『大論理学』ノート[2-3]
 
 
 
 

【第21回】第2巻第3篇第1章、絶対者
 
 朝日新聞夕刊(1997.4.3)の文化欄に長谷川宏氏へのインタビューを元にした記事が掲載されていました。興味深いのは、ヘーゲルの文章を<できるだけ分かりやすくしても残ってくる「異物感」があって、それは個人と共同体にかかわる文化の違いだと見えてきた>と長谷川氏が語っていることです。
 
 <たとえば「正−反−合」の三段階の図式で説明される弁証法で、日本では「合」の段階、つまり社会が全体としてまとまる状態に思い入れが強い。だが、ヘーゲルにとっては、個人と社会が激しく対立する「反」の段階が、はるかに重要だった。個人が社会と対立しつつ自己を確立していく過程を経て、近代社会が成立するからだ。それが実感をもって日本でも受け止められてきたのは、最近ではないかと長谷川氏は分析する。「自分も最初は、純粋論理の展開に関心があった。でも個人と共同体の問題にこそヘーゲル哲学の核心があると考えるようになったのは、ここ五年ばかりかなあ。和を大事にする日本社会の構造とヘーゲルの社会観の違いがはっきり見えてきて、理解が深まってきた」>
 
 さしずめ今回の「絶対者」は日本人好みの究極の「合」を示すカテゴリーだといえるでしょう。なぜなら、絶対者とはあらゆる多様性を止揚するところの絶対的同一性そのものであって、そこにはいかなる生成もなく、<本質、実存、即自有的世界、全体、部分、力──これらの反省した規定は……この根拠[絶対者]の中では、すべて没落している>というのですから。
 
 ところが、ヘーゲルは<絶対者が何かということは叙述されなければならない>と宣言し、絶対的同一性としての絶対者そのものから始めて、そこに<否定的なものとしての否定的なもの>、すなわち形式的な自己反省の運動(「反」)を見出し、ついには次のような断言に至るまでの論理的運動の叙述を、いいかえれば「絶対的同一性→属性→様相」の移行のうちに示される絶対者の自己開示の叙述を全うするのです。──<絶対者は、ただ運動を通してのみ最初の同一的なものと規定されるのであり、また同様に、ただこの運動を通してのみ絶対的形式をもつのであり、単に自己同等的であるものではなくて、自己同等を措定するものなのである。>
 
 ここで述べられている絶対者の(自己開示の)叙述あるいは運動は、歴史に対するヘーゲルの思想を彷彿とさせます。ところで、なるべくしてそうなったのか、なるがままにそうなったのか、叙述にはこの二類型があります。いうまでもなくヘーゲルの叙述は前者なのですが、結果からながめわたすと両者に大して違いを感じない私の感覚は、やはり「日本人」のそれなのでしょうか。
 
 以下は余談です。上記の記事によると、長谷川氏は<ヘーゲルに区切りがつけば、「日本回帰」ではなく、日本精神史を考えるつもりだ>とのことです。引き続き、同氏の言葉を引用します。<「日本では精神の連続性は芸術、文芸の美意識に濃厚に出ている気がします。広い視野のもとに日本の文化の流れをとらえたい」。>
 
 ──実は私自身も同じことを考えていました。私とヘーゲルとのつきあいは『論理学』を翻訳で読み噛るだけの作業、それも1年足らずの作業にすぎず、長谷川氏の5年にわたる訳業とは比較にもなりませんが、当面の作業に「区切りがつけば」私も日本精神史を美学的な視点から探究してみよう(たとえば和辻哲郎『日本精神史研究』の再読から始めてみようか)と考えていたのです。この符合は実に刺激的なことでした。以上、私事。(1997.4.6)
 
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◆現実性◆
 現実性は、形態のない本質(規定をもたない存立)と支えのない現象(存立をもたない多様)との統一である。この現実性は最初は絶対者そのものであり、外面的反省の対象にすぎないものである。しかし、絶対者とは内面と外面との統一なのであるから、外面的反省はそれゆえに内面的であり、したがって<反省は絶対者の否定的な自己復帰としてある>。第二に、現実性は本来的な現実性であり、可能性、必然性とともに絶対者の反省を形成する。第三に、絶対者とその反省との統一は絶対的相関であり、自己自身に対する相関としての絶対者(実体)である。
 
◆絶対者◆
 絶対者とはすべての述語の否定であるとともに、すべての述語の措定である。この否定と措定とを真の統一へと高め得ない弁証法は形式的・非体系的なものにすぎない。<けれども、絶対者が何かということは叙述されなければならない。>この叙述は絶対者の自己開示、あるいは絶対者の本性の展示にほかならない。
 
◆絶対者の開示◆
 絶対者の中では、本質的世界(即自有的世界)と現象世界、あるいは内面的全体性と外面的全体性とのあらゆる多様性は止揚されている。すなわち、絶対的同一性が絶対者の規定である。反省の運動もまたこの同一性の中で止揚されるのであるが、<まさにその点で、反省の運動は同一性に対して外面的なものである>。したがって、絶対者は反省の運動が受容するもの(多様な区別や規定)の彼岸であって、このことが絶対者の否定的な自己開示である。<これまで述べたところの有と本質との領域の論理的運動の全体は、その真の意味では、この開示の叙述なのである。>
 
 しかし、開示は積極的な一面をもっている。それは<仮象に対して存立を与えるところのものが絶対者自身であるということの開示>である。たとえば、有限者はその没落を通して絶対者に関係づけられるのであって、絶対者をそれ自身の中に含んでいる。このように、有限者とは自己を通して絶対者を見透かせるという透明性をもつもの、あるいはそれを通じて映現する絶対者によって吸収されてしまう媒体なのである。
 
 このような開示は絶対者自身の活らきである。それは反省と規定の活らき一般の否定(対立と多様性とに対立する同一者としての自己措定)にほかならない。<だから、絶対者の開示のみならず、その到達点であるところの絶対者そのものもまた不完全である。>単に絶対的同一性にすぎない絶対者は絶対的絶対者ではなく、ある規定性の中にある絶対者、すなわち属性にすぎないのである。
 
 ──ここで注意を要するのは、絶対者が属性(相対的絶対者)にすぎないのは、それが単に外的反省の対象であり外的反省によって規定されるものであるがゆえではないということである。というのも、<反省は絶対者に対して外面的であるが故に、直ちにそれに対して内面的である>のであって、したがって絶対者とは<それ自身絶対者をして自己の中に映現させ、そして絶対者を属性として規定するところの絶対的形式>なのだから。
 
◆絶対的属性◆
 属性は<本質的相関の二面の一方として現われたところの全体性>である。現象世界と本質的世界(即且向自有的世界)は本質的相関の二面としては互いに等しいものでありながら、それぞれ有的直接性・反省した直接性として固有の直接的な存立をもつものであった。しかし、絶対者においてはこれらの区別された直接性は仮象に引き下げられ、属性としての全体性が真の存立として措定される。
 
 属性がその内容と存立としてもっているものは絶対者である。絶対者を属性たらしめる形式規定は単なる仮象として措定されているのであって、それは<否定的なものとしての否定的なもの>である。この形式は空しい外面的な仮象、あるいは単なる様式にすぎない。
 
◆絶対者の様相◆
 属性は単純な自己同一性の中にある絶対者であるとともに、形式的な自己反省としての否定(規定性)である。後者は絶対者に対して外面的な反省であるから、絶対者の内面として見られる属性は自己を様相として、すなわち絶対者の自己外有・外面性・単なる様式として措定する。<絶対者は様相の中において、はじめて絶対的な同一性として措定されている。>
 
 絶対者は、反省的な運動そのものである開示の活らきとしてのみはじめて真に絶対的な同一性である。したがって、絶対者自身のこのような反省的な運動・規定の活らきこそが様相の真の意味なのである。<即ち様相は、絶対者自身を展示しているものであるところの透明な外面性である。>この外面的な有(様相)は内面性そのものでもあるのだから、開示とは<自己自身からの運動>である。いいかえると、<自己を啓示するということこそ絶対者の内容なのである>。このように絶対者は<自己自身に対する絶対的な自己啓示>にほかならず、その意味で絶対者は現実性である。
 
[註釈]スピノザの実体の認識は内在的認識ではない。なぜなら、彼は<絶対的な、即ち自己否定的な否定という意味の否定の認識>には進まず、したがってその実体は絶対的形式を含んではいないからである。なるほど実体は思惟と延長(有)の統一である。しかし、ここに含まれる思惟は外面的なものにすぎず、<規定と形式付けの活らき>あるいは<自己復帰的で、自己自身から始まる運動>として含まれているわけではない。そのためスピノザの実体には<人格性の原理>が欠けているのである。
 
 <観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。>(『エチカ』第二部定理七,畠中尚志訳)──この著名な定理が示しているのは、思惟と有とは絶対者を限定の形で表象(観念)するものにすぎないこと、そして絶対者は外面的反省としての一様相、すなわち悟性によって思惟と有の両規定の下で見られるにすぎないことである。スピノザにおいても絶対者の開示は属性へ、そして様相へと移行する点で完全なものではあるが、<これらの三者は内的な展開順序なしに、ただ次々と算え上げられるだけで、第三者[様相]は否定としての否定ではなく、自己に対して否定的に関係するところの否定ではない>のである。
 
 スピノザの開示や東洋的観念における流出説に比べると、ライプニッツの単子の概念──スピノザの全体性という一面的な原理に対立する反対の一面性として出てきた<分散的な完全性>の概念──には自己反省(自己否定的な否定の観念)が補われている。単子にはある種の自立性が与えられており、<単子は創造された本質である>。ライプニッツの体系は多くの進んだ規定──単子において自己反省の原理あるいは個別化の原理が立てられていること、神が単子の実存と本質の源泉であることなど──を含んではいるが、それらは思弁的な概念にまで高められてはいない。
 
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◆叙述について。『歴史哲学講義』(長谷川宏訳,岩波文庫)では次のように述べられている。<哲学が歴史におもむく際にたずさえていく唯一の思想は、単純な理性の思想、つまり、理性が世界を支配し、したがって、世界の歴史も理性的に進行する、という思想です。この確信と洞察は、歴史そのものにかんしていえば、一つの前提事項ですが、哲学にとっては前提事項ではない。理性──という表現をここでは神と関係づけることなくつかっておきますが、その理性が、実体であり、無限の力であり、みずから自然的生命および精神的生命をなりたたせる無限の素材であり、この内容を活性化させる無限の形式でもあることが、哲学的認識をつうじて証明されるのです。…わたしがいまのべてきたことや、これからのべることは、歴史哲学にかんする事柄にしても、たんなる前提事項というだけでなく、全体をながめわたしたあとに得られる結論事項でもあって、その結論をわたしが知っているのは、わたしがすでに全体を認識しているからです。>
 
 世界史の全叙述を<ながめわたした>「私」とはいうまでもなくヘーゲルのことだが、ヘーゲルにおいて成立した事柄は「この私」にも妥当することなのだろうか。
 

【第22回】第2巻第3篇第2章、現実性
 
 Aが現実的に有るとき、すなわちAが自己を啓示するというとき、AはAであるという以上のことがいわれているわけではありません。また、Aが現実的に有るならば非Aの存在の可能性も示唆されているのであって、AがAであることは偶然にすぎない。つまり、非Aが現実的に存在する事態もあり得たわけです。しかし、現実にAはAなのであるから、そこには必然性がある。
 
 とはいえ、このような形式的な必然性は「後付けの理屈」です。なるがままにそうなったものをなるべくしてそうなったものと取り違えているにすぎないのです。実際には多様な可能性の組み合わせが実在している(実在していた)わけですが、それらはしかし単なる可能性にすぎないものだったのです。
 
 ところで、ヘーゲルの場合この「単に〜にすぎない」という否定的な規定が論理の次元を一段高める際の決まり文句であって、いま述べた実在的な可能性は「単に可能性にすぎないものである」と規定されたとたん、より高次の現実性へと止揚されることになります。つまり、<もはや別のものではあり得ない>ところの実在的な必然性をもった現実性へと高められるわけです。
 
 しかし、この必然性もまた結果から外面的に見ればそうであったという「後付けの理屈」でしかないものです。必然性がこの相対性を免れるためには、つまり絶対的な必然性へと自らを高めるためには、自己の前提であったところのあの多様な実在的可能性(偶然性)そのものへと自己を自己自身の中から規定しなければなりません。
 
 絶対的であるとは、ヘーゲルの場合、他者・外部を排して純粋に自己の内部で遂行されるプロセスを形容する語彙でした。だから、絶対的必然性とは、自己が自己を自己の内部で区別し相関させる自己規定のプロセスとしての必然性そのもの──<絶対者の自己の中における運動>そのもの──なのであって、<絶対者を開示する巫女>としての役割を果たすものなのです。
 
 いまや本質論は二元論を脱して一元論に、あるいは普遍・個別・特殊の三位一体としての概念へと収束しつつあります。<自己自身に対する相関としての実体>がその端緒です。
 
 私は以前、本質論はその全叙述を通して「脳」の産出のプロセスを表現しているのではないかと、思いつきを述べたことがありました。さしずめ<自己自身に対する相関としての実体>がそれに当たるのでしょうが、私としてはここで、反−脳、反−生命、反−存在としての「虚体」(埴谷雄高)の論理学的位置づけの問題を提示しておきたいと思います。それは私自身の精神の健康保持のためです。あるいは、ヘーゲル論理学の佳境へ足を踏み入れるに際しての「護符」「呪言」として、虚体の思想を掲げておこうというわけです。(1997.4.13)
 
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◆現実性◆
 自己の啓示こそが絶対者の唯一の内容であった。このような<自己の啓示以外の内容をもたないような啓示>そのものとして、絶対者は絶対的形式(反省した形式)であり現実性である。
 現実的なものは自己を啓示する。<それは自己の外面性の中において自己自身であり、またただ外面性の中においてのみ、即ち自己を自己と区別し、自己を規定する運動としてのみ、自己自身である。>
 
◆偶然性(形式的必然性)◆
 最初の現実性は形式的なものであるが、その本質上内面性(即自有)と外面性の統一であるから、即自有として可能性を直接的に含んでいる。この可能性は形式的なものであって、<ただ或る物がそれ自身において矛盾しないという抽象的同一性という意味での自己反省>にすぎない。「AはAである」ゆえに「非Aは非Aである」といった関係づけを行う根拠が可能性なのである。このように、可能性はある可能的なものの中にその反対が含まれるという関係として、自己を止揚する矛盾である。
 
 形式的可能性の自己止揚の結果、現実性と可能性は統一される。この統一もまた一つの現実的なものであるが、それは<その他者、或るいは反対が同様に存在するような現実的なもの>、すなわち偶然性である。偶然的なものにあっては、可能性と現実性は無媒介・直接的に反転し、それぞれの反対者の中で自己と合致する。<この各々の他者における同一性が即ち必然性なのである。>
 
 必然的なものは現実的存在であり、有るものは必然的である。しかし、この必然性は、その二契機(形式的現実性と形式的可能性)が自立性の形態をもたない単純な規定であるから、形式的なものである。
 
◆相対的必然性(実在的必然性)◆
 形式的必然性は、自立した形態をもたない二つの形式規定(現実性と可能性)の直接的統一としての現実性であり、両者の区別に無関心なものとして規定されている。このような現実性は、したがって無関心な同一性という内容(単に差異的な二規定としての形式をもった多様な内容一般)をもつところの実在的現実性である。
 この現実性は実在の多様性の形態をとるが、その外面性は自己に対する内面的関係そのものである。<現実的であるところのものは作用することができる。或る物はそれが産出するところのものを通じて自己の現実性を告示する。他者に対するその関係は自己の啓示である。>
 
 実在的現実性は、その内容の充実した即自有として実在的可能性をもつ。<或る事物の実在的可能性とは、この事物に関係するところの諸々の状況の定有的な多様性である。>この定有の多様性は可能性であるとともに現実性でもあるが、それはそれ自身として止揚されるべき現実性であり、<単に可能性にすぎないものとしての可能性[単に可能的なものにすぎないという規定をもったもの]である>。
 
 したがって、実在的可能性の自己止揚の運動(否定)は自己との合致にほかならず、それは実在的必然性へと自己を展開する。実在的に可能なものは<もはや別のものではあり得ない>。──しかし、このような必然性は、その前提・出発点として或る偶然的なものをもつのであるから相対的である。<必然性はまだ自己自身の中から自己を規定して偶然性であることにはなっていないのである。>
 形式的必然性は内容と規定性をもたないものであったが、実在的(相対的)必然性は自らの中に自己の否定である偶然性をもつものとして規定されており、即自的にはここに必然性と偶然性の統一が、すなわち絶対的現実性がある。
 
◆絶対的必然性◆
 絶対的現実性は<もはや別のものではあり得ない>現実性である。この新しい現実性は<実在的可能性であったところの現実性から出て、自己自身と合致する>もの、つまり否定的なものとして規定されている。したがって、それは同時に自己の否定によって媒介された可能性としても規定されるが、この可能性(絶対的可能性)も<可能性自身と直接性との両者が同様に被措定有としてその中にあるような媒介>にほかならない。
 この媒介は絶対的必然性である。すなわち、<自己を偶然性として規定するところのものそのもの>、あるいは<自己の否定、即ち本質の中において自己自身に関係するところの有、即ちその中で有であるところの有>としての絶対的必然性である。
 
 絶対的必然性は、純粋有(単純な直接性)であるとともに純粋本質(単純な自己反省)である。絶対的に必然的なものは、「有る」故に「有る」とともに有る「故に」有る。それは絶対者の反省または形式であり、有と本質の統一であり、絶対的否定性としての単純な直接性である。
 絶対的必然性の区別された二規定、すなわち現実性と可能性は絶対的に反転する。<だから、絶対的必然性は盲目である。>この両規定はそれぞれ自由な現実性であって、純粋に自己の中で根拠付けられており、それ自身必然的存在である。
 
 この<ただ自己自身に対してのみ自己を啓示する>二つの自由な現実性の本質をなすもの、すなわち否定的なものとしての絶対的必然性は、両者を絶対的に現実的なものとして自由に解放することによって、両者の上に或る規定的な内容という<印章>を刻印し両者を没落させる。
 その結果、現実的なものから可能的なものへ、有から無へと必然性は盲目的に移行することとなるが、それは<自己疎外の中で却って自己自身を開示するところの絶対者の自己の中における運動>にほかならない。このような<有がその否定の中においてもつところのこの自己自身との同一性>は、<自己自身に対する相関としての実体>である。
 
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◆埴谷雄高の『死霊』は<主人公三輪与志と婚約者津田安寿子の特異な愛の物語である>──芹沢俊介氏は「埴谷雄高の死」(『正論』平成9年5月号)の中でそう指摘している。『死霊』は、<現世に対する否定態、逸脱する精神>すなわち虚体としての与志と、<女性の現在性そのもの>としての安寿子との<特異な恋愛小説>だというのである。
 このことの妥当性は措く。ここで興味深いのは、<否定性ないし否定態の極限>、あるいは<純粋な思索、思索が思索を生むということの無限の果てまでたどることによって到達する架空の実在>としての虚体について挙げられている例示である。
 
 たとえば、芹沢氏は、極限までやせ細り透明な身体性を示すまでに至った拒食症の姿を生でも死でもない虚体であるといい、セックスレスカップルの虚体的存在性やパソコンネットワーク上の無重力空間を駆けめぐる主体の虚体性を云々している。
 また、与志の兄高志の<女は同じものをつくり、男は異なるものをつくるという哲学>や<自覚的に子をもたないものだけが、まったく新しい未知の虚体(なくてあるもの)を創造する。子供が完全にいなくなった人類死滅に際しておこなわれる革命が純粋革命になるのだ>という思想を少子化に関連させて取り上げ、さらに自殺予告付きの脅迫状で学園際の中止をせまった中学生(らしきもの)の論理をめぐって、<私たちはここに自同律の不快をばねに世界に爪をかけようとしている子供の存在を実感する>といい<ここにおいて子供の自己は肉体を分離しようとしているのであり、一種の虚体を実現しようとしているとみなすことができる>と指摘しているのである。
 
 これらの例示を通して芹沢氏は、70年代後半を境に、時代は埴谷雄高の虚体の思想を乗り越えていった、少なくとも『死霊』第5章発表後の<埴谷雄高はその変貌をとらえそこねた>と結論づけている。
 このことの妥当性もここでは措く。自同律の不快にせよ虚体の思想にせよ、ヘーゲル論理学の現代的意味を考える上で、『死霊』の読解は欠かせない作業だろう。
 

【第23回】第2巻第3篇第3章、絶対的相関
 
 開示、啓示、告示、刻印、顕示、表示、出現、公開──本質論第3編に頻出するこれらの語彙群は、仮象、映現、仮現といった語彙群とは決定的に異なっています。後者が物質的過程を表現するのにふさわしいものだとすると、前者は精神的過程、それもどことなく原始的な観念操作を思わせる心性を表現するのに適したもののように思えるのです。
 
 こんなことを考えたのも、一つはたまたま時間つぶしに読んでいた『失われた時を求めて』の中に当時のフランスの新語「マンタリテ」が何度か出てきたからです。いうまでもなくマンタリテとは英語のメンタリティに由来する言葉で、レヴィ=ブリュルが『未開社会の思惟』で紹介したものだそうです。
 
 いま一つの理由は、絶対的相関と題された本章の中心をなす因果関係についてのヘーゲルの記述、とりわけ「作用と反作用」の節を読んでいて、野性の思考、ブリコラージュ論を想起したからです。相関とは「類感」のことなのではないか、アナロジーに対する原始的感覚・心性を念頭におけば、ヘーゲルの叙述はリアリティをもって迫ってくるのではないかと考えたからです。
 
 普遍と個別と特殊も、ヘーゲルが示した論理学的な定義からではなく、科学的因果関係ならぬ原始心性をもって想起すれば、それこそ生き生きと実感できるのではないか、<世界の進行について驚嘆する能力>(マックス・ヴェーバー)をもってすれば、単なる分析枠組み・認識枠としてではなく、実在の形式としてリアリティをもって把握できるのではないか。──
 
 さて、ともかくこれで本質論を終えました。有論から本質論への移行の部分もそうでしたが、概念論への移行についても納得のいかないところが多く残っています。それらは宿題として、先を急ぐことにします。(1997.4.19)
 
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◆絶対的相関◆
 絶対的必然性は<絶対者を開示する巫女>である。それは必然性一般でも一個の必然的存在でもなく、絶対者が自己をそれとして開示するところの絶対的形式であり相関である。絶対者の自己開示とは自己自身の措定であって、<ちょうど自然の光が或る物でも事物でもなく、その光の有は、ただその輝き[Scheinen]であるのと同様に、顕示[Manifestation]とは自己自身に同等な絶対的現実性である。>
 
 絶対的相関(自己の中での自己と自己との関係)の両面はともに全体性であり、それぞれ絶対的に存立するものである。それはまず実体[Substanz]とその仮現(顕示)としての偶有[Accidentz]との相関から開始され、実在的な相関(因果性の相関)を経て自己関係的な交互作用へ、最終的には概念へ、すなわち<主観性または自由の国>へと移行する。
 
◆実体性の相関◆
 絶対的必然性は<自己の自己自身との絶対的な媒介としての有>であり、<絶対的な自己反省態としての、即且向自有的な存立としての現実性>としての実体である。実体は有と本質の最後の統一であるから、両者の仮現(被措定有)である。この仮現は自己に関係する仮現であるために「有る」のであって、したがってそれは実体そのものである。このような<自己同一的な被措定有>としての<仮現する全体性>は、偶有性である。
 
 偶有性は<有の諸カテゴリーの仮現と本質の反省諸規定相互の間の仮現とを表示>しつつ運動するのであるが、この運動は<平穏な実体自身の出現としての実体の活動性>である。このように実体は自己の中に数多の偶有を包容している。実体は絶対的な力であって、ある偶有を現実性の中に移行するものとして規定(創造)し、これとは別の偶有を可能性の中に移行するものとして規定(破壊)するのである。
 
 実体と偶有とは直接的に同一なものであり、前者は後者の中に現在する。したがって、両者は実在的に区別されてはいない。しかし、<自己同一的な即且向自有>としての実体が<偶有の総体>としての実体から区別されるとすれば、両者の中間であり媒介するものであり統一そのものであるものが<力としての実体>(必然性)である。このように、<実体は、はじめは単に、その実体が自己を形式的な力として啓示するのみであって、その区別はまだ実体的ではないという、実体の相関にすぎない>のである。
 
◆因果性の相関◆
 実体は自己に反省した力である。すなわち、<各規定を措定し、これを自己から区別するところの力>である。実体が被措定有とするもの──それは実体そのものでもある──が「果」であり、向自的に存在する実体が「因」である。
 
[形式的な因果性]因は果の根源であり、果は因の啓示である。因は必然性として自ら運動し、自らの中から始まる。<それは自己の中からの産出の活らきの自立的な源泉である。>したがって、果は因の中に含まれていないものを含まない。<即ち因とは或る果をもつという規定にほかならず、また果とは或る因をもつということにほかならない。>このような因と果の同一性において因は果の中で消失し、因果性も消失する。
 
[規定的な因果相関]形式的因果性が果の中に消失することによって、即自的なものとしての因と果の統一が生じた。この同一的なものは、第一に即自有であり、<因果性を単に外面にもつにすぎないような内容>である。同一の事物が因果のいずれとしても現われるような偶然的・有限的な因果性は一つの分析命題であり、<この因果相関はその事物の本性から云えば、主観的な悟性の同語反復的な考察である>。このことは因と果の近接性、遠隔性にはかかわらない。
 
 このような因果相関を自然的有機的生命や精神的生命(歴史等)に不当に適用してはならない。なぜなら、<生物は因がそのまま果となることを許さない>からであり、また<精神の本性は、或る因を精神の中にそのまま連続させないで、これを中断し、転化する>からである。たとえ歴史に因果相関が認められるとしても、小さな原因から大きな結果を引き起こすことはない。それは機縁、外的な誘因以上のものではなく、むしろ<事件の内的精神によってはじめてその機縁として規定される>ものだからである。
 
 形式的因果性が消失して生じた因果の統一は、第二に実存する基体である。対立する二規定、すなわち因と果をこのような有的な基体に内属するものとして結合することは、因から因への無限逆行、あるいは果から果への無限進行を形成する。ここでは、因は果の中で消失するのではなく、果の中で再び生成するのである。あるいは、果は因の中で再び生成するのである。こうして、前には因果の同一性(基体)に対して外面的なものにすぎなかった因果性は、いまや作用する因果性として、基体に対立するものとして措定され、同一的存在との相関の中に立っている。
 
[作用と反作用]因は作用する実体である。因が作用する対象は、<或る他者、或る受動的実体としての自己>である。それというのも、因は制約されたものであり、前提されたものとしての自己に対する否定的な力だからである。ところで、受動的なものとは<その真の姿における制約であるところの現実性>であり、<単に受動的なものにすぎないところの即自有>である。したがって、受動的実体は能動的実体による強制力を受けるのであるが、この<強制力の加えられるところのものにとっては、単に強制力を加えることが可能であるのみでなく、必然的に強制力がそれに加えられなければならない>のである。
 
 このように、受動的実体は能動的実体によって措定される。<しかし他面においては、自己と合致し、そして自己を根源的なもの、即ち因とするのは受動的なものそのものの活らきである。>ここに成立するのが実体の反作用である。規定的因果性(有限的因果性)においても、作用される実体(果)が再び因となる点で反作用が生じていた。しかし、それは最初の因に対するものではなく他の実体に対するものだったのであり、したがってそこに無限累進が生じたのである。これに対して、いま述べた制約的因果性の運動においては、因は果の中で自己自身に対して関係するのである。
 
 因は作用し、この作用を通じて生起する能動的実体を反作用として自己の中に取り戻す。<これによって、有限的因果性において悪無限的累進の途を突破するところの作用は折り曲げられて、自己に復帰する交互作用、即ち無限[真無限]的な交互作用となるのである。>
 
◆交互作用◆
 規定的因果性における実体間の関係は、外面的な機械性の形態をとる。これに対して、制約的因果性にあっては、能動性の中に受動性が固有のものとして含まれているように実体間の関係は単に外面的なものではない。交互作用とは因果性そのものであって、<因は果の中において因として自己自身に関係するのである>。
 
 以上の過程を通じて因果性は概念へ、すなわち<絶対的形式として自己が自己から区別するところの絶対的な実体>へと到達する。このような実体は自己を二つの全体性に区別する。その一方は「普遍」であり、他方は「個別」である。普遍とは前に受動的実体であったもので、<その被措定有を自己自身の中に含み、この被措定有の中において自己同一的なものとして措定されているような単純な全体者>である。個別とは前に能動的実体であったもので、<自己同一的な規定性として同様に全体者であるが、しかし自己同一的な否定性として措定されている>ものである。そして、普遍性の本質である同一性と個別性の本質である否定性はそれぞれ他方の同一性・否定性と同一のものであって、両者のこの同一性が「特殊」である。
 
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◆新しい宗教思想が成立する地理的条件について、マックス・ヴェーバーは次のように述べている。<もろもろの合理的文化のその時その時の中心地点においては、いまだかつて完全に新しい宗教思想の成立したためしはほとんどなかった。…しかしもちろんそれは、隣接せる合理的文化の影響や印象が一つもないような所ではいまだかつて起こらなかった。その理由はつねに同一である。宗教的な性質の新しいもろもろの思想が可能とされるためには、人間は、この世界のもろもろの出来事にみずからの問いをもって立ち向かっていくということを、まだ忘れてしまってはいないことが必要なのである。…この世界の進行について驚嘆する能力こそは、この世界の意味を問うことを可能にする前提条件である。>(『古代ユダヤ教』内田芳明訳)
 ヘーゲルが新しい宗教思想家だというつもりはないが、ヴェーバーの文章は、ヘーゲルを読む際にとりわけ重要だと思われる哲学的思惟の地域性を説得力あるかたちで示している。
 
◆マルセル・プルーストは、『失われた時を求めて』の話者に次のように語らせている。<人はその思想によって人間なのです。思想は人間の数よりもはるかにすくない。だから同一の思想をもった人間たちはすべておなじです。思想は肉体ではないのですから、ある思想をもった一個の人間のまわりを肉体でとりまいているにすぎない多くの人間たちは、その思想を何一つ変えることのできない人たちなのです。>(第三編「ゲルマントのほう」井上究一郎訳)
 引用箇所の前後でドレフュス事件が話題にされていることから、そこにはプルーストの奥深い意図が込められているのかもしれないが(たとえば党派性の批判?)、ここに語られている思想、あるいは思想についての思想そのものは、どこかヘーゲルを思わせる。