『大論理学』ノート[3-1]
 
 
 
 

【第24回】第3巻、概念論
 
 ダーウィンは『種の起源』初版の末尾に<生命はそのあまたの力とともに、最初わずかのものあるいはただ一個のものに、吹き込まれたとするこの見かた、そして…かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見かたのなかには、壮大なものがある>と書き、第二版では<吹き込まれた>の前に<造物主によって>を補っています。
 
 八杉龍一氏(『ダーウィンを読む』岩波書店)によれば、書き加えられたこの一語をめぐってダーウィンと宗教観念の関係が大いに問題とされ、なかには有神論者と実証主義者の二人のダーウィンを云々する議論も展開されたということですが、ヘーゲルについてもまた、汎神論者で神秘主義的なヘーゲルとロゴスの運動の忠実な叙述者としてのヘーゲルの二人がいるといえばいえるのではないでしょうか。
 
 それはともかく、ここでは、論理学第3巻の序説──むしろ、論理学を含むヘーゲルの学の体系そのものの序説というべきでしょうか──を読んでいて、<生命または有機的自然は、そこに概念がはじめて出現するところの自然の段階である>とか、<論理学は、理念が究極の段階に至るまでの高揚を叙述するもの>であって<理念は、そこを出て自然の創造者となり、具体的な直接性の形式にまで歩み出る>といった文章に接したとき、『論理学』と『種の起源』との関係という論点がふと頭に浮かんだことを書き記しておくにとどめておきます。このようなテーマは研究者にとっては陳腐なのかもしれませんが、少なくとも私にとっては新鮮なものでした。
 
 ダーウィンによる自然の叙述とヘーゲルによる精神と歴史の叙述との関係。八杉氏によれば、ダーウィンのそれは類比と比喩が大きな方法的役割を担う仮説演繹体系であり、ヘーゲルのそれはいうまでもなく弁証法です。この両者の体系の関係を解明する鍵は、ヘーゲルがしきりと使う<叙述>という語が握っているようです。(1997.5.3)
 
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◆序言◆
 概念論をテーマとする論理学第3部は、「主観的論理学の体系」という標題で刊行された(1816)。論理学のこの分野の課題は、化石化した材料を流動化しその中に生きた概念を再び点火すること、あるいは古い都市を再構築することであり、その対象は真理である。
 
◆概念一般について◆
 客観的論理学(有論・本質論)は概念の発生を叙述するものであった。というのも、概念とは有と本質との絶対的統一だからであり、より詳しくいえば、概念は実体の弁証法的運動(因果性と交互作用)を通して発生するのだが、そもそもこの実体こそ有と合して現実性の中に入った本質だからである。
 
 ここで概念の生成の叙述、すなわち実体性の運動の過程を要約しておこう。
 まず、実体は即自的には現実性と可能性とを含む絶対的本質であり、向自的には絶対的な力、あるいは自己に関係する否定性である。
 次に、実体の規定的な相関関係の中で、この二契機は二つの実体──それぞれ受動的実体、能動的実体──となり、ここに原因・結果という現象が生じる。
 最後に、このような<因果性の仮象の啓示>としての交互作用を通して実体はより高次のもの、すなわち概念・主観へと推移する。この推移は実体的相関関係に内在する必然性の顕在であり、<概念がその必然性の真理であり、自由が必然性の真理である>ということにほかならない。
 
 すでに指摘したように、スピノザの体系は実体の立場に終始するものであって、実体の開示としての概念の生成へと叙述を進めない点で欠点をもつものであった。
 しかし、ここで強調しておかなければならないことは、スピノザの立場は一個人の恣意的な思弁の戯言なのではなく、むしろ思弁が必然的に立たざるを得ない立場なのだということ、そしてこれに対する唯一の反駁は、その立場をまず真と認め、次にそれを<自分自身からして高次の立場に高められるようにするという点>にのみあり得るということである。
 なぜならば、反駁は外部からなされるべきではないからであり、<真の反駁というものは相手の手許に飛び込み、相手の勢力圏内で立ち廻るのでなければならない>からである。
 
 概念は自由の国である。というのも、即且向自的な同一性が同時に被措定有としてあり、かつこの被措定有は自分自身に関係するものとしてまさにその同一性だからである。このように<即且向自有がそのまま被措定有としてあるから、概念は自分自身への単純な関係においてありながら絶対的な規定性である>。
 そして、概念は自分自身との同等性として普遍であり、自分に関係する否定・規定性であるという意味で個別である。普遍と個別はそれぞれ全体性であり、この二元性は対立として現われる。<しかしこの対立は一方がつかまれ、云い表わされるときには、他方もまた直ちにつかまれ、云い表わされるというような仮象である。>
 
 以上が概念の概念である。それは常識的な理解に背馳するかも知れないが、概念の学においては、概念の内容と規定は<われわれの背後にあるものであるところの内在的演繹>によって保証されるのみである。
 
 概念が<それ自身として自由であるような実存>にまで達するならば、それは自我・純粋自意識にほかならない。
 自我は第一に普遍──<[あらゆる規定性と内容との]捨象として現われる…否定的態度を通じてはじめて自分との統一であり、またその点であらゆる規定有を自分の中に解消したものとして含むような統一>──であり、第二に個別性──<自分を他者に対立させ、他者を排斥する絶対的な規定有>すなわち<個性的な人格性>──である。
 このような普遍であると同時に個別であるもの、即且向自有であると同時に被措定有であるもの、あるいは二契機が区別されると同時に統一されているものこそ、概念としての自我の本性である。
 
 カントが<統覚の根源的−総合的統一>として概念の統一を認識したことは、理性批判の最も深く正しい見解であった。
 しかし、カントにあっては、<概念はただ直観を通して与えられた多様の関係としてのみ妥当性をもつ>ということがその先験哲学の根本命題の一つなのであり、これと関連して概念は単に形式的なもの、そこから実在性を引き出すことができないもの、したがって認識とその対象との一致として定義される真理──<実際これは大なる、いや最も価値のある定義である>──をもたないものと見られることになるのである。
 
 そこでまず、カントにおいて概念の前提とされている直観や表象について<純粋論理学としてのわれわれの学>の立場から述べるならば、それらは<自意識的な精神に所属するものであるが、この精神そのものは論理学のなかでは考察されない>。
 直観・感情は直接的な有の規定性の中にあるものであり、また表象・知覚は本質または反省の段階に高まったものであって、これらはいずれも論理的規定が自然の中でとる諸々の具体的形式(時間、空間など)と同様、論理学とは関係がないのである。
 
 また、概念は自意識をもつ悟性の作用、つまり主観的な悟性と見るべきものではない。それはむしろ<自然、並びに精神の一段階をなすところの即且向自的な概念>である。生命、すなわち有機的自然がまさにその段階なのであって、そこにおいてはじめて概念が、ただし思惟しない概念が出現したのである。
 概念の論理的形式は、このような自然の概念の非精神的な形態にも精神的な形態にも依存しない。これらのことは、論理学以前にその意味を明らかにしておかなければならないものなのである。
 
 カントの先験哲学について次に問題となるのは、悟性が、先行する所与の経験的素材、すなわち直観と表象との多様を統一し、そこから実在性を獲得するとともに抽象によってこれを普遍性の形式(概念)に高めるというその見方である。というのも、そこでは悟性が概念にとって無用なものとして捨象(抽象)する素材こそ、概念から取り除かれることができない実在性そのものだとされるからである。
 
 確かに概念は実在性との統一により理念へと高まらねばならないものであるが、しかし概念が自らに与える実在性は外的なもの(直観と表象を通して与えられる素材)であってはならず、概念自身から導出されなければならない。
 なぜなら、<哲学は単なる事実の物語りであるべきではない>からであり、むしろ事実の中にある真なるものの認識に基づいて<物語りの中に単なる事実として現象しているものを概念的に把握するのでなければならない>からである。
 
 カントも「先天的総合判断がある」というその最も重要な思想において、この考えを取り入れた。ところが、総合という言葉そのものがすでに外面的統一の観念に陥る傾向を帯びていたのであり、結局、概念を心理学的反映としてとらえる立場、直観の多様によって制約されるものとする主張に立ち戻っている。したがって、カントにあっては<客観と概念との統一の中に成り立つ真理は、結局は単に現象にすぎない>ものとなるのである。
 それというのも、<彼は感性的素材、直観の多様に余りにも強くひかれたために、その支配から脱して、概念とカテゴリーをそれ自身として考察することにならず、思弁哲学にまで達することができなかった>からである。
 
 これに対して、ヘーゲル論理学第3部が究明しようとするのは、<概念が概念の中で消失している実在性を自分の中で、また自分の中から如何に形成するかということの叙述>である。すなわち、概念が<その形式的抽象の中で自分の不完全であることを明らかにし、そこで概念自身に基く弁証法によって実在性に推移し、自分の中から実在性を産出する>という意味での「演繹」過程の叙述、あるいは<理念が究極の段階にまで至る高揚>の叙述である。
 
 ところで、ヘーゲルの学の構想においては、究極の段階にまで至った理念は<そこ[論理学]を出て自然の創造者となり、具体的な直接性の形式にまで歩み出る>のであるが、<しかし、その概念は具体的精神として自分自身に成るために、この直接性の形態をも再び打ちこわす>。つまり、論理学に続く哲学の部門である具体的な学(自然哲学・精神哲学)にあっては、論理学におけるロゴス・概念が<内的形成者>としてその内に保持されるのである。
 
 これらの具体的な学と比較すれば、論理学は形式的な学である。ただしそれは<真理そのものの純粋理念を内にもつところの絶対的形式の学>であって、それ自身の中にその内容・実在性をもっているのである。したがって、<この形式は普通に論理的形式と見られるものとは全くちがった性質のものである>。
 
◆区分◆
 概念は実体の弁証法的運動を通して生成したものであるが、最初は一般に直接的なものであり、単なる悟性の領域として現われる。そこでは概念は単に措定されたものであって、主観的な思惟、事物に対する外的な反省でしかない。この段階の概念は主観性であり、あるいは形式的概念である。(第1篇「主観性」)
 
 ところで概念の諸規定の内的(主観的)な本質は概念の同一性にあるのだが、この同一性は諸規定を弁証法的運動の中に投じ、それらを個別化する。それとともに概念と事物の分離が止揚され、諸規定の真理としての全体性が出現する。これが客観的概念である。<客観性は概念の内面性から現われ出て、定有に推移した実在的な概念である。>(第2篇「客観性」)
 
 最後に、客観性の中で自由の形式をもつ概念、すなわち完成に達した十全な概念が理念である。理念の領域における理性こそが自己を露にした真理であって、そこにおいてこそ概念は自由である。<というのは、概念はこの自分の客観的世界をその主観性の中で認識するとともに、またこの主観性を客観的世界の中で認識することになるからである。>(第3篇「理念」)
 
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◆ヘーゲルの「精神」とレーニンの「物質」とが切り結ぶ瞬間。
 その一。<対象は思惟の中にあるときにはじめて即且向自的となる。対象が直観または表象の中にあるときは、それは現象である。>──レーニンは『哲学ノート』(松村一人訳)にこの文章を書き抜き、次のコメントを記している。すなわち、<直観から客観的実在の認識へ>、あるいは<ヘーゲルはカントの観念論を、主観的観念論から客観的および絶対的観念論へ高めている>と。
 その二。<…概念も自意識的な悟性の作用、主観的な悟性と見られてはならない。むしろ概念は自然、並に精神の一段階をなすところの即且向自的な概念である。生命または有機的自然は、そこに概念がはじめて出現するところの自然の段階である。>──同様にレーニンは次のコメントを記している。すなわち、<客観的観念論が唯物論に転化する「前夜」>と。
 その三。論理学において究極の段階に至るまで叙述された理念がそこを出て<自然の創造者>になるという文章に対してレーニンが書き記したコメント──<はっはっ!!>
 

【第25回】第3巻第1篇第1章、概念
 
 普遍性・特殊性・個別性は「三個の」規定的な概念だが、ここに出てくる数は概念の諸規定を把握する上で不適当な形式である。特殊的概念の節に続く註釈の冒頭でヘーゲルはそういっています。同様のことは有論の中で三位一体にも言及しつつ次のように述べられていました。
 
 ──最も高次の思想はただ関係の中でのみ概念的に把握されるものであって、それが数のような形式によって叙述されると死んだ運動のない諸規定になってしまう。<たとえば、一が三であり、また三が一であることを[数を使って]理解せよというのは無茶な要求である。…ところが逆に悟性は、このことを思弁的真理に反対する(例えば三位一体と呼ばれる教説の中に含まれている思弁的真理に反対する)ための手段に利用し、その思弁的真理なるものが明白な背理であることを指摘するために、元々一個の統一をなしている三位一体の三つの規定の数を算え立てるのである。>(第1巻第2篇第2章「A 数」註釈2)
 
 三位一体ならぬ概念の三規定の関係を要約するならば、まず絶対に無限で自由な概念である普遍(普遍性)が普遍・特殊・個別という規定的な概念へと自己を区別し(特殊性)、さらにこれらが自立的なものとして固定され(個別性)、概念の原[ur]−分割[teilen]としての判断[urteilen]へと推移する、となります。
 
 このように、概念が一にして三であるというときヘーゲルの叙述は込み入っているのですが、これを本文註釈中の表現を模して形式的に要約するならば、AはB・Cに対する差異的なもの・対立するもの・矛盾するものであるが、この対立の中でAはB・Cと同一のものであるとともにB・Cを自分の中に止揚しており、それらの真の根拠であって、同様のことはBとCについてもいうことができる、となるでしょう。
 
 しかし、虚心にヘーゲルの叙述の流れに身をまかせるかぎり、普遍・特殊・個別のうちで普遍こそが概念の中核をなすものであることは明らかです。少なくとも私は、「A普遍的概念」の節の詩的ともいうべき文章のうちにヘーゲルの高揚した精神を感じ取り、ひさしぶりに気持ちを高ぶらせてしまいました。
 ──というわけで、今回は「A 普遍的概念」まで。「B 特殊的概念」「C 個別」は次回へ。(1997.5.11)
 
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◆第1篇:主観性◆
 概念は最初は形式的・直接的な統一である。その区別(被措定有)は単純な仮象にすぎず、区別の契機(普遍・特殊・個別)は概念の全体性であり概念そのものであるにすぎない。(第1章「概念」)
 
 次に絶対的否定性としての概念は自己を否定的なもの(他者)として措定する。この分割において概念の統一は単に外的な関係であるにとどまり、自立的・無関心的なものとして措定された各契機の関係は判断となる。(第2章「判断」)
 
 最後に概念の統一が判断の弁証法的運動を通じて措定されたものとなると、判断は推論となる。推論の中では各契機が自立的な両項として措定され、両項を媒介し結合する中間[die Mitte]としての統一もまた措定される。両者ははじめは直接的に対立するものであるから、形式的推論における矛盾的な相関関係は互いに止揚しあい、概念は客観性へと推移する。(第3章「推論」)
 
◆第1章:概念◆
 ここで考察される概念は普遍性・特殊性・個別性の三契機を含んでいる。それは概念が区別することによって自分に与える三規定なのであって、それらはいずれも概念の一規定であるとともに概念の全体でもある。
 
◆A:普遍的概念◆
 概念は否定性が自分自身と無限に統一されたものとして絶対的な自己同一性である。このような純粋な自己関係が概念の普遍性である。普遍的なものは単純なものであるが、それは<絶対的否定性を通じて最高度の区別と規定性を自分の中に含むような単純なもの>なのであって、有とは異なり<自分自身の中に最も豊富なものをもつ>のである。
 
 普遍は単純な自己関係(絶対的同一性)でありかつ絶対的な媒介(絶対的否定性)である。この根源的統一の点で、第一に普遍は有のように他の規定の中で没落することはない。普遍は具体的なものに内在するその魂であって、生成(他の規定への推移)によって引き裂かれることなく自分を貫く<不変不滅の自己保存の力>をもっているのである。
 
 第二に普遍は本質(反省規定)のようにその他者に映現しない。というのも普遍における否定的規定は概念の中の被措定有としてあるからであり、したがってそこでは否定的規定は<否定的なものの自己同一性にすぎず、しかもこの自己同一性が普遍>だからである。
 
 この点で普遍はその諸々の規定の実体であるが、それは実体にとって偶然的なものであったものがいまや概念に内在する反省であるという意味においてである。すなわち、<概念は、互に異なり、互に制限しあう物または状態の内的同一性としての必然性ではなくて、絶対的否定性として形成するものであり、創造するものである>。
 
 したがって普遍とは自由な力である。それはまた自由な愛であり、限りない浄福である。というのも<普遍は全く自分自身として区別されたものに対する自分の関係であって、この区別されたものの中で普遍は自分自身に復帰している>からである。
 
 ところで本節では純粋な自己関係(絶対的な自己同一性)としての概念の普遍性について、つまりまだ規定性にまで進展してはいない概念について論じていたのであった。しかしこれまでに述べたのは規定性そのものについてであった。それというのも、規定性を論じることなく普遍性について語ることはできないからである。すなわち<普遍は、その絶対的否定性の中に規定性を即且向自的に含んでいる>のである。
 
 この規定性は外部から普遍に付加されるものではない。普遍はまず直接的な否定の面で規定性一般を特殊性としてそれ自身の中にもち(第一の否定)、次に否定の否定として普遍は絶対的な規定性、つまり個別性・具体性である(第二の否定)。このようにして普遍は概念の全体性──空虚な抽象ではなく、内容をもった具体的なもの──となるのである。
 
 普遍が概念の全体性として現われる過程を詳説しよう。規定性とは要するに概念の中における全体的反省であって、それは一方で外に向かっての映現(他者への反省)であり、他方で内に向かっての映現(自分への反省)である。
 
 普遍はまず他者に対する区別を作りこれによって特殊性をもつことになるが、この特殊性はより高次の普遍の中で解消する。ところで普遍が相対的普遍にすぎないかぎり、普遍はその規定性の中で自分を保持している。すなわち<規定性は規定された概念として、外面性から自分の中に反転している>のである。この規定性は<普遍と不可分の規定性として類に所属するところの性格>をもち、この意味で規定された概念もまた<それ自身において無限に自由な概念>なのである。
 
 整理すると、外に向かっての映現は類を低次の類として限定し、より高次の普遍の中に解消させる(第一の否定)。この類はますます外に向かっていくのであるが、これを内に反転させる普遍こそが高次の普遍である(第二の否定)。
 
 生命や自我、有限精神はここでいう高次の類としての普遍であるとともに具体的な存在(個別)であり、その諸々の規定性も単に種・低次の類ではない。また、これらは規定的な概念であるかぎりより高次の概念の中で解消するのであるが、<しかし、この絶対的概念または無限精神の被措定有は無限な、透明な実在性であって、この絶対的概念または無限精神もこの実在性の中でこそ自分の創造を見ることができるとともに、またこの創造の中で自分自身を見ることができるのである>。
 
 このように<それ自身においてそのまま特殊性であるとともに、また個別性でもあるところの真にして無限な普遍>は、創造的な力として自分を自由に区別し規定し措定する。これによって諸々の区別は孤立した区別となるのだが、それは前に向自有・物性・実体として規定された有限者の孤立的な存立にほかならず、これらはその真相においては普遍性だったのである。
 
 しかもこの普遍性こそ概念の区別の一つとしての形式なのであって、これら諸々の区別にこそ<概念そのもののこの最内奥においてのみつかまれ得るはずの概念の創造作用>を見ることができるのである。
 
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◆中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波書店)によれば、ヘーゲルはその哲学体系にヤコブ・ベーメの聖霊論的な思考から多くのものを取り入れており、それが最もよくあらわれているのが概念論であるという。
 ここでいうベーメの思考とは<キリスト教思想の原型のよみがえり>であって、西方教会によって「フィリオクエ」(子とともに)の一句がつけ加えられる以前の東方的な三位一体論にほかならない。(東方:「聖霊は父から発出し…」、西方:「聖霊は父と子から発出し…」)
 
 同書によれば、フィリオクエの改変を通して「父と子」の結びつきが神の本質となり、聖霊はそこから流出する個別性・多様性になる。その結果、父・子・聖霊が互いの内部に陥入しあう矛盾に満ちた否定的な(神の本質は語りえないものとする)東方的な三位一体論は解体され、二項対立的な形式論理でもって神の本質が思考されることとなった。
 これに対して、ベーメが創造した三位一体論は聖霊(ガイスト)を父と子から自立させたもので、まさにローマ化される以前の東方的なそれにほかならない。<ドイツ的な三位一体論は、こうして、「聖霊論(プネウマトロジー)」として、発達をとげるようになったのだ。このときから、「ガイスト」というドイツ語は、特殊なドイツ的な意味をもつようになった。…そののちに発達することになる、ドイツ観念論のもつ非西欧性ないし反西欧性の根源が、ここにある。>
 
 中沢氏はいう。このようなベーメの三位一体論のエッセンスを論理学の概念にうつしかえることによって、つまり「普遍−特殊−個」の三つのモメントを「父−子−聖霊」という神の三つのペルソナに対応させることによって、ヘーゲルはアリストテレス以来の形式論理学を完全に弁証法化してみせたのだと。
 
◆ヘーゲルの「概念」とゲーテの「原型」について。河本英夫『自然の解釈学』(海鳴社)によれば、ゲーテ自然学の方法は類型の直観的な統把に始まるのだが、類型のもっとも単純化された典型が「原型」である。<この典型例に重ね描かれた現実の形態以上のイデアールなあるものと、それを結節とした個々の具体的形態の間の系列的な変化の総体が、ゲーテ自然学の中心的な核となるものであり、植物学、動物学、地質学、色彩論を問わず共通に見出される構造である。その意味では一種の体系的構成をとるのである。>
 
 このような学の構想は、ゲーテを含む18世紀当時の新分類学が<個体総体の個別性を同時に捉えようとするもの>であったことにつながる。しかし、たとえばキュヴィエの分類が個体を脊椎動物・軟体動物・関節動物・放射動物という四つの段階的な特性(型)のうちに固定するのにたいして、ゲーテの「原型」はすべての個体の形姿をその中に包摂しようとするものであって、なんらかの型に特定することができないものなのである。すなわち「原型」は<同時にメタモルフォーゼにおける、一つの形態と他の形態との間をつなぐ暗黙の結節となるべきものである>。──この「原型」こそ、生けるもの、分泌するもの(ノヴァーリス)としての「概念」そのものではないだろうか。
 

【第26回】第3巻第1篇第1章、概念「B 特殊的概念」「C 個別」
 
 ヘーゲルは、普遍性・特殊性・個別性という概念諸規定の関係を記号や象徴で表現することはできないと書いています。それではどうやって概念を表現すればいいのかというと、言語による叙述がそれだというのです。<人間は理性特有の表示手段として言語をもっているものだから、それよりも不完全な叙述方法を探し廻って、それで苦しもうとするのは、馬鹿な話である。>(「B 特殊的概念」註釈)
 
 実際、『大論理学』が概念を言語で叙述したものなのですから、ヘーゲルはまさにこのことを身をもって実践しているわけです。しかもその叙述は、概念諸規定の相関関係を主題的に「語る」とともに、叙述そのものの総体でもって概念の実相をあますところなく「示す」という二重化された構造をもっているのです。(少なくとも私はこのような意味での「叙述」として『大論理学』を読んでいます。)
 
 最近、現代書館から出ているイラスト版 FOR BEGINNERS シリーズの『東洋思想』(R.オズボーン/小幡照雄訳)を眺めていて、興味深い記述をみつけました。引用します。<ヘーゲルは、明晰でわかりやすい言葉で説明できなければ、真であることはできない、と言っています。一方、老子は、生命の真実は言葉で説明できない、と言っているのです(面白いことに、ヘーゲルには東洋思想の影響が見られますが、この問題はここでは論じないことにします)。>
 
 ここで省略された部分をぜひ詳しく知りたいと思うのですが、それはおくとして、私が興味深いといったのは、言葉では説明できない(「語る」ことができない)とされる真実を「示す」言語表現をたくみに駆使しているのはむしろ東洋思想の方なのでないかということ(たとえば法華七喩と評される「法華経」の教え)、そしてヘーゲルの叙述にもこのような意味での東洋思想(たとえばユダヤ教)の影響が色濃いのではないかと考えたからです。
 
 語るとか示すとか、ウィトゲンシュタイン風の語彙を強調したことには意味があります。私はウィトゲンシュタインの言語論はまぎれもない宗教言語論であるという仮説を立てているのですが、ここでいう宗教言語(教えの言説)の本質は、語りえぬものの比喩による差し示しにあるのではないかと考えています。言葉を超越したものを言葉で差し示すこと──このような逆説的な叙述形態にこそ、概念を表示する言語の可能性があるのだと思います。(1997.5.18)
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 ◆B:特殊的概念◆
 直接的で無規定的な純粋な普遍性(類)の中で絶対的否定性としてあった区別が、概念の規定性である特殊性(種)を措定する。この規定性は有や質的存在に所属するそれのように彼岸としての他者に関係するものではない。したがって、普遍(類)は特殊(種)の中にあって不変であり、特殊はそれ自身として普遍である。
 
 ところが、このような概念の規定性を形成するものこそが無規定的な普遍(純粋概念)であったのだから、実は概念自体が一つの特殊であることになる。この意味で普遍と特殊はともに特殊(規定的概念)である。ここに出てきた普遍、つまり規定的な普遍は抽象的普遍にすぎないものであり、悟性の分野に属するものである。
 
 概念が一般に空虚であると非難されるときには、このような悟性の能力を表わすものとしての概念が、すなわち抽象的普遍(あるいは没概念的な概念)が想定されている。抽象は規定的概念であり何らかの規定性をその内容としてもっているが、それが<概念の展開と実現の始源と本質を含むもの>としての区別の原理ではない点で一面的であり、したがって抽象は空虚な概念でしかないのである。
 
 悟性は抽象的普遍性の形式によって具体的なものを抽象的な諸規定に分解し、これらの規定性(有限的なもの)に固定性・不変性を与える。しかし、この単純化を通して悟性は同時にそれらの規定性を先鋭化し、規定性が自らその反対者に推移する能力をもたらすのである。<如何なるものであれ、それが到達し得る最高の成熟、或いは最高の段階は、それの没落の始まる段階である。>
 
 だが、悟性が到達できるのはここまでである。このような規定的・抽象的な概念を条件として、そこから理性の能力が、すなわち<抽象的普遍性に対立する弁証法的な力>によってそれらの規定性を統一にまで連れ戻す理性の働きが始まるのである。
 
 さて、規定的概念についての以上の論述を通して、<規定された規定性>あるいは<自分自身に関係する規定性>をめぐる叙述(純粋普遍と規定的普遍との関係)が展開されていた。それこそ個別性である。普遍性がそのまま特殊性であり、特殊性もまた即且向自的に個別性だったのである。個別性はさしあたり前二者に対立するものとして立てられるかぎり、概念の第三の契機と見られなければならない。
 
[註釈]われわれは合理的なものを非合理的に認識する「経験的論理学」という奇妙な学問をもっている。この学問は経験の中から様々な概念の分類をもちだしてくるのである。たとえば明瞭性に基づく分類は心理的なもの(主観的表象)の分類にすぎず、判明性に基づく分類は、本来であれば概念の規定性あるいは内容として把握すべき徴表(メルクマール)を外的で偶然的な状態においてとらえている。さらに単純概念・複合概念の区別は、単純性を内的区別によって規定されたものとして概念的に把握することなく、複雑性を全く外面的な関係においてとらえる児戯に陥っている。
 
 また反対概念・矛盾概念の区別は、差異性と対立という反省規定を相互に無関心なものとしてとらえているのであって、ここには<弁証法の思想、この区別の内的な空しさという思想>が欠落している。さらにまた従属概念・同位概念の区別も、普通に考えられているそれは概念諸規定の関係を固定的なものしてとらえ、そこに弁証法的な発展を見ないものであって、概念諸規定の相関関係を記号化しようとする試みもこれと同根である。
 
 ところで、このような記号化の試みを引き起こした誘因の一つは、普遍性・特殊性・個別性が相互に量的関係(外延の広狭による比較可能性)にあるとする見方であろう。概念は有のカテゴリーと反省諸規定の根底であり全体性なのだから、なるほど量的規定もその中に含まれている。しかし、概念のような<緊密な全体性>は数関係や空間関係によっては把握できない。概念を把握するのはただ精神だけである。空間的図形や代数記号はもとより、象徴も概念の表現や認識にふさわしくない。むしろ象徴から感覚的随伴物を切り捨てることによってはじめて概念に近づくことができるのである。
 
◆C:個別◆
 普遍のもつ規定性(絶対的否定性)が自分に反省し内へと映現することによって特殊は普遍となり、他者へ反省し外へと映現することによって普遍は特殊となった。したがって、そこ(規定性すなわち特殊)から再び普遍へと復帰する途にも二通りある。一つは規定性を捨ててより高次の類へと昇る抽象であり、いま一つは規定性の中を個別性にまで降っていくことである。概念は個別性に至ってはじめて自分自身を把握することになる。
 
 抽象的普遍にあっては、純粋普遍がそれによってのみ自己関係であったところの否定性は単なる制約として外部にある。したがって、抽象的普遍は個別性(個人と人格性との原理)を自身の中にもたない。ところが、抽象は具体的なものを分離しその諸規定を個別化するのであるから、これらの抽象の所産こそがむしろ個別的なものである。したがって、抽象的なものこそが抽象的普遍と個別的内容との統一であり、その反対物である具体的なものであることがわかる。
 
 これと同様のことが特殊にもいえる。なぜなら、特殊は規定的普遍(抽象的普遍)にほかならないからである。こうして<抽象的規定性の面だけから見るとすれば、概念は普遍、特殊、個別という三つの特殊的な規定をもつことになる>のだが、個別性が特殊的な概念規定の一つであることになると、特殊性は概念のすべての規定を包容する全体性であることになり、まさにそれらの規定の具体的なもの、すなわち個別性そのものとなる。特殊性は規定的な普遍性でありかつ個別性であり、したがってこれらの直接的統一である。<このような形式をとるものとして、特殊性は形式的推論の媒辞を形成することになる。>
 
 概念の区別を分離し固定的に見る抽象的な見方からすれば、概念は普遍、特殊、個別と数え得るものである。しかし本来、個別性の中では概念の三規定は分離できない。というのも、<規定的概念がその規定性の中にありながら、全体的概念であるという規定をもつこと>こそが、個別性による規定的概念の自己復帰にほかならないからである。
 
 このように個別性は概念の自分自身への復帰である。それと同時に概念は個別性を通して外へ、現実性へと歩みでる。たとえば自然が無限に多様な種と類をもつこと、あるいは精神が表象の無限の多様性の中に低迷していることは、いずれも概念がその区別を自由に解放した結果である。
 
 ただし、これらのもの(概念の自己外存在)は空虚な抽象面以上のものと見られるべきではない。それゆえ抽象は普遍と特殊に内在的なものであり、両者は抽象によって具体的なもの・区別となる。そして、個別は措定された抽象である。<個別は概念を、その有の観念的契機の面から直接的なものとして規定する抽象である。>この意味で質的な一者あるいは「このもの」こそが個別であり、普遍はこれらに共通なものであるにすぎない。これが個別に関係する普遍(個別性の概念の契機であるところの普遍性)について人々が普通にいだく最低の観念である。
 
 実存という反省の領域にあっては、個別による抽象は自立的で自己反省したものとしての諸々の区別的存在を措定する。これらの区別的存在は相互に映現し合う関係(本質的関係)にある。このように<自己を規定的なものとして措定する個別性は、自分を外面的な区別の形で措定せずに、概念の区別として措定する>のである。
 
 こうして、自立的な諸規定の措定された統一としての概念は個別性において消失した。諸規定はもはや概念の契機(映現)ではなく、即且向自的に存在する。すなわち規定的なものそのものが全体性となったのである。ここに至って概念は自己分割し、個別性となった概念は判断として措定されることとなる。
 
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◆三位一体論について。山田晶『アウグスティヌス講話』(新地書房)から。──
 父と子と聖霊の関係は、ニケア公会議(325年)においてギリシャ語を使って次のように定式化された。すなわち三者はウシア(本質)においては一であるが、ヒュポスタシス(土台・基礎・実体[substance])においては三であると。
 ここに出てくる「ヒュポスタシス」はプロティノス哲学における重要な概念である。この哲学ではまず万物の根源・超越者としての一者(ト・ヘン)が在り、そこから理性(ヌース)が、さらに理性から魂(プシュケー)が出てくるのだが、この一者・理性・魂がヒュポスタシスなのである。
 しかしギリシャの教父たちが父・子・聖霊をヒュポスタシスと名づけたとき、その内容はプロティノス哲学とは非常に異なったものになっている。すなわち、プロティノスにおけるヒュポスタシスは「一者→理性→魂」と下方に流出し三者は無条件に同一のものではないのに対して、三位一体論におけるヒュポスタシスは──子と聖霊は父から発出するのではあるが──それぞれ独立の相互に区別された性格をもっているのである。このことを強調するために、父と子と聖霊は「ウシア」において一であるとされた。
 
 ところで、西方教会では先の定式はラテン語で表記された。その際、ウシアはエッセンチァと、ヒュポスタシスはペルソナと訳されたわけだが、さらに聖霊が父から発出する際に子がどのようにかかわるかという問題をめぐって、ニケア・コンスタンチノポリス信経の「父より出ずる聖霊」という表現に「および子より」(フィリオ・クエ)を付加した。
 一方、東方教会では聖霊は父から「子を通して」発出するものと解されていた。そこでは三つのヒュポスタシスが「父→子→聖霊」と直線的な発出の線をたどるのである。これに対して西方教会では、三つのペルソナは「父と子→聖霊」と逆三角形のかたちを取る。
 <西方教会の三位一体論によれば、神は御自身を理解することにおいて御自身の似姿を御自身のうちに生み出します。かくて、神御自身のうちに生み出された御自身の似姿が「みことば」であり、それは生み出された者であるかぎり「子」と呼ばれ、それに対して生み出す者としての神は「父」といわれます。…ところでこのようにして神の「理解」のはたらきによって生み出された「子」と、それを生み出す神としての「父」との間には「愛」が生じます。「父」と「子」との間に生じた愛が、すなわち「聖霊」です。>
 
 ──ヘーゲルは、個別性とは<個性と人格性の原理>であるといっている。訳文にいう「人格性の原理」がペルゼーンリッヒな原理、つまりペルソナ的な原理をさしているのであれば、個別的概念としての普遍・特殊・個別が神の三つのペルソナに相当すると見ていいだろう。そして、純粋概念(普遍的概念)がウシアあるいはエッセンチァに相当すると見ることができるかもしれない。
 普遍的概念から特殊的概念へ、そして特殊的概念から個別へ、さらには概念の自己分割へと推移するヘーゲルの叙述は──中沢氏(『はじまりのレーニン』)がいうように──東方教会的な意味での三位一体論を下敷きにし、ヒュポスタシス(ペルソナ)の発出過程と相互関係を同時に示したものなのだろう。
 
◆和辻哲郎「面とペルソナ」から。──
 <面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。
 ここまで考えると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。…しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。>
 
 ──ここでいう面(顔面)は象徴ではない。概念もまたこのような意味での面(ペルソナ)である、といえるのだろうか。
 

【第27回】第3巻第1篇第2章、判断
 
 判断とは概念の根源的な自己分裂である、とヘーゲルは書いています。訳者註にあるように、それが語源的には成り立たない「分割」であるとしても、判断[urteilen]を原[ur]−分割[teilen]ととらえる点にこそヘーゲルが叙述する判断の運動、したがって概念の自己展開の本性が示されていることは間違いありません。
 
 植物の胚がすでに根、枝、葉などの特殊なものを含んでいて、胚の発展とともにこれらの即自的な存在が措定されることが「植物の判断」であるといった記述(『小論理学』166節補遺)とあわせて考えるならば、主観的な認識と客観的な事象を通底するロゴスの「生理」のようなものとして判断をとらえることができるでしょう。
 
 たとえば、いま上で「ヘーゲルが叙述する」と書いたのは、ヘーゲルが自分の考えとして、あるいは自分の脳髄の中で展開された思惟の様相として語るとともに、そのことを通してそれが自然界のあらゆる事象において成立している事柄と同根のものであることが示されている──養老孟司風にいえば、脳を考えるのは脳であり脳も一つの自然である!──という二重化された事態を表現したつもりだったのですが、このような「叙述」とは実は(間違った語源論も含めた)「言語の判断」だといえるかもしれません。
 
 ところで、<判断は根元的一者の根元的分割である>という表現に接したとき、私は近代カバラ創始者の一人イサーク・ルリア(1572没)の「器の破壊」理論を思い浮かべました。小岸昭『離散するユダヤ人』(岩波新書)では、ルリアの理論は近世初期の神秘主義者からシェリング、モーリトアその他のドイツ・ロマン派哲学者、ショーレム、ベンヤミン、アドルノ、ブロッホに至るまで、ドイツの思想家に計り知れない影響を与えたとされています。理論の概要を同書から引用します。
 
 <ルリアの考えによれば、一切であった神は、世界を創造するのに先立って自己自身の内部へ収縮・撤退した。かくて、神不在の真空地帯は、悪の跳梁をゆるす空間となった。>──神の収縮[ツィムツム]は神の「亡命」とも表現され(ショーレム)、1492年の大追放によってスペインから離散の旅に出たユダヤ人(カトリックへの改宗を拒んだ「セファルディ」あるいは改宗者「マラーノ」)の境遇に重ね合わせて考えることができるものです。
 
 <セファルディあるいはマラーノを襲った、このような破局を、イサーク・ルリアは壮大な宇宙のドラマのように描いたのである。この場合、神の内部から、神自身の展開として一〇個のセフィロト[神の根本属性]が、種々の純度をもって生まれてくるが、この一〇個のセフィロトは同時に神の器でもある。だが、最初の三つのセフィロト…だけが、神の原光を受け入れることができた。神聖な光の流れが沈下して下の七つのセフィロトの層におよんだ時、七つのセフィロトはその光をとらえられないどころか、それによって破壊されてしまう。>
 
 こうしてできた神の器の破片(殻[ケリッポト])の堆積の中から悪の力が生まれ、ディアスポラの境遇にあるユダヤ人とともに神の臨在[シェキーナ]もまた追放の身の上にあることとなるわけです。
 
 <以上が、器の破壊…の概要であるが、これには破壊された器の修復「ティクーン」という最後の弁証法的展開が接続している。すなわち、いつの日か神聖な火花が殻「ケリッポト」から解放されることがあるとすれば、神聖な光の追放と流謫もまた終わりを告げたことになるのであり、ここに人間と宇宙の救済が成就されることになる。…したがって、追放あるいは流謫は、逆に見ると、悪の持つ力を奪い、聖なる光をその捕縛状態から救済することを目指すことになるのだ。ルリアのカバラ思想によれば、個々の人々が各自の魂に課せられた「ティクーン」の使命を果たした時、世界は調和ある状態に達し、メシア時代の幕開けにいたるという。>
 
 長々と引用しましたが、ヘーゲルのいう悟性の領域にこそルリアのいう悪の力が宿るのだとか、器の破壊から修復へと至るプロセスこそが概念論の叙述そのものであるなどといいたいわけではありません。ルリアの理論について何事か語れるほどの知識をもちあわせているわけではないからです。
 
 ここでは、収縮・破壊・修復というもう一つの弁証法的展開の端緒(収縮)が神性の「流出」とは全く異なる概念であるのが実に新鮮だったこと、ヘーゲルのいう概念の自己分割としての判断と器の破壊との関係、あるいは判断へと至るプロセス(純粋概念→規定的概念→個別)と収縮との関係に思いをめぐらせるのは実に刺激的であったこと、以上を報告するにとどめておきましょう。
 
 さて、いよいよ判断、推論へと読み進める時を迎えました。いよいよと書いたのは、私が『大論理学』の中でもっとも読みたかった箇所だからです。(その理由については次回にでも書こうかと思っています。)ここから先はこれまでのペースを変えて、時間をかけ腰を入れて読み込むことにします。(私事錯綜の時を迎えていることと週末の数時間をマッキントッシュの前で過ごすのにやや疲れてきたこと、とりわけ後者が本当の理由なのかもしれません。)
 そういうわけで、今回は判断についての総論部分まで。「A 定有の判断」以下は次回以降。(1997.5.25)
 
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◆判断◆
 判断は概念自身による規定作用(規定的概念の措定)にほかならず、概念の最初の実在化、すなわち<[概念が]規定的な有としての定有の中に這入ること>である。このように、判断とは無規定的な概念に対して規定的概念を措定する作用なのだが、いまここに出てきた区別(規定的概念と無規定的概念との区別)が判断の二規定としての主語と述語に対応するのである。
 
 主語と述語は、判断の中ではじめてその規定を獲得すべきものである。したがって、それらはまず差し当たっては無規定的なものであり、名前以上のものではない。ところが名前は概念と対立するものなのであって、この(名前と概念との)区別が判断そのものの中に「主語=名前(あるいは直接的に存在するものを表現する名前)」「述語=概念(あるいは普遍・本質・概念を表現する名前)」というかたちで出てくる。
 そこで次に判断における主語と述語との関係について、より立ち入った考察を加えておこう。
 
 日常的な観念に従えば、あるいは文法的・主観的な考察に従えば、主語と述語はそれぞれ相手の外に独立して存在する自立的なもの(言葉)であり、判断とはある主語に対して一つの述語を結合する作用である。しかし、述語は主語に付加されるものであるだけでなく、主語に帰属するものでもある。というのも、主語と述語を結びつける繋辞[Copula]は<述語が主語の有に属するものであって、単に外面的にそれと結合するのでないということを示している>からであり、真の判断であるためには<述語が普遍として特殊または個別に関係するということが必要である>からである。
 
 こうして主語は個別として、現実的な判断材料であるところの向自有的なものとして現われ、述語は普遍として、判断対象に対する反省であるところの即自有として現われる。そして、個別を普遍性に高め、それと同一のこととして即自的な普遍を個別のかたちをした定有に引き下げ向自有的なものにすること──これが判断の客観的な意味である。判断にあっては、主語は述語の中ではじめて主語であり(述語に包摂される主語)、述語はその存立をただ主語の中にのみもつ(主語に内属する述語)。この区別のない同一性こそが、主語と述語の真の関係である。
 
 ところで、概念の三規定(普遍・特殊・個別)は、概念規定の普遍性のゆえに主語と述語との関係の中にも現われる。第一に、主語と述語の積極的な同一性において両者の関係は普遍的である。第二に、述語の規定性が主語の規定性である点で、両者の関係は規定的な同一性でもある。第三に、主語・述語という自立的な両者がその否定的な統一としての主語・述語関係のなかで止揚されている点で、両者の関係は個別的である。
 
 もっとも、判断の中ではこの同一性はまだ措定されてはいない。というのも、判断の両項(主語・述語)の自立性は、概念が<根元的一者の根元的分割>としての判断の中でもつ実在性だからである。繋辞(「…である」)が主語と述語の規定的統一として、つまり概念として措定されるならば、判断はすでに推論へと推移していることになるだろう。この概念の同一性を回復(措定)することこそが、判断の運動の目標だからである。
 
 判断は概念の実在性であり、その進行は概念の展開そのものにほかならない。<判断の中に現われるものは、すでに判断に含まれているのであって、そのかぎり論証は指摘にほかならず、判断の両項の中にすでに存在しているものの措定としての反省にほかならない。しかし、この措定そのものもまた、すでに存在している。両項の関係が即ち、これである。>
 
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◆イサーク・ルリアの器の破壊理論について。ヨセフ・ダン/市川裕訳「ユダヤ神秘主義─歴史的概観」(岩波講座東洋思想第2巻『ユダヤ思想2』所収)から。──
 
 神・無限なるもの(エーン・ソフ)からの宇宙創造に関して<彼は一見論理的な問いを発する。エーン・ソフの外側には何も存在せず、場所も空間も存在しなかったとき、いったいどうやって、エーン・ソフは自己の外側に何かを創造するということを思索できたのだろうか。これが問いである。そうした願望が思索される前に、神は、エーン・ソフの純粋な神の精髄で満たされていない空間を創造しなければならなかったはずである。そうであれば、第一のセフィラー[神の根本属性を意味するセフィロトの単数形]が発散できるよりさらに前に、すでに存在の第一段階があって、それはこういう空虚な空間の創造でなければならない。
 その空虚な空間が生起する過程を、ルーリアはツィムツームと呼んだ。神の、自己自身の内への収縮、ある空間から離れて自己の「内奥」へ収縮するという意味である。…神は自身を自己自身の内に収縮させて、ある空間から離れた。それによって、そこに空虚な嵩が残された。ルーリアはこれをテヒルーと呼んだ。このテヒルーが、以後の創造の展開にとってふさわしい空間となった。ツィムツームの過程は、ある意味で、離散とみなすことができる。創造の歴史における最初の行為が肯定的な行為ではなく否定的な行為、つまりテヒルーからの神の離散である、という意味で。>
 
 このような文章に接すると、エーン・ソフと純粋概念、セフィラーと概念の三規定の関係が気になってくる。 ──ちなみに小岸昭『離散するユダヤ人』によると、エーン・ソフとは<一切の性質や属性を取り去った隠れた神>なのだが、<この隠れた神は宇宙にあまねく活動している神でもあるので、神は自らの本性の何らかの側面を表出する様々な属性[セフィロト]を顕現させてもいる>。また、<セフィロトという名称はユダヤ教の思弁的思想の最古の文典『創造の書』に由来するのだが、その意味は万物の基本的な諸力としての一〇個の塑形的な数(サファル=数える)を表している>。
 

【第28回】第3巻第1篇第2章A、定有の判断「a 肯定判断」
 
 考えているのは本当に自分なのだろうか。時折ふとそんな思いにかられることがあります。私が考えているのだ、と私がいっているのだからそれは間違いない、と私がいう。ここには法的な意味で有効な証人は不在です。しかも「考えているのは自分なのか」と問うているのはこの私自身なのですから、「私が考えているのだ」という私の証言はそもそも論理的に矛盾しているといわざるを得ません。
 
 考えているのが私ではないとしたら、本当に考えているのは誰なのか、あるいは何(どのような機序)なのか。しかしこの問いは私の「問題」ではありません。むしろそのように「本当のこと」や「考える主体」を問題にしてしまう意識のあり方の方が、あるいはそのような思考を強いる言語のあり方の方が別の意味で問題なのではないかと思います。
 
 ここで言語について考えはじめると、問題がますます込み入ってくるのは見やすいことでしょう。私は自分が考えた(と私が思っている)事柄を言語に託して表現します。その名宛人は自分自身であったり具体的な他者であったり不特定多数であったり時間を超越する存在であったりと様々ですが、いずれにせよこの社会にあって私は私に帰属する言葉に対して責任をもたなければならないのです。それというのも、その言葉たちが表現しているのはこの私の思想であり感慨でありその他諸々である(とされている)からです。
 
 しかし考えることは言語から独立しているわけではありません。語彙や文法その他ある言語を成り立たせている要素は、私の思考を拘束し誘導します。むしろ考えているのは言語の方であって、言語体系の内部での自律的な相互変換の操作が、あるいは言語表現の総体としてのアルシーブ[archives]における盲目的な編集過程こそが、考えているということの実相なのであって、私はただ私の脳髄を媒体として展開されている言語の運動を私自身の統治にかかるものと取り違えているだけなのかもしれない。
 
 脳という物質の集積体あるいは構造からみれば、思惟も意識も言語もすべて脳の異なった機能の一つです。これらがいわば三位一体的に錯綜することで、私が考えるという事態とそれにまつわる謎めいた「感覚」を成り立たせているとみることもできるでしょう。
 
 たとえば私は意図的に(時間を先取りして)言葉の繋がりを整序することができます。つまり「語る」ことができるわけです。しかしそのようにして語られた言語のかたちそのものが、私の意図とはかかわりのない何事かを「示す」ことがあります。私は語ることによって何者か私には疎遠なものを示してしまう。それを外側から観察すれば、隠された真意やら抑圧された深層心理やらあらかじめ失われた記憶の痕跡やら集合的な無意識やら神としか名づけようのない意思の顕在やらが透いて見えるというわけです。
 
 また語ることによって示すという機序を意識的に操作することによって、韻文、預言、呪言、教えの言説、プロパガンダ等々の特異な言説を生み出すこともできます。(このことを私は「タクト」というかたちで一般化して考えてきました。ちなみに有島武郎の『或る女』では、主人公・葉子の社会的な振る舞いにおける「手管」を表現する語として「タクト」が使用されています。)
 
 話が拡散してきました。突然なにを思って粗雑な感想を述べたてているのだと、けげんな思いを抱かれたことと思います。結論を急ぎます。
 
 先に私は「感覚」という語を使いました。「考えているのは本当に自分なのだろうか」と不可思議な思いにとらわれたとき、私を包んでいるのはそのような言葉でしか表現できないある独特の感覚なのです。だからそれを分析して言葉で述べようとすると、この感覚は曇り、やがては別のものになってしまいます。それでもその名残、余韻は残っていて、次のような思いとなって私のからだに染み込んでいます。
 
 この私の思考、私たちの社会の過程、歴史の推移、そして自然の成り立ちのそれぞれの根底には、何か共通した非人格的なものの働きがあって、それはたとえば数学や論理学がこれまでに扱ってきた素材や観念を通して表現されているのではないか。
 
 これが私にとっての「哲学の問題」です。それ以外の心身問題や自他問題や独我論の問題、観念論と唯物論の対立などは、少なくとも哲学の解説書で紹介されているようなかたちでは、私にとって「問題」ではなかったのです。それよりも目の前の異性との関係をどう築きあげればいいのかという「タクト」の問題の方がよほど大切なものでした。
 
 それではこのような問題について私自身はどのように考えてきたのか。ここでもまた考えているのは果たしてこの私なのだろうかという(決して不快ではない)感覚につきまとわれながら、私はまず、私たちの社会の過程とは錯綜した「推論過程」なのではないかと考えたのです。(その詳しい内容はここでは述べません。以前ポリロゴスに発表した「体系について」と題した覚書が現在までの「探究」の概要で、これはポリロゴスのホームページに掲載していただきました。)
 
 ここまで読んでいただければ意図は察していただけたと思います。前回のメールで私は、ヘーゲル『大論理学』の中でもっとも腰をすえて読みたかったのが判断、推論の章で、その理由については次回に述べてみたいと書きました。以上がその「理由」のあらましでした。
 
 私はまだヘーゲルがその生涯を通して「問題」性を感じ続けたものが何だったのかは鮮明につかめません。しかし私自身のそれは、『大論理学』を読み進めるうちにようやく自覚できるようになりました。これは一つの成果だと思っています。他の哲学者、たとえばウィトゲンシュタインをつきつめて読んでみることで、また別の問題をかかえていることに思いいたるかもしれません。「理解」しようとするのではなく「味わう」こと、そしてたまたま「味わう」ことができる哲学者にめぐりあえること、それこそ哲学書を読む醍醐味というものでしょう。(1997.6.1)
 
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◆A:定有の判断◆
 判断は概念と実在性の一致(真理)であるが、最初のそれはまだ直接的なもの、すなわち定有の判断・質的判断である。この判断はまた内属の判断である。というのも、主語がこの判断における最初のものでありかつ根底にあるものであって、述語はその基礎を主語においてもつ非自立的なものであるという形式をもつからである。
 
◆a:肯定判断◆
 定有の判断における主語と述語は、その直接性ゆえに単純な規定である。両者はまだ媒介によって内容のあるものとはされておらず、さしあたっては抽象的個別性(或る物一般としての主語)と抽象的普遍性(述語)として対立している。このように主語・述語関係がまだ媒介・否定を夫君でいない点で、この判断は肯定判断と呼ばれる。
 
 肯定判断の最初の純粋な表現は「個別は普遍性である」という命題である。この命題の客観的意義は、<概念から分れて概念から出て来たもの>である個別の変化性を表わすとともに、個別的な諸物の概念一般の中における積極的・肯定的な存立を表わしている。
 
 しかしこれを逆にいうと、普遍性もまた定有を与えられること、つまり<普遍が自分を個別にまで開示すること>という<普遍の開現>を表わしているのであって、それは<丁度、物が解消する場合に、物に内属する多様な特性が多くの物質に自立化されることによって個別化されるのと同じである>。この面からいえば、「普遍は個別性である」という第二の命題もまた肯定判断の中でいい表されている。
 
 ところで、このような主語と述語の交互規定に関して留意すべきことがある。それは、両者は判断の中にあるのだからそれぞれが概念規定という点で対立していなければならないということである。いいかえると、「個別は個別である」や「普遍は普遍である」といった同一命題にあっては、主語・述語の相互の関係は解消され、判断は止揚されてしまうのである。
 
 さて、肯定判断の第一命題「個別は普遍性である」は判断の形式を表わし、第二命題「普遍は個別性である」は判断の内容を表わしている。そして、肯定判断はこれらの二命題から成り立っているのではなく、むしろ内容と形式に関する二命題が一つの肯定判断の中に含まれ結合されているのである。
 
 そうであるとすれば、主語と述語はそれぞれ個別性と普遍性との統一として(たとえば主語は、第一の命題にあっては個別であり、第二の命題にあっては普遍である)、つまり特殊として規定されることになるが、その結果として生じる「特殊は特殊である」という命題はもはや判断ではなく、空虚な同一命題でしかないだろう。
 
 結局、個別性と普遍性は肯定判断の中では直接的なものにすぎず、両者はまだ特殊性に合一されることはできないのである。第一の形式に関する命題に出てくる個別(主語)は<直接的に向自的に存在するもの>であるがゆえに普遍性ではなく、第二の内容に関する命題に出てくる普遍(主語)は<無限に規定されている具体的なもの>であり、その全体性は<それらの規定性の悪無限的な数多性>であるがゆえに個別ではない。したがって、これらの二命題は否定されなければならない。肯定判断は否定判断として措定されなければならないのである。
 
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◆長谷川宏『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)第3章に、同氏による『小論理学』冒頭(19節)の訳文が示されている。<論理学の扱う概念は、「ある」とか「ない」とか、「性質」「大きさ」とか、「そのままあるもの」「自覚してあるもの」「一」「多」とかいった、よく知られた概念である。>
 これを岩波文庫版(松村一人訳)と比較してみると、<…有、無、規定性、量、即自有、向自有、一、多等々…>。
 
 たとえば即自有を「そのままあるもの」と、向自有を「自覚してあるもの」とそれぞれ置き換えることによって、翻訳で読むヘーゲルの文章がわかりやすいものになるのだろうか。私には必ずしもそうは思えない。そう思えないのは、私が「難解な」訳語にそれなりに馴染みつつあるからかもしれないし、長谷川氏が上掲書でいうように、ことさら難解にされたヘーゲルの文章を<哲学の前に香をたく>ようにして有難がる、その<香>としてそれらの訳語をみなしはじめているからかもしれない。
 
 哲学的文章、術語の難解さの問題は、一筋縄ではいかないように思う。即自、向自の例にかぎれば、原語の意味内容からの訳語よりも、むしろ原語の語彙としての成り立ちの形式を模倣した訳語の方が、ヘーゲルの思考の癖を如実に示していて面白いと私は考えている。
 
◆これに関連して、多田富雄『生命の意味論』(新潮社)第6章から。──
 
 <…「哲学」というのは、免疫反応における抗体のようなものである。「フィロソフィア」をそのまま日本語に置き換えたというようなものではなかった。…侵入した抗原「フィロソフィア」は、日本語の「自己」の中で処理されて、要素の再構成によってそれに対応する「哲学」という抗体を合成させた、と考えるべきであろう。「哲学」という新造語は、「フィロソフィア」という抗原に対する抗体であった。抗体を合成することによって、免疫系が異物である抗原情報を「自己」内部で処理できたように、「フィロソフィア」という概念を、日本語の「自己」の中に取り込み処理することができるようになったものと考える。
 その証拠に、「哲学」には「フィロソフィア」の本来持っていたいくつかの概念が欠けている。>
 
 漢文を和語に置き換えるのではなく返り点を打って読み下すこと、読み下すよりはそのまま素読すること、そのようなかたちでヘーゲルを読めないか。(そこまでいうなら、ドイツ語を本気で勉強するしかないだろう。)
 

【第29回】第3巻第1篇第2章A、定有の判断「b 否定判断」「c 無限判断」
 
 これまで「三」を基本として──整数論の術語を使えば、「三」を法[modulo]として──整然と進んできた叙述が、ここにきて綻びをみせ「四」へと移行します。もっともそれは次の推論の章で復元されるわけですから、「四」は判断の章に特有の事情がもたらした数なのかもしれません。このことに少しこだわってみます。
 
 有論では、有と無、或る物と他の物といった対立する「二」が出てきますが、しかしそれらは実際には「このもの」として特化できない同一のもの、つまり「一」にほかなりません。だからこそ量的関係としての「多」へと無理なく推移できるわけです。ここに出てきた「一」が同一性を表わし「二」が区別を表わすとすれば、「三」(あるいは「〇」∵3≡0[mod.3])が成を表わすと一応はいえるでしょうが、有論を特徴づけるのはそこで扱われる諸対象の相互移行可能性なのですから、有論は基本的には「一」の世界なのです。
 
 論理詞を使っていえば、有論で扱われる諸対象は連言「∧」(〜と〜)によって数え上げられ、否定「¬」と同値「=」を組み合わた「¬A=A」のかたちで表現される相互の移行関係も「一」またはその集積としての「多」の世界でのありふれた事態にすぎません。
 
 次に本質論では、「二」が決定的な役割を果たします。それは有論での「一」あるいは「多」とそれ以外の「二」や「三」(「〇」)との存在論的な違いが、本質論において主題的に取り上げられ構造化されるからです。そこから出てくるのは、たとえば類−種関係であり、ベン図によって表現される形式論理学的な集合間の包含関係です。
 
 論理詞を使っていえば、本質論で扱われる諸対象は選言「∨」(〜かつ〜)によって重ね合わされ、「¬A≠A」のかたちで表現される相互の映現関係も「二」によって階層化された世界における実在の産出過程を示すものとなります。
 
 最後に概念論では、有論の「一」と本質論の「二」が合成された「三」が初めてその本来のすがたを表わします。有論、本質論では合同式における法[modulo]として背後に潜んでいた「三」が普遍性・特殊性・個別性として、概念の「三」契機としてここで明示されるのです。
 
 概念論でのロゴスの自己展開のあり様を示す論理詞は含意「⇒」(〜から〜へ)なのですが、これは概念の自己分割とそこからの帰還を総体として表現しています。たとえば「三」⇒「〇」は普遍を、「三」⇒「一」は個別を、「三」⇒「二」は特殊を表わしているなどといった(途方もない)議論が展開できるかもしれないし、なによりもここでは「¬A⇒A」(あるいは「¬¬A=A」)というかたちで概念論の叙述の骨格が表現されます。
 
 ところで、本質論のところで触れたベン図は二次元空間に描かれるものですが、概念の三契機の関係を三次元空間で描くとすれば、それは正四面体になるのではないかと私は考えています。なぜかと問われても、「私の直観がそう告げるのだ」としか答えようがないのですが、正四面体にはいうまでもなく四つの面があってそれぞれが正三角形(俗にいう「正−反−合」の極めて安易な象徴!)になっていますね。
 
 ついでにいうと、五つの正四面体を四次元空間の中で合成すると「ペンタヘドロイド」という不思議な多面体ができます。あるいは、四つの点を三次元空間に等距離に配置すると正四面体が得られ、五つの点を四次元空間に等距離に配置すると「ペンタヘドロイド」が得られる。私はこの言葉をヘーゲルの子孫にして数学者・SF作家のルディ・ラッカーが書いた『思考の道具箱』で知りました。
 
 これは実に楽しい本で、たとえば「四」にまつわる物尽しは結構刺激的でした。若干の例をあげれば、四元素、知覚・思考・感性・直観(ユング)、算術・音楽・幾何・天文(プラトン)、数・論理・空間・無限(ラッカー)等々。自然界の四つの力やこれと密接に関係するかもしれない四種類のゼータ関数を加えてもいいでしょう。もちろんフーコーの知の平方四辺形も。
 
 ──以上、判断の章の「四」節構成に関する荒唐無稽なお話しでした。(もしかすると推論の章のライトモチーフは「五」なのかもしれないとか、有論は聴覚的世界を叙述し、本質論は視覚的世界を叙述しており、概念論はこれらの異質な感覚が結合された世界、すなわち言語の世界を叙述しているのだとか、私の直観はその他にもいろいろと囁くのですが、これくらいで止めておきましょう。)
 
 さて、「個別は普遍的である」から「個別は特殊である」へ、そして「個別は個別的である」へと定有の判断は推移します。このプロセスの中ではかつての有論の議論が集約・反復されているだけではなく、本質論の議論、概念論第1篇第1章の議論が重ね合わされています。その逐一を丁寧に復習していけば『大論理学』が染み入るように判るのではないかと思うのですが、それでは「勉強」になってしまうので、ここではヘーゲルの叙述がそのような立体的な、あるいは「彫塑的」な組み立てになっていることの確認に止めておくことにします。(1997.6.8)
 
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◆b:否定判断◆
 肯定判断は否定判断の中にその真理をもつ。第一に「個別は抽象的に普遍的なのではない」というかたちで、第二に「普遍は抽象的に個別的なのではない」というかたちで。そしてこれらは「個別は一つの特殊である」という一つの命題に還元される。ここでいう特殊は、<判断の中で展開された否定的関係を介して生じたもの>、すなわち<判断の関係の措定によって最初の媒介された規定として生じたもの>である。
 
 肯定判断から否定判断へのこのような推移は、判断における両項(主語・述語)と両項の関係(繋辞)との相関関係に基づいている。肯定判断における両項はそれぞれ直接的な個別と普遍であって、しかも一方は他方では「ない」。ここに出てくる否定的な関係ゆえに、肯定判断は否定判断へと措定されなければならなかったのである。
 
 ところで、否定判断の肯定的形式である「個別は一つの特殊である」において、特殊は普遍を含んでいる。それは、述語が単なる普遍ではなく一つの規定的なものであることを表現している。このように特殊性は否定判断の肯定的規定なのだが、それはまた個別性と普遍性の媒介者でもある。この意味で、否定判断は定有の判断の自己反省の媒介者となり、客観面からいえば<具体的な存在のもつ個々の特性の定有の中にある変化の契機>となるのである。
 
 否定判断の否定は単に最初の否定なのではなく、第二の否定あるいは否定の否定である。というのも、否定判断は肯定判断の述語の規定性を否定するのだが、規定性の否定がすでにして第二の否定であり、したがって個別性の無限な自己自身への復帰だからである。このような仕方で述語の全範囲が否定され、述語と主語との間にもはや何らの肯定的関係も存在しないことになると、これがすなわち無限判断である。
 
◆c:無限判断◆
 無限判断には、否定的−無限判断[S=¬(p ∨p'∨p"∨…)]と肯定的−無限判断[S=p ∧p'∧p"∧…]の二種類がある。そして、前者は「個別は個別的である」と表現され、そこにおいて主語がはじめて個別として、自己と同一のものである述語に連続するものとして措定されることとなる。また、後者は「普遍は普遍的である」と表現され、そこでは普遍性もまた諸々の区別されたものの総括となる。
 
 このような無限判断にまで至ると、それはもはや判断ではない。否定的−無限判断では主語と述語の区別が多すぎ、肯定的−無限判断ではただ同一性が存するのみで区別が欠如しているからである。もっともここで止揚されたのは定有の判断にほかならず、定有の判断において繋辞が含意していた事柄、すなわち判断の直接的な両規定が同一性の中で止揚(統一)されたということの明示にすぎない。この統一は再び、今度は直接的規定ではなく自分に反省した両項に分離し、判断は反省の判断へと推移する。
 
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◆1917年10月24日、結婚後4日目の午後、ケルト・リヴァイヴァルの中心人物であった詩人W.B.イエイツの新妻が、突然自動筆記をはじめた。驚くべきことに、<我等がここに来たのは、おまえに詩歌の隠喩[メタファ]を教えるためである>と、謎の伝達者は彼に語りかけたのである。
 妻の手によって書き留められ、やがて睡眠中の妻の口を通して話されることとなった事柄をもとに、イエイツは1925年“A VISION”を著し、1937年にはその改訂版を発表した。(W.B.イエイツ『ヴィジョン』鈴木弘訳,北星堂書店)
 
 興味深いのは、イエイツに対して明らかにされた事柄の内容よりも、むしろイエイツと伝達者たちとのやりとりの方なのだが(たとえば、伝達者の一人は庭でふくろうが鳴くのを耳にして<ああしたひびきを聞くと、たいへんいい気持ちになる>といったとか、イエイツが出す質問のなかに伝達者たちの使わない用語が出てくると憤激したなど)、ここでは『ヴィジョン』の中に書き残された「四つの機能」と「四つの原理」をとりあえずメモしておくことにしよう。(これら謎めいた四組の封印の解かれる日がいつか来ることだろう。)
 
 四つの機能──意志[Will]と仮面[Mask]、創造心[Creative Mind]と運命体[Body of Fate]。意志とその対象(あるいは「あるがままの姿」と「あるべき姿」)、思惟とその対象(あるいは「認識者」と「認識対象」)。<存在者が自身を独立した存在者として意識するようになるのは、「対立」と「離反」とにともなう明白な事実、すなわち、<意志>と<仮面>との情運的「対立」、<創造心>と<運命体>との知的「対立」、<意志>と<創造心>、<創造心>と<仮面>、<仮面>と<運命体>、<運命体>と<意志>の、それぞれにおける「離反」があるからである。>
 
 死後の生に密接に関連する四つの原理──外殻[Husk]、情念体[Passionate Body]、精霊[Spirit]、天上体[Celestial Body]。<<精霊>と<天上体>とは、精神とその対象(統合された神の理念)をいい、<外殻>と<情念体>とは、<意志>と<仮面>との関係に相当し、感覚(衝動、心象。自身に関連ある心象を聞いたり見たりする働き──耳、目など)と、その対象をいう。<外殻>は人間の肉体を象徴的に表現したもの。《原理》は相互葛藤をとうして現実を示現するけれども、なにものをも創造しない。>
 
 以上は、ヘーゲルとも『論理学』とも直接の関係はない。(強いていえば、イエイツは『ヴィジョン』の中でヘーゲルの論理学に三度言及している。)
 

【第29回】第3巻第1篇第2章B、反省の判断
 
 定有の判断において、直接的に与えられた主語(個別)をめぐって抽象的普遍から特殊へ、そして個別へと述語が運動していく様は、あたかも「20の扉」による謎解きのプロセスを見ているような気がします。
 そして、このようにして獲得された「ほかでもないこのもの」としての主語が、反省の判断において「いくつかのもの」から「すべてのもの」へと運動し述語と合体していく様は、いささか唐突ながら、私にアイリッシュの饒舌、たとえばジェイムズ・ジョイスの列挙法を思わせるのです。
 
 ただし、列挙は悪無限的な累進を出ることはなく、普遍は到達不可能な彼岸にとどまります。ヘーゲルのいい方をかりれば、<多数性は、それが如何に大きいとしてもあくまでも特殊性を出でず、総体性ではない>からです。<もっともその場合にも、概念の即且向自有的な普遍性が暗々裡に考えられてはいる。ところで、この表象が固執する頑迷な個別性と、その反省の外面的なものとを強引に超克して、総体性を全体性に、或いはむしろ定言的な即且向自有におきかえるものこそ、概念なのである。>
 表象が固執する頑迷な個別性。──しかし、ジョイスが列挙するのはたとえば川の名であり言葉なのであって、表象ではありません。悪無限的に列挙される語彙は、決して概念(普遍)の海へと行き着くことはなく、ただ流れる川の水を模した言葉の響きそのものとして際限もなくつながっていくだけなのです。
 
 ここで私が考えているのは、ヘーゲルが展開している思考とは異なった思考のスタイル、いうならば非−弁証法的思考の可能性についてなのですが、それは事実として存在しているのだから(あるいは存在しているはずなのだから)、可能性について考えるといういい方は実はおかしい。おかしけれどそういわざるを得ないところに、弁証法的思考のスタイルを「自然」として身につけてしまっている私(私たちとはいいません)の屈折があります。
 もっともそこでいう(私がそれと意識せずに身につけている)弁証法的思考のスタイルとは、これをよくよく反省してみると、たかだか単純な進化論的枠組みをもった皮相な歴史意識にすぎず、ヘーゲルの弁証法や唯物弁証法や否定弁証法や肯定の弁証法などのようにそれとして意識され鍛練されたものではありません。
 
 歴史は思い出であるとか運命であるとかその都度の発生(反復)であるとか、いささか軽率ながら「日本的」あるいは「古代的」という形容を冠することができるかもしれない歴史観は、その意味するところは漠然と判るような気がするのですが所詮頭だけの理解であって、いまのところ私にはそのような歴史観に心底からのリアリティは感じられません。
 かといって、ヘーゲルがそこに強烈な実在感を抱き続けたに違いない概念の自己展開のプロセスとしての弁証法は──時としてヘーゲルの叙述には言語以前の根源的な事柄が示されているという、大げさに言えば戦慄に近いものを感じることはあるものの──所詮は人間が考えたものであって、やや強引なところはあるが基本的にはよくできた理論以上のものではないという思いが抜け切れないのです。
 
 随分と難解な表現になってしまいました。今回読んだ文章に出てきた<溶解>とか<癒着(合体)>といった語彙(訳書107頁)に、あたかもエイリアンの繭に囚われた人間の死相を見せつけられたような不快なものを感じて、これとは違う思考のかたちもあるはずだと、精神のバランスをとってみたくなったのです。(1997.6.15)
 
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◆B:反省の判断◆
 反省の判断における主語は、個別そのものである。この個別性は定有の判断(肯定判断)の場合の直接的なそれではなく、<むしろ定有の判断の弁証法的運動一般を通じて生じたもの>であり、<定有の判断の諸規定の否定的同一性であるという規定>をもっているのである。
 
 また反省の判断における普遍(述語)も、定有の判断の場合の抽象的な普遍性あるいは個別的特性ではなく、総括された普遍性である。反省の判断における述語は一つの本質性を表わしているのだが、それは<多様な特性と実存との総合>としての普遍性なのである。
 
 定有の判断にあっては、主語が<根底に横たわるもの>と見られ、その規定の運動が述語の面において行われた(普遍→特殊→個別)。これに対して反省の判断にあっては、<根底に横たわるもの>は述語であり、規定の展開は主語の面で行われる(単称→特称→全称)。したがって反省の判断は量の判断であり、その客観的意味からいえば、偶有的な個別(主語)を述語が包摂する包摂の判断である。
 
◆a:単称判断◆
 反省の判断はまず「このものは本質的に普遍的なものである」と肯定的にいい表わすことができる。しかし「このもの」は本質的には普遍的なものではないのであるから、その否定的な表現は「このものでないものが反省の普遍である」となる。このように主語の単一性が非個別性(特殊性)へと措定されると、すなわち量的に拡大されると、それは特称判断である。
 
◆b:特称判断◆
 特称判断はさしあたっては「若干の個別は普遍である」という肯定的な形をとるが、それは若干のもの(特殊性)はまた普遍性に適合しないことを含意している。すなわち、特称判断は肯定判断と否定判断を同時に含んでいるのである。
 
 また、若干のもの(個別)は個々の個別とは切り離されなければならない。というのも、若干のものはまた普遍的な本性であり、類でもあるからである。<即ち、それは反省の判断の結果であるところの普遍性を予料しているのである。>
 
 ここに出てくる普遍性は「このもの」を根底にもち、その規定の進展は「このもの」の面で外的に行われる。そして、このようにして主語は普遍性(総体性)を獲得し、特称判断は全称判断へと推移する。
 
◆c:全称判断◆
 全称判断の主語がもつ普遍性は、すべての向自的に存在する個別を総括する総体性であり、比較によってこれらの個別に帰せられるところの共通性である。ところでこの総体性は、単称判断における個別性(主語)が即自的にもっていたものが反省の判断の運動によって措定され向自的になったにすぎない。
 
 ここに生じた普遍性は類であり、<それ自身において具体的なものである普遍性>である。<類は、すべての個別的な規定性をその実体的純粋性の中に溶解したものとして含んでいる。>主語としての類は、したがってもはや述語に包摂されない。
 
 こうして全称判断における主語と述語は同一となり、両者は繋辞の中に癒着し、反省の判断(包摂の判断)は止揚されるのである。この同一性が再び分離して新たな判断へと推移するとき、「或る類のすべての個別に属するものは、その本性上、類に属する」と表現される判断の両項の内在的関係、すなわち必然性の関係が新しい判断の基礎をなす。
 
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◆非−弁証法的思考について。松浦寿輝『折口信夫論』(太田出版)から。──
 折口信夫のいう「古代」は<通常の歴史研究のクロノロジーによって標定しうるような時空とは異質なもの>である。<折口の「古代研究」とは、歴史の「外」、ないしその「前」をめぐる思考のことなのだ。「前」と言っても、歴史の内部における相対的な「前期」のことではなく、歴史そのものの手前に位置している何ものかのことなのである。折口の「古代」はかつて現実に存在した過去の一時代のことではないし、折口の「発生」は物事の起源に一度かぎり起こって無を有へと転ぜしめた歴史的な出来事のことでなない。「発生」とは、あらゆる瞬間に絶えず発動され、現象を現勢化させつづける現在の力のことであり、「古代」とは、この力に瞳と字面とを唐突に密着したところに生起する無時間的な出来事の束のことにほかならない。>
 折口の思考の<過激なまでの非=弁証法的性格>について。<…或る意味で極度に厳密な論理性に貫かれていると見える折口信夫の思考に、完璧に欠落している唯一のものは、弁証法的な契機であろう。その理由は単純である。大嘗祭に、「綜合」の操作が占める場所がないからだ。大嘗祭は、容れ物を交替させながら同一なるものの永続を図る装置であり、正と反から第三のものが生誕するといった方向づけは、そこには皆無なのである。なるほどそこでは、外部からの「他なるもの」の周期的な訪れによってのみ内部の「同一なるもの」の同一性が維持されるといった巧緻な仕掛けの凝らされたトポロジー空間が差し示されていることはいる。しかしここで同一者と他者との間に、「綜合」の契機は決して介入しない。客はただ与え、主はただ受け取るだけなのだ。この贈与行為の不均衡が、きりのない反復を促しつづけているのである。>
 非−弁証法的思考もまた「発生」(反復)する。それはよくいわれる日本の自然(植物)の旺盛な繁殖力にも似て、生誕−成熟−死の弁証法的なプロセス(植物の「判断」)を<溶解>させてしまう。
 

【第30回】第3巻第1篇第2章C、必然性の判断
 
 AはBである・AならばBである・AはBかCである──これらの命題に接したとき、私はいつも頭の中にベン図を描き、初歩的な集合論の考え方に準拠して思考を進めます。たとえば、a∈A、b∈Bに関してΣa⊂ΣbであればA⊂B(AならばBである)、あるいは、a(∈A)に関してa∈Bまたはa∈Cでありb∈A・c∈AあればA=B∪C(aはbかcである)など。そして、このような形式的思考を通して何事かを判然と了解したつもりになるのです。
 
 しかし、そもそもベン図において集合AやB、Cを表現する図形が描かれる「場」とは何なのか、またそれはどこにあるのかと疑問を投げかけるや、明晰なはずの思考がたちどころに曇ってきます。
 
 いうまでもなく、私は判断が成り立つところの基盤は何なのかを問題にしているわけです。もっとも、ヘーゲルにいわせれば判断とは概念の自己分割にほかならないわけですから、その答えは概念(本篇第1章で論じられた概念)であるということになるのでしょう。そしてそのような概念の出自はどうかと問えば、有論・本質論を復習しなさいということに。
 
 ヘーゲルによれば、概念が概念自身を「場」として自己を探求することが判断です。あるいは、自己を成り立たせる器官を自己の内部において産出し、自己のかたちを措定することが判断であるといってもいいでしょう。
 
 私自身は、判断であれ推論であれおよそ論理的な思考過程が展開される「場」とは身体にほかならないのではないかと、漠然と考えてきました。論理的思考が発生する原−場(あるいは現−場)としての身体。たとえば、必然性の判断において措定される類−種関係は、身体において経験される諸感覚や諸感情の統合の過程で原体験されているものなのではないかということです。(この意味で、私は「器官なき身体」のアイデアと判断以前の概念とを対比させるのは、刺激的な作業であるに違いないと予感しています。)
 
 身体をめぐっては、それが超身体的なもの(たとえば創造主)の「道具」なのか「容器」なのかという二つのとらえかたがあります。山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書)の中で、ヴェーバーが『世界宗教の経済倫理』の「中間考察」で論じた<宗教的救済を目指す二つの対抗的な方向>が紹介されています。一つは「神の道具」となり勤勉な労働を通じて自己を陶冶していく方向(プロティスタントの「現世内的禁欲」)であり、いま一つは瞑想を通して「神の容器」としての身体に超神的宇宙秩序が降臨することをめざす神秘主義の方向(インドの宗教意識にその典型が見られる「現世逃避的瞑想」)です。
 
 私はそこに第三の方向、すなわち超身体的なものの出自を身体そのもののうちに求める方向があるように思うのですが、しかし、ここまで観念化された身体は一つの現実性であると同時に「魂」を内蔵した実在でもあるものなのですから(少なくとも私自身の「思想」の中身をよくよく吟味すれば、そうなります)、結局、ヘーゲルが緻密に論じてきた概念の概念を、特権的ではあるものの一表象にすぎない身体に託してイメージしているだけのことなのかもしれません。(1997.6.22)
 
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◆C:必然性の判断◆
 判断はいまや客観的普遍性をめぐるものとなった。この必然性の判断の中で、客観的普遍性は特殊性の実体的基礎をなすものとなり、類−種として規定される。
 
◆a:定言判断◆
 類は自分を種に分割する。類は種を包容し、種は類の中にその高次の普遍性をもつ。定言判断(例:薔薇は植物である)において、述語はそのような普遍性であり、主語は述語の中にその内在的本性をもつのである。
 
 ところで、定言判断における普遍性は必ずしも<最も近い類>ではない。ここで必然的なものは主語と述語の実体的同一性であり、主語はこの同一性に対して単に非本質的な措定有として、あるいは単なる名前としてあるにすぎない。主語は述語に対して一つの特殊であるが、この主語の規定性はまだ偶然的なものにすぎないのである。
 
 しかし、定言判断とは本来、客観的普遍性が自分を判断の中に措定したものだったのだから、この規定性は単なる偶然的なものとして措定されたものではない。こうして、定言判断は仮言判断へと推移する。
 
◆b:仮言判断◆
 定言判断では直接的な実存はただ一つ、主語としてあるにすぎなかった。これに対して仮言判断「もしAがあるなら、Bがある」では、直接的な実存は二つある。
 
 とはいえ、この判断の中で措定されるのは、直接的な二つの規定性(Aである・Bである)の間の必然的な連関(もし一方があるなら、他方もある)なのであって、両規定そのものが措定されるのではない。この必然性の中では、両項はそれぞれ他者の有として措定されているのである。
 
 仮言判断の両項の関係は自立的な両項の相関関係(根拠と帰結、制約と被制約、因果性など)としてあるのではなく、本質的な同一性の契機としてあるものである。したがって、仮言判断が真に措定するものは<概念の具体的な同一性としての普遍性>である。
 
 というのも、仮言判断における主語と述語の<有は他方のものの有であるから、まさにその故に、有は即自的には自分自身と他者との統一であり、従って普遍性である>からであり、ここでは普遍・特殊・個別という概念諸規定は自立的なものをもたない契機として、<ただこの普遍性の中で措定された特殊性であるにすぎない>からである。こうして、仮言判断は選言判断へと推移する。
 
◆c:選言判断◆
 選言判断「AはBであるか、またはCである」は概念の必然性、すなわち概念的な類−種関係を表現している。
 
 定有の諸判断における類は抽象的普遍性にすぎず、種も差異的で互いに無関心なものにすぎなかったが、選言判断における類は種に内在的な具体的普遍性である。また、経験的な選言判断にあっては、種は直接的に見出され外面的な原理(偶然性)に基づいて区別されるにすぎないが、(概念的な)選言判断にあっては、諸々の種は具体的普遍が自らの中にもつ区別の原理によって内在的に規定され互いに関係させられる。
 
 すなわち、選言判断においては、差異性に基づく反対対立的な概念としての種と相互に排斥しあう矛盾対立的な概念としての種が、「…であるか、または…である」の中で統一されるのである。
 
 このように、種(述語)が具体的普遍性としての類(主語)の本質的規定性の中にその特殊的な区別をもつものとなったとき、類は種の<最も近い類>として規定されることになる。ここでは主語と述語の分離は概念の区別であって、しかも述語における諸々の種の区別も概念の区別に還元されるのであり選言肢相互間の規定もまたここから生じる。<というのは、自分を分つとともに、その規定の中でその否定的統一を啓示するものこそ、概念だからである。>
 
 選言判断における主語・述語は概念の二契機として、それぞれの規定性においてあると同時に同一のものとして措定されている。すなわち、第一に客観的普遍性の中にあるものとして(主語においては単純な類として、述語においては全体性として)、第二に<必然性の展開された連関>の中にあるものとして(類=主語は諸々の種=述語の区別へと分離し、諸々の種の本質的関係がまた類における単純な規定性であるものとして)、両者は同一のものである。
 
 かくして選言判断における主語・述語はその同一性によって統一され、繋辞の中に癒着した。繋辞は、いまや措定されたものとしての概念そのものとなり、こうして必然性の判断は概念の判断へと推移する。
 
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◆概念にしろ「身体」にしろ掴みどころのない観念である。というのも、それはいわば実在に先んじており、実在を産出するとともに実在を支える「場」だからである。
 
 ここでデリダのアルトー論「基底材を猛り狂わせる」(アルトー/デリダ『デッサンと肖像』松浦寿輝訳,みすず書房所収)から引用しておこう。──基底材[subjectile]とは紙や画布などの絵が描かれる物質的な面のことで、デリダによれば、アルトーの全テクストの中で三度だけ使用されたこの語には「私は横たわる[jeceo]」と「私は投げる[jacio]」の両義性が露呈している。それは<単語あるいは事物であり、主体ないし客体の代わりをするもの、だがそのどちらでもないもの>である。<基底材が形象化しているのは<他者>だ、あるいはむしろ、対戦者となった<他者>、仮定上の敵対者だ、ありとあらゆる悪魔の手先たち、男女の淫夢者たちが棲みついている場だ。>
 
 また、訳者である松浦氏はその『折口信夫論』(太田出版)の中で次のように書いている。──
 
<このころ[死の前年]、アルトーにとって、書くことと描くことはすでに分離不可能な営みとなっており、彼はすでに、テクストを描き、デッサンを書き、そのデッサンが「文字通りに」聞き届けられることを要求するといった錯乱的な実践に身を投じていた。そして、言語と図象が溶け合って作品ならざる作品がかたちづくられてゆく紙の上での戦場での彼の体験は、優雅な芸術創造の慰戯からはるかに遠い苛烈な「肉弾戦」と化してゆく。事実、ここで「形象たち」に対して彼の手が加える暴力の、何と「残酷」なことだろう。…
 …一つたしかなことは、この暴力が繰り広げられる「場」としてのよそよそしくも従順な「基底材」が、アルトーによるこの攻撃を、ひたすら耐え忍び(supporter)つつ、しかし同時に、それが物質的に成立するための必須の条件として、それを積極的に支えて(supporter)もまたいるといった、二重の姿で立ち現れていることである。>
 

【第31回】第3巻第1篇第2章D、概念の判断
 
 価値判断をめぐって、かつて組織論の勉強をしていた頃、ゼミでの発表用に書きためておいた文章の一部を「引用」します。(ここで私が論じているのは「経営者の役割」についてであって、その結論は、経営者は組織の内部で流通する価値の体現者であってはならない、むしろ価値をめぐる推論を不断に継続させるための文法装置、いいかえれば価値や目的の共有ではなく問題の共有を継続させるための「他者」でなければならない、といったことです。)──
 
 <価値についてどう論じたらよいのか。悪よりも善を、不正よりも正義を、独裁よりも民主制を、より良しと判断させる、理性的に承認できる方法が存在するのか>──新しいレトリックの提唱者の一人であるペレルマンは、実践哲学を否定した実証主義の結論に満足できず、このような問いを自らに発し「価値判断の論理学」を探究した。そして共同研究者との長い仕事の結果が導いた<啓示といってもよい、思いがけない結論>を次のように述べている。
 
<それは、価値判断特有の論理学は存在しない、しかし、現在は忘れられ軽蔑されているあの古い学問、すなわち説得説伏の術としてのレトリックに、われわれが求めるものがすでに展開されている、との発見だった。…そしてわれわれが確認したことは、事の優劣、適否、理の有無に関する推論は、形式的に妥当な演繹でも、個別から普遍へ向かう帰納でもなく、ある主張への人びとの同意を求めてなされるあらゆる種類の議論そのものだ、ということだった。>(『説得の論理学』三輪正訳,理想社)
 
 ここでレトリックとは「修辞」という訳語の辞書的な意味、すなわち語句の修飾、文彩といった文章表現の手法ではなく、<およそ人間の営みにかかわるすべての事がらに有益・有効に対処しうる知の基盤としての弁論・修辞の術>である。(廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』,岩波書店)
 
 アリストテレスは、理論的活動 ・実践的活動・制作的活動という人間の知的活動に対応する知の形態をそれぞれ学問知(エピステーメー)・実践知(フロネーシス)・技術知(テクネー)に区別しているが、ここで実践=政治とは「善く生きること」、「生を成就すること」であり、そこで重要な意味をもつ実践知=賢慮(プルーデンス)がレトリックと緊密な関係をとり結ぶのである。
 
 藤原保信は、プラトンのいう唯一究極的な「善のイデア」を否定し善の多様性(すなわち善についての多様で流動的な意見の存在)を認めるアリストテレスの立場に立つならば、政治は<善についての異なった意見の交流のなかで選択され決定されるという形をとらざるをえない>と指摘している。
 
<もちろん、このことは善についての各人の異なった意見のうちにいかなる合理的な選択基準も存在せず、政治がたんなる利益集約的ないし利益調整的過程に終わることを意味しない。むしろかかる選択を一定の合理的な基準に導くためにこそ、「善と悪に関してのことわりに即した真の行為可能状態」としての実践知=賢慮が要求されるのである。そしてかかるフロネ−シスは、必然的な対象にかかわり論証が可能な学問知と異なって、「ほぼ大体において真理であるような前提から出発し、おおよそにおいてのみ真理であるのを語り、そのような前提からそれよりも善きものがないだけの結論に到達するならば、それで満足しなければならない」ようなものであったがゆえに流動的であり、それ自身が異なった意見の相互交流のうちに絶えず克服され修正される性格をすらもつものであったのである。>(「政治理論と実践哲学の復権」,『思想』1981年第6号所収)
 
 <異なった意見の交流>のうちに躍動する説得の術としてのレトリックは、実践知=賢慮が自ら変容していく過程を統治する。そこでは比喩は単なる文彩にすぎないものではなく、言語表現を産出する母胎そのものであって、われわれの認識の枠組みをなすとともにこれを制作のための技術知に連結する(あるいは科学と技術の無媒介的な結合を倫理の絆によって統治する)。
 
 レトリックあるいは比喩は一方で誤謬性を帯びた推論と不可避的に連動するが、むしろそのことのゆえにそれは言説の力の源となるのである。言い換えればレトリック・比喩は人間の自由の存在様態なのだ。そして自由はハンナ・アレントが言うように<人びとが政治組織のなかで共同生活をしている理由>なのである。(『文化の危機 過去と未来の間に』志水速雄訳,合同出版)
 
 修辞空間としての組織(政治体)において経営者(統治者)が果たすべき職能は極めてアイロニカルなものである。彼は組織の設計者であると同時に組織によって産出される仮構であり、組織の制作者であるとともに組織の破壊者でもある。彼は組織の象徴あるいは起源でありながら「他者」性を帯びた存在でなければならない。また経営者は組織を統合しつつ組織のメンバ−の自由を(確保するのではなく)制作しなければならない。このように、組織における経営者の活動は「A⇒非A」と定式化できるアイロニ−の過程に彩られている。そしてケネス・バ−クが指摘するようにアイロニ−は(換喩、提喩、隠喩に続く)第四の比喩であり、弁証法的な性格を有しているものなのである。( Kenneth Burke,A Grammar of Motives[University of California Press,1969 ])
* ただし、ここで言う弁証法は、自己との対話(内省)を優位に置くプラトンの哲学的問答術ではなく、他者との交際に際しての振舞いの仕方(ヘ−ゲル『哲学史講義』)としてのいわゆる「ソクラテスのアイロニ−」を念頭において理解すべきであろう。
 
 ──自前の、それも昔の文章を長々と「引用」して、それが一体ヘーゲルの概念の判断をめぐる議論とどのように関係するのかと問われると、口ごもりながらこういうしかありません。ヘーゲルが叙述するロゴスの自己展開は言語、言説過程をめぐる深い洞察に裏うちされているのであって、このことはとりわけ価値判断をめぐる言語活動において顕著である(はずだ)と。(1997.6.29)
 
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◆D:概念の判断◆
 必然性の判断の対象は客観的(具体的)普遍性の中にあるものであったが、この対象の概念に対する関係は概念の判断──すなわち<実在性がそれ[概念]に適合することも、また適合しないこともできるというような当為としてある>ところの概念を根底とする判断──においてはじめて出てくる。<だから、このような判断こそ、はじめて価値判断をもち得る。>
 
 ところで、概念の判断は様相の判断と呼ばれ、単に主観的なものと見られがちである。しかし、この主観的なもの(概念)を外的反省と混同してはならない。というのも、概念の判断にとっては<概念は外的反省の形で、或いは主観的思惟、即ち偶然的思惟との関係から根底になっているのではなくて、概念はその概念としての規定性において根底になっている>からである。
 
 選言判断において概念は普遍性と特殊化との同一性として、すなわち具体的普遍性として措定された。この普遍性は特殊化の否定的統一として自らに還元されたものにすぎず、まだ個別性にまで規定されてはいない。しかし、ここに出てくる否定的統一が一個の規定性である以上、それはすでに個別性なのであり、<いまや自分の否定性を措定し、自分を両項に分離し、こういう仕方で遂に自分を推論にまで展開しなければならないもの>なのである。
 
◆a:実然判断◆
 選言判断の結果である統一の最初の分離は、一方では直接的に個別的なものの<現実性、規定性または性状>として(主語)、他方ではその二契機の規定的関係、いいかえると<個別の概念に対する関係>として(述語)、それぞれ措定される。すなわち、実然判断である。
 
 実然判断(例:この行いは善い)は、主語があるものであるべきだということとその特殊性を意味する。<しかしこの両項[主語・述語]にはまだ両項を関係させるところの措定された統一としての概念そのものが欠けている>。したがって、実然判断における確定は一つの主観的な断言でしかない。
 
 しかし、この判断の断定がもつ主観性は、主語・述語の連関がまだ措定されていないこと、単に外面的である点にあるのであって、<そこでは繋辞は、まだ直接的な、抽象的な有である>。すなわち、「この行いは善い」と「この行いは悪い」という二つの断言が同等の正常性をもつのである。いいかえれば、<主語の普遍的概念に対する関係を表わすところの規定性は、この抽象の中ではまだ主語の中に措定されていない>のであり、したがって、主語が概念に適合するかどうかは偶然的なものである。このように肯定的とも否定的とも取られる点で、実然判断は本質的に蓋然的なのである。
 
◆b:蓋然判断◆
 蓋然判断(例:これこれの様相・性状のときの行いは善い)において、主語は<その普遍性または客観的本姓、即ちその当為と、定有の特殊的性状>に区別される。主語は、あるべきようにあるかどうかの根拠を自分の中にもっているのであり、この意味で述語と一致するのである。
 
 また、蓋然判断の主語がこのような二重のもの(概念と性状)として措定されていることが意味しているのは、事物そのものとは、<否定的な自分自身の統一としての事物の概念が概念の普遍性を否定して、個別性の外面性の中に現われ出たもの>であることにほかならない。
 
 このように、蓋然的なものが性状を伴う事物として措定されると、あの価値判断における主観性の相対立する二義(例:「この行いは善い」と「この行いは悪い」)は真理において一つのものとなり、蓋然判断は必然判断へと推移する。
 
◆c:必然判断◆
 必然判断(例:これこれの性状の行いは善い)の主語は<そのあるべきものである普遍>と性状をもち、この性状こそ述語が主語全体に属することの根拠、いいかえれば主語がその概念に一致するか否かの根拠をもっている。
 
 したがって、必然判断は真に客観的な判断である。というのも、ここでは主語・述語は同一の内容として、類(客観的普遍)と個別化されたものとの二契機をもつ措定された具体的普遍性をもち、主語もまたこの二契機の直接的統一としての事物としてあるからである。
 
 ところで、<事物の真相は、物事がそれ自身においてその当為[根拠]と、その有[性状]とに分裂しているところにある>のであり、<このことこそ、すべての現実性に関する絶対的判断なのである>。かくして、判断は主語の性状の中に根拠をもつ必然的なものとなり、規定され充実した繋辞が出現する。すなわち、根元的分割としての判断は概念の統一へと復帰するのであって、<この意味で、判断の形式は没落したのである>。
 
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◆さらに昔の文章からの「引用」を重ねる。──
 土屋恵一郎は法を<人間の関係とコミュニケ−ションの場を、フィクショナルなものとして構成しようとする意思のことである>と定義する。ここで定義するという営為自体がフィクショナルなものの構成への意思に裏打ちされていることに注目すべきである。
<「法」のもとでは「国家」も「国民」もなんらかの民族といった特別な関係に根拠をもつのではない。その「定義」のうちにのみ根拠をもつのである。「法」が定義をはじめると「国家」はフィクショナルな存在となってその定義のうちで構成される。しかしこの構成はむしろなんらかの実体をもつものとして幻想される国家像を、機関とその働きの「定義」のうちに解体するにひとしい。>(『社会のレトリック』,新曜社 )
 法的実践において人々は異質な諸価値が綯い交ぜとなって生成する現実世界(そこは諸力が織り成す物語が「〜から〜へ」と継起しあるいは切断される場である)に発生する問題あるいは紛争をそれ自体として、局所的かつ個別具体的な問題・紛争そのものとして扱い人為的解決を図ろうとする。つまり究極の原理から普遍かつ絶対無謬の解決を導くのではなく、当事者間の交渉と第三者への説得という修辞的活動を通じてその場かぎりの解決を工作(bricolage)するために現実を<フィクショナルなものとして構成しようとする>のである。
 そこで定義される概念は実体的な真実性との連続性を断ち切ったもの、すなわちロナルド・ドゥオ−キンのいう「紛争決定 dispositive 」概念であり、またそのような解決への道筋が論理的推論の形式「〜ならば〜である」で表現されるとしてもそれは因果を語るものではあり得ない。
 ドゥオ−キンは、法体系には物理的事実や人々の行動に関する「ハ−ドな事実」によっては証明されない「物語的整合性 narative consistency 」という事実が備わっており、<我々の法という継ぎ目のない織物のうちでは、いつでもすべての実践的な目的にとって、正しい解答は存在する>と主張している 。(「正しい解答はないのか」石前禎幸訳,現代思想 vol.14-6 初収)
 すなわち法体系はフィクショナルなものの構成への意思の発現である法的実践の痕跡が記録された物語であって、何が正しいかを自律的に決定する目に見えない原理(そこに内在するものにとって自明なしかしそれとして示すことのできない感覚)がその内部に存在するというのである。
 物語的整合性はフィクショナルなものを構成しようとする修辞的活動の過去現在にわたる集積のうちに示されるものである。フィクショナルなもの、すなわち思惟によって構築された仮構の世界と実践の世界という二分法によって述べるならば、物語的整合性は実践から仮構へという動きのうちに見てとられるべきものなのである。
 二つの世界が分離されるとき、干からびた概念が累々と築き上げる虚構の世界と、見えざる権力によって支配された禁忌と排除の共同体が出現するであろう。仮構は単なる認識の道具にすぎないものではなく実践に対して開かれている。その動的性格のうちにフィクショナルなものが同時にリアルなものであるという逆説が成り立つのである。
 

【第32回】第3巻第1篇第3章、推論
 
 判断から推論へと進む前に、前回に引き続き、「昔こんなことを考えた(書いた)」シリーズ(?)を続けます。組織過程と価値の問題を「経営者の役割」という文脈で考察して、組織(政治体)とは「問題の共有」という原理によって稼働する価値の推論マシンであるとの結論を得ました。このアイデアを私たちの社会一般に適用して何か体系的なものを書きたいと思いたち、少しずつ書きためたものの中から、ヘーゲルの「概念」「判断」「推論」に対応すると思われる部分を【ノート】に「転載」します。
 
 部分的な「引用」なので脈絡が不鮮明かもしれません。私がここでやったのは、英語の四つの接頭語と三つの接尾語とを組み合わせた言葉遊びなのです。接頭語は内・後方/外・前方という空間的観念、かつて・既に/やがて・未だという時間的観念を無造作に組み合わせた四つ「方向」を示唆し、接尾語は概念(意識)・判断(探索)・推論(言説)にそれぞれ対応しています。
 
  1. 接頭語
                extro-/ob-/ab-
                   │
                   │
       retoro-/re-/de- ───┼─── pro-
                  │
                    │
                in-/intro-/sub-
 
  2. 接尾語
        -spection/-spect[概念/意識]
        -ject      [判断/探索]
        -duction    [推論/言説]
 
 私はいま「対応」と書きました。ヘーゲルの叙述と私の妄想がどのような観点でどの程度「対応」しているのか、それともそもそも全く無関係なのか、そのあたりをこれからじっくりと見定めたいと思っています。ただ一ついえることは、私のアイデアには弁証法的な運動という視点が欠落していることです。それに相当するものは、前回のメールに「引用」した文章で扱ったレトリック、あるいは法的修辞活動にあるわけです。──以上、ヘーゲルを味わうという趣旨から逸脱しました。(1997.7.6)
 
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◆推論◆
 推論は概念と判断の統一であり、完全に措定された概念である。そして、すべての理性的なものは推論である。
 
 一般に、理性的認識は神・自由・権利義務・無限者・無制約者・超感性的存在を対象とすべきものだとされるが、これらを理性的たらしめるものは何であるかという理性そのものへの問いが忘れられている。ところで、これらの対象がもつ無限性とは充実した普遍性にほかならず、それは<概念が自分の中で自分を区別するとともに、またこの概念の悟性的で、規定的な区別の統一として存在するという仕方で>規定された概念をもつのであって、<こういう否定性の中にあるものとして理性は本質的に内容に充ちたものなのである>。しかし、理性とは規定された両項の統一という形式なのであるから、この意味で理性的なものは推論にほかならない。
 
 推論にあって本質的なものは<両項の統一であり、両項を結合する中間(媒辞)または両者を支えている根拠>である。媒辞[Mitte]とは空間的観念に由来する言葉であって、媒辞によって結合される両項が互いに自立性をもって並存するものであることを、したがってその統一もまた両項から独立して向自的に存在するものであることを含意しているように見える(悟性の推論)。しかし、このような統一は実は非統一にほかならず、理性的なものとしての推論の本質を見誤らせるものである。
 
 したがって、推論はまず諸規定が直接的で抽象的なかたちをとる定有の推論からはじまるが、それは自らの弁証法によって反省の推論へと、すなわち<それぞれの規定の中に本質的に他の規定が映現するような規定をもつ推論>へと推移する。そして、この映現(あるいは媒介された有)が自分自身の中に反省することによって推論は必然性の推論へと推移し、概念(媒辞)と定有(両項の区別)との一致に到達する。こうして概念は主観性から客観性へと推移するのである。
 
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◆意識について
 
 意識とは何か。──陳腐な比喩だが、ここでは意識を発光器にたとえることで当面の考察を進めることにしたい。
 意識の作用は光の進行方向に応じて四つに分割されるだろう。すなわち意識の中を照らし出すもの[in-spection] 、外を照らし出すもの[extro-spection]、後方ないしは起源を照らし出すもの[retro-spection]、そして前方ないしは将来を照らし出すもの[pro-spect] の四つの作用である。このように、光は空間的な次元と時間的な次元の交錯する場において照射される。
 単純化して言えば次のとおりだ。光はまず照射され、あるいは漏出する。次に光は何であれ実質的なまとまりをもつものにぶつかり、あるいは吸収されあるいは反射される。ここにおいて対象の存在が推測もしくは確定される。それと同時に、光の進行方向が示唆されもしくは確定されるのである。意識作用を光線にたとえる比喩は、実はこの時点から妥当するものだ。というのも、意識が常に何か(対象)についての意識であるとするならば、対象の定まらない、したがって方向の定まらない光線に相当する意識は、いまだ闇から分化されない「無分別」とも言うべき場にたゆたうものでしかないだろうからである。
 さて、対象を獲得した発光器は、以後集中的にその方向に向かって探査の光を放ち、対象の分布状態を調査するだろう。私は自己意識の発生プロセスを記述しているわけではないのだが、ここで対象を他者に──と言うより、意識光線の照射に対してある規則性をもって呼応する対象に──限定すれば、さらにそのような対象との相互作用を詳細に分析するならば、人はいかにして自己という意識を獲得するのかをめぐる、よくできた「説話」をこしらえることができるかもしれない。
 だが、ここでは自己意識の「発生」そのものについては論じないで、発光器としての意識が次にその探査光を自らに向けて照射するに至ることを述べよう。──すなわち、探査の結果得られた対象の分布状態には、一点、と言うより一つのまとまった領域が空白のまま残されることになり、発光器はやがてこの謎めいた領域の中に光線を照射するに至るのである。
 このような探査光の作用は、検閲[inspection]と呼ぶことがふさわしいものだ。というのも、自らに向かう探査光はそこに同一性と連続性の働きを見出し、これらを統治しようとするからである。検閲の作用は、自己をめぐる知──すなわち自己の同一性と連続性という観念──をもたらす。自己知が先にあって検閲の作用が後から稼働するのではない。生体における免疫の作用と同様、検閲は自己知に先立つのである。ところで、自己知はそれが発光器の中にとどまっている限り──言い換えれば、対他的にあるいは社会的に表現されない限り──かたちのない、とらえどころのないものでしかないだろう。しかも、それが何を起源とし、どのようなメカニズムによって産出されたか、そしていかなる力によって維持されるのかは全く不明なのである。
 ここに至って、発光器は次なる探査光を照射する。まず、自己知の起源を探査するために、発光器そのものを内蔵する物質的な基盤の方向へ、あるいはかつてそこにおいて遂行されたであろう意識されざるプロセスに向かって、探査光は遡行するのである[retrospction]。言うまでもなく、そこに見出されるのは身体という物質の集積体についての観念であり、あらかじめ失われた時間という観念である。
 身体は、探査の光が到達し得ないある奥深い部分を内蔵している。そこには、それぞれ固有の稼働法則をもった諸力がひしめいており、そのせめぎあいの中から力学的に合成された多数多様な運動が浮上し、かつ消滅している。すなわち、聴覚、触角、嗅覚といった感覚や知覚の力学的な相互作用を通じて、様々な強度をもった感情が時々刻々と生成・消滅しているのである。これらのプロセスはいずれも不可視であり、しかも常に「既に完了したもの」として経験される。自己知は、このような身体という物質性の暗闇の中で盲目的に遂行されるプロセスがもたらす経験に根ざしている。ここでとりわけ重要なのは、あらかじめ身体に刻印された性差の発現と性的身体のイメ−ジの獲得であろう。なぜなら、自己の同一性であれ連続性であれ、自己知を産出する検閲の作用は、性的身体が主体に及ぼす御しがたい力との確執を避けることができないからである。
 また、既に完了したプロセス──言い換えると、あらかじめ失われた時間という観念──がもたらす経験は、自己知がどこか知らぬ場に、あるいは関与できない時に、その起源をもつものであることを含意している。ここに至って、発光器は第三の探査光を外部への通路に向けて、第四の探査光を未だ到来しない時間に向けて照射するのである。
 外部を志向する光──すなわち外部観察[extrospection] の光──とは、いわば物質性のくびきから脱出しようとするものであり、思索[speculation] と呼ぶことがふさわしいものだ。それは、性差の発現という力の噴出との確執を介して獲得された自己(=身体)の同一性と連続性のイメ−ジを、精神という物質性をつきぬけた場に写像し、時間の経過による変化の根底に異なる種類の同一性や連続性を見出そうとする。このような精神の働きによって不断に見出されるものこそが、先に述べた自己知の実質に他ならない。そして精神の運動──すなわち思索──は、言語を媒介として遂行されつつ、言語そのものを産出するのである。──Aについての問いがAを制作する契機となる。すなわち「Aについての意識」が「Aという意識」をもたらす。私がここで精神の運動と呼んだ言語による思索は、このようなパラドキシカルなメカニズムをもって稼働している。たとえば、A=自己を代入すれば、自己についての問いこそが、自己の同一性・連続性を産み出す契機に他ならないことが見てとれるだろう。言い換えるならば、言葉の意味についての問いが、実は当の言葉に意味を与える契機となるのである。しかし、では最初の問・
「の中で言及された「自己」とは一体何か、そのような観念はどこから到来したのか、そしてまたこのような問いは何を産み出すのか。──かくして、精神の運動は次なる探索へと向かう。
 第四の、未だ到来しない時間に向けて照射される探査光は、精神という場の根底に見出される自己の同一性や連続性をひとつの価値としてとらえ直し、これを異なる時空間へ投影しようとする。それは投機[speculation] であり、かつ価値の維持・増殖を目論む[prospect]欲望の光である。この最後の探査光を放つことによって、発光器としての意識は自らの存在の根拠を見出すことになるだろう。すなわち、自己知の基底である身体(あるいは性差の刻印を帯びた身体のイメ−ジ)と、自己知の起源にしてその生成メカニズムそのものである精神(あるいは精神の運動としての言語)を見出した意識は、最後に自己を維持しようとする欲望の力を見出す。そして、このような欲望を産み出し、かつこれに絶えず力を供給し続ける根源的な実質、制御不能の実体を、自己の内部にあらかじめ備わった本質として発見するのである。それこそ、生命である。
 かくて発光器は、いや意識は、自らの内側へ向かう探査を終了した。そこに見出されたのは根源的な力としての生命であり、生命を宿した物質の集積体すなわち身体であり、脱物質を志向し不断に自己知を産出し続ける精神の運動であった。そしてこれらを三位一体的に兼ね備えたもの──意識が自らを特定し、「私」と言明する権利を自認する実体──こそ、私たちの社会における「主体」である。ここで主体とは、先に発光器にたとえた意識が、その仮設的な自己探査のプロセスの途上において見出した空白の領域を、性差の発現に伴う時間あるいは目的、言語の使用に伴う意味、生命そのものに伴う価値という三つの観念によって充填したものに他ならない。
 
 このようにして目的・意味・価値を充填された主体は、次なる意識の光を再び外側に向けて照射するであろう。あの、いまだ方向さえ定かではなかった最初の光とは違って、いまや意識の光は明確な方向をもっている。すなわち、外部への志向を経て再び内側へ[intro-ject]──または内向によって見出されるもの、自己の根底にあって自己の存立根拠となるものの方へ[sub-ject]──あるいは自己とは異質なものの方へ[ob-jct]、後方へ[re-ject] 、あるいは前方へ[pro-ject]、光は照射されるのである。──とはいえ、これらの方向はいずれも既に発見され充填された意識の内側の反射でしかないものだ。つまり、外側へ向かう意識は、実はその働きによって「外部」という仮設的な領域を制作しているのである。そして、意識の内側に見出された時間の観念──あるいは変化を通しての自己(=身体)の同一性という観念──は、自己とは別の身体(=主体)である「他者」という対象の上に投影されることになる。したがって、主体は外側へ向けて意識の光を放つことで、他の主体と共に一つの社会を共同制作することになるのである。
 ここに至って、主体は社会事象を産出するプロセスに自ら参入し、あるいは組み込まれていく「権利」を獲得するわけである。権利とは、言うまでもなく私たちの社会において「私」と言明する権利、すなわち自己を主体として社会的に表現する権利に他ならない。
 さて、以上で私たちの社会の表層において展開される諸過程を分析するための手がかりが得られた。再言すれば、諸主体は第一に自己を「私」と表明する権利をもっており、第二に身体(性)的な存在としてあらかじめ設定された目的実現のための盲目的な機構を宿しており、第三に言語を操って思索する──物質性から自らを解放し外へ出ようとする、あるいは自己の意味を問い続ける──存在であり、第四に欲望する生命という価値そのものであった。意識の外側に向けて照射される光の比喩を使うならば、主体とは第一に自己主張の権利をもつ主観[subject] であり、第二に性差の発現に伴う時間の経過の中で目的的に自己否定[reject]を繰り返す物資の集積体であり、第三に自己を異化しつつ対象[object]にかかわっていこうとする運動体であり、第四に欲望の成就を企図する[project] 生命体である。私たちの社会は、主体におけるこれらの分岐を起点として、四つの異なった社会過程を編制していくのである。
 
◆言説について
 
 言説には四つの類型がある。
 第一の類型は「説得」である。ここで言う説得とは、諸事象の相互作用の関係を時間軸に沿って説明することにより、そしてその関係性の網羅を通じて、私たちの社会においてあらかじめ成立していた主客分離の観念を改めて真理として受容させる営みのことである。説得の言説とは、たとえば「主」としての発語者が「客」としての言説受領者に対して、諸事象の関係性を「事実」として、科学的な真理性とともに強制することであると言っていいだろう。
 言説の第二の類型は「論証」である。表層における諸事象の多様性をカテゴライズしその深層の構造を抽出すること、そして諸事象の関係の関係を深層構造のうちに写像することによって構造間の「論理」的関係を解明すること──このような論証の言説を通じて、私たちの社会における深層の諸構造が、相互の同型性や変換可能性といった形式のうちに関係付けられ、管理可能なものとして顕在化されるのである。
 しかし論証の言説によっては表現できない事柄がある。それは、深層構造の存在の意味であり、ひいては諸事象が社会的に生成し、あるいは産出されることのうちに孕まれている意味である。このことを言説そのものの形において明示するのが──具体的には、臨機応変の比喩や言葉の響き、あるいは発語者の身体に根差した力の発動を通じて感得させるのが──言説の第三の類型、すなわち「教え」の言説である。
 教えの言説が示すのは、私たちの社会の枠組みを超越する高次の精神(個々の精神の集合体としての「世界精神」、あるいは個々の精神を包摂するものとしての「大きな精神=脳」)の存在可能性である。説得の言説によって記述される因果関係は、教えの言説が示すこの仮想的な場において、世界の弁証法的な成長・進化のプロセスを示すものとして、その実質的な意味が明らかにされる。また、論証の言説によって表現される論理的関係も同様に、究極の精神の座へと至る階梯を示すものとして、その本来的な意味が明らかにされるのである。
 ところで、教えの言説が、諸事象や諸構造の意味を最終的に解明する至高の場を示す特異な言説として社会的に流通するためには、なんらかの聖痕をそれ自体のうちに含んでいなければならない。また、教えの言説が、「語り得ぬ」領域への言及という私たちの社会における言語の限界を超えた営みを遂行しようとするものである限り、そこには個々の精神たちによる推論を介しての意味の補填、あるいは理解という作業が不可避的に伴わざるを得ないのである。
 教えの言説を他の言説から判然と区別する聖痕の所在を共通の問題として受容し(問題の仮構)、絶えざる議論を通して教えの言説が示すものの意味内容を補填し理解すること──このような「議論共同体」による共同作業の中心となるのが言説の第四の類型、すなわち「誘惑」の言説である。
 誘惑の対象は、他者である。言説の核心をなす対他性が誘惑の言説において純粋に、その極限に至るまで追求される。純粋であるとは、説得や論証のように、諸事象や諸構造の関係をめぐる「事実」「論理」といった、言説によって記述・表現される対象に依拠することなく、言説そのものによって──さらにはそれが発語される状況や言葉の響き、発語者の身体といった言説を取り巻く具体的な力の分布状態を利用して──他者に働きかけるという、誘惑の言説の本質に即した形容だ。(この意味で、誘惑の言説は教えの言説をその形態において模倣していると言えるだろう。)また極限的であるとは、奇計であれ詭計であれ他者を篭絡するための方法を選ばず、聖性破壊や聖性顕現といった価値転倒の手段にうったえることも辞さないという、誘惑の言説の徹底した技術性に即した形容だ。(言い換えるならば、教えの言説が臨機応変のレトリックを駆使して語り得ぬ領域の存在を示そうとする「方便」性を備えていることを、誘惑の言説は極限に至るまで模倣しているのである。)
 誘惑の言説は、教えの言説によって切り開かれた語り得ぬ領域をめぐる議論を継続させるとともに、このことを通じて私たちの社会に何らかの価値を注入しようとする。そして誘惑それ自体が目的となったとき、誘惑の言説は、問題の共有という原理の上に成立している議論共同体を価値の共有という異なる原理に立脚するもの、いわば「理解共同体」へと変質させ、実体化させる契機となるのである。
 
 以上に述べた言説の四類型は、推論の四類型に対応している。まず、説得の言説に対応するのは「帰納」 [in-duction] である。帰納において「A⇒B」という定式が諸事象の因果関係を表現していることは言うまでもない。第二に、論証の言説に対応するのは「演繹」 [de-duction] である。そこでは「A⇒B」という定式は、論理的同型性あるいは同値関係を表現している。第三に、教えの言説に対応するのが「洞察」 [ab-duction] である。そこでは「A⇒B」という定式は、その形式自体において意味関係を示している。最後に、誘惑の言説に対応するのは「生産」 [pro-duction]である。そこでは「A⇒B」という定式は、価値を媒介とした理解関係を表現している。(ここで重要なのは、第三の類型である。と言うのも、あたかも水晶球に映じた陰影を運命の痕跡として解読するように、珠玉の言説のうちに示されている叡知を私たちの社会の具体的な状況に即して読みとること──このような洞察の推論を通じて、私たちの社会を超越する存在の可能性が示唆され、これに依拠することで私たちの社会における諸価値の生産が開始されることとなるからである。)
 

【第33回】第3巻第1篇第3章A、定有の推論
 
 『脳とクオリア』(日経サイエンス社)の著者、茂木健一郎さんのインタビュー記事が「瞬刊ネットワーク主義」というホームページに掲載されていました。この中で、<創造とか発想とか思い付きとか、「Aha!の瞬間」、とかのメカニズムも、茂木さんの研究テーマのなかにふくまれるのでしょうか? だとしたら、それはどのように説明できるのでしょうか?>と問われた茂木氏は、次のように答えています。
 
>それについては、Oxford大学のRoger Penroseが重要なことを言っています(PenroseのEmperor's New Mind(邦訳『皇帝の新しい心』)はおそらく100年という単位で重要な本ですから、ぜひ読んでください)。つまり、コンピュータのような、アルゴリズムで考えるシステムは、自分が何をやっているのか「理解」できない、そして、「理解」がなければ「創造」もないということですね。脳は、明らかに、コンピュータ以上の何かをしているのです。「理解」ができるというのは、そのような脳の驚くべき能力の一つのメジャーなんです。
 …簡単に言うと、創造の問題というのは、「時間」の問題と絡んでいるんですよ。過去と未来、これ明らかに違いますよね。「未来」は、1秒後でも、何が起こるかわからないし、どんな意味でも、まだ存在しないわけですよね。未来は何でもありで、それこそ突然『インデペンデンス・デイ』のようにUFOが降りて来るかもしれないわけです。この、「未来には何事もあり得る」という私たちの直感が、「創造」と非常に深くからんでいるように思われるのです。この、「未来には何事もあり得る」という感覚を、私は「未来感覚」とよんでいます。[http://www.upunet.or.jp/ENGAWA/nwshugi/mogi/talk.html#TOP]
 
 ここに出てくる「理解」「創造」「未来感覚」といったキーワードは、ヘーゲルのいう推論の弁証法的運動を理解する上で、とても役に立つものだと思います。たとえば形式的推論(第一格)や三段論法の退屈さは、そのような推論からは何も「創造」されない点にあるのですが、このことを別の観点からいえば、形式的推論のうちには時間が流れない、あるいは「未来には何事も起こり得ない」「すべてはあらかじめ推論されている」となるわけです。
 
 また、ヘーゲルの特徴的な語り口の一つに「Aの真理はBである」がありますが、ここでいうBはAの弁証法的運動の結果として達成されるより高次の段階なのです。三次元では見通せなかった事柄が四次元では手に取るように「理解」できると、とりあえずはそのような例えを通して了解される事態がここに生じているわけです。
 
 しかし、四次元は三次元の彼岸や深層としてあるわけではなく、実は三次元の世界でのプロセスの錯綜のうちにあらかじめ折り畳まれているわけです。そして、「三次元+時間=四次元」という(私にはその意味がよく理解できない)説明がなされる場合、そこでいう時間とは、いわば予感、予言、啓示、未来としての高次元の到来に対する感覚(未来感覚)にほかなりません。あるいは、それは論理学のすべてのプロセスをあらかじめ踏破し尽くしたヘーゲル自身の存在の影なのかもしれません。
 
 いうまでもないことですが、いま上に述べた高次の段階としてのBや未来としての高次元のことを「類」と表現するならば、ここに再び形式的推論の範式が成立します。というわけで、今回は「a 推論の第一格」まで。(1997.7.13)
 
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◆A:定有の推論◆
 定有の推論は、直接的・形式的推論である。そこでは、概念は抽象的な契機としての個別性と普遍性とに分裂し、概念自身は両項の間にある特殊性(媒辞)となる。この特殊性は、普遍に包摂されると同時に個別を包摂するというかたちで両契機を直接的に自分の中に結合するのだが、<しかし、この具体的形態は差し当っては単に二面性であるというにすぎない>。したがって、媒辞(特殊性)は単純な規定性であり、それが構成する媒介はまだ措定されていない。この媒介が諸々の契機の中に措定されることこそ、定有の推論の弁証法的運動そのものなのである。
 
◆a:推論の第一格[個−特−普]◆
 定有の推論の一般的範式は「個−特−普」である。すなわち、個別性は特殊性を通じて普遍性と結合し、普遍もまた特殊性を通じて個別にまで下降する。このことを規定性(質)の面からいえば、個別は特殊に、特殊は普遍に(したがって個別は普遍に)それぞれ包摂され、いいかえると特殊は個別に、普遍は特殊に(したがって普遍は個別に)それぞれ内属するのである。一般に推論は、この根源的な本質的形式「個−特−普」に還元されるかぎりにおいてのみ悟性推論としての妥当性をもつ。
 
 推論とは、判断のように<単なる繋辞または空な「ある」によって作られる関係>にすぎないものではなく、<規定的な、内容に満ちた媒辞によって作られる関係>である。したがって、推論の第一格を次のような三つの判断(二つの前提と一つの結論)に分けるのは単なる主観的反省にすぎず、<このような推論をやるのをきくと、われわれは直ぐに退屈を感じる>。
  「すべての人間は死す」 (大前提:特−普)
  「ガイウスは人間である」(小前提:個−特)
  「故に彼は死す」    (結 論:個−普)
 
 第一格における推論(直接的な悟性推論・形式的推論・質的推論)の各名辞は、直接的で個別的な規定性である。すなわち、個別は具体的対象であり、特殊性はこの対象がもつ諸々の特性の一つであり、普遍性もまた特殊がもつ諸特性の一つのより抽象的で個別的な(より普遍的な)規定性である。したがって、この推論では一つの物がもつ特性のどれが取り上げられるかは全く偶然的で恣意的なのであって、一つの主語に対して数知れない推論が等しく可能となるのである。推論のこのような一面性の理由は、推論の第一格がもつ形式そのもの──すなわち、個別性・特殊性(媒辞)・普遍性の各項の抽象性──の中にある。
 
 推論の諸規定の本質的な点は、それらが抽象的な自分に反省した内容規定であることなのではなく、形式規定であること、すなわちそれらが<本質的にそれぞれの関係である>ことにある。この関係は第一に大前提・小前提であり、第二に結論(媒介された関係)なのだが、ここに出てくる前提もまた推論における結論として提示されるべきであって、そうなると二個の前提は二個の推論(四個の前提)を必要とし、以下同様のことが無限に進んでいくことになる。
 
 ところで、ここに再び出現した無限累進の真理は、<この累進そのものと、累進によってすでに欠陥のあるものであることの明らかにされた形式とが共に止揚されるところにある>。具体的には、推論の第一格「個−特−普」の大前提「特−普」をこの推論の結論である「個」が媒介することにより「特−個−普」という形態をとり(第二格)、小前提「個−特」を「普」が媒介することにより「個−普−特」という推論になる(第三格)。
 
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◆ヘーゲルは、<すべての物は推論である>といっている。<即ちすべての物は、特殊性を通じて個別性と結合された普遍である。といっても、すべての物は勿論、三つの命題から成り立っているような全体ではない。>
 ここでいわれているのは、判断における認識が主観的なものであるのに対して、推論のそれが客観的であること、つまり推論が、<事物の本性は、事物の区別された諸々の概念規定が本質的な統一の中で結合されるところにある>ことを認識する理性的知性の働きによるものであることである。
 
◆レーニンは『哲学ノート』の中で次のように書いている。<(抽象的な)概念をつくり、それを運用するということは、それとともにすでにそのうちに世界の客観的連関の合法則性の観念、確信、意識を含んでいる。…ヘーゲルは、概念の運動のうちに客観的世界の運動の反映を研究するとき、カントその他よりもずっと深いのである。ちょうど、単純な価値形態、すなわち一つの特定の商品と他の一つの商品との交換という個別的な行為がすでにそのうちに、未発達の形で、すべての主要な諸矛盾を含んでいるように、──もっとも単純な普遍化、諸概念(諸判断、諸推理、等々)の最初でもっとも単純な形成は、人間が世界の客観的連関をますます深く認識していくことを意味する。ここにヘーゲルの論理学の真の意義と役割を求めなければならない。このことに注意せよ。>(松村一人訳) ──概念を解明するのではなく、概念をつくること。
 

【第34回】第3巻第1篇第3章A、定有の推論「b 第二格」「c 第三格」「d 第四格」
 
 前に判断の章の「四」節構造にこだわり、あれこれ妄想をたくましくしたことがありました。この「問題」について考えるヒントをみつけました。ヘーゲルはプラトンの『ティマイオス』を紹介した文章の中で、次のようにいっているのです。(『哲学史講義 中巻』長谷川宏訳、河出書房新社)
 
 まず「三」をめぐって。
 <さて、つぎに問題となるのは、物体的実在の理念をどう定義するかということです。「世界は物体的なものであり、目に見え、手で触れられねばならない。そして、火がなければなにも見ることができず、かたいものや土がなければなにも触れることができないから、神ははじめに火と土をつくった。」これは子どもっぽい導入部です。「この二つは第三のものなしには結合されないから、その中間に二つを結ぶ紐がなければならない。(これはプラトンの純粋な表現の一つです。)が、紐のなかでもっとも美しいのは、紐自身と紐がむすびつけるものとを最高度に一体化する紐である。」これは深遠な思想で、そこには概念ないし理念がふくまれている。…具体的なものとしての神は、自分自身と一体化していく三項関係(三位一体の関係)なのです。だから、プラトンの哲学には最高のものがふくまれている。…この三項関係はプラトン以後二千年ものあいだそのままにほっておかれ、キリスト教のうちに思想としてとりこまれることはなかった。人びとはそれを不当にも外来の見解と見なし、この考えのうちに概念と自然と神がふくまれることを理解しはじめたのは、ようやく近代になってからのことです。>
 
 次に「四」をめぐって。
 <さて、プラトンはつづけます。目に見えるものの領域には、両極をなすものとして、土と火、かたいものと生物があった。「かたいものは二つの中間項を必要とし(これは重要な思想です。自然のなかには三つではなく四つの元素があって、中間項も二つとなるのです)、広さばかりでなく深さももつがゆえに(点が線および面を経て立体にまで合体されるとすると、自然は本来四次元となります)、神は火と土とのあいだに空気と水をおいた。(これも論理的に深遠な定義です。中間項が両極との関係において不均衡なため、内部で二つに分裂しなければならないのです。)そしてそこでの比例関係は、火と空気の比と空気と水の比と水と土の比がひとしくなる。」中項が分裂するのが見られ、ここに生じた四という数が自然のなかでは根本をなします。理性的な推論では三項の関係にすぎないものが、自然において四項となるのは、自然そのものに原因があるので、というのも、思想のうちでは直接に一つであるものが自然のなかでは二つに分岐するからです。中項に対立が生じて二重になる。思想においては、第一が父なる神、第二が媒介者たる子なる神、第三が聖霊で、中間項は一つですが、自然にあっては対立する中間項が・
つにわかれ、全体として四という数字があらわれる。神を考える際にも四という数字が生じるので、神を世界に応用すると、中間項として自然と実在の神とが、──つまり、自然そのものと、自然が聖霊へとかえっていく途上にある実在の精神とが──あって、かえりつくと聖霊となる。この生命ある過程──区別と区別の統一の過程──が神の生きたすがたです。>
 
 どことなく「有論」を思いださせる叙述ですね。実際、上に引用した文章は、プラトンの自然哲学を論じた箇所に出てくるものなのです。──蛇足を一つ。引用文中に出てくる三項関係と火と空気と水と土の比例関係をあえて表示すれば、それぞれ次のようになります。これらもまた、どことなく「有論」の中で最高に絶賛されていたケプラーの法則を思わせます。
 1 三項関係
   (A^2):(A・B)=(A・B):(B^2) 
 2 四項関係 
   (A^3):(A^2・B)=(A^2・B):(A・B^2)=(A・B^2):(B^3)
 
 さて、定有の推論の弁証法的運動は、各推論が相互に媒介しあう一つの円環を形成し、最終的には直接的に自明なトートロジーを導き出します。そして、この形式的推論の究極のかたちにおいて、すでにより高次の推論(反省の推論)が開始されているわけです。(1997.7.20)
 
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◆b:第二格[特−個−普]◆
 第一の推論「個−特−普」では、或るものとその普遍的な質的規定性とが個別性(偶然性)の中で結合されているにすぎず、そこでは直接性が関係の根底・媒介となっていた。これに対して推論の第二格「特−個−普」では、このような直接性が止揚される。すなわち、二つの前提「特−個」と「個−普」のうち後者は第一の推論によって媒介されたものであり、結論「特−普」も、一方で個別性を介して普遍(類)の中の種の一つが取り出され、他方で特殊がその規定性を剥奪され普遍に高められるといった否定的統一を含んでいる。
 
 以上を整理すると、第一の推論は、その結論の正しさが推論そのものに基づかないような抽象的形式としてのそれであり、<単に外的反省の中で行われるところの主観的な推論>であるにすぎないのに対して、第二の推論は<概念の実在化の第一歩>であり、第一の推論の真理を明らかにするものなのである。
 
 ところで、第二の推論における結論「特−普」は、これを形式的推論の観点から見るかぎり、特称判断の場合と同様に肯定的でも否定的でもある一般的関係にすぎない。またその媒辞、すなわち直接的な個別性は、無限に多様な外的規定をもつのであり、したがってこの媒辞の中では個別自身にとって外面的な媒介が、いいかえれば普遍性が差し示されているのである。
 
 このように、推論の第二格における媒辞(個別)は両項(特殊と普遍)の規定的統一としてあるわけではなく、<その場合に媒辞がもつ、もう一つの肯定的な統一は抽象的な普遍性にほかならない>。こうして推論は第三格へと推移する。
 
◆c:第三格[個−普−特]◆
 推論の第三格「個−普−特」の二つの前提「個−普」と「普−特」(「特−普」)は、それぞれ第一と第二の推論によって媒介されている。こうして第三の推論の登場によって、一般にどの推論も他の二つの推論を前提しているという相互媒介の関係が成立する。このことが意味するのは、<格推論がそれ自身みな媒介であるにかかわらず、各推論が同時にそれ自身において媒介の全体ではなくて、媒介を自分の外にもつような直接性を各推論自身の中にもつものだということ>である。
 
 ところで、この抽象的・無規定的な普遍が媒辞となる推論にあっては、両項(個別と特殊)は単にその普遍性の面から媒辞に含まれるにすぎず、両項の規定性が普遍(媒辞)に含まれているわけではない。したがって両項の結合は、他の推論の場合と同様に偶然的なものなのであって、<この両項の規定性は全く無関心的で、外面的な規定性>であるにすぎない。こうして推論は第四格へと、すなわち各名辞の同等性を規定としてもつところの没関係的な推論の格へと推移する。
 
◆d:第四格[普−普−普]または数学的推論◆
 推論の第四格「普−普−普」は、直接的に自明な数学的推論(公理)である。そこでは諸規定のあらゆる質的差異は捨象され、ただ量的な同等性・不等性の観点からのみ見られる。概念間の関係はこの推論の中には入ってこず、したがってここには概念把握はない。
 
 しかし、このような概念規定性の捨象という定有の推論の結果(数学的推論)から出てきた直接的・抽象的な諸規定の否定性は、他方で積極的な面をもつ。それは、否定性が具体的なものになったということである。第一に、定有の推論は相互的前提の円環を、すなわち一つの全体性を形成しており、そこに存在する媒介は直接性に基づくものではなく媒介に関係する媒介(反省の媒介)である。第二に、定有の推論における媒介は直接的・抽象的な形式諸規定(個別・特殊・普遍)のどれでもよいことになり、<従ってまた一つの規定の他の規定への肯定的な反省であることになった>。こうして定有の推論は反省の推論へと推移する。
 
[註釈]一般に論理学において推論が取り扱われる場合、三段論法的知識に見られるような抽象的で概念を欠く悟性形式が叙述の中心となる。すなわち、そこでは推論の第一格[個−特−普]が絶対的なものとされ、その弁証法的な運動は考察されない。このような形式的推論は、没概念的な媒辞の抽象的規定性ゆえに異なる帰結が導き出されることから、実際の役に立たないのみならず退屈なものである。
 
 推論の概念規定の没概念的処理の極端な例は、ライプニッツの『結合術』や普遍的記号法に見ることができる。そこでは推論の諸規定が骰子の面と同類のものとされ、<精神的存在として関係するものであり、またこの関係によってその直接的な規定を止揚するものである概念と概念諸規定との特性>が無視されているのである。
 
 あるいはブルークェが「発明」した推論の計算は、個別性・特殊性・普遍性の区別を捨象して主語と述語との関係を数学的な同等性の関係と見るもので、論理学における推論の叙述としては最悪のものである。そこでは、たとえば次のような推論が展開されることになる。
  「すべてのキリスト教徒は人間である」
  「ユダヤ人はキリスト教徒ではない」
  「故にユダヤ人は人間(キリスト教徒であるような人間)ではない」
 
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◆論理学の考察対象について。ヘーゲル『歴史哲学講義』(長谷川宏訳、岩波文庫)序論から。──
 
<普遍的で絶対的な存在と個別的で主観的な存在との統一──それだけが真理の名にあたいするものですが、──それは純論理的な考察の対象となるもので、統一の一般的形式は論理学においてあつかわれます。いまだ前進しつつある世界史のあゆみのなかでは、歴史の究極目的が純粋な形で欲望や関心の内容となることはなく、欲望や関心において意識されることのないままに、普遍的な目的は特殊な目的のなかに入りこみ、特殊な目的をとおして自己を実現するのです。さきにあげた特殊と一般の統一は、自由と必然の統一という形でもとらえられるので、そのとき、絶対的に存在する精神の内面的なあゆみが、必然的なものと見なされ、人間の自覚的意思のうちに関心としてあらわれるものが、自由だと見なされます。こうした概念のつながりは形而上学的なもので、論理学の考察対象ですから、ここではそこに深入りはできません。>(B 歴史における理性とはなにか)
 
<さて、世界史は、自由の意識を内容とする原理の段階的発展としてしめされます。この段階のこまかな定義は、一般には論理学において、もっと具体的には精神哲学において、しめされます。ここではただ、第一段階は、すでにのべたような、精神が自然のありかたに埋没した状態であり、第二段階は、そこをぬけだして自由を意識した状態である、というだけでよい。この最初の離脱は自然を媒介にして生じたもので、自然との関係を断ち切れず、いまだ自然の要素につきまとわれているがゆえに、不完全で部分的なものです。第三段階は、いまだ特殊な状態にある自由から純粋に普遍的な自由へと上昇し、精神の本質が自己意識および自己感情としてとらえられた状態です。この三段階が、一般的過程をあらわす基本原理です。>(C 世界史のあゆみ)
 

【第35回】第3巻第1篇第3章B、反省の推論
 
 ある特性をもったグループ(特殊)について一般的に成り立つ事柄(普遍)。そのグループに属する特定のもの(個別)に成り立つ事柄(普遍)。大雑把にいえば、前者から後者へ向かうのが総体性の推論であり、後者から前者へ向かうのが帰納の推論です。そして、総体性の推論における前提(すべての対象において成り立つ一般的法則)はその結論(個別的事象)によって反証されないことを前提にしており、帰納の推論における前提(すべての個別的事象)はその結論(一般的法則)の妥当性を直接的に前提しているわけです。
 
 ところで、第三の反省の推論である類比の推論は、これら二つの推論を廃棄しつつ保存している(止揚している)のですが、ここでは前提と結論は論理的に相同なものとなります。ヘーゲルが挙げている例に即していえば、「地球に人が住んでいるならば(前提)、月に人が住んでいてもおかしくない(結論)、なぜなら月も地球も同じ天体だから」という推論において、前提と結論はともに「個別−特殊」と表現できるからです。
 
 以上、粗雑で不正確な要約を試みました。私がいいたかったのは、反省の推論が、定有の推論がかたちづくっていた相互前提の円環を自らの中に導き入れ、直接性の世界から観念の世界へと認識の対象(要素)と場(時空構造)を変換させたことが、古代的な野性の思考から中世的な形而上学的思考(と仮に名づけておきます)への推移という(あくまでも理念的に考えられた)人類史における一つの転換とパラレルなのではないか、ということです。
 
 と、ここまで書いて、これでは『歴史哲学講義』のヘーゲルそのものではないかとふと気づきました(誤解かもしれません)。そして、いよいよ私もヘーゲルの術中にはまったかと、とても嬉しい思いにかられたのでありました。(1997.7.26)
 
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◆B:反省の推論◆
 定有の推論の弁証法的過程を通して推論の諸規定の抽象性は止揚され、いまや相互に他の規定を映現しあう(関係しあう)具体的なものとなった。ところで、推論を判断から区別するものは媒辞にほかならないのであるが、反省の推論における媒辞もいまや抽象的特殊性を脱して具体的なものとなり、諸規定の全体性として措定されることとなった。このような反省の推論の第一のものは、総体性の推論である。
 
◆a:総体性の推論◆
 総体性の推論(例:すべての規則正しいものは美しい)は第一格の範式「個−特−普」をとる。それは悟性推論の完成形態であるが、しかしそれ以上のものではない。というのも、総体性の形式は個別を依然として直接的・独立に存在するものとしたままで普遍性の中に総括しているにとどまり、諸規定の直接性の否定はまだ否定の否定、すなわち自分の中への絶対的反省ではないからである。
 また、総体性の推論における媒辞はもはや抽象的な特殊性ではなくそれ自身具体的なものであり、主語をこれに属するただ一つの述語と結びつける媒介である。しかし、この媒辞がもつ規定性である「すべて」とはすべての個別のことにほかならず、したがって主語はすでにその述語を含んでいるのであって、推論を経てはじめて述語を獲得するのではない。いいかえれば、総体性の推論における大前提はすでにその中に結論を含んでいるのである。(大前提「すべての人間は死す」は結論「故にガイウスは死す」が正しいがゆえに正しい。つまり、大前提の正しさを云々する前に結論が反証を供することにならないかという問題が先行する。)
 このように反省の推論において、個別は推論によらない直接的な関係を述語との間にもつ。また、一つの特殊(形式的な普遍)と一つの普遍(それ自身普遍的なもの)との結合である大前提は、特殊の中に含まれている総体性としての個別性の関係を通じて媒介されている。それはまさに帰納の推論にほかならない。
 
◆b:帰納の推論◆
 帰納の推論は第二格の範式「普−個−特」をとる。その媒辞はすべての個別、いいかえれば対立する規定である普遍性の意味をもつ<完全なものとしての個別性>である。この推論の一方の項はすべての個別に共通の特性であり、他方の項は直接的な類、すなわち媒辞としての個別または種をすべて挙げ尽くすことによって充たされる類である。したがって帰納法には、媒辞として無数に多くの個別がある。
 帰納の推論は、経験の推論である。すなわち<多くの個別を類の中へ主観的に綜合する推論であり、また類を或る普遍的な規定性と結合する推論である>。それはまた主観的な推論である。したがって、普遍性は完全性の域を超えることはなく、ここに再び悪無限性への累進が現われる。帰納法の結論はその限りで蓋然的である。
 このように、<帰納法は、知覚が経験となるためには無限に進展すべきだということを云い表わしている>のであり、総体性の推論がその結論を前提していたのと同様、帰納の推論もその結論を直接的なものとして前提している。帰納の推論に基づく経験は妥当なものと仮定されるが、それは経験に対するいかなる反証も挙げることができないということが仮定されるにすぎないのである。帰納の推論も推論であるからには、媒辞(個別性)が普遍性と直接的に同一のものとしてなければならないであろう。このような個別性でありながら普遍性であるような媒辞にもとづく推論は、類比の推論である。
 
◆c:類比の推論◆
 類比の推論は第三格の範式「個−普−特」をとる。その媒辞は、<個別性でありながら、それがそのまま普遍性であるような個別性>、いいかえれば一個の具体的なもののもつ普遍性である。類比の推論の例をあげれば、次のようなものである。しかしここに出てくる類比は皮相なものであり、<悟性の形式または理性の形式を単なる表象の領域に引き下げてしまうこの種の皮相性を論理学の中に持ち込むことは許されるべきではなかろう>。
  「地球は住民をもつ」  (大前提:普−特)
  「月は一つの地球である」(小前提:個−普)
  「故に月は住民をもつ」 (結 論:個−特)
 
 類比の推論は、不完全な推論である。上述の例において、地球という媒辞は一つの具体的存在であると同時に普遍的な本性・類でもあるのだが、ここで地球が天体一般としてとらえられているのか特殊の天体としてとらえられているのかは不明だからある。<個別性と普遍性とが、このような媒辞の中で直接的に結びつけられているかぎり、類比はまだやはり反省の一推論である。>
 ところで、類比の推論における結論(例:月は住民をもつ)は「個−特」と定式化されるが、前提(例:地球は住民をもつ)も同様に「個−特」と表現できる。したがって「個−特」が結論であるかぎり、この前提もまた結論でなければならない。すなわち、類比の推論はその結論を前提しているのであり、<それ自身の中に、自分がもっている直接性に反する自分の要求をもっている>。
 こうして、総体性の推論で否定された直接性が類比の推論でさらに否定され(否定の否定)、それによって外面的反省の普遍性は即且向自的な普遍性となる。結論は前提と同一となり、媒介はその前提と合致し、反省の普遍性の同一性が生じ、この点で反省の普遍性は高次の普遍性となった。
 
 ──ここで反省の推論の行程を概観しておこう。まず、総体性の推論において総体性の本質的な根拠となるものは個別性であって、そこでは普遍性は個別性における外面的規定でありその当為としての完全性であるにすぎなかった。ところが、実は普遍性は個別にとって本質的なものなのであり、そのためにこそ個別は「即自的にある普遍」として、帰納の推論の媒辞であることができたのである。しかし、個別は単に肯定的な仕方で普遍性と結合されるのではなく、むしろ普遍性の中で止揚される否定的契機である。この意味で、即且向自的に存在する普遍性は措定された類であり、直接的な個別はこの類の外面性である。
 反省の推論は一般的に「特−個−普」の範式をとる。ここでは、個別はまだ個別として媒辞の本質的規定出である。この個別の直接性が止揚され、媒辞が即且向自的な普遍性として規定されると、推論は「個−普−特」の範式をとることになり、こうして反省の推論は必然性の推論へと推移する。
 
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◆浅田彰・大澤真幸・柄谷行人・黒崎政男の各氏による座談会「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」(『InterCommunication』No.12 1995 掲載)から、ヘー ゲルに関する発言の要約。――
 その一。肖像画はヘーゲル的である。他者との弁証法的関係の中で、自分で思っていたのとは違う自己のイメージと対話することでより深い自己意識に到達するから。スナップ写真はフロイト的である。自意識に回収できない無意識の動きが捉えられてしまうから。これらに対して、即時に思うがままにイメージが改変できる電子映像は、ユング的な原型に、さらにはデカルト以前、近代の反省的主体以前へと退行してしまいかねない。(浅田)
 その二。アドルノは、ヘーゲルがいう精神とは実は社会のことなのだといっている。それは、全然発展段階の違うものが同時に存在している社会だと思う。(柄谷)
 ――<感覚的確信や自己意識から絶対知までが、一挙に存在している>(黒崎)ヘーゲルの精神=社会。獰猛なワニの脳と狡猾なネズミの脳を覆い尽くすヒトの脳。古代と中世と近代と未来が混在する現在。
 

【第36回】第3巻第1篇第3章C、必然性の推論
 
 久しぶりに陶酔しました。翻訳でヘーゲルの詩を一編だけ読んだことがあって、詩人としては(定評通り)三流だと思いましたが、思惟の純粋な「彫塑」に関していえばヘーゲルは紛れもなく天才級のマエストロであるとあらためて感嘆したしだいです。(もっとも、要約づくりのために再読した際にはこの陶酔は消えてしまった。たぶん私の脳髄の中の「論理器官」がヘーゲルの叙述に痺れるための身体的条件のようなものがあるのでしょう。)
 
 
 さて、今回で概念論第1篇を終えます。時間をかけて読むとかえって全体を見失うことになりがちですが、ヘーゲルの叙述は細部に全貌が息づき、全貌の叙述のうちに細部が十全に表現され、さらに細部(個別性)と全貌(普遍性)との関係(特殊性)が自在に躍動するといったダイナミックな渦巻文様(あるいはスパイラル)を描き切るものであって、この力量の前では弁証法の運動の道筋を見失うことはなかった。
 
 ヘーゲル自身の文章に即してふりかえってみると、概念はまず否定的な統一としての自らを分裂させ、諸規定を相互に無関心な自立的なものとして措定しました。これが「根本的分割」としての判断ですね。しかしこれらの諸規定も実は相互の関係の中でのみその意味をもつような規定だったのであり、推論とはこのような諸規定の外面的な関係とその内面的な統一としての概念とを対立させるものだったわけです。その意味で、推論とは媒介である。
 
 推論の運動はまず形式的推論としての定有の推論から開始され、そこでは普遍性・特殊性・個別性という概念の諸規定が交替して媒介機能を果たしました。次いで反省の推論に至って、媒介機能は推論の両項の規定を外面的に結合する統一作用としてはたらき、最終的に必然性の推論において、このような外面性と内面的統一(概念)との融和が完成しました。
 
 推論の運動の完成によって、いいかえれば媒介性の止揚───<その中では何ものも即且向自的には存在せず、各自は他者の媒介によってのみ存在するといった媒介性の止揚>──によって、外面性はそれ自身の中に概念を表現するものとなったのです。この有(被措定有)こそが<即且向自的にあるところの事物>であり、第2篇で考察されるところの客観性にほかならないのです。
 
 それにしても、このような要約はヘーゲル論理学にとってほとんど意味のないものだといわざるを得ません。あたかも古代密儀宗教における祭儀を伴わない神話、しかも語られることのない神話のプロットように味気ないものです。(1997.8.3)
 
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◆B:必然性の推論◆
 定有の推論を媒介するものは単純な規定的普遍(特殊性)であり、反省の推論のそれは客観的普遍性(総体性)であった。必然性の推論における媒介者はこの二つの普遍性をあわせもつもの、つまり<一つの充実された、しかも単純な普遍性であり、事物の普遍的本性、即ち類>である。この推論の媒辞は両項の反省であって、両項はその内的同一性を媒辞の中にもち、媒辞の内容規定は両項の形式規定となる。
 
◆a:定言推論◆
 最初の必然性の推論は定言推論である。そこでは主語がその実体によって述語に結合されている。しかし、ここでいう実体はもはや本質論で扱ったあの偶有性をもつ実体ではなく、概念の領域にまで高められたものなのである。この実体がもつ概念規定、すなわち普遍性(実体の本質的な区別・種差)と個別性(現実的なもの・類と規定性との具体的な統一)が推論の両項となる。
 
 定言推論は直接的な推論であり、したがって形式的推論の第一格の範式「個−特−普」の形をとる。しかし、そこでは偶有性がなくなっているのであるから、定有の推論の場合のように両項と媒辞の関係が外面的な直接性をもたず、また反省の推論のようにその結論を前提とすることもない。すなわち、定言推論の各名辞はその実体的内容に基づいて互いに同一的な関係にある。いいかえれば、定言推論において<媒辞は、その両項の内容に充ちた同一性であり、両項はその自立性をもちながら媒辞の中に含まれている>。
 
 ところで、ここに出てきた同一性の中にすでに客観性が現われはじめているのであって、そのかぎりで推論はもはや主観的ではないといえるのだが、両項が概念または媒辞に対して無関心な存立をもつ点、および同一性がまだ内容としての実体的同一性にとどまり形式的同一性にまで達していない点にこの推論の主観性が残っている。概念の同一性は、ここではまだ<内的な紐帯>であり、必然性も内的なものであるにすぎない。
 
 詳説すると、定言推論の本来の直接的なものは個別(主語)であり、それは<媒辞に対して無関心な、自立的に規定されたところの特有の内容をもつ実存>である。そして、普遍(述語)もまた媒辞との間にこれと同様の関係をもつ。すなわち、定言推論の両項は直接的なもの・無関心な規定性であり、同時に偶然的なものでもある。両項の直接性は同一性の中に止揚されているのではあるが、この同一性も両項の現実性がもつ自立性・全体性ゆえに単なる内的同一性にすぎない。こうして定言推論は仮言推論となる。
 
◆b:仮言推論◆
 仮言推論は形式的推論の第二格の範式「特−個−普」の形をとる。それは、各関係項の必然的な関係を表わす仮言判断「もしAがあるなら、Bがある」(ここではまだAが「有る」ともBが「有る」ともいわれていない)に小前提「Aはある」を、つまりAの直接的な有を付加し、結論「故にBがある」でBの直接的な有を付加する。のみならず、そもそも推論は主語と述語との関係を、判断のように抽象的な繋辞としてではなく、充実した媒介的統一(媒辞)としてもつものなのであるから、Aの有は単なる直接性ではなく推論の媒辞として見なければならない。
 
 詳説すれば、まず仮言判断の両項は直接的な有ではなく、内的必然性によって支えられた有(止揚された有・現象的な有)なのであって、だから判断の関係も<実存の外面的な差異性または現象的な有相互の無関心性の下にある必然性、または内的な実体的同一性>であるにすぎなかった。
 
 これに対して、仮言推論における媒辞(A:個別性)はもはや単なる内的必然性ではなく<存在している必然性>なのであり、結論に出てくる存在者(B:普遍性)も直接的でありながら他者によって媒介された<必然的な存在>なのである。両項の区別はただ普遍性に対する個別性という形式上のものであるにすぎず、<即ち両者は表象から見た場合の、同一の根底の二つの異名にすぎない>。こうしてここに、媒介するものと媒介されるものとの同一性が現われる。
 
 このように、仮言推論はまず形式(否定的統一)によって必然的な関係を表現するのだが、この必然性は必然的な存在の中に癒着する。つまり、必然性とは<制約する現実性[A]を制約された必然性[B]に翻転する形式の活動性>なのであって、この必然性による統一の中では、定言推論に現われた自立的な定有としての対立する両項の規定性は止揚され、しかもこの統一が措定されるのである。こうして、推論の媒介は<自分を区別すると同時に、またこの区別から自分を取り戻して自分の中に綜合する同一性>という絶対的形式・客観的普遍性となり、仮言推論は選言推論となる。
 
◆c:選言推論◆
 選言推論は形式的推論の第三格の範式「個−普−特」の形をとる。その媒辞は<形式によって充たされた普遍性>であり、全体性・展開された客観性である。すなわち媒辞は「普遍性」として<類の実体的同一性>なのだが、それは「特殊性」をその中に取り入れた<諸々の種に分たれた類>としてあるのであり、しかもその特殊化(区別)に基づく諸規定相互の排斥が他の個別性の排斥としてあるような「個別性」なのである。
  大前提「AはBであるか、Cであるか、またはDであるかである。」
    :A=普遍性
  小前提「ところがAはBである。(ところがAはCでも、またDでもない。)」
    :A=特殊性(個別性)
  結 論「故にAはCでも、またDでもない。(故にAはBである。)」
    :A=個別性(特殊性)
 
 このように仮言推論の真理であった「媒介するものと媒介されるものとの統一」が選言推論の中に措定されるのだが、この点で選言推論はもはや推論ではない。というのも選言推論にあっては、仮言推論に出てきた<必然性という内的紐帯としての実体的同一性>と<否定的統一、──即ち一つの定有を他の定有に翻転するものであるところの活動性または形式>との区別が解消されるからである。すなわち、この推論の完成(選言推論)において、媒辞は展開された全体的かつ単純な統一となったのであるから、<媒辞のその両項に対する区別>とともにあった推論の形式は止揚されたのである。
 
 こうして概念はいまや全般的に実現され、客観性としての実在性を獲得した。推論の運動、すなわち媒介性の止揚の結果として生じたのは直接性であり有であるが、しかしこの有は媒介と同一のもの(概念そのもの)であった。<云いかえると、この有は概念の他在から、のみならず概念の他在の中で概念が自分を回復し、打ち建てたところのものである。>この有こそ事物であり、客観性にほかならない。
 
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◆茂木健一郎氏の『脳とクオリア』(日経サイエンス社)を読んでいる。前半部分を読み終えたばかりで、まだ全体を見通せてはいないが、ヘーゲル論理学の叙述がもつ特質──論理的「必然性」に導かれたロゴスの弁証法的自己展開プロセスの「内的」叙述──の「解明」に役立つのではないかと思える記述(第4章)があったので、その概略を記しておく。(以下は必ずしも上掲書の正確な要約にはなっていないかもしれない。もしミス・リーディングがあるとすれば、その部分は茂木氏の議論ではなく私の議論である。)
 
 ──第4章で論じられている「相互作用同時性の原理」を一言でいえば、心(認識)という一つのシステムをつくりあげている要素は<ある心理的瞬間において、相互作用連結なニューロンの発火のクラスター>なのだが、<ある二つのニューロンの発火が相互作用連結な時、相互作用の伝播の間、固有時は経過しない>というものだ。ここで「固有時は経過しない」とは、システムの要素であるAとBが相互作用を通して結びついているとき、AからBへ、あるいはBからAへと作用が及ぶ際に必要な物理的時間(座標時)はゼロであるという意味だ。
 
 なぜそのような原理を導入するのかといえば、それはシステムの時空構造が「因果性の要請」を充足するようにするためである。茂木氏の詳細な説明を簡略化して例をあげるならば、因果関係「≪A⇒B≫⇒C」において≪A⇒B≫とCとの間の因果性を確定するためには、相互作用≪A⇒B≫に必要な時間はゼロと見なさなければならない。
 
 なぜそのような仮構をするのか。ニューラル・ネットワークを因果的に記述するためには、物理的時間で十分ではないか。この問いに対して、茂木氏は二つの回答を用意している。(私はそこに、ヘーゲル論理学の叙述の特質を「解明」するヒントが潜んでいると直感したわけだ。)
 
 その一。もし物理的時間を使って上記の関係を確定しようとしても、ニューロンAの発火がニューロンBへ伝播した時点で世界(脳内時空)に存在しているのはBの発火という現象だけで、過去の事象(Aの発火)は世界の中に保存されていない。したがって、物理的時間による記述では、因果性の一方の項である≪A⇒B≫という相互作用連結なシステム要素が確定できない。コンピュータによるシュミレーションの場合であれば外部メモリーに「記憶」を蓄えておくことができるが、<世界には、外部記憶装置はない>のである。
 
 その二。確かに、脳内のニューロンの様子を脳の外から、時々刻々と分子レベルで詳細に観察することができるならば、ニューラル・ネットワークの固有時などを構成する必要はない。しかし、<私は、私の脳を外部からは観察できない>のである。というのも、<認識は私の一部である>からであって、いいかえれば<私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみ説明されなければならない>からである。(このことを茂木氏は「認識のニューロン原理」と名づけ、心と脳の問題を考える際の第一原理として扱っている。)