『大論理学』ノート[1-3]
 
 
 
 

【第10回】第1巻第3篇第1章、比率的量
 
 無限の宇宙の中でどのようなプロセスを経て質量をもった実在が生成するのか。度量篇で、ヘーゲルはこのような「物質」の生誕物語を叙述しています。
 ところで、ここでいう宇宙、無限の空間(宇)と永遠の時間(宙)はそもそもどのようなプロセスを経て生成したのか。──実は、有論の第1篇「質」と第2篇「量」でもって、つまり質(規定性)から量(止揚された質)へ、そして量から質への自己復帰の全プロセスを通じて、自らに折り返したものとしての宇宙(universe=unus[one]+vertere[turn])の誕生物語が叙述されていたのです。
 
 純粋な無規定的有を始元として開始されたロゴスの自己展開は、「いま・ここに・ある・この・もの」という規定性それ自体を質とする定有(或る物と他の物)へ、そして彼岸・超越としての他者(多者)を内在化した向自有(一者)へと推移し、ここに外部をもたない無限の世界が生成しました(第1篇「質」)。
 
 さらに、このような向自有的存在となった「いま」と「ここ」は、連続性と分離性を契機とする外面的な量的規定性によって(純量としての時空そのもの)、あるいは直交座標上の一組の数値の表象によって(定量としての限界づけられた時空)、さらには<比の関係に立つ二つの質>としての時間と空間によって(量的比例関係における無限の時空)、順次表示されることとなり、ここに質へと復帰した無限の世界、すなわち宇宙が生成したわけです(第2篇「量」)。
 
 なお、先に示した定有の規定──ヘーゲルがそのように規定しているわけではない──の中に登場した「ある」と「もの」は、それぞれ「規定性そのもの」及び「規定されたもの」として有論の全体を通じて議論されており、その究極が「物質」であろうと私は考えています。しかし、「この」によって表現された事柄は、本質論、概念論への展開をまたなければならないか、あるいは論理学が終結した時点で改めて考察されるべき問題性をもっているように思います。
 
 三枝博音は、<論理学の中のどの大切な概念もすべて弁証法的なものであるが、その概念の弁証法のそのまた弁証法的なものの存するところはいつでも定有の存するところなのである。>といっています(『ヘーゲル・大論理学』)。このように、定有は有とともに論理学の中心をなす概念なのであって、とりわけ「この」という指示語をめぐる定有の悪無限性とそこに見え隠れする「他者」との関係を論理学がどのように処理できるかが急所であると、──ヘーゲル自身が、<このもの>という表現は<単に普遍を云い表わすものにすぎない>と冷淡にいい放っていることは承知しながらも──私は考えているのですが、これは余談でした。
 
 第1巻第3篇第1章、比率的量。量的な変化の質的変化への転化。その臨界点(境界)における謎めいたプロセス。それをヘーゲルは<概念の狡智>と名づけて封印してしまいますが、これを解かなければ存在と思惟の根底をなすロゴスの学たりえないのではないか──と毒づきたくなるのも、ヘーゲルの文章、というより訳文のひどさにたまりかねた頭痛ゆえのことです。(1997.1.12)
 
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◆度量◆
 度量(限度、尺度、節度、度合)とは、質と量の直接的な統一であり、外面性としての量的契機と自分自身の中にある外面性としての質的契機の区別をもつものである。<この二契機が即自的にもっている同一性>が<両者相互の関係として措定されること>が、度量の展開でありその実現である。
 
 度量(篇)の展開は<最も困難な対象の一つ>である。というのも、具体的な対象における質的なものと量的なものとの(多彩な)連関を一般的に示さなければならないからであり、さらに、機械的(力学的)、物理(学)的、有機的といった<自然的実在性のそれぞれの領域>のうちに、度量の自己実現の諸形式が座を占めているからである。
 
◆比率的(特殊的)量◆
 最初の直接的な度量は、定有と一つになった定量である。<すべての定有は或る大きさをもつのであって、この大きさは或るものそのものの性質に属する>。また、度量となった定量は、<この定量を超えて増減するときには、事物そのものが滅亡するという意味における事物の規定>──<単に量的に見える変化が質的変化に転化するということ>──である。
 
 尺度としての度量──<外面的な集合数に対してそれ自身において一定の規定をもつ単位として任意に取られる定量>──について。<一般的な尺度は、ただ外面的な比較のためにのみ役立つもの>であって、それが<基本的度量>であるためには、「フィート」その他の<自然的度量がその尺度に基づいて、一つの規則に従って、一個の一般的度量の(即ち自然的諸度量の一般的身体のもつ度量の)比率化として認識されることにならねばならない>。
 
 直接的な度量における定量は、<それ自身において特定の大きさである>という質的・特殊的(比率的)な一面と<無関心的な限界>であるという<変化的で、外面的な>一面を直接的な区別としてもつのであるが、前者は後者に対する関係において自分の無関心性を止揚し、比率化的度量(比率化された度量)となる。
 
◆比率化的度量◆
 
[規則]それ自身における特定の(任意の)大きさとしてある規則・尺度は、このような規則であるところの或る物とは別の或る物の中に比率的に(特殊的に)実存している定量を計量する単位となる。この比較は外面的な行為であるが、<しかし、度量は単に外面的規則ではなくて、むしろ比率的度量として、定量であるところの自分の他者にそれ自身において関係するものである>。
 
[比率化的度量]度量としての或る物は、外面的な定量を規定するところの質的な定量である。或るものは<その中にこのような向他有の面をもつもので、無関心的な増減は、この面に出て来る>。
 
 或る物の度量は、外面的な定量(算術的数量の変化)を質的に規定された定量として比率的(特殊的)に受け入れる。この比率化(特殊化)された定量は<定数として比率化された外面的定量>であって、<この意味で度量は、その定有を比としてもつが、この比の比率的なものは一般に、この比の指数である。>
 
 指数は<外面的な定量と質的に規定された定量との間の比の商>である。(たとえば、外面的定量としての熱量Qと質的に規定された定量としての媒質の温度tとの間には正比例の関係が成り立つ。したがって、Q=Ctにおいて熱容量Cは商Q/tである。なお、熱容量は媒質の質量mに正比例するからC=cmであり、したがってQ=cmtにおいて比熱cは商Q/mtである。)この指数は固定的な定量、したがって外面的定量であるように見えるが、<ここでは指数は、定量そのものを比率化するとことの質的なものの契機そのもの>と解されるべきである。
 
 一例を挙げると、温度はまず媒質としての物質のもつ外面的定量であるが、一方で特殊的(比率的)な物体ごとに、それぞれの<内在的な度量>に応じて違った仕方で受け入れられる。同じ温度(熱量)のもとで各物体はそれぞれの比熱、熱容量に応じてその温度を変化させるのである。しかも、熱容量は各物体の温度によって変化し、これにより物体は気体・液体・個体の三態に変化する。このようにある物体の熱の増減の割合は外面的な熱の増減のそれと比例しない。さらにいえば、外面的な温度もまたある特殊的(比率的)な物体のもつ温度なのであるから、<比は本当は、単に量的な定量と質化する定量との比と見るべきものではなくて、むしろ二つの比率的定量間の比と見るべきものであろう。>
 
[質としての二項の比例]比率化的比例(冪比例)の進行によって、度量の二契機が<それ自身において共に度量であるところの二つの質の比>から成り立つものであることが明らかになる。
 
 まず、度量はその中にある<二つの質相互の内面的な量的関係>である。この二項(たとえば空間と時間)は、質的に(冪比例によって)規定された<実在的変量>を指数としてもつものであって、一方は外延的・外面的なもので量的二契機のうちの集合数がこれに属し、他方は内包的・自己内有的・否定的なもので量的二契機のうちの単位がこれに属することになる。比率化的比例(冪比例)においては、前者が冪・変化するものであり、後者が根となる。運動の例でいえば、偶然的・経験的な外面的定量の変化は後者(時間)に、比率化された変化は前者(空間)に属する。
 
◆度量における向自有◆
 比率化された度量の形式の中では、比例関係にある二項は上述のように質的に(冪比例によって)規定され、<質的な性質をもつ一個の度量の規定性の二契機>となっているのであるが、この二つの質は<まだやっと直接的な、単に異なるものとして措定されているにすぎない>。
 
 そこでは、空間と時間もただ空間一般、時間一般としてあるにすぎない。たとえば、落下法則(距離s、時間t、重力gにおいて、s=g・texp [2] )に出てくる経験的定量(g)は、<質的な度量の規定の──ここでは落下法則そのものの──領域とは別の何処かに所属するもの>であって、概念的に規定されていないのである。
 
 ここでより進んだ規定が生じ、度量は実在化される。つまり、<度量の二項が各々度量となり、直接的で外面的な度量と、それ自身において比率化された度量との区別となるが、度量はこの二つの度量の統一だということになる>。このような<二つの質の統一としての或るもののカテゴリー>は、すなわち<実在的向自有>である。
 
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◆G・スペンサー=ブラウン『形式の法則』(山口昌哉監修、大澤真幸・宮台真司訳、朝日出版社)は、<ブール代数を再構成するような、もっと基礎的な「区別」という人間の行為を記号化した簡単な算術>(日本語版監修者の序)から出発して、<宇宙は、これを指し示す営みとともに、存在を開始する>(訳者あとがき)ことを記述した<数学の本>である。
 この書物の中で著者は、<論理学の数学にたいする関係は、応用科学の純粋科学に対する関係とみなすことができます。全ての応用科学は、構造を得るためにそれが結合している創造の過程から、滋養を引き出していると見なされます。しかし、それは、この創造の過程を占有することはできないのです。>と書いているが、ここでいわれる<数学>はヘーゲルの論理学に相当するものと見ていいだろう。
 ちなみに、同書の訳者である大澤真幸は、「スペンサー=ブラウンから社会システム論へ」と副題を付した著書の中で次のように述べている。<たとえば読者は、この数学の展開に、「ヘーゲル的」とでも形容したくなるような振舞いを発見するだろう。しかし、同時に、ヘーゲル的な体系に対する超克は、その当の体系の内部に宿されていた可能性から始まる、ということも知らねばならない。>(『行為の代数学』青土社)
 
◆ヘーゲルが宇宙における物質生成の物語を叙述していることについて。ここで、スペンサー=ブラウン(『形式の法則』)の表現を借りるならば、宇宙は<自分自身を見たいという欲望>を抱き、そのために<少なくとも一つの見る状態と、少なくとも一つの見られる状態>とに自らを切り分けるのだが、ここでいう<見る状態>と<見られる状態>のそれぞれを成り立たせるものこそ物質である。
 スペンサー=ブラウンは、また次のように述べている。<宇宙 universe は、一つの折り返し[unus=one,vertere=turn:引用者注]を為した結果として見られたものであり、それゆえ任意の最初の区別の現れであり、現れるものと現れないものを含む全体の存在 all being の単なる副次的な側面なのです。宇宙の個別性は、可視性のために我々が支払った対価です。>──自らに折り返した宇宙。量(時空)から質(物質)へと自己復帰した宇宙。自ら(の本質)を指し示すことによって存在を開始する宇宙。
 
◆フッサールが「古今最大の論理学者」と評し、カントールがその集合論の先駆者と認めたボルツァーノ(1781−1848)は、「遺書」となった『無限の逆説』(藤田伊吉訳、みすず書房)において次のように述べている。<若干の哲学者たち、特にヘーゲルとその派のような近世の哲学者たちは、この数学者たちにはよく知られている無限[無限大量と無限小量:引用者注]には満足せずに、これを蔑視して悪無限と呼び、更に一層高い無限、即ち真無限、質的無限を知ろうとし、これを特に神および一般的には絶対者の中にのみ見出されるものとしている。>(第11節)
 ボルツァーノ自身は、無限を<無限に多くの要素からなる集合>と純粋に数学的概念によって規定し、また、二つの無限集合の要素に一対一対応が成り立つにもかかわらず<一方の集合が他方の集合を自己の中に単なる部分として含むことができ>る<きわめて注目すべき特質>について考察しているのである(第20節)。
 

【第11回】第1巻第3篇第2章、実在的度量
 
 化学の教科書を繙くと、物質の化学反応を記述する中で「当量」という言葉が出てきます。大雑把にいえば、水素1グラムと反応する物質の量(無名数)なのですが、たとえば、酸塩基の当量の法則(酸と塩基が中和するときの量的関係が一定であること)を確立したのは、ヘーゲルも言及しているリヒターです。実在的度量の章(A節b項)で述べられているのは、中和や酸化還元といった化学反応におけるこのような(個々の物質の特殊的な性質を捨象した)量的比例関係に他なりません。
 
 それにしてもヘーゲルの議論は難渋を極めます。物質の生成と相互の結合(化学反応)を自然科学的な方法によらず、しかも<経験の中にありもしないような感性的表象>を発明することもなく、論理学的方法に徹して叙述することに──私自身はヘーゲルのこの至芸ともいうべき禁欲的な叙述のスタイルに強烈な魅力を感じているのですが──どのような意義があるのでしょうか。
 
 たとえば、ヘーゲルは註釈の中で、<或るドイツ学派の思弁哲学>を非難した化学者ベルチェリウスの<無根拠の形而上学>への批判を展開しています。このような悪しき形而上学、科学者の形而上学を原理的に論駁するために(形而上学批判としての論理学)、あるいは<太陽系の惑星間の距離の数を一個の度量の体系として把握する>といった科学者が取り組むべき課題を提示するために(学を診断する論理学)、このような論理学的叙述が必要だということでしょうか。
 
 第1巻も終結に近づいてきました。有論を読み進めるうちに(もっとも、その大半は漠然とした像がおぼろげに掴めた程度の理解にとどまっています)、ヘーゲルの自然哲学への関心が高まってきました。
 
 多数多様な振動が<度量の結節線>の中で調和音に結実し、これらの錯綜の中から物質が滴るように生成される。宇宙は調和音によってあらかじめ埋め尽くされており、これと共鳴する聴覚器官を求めて物質は有機体へ、生命へと推移していく。──ある宗教哲学者が<ヘーゲル的汎神論>と表現している文章を実に新鮮な思いで読んだことがありますが、度量篇から読みとれる宇宙生成譚には、およそ洗練からは程遠い文体を透いて、このような詩的ともいうべきヘーゲル自然哲学の原イメージのようなものがほの見えてきます。(1997.1.19)
 
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◆独立的な度量間の比例◆
 前章で考察した度量の比例は空間、時間という抽象的な質に属するものであったが、本章では、いまや実在的なものとなった度量──種々の独立的な或る物、差し当たっては物質的な諸々の物となった度量──について考察する。
 
[二つの度量の結合]物質的な或る物は、二つの質的定量の度量比例という規定をもつ。一方の質は或る物の自己内有、すなわち物質(重量)であり、他方の質はこの自己内有が外面化された観念的なもの、すなわち空間(容積)である。両者の比(比重)は或る物の内的な固有の度量をなすものであり、或る物の質的性質を構成する。
 
 このような内的度量をもつ二つの物が相互に関係し結合することになるのだが、単なる量的規定の面から見るならば、結合とは二つの物それぞれがもつ二つの大きさの和にすぎないだろう。すなわち、二つの物質の混合物の重量は双方の重量の和であり、その容積は双方の容積の和である。ただし、融合(水とアルコールの混合)の場合には容積の減少が生じる。
 
 以上から、物質的な或る物の質的二項の一方が向自有的であり一方が変化的であること、そして<度量そのものと、従ってまた度量に基くところの或るものの質的規定性とが、それ自身において固定的なものではなくて、定量一般と同様に、自分の規定性を他の度量の比例の中にもつものであることが明らかにせられたのである。>
 
[度量の諸比例の系列としての度量]このように、物質的な或る物(それ自身において度量の比例である或る物)は独立的なものであると同時に他の同様に独立的な度量である多数のものと結合し、この統一の中で止揚されるのであるが、これらの結合は種々異なる比を生じることになる。
 
 独立的な或る物は、自らを単位として<諸々の他者に対する比率的関係の一系列>を集合数の系列として表示し、他者もまた同様の系列を形成する。<このような系列の内部における系列の比が独立的なものの質的なものを構成するのである。>
 ところで、独立的なものとして比較される両者の比を規定するためには、<両者に共通な向自有的に存在する単位>が必要である。こうして、互いに対立し比較される多数のものが形成する諸比例の系列と、これらの比例関係の指数、すなわち比較数の系列という二項が生じることになる。
 
 以上の比例関係の推移を通じて、独立的な度量の質的本性はその外面性のうちに、比例数の系列という<比例関係の量的な様相と形態>の中に、その存立をもつことになった。──それは、定量が向自有的な度として、すなわち<大きさの規定性を度の外にある定量の中に、即ちそれ自身が定量の一領域をなしているものであるところの定量の中に、もつようなもの>として措定されるに至った推移と同様である。
 
 さらに、この<様相と形態>が度量によって規定され、多くの定量の一系列であるところの他者によっても規定される。こうして、独立的な度量は質的に異なる多数性に関係するだけのものとなるが、この独立的なものの多数性に対する親和性、あるいは中和的関係は、単なる変化であるだけでなく<むしろ否定の否定として措定されており、排他的統一である>ことから、<もはや無差別的な関係ではなく、選択的親和性なのである>。
 
[選択的親和性]化学の領域では、物質的なものは他者との差別的関係としてのみ実存する。物質間の結合は親和性に基づいているが、この無関心性にもかかわらず同時に排他的である。このように<特殊的なものが一定の結合圏の中で叙述されるということ>は、音響の領域でも見られる。<個々の音は或る音体系の基音であるが、しかしまた各々の他の基音の体系の一項でもあ>り、<調和音は多くの排他的な選択的親和性である>。
 
 選択的親和性という<排他的で質的な関係>は、一方の系列の一項が他方の系列の各項に対してもつものであって、それは後者の各項の間の数量的区別である外延量に基づいて行われる。しかし、ここで外延量から内包量への転化が起こり、排他が外延量と同量の<強度>、すなわち内包量となって現われるのである。
 
 結合は単に強度の形式だけをもつものではない。排他的で否定的な比例関係(質的な比例関係)は、単に外面的で無関心的な比例関係(量的な比例関係)からの侵害を蒙る。こうして、ここに<単に量的性質のものであるかと思うと、また特殊的性質のものでもあり、度量でもあるというような諸比例の一系列が措定されるのである。>
 
◆度量の諸比例の結節線◆
 区別された二契機の否定的統一(向自有的統一)としての中和性、すなわち選択的親和性に対しては、これより進んだ比率化(特殊化)の原理はまだ示されていない。そこで、排他的な選択的親和性はそれとは別の多くの中和性へと連続するのであるが、その二契機は独立的な二つの或る物であり分離可能なのであるから、いまや度量は<それ自身において一つの外面的なものであり、その自己関の中にありながら、一つの変化的なもの>となっている。
 
 この比例度量の自己関係は存在的・質的な基礎、すなわち物質的な基礎であり、したがって排他的度量は<自分自身において比率化をなす統一>として<自分の中に諸々の度量比例を生産するもの>である。これらの比例は単に量的差異性としてあるものであって、<量の多少を表わす度盛りの上に度量の結節線を形成する>のである(振動が合成されて一つ調和音を形成するように)。
 
 こうしてここに<他のものと質的に異なる独立的実在性>が出現する。この向自有は、ある範囲内では量的変化に対して自分の質を変えることはないが、量的比例の変化が一つの度量となり、したがって質が変化し新しい或るものに転化するような一点をもつ。この転化は一つの飛躍であって(生から死への飛躍のように)、無際限に累進していくのである。
 
◆没度量◆
 独立的実在性を実現した或る物、向自有的度量は、自らを超出して没度量(度量を超えたもの)の中へ追いやられる。すなわち、度量の結節線において量的規定性が質化(比率化)されるように、度量は自ら没落し質的規定性(比率的実存)にまで高められるのである。このような質的な比率的実存と量的諸比例との交代は無際限に続き、その推移の中から、比率的諸比例・量的進行の否定としての度量の比率化の無限性が出現する。
 
 この無限性は<量的なものと質的なものとの双方を互に止揚しあうものとして措定する>のであるが、このような<度量の交替を通じて連続する統一こそ、真に恒常的で独立的な物質であり、事柄に他ならない>。ここに見られる<自同的な事柄>は<種々の区別の中で根底となっているもの>であり、質的なものと量的なものの相互推移の過程の根底に存在するところの両者の統一である。このようにして、<推移していくものは、この変化の中であくまで同一にとどまっているものであることが明らかにせられる>。
 
 質と量の直接的統一としての度量から、それらの実在的区別(区別の二契機がそれ自身質と量の統一であるような区別)に基づく度量へと、実在化の過程は進展してきた。<しかし、この比率化的原理は、まだ自分の区別に対して内在的な規定を与えるような自由な概念ではない>。それは<差し当っては単に基体にすぎず、或る物質にすぎ>ず、現にある区別は<外面的な量的規定が同時に質の差別であること>でしかないのである。
 
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◆数学は数学的リアリティを、神学は神学的(宗教的)リアリティを対象とし、それぞれ生命感覚、脳内感覚にその物質的基礎をもつ(と思う)。それではヘーゲル論理学が対象とするリアリティとは何か。そして、それはどのような物質的基礎をもつものなのか。言語的リアリティ、あるいは言語の歴史性? 言語の物質的基礎とは?
 
◆数学的リアリティについて。以前、『数学セミナー』表紙のミニ・エッセイ欄に、数学の根底には一種の生命感覚があって、それは「数覚」とでもいうべきものではないかといったアイデアが述べられていた。
 
◆神学的(宗教的)リアリティについて。八木誠一は、田辺元の「種の論理」を踏まえて、<社会的実存の運動は統一→自由→統合の繰り返し、三つの契機の相互否定的媒介、というパターンのもとにおかれることになる>といっている(『キリストとイエス』講談社)。
 ここで「統合」とは統合体(あるいは統体)への運動を意味する。統合体とは、<複数の成員から成り、そこで成員は互いに他から区別され、自由な成員として他者とは一面相互否定的である・・けれども、しかし同時にまた相互依存的であり、同一根柢において結ばれていて、また外的な形としても全体としてひとつであるようなもの>をいい、生体、人格存在も統合体である。
 八木によれば、統合体が自己同一性を維持する原理(形や構造、秩序)が統一性であり、たとえば律法主義的なユダヤ教教団にあっては、<法律という統一性の契機>が全面に出ている。このような<自己疎外として律法の統一性>からの自由が<キリスト教的実存>であり、そこからキリスト教教会という統合体への運動が導かれるのである。
 

【第12回】第1巻第3篇第3章、本質の生成
 
 レーニンは『哲学ノート』(岩波文庫)の中で、<本質への有の移行がひどくあいまいに述べられている>と書いています。あいまいだとは思いませんが、確かに無理がある。それに、くどい。
 
 無理があるというのは、物質の集積からいかにして生命が創発するのかという本章の問題の立て方(あるいは読み方)についてのことであり、くどいというのは、物質から生命への飛躍を連続性のうちに叙述しようと試みる(あるいはそのように読解しようと試みる)執拗さのことです。(いうまでもなく、ここで括弧で括った態度、行為の主体はこの私です。)
 
 度量篇では、自らに折り返し二重化した宇宙の内部での物質の生成過程の論理学的叙述がなされている(と私は考えている)のですが、さらに物質は<自分に対する単純で無限な否定的関係>となった無差別へ、あるいは<ただ結果として現われる無限な自分との一致>としてのみその<根源的な独立性と自己同一性>をもつものへと展開していきます。それを私は生命への展開とみたわけです。
 
 しかし、物質から生命への展開には「認識論的切断」とでもいうべき飛躍があり、それがヘーゲル論理学の「分かりやすい」読解を妨げるのです。(物質が自らを表現と内容へ、そしてそれぞれをまた形式と実質に二重化することによって本質=生命へと展開するなどと、言語の二重分節の理論や『千のプラトー』を持ち出して強弁したところで、この飛躍は埋められません。)
 
 ところで、ヘーゲルの叙述の「くどさ」は、ヘブライ的パラレリズム(対句法)を連想させます。パラレリズムについては、ヴィンフリート・メニングハウスの次の指摘が興味深い。
 
 <パラレリズム的自己増殖の理論とは事実上、詩的自己鏡像化もしくは詩的自己反省(反射)の理論にほかならない…。ここでパラレリズムが果たす役割は、単に数ある反省的自己二重化の中で特に人目を引く範例としてのものではない。むしろパラレリズムとの理論的な取り組みは…、はじめは部分的な概念だったものを包括的で普遍的な概念へと強化し、それによってこれを詩的反省の普遍理論と共通の外延を持つものにしていこうとする傾向をもつものなのである。>(『無限の二重化』伊藤秀一訳,法政大学出版局)
 
 メニングハウスは上記の著書で、二重化構造としてのパラレリズムが芸術・呪術において一般的に認められるものであることを、初期ロマン主義者の反省理論を起点とし、ベンヤミンの「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」の批判的受容とジャック・デリダの理論への接続とを通じて論じています。ヘーゲル論理学との関係はまだよく見通せませんが、それはそれとして、私はこの魅力的な書物の目次を眺めているだけでわくわくしているのです。(1997.1.26)
 
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◆絶対的無差別◆
 質、量、そして質と量の統一としての度量といったすべての規定性の否定を経て、有の無差別(抽象的無関心性)は絶対的なものとなる。そこでは、規定性は<無差別を基体とするところの質的な外面的関係>、すなわち状態にすぎない。
 
 このように質的な外面的存在と規定されたもの(規定性)は、消滅するものであり基体の上の空しい区別でしかないのだが、それこそが結果としての無差別そのものなのであって、<まさにこの意味において、無差別は具体的なものであり、有のすべての規定の否定を経て自分自身の中で自分と媒介したものにほかならない>。
 
 また、無差別はこのような媒介として否定と比例を含んでおり、したがって、状態(質的な外面的関係)とは<無差別のもつ内在的で、自己関係的な区別>に他ならない。こうして、無差別の内部に外面性が存在することになるから、無差別はもはや単なる基体ではなく、<それ自身において単に抽象的であることをやめるのである>。
 
◆両因子の逆比例としての無差別◆
 次に、無差別の中でどのようにして無差別の規定が措定されるか、そして無差別がどのようにして向自有的なものとして措定されることになるかを見ておこう。
 
 独立的な諸々の度量比例の基礎にある基体の中には、質と量の二規定が区別として現存している。これらの区別はまず量的・外面的なもの(定量)であり、両者はその和(基体)を限界として互いに否定的に関係しあう。ところで、この否定的関係をもたらすものは両者のもつ質的規定性であり、これら(二つの定量)は逆比例の関係をなす。この逆比例は<全体が一つの実在的基体であり、しかも両項の各々がそれ自身、即自的にはこの全体であるべきものとして措定されている>のであって、量篇で議論した形式的な逆比例とは異なる。
 このようにして、区別は二つの質の区別として存在することになる。つまり、相互に止揚しあいながら一個の統一(基体)の中に保存され、この統一を構成するものとして両者は不可分なのである。そこでは、逆比例の関係をなす二項はその質的規定に従って互いに連続しており、<各々の質は他方の質の中において自分自身に関係する>ことになる。両者の量的区別(異なる定量)をもたらすものは無差別であって、二項はこの無差別に基づいて互いに連続する。<この連続は二つの質の自同性として、二つの統一の各々の中にある。>そして、この二項はそれぞれ二規定の全体であることから、結局、二項は無差別を含みながらも<同時に互いに独立的なものとして措定されている>のである。
 
 以上の展開の結果、<発展した形における>有、すなわち<即自的には、この統一に解消された有の諸規定の全体であるものとしての無差別>が実現された。しかし、この統一は単に即自的なものであり、その契機もいまだ向自有的なものではなく自分自身に対して無関心である。
 そこで、先に述べた不可分でありながら独立的なもの(逆比例の関係にある二項)について詳しく見てみると、それらはそれぞれ二規定を止揚する全体ではあるが、この二規定は量的・外面的区別として措定されるにすぎず、<ここでは無差別の外部に存在し、規定のはたらきをもっているところの或る他のものが暗示されている>。このように、<無差別としての絶対者>による区別の措定は直接的なものであり、区別はただ絶対者の中に現われるにすぎない。
 量的に措定された二項は、<即自的には無差別そのもので、各々それ自身が質的契機の分裂したものである二つの質の統一>である。つまり、二項はそれ自身において無差別の全体性なのであり、この点でそれらは直接的に対立する。
 
 逆比例の関係にある二項の内部で各々の質は他の質と関係する。これら二つの質は<同時に一個の統一の中にあるものと規定されており、両者が不可分のもので、各々は他方の質とこのような質的関係の中において、はじめて意味と実在性をもつ。>このように<各々の質のもつ量性>は質的性質をもつのであるから、いずれの質も他方と同様の外延をもつことになる。つまり、両者は平衡の関係の中にあるのであって、<一方の質が増減するだけ他方の質もそれだけ増減する>のである。
 ところが、このような同等性の中では両者は共存することができない。そこにはもはや両者を区別するもの(異なる定量)がないからである。こうして二つの質、<二つの因子は存在しないことになり、ただ一方の全体だけが存在することになる>。しかし、一方的な統一の中で全体性が無差別として規定されることは矛盾である。そこで、<この統一は措定されて、この自分自身を止揚する矛盾が向自有的な独立性と規定されることにならなければならないが>、この独立性は<統一そのものに内在する否定的な絶対的統一>、すなわち本質に他ならない。
 
◆本質への推移◆
 絶対的無差別は有の最後の規定である。それは区別を量的・外面的な区別としてもつものであるから、まだ本質に到達していない。
 
 ところが、無差別はその措定された有の<展開の中で、あらゆる面で自分が矛盾であることを明らかにした>。つまり、無差別は<即自的には有のあらゆる規定を止揚して、含んでいるところの全体性>であり基礎であるが、その措定された規定性(区別、逆比例の関係にある二因子など)は外面的であるから、無差別はいまや<否定的全体性>であり、<自分に対する単純で無限な否定的関係>となる。<規定することと規定されることは、もはや推移でもなければ、外面的な変化でもなく、或いはまた各規定の無差別の中での出現でもない。>それは、無差別自身の自己関係である。
 各規定はいまや契機となっており、向自有的統一に内在している。それらは<有の領域におけるように存在的なものではなくて、いまや全くただ措定されたもの>、つまり<相関性をもっているところの措定されたもの>なのである。
 
 こうして、有一般、区別された諸規定、そして同時に即自有が消失した。有はいまや、<ただ結果として現われる無限な自分との一致>としてのみ、その<根源的な独立性と自己同一性>をもつものとなった。すなわち、有は本質──<有の止揚によって自分と一つになった単純な有としての有>──となったのである。
 
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◆本質についてのヘーゲルの叙述。──概念には、即自的・存在的な概念(実在性または有の概念。無機的自然の中にある概念)と、向自的に存在する概念そのもの(有機的個体の中にある概念。それが思惟する人間の中にあるときは、意識され認識された概念)とがある。しかし、それ自身統一である概念が不可分な諸規定の区別という形で措定されるものであるかぎり、それらの規定は何らかの関係をもたねばならず、ここに<媒介の領域、即ち反省規定の体系としての概念>が生ずることになる。それは<概念の自己内存在への推移の途上にある有の体系としての概念>である。<それ故に、この概念はまだそのものとして向自的に措定されているのではなく、それには概念に外的なものとしての直接的な有がつきまとっている。これが有論と概念論との中間に位するところの本質論にほかならない。>(序論)
 
 ──度量の中には本質の観念が含まれている。本質の観念とは、<規定性の直接性の中にありながら、自己同一的にあるということ>である。直接性と自己同一性とは相互に媒介しあうのであるが、そのうち直接性(外面性)による自己同一性の媒介は自分との媒介であり反省である。ここでいう反省とは、それの二規定が直接的な<有としてありながら、それがそのまま、ただ両者の否定的統一の二契機としてあるような形態>をいう。度量の中では、質的なもの(規定性、区別)は量的なもの(無関心的なもの)としてあり、区別は止揚されている。<ところで、この量性が同時に質的なものであるような自己復帰となるとき、この量性は即且向自的な有となる。そして、このような即且向自的な有は本質にほかならない。>(度量篇)
 
 これらと本章「本質の生成」の叙述から、ヘーゲルのいう本質とは生命にほかならないと私は考える。(物質にくるまった霊魂、受肉したロゴス、時間を内在化した物質。)そして、有論・本質論・概念論はそれぞれ物質・生命・精神の運動を規定するロゴスの働きを論理学的に(レシピ、楽譜、呪言、アルゴリズムといった外在的・実在的言語の使用によるのではなく、預言、福音、韻文、アナグラムといった内在的・観念的言語の自己展開そのものにより)叙述しようとするものであり、さらには、それらを通して物質の意識化と意識の物質化が交差する至高の座を啓示しようとするものであると私は考える。しかし、それはもはやヘーゲルの論理学ではなくて、私の論理学である。