『大論理学』ノート[2-1]
 
 
 
 

【第13回】第2巻第1篇第1章、仮象
 
 本質論を通して、単純な即自有(否定性)から定有、そして無限的な向自有(本来の本質そのもの)へと本質は自らを規定していきます。ヘーゲルの語彙を使ってこのプロセスを定式化すれば「反省→現象→啓示」となるのですが、私はそこに生命の発生・進化を通して脳という器官が意識の場所、精神活動の座となっていくプロセスの表現を見ることができると考えています。
 
 本質の運動の三区分に即してこのことを見てみると、第一は<自己の内部の各規定にとどまっているところの単純な、即自有的本質という規定>で、これは諸器官へと分化しない胚、あるいは単細胞生物のようなものを意味します。
 第二は<定有の中へ現われ出たものという規定、云いかえると、その実存と現象という面での規定>で、ここでは分化した諸器官(諸定有)の構造(実存)と機能(現象)の関係が取り上げられます。
 第三は<その現象と合一したところの本質、即ち現実性としての規定>で、<それ[本質:引用者註]は自己を啓示する>とされるように、この段階では諸器官の関係の関係を司る純粋機能とでもいうべき意識・精神活動・認識作用がその物質的過程(脳内過程)と不即不離の関係にあることが示されます。
 
 本質は運動・過程として捉えられるべき事柄です。仮象から本質へという無限の自己関係こそが本質そのものなのです。それは主観的な意味での反省的運動(認識)であるとともに、むしろ物質の、というより物質の集積体の自己模倣活動としての生命の自己自身への折り返し(反射、反照)、自己の二重化、パラレリズム(対句法)的反復といった客観的な反省的運動です。<外的反省[主観的反省]は外的なものではなくて、同様にまた直接性そのものの内在的な反省[客観的反省]である…、云いかえると措定的反省によって存在するところのものは即且向自有的な本質[主観的かつ客観的な本質]である>といった叙述には、神秘的な要素はいささかも含まれていないのです。
 
 見田石介は、<第一部[有論]では「限界」がむずかしかったのですが、第二部[本質論]では「反省」が、ちょっと楔形文字のようにむずかしい>(『ヘーゲル大論理学研究第2巻』大月書店)といっています。また、レーニンも『哲学ノート』に<反照性の諸種類──外的反省、等々──は非常にわかりにくく述べられている>(松村一人訳)と書き残しています。確かにむつかしく、わかりにくい。それはおそらくヘーゲルの文章では反省的運動の主体が掴みにくいことによるのでしょう。
 
 もっともこの行為主体の曖昧性は『大論理学』全編にいえることであって、それがヘーゲルの思想の神秘主義的解釈をもたらす原因なのだと思います。(私の解釈も多分その一種。もっとも私自身は当面楽しみながら「ヘーゲルの神秘主義」にまどろんでいようと思っている。)しかし、<光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光にかんして使用される>(『小論理学』112節補遺)言葉である反省(反射、反照)の主体とは一体何でしょうか。ある事態を名指す名詞が動詞化するとき、そこには一つの運動が、したがって運動にまつわる原感覚のようなものが渦巻いています。それらの総体を何らかの主語を使って表記しようとしても、<光あれ>という命令法の行為主体を仮構するようなものであって、どだい問題設定そのものに無理があるのです。<楔形文字のようにむずかしい>ヘーゲルの反省に関する叙述の難解さは、私たちの思考を縛るものの強靭さを逆に示しているのだと思います。(1997.2.9)
 
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◆本質◆
 動詞の「有る」[sein]は過去分詞[gewesen]の中に本質[Wesen]を含んでいる。このように本質とは有の無限の運動を通じて現われたもの──<有がその本性によって自己を想起し、この自己内行を通して本質となる>──のであり、したがって媒介されたものである。それは有に対する外的な否定としてあるような抽象物ではなく、有がその中で否定されているような有、すなわち即且向自有である。
 
 本質の運動は、<自己を自己に対立させる>(即自有としての本質)と同時に<自己との区別の中にありながら自己との統一である>(向自有としての本質)ような規定作用であって、<こうして本質は自己の即自有に等しいところの定有を自己に与えて、概念となる>のである。
 
◆本質的存在と非本質的存在◆
 有から出て来た本質は有と対立する。そこでは、有は本質に対立するものとして非本質的存在であり、本質も本来のそれではなく本質的存在にすぎない。この最初の形において本質は有と他者の関係に立ち、したがって定有の領域へと逆行する。この本質的存在と非本質的存在の区別は外面的な措定、つまり第三者が外面的な顧慮と考察に基づいて行う分離にすぎないものであって、したがって同一の内容が時には本質的と見られ時には非本質的と見られることになるのである。
 
 ところで、本質とは有を絶対的に否定するものであり、直接的な有や他者との関係のもとにある定有を止揚するものである。したがって、本質と全く区別された有や定有、本質とは別のものとして自己を保持するような有や定有は、単に非本質、すなわち仮象にすぎない。
 
◆仮象◆
 本質の中に止揚された有は仮象として、その空無性を本質の中にもつものとして存在する。それは<反省された直接性>として存在する。いいかえると、<自己の否定をその媒介とすることによってのみ存在するところのもの>である。この意味で、仮象は懐疑論の幻影、観念論の現象と同様のものであって、<これやあれやのいろいろの内容をもつことができるが、しかしどのような内容をもつにしても、それは仮象自身によって措定されたものではな>く、<仮象は内容を直接的にもつのである>。
 
 仮象を本質から区別する諸規定は本質自身の規定である。仮象を形成するのは非有の直接性であり、その空無性は<即自的には本質そのものの否定的な本性である>。このように、仮象は<即自有的な否定性と反省した直接性>の二契機をもつが、これらは直接性と否定性との同一的な統一としての本質の二契機でもある。したがって、仮象とは本質が<自己における無限の運動として自己自身の中に含んでいる>もの、つまり<本質の自己自身の中における映現>である。<ところで、このような自己運動の中にあるところの本質は、即ち反省である。>
 
◆反省◆
 本質とは運動であり、反省(反射、反照)である。本質における成、すなわち反省的運動は<無から無への運動>であり、<それによって自己自身に戻るところの運動>であって、それは<自己以外に自分が否定する何ものをももたず、ただ自己の否定的なものそのものを否定するにすぎず、しかもこの自己の否定的なものが、またこの否定作用の中にのみある>といった純粋な否定性である。
 
[措定的反省]
 反省とは<自分自身と合致するところの否定>である。このような自己に関係する否定は自己への還帰としての自己同等性をもたらし、また自己自身の止揚としての直接性、すなわち措定された(媒介された)有の直接性をもたらす。ところが、この<否定的なものの自己への復帰としてのみ存在するところの直接性>こそ、反省的運動の出発点をなす仮象の直接性なのである。
 
 このように、反省とは措定しかつ前提する運動である。本質がそこから出現する前提、すなわち反省の出発点となる直接的存在の超越こそが直接的存在への到達につながるような自己運動、<自己の中から行われる運動>こそが反省なのである。<本質は自己自身を前提するが、またこの前提の止揚が本質そのものである。>そして、反省が自己の他者としての直接的存在から出発するとき、それは外的反省である。
 
[外的反省]
 上述の措定的反省(絶対的反省)が措定された有としての仮象を前提とするのに対して、外的反省(実在的反省)は直接的存在物──単なる被措定有や契機ではない自立的な有──としての<或る有>を前提とする。直接的存在と外的反省の関係は、有の領域における有限者と無限者の関係に相当する。また、外的反省は直接的存在と自己反省を両項とする推論であり、両項の関係が推論の中辞である。
 
 しかし、一方で外的反省は直接的存在を措定する。直接的存在は反省によってその否定者・他者として規定され、しかも反省はこの規定を否定するのである。こうして外的反省の外面性は止揚されることとなり、<外的反省は外的なものではなくて、同様にまた直接性そのものの内在的な反省であること、云いかえると措定的反省によって存在するところのものは即且向自有的な本質であること>が明らかになる。かくして反省は規定的反省となる。
 
 ところで、反省は一般に主観的な意味に取られ、意識の反省、特殊と普遍(規則、原理、法則)を両規定とする悟性の反省と見られる。しかし、ここで問題にしているのは反省一般なのである。カントのいう判断力、<所与の特殊に対する普遍の探究>としての反省はいまだ外的反省、すなわち主観的なものにすぎない。
 
[規定的反省]
 規定的反省は、措定的反省と外的反省との統一である。措定的反省が無(仮象)から始まり外的反省が直接的な有から出発するのに対して、規定的反省は被措定有としての定有を前提とする。この被措定有は本質の否定であり、しかも<自己に反省した否定>であるという意味で反省規定である。
 
 反省規定は<自己自身への反省態>を根底としているものであって、有の規定性である質とは異なり、<移行しない規定性としての被措定有>であり<相互の牽引または反発をもたない空虚の中に浮んでいるところの自由な本質性>として現われるものである。この本質性の中で規定性は自己を無限に固定し、各々の反省規定は本質的仮象を形成する。この点で、規定的反省は<自己の外に出たところの反省>である。
 
 反省規定は被措定有としては否定そのものであり本質に対する非有であるが、この否定は自己自身と他者との統一であるがゆえに本質性なのである。また、反省規定は同時に自己自身に反省した関係であって、そうであるかぎり<反省の規定性はそれ自身において他在への関係である>。しかし、それは静止的な規定性としてあるのではなく、<被措定有の止揚であり、無限の自己関係>なのである。
 
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◆D.H.ロレンスは、黙示録論『現代人は愛しうるか』(福田恆存訳,中公文庫)の中で、古代異教世界の<回転式形象思考法>を近代の<連鎖進行思考法>と比較して次のように書いている。<人々がその昔、意識の場所としていまだに心臓や肝臓のことなどを考えていたころには、このように前進してやまない思考過程など、夢にも想いつかなかったのである。彼等にとって、思想とは、感情の知覚の完成せる状態であり、なにかたえず累積し、深化するものであって、感情が意識のうちにおいてそれ自身つぎつぎに深まり、やがてそこに一つの充実感を現前せしめるものを意味していた。思考の完成とは、渦巻のような深淵、情動的知覚の奥深くへ、測鉛を垂れることであった。そして、この情動の渦巻く深みにおいて、決着はおのずから形を成した。しかし、この決着は進行途上の一段階などというものではなかった。その先なおも遠く曳きずらねばならぬ論理の鎖などありはしなかったのだ。ここに吾々は過去の預言的な方法や神託的方法の価値を認めざるを得ない。>
 ──ここでロレンスの文章を引用したのは、心臓や肝臓を意識の場所として考える思考法から脳を意識の座として考える思考法へと至るプロセスがヘーゲルのいう反省的運動のプロセスと論理的に相同なのではないかと考えたからである。もしそうであれば、いやそのような類推とは関係なく、ロレンスのいう預言や神託の価値について考えることは、思考の自在性、可塑性を獲得するためのスリリングな試みだと思う。
 

【第14回】第2巻第1篇第2章、本質性または反省規定
 
 「松島や」と詠んだ後で、心に浮かぶ様々な像や辞を吟味して「松島や松島や」と結ぶ。ここに表現されているのは「松島は松島である」という主観的かつ客観的な事柄であり、「松島」という個別そのものなのです。(これら二つの表現の切片を結ぶ感嘆詞「ああ」を情緒的詠嘆と見るのは、物と物に即した心の動きと両者の関係の三つ組を総体として言葉の組み合わせへと形式的に写像する言語ゲームとしての俳句を読み損なっています。論理学的にいえば、これを情緒的詠嘆と見るのは、「松島」の質としての「松島性」とでもいうべき抽象物を表象する第三者の外的反省にすぎません。)
 
 「Aは」と「Aである」とを媒介する反省的運動は、個別を普遍へと連結する判断力によってではなく、AはAであって非Aではないという論理的区別──他者との区別ならぬ自己自身との区別であるという意味で、それは純粋な区別、すなわち絶対的区別である──によって稼働します。ここに、同一律(A=A)が成り立つ契機としての非同一性(A≠¬A)が示され、反省規定としての同一性、あるいはこれと同値である絶対的区別のもつ論理構造が明らかになります。(集合論の表記法を借用するならば、同一性:A={A,¬A}、絶対的区別:A={A=A,A≠¬A})
 
 次いで、反省的運動は同一性と絶対的区別(区別そのもの)とを二契機とする区別(差異性)へと進み(区別:A={{A,¬A},{A=A,A≠¬A]})、それが外面的に表現されたものが同等性と不等性です。ここで登場するのが第三者、すなわち観測者あるいは内省者です。ある事柄と他の事柄が、ある観点から比較すれば同等であり他の観点から比較すれば不等であるというとき、結局これらは同一の事柄となります。正確にいえば、同等性と不等性の関係がともにそこに帰属するという意味で同一の事柄なのです。
 
 ヘーゲルは『小論理学』(117節補遺)で、比較の方法によって大きな業績をあげた学問として比較解剖学、比較言語学に言及しています。これらはそれぞれ器官一般、言語一般という普遍的な観念を基礎とする学的営為なのであって、これらの観念は外部の観測者(解剖学者、言語学者)に帰属します。ところが、この外部観測者の視点が「反射」して観測対象の内部へと繰り込まれ、同一性と差異性との統一である対立の反省規定が形成されるわけです。
 
 以上の同一性(絶対的区別)、差異性、対立の三つの反省規定は、反省的運動の三類型、つまり措定的反省、外的反省、規定的反省と論理的に相同です。このこと自体は、ヘーゲル論理学の全叙述を通して反復される三分法の一つの現われにすぎませんが、少なくともこれまでに出てきたものと比較して、論理的相同性がより明瞭に示されているように思います。──大雑把にいえば、世界のすべての事柄が集合AとBのいずれか一方または双方に属する元であるとき、集合AまたはBとその補集合との関係、積(共通)集合(A∩B)との関係、和集合(A∪B)との関係が、それぞれ措定的反省・絶対的区別、外的反省・差異性、規定的反省・対立に対応しているように思えるのです。
 
 乱暴かつ粗雑な議論を展開しました。ヘーゲル弁証法の<建築学的煩瑣主義>(アドルノ)に対抗して、「直観知」を働かせてみたくなりました。
 今回は「A 同一性」「B 区別」まで。「C 矛盾」は次回へ。(1997.2.16)
 
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◆反省諸規定◆
 本章で論じる反省諸規定は、一般に命題の形式で表わされる。自己に反省した被措定有としての反省規定は、その対立者への移行である有のカテゴリーとは異なって、すでにその中に命題の形式を含んでいるからである。
 
 しかし、これらの命題は「すべての或る物」を主語にもつことで、同一性などの反省規定を或る物の質として表現し、或る物が<その真理であり、本質であるところの同一性などの中へ移行したということ>を表現しないという誤った面をもつ。また、同一性、差異性といった諸命題が相互に対立し、矛盾し、止揚しあうものであることを見落としてはならない。
 
◆同一性◆
 <本質は単純な自己同一性である。>この自己同一性は、<自己を統一にまで回復するものとしての自己同等性>である。それも、或る他者からの回復ではなく自己から自己への純粋な回復である。
 
 この同一性は最初は本質そのものであり、本質の規定ではない。しかし、同一性は自己自身に関係する単純な否定性であり自己自身への反省なのであるから、それは<自己を自己自身の契機として、即ち被措定有として措定>し、<この被措定有から自己への還帰>としてあるものなのである。こうして、本質(同一性)は自己同等性の規定(同一性)とこれに対立する絶対的区別(非同一性)との二契機をもつことになる。
 
 このことは、同一律(A=A)またはその別の表現である矛盾律(A≠A∧¬A)が総合的な命題であり、そこには<反省の純粋運動>が存在していること、したがってそれが表現しているのは抽象的な同一性以上のもの、すなわち差異性との差異としての同一性であることからも了解されるだろう。
 
◆区別◆
 
[絶対的区別]区別とは同一性そのもの(本質)の本質的な契機であって、自己の自己自身からの区別である。しかし、区別が区別するのは同一性なのであるから、<区別と同一性との区別が合して区別を形成する>。すなわち、区別は全体であると同時にその契機である。かくして、区別は同一性と区別の二契機をもつ。この両者は被措定有・規定性なのだが、<区別が、このようなそれ自身自己反省であるような二つの契機をもつとき、区別は差異性である。>
 
[差異性]区別の二契機である同一性と区別そのものは、それぞれ自己にのみ関係し相互に規定しあうことはない。したがって、<区別は両者にとって外面的である>。差異性とはこのような区別の無関心性をいう。
 
 互いに差異するものとしての同一性と区別は、自己反省そのものであるという即自的な反省と、否定としての規定性、すなわち被措定有であるという外面的な反省の二規定をもつ。前者(即自有的反省)は区別に対して無関心なものとしての同一性、すなわち差異性一般であり、後者(外的反省)は同一性と区別の規定的な区別であり、そこではこれら区別の二契機は外面的に措定された二規定、すなわち同等性(被措定有としての同一性)と不等性(外面的な区別としての区別)となる。
 
 このように、外的反省は差異的存在を同等性と不等性との関係、すなわち比較を通して分離させる。この<自己疎外的な反省>にあって、或る物と他の或る物は外的な第三者の観点からその同等性、不等性を規定されるのであるが、本来これらは相互的関係(同等は不等ではないものであり、不等は同等ではないものである)のもとにあるのであるから、<この同等性と不等性との隔離は、むしろその破壊なのである>。こうして同等性と不等性の外面的区別は消滅し、両者は<比較を行うもの>(第三者)によって止揚され否定的に統一される。
 
 外面的区別の否定的統一は<最初は、両者の外部にある主観的な行為として>あるが、<実際には同等性と不等性そのものの本性なのである>から、<この両者の否定的統一[彼岸にある統一]が両者[同一性と区別の規定である外的反省の二契機・被措定有としての同一性と対立]の中に措定される>こととなる。差異する存在(比較される存在)は<同等性と不等性に対する規定性を失うのである>。いまや、差異する存在がもつ規定であった即自有的反省は否定を欠いた自己関係、抽象的な自己同一性であり被措定有そのものであって、この被措定有を通して否定的反省へ、すなわち対立へと移行する。
 
[対立]対立は同一性(絶対的区別)と差異性との統一である。対立の二契機は外化された反省としての同等性と不等性が自己に反省したものであるが、ここで<不等性に対する関係をそれ自身含むところのこの自己に反省した自己同等性>は積極者であり、<同等性に対する関係をそれ自身の中に含むところの不等性>は消極者である。
 
 積極者と消極者は、第一に対立の絶対的契機となる被措定有であり、第二に自己反省した相互に無関心な被措定有であり、第三に<その被措定有、云いかえると一つの統一の中での他者への関係が、両者各自の中へ取り戻されている>即且向自的な反省規定である。この意味で、両者はそれぞれ<自立的な向自有的な自己統一>であり相互に排斥的関係に立つが、<この即自有的な積極者または消極者は本質的には、…対立の両面自身の規定であるということを意味している>のであるから、両者のそれぞれの他者に対する排斥的関係自身が両者の規定であるところの即自有を形成しているのである。<故に両者は、この点で同時に即且向自的に積極的または消極的なのである。>
 
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◆差異性の命題に関する註釈の中で、ヘーゲルは<活動性>という語を使っている。また、これは次回に扱うのだが、矛盾命題に関する註釈の中では<生命性>という語を使用している。これらはすなわち本質とは運動であり過程であること、それも生命過程に他ならないことを示している。
 
◆対立の項の註釈。+aと−aの根底に両者の単純な統一であるaが存在する。このaは対立するもの(積極者:+aと消極者:−a)には無関心な<死んだ規底>である。ここでいわれているのは、+a、−aのいずれとも措定されていないaそのものが存在することである。ところで、aは+aと−aがそれぞれ自己反省したものと見ることができる。aは+aと−aの絶対値である。つまり、aと−aは<二つの差異するa>である。(+a−a=0)次に、aと−aが実は同一であるという関係が存在する。両者の中間にある0から見れば、+aと−aはともにaという大きさを持つからである。それは、貸借関係において債権と負債の額がただ一つであることと同様である。(+a−a=a)最後に、+aと−aは互いに対立したものとして自己に反省したもの、つまり差異的なもの、<二つの無関心なもの>である。同一の金額が債権者と債務者によって二重に勘定されるように。(+a−a=2a)
 

【第15回】第2巻第1篇第2章、本質性または反省規定「C 矛盾」
 
 本節はヘーゲル論理学全篇を通してのハイライトの一つでしょう。とりわけ「註釈3」にそのエッセンスが、ヘーゲル弁証法のそれこそ本質が込められているように思います。レーニンも『哲学ノート』で長々とこれを引用し、次のようなコメントを付しています。
 
 <運動と「自己運動」(これに注意せよ? 自分自身のうちから生みだされる、自主的な、自発的な、内的に必然的な運動)、「変化」、「運動と生動性」、「あらゆる自己運動の原理」、「運動」および「活動」の「推進力」──「生命のない存在」とまさに反対のもの──これがあの「ヘーゲルぶり」の、すなわち抽象的でひどくわかりにくい(重苦しくて不合理な?)ヘーゲル主義の核心であることを、誰が信じるであろうか?? ところが、人はこの核心をこそ発見し、理解し、「救いだし」、殻からとりだし、純化しなければならなかったのであって、このことをマルクスとエンゲルスは実際になしとげたのである。>(松村一人訳)
 
 マルクスとエンゲルスがヘーゲル弁証法を「救いだし」たのかどうか、私にはよくわかりません。しかし、矛盾に関する叙述にこそ<ヘーゲル主義>の核心があることはレーニンの見込み通りだろうと思います。それにしても、ヘーゲルのいう矛盾は実際<抽象的でひどくわかりにくい>。
 
 厳密な書法によって構築された音楽を聴くように(たとえば私はいまウェーベルン作品21「交響曲」をBGMとして流しています)、純粋な形象的思考に徹して、意味するものとして形象を把握することを断念してヘーゲルの叙述を虚心にたどるならば、そこに<自分自身のうちから生みだされる…内的に必然的な運動>の躍動が見事に描き出されていることは間違いありません。事実、私は本節を久しぶりに陶酔状態で読み切ったのです。ところがこれを具体的な事柄に即して理解しようとすると、つまりそれが意味するものは要は何かと考え始めると、たちどころに<抽象的でひどくわかりにくい>ものに変貌してしまうのです。
 
 それは、一つの環境世界の中に完全に溶け込んでいる状態から醒めて、改めて環境世界に散見された諸対象の意味を考えるとき、対象とこれに対面している自分の二項を概観する(想起し、内省する)いま一つの自分を仮構しているからにほかなりません。環境世界の中で自在に振る舞っていた私は、そのとき諸対象の意味をむしろそのような行為を通して生みだしていたのかもしれず(意味を問うより生きることにかまけていて)、自己意識でさえ、そのような環境世界内での個別具体的な局面ごとの必要に応じてその都度かたちづくられたものであったのかもしれないのです。
 
 ほかでもないこの私という自己意識の明証性が根底的に揺らいでしまう、といった体験は私にはありません。しかし、私が私でなく他人のように思えたり、そもそも私と他人を区別する自己の自己性のような感覚を私が喪失したとしたら、そのときこそヘーゲルの矛盾がリアリティをもって、生きた純粋形象そのものとしてたち現われてくるのではないか。──その意味では、ヘーゲル論理学とは何かを意味する表現の体系なのではなくて、いわばレシピ、譜面のようなもの、精神の工具(わかることより使えることの方が大切なもの、習うより慣れるべきもの)の集成なのではないだろうかと、ふと考えました。(1997.2.23)
 
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◆矛盾◆
 区別一般の両側面は、差異性においては互いに無関心的に分離しており、対立の中にあるものとしては一方は他方によってのみ規定され、したがってこの二面は単なる契機であるにすぎない。しかし、一方で両者はそれ自身において規定されているのであるから、両者は自立的な反省規定、すなわち積極者と消極者である。
 
 これらの反省規定の自立性は<自己の他者によって自己と媒介>していること、すなわち他の規定を自己の中に含むこと、したがって外的存在に対する関係を全くもたないことに基づく。しかし、一方でこれらは直接的に自己自身であって、<自己の他者の非有によって自己と媒介>している向自有的統一であること、あるいは自己の否定的な規定を自己から排斥するものであることから、自立的な反省規定は<その自立性の中において自己自身の自立性を自己から排斥しているのである>。この意味で、自立的な反省規定は矛盾である。
 
 このような<自己自身を排斥する反省>(消極的な面での反省)においては、積極者と消極者はそれぞれ<自己の反対への自己転換>という運動そのものであり、したがって矛盾を通して現われる最初の統一は零である。しかし、この反省は<措定する反省>(積極的な面での反省)としての<止揚的な自己関係>でもある。すなわち、排斥的反省は否定的なものを止揚するのであるが、同時に自己を否定的なものとして措定するのである。こうして、自立性は<自己自身の否定によって自己同一的であるところの本質の統一>となる。すなわち、対立は没落する(+a−a=0)だけではなく、むしろ自己の根拠へ還帰する(+a−a=a)のである。
 
 自己矛盾的な自立的対立は、その矛盾を通して根拠に還帰する。根拠としての本質は一つの被措定有、つまり生成したものであるが、それは本質自身が根拠として自己を排斥し措定したものである。解消された矛盾としての根拠は積極者と消極者との統一としての本質であり、<根拠こそ完成された自立性である>。
 
[註釈1]積極者と消極者の二規定は、比較に基づく外的反省ではなくそれぞれに固有の反省において、<両者の真理がただ両者相互の関係の中にのみあり、従って各々がその概念そのものの中に他の規定を含む>ことが示された。この二つの反省規定の本性の認識を欠いては、哲学は一歩も前進することができない。
 
[註釈2]排中律は、すべてのものは積極者(+A)か消極者(−A)として規定されていること(対立したものであること)を意味している。これは、同一性から差異性へ、差異性から対立への必然的な移行を表わす重要な命題である。また、排中律は対立に無関心な第三者(+Aでもなく−Aでもないもの)が存在しないことを表わしている。しかし、実際はこの命題そのものの中に第三者(A)が存在する。或る物が+Aであるか−Aであるというとき、或る物そのものが第三者である。対立した二規定(+A、−A)は或る物の中に措定されていると共にこの措定の中で止揚されているのだから、<ここで死んだ或る物という形態をもつところの第三者も、…反省の統一なのであって、対立は根拠としてのこの統一に還帰するのである>。
 
[註釈3]同一性の中に含まれていた無(同一性の命題が同語反復にすぎず、内容を欠くものであること)が規定されて差異性と対立へと展開し、さらに対立が措定されて矛盾となる。このように、矛盾は同一性、差異性、対立の三つの反省規定がそこへ移行するところのその真理であり、これを表現する命題──<すべての物はそれ自身において矛盾的である>──は他の命題、とりわけ同一性の命題より深くより本質的である。なぜなら、<同一性は矛盾に比べると、単純な直接的存在、即ち死んだ有の規定にすぎない>が、これに対して矛盾は<あらゆる運動と生命性の根本>でありからである。すなわち、<或る物は、それ自身の中に矛盾をもつかぎりにおいてのみ運動するのであり、衝動と活動性とをもつ>のであり、<のみならず矛盾を自己の中に含むと共に絶えず保持するような力をもつものであるかぎりにおいてのみ、生命をもつ>のである。
 
 表象的思惟はこのような矛盾の積極的な面を認識せず、<矛盾は無へ解消するものだという一面的な見解に固執>する。これに対して、思惟的理性は<差異的なものにおける鈍い区別、表象の多様性を、いわば本質的な区別区別、即ち対立にまで先鋭化する>。<ここにはじめて、多様なものは矛盾の尖端にまで駆り立てられ、互に活発に作用しあうことになって、この矛盾の中で自己運動と躍動との内在的脈動であるところの否定性を獲得するのである。>
 
 矛盾の本性に関する以上の考察から、ある事物において矛盾が指摘されても、それはその事物の欠陥を示すものではないことが明らかにされた。物、主観、概念は、まさにそれ自身において矛盾するものであるが、それは否定的に統一されたもの、解消された矛盾でもあって、<その各規定を含み、担うところの根拠>である。──ところで、これらが担う領域は有限的なもの、すなわち他と差異するところの<矛盾的な領域>であるから、それぞれの高次の矛盾を解消するものではなく、むしろ高次の領域を自らの根拠としてもつものである。このように、有限的・偶然的なものから絶対必然的な本質への推論にあっては、有限者が「有る」がゆえに絶対者が「有る」といった普通の推論とは異なって、有限的・偶然的な有、いいかえると崩壊的・自己矛盾的な有が、<自己の中へ屈折し、自己の根拠に復帰する>ことを通じて根拠を措定し、自己自身は被措定有となるといった道筋を示すものなのである。
 
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◆ヘーゲルは、<有の領域に出て来る矛盾>である無限者(悪無限としての)と無限累進に関する叙述の中で、<思弁的思惟の本性は、ただ対立する契機をその統一の中に把握するという点にある>と書いていた(上巻の一)。ところで、対立する契機はそれぞれその存在様式を異にしている。このことを矛盾の二契機である積極的・肯定的なものと消極的・否定的なものとについて見てみよう。
 
 まず、前者は自己同一性を「A⇒+A」と措定することによって否定的なものとしての「−A」を排斥するのだが、<その排斥によって自己自身を或るものの否定者にする>のであり(A⇒+A⇒−(−A))、これは<自己自身を自分が排斥するところの他者にするという矛盾>である。
 一方、後者は<否定的なものとしての否定的なもの>であり(「A≠−A」において、否定[−]の否定[≠]により消極的なもの[−A]と自己[A]との不等性が表現されている)、その否定性において自己の否定者(他者)にかかわっているのであるが(−(−A)=+A)、これは否定的なものと直接的なものが同一であるという矛盾を示している。
 この二つの矛盾は、積極的・肯定的なもののそれが直接的である(通常Aは+Aであることに基づく)のに対して、消極的・否定的なもののそれが措定された矛盾であるという違いをもつ。したがって、消極的・否定的なものは<対立としての自己[+A−A=A]の上に立っているところの対立>である。
 
 以上の関係は、後に能動的作用としての形式と受動的運動としての質料との関係の中で同型的に反復される。
 

【第16回】第2巻第1篇第3章、根拠
 
 有論でヘーゲルが物質から生命(あるいは生命をもった物質、生物)への過程を論理学的に叙述していたのだとしたら、本質論第1篇では物質を産出する生命の運動が論理学的に叙述されているのでしょうか。つまり、単細胞生物の分裂から有性生殖へと至る論理学的本質が述べられているのでしょうか。積極者と消極者の関係を、プラスとマイナスの極性の比喩によってではなくメスとオス(正確には、メス性とオス性)の関係として考えてみると、これはあながち穿った読み方ではないのかもしれません。
 
 アドルノはヘーゲル弁証法について、<哲学的概念でもってそれとは異質なものを処理しうることを示そうという前人未踏の企て>であったといっています(『否定弁証法』,作品社)。もとより<その企てが挫折してしまった今となっては>、上記の「解釈」は単なる空想、思惟の戯れでしかないのでしょうが、実は私自身は結構本気でそのように考えているのです。
 
 ヘーゲルの文章はあいかわらず、図式・数式抜きの幾何学、音のない純粋形式としての変奏曲といった様相を呈しています。錯綜した叙述の中から浮かび上がってくるのは、第一に、本質的なものと非本質的なものが根拠(マイナスのマイナスとしてのプラス:積極者=肯定者)と根拠づけられたもの(マイナス:消極者=否定者)へと変換され、第二に、両者の関係そのものを抽象化した形式(極性)とこの形式が成り立つ基礎となる同一的な実質(磁性体)との形式関係が根拠関係に対して直交変換され、第三に、この新たな対立項(形式と質料:能動者と受動者)が再び直交変換され元に戻ったとき、そこに内容(ある形式とある質料の同一性)と形式(形式と質料の差異性)との対立が本質−非本質関係に重ね合わされる、といった本質の運動のプロセスです。
 
 なぜこのような込み入った分析が必要だったのか。形式(性の分化)を本質の運動(生殖)の中にいかに取り込むかがヘーゲルの課題であったから、というのが私の仮説です。ここで大切なのは、メスが積極者=肯定者であり受動者であるという位置づけだろうと思います。グレートマザーからの出エジプトを経て実存(現存在)が生成する、などど書くといささか「戯れ」が過ぎるでしょうか。
 
 ──またまた乱暴かつ粗雑な議論を展開してしまいました。今回は「A 絶対的根拠」まで。「B 規定的根拠」「C 制約」は次回へ。(1997.3.2)
 
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◆根拠◆
 本質は自己の否定としての二規定(積極者と消極者)の中に喪失し、この自立的な反省規定である二規定は互いに止揚しあい根拠のうちに没落する。このようにして本質は自己を根拠として規定するのであり、根拠は最後の、没落し止揚されたものとしての反省規定である。<本質は根拠となってはじめて自己を本質として措定する。>
 
 反省は<無の無による自己自身への復帰の運動>であり<無の或る他者の中における映現>としての純粋な媒介、すなわち<関係づけられた項をもたない純粋な関係>であった。これに対して、根拠はこのような反省を止揚されたものとして含む実在的な媒介であり、そこにおいて被措定有は直接性の規定を、すなわち<関係または自己の映現の外にあって自己同一的にあるような存在という規定>を獲得するのである。この直接的存在は<本質を経て回復されたところの有>である。
 
◆絶対的根拠◆
 
[形式と本質]根拠は、根拠と根拠づけられたものという二つの規定性をもつ。これらは、積極者の自己同一性と消極者(被措定有)の自己同一性としてただ一つの単純な同一性であるが、それぞれ措定された存在であるとともに自立性をもつものであるから──すなわち、根拠と根拠づけられたものとの間の根拠関係は、措定的反省(純粋反省)と規定的反省の統一としての<根拠の媒介>であるから──、<それらはその単純な同一性とは区別され、本質に対して形式を形成する>。
 
 すべての規定的なものは形式に属する。一方、根拠(止揚された被措定有)と根拠づけられたもの(被措定有)がただ一つの反省であるという同一性は形式に属さず、むしろ<形式の存立であるところの単純な根底としての本質>を形成する。しかし、この根底としての本質は根拠の中に措定され、それ自身規定された本質として存在するのである。形式と本質はこのように絶対的な交互関係のもとにある。<本質は基礎として形式と区別されるが、しかし同時にそれ自身、形式の根拠と契機になる。>形式は形式の同一性において本質をもち、また本質はその否定的本性において絶対的形式をもつ。形式は<本質のそれ自身の中における映現であり、本質に内在する固有の反省>なのである。
 
 形式と本質の区別は形式関係の二契機である。この二契機がさらに明確に規定されると、規定的形式は<止揚された被措定有としての自己>に、つまり<或る他者としての自己の同一性>に関係するのであり、その同一性を前提するのであるから、このような契機から見れば本質は無規定的存在となる。この無形式的な同一性として規定された本質が、すなわち質料である。
 
[形式と質料]質料は<形式の他者であるという規定をもつところの単純な区別のない同一性>(本質)であり、<形式の文字通りの根底または基体>である。それはまた感覚対象とはならない抽象物・無規定的質料である。(感覚的対象となるものは或る規定的な質料、すなわち質料と形式との統一である。)質料は形式を潜在的(即自的・絶対的)に含んでおり、能動的なものとしての形式に対する受動的なもの、絶対的な受容性である。<質料は形式化されねばならないが、また形式は質料化されて、質料の中で自己同一性または存立を獲得しなければならない。>
 
 質料を規定する形式の活動性と質料の形式による被規定性──このような規定の関係は、形式と質料の<両者の無関心性と区別性という仮象の止揚>にほかならず、<両者の各々の自己の非有による媒介>である。<けれども、この二つの媒介は、ただ一つの運動であって、両者の根源的同一性の回復である。──即ち両者の外化の内化である。>
 
 形式と質料は、第一に相互に前提しあい、第二にそれぞれが同一の<即自的矛盾>であって形式の能動性が質料に固有の運動であるという関係にあり、第三に両者の運動の結果は<即自有[質料の運動としての否定性]と被措定有[形式の活らきとしての否定性]の統一>、すなわち規定され形式をもつ質料、または質料化され存立をもつ形式である。この統一は形式と質料との<規定された根底としての両者の統一>である。<即ち、この根底は形式付けられた質料であるが、しかしこの形式付けられた質料は同時に、この止揚されたものであり、非本質的なものであるところの形式と質料とに対して無関心なものなのである。>この統一は、内容である。
 
[形式と内容]以上を総括すれば、まず根拠と根拠づけられたものとを規定としてもつ形式(根拠関係一般としての形式)が本質と対立した。次に反省規定とその存立とを規定としてもつ形式(規定的反省としての形式)が質料に対立し、最後に形式自身と質料を規定としてもつ形式が内容と対立した。
 
 形式は被措定有、すなわち非本質的なものである。内容は<或る形式と或る質料>をもち、形式の二規定である形式自身と質料の根底をなすところの本質的なものである。したがって内容は形式に対して無関心的な同一性であるが、一方で内容は形式と質料の否定的な自己反省なのであるから、<内容は、この根拠関係を自己の本質的形式としてもち、また逆に根拠が内容をもつ>ことになる。
 
 根拠の内容は<自己との統一のなかへ復帰したところの根拠>であり、形式と内面という二つの規定性をもつところの<規定された根拠>である。そこでは、形式は<内容に対して一般に外面的であるというような根拠の規定性>であり、これと対立する内容、すなわち<同一性の形における形式規定としてあるところのこの被措定有>は、<直接的なものとしての被措定有、即ち規定性そのもの>にすぎず、<根拠がもつところの内容という規定性>である。
 
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◆ヘーゲル論理学とドイツ刑法学について。──犯罪を行為・結果の外部的要素と故意・過失の心理的要素に二分する理論から、構成要件に該当し違法かつ有責な行為を犯罪と規定する「犯罪構成要件理論」へと、ドイツ刑法学はその犯罪論を深化させてきた。構成要件とは犯罪となりうる行為の類型・カタログであり、犯罪が成立するためには、構成要件に該当する行為についてさらに具体的な状況に即して実質的な違法性を具備していることが肯定されなければならず、第三に当該行為に関する責任を行為者に帰すことの妥当性(非難可能性)が肯定されなければならない。
 
 ここで、構成要件を有論に、違法性を本質論に関係づけて考えてみると、かつて構成要件が違法性の「認識根拠」か「存在根拠」かという興味深い論争のあったことが想起される。認識根拠説に立てば構成要件該当性は行為の違法性を推定する(煙と火の関係のように)だけであるが、存在根拠説に立てば構成要件に該当する行為は正当防衛その他の違法性阻却事由が存しないかぎりその違法性が肯定され、したがって構成要件は単なる行為類型ではなく違法類型であることになる。
 ヘーゲルは、矛盾的・偶然的な有から絶対的・必然的な本質への推論に関して、有限者の「有」が絶対者の「根拠」と見られるべきではないといっている。<真理は、有限者がそれ自身において矛盾的対立であるが故に、即ち有限者が無いが故に、絶対者が有るということである。>(第2章C註釈)
 
 ところで、行為の責任を行為者に帰属させるためには、行為の<本質的なものをなすものであるところのそれらの部分の関係>が<機械性の原因>の中に含まれるものであってはならず、またそもそも<本質的統一としての>行為は<ただ概念の中にのみ、目的の中にのみ存在するのである>からには、第三の犯罪成立要件である責任はヘーゲル論理学でいう概念に相当するものと考えて差し支えないだろう。(第3章註釈)
 ちなみに、犯罪構成要件理論以後のドイツ刑法学界では、行為を意思の外的発現(身体の動静)ととらえ故意と過失を責任の段階で区別する自然的行為論を批判し、行為の本質を結果実現の意思である目的性としてとらえ故意と過失を構成要件の段階で区別する「目的的行為論」が有力な学説として登場したことを付記しておこう。
 
◆二重分節について。『千のプラトー』(ドゥルーズ/ガタリ,宇野邦一他訳,河出書房新社)第3章(道徳の地質学)での「チャレンジャー教授」の講演からの抜粋。
 
 <第一次分節は、不安定な流れ−粒子群から、分子状もしくは準分子状の準安定的単位(実質)を選びとって、これに結合と継起の一定の統計的秩序(形式)を課すものといえるだろう。第二次分節は、稠密で機能的な安定した構造(形式)を配置して、モル状の複合物(実質)を構成するものといえるだろう。>
 
 <さて、これまでは、実質と形式の観点から、地層上で一定しているものと変化するものについて語ってきた。残っているのは、ある地層から別の地層にかけて何が変化していくかを、内容と表現の観点から問うてみることである。…まず、第一の大きな地層群を検討してみよう。この群を構成する諸地層は、簡潔に次のように特定することができる。すなわち、内容(その形式と実質)は分子状であり、表現(その形式と実質)はモル状である、と。両者のあいだの差異は、何よりもまず大きさないし規模の次元にかかわっている。二重分節は、ここでは大きさに関して二つの次元を含んでいるのである。>
 
 内容と表現が分節され、それぞれがさらに形式と実質に分節される。──語彙の類似性だけに着目するならば、ここでいう表現はヘーゲルの「現象」に相当するといえるのだろうか。
 

【第17回】第2巻第1篇第3章、根拠「B 規定的根拠」「C 制約」
 
 反省としての本質の運動は、根拠と制約との対立と和解という最終段階を経て、再び有の直接性を回復します。しかし、この<根拠と制約によって媒介され、しかも媒介の止揚によって自己自身と同一的になった直接性>は単なる有ではなく、本質的な有としての実存(現実存在)なのです。ところで、レーニンは根拠から制約への移りゆきについてのヘーゲルの叙述に関して次のように書き残しています。(『哲学ノート』松村一人訳)
 
 <わたしの思いちがいでないとすれば、ヘーゲルのこれらの結論のうちには多くの神秘主義とからっぽなペダンティズムがある。しかし次のようなその根本思想は天才的である。すなわち、あらゆるものはあらゆるものと普遍的に全面的に生き生きと結びついており、この結びつきが──ヘーゲルを唯物論的にひっくりかえせば──人間の諸概念のうちに反映される。そして世界を把握するためには、これらの諸概念も同じく磨きをかけられ、仕上げられ、屈伸的で、動的で、相対的で、互に結びつけられ、対立のうちで統一されていなければならない、というのがそれである。>
 
 世界を把握する──とレーニンがいうとき、世界とは事柄(事物[Sache])からなるものであり、そして事柄とはまず実存(現実存在)として現象するものであることが──レーニンを観念論的にひっくりかえせば──世界を把握しようとする認識者によって世界に反映されます。全体で27の章をもつ『大論理学』のちょうど真ん中の章が「現象」と題されているのは、ロゴスの自己運動と認識者によるその叙述とが「現象」の中で交差するからなのでしょう。
 
 何がいいたいのかというと、根拠と諸制約との媒介による事柄の実存(現実存在)への現出過程は、むしろ本質的な実存としての現象を把握しようとする者の認識過程をひっくりかえしたものなのではないかということです。飛躍したいい方ですが、弁証法による世界の把握は「現象」を分水嶺として認識と制作の二方向に同時に流れていくのではないでしょうか。(1997.3.9)
 
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◆規定的根拠◆
 
[形式的根拠]根拠は一つの規定的内容をもつ。すなわち、根拠と根拠づけられたものとの形式上の同一性がそれである。根拠づけられたものは<或る根拠が存在するための根拠>であり、この意味で根拠は根拠づけられたものなのである。
 
 しかし、このような根拠の形式による反省は空疎な同語反復にすぎない。たとえば引力は惑星運動の根拠であるが、その内容を問われても、惑星運動(根拠づけられたもの)を生成する力であるとしか説明できない。つまり、定有(惑星運動)の形式の中にすでに現われたものと同一の内容が表現されているにすぎないのである。
 
[実在的根拠]根拠と根拠づけられたものは、形式の規定された区別を形成する。ところで、内容とは<根拠関係の同一性としての自己同一性>であるから、この形式の区別をそれ自身においてもつ。こうして根拠と根拠づけられたものが異なる内容をもつこととなり、根拠関係は形式的なものから実在的なものへと移行する。
 
 実在的な根拠関係における二つの内容は、一方が<根拠と根拠づけられたものとの単純な直接的同一性としての本質的内容>であり、他方が根拠と根拠づけられたものとの<外面的結合としての一者または或る物>、すなわち措定された非本質的内容であるという差異性をもっており、根拠の形式的同一性は消滅する。この意味で、根拠関係は自己自身に対して外面的となり、<異なる内容を結合せしめ、いずれが根拠で、いずれが根拠によって措定されたもの[根拠づけられたもの]であるかを規定するものは、或る外面的な根拠である>。
 
 たとえば刑罰は報復、懲罰、法律への畏怖、犯罪者への教育効果など様々な規定をもち、いずれもが刑罰の根拠とみなしうる。しかし、<これらの根拠の中の如何なるものも、それらのすべての面を結合し、それらすべてを含んでいるような事物を決定的に挙げることはできない>のである。
 
[完全な根拠]実在的根拠が根拠と根拠づけられたものとの同一性(形式的根拠)を回復すると、完全な根拠関係に移行する。それは<実在的根拠の中で互いに対立しているところの内容規定を媒介している>。すなわち、実在的な根拠関係における二つの自立的・差異的な内容規定(根拠特有の内容[A]と根拠づけられたものとしての特有の内容[B])は、形式的根拠関係における即自的な関係(A=B)によって媒介されるのである。この形式的根拠と実在的根拠との統一の中では、<根拠関係は自己の否定によって自己と媒介される>。したがって、<根拠関係の全体が本質的に前提的反省であ>り、<全根拠関係は制約する媒介となる>のである。
 
◆制約◆
 
[相対的無制約者]根拠は制約を前提とする反省である。制約とは直接的な定有であり、即自的な根拠の内容をなすもの、すなわち根拠に対する材料である。また、制約は措定された定有として根拠の即自有を形成し、根拠に対する無制約者となる。一方、自立的な媒介作用である根拠は措定の活らきとして自己自身に関係するものであるから、これもまた一個の直接的存在であり無制約者である。このような相対的無制約者としての制限と根拠は<全体者>の両側面をなすが、この両面は<無関心な直接性と本質的媒介との矛盾>である。
 
[絶対的無制約者]制約は被措定有(材料)と即自有(根拠の自己反省)との二契機をもつ。この<被措定有と自己同一的な即自有という形式規定、即ち直接的定有を制約に変えるところの形式は、定有にとって外面的なものではなくて、むしろ定有は、このような反省それ自身なのである>。また、定有の直接性は自己自身を止揚する媒介作用(根拠)によって媒介されたものである。したがって、制約(被措定有)と根拠は同一のものである。根拠も制約と同様に全体そのものであり、こうして形式・内容のただ一つの全体が存在することになる。
 
 制約と根拠は形式・内容の両面で共にただ一つの本質的統一であり、相互に移行しあい前提しあう。両者のこの前提作用は一つの作用であり、その相互性は両者の存立・根底としてのただ一つの同一性を前提するといった関係へ移行する。このような同一性こそ<真の無制約者>、すなわち事物そのものである。制約から制約への無限進行は、制約がある有限的な定有であるというより立入った規定をもたらすが、制約は措定された即自有としてそれ自身一つの被制約者であり、したがって制約は絶対的無制約者の中で止揚されているのである。
 
 全体性、すなわち無制約的な事物は、外面的多様性としての制約と内面的形式としての根拠へと自己を反発する。そしてこの両者は全体性を前提することから、全体性としての事物が両者から生ずるもののように見えるのであるが、制約と根拠が同一的なものであることが明らかにされた以上、両者はいまや仮象に引き下げられているのである。<絶対的無制約者は、その措定と前提の運動をとるものとして、その中でこの仮象が自己を止揚するところの運動にほかならない。>
 
[事物の実存への出現]事物の運動は一方で各制約によって措定され、他方でその根拠によって措定される。この無制約的な事物の反省は<自己の否定によって自己と媒介すること>にほかならず、仮象としての媒介の消滅にほかならない。この意味で、事物の運動は自己への純粋な運動、すなわち出現であり実存への自己表出である。
 
 事物の全体が直接的な存在として措定され、事物のすべての制約が現存するとき、各制約は<それ自身において自己を想起[内化]している>。そして、制約の自己想起を通して根拠は止揚され直接的な有となる。つまり、根拠は自らを被措定有とし、その中で自己と合致するのである。このように事物が現出したとき、制約と根拠(事物の実存への現出を媒介するもの)は消滅している。<このような、根拠と制約とによって媒介され、しかも媒介の止揚によって自己自身と同一的になった直接性は、即ち実存である。>
 
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◆形式的根拠に関する註釈の中で<定有の規定と反省の規定、根拠と根拠付けられたもの、現象と幻影とが無差別に雑居し、互に同等の地位を享楽し得るような、一種の魔女の世界>という文章が出てくる。このような魔女の世界にあっては、言語はそれを音として響かせた途端、実在として世界に出現することになるのだろう。あるいは言語とは実在の隠れた標として世界の中に宿っているものなのだろう。