『大論理学』ノート[2-2]
 
 
 
 

【第18回】第2巻第2篇第1章、実存
 
 ヘーゲルは『小論理学』(125節)の中で、物とその諸特性との関係を「持つ」という語で表現しています。<今やあるの代りに、持つという関係があらわれる。或るものも自己に即してさまざまな質を持ってはいる。が、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性は、或るものと直接的に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。>(松村一人訳)
 
 質としての規定性とは性状のことであり、これに対して<反省した質>としての特性は<それ自身規定であるような性状>のことです。特性は物自体と一体のものではなく、性状と違って<変化から離脱している>ものですから、自立的な物質あるいは自由な元素として、むしろそれこそが本質的存在であるとされることになるのです。物質のこのようなとらえ方は実に面白い。ソクラテス以前の哲学者たちのあの豊かな断章の世界を思わせます。
 
 D.H.ロレンスは、古代ギリシャ人のいうテオス(神)について、<ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ>といっています。たとえば、咽の渇きそれ自身が神であり、<水に咽をうるおし、甘美な、なんともいえぬ快感に渇きが医されたならば、今度はそれが神となる>、そして、<水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象する>というのです。
 
 <だが、これは決して単なる質ではない、厳存する実体であり、殆ど生きものと言ってもいい。それこそたしかに一箇のテオス、つめたいものなのである。が、つぎの瞬間、乾いた唇のうえにふとたゆたうものがある。それは《しめり》だ、それもまた神である。初期の科学者や哲学者にとっては、この《つめたいもの》《しめったもの》《あたたかいもの》《かわいたもの》などはすべてそれ自身充分な実在物であり、したがって神々であり、テオイ[神々]であった。>(福田恆存訳『現代人は愛しうるか』)
 
 実に気持ちのいい文章です。翻訳も素晴しい。できればヘーゲルもこのような文章で読んでみたいものです。──脱線しました。今回読んだ中では、物質の多孔性というアイデアも面白いものでした。ヘーゲルはそれを物理学から得ているようですが、『小論理学』では<この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである>と素っ気ない。(1997.3.16)
 
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◆現象◆
 有論は「有が本質である」という第一命題を含んでいた。これに対して、本質論第1篇は「本質が有である」という第二命題を内容としている。この本質から生じた有(直接性)は、第一に実存であり、第二に現象であり、第三に本質的相関である。
 
◆実存◆
 根拠としての本質は自己を止揚し、本質的な有としての実存の中へ移行する。本質は実存である。すなわち、<実存は本質の絶対的な外化であって、本質はこの外化の彼岸に残留してはいない>のである。
 
◆物とその諸特性◆
 実存は、実存するもの(止揚を通じて自己を措定する直接性としての否定的統一)であり、物(媒介の自己反省によって成起した直接性)である。ところで、実存は<それ自身の中に媒介の契機をもつもの>であるから、物と実存するものとの区別そのものは、それぞれ物自体と外面的実存として実存の媒介の契機の中に含まれている。
 
[物自体と実存]最初の直接的な実存は、本質的な実存(物自体)と媒介された有としての非本質的な実存(多様性)とに区別される。前者、すなわち物自体は<止揚された媒介を通じて現われたところの、本質的な直接的存在としての実存者>である。(カントのいう物自体は実存と区別された物であり、可能的なもの、表象上・思想上の物にすぎない。)
 
 物自体と多様性の関係は、最初は外面的である。しかし、<多様性は、物自体に対する仮象という形で、……物自体との必然的な関係の中で、はじめて自立的存在をもつ>のである。いいかえると、<物自体に対して外面的な実存として現われたところのもの[多様性]は、物自体そのものの中の契機である>。こうして、物自体と多様性(外面的実存)は一つのものとなり、<互に外面的反省の関係に立つところの多くの物自体が存在することになる>。
 
 ところが、物自体は他の物自体に対する外面的関係の中に自己の規定性をもつのではない。そうではなくて、規定性は<物自体が或る他者としての自己に対して行う本質的媒介>なのである。したがって、物自体は事実上合致して<外面的反省の中において自己自身に関係するような唯一の物自体>となり、<他者としての自己に対するその物自体固有の関係>が物自体の規定性を、すなわち特性を形成することになる。
 
[特性]性状が直接的な規定性であり他在の中へ移行するものであったのに対して、特性は<それ自身規定であるような性状であって、……変化から離脱している>。したがって、物はいろいろの特性をもつが、これらの特性は物に固有な規定であり、物自体は<その諸々の特性の中に[制約された]根拠として存在している>のである。しかし、ここでいう根拠関係は、物が一般にその諸々の特性の根拠として規定されているという意味ではない。むしろ、特性そのものがそれ自身として根拠なのである。
 
[物の相互作用]物自体は諸々の特性をもち、したがって多くの差別的な物が存在することになる。これらの物はその諸々の特性を通じて本質的な交互作用の関係に立つのであるが、この交互関係こそが特性であり、物はこの関係を離れてあるものではない。ここに一つの転倒が生じる。すなわち、特性の方がむしろ自立的存在であり、物は非本質的存在である。特性こそが物の存立を形成するところの自立的な、単純な自己連続性をもつ多種多様な物質であり、物はこれらの物質から成立するのである。
 
◆物の物質からの成立◆
 特性は物質へ、あるいは独立の元素へ移行する。物は物自体としては<抽象的な同一性、単純に否定的な実存>にすぎないが、諸特性によって規定されることで「このもの」となる。「このもの」としての物は多くの自立的な物質(元素)からなるが、これらの物質の結び付きは<単に量的な関係であり、単なる集合、種々の物質の「もまた」ということににすぎない>。
 
◆物の解消◆
 物質は「このもの」としての物の内外を出入りし、循環する。<即ち物そのものは固有の規準または形式をもたないところの絶対的多孔性である。>ところが、物は多くの自立的な物質の外面的・量的結合(集合)にすぎないのではなく、同時にまたそれらの否定的関係でもある。すなわち、物の中には多くの物質が共存するが、同時に<一つの物質は他の物質が存在するかぎりは存在しないという関係>にもあるのである。このことが<物の点性>である。
 
 このように、物質は互いに浸透しあうが接触することはない。<故に物質は本質上有孔的であって、一つの物質は他の物質の孔、即ちその非存在の中に存立する。>こうして、実存は「このもの」としての物の中で──<即自有的な有または自立的存立であると共に、非本質的な実存であるところの一個体>の中で──その完全性を獲得する。したがって、実存の真理は<その即自有を非本質性の中にもつ>こと、あるいは絶対的な他者、自己の空しさを自己の根底とすることにある。かくして、実存は現象となる。
 
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◆物質の多孔性をめぐる註釈の中で、ヘーゲルは次のようにいっている。<物は第一に「このもの」であり、第二に「もまた」であるという二つの規定をもつ。>第一の規定は<物の点性>を、いいかえれば物が多くの物質の否定的統一として成立していることを表現し、第二の規定は物が多くの自立的な物質の外面的結合(集合)であり量的限界であることを表現している。また、第一の規定は「形式」に、第二の規定は「質料」に相当する。
 

【第19回】第2巻第2篇第2章、現象
 
 ある事象と他の事象を同一性の相の下に見るとき、そこに「関係」としての法則が定立されますが、この時点では事象間の関係はそれぞれの内部にいまだ構造化されていません。法則は必然性をもたず、だから証明が必要なのです。ところが、ある事象が他の事象と同一の構造をもちつつ自立的であるとき──ヘーゲル流の表現では、ある事象が他の事象に反省することによって自己に反省するとき──法則は実在化し、ここに現象世界(事象)と本質的世界(構造)の対立が生じます。しかし、この両世界は共に没落し、全体性としての世界、すなわち宇宙は本質的「相関」の世界となっていくわけです。
 
 このように、同一性(差異性)、対立、そして<自己の矛盾の中において没落した対立>としての根拠へと法則は進展し、内面的統一としての「関係」は本質的「相関」へと深化していきます。ところが、ヘーゲルの場合、「同一性」「差異性」「対立」「矛盾」「根拠」は、いずれも純粋反省規定として「現象」よりも下位のカテゴリーに位置づけられています。これは一般的な通念から見ると逆立ちしています。私たちはまず現象の中に本質的要素と非本質的要素を見い出し、ついで両者の根拠関係を、さらに矛盾や対立や差異性や同一性を見い出すのではないか。──
 
 前々回のレジュメを送信した時点では、私自身もそう考えていました。しかし、よくよく考えてみると、現象の中に本質と非本質(有)を見い出すというとき、私はそこでいう本質の概念をどこで入手したのでしょう。「有が本質である」という命題と「本質が有である」という命題を手に入れていたからこそ、私は実存(現実存在)を本質的な有であると見定め、そこに現象(有)と法則(本質)の二契機を見い出し得たのではなかったか。──本章を読み終えて、そのように思い至りました。
 
 それにしても、本質論は面白くない。退屈です。有論の方がよほど刺激に満ちていました。これは一つには私自身の気持ちのあり方に問題がある(ヘーゲルへの最初の頃の「みずみずしい」関心がやや薄れてきたこと)からですが、どこまでいっても同じことの繰り返しで同じ場所へ連れ戻される(ように思える)本質論の叙述そのものに起因するのではないでしょうか。(廣松渉は、ヘーゲル論理学は「読者」の内なる対話を俟たなければ論理的に進展しないと言っています。確かに、有論を読んでいたときにしばしば感じた陶酔は、私自身の内なる対話がもたらしたものだったように思います。)(1997.3.23)
 
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◆現象◆
 実存が直接的なもの(有)ではなく反省した実存であること──根拠がそれ自身実存へ移行したものであること──が、実存の中にある本質の契機を形成する。<実存が自己を現象と規定することによって、実存がこのような反省した直接性であることがまた措定されるのである。>すなわち、現象とは本質的な実存である。
 
 実存の本質性は非本質的なものから区別され、第一に、<現象の変転の中にあって恒常的に存在する>自己同一性としての法則となる。第二に、現象の本質をなす法則は現象自身と対立し、現象世界と本質的世界の対立が生じることとなる。第三に、この対立は──反省規定としての同一性が対立へ移行し、矛盾を経て根拠へと没落したように──根拠へ復帰し、現象世界と本質的世界とは没落する。
 
◆現象の法則◆
 現象には積極的な自己同一性、すなわち本質的内容が含まれている。この内容は、第一に偶然的で非本質的な変転する定有であり、第二に<変転の底にある恒常なもの>であるという二面をもつ。現象は<非本質的な多様性の形態をとるところの存在的な多面的差異性>であるが、その反省した内容は多様性を単純な区別に還元する。この内容が、現象の法則である。法則は現象の中に現在しているのであって、その彼岸にあるものではない。<実存する世界はそれ自身法則の国>なのである。
 
 法則と非本質的実存(現象)との同一性は直接的なものにすぎない。たとえば、落下運動の法則において空間と時間は本質的に結合されているが、その関係はまだ直接的・外面的なものであるにすぎない。したがって、法則は証明を、すなわち<法則が単に経験的に見出されるにすぎないものではなくて、むしろ必然的であるという認識のための媒介>を必要とする。法則はいまだ現象の否定的統一ではないのである。
 
◆現象的世界と即自有的世界◆
 法則の二面は法則の中で統一されているが、いまだ<内面的統一>にすぎないものであり証明が必要であった。しかし、法則の互いに異なる二面の各々が<その他者をそれ自身に含むと同時に、また自立的存在として、この自己の他在を排斥するような存在>であると規定されることによって──いいかえれば、法則の同一性が実在的なものとなることによって──<法則は、その両面の否定的な形式という前には欠如していた契機を獲得する>。かくして、法則はそれ自身としての全体性を獲得し、<自己に反省した現象は、いまや即且向自的世界として現象する世界の上に位するところの一世界である。>
 
 実存の全体性として即且向自的に存在する世界、すなわち<超感覚的世界>はそれ自身絶対的な否定性または形式であり、その自己反省は自己への否定的関係である。したがって、この世界は対立を含み、自身を現象世界(非本質的世界)と本質的世界に反発する。ここに根拠関係が蘇ってくるが、それは自己の矛盾の中において没落した対立である。
 
◆現象の解消◆
 法則の内容は、最初は互いに無関心な差異的な内容にすぎないものであった。しかし、実在化されることによって法則の内容は観念性に高められ、その内容をなす二面はそれ自身の中にその他者をもつものとなる。こうして法則は本質的相関となった。現象世界と本質的世界はそれぞれ没落し、世界はいまや本質的相関としての世界である。<本質的相関は両者の形式統一の完成なのである。>
 
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◆ヘーゲルは論理学の進展に関して次のように述べている。<他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動は、これに反して、発展である。>(松村一人訳『小論理学』161節補遺)
 廣松渉は、ヘーゲルの弁証法は<論理的進展の構制に関しておよそ構案が整っておらず、「読者」の“内なる対話”を“狡智的に”進行せしめる配備となっているかぎりで辛うじて議論が進捗しうるにすぎ>ないという。(『弁証法の論理』第四信)
 たとえば、本質論での論理的進展である反照[Scheinen]──武市訳では「映現」または「仮現」──について、廣松は次のように述べている。<反照[Reflexion]ないし照映[Scheinen]はそれ自身としては存在上の進展をもたらす筈もありません。進展が生ずるとすれば、それは「読者」が“項”ないし“極”を自己完結的なものとして悟性的な抽象態において固定化していた思念から、反照的な関係規定態に即した概念的把握へ進むこと、この把え返しに際して、悟性的に固定化された抽象的規定を述語にするかぎりでは矛盾的対立の両極的被措定項が止揚(正・反=合)されること、著者たるヘーゲルに仕向けられた「読者」のこの営為に俟ってのことです。>
 

【第20回】第2巻第2篇第3章、本質的相関
 
 前回、本質論は面白くない、退屈だと書きました。その理由はもしかすると本質論が二元論を基本にしているからかもしれないと思い至ったので、このことについて簡単に述べてみます。
 
 有論は生成と消滅、そしてこれらの合成としての他者への移行(成)によって展開されるわけですが、これは自己と他者の存在論的な違いが構造化されていない多元論の世界ですね。(あるいは、多数の有が相互に移行し合う一元論の世界だといってもいいのかもしれません。ただ、そういってしまうと、ヘーゲルにおける汎神論の世界と一神教の世界との関係をめぐる煩わしい、しかし刺激的な議論を展開したくなるので、今のところは止めておきましょう。)
 
 これに対して、本質論は本質的なものと非本質的なものとが拮抗し合う二元論の世界です。あるいは、存在論的に異なる二つの世界が相互に反照し合い、やがて構造化された対立としての相関を経て一なるものへと展開される関係の世界です。今回の「本質的相関」の章では、本質的世界と現象世界(非本質的世界)の関係が全体と部分、力とその発現、内面と外面といった相互に対立するカテゴリーの相関関係へと変奏され、やがて現実性(実体)の生成、概念の生成へと展開されていくわけです。
 
 本来二元論には二元論の面白さがあるに違いないのです。(以前、ある風変わりな医師とその患者との三人で一回限りの句会を催した際、一元論は面白くない、二元論こそ世界を面白くすると意気投合したことがあります。一元論に立った俳句など読む気も詠む気も起きません。余談)しかし、本質論で展開されるヘーゲルの二元論にはどういうわけか刺激を感じないのです。
 
 身体と精神、自己と他者、善と悪──これらはかならず闘争します。つまり、二元的なものがあいまみえる「境界」的な場が想定されています。ところが、ヘーゲルの本質論にはそれがない。ダイナミックな関係構築へ向けた闘争のないところに刺激があるはずもない。(誤解のないように補足します。私は「身体と精神」や「自己と他者」といった「問題」が論じられるべきだといっているのではありません。刺激が欲しいといっているわけでもありません。)
 
 ヘーゲルが本質論で展開しているのは、オブジェクト・レベルでのある二項の対立がメタ・レベルにおけるこれと異なる二項の対立へと写像され、そこに「真理」の表現を見るといった階層性をもった二元論なのです。(たとえば、オブジェクト・レベルでの現象世界と本質的世界の対立が、メタ・レベルでの有的な直接性[部分]と反省した直接性[全体]との本質的相関のうちに写像され、その「真理」が表現される。)
 
 そして、このような展開をもたらすのが、例の<自己の矛盾の中において没落した対立>としての根拠への復帰という機制なのです。これはほとんどマンデルブロー集合の世界、フラクタルの世界ですね。しかも、倍率に対する感覚を抜きにしてフラクタル幾何学の図形を見ているようなもので、どこまで行っても同じことの反復でしかない。レベルの違いを際立たせる「境界」がないからです。もしかすると「境界」は読者が設営すべきなのでしょうか。
 
 ──途方もない議論を展開しているのではないかと恐れています。(1997.3.30)
 
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◆本質的相関◆
 相関とは他者への反省である。したがって、本質的相関は二つの側面を、すなわち<二つの自立的な全体性として措定されているもの>をもっている。それは直接的には全体と部分の相関であり、次いで一方がそれぞれ他方の契機であるといった力とその発現の相関へ、そして関係の不等性が止揚された内面と外面の相関へと移行する。
 
◆全体と部分との相関◆
 即且向自的に存在する本質的世界と直接的実存の現象世界が、それぞれ全体と部分の相関の二側面を形成する。両者はそれぞれ自立性をもっているが、それは<各々が他者を自己の中に映現させるという形での自立性であって、従って各々は同時に両者のこのような同一性としてのみ存在する>。
 
 全体は部分を欠いてはあり得ず、全体がなければ部分は存在しない。それゆえ両者は互いに制約しあうのだが、それは実在化されており、かつての被制約者と制約者との関係よりも高次なものである。こうして<相関の両側面が相互に制約しあうものとして措定されることによって、各々の面は、それ自身一つの直接的な自立性であると同時に、その自立性はまた、それぞれ他の側面によって媒介または措定されているのである>。
 
 相関の両面はそれぞれその自立性を他の面においてもつ。したがって、<相関の真理は媒介の中に成立する>。相関の本質は、全体(反省した直接性)と部分(有的な直接性)の矛盾が根拠へと復帰したものとしての否定的統一にある。すなわち、全体と部分との矛盾は否定的統一としての力の中へと解消し、全体と部分との相関は力とその発現との相関へと移行する。
 
◆力とその発現との相関◆
 
[力の被制約性]力は、第一に有的な直接性の契機をもち、第二に反省した存立と直接的な存立との統一であり、第三に外面的な直接性を前提・制約としてもつ活動性である。この前提は物ではなく、それ自身また力である。つまり、<力の活動性は自己に対する他者としての自己自身によって、即ち或る力によって制約されている>。
 
[力の誘発作用]力の前提作用は交互的であって、力は制約しあうものとして<それが活らきかけるところの他の力の発動のハズミとなる>。このような交互関係にある二つの力、すなわち誘発する力と誘発される力という形式規定は両者に同様に属しており、それゆえこの二つの力は同じものである。力はその発現によって<「他者に対する定有」の形態を自己に与える>のであるが、一方で<力はこの外面性の中において、ただ自己にのみ関係する>のである。
 
[力の無限性]力の活動性とは、自己を発現することである。また、力の発現・外化とは、受動性(誘発される力)が能動性(誘発する力)そのものの中にあるということにほかならない。さらに、力に対して現われる外面性は力によって媒介されたものである。同様に、力の本質的同一性も力の否定によって媒介されている。<云いかえると、力は力の外面性が力の内面性と同一であるということを外化するのである。>
 
◆内面と外面との相関◆
 内面は自己への反省の形式(本質性の形式)として、外面は他者へ反省した直接性の形式(非本質性の形式)として規定される。しかし、この両規定はただ一つの同一性を形成する。このことは、力とその発現との相関の本性が明らかにした。
 
 内面(本質)と外面(有)の<各々は、まさにその他者によって、それが本来あるものであり、相関の全体性なのである>。それゆえ、或る物の外面性こそは<それが本来あるところのものの外化>なのであって、<この自己外化は或る物の本質の啓示である>。このような現象(外面)と本質(内面)との同一性の形において、本質的相関は現実性となる。
 
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◆境界について。森敦は「死者の眼」(『意味の変容』所収)で、円周の作図によって分かたれる二つの領域のうち境界がそれに属する領域を外部といい、境界がそれに属さない領域を内部といっている。<内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば、内部といえるのだから、内部にあっては、任意の点を中心とすることができる。>
 
 さらに「宇宙の樹」(同)では、トポロジーから近傍という概念を導入し、これを次のように定義している。<近傍は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、近傍は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば近傍といえるのだから、近傍にあっては、任意の点を原点とすることができる。境界も円である必要もないばかりか、場合によっては域外の任意の点も原点となる。これも近傍をなし結合するから。>
 
 つまり、「死者の眼」での内部が「宇宙の樹」では近傍と定義されたわけだ。ところで、近傍は双曲線空間をなし、人間は常にこの非ユークリッド空間に<矛盾として実存する>のである(上掲書覚書)。