらえられなければならない。
 
◆A:主観的目的◆
 主観的概念は、機械観において「中心」として措定され、化学観において「具体的・客観的概念」として措定された。いまや概念は「目的」として、すなわち<自分自身を発現にまで誘発する力>、<自分自身の原因としての原因>あるいは<原因の結果がそのまま原因であるような原因>としてある。それは<自分を外面的に措定しようとする本質的な傾動または衝動>であるという意味で、なお主観的なものであって、その活動性は外面的な客観性に向けられている。
 
 このように、<客観の中で自分自身に到達した[主観的]概念>であるところの目的は機械的・化学的な世界と対立する。目的の運動は<現前に存在するものとしての世界[=客観]>の直接性を止揚し、概念によって規定されたものとして措定することを意図するものであるということができるのだが、この客観に対する否定的態度は自らに向けられるものでもある。すなわち目的はそれ自身の中に、自らの主観性を止揚し客観的な有との合一を図ろうとする「実現の衝動」をもっているのである。
 
 目的のこのような措定作用は、同時に前提作用でもある。すなわち、主観的概念として目的が自己を内的なもの(措定されたものとして規定されたもの)として措定すると同時に、客観的世界を前提するのである。ところが目的の主観性は絶対的な否定的統一であるから、この客観性(前提)は止揚され、概念によって規定されたものであるところの手段として措定される。
 
◆B:手段◆
 目的は手段によって客観性と結合する。すなわち、手段[Mittel]は、目的とその実現との双方に対して無関心な外面的定有の形態をもつところの形式的推論の媒辞、媒介的な中間[Mittel]である。したがって、概念と客観性とは手段によって外面的に結合されるにすぎず、そのかぎりで手段は機械的客観である。
 
 この推論の中では、目的(抽象的活動性)と客観(外的手段)とが推論の両項を構成し、目的を介してみた客観の規定性が両者の媒辞(手段)を構成する。しかし、手段は即自的には概念の全体性であるから──いいかえれば、客観としての手段は即自的には目的と同一のものであるから──、機械的客観が他の直接的な客観に対してもっていたような抵抗力をもはや目的に対してはもたず、いまや措定された概念としての目的に直接的に従属するものとなる。こうして目的は客観の魂または主観性となり、客観の中にその外面的な側面をもつものとなった。
 
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◆マイケル・ポラニー『個人的知識』(長尾史郎訳、ハーベスト社)の末尾の文章から。──
<この地点[進化理論が終に自然科学の境界を破って完全に人間の究極の目標の確認となる地点]から過去の広大さを振り返って見れば、そこに、全宇宙を通じて在るものは総て、われわれが今、究極的に信ずるもの[創発した精神圏]によって形成されたものであると覚られるのである。われわれは原初の非生命物質を見るが、その運動は、内在的な力の場によって──機械論的にであれ統計的にであれ──決定される。その粒子が秩序ある排列に落ち着くのが見られるが、それは物理学理論が(いかに不完全とはいえ)非生命的物質の根本的特性まで辿ることができるものである。この宇宙はまだ死んでいるが、しかし既に生命に至る能力を持っている。
 そこでわれわれは人間の心のあらゆる業績が、見えないながらも、原初の自然のガスの中に既に刻印されているのを見ることができるのだろうか。それはできない──なぜなら、生命に至る能力は、諸第一原因(first causes)の諸中心を固める場の力に起因するものだからだ。そうした各々の中心はそれぞれの達成の可能性を帯びているのであって、それは、その結果についていかに限定され、不確実で、詳記不能ではあっても、この中心を本質的に新しく自律的な最初の動因(prime mover)として特徴づけるものである。個体的な存在物の中心は短命であるが、しかし系統発生の場(個体はその分子である)の諸中心は何百万年を通じて操作し続け、実際、そのうちの幾つかは永久に持続するかもしれぬ。これについては沙汰の限りであるが、しかしわれわれが知っているように、われわれの原初の祖先を形成した系統発生的諸中心は、いまや、──一つの展開によって(これは地上の生命の長い年月に比べればたった一回の突然の爆発のようにさえ見える)──〈心〉の生命を生み出したのであるが、この心は普遍的諸標準を自分の導きにすると主張しているのだ。この行為によって時間の中に創発した一つの第一原因(a prime
cause)は自らを方向付けて無時間的な目標に向かっているのだ。
 われわれの知る限り、人間に体現されている宇宙の微小な断片は、可視的な世界における思考と責任の唯一の中心である。もしそうだとすれば、人間の心の出現はこれまでのところでは世界の覚醒の究極の段階であり、そしてそれに先行した総て──〈生きること〉と〈信ずること〉の危険を引き受けた無数の中心──はみな、色々な対抗する線に沿って、いまわれわれがこの点まで達成した目標を追求してきたもののように思われる。…そこでわれわれは、一つの宇宙の場を考えることができるが、この場はこれら総ての中心を呼び起こして、それらに短命で、有限で、危険な機会を与えて、考えも及ばぬ終局へ向かってそれぞれ幾らかでも独自の前進を遂げるように命じたのであった。…>
 

【第43回】第3巻第2篇第3章、目的観「C 実現された目的」
 
 ヘーゲルの叙述は、論理学的対象が一つ上の次元へと推移する部分がとりわけ難解です。今回読んだのは、いよいよ概念が自らを客観化し理念へと高まっていくプロセスをめぐるものだったわけですが、この概念の運動が二重になっていて(概念は概念自身を相手として交互作用をする)、その運動の叙述は複雑を極めるのだというヘーゲルの叙述そのものが複雑極まるものであって、率直なところ私はその流れをうまく掴めなかった。(流れにうまく乗ることができていたならば、きっとヘーゲルの叙述に陶酔したことだろうと思います。)
 
 ところで、ヘーゲルは第1篇「主観性」と第2篇「客観性」を総括して、次のように書いています。(訳者の注記も含めてそのまま引用します。)<以上われわれは[第一篇の最後において]主観性、即ち概念の向自有が概念の即自有[潜在性]に、従って客観性に推移する点について考察したが、その後[第二篇において]客観性の中で概念の向自有の否定性が再び現われて来た。>
 
 概念の向自有が主観性であり、概念の即自有が客観性である。そして、概念の即且向自有が理念(十全な概念)である。──ここで私は少し混乱をきたしました。というのも、ヘーゲルが叙述する弁証法的プロセスは、本来「即自→向自→即且向自」と定式化できるものだったはずです(私がとんでもない思い違いをしているのでないかぎり)。
 
 それとも、即自的にある概念(直接的にある概念)が向自有としてもつものが主観性であり、向自的にある概念(概念の他在としての客観の外にあると同時にその中にある概念)の即自有が概念の他在としての客観性であると読むべきであって、ここに概念の運動の二重性が表現されているということなのでしょうか。
 
 すまして要約しているけれど、肝心なところは何も判ってはいなかったという「馬脚」を露してしまいました。──ついでに書くと、私はできればヘーゲル論理学を三度読みたいと思っている。第一回目は即自的に(つまり字義通りに、とはすなわち判るところだけ判ればいいと割り切って)読み、第二回目は(意味や方法はまだ説明できないけれど)向自的に、第三回目は(同様)即且向自的に読んでみたい。(1997.9.21)
 
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◆C:実現された目的◆
 目的はある客観に直接関係してこれを手段とし、この手段を介して他の客観を規定する。ここで、目的と客観が別の本性をもつものであり、かつ、手段としての客観――<目的の側に立ち、目的の活動性を自分の中にもつような客観>――といま一つの客観とがそれぞれ自立的な全体性であるかぎり、目的のこのような活動は「暴力」にほかならないだろう。しかし、<目的が自身を客観との間接的な関係におき、自分と客観との間に他の客観を挿入するということは、理性の狡智と見ることができる>のである。
 
 というのも、目的の前提であるところの客観の外面性に対する直接的な関係の中では、目的は機械的(あるいは化学的)過程に陥り、即且向自的な概念としては没落してしまうからであり、手段を自己の身代わりとすることによって、目的は<客観の背後にあって、機械的暴力に侵されることなく、超然と控えている>ことが可能となるからである。それはちょうど、外的自然に従属せざるを得ない人間が、道具によってこれに対して支配力を有するようなものである。
 
 ところで、目的は単に機械的(あるいは化学的)過程の外にあるのではない。むしろこの過程の中にあってこれを規定するものであり、機械観(化学観)の即且向自的な真理なのであって、<機械観の中でも、ただ自分自身とだけ同行する>のである。すなわち、目的論的過程とは、自由な具体的統一として実存するところの概念の客観性への移植にほかならず、<この前提された他者への移植が、[いま述べた]概念の自分自身による自分自身との同行>にほかならない。
 
 いいかえると、目的論的活動性(あるいは目的論的推論)とは既成体の生成[ein Werden des Gewordenen]であり、<すでに実存するもの[das Existierende]が実存[Existenz]の中に現れるにすぎない>。ここでは、終わりが始まりであり帰結が根拠であり結果が原因であるなど、一般に有論(直接的有)や本質論(反省)の領域に嘱するあらゆる関係規定がその区別を失い、同一のものとして措定されているのである。
 
 ここで、目的論的活動性の成果について詳しく考察してみよう。まず、合目的活動が手段を介して機械的に客観に関係し、客観の無関心的な規定性に代えて他の同様な規定性を措定するにとどまるかぎり、成果は目的(概念)を外面的にもつにすぎないだろう。確かに、この成果は単なる機械的規定性とは異なり、<種々の関係や規定性をその中に統一しているところの一個の規定された、具体的な統一>ではあるが、しかし、そこでは目的の内容と客観の内容とが互いに外面的な対立関係にある点で、やはり機械的である。
 
 次に、主観的目的と客観性とを結合する二つの前提(関係)について見てみよう。
 第一の前提、すなわち主観的目的と客観との関係について。客観に対する主観的目的の直接的な関係によって、客観は手段となった。ところが、この手段としての客観に対して、主観的目的は直接的に関係することはできない。というのも、手段としての客観は他の項である客観――<目的がその中で媒介を通じて実現されることになっているその他の項である客観>――と同様、一個の直接的なものだからである。そうなると、手段の客観性と目的論的規定との間に新たな手段が挿入されることとなり、ここに媒介の無限累進が生じる。
 
 第二の前提、すなわちまだ無規定的な客観と手段との関係について。この両者はそれぞれ全く自立的なものであり、ただ第三者の中でのみ結合され得るものであって、ここでもまたその関係は無際限に進行する。あるいはいかえると、これら二つの前提はいずれも結論をあらかじめ前提しているのであり、したがって、合目的的行為から生じる結論(成果)は手段と同一のもの(相対的な目的)でしかない。すなわち、ここには実現された目的は出て来ず、<目的は、その成果の中に如何なる客観性をも真に獲得してはいないのである>。
 
 以上の考察から明らかになったのは次の点である。すなわち、単に目的論の形式をもつにすぎない外的な合目的性(主観的目的)は、客観的な目的にまで達することはできない。ところが、目的は、客観の自立的な外面性を概念に対立するものとして前提していたのであるが、このような前提の中で、客観の外面性が非本質的な仮象にすぎないことが実は措定されていたのである。したがって、目的の活動性は単にこの仮象の叙述にすぎないものであり、それは同時に仮象の止揚にほかならないものだったのである。
 
 まず、最初の(機械的)客観は即自的には概念の全体性であり、したがってその外面性は非本質的なもの(仮象)として措定された。そこでは、客観は「伝達」によって手段となるのであって、主観的目的は客観を手段に変えるためにいかなる暴力も必要としない。すなわち、客観性は客観性自身によって止揚され、目的は客観的な直接性の中にあるものとなった。次に、措定された客観の外面性と直接性がともに止揚され、否定性と同一的なものとしての客観性が回復された。この面からいえば、手段(目的の成果)は概念と同一的な客観性であり、実現された目的にほかならないのである。
 
 客観性の領域においては、概念は自分自身との交互作用の形をとり、概念の運動は二重のものとなっている。すなわち、向自的な概念(概念の主観性)の中では、概念の自分との区別は同一的全体性そのものとしてあるのだが、即自的な概念(概念の客観性)の中では、概念の規定性は無関心な外面性であって、自分の同一性に対して外面的なものとして規定されたものがこの同一性そのものなのである。(ここにこそ、概念の真の客観化、概念の根源的な内的外面性による目的とその客観化への傾動を理解する鍵がある。)
 
 概念の向自有(主観性)が即自有(客観性)へと推移し、客観性の考察の中で再び概念の向自有の否定性が現れてきた。こうして概念は客観性の中で規定され、概念の特殊性が外面的な客観性であることになった。<云いかえると、概念は、その外面性がその自己規定にほかならないような、単純な具体的統一として規定された。>いまや概念は、向自有的な同一性として即自的な客観性から区別されるが、この区別によってかえって外面性をもつものとなった。このように、外面的な全体性の中において、外面的全体性の自己規定的同一性であるものこそ、理念にほかならない。
 
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◆理性の狡智について。ヘーゲルは『歴史哲学講義』序論B(b)「自由を実現する手段」で、次のように述べている(長谷川宏訳)。──
 
 精神の原理、究極的目的、使命、本性、概念などと名づけられるものは一般的かつ抽象的なものにすぎず、いまだ現実的なものではない。それが現実的なものとなるためには第二の要素、すなわち人間の意思・活動力が必要である。<こうして、わたしたちの目の前には二つの要素がおかれている。一つが理念、もう一つが人間の情熱です。>
 
 <…わたしたちの前提(最後に来てそれが結論だということになる)となり信念となっているのは、理性が世界を支配し、したがってまた、世界の歴史を支配している、という考えです。このゆるぎなく普遍的かつ実体的な理性を前にしては、他の一切はそれに従属し、それに奉仕し、それの手段となる。のみならず、この理性は歴史的な事柄のうちに内在し、その事柄のなかで、その事柄をつうじて、自分を実現するのです。普遍的で絶対的な存在と個別的で主観的な存在との統一──それだけが真理の名にあたいするものですが──それは純理論的な考察の対象となるもので、統一の一般的形式は論理学においてあつかわれます。いまだ前進しつつある世界史のあゆみのなかでは、歴史の究極目的が純粋な形で欲望や関心の内容となることはなく、欲望や関心において意識されることのないままに、普遍的な目的は特殊な目的のなかに入りこみ、特殊な目的をとおして自己を実現するのです。さきにあげた特殊と一般の統一は、自由と必然の統一という形でもとらえられるので、そのとき、絶対的に存在する精神の内面的なあゆみが、必然的なものと見なされ、人間の自覚的意思のうちに関心としてあらわれるものが、自由だと見な・
ウれます。こうした概念のつながりは形而上学的なもので、論理学の考察対象ですから、ここではそこに深入りはできません。>
 
 <一般理念の実現は、特殊な利害にとらわれた情熱ぬきには考えられない。特殊な限定されたものとその否定から一般理念は生じてくるからです。特殊なものがたがいにしのぎをけずり、その一部が没落していく。対立抗争の場に踏み入って危険をおかすのは、一般理念ではない。一般理念は、無傷の傍観者として背後にひかえているのです。一般理念が情熱の活動を拱手傍観し、一般理念の実現に寄与するものが損害や被害をうけても平然としているさまは、理性の策略とよぶにふさわしい。>
 
 以上の引用にとどめると、片手落ちになる。──
 <さて、個人の存在とその目的と目的の満足とが犠牲に供され、個人の幸福が偶然の要素に左右されるのを見、結局は個人を手段のカテゴリーのもとにとらえるほかはない、と考えたとしても、しかし、その個人のうちにも、最高理念のための手段だといって片づけられないような、なにかに従属するのではなく、それ自体で永遠にして神々しいものがあります。道徳心ないし宗教心がそれです。一般に、理性の目的が個人によって実現されるというときでも、個人の主観的側面たるその関心──その欲望、衝動、思いこみ、洞察など──は、たしかに形式的な側面にすぎないけれども、しかし、みずからの満足を追求する権利は十二分にもっています。>