『大論理学』ノート[1-2]
 
 
 
 

【第6回】第1巻第2篇第1章、量
 
 量篇へ入る前に有篇を総括しておきます。前回、向自有の章を一種の陶酔状態で読み終えたあと冷静になって振り返ると、定有の章に読解不足があったことに思い至りました。特に、有限性の節で矢継早に出てくる規定、性状、限界、制限、当為といった質のもつ意義、像がいまひとつ具体的に掴めていなかった。
 
 そこで、有篇全体を人が生まれ落ちて成人に達するまでの意識の変遷の記述へと読み替えてみることで、その総括をやっておきたいと考えました。(言語修得のプロセスとして、あるいは言語がある個体の脳髄に参入して、そこに文法というソフトプログラムをインストールしていく過程として読み解いてみるのも面白いかもしれません。しかし、それはまた別の試みとしてアイデアだけに止めておきます。)
 
 まず、第1章、有は子供の意識の様態を記述しています。──僕はなぜ僕なのだろう。どうして彼や彼女として生まれてこなかったのだろうか。僕が僕として生まれてきたことはなんと不思議な出来事だろう。もし僕が胎児のままで死んでいたとしたら、生まれるはずだった僕はどうなっていたのだろう。そしてまた両親が出会わなかったとしたら、僕は別の誰かとして生まれてきていたのだろうか。死ぬということはどういうことなのだろう。僕の体が消えて無くなると僕はいったい何処へいくのだろう。そもそも僕はどこから来たのだろう。
 
 ここには、「あること」の謎に対する透明な感覚が示されています。自分が自分であるという感覚、あるいはリアリティの根拠を、身体や名前や自己の「質」としての記憶に求めることのできない危うさが、しかしそれゆえにそれらからの拘束を離れて「ないこと」の方へと浮遊していく自在性をもたらしています。そして、「あること」と「ないこと」がひとつの不可思議な連続性のうちに結びついたとき(観念化されたとき)、そこに自己史を編纂するある立場が形づくられることになるのです。
 
 第2章、定有はこのような自己へのこだわりをもった青年の意識の様態を記述しています。子供にとっての「あること」が普遍的な相において捉えられていたのに対して、青年にとっての「あること」はいま、ここにあるところの特殊なものに他なりません。それは実在するかけがえのないもの(親しいもの)であるとともに、否定されるべき疎遠なもの(嫌悪の対象)でもあります。このような自己をめぐって背反する感情の湧出を考えるとき、そこに他者の存在を見ずに済ますわけにはいきません。
 
 青年は他者の存在を気にしつつ、他者との差異、あるいは同一性に着目しながら、自己の一貫性(インテグリティ)を求めます。そこには、自分が自分であることの根拠を自らの「質」である内面性に求めつつも、他者の存在から解放されない青年の危うさがあります。他者の視線が、実は他者を通じて自らをみつめる自己のまなざしであることに気づかれないまま自己を照らしだすとき、そこに「性状」がたち現われ、それが内面性の中に取り入れられたとき「限界」となるのです。自意識によって身動きならなくなった青年の姿がそこにあります。
 
 しかしこのような自縄自縛の矛盾からの脱出、出エジプトを敢行しようと試みるとき、青年は「有限者」になります。このことをいま少し詳しく見るためには、そもそも限界とは何であったかを考えてる必要があります。限界とは他者の眼によって規定された制約の自己内在化でありましたが、実はそれは自分自身のまなざしの他者を介しての照り返しに他ならなかったのです。このことに気づき、限界を自己の「質」として引き受けることが、自己を有限者(かけがえのない質をもった個性)として認識することにつながるです。
 
 青年は本来の自分にこだわります。しかしそれはいま、ここにある自分を超えたところにあるものではありません。いま、ここにある自分のもつ限界(本来の自分の否定)を自分にとって本質的な「制限」と受け止め、これに対する否定的かかわり、すなわち「当為」を通して、本来かくあるものから本来かくあるべきものへと超出しようとするとき、青年は「有限者」なのです。そして、自分自身を乗り越えた青年が有限者としての自己を自らのうちに引き受けたとき、いいかえれば無際限の抽象的な可能性を断念しかくあるものとしての自己を引き受けたとき、青年は「無限者」に、つまり社会の成員である成熟した大人になるのです。
 
 第3章、向自有は大人の意識の様態を記述しています。大人は、あらゆる事態に即応した自己の一貫性を自分自身の内面において担う(向自的存在)とともに、社会に対しても責任として担う存在(向一的存在)です。青年にとっての「あること」が特殊な存在としての自己を差し示すものであったことと対比させるならば、大人のそれは社会の一員としての個別的存在、すなわち一個の法的人格の所在を差し示すものであるといえるでしょう。
 
 法的主体としての大人は、自己の権利を他者に対して主張することによって自己を社会的に表現しますが、このような「反発」行為の錯綜を通して実現されるものが社会規範であり、法的人格なのです。いいかえれば、社会を構成する個別的存在は、相互の「牽引」を通してそれぞれの自己を法的人格(一者)として承認し合うことになるわけです。
 
 かつて青年の意識の中に緊張をはらんだ存在として登場した他者は、いささかもその実質を明らかにされることなく大人の意識の中に、すなわち法的人格の中に回収され、以後、自己と他者の関係は社会における量的関係のうちに推移していきます。(量的関係の煉獄をくぐりぬけ、やがて本質論、概念論へとロゴスの自己展開が進んだとき、他者はその実質を顕在化するのでしょうか。それとも、立法者として、無限者がその一貫性の責任を負う真の名宛人として、いいかえれば神として、すでに他者はその姿を開示しているのでしょうか。)
 
 ──以上の叙述は、「論理学」を総括するものとしてはルール違反の誹りを免れません。しかし、ヘーゲル自身、自我や精神や神の向自性、さらには畑の規定性や質的限界、量的限界といった「比喩」を持ち出しているのですから、出来ばえのいかんは別として、一つの注釈としては許されるものと思います。言い訳はここまで。さて、再びヘーゲルの濃密な文章に戻ることにしましょう。
 
 第1巻第2篇第1章、量。いよいよヘーゲルの数学論が始まります。非本質的で無概念的な悟性の学。──ヘーゲルにとって数学は、概念に関する完全な野蛮人(ヘーゲルのニュートン評)の手になる量の学にすぎなかったようですが、これらの知識を予断としてひとまず括弧に入れ、虚心にヘーゲル数学論を味わうことにします。(1996.12.15)
 
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◆量◆
 向自有的存在は<肯定的に他者に進展して行くもの>であり、このような連続において生じる他者の定有(向自有的定有)の中に規定性としての自己関係をもつものとして措定される。このように規定性が自分の外にあることになるから、向自有的存在──他者への連続において、それは向自有的定有としての或る物なのであるが──とその他者の関係は外面的なもの、すなわち量的関係である。
 
 量は、<まず第一に純量として自分に復帰した、実在的な向自有>であり、<まだ何らの規定性をももたないもの>、すなわち<純粋な、自己連続的な無限統一>である。それはまだ限界をもたず、したがっていまだ定量ではない。純量の本性は、<限界によって制限されないこと、向自有を止揚されたものとして自分の中に含むことにある>。
 
◆純量◆
 量は、連続性と分離性の二契機の統一である。連続性とは、一者における牽引を契機とするものであり、<区別された一者がそれと区別されたものの中へ自分を継続させることにほかならない>。また、分離性とは<量の一契機となったところの反発>である。分離性の中にある一者は、それ自身の恒常性──<まだ排他的とならないような数多の自己同等性>──をその関係としてもつ。
 
 量は、分離性の契機から見れば分割可能であり、連続性の契機から見れば分割不可能である。しかし、分割可能性は必然的にそれ以上分割不可能な最小単位を含意し、分割不可能性はこれを論理的に言い替えれば無限に分割可能であることになる。このように、量の二契機を悟性的に分離させると二律背反に陥るが、<われわれがいやしくも一般に概念的把捉を望むとすれば>、対立する規定は<その止揚されたものの中で、即ちその概念の中でのみ、その真理をもつ>という点に二律背反の真の解決を求めなければならない。
 
◆連続量と分離量◆
 量は、連続性と分離性という区別された二契機の統一、すなわち<分離的なもの>の統一である点で、連続量である。また、量は直接的な有の規定性(質)が止揚されたものであり、量それ自身に内在的な規定性(一者)の中で措定されなければならないものであるから、分離量である。
 
◆量の限定◆
 一者を原理としてもつ分離量は、一者の数多性であり、本質的に恒常的であり、同時に統一としての一者、すなわち<多くの一者の分離性の中における自己連続そのもの>である。このように、分離量の規定性としての一者は、<統一における限界>であり<包括するところの限界>であるが、実在的な分離量は<その限界と一者に対して無関心>であるから、それは一個の量または定量である。
 
 ところで、限界としての一者は、分離量としての多数の一者を含むとともに、これらを自分の中に止揚された一者として措定する。すなわち、限界は<連続性そのもの一般の限界>でもある。そこでは連続量と分離量との区別は<どうでもよいもの>となり、したがって<両者は共に定量に移って行く>。
 
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◆あらゆる長さの線分を元とする無限集合を考えてみよう。(この集合は無限の長さをもつ直線、つまり量そのものの表象と考えていい。)そして、集合の元である個々の線分の長さを比較し、より短いものからより長いものへと順に並べてみよう。やがて、そこに一つの連続して変化する長さ(量)が得られるだろう。個々の線分を分離量の表象として、またそれらの関係(<分離的なものの連続性>)を連続量の表象として見ることができるならば、かくのごとく分離量と連続量は「連続」している。
 
 ところで、この集合の元である個々の線分は、それ自身同様に一つの無限集合である。つまり、<限界であるところの一者は分離的な量としての多数の一者をその中に含んでいる>のである。そして、限界としての一者とは、いまの場合それは一つの有限量なのであって、連続して変化する量が決してそれを超えることのない極限値を示している。(ここからカントール流の無理数論を経れば、<完全な規定性>においてある定量、すなわち数を導き出すことができるだろう。)
 
 ──以上の議論は、実は定量のカテゴリーを先取りしている。しかし、これは『大論理学』のすべてについていえることだが、階梯を一段上った場所から振り返ると、そこへ至る過程が手にとるように見えるものなのだ。
 

【第7回】第1巻第2篇第2章、定量
 
 量篇を読みながら、もどかしさを感じ続けています。それは、分かるけれども分からないとしか表現できない「嫌な」感じです。これほど自明な事柄をヘーゲルがなぜこのように回りくどく長々と叙述しているのか、その真意が掴めない。(実際『小論理学』の叙述はこれと比較にならないほど簡素です。)気にせずに読み飛ばせば難無く素通りできるのだろうけれど、もしかするとここには私には理解できない大切なことが書かれているのかも知れない。
 
 たとえば、次のような叙述には何か深遠な意味が込められているのでしょうか。
 ──数には集合数と単位の二つの契機がある。5は単位1が五つ集まってできた集合数だが、それ自身を単位と見ることもできる。数の外面的な結合と分離によって新たな数を産出する計算法のうち、加法と減法では数はまだ二契機の単純な統一でしかないが、乗法と除法では集合数と単位の区別が現われてくる。ただ、3×4で3を単位と見れば4が集合数であるが、その逆も成り立つ。さらに乗冪や開法に進むと集合数と単位は同一のものになり、このことは自乗の場合に顕著である。云々。
 
 ヘーゲル自身は、<数は普遍的なものを感性的なものと結びついたものとしてつかむという不完全の最後の段階をなす>と冷たく突き放しているのですが、数論を「老後の楽しみ」の一つに取っておこうと計画している私にとって、自然数の減法から負数が、除法から有理数が、そして開法から無理数が産出されて完成する実数の体系は、汲めども尽きぬ不可思議を内蔵した数学的実在であり<概念>に他なりません。
 
 ヘーゲルは数学の<彫塑性>を嫉視するあまり、不当にこれを低く見ようとしているのではないか、そのために量篇の叙述が不自然に長くなったのではないか、そのような邪推さえしたくなります。ただ、数学が具体的な事象から離れて抽象的・外面的な関係性(形式性)の認識(あるいは制作)を志向するのに対して、論理学が抽象性から具体的・個別的なものの内在的・概念的把握(動的把握)へと推移していく点は決定的な違いであり、<哲学は、その具体的諸科学の叙述に当って論理的原理を論理学から取るべきであって、数学から取るべきではない>とヘーゲルが主張するのは、まったく正しい。
 
 数学との関係についてはここまでとして、量篇の分かりにくさについて。
 私たちには量そのもの、即自的な量自体をそれとして認識することは「もはや」できないのではないか。量とは既にして数量(定量)であり、個々の量(度)は何らかの数量体系のうちに占める位置によってその意味を表出している。これらの規定を離れた量そのものというカテゴリーは無意味である。これが私たちの量に対する態度なのではないでしょうか。少なくとも、私たちが乳児や幼児でない限り。そして、このことが量篇の叙述の分かりにくさの原因なのではないでしょうか。
 
 前回、有、定有、向自有をそれぞれ子供の意識、青年の意識、大人の意識になぞらえました。質篇から量篇へ推移すると、再び子供の意識、いや胎児の意識にまで遡らなければならないようです。論理学が螺旋構造をなしている以上、このこと自体は当然のことなのですが、それにしても量そのものという抽象的な対象意識を復元し、そこから数量的世界を再構築するとは、なんというヘーゲルの力業であることか。
 
 人間は、人間として生まれ落ちた時、すでに抽象的な対象把握の能力を有しています。それは、あるまとまりをもった漠然としたかたち(量的集積:離散)であり、動くもの(量的変化:連続)であり、他との比較の上では決してないにせよ大きさや小ささそのもの、つまり量そのものであって、これらの相互関係がやがて<論理的原理>の原形式となり具体的・個別的な事象を無限に産出するようになる。そこでは、言語の獲得とともに事象の数的把握能力の獲得はある決定的な出来事として遡及効をもって出現し、だから私たちは言語以前、数観念以前の世界を意識的に復元することはできないのです。
 
 バタイユは、<文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか>(『文学と悪』山本功訳)といっています。これをもじるならば、哲学とは、ついにふたたび見いだされた胎児時、乳幼児時のことではないでしょうか。しかし、ヘーゲルは「現象学的還元」などによってそれを見いだしたのではなく、<彫塑的>な初期ギリシャ哲学者の断片の中にあらかじめ表現されていることを踏まえているのです。バシュラールの言葉をもじれば、世界はあらかじめ語られていたのです。
 
 今回は「A 数」「B 外延量と内包量」までで、相当数の頁を費やして無限小解析論が展開される「C 量的無限性」は次回に譲ります。(1996.12.22)
 
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◆数◆
 止揚された向自有である量は限界に対して全く無関心だが、量の契機である一者は量の連続性・統一の中に措定されたものとして量の限界であるから、<限界を伴うところの量>である定量にとって、限界をもつことは<どうでもよいことではない>。
 定量の原理である一者は、その連続性において自己に関係する限界であり、その分離性において連続量と分離量を統一する包容的な限界であり、さらに多数の一者の否定として単純かつ排他的な限界である。そして、<定量がこの三規定をもつものとして完全に措定されるとき、それは数である>。
 
 一般に限定されたものである定量の限界が抽象的で単純な規定性であるのに対し、完全な規定性においてあるところの数の限界は<それ自身において多様なもの>として措定され、多数の一者を含む。この多数の一者は限界の定有を形成し、他の多数を排斥する。このような限界によって包容される一者は規定された多数、すなわち集合数であり、集合数に対立する他の要素は統一、すなわち単位である。<この集合数と単位こそ数の二契機をなす。>
 
◆外延量と内包量◆
 
[両者の区別]数は<本質的に集合数としてあるような、それも同じ一つの単位の集合数としてあるような単純な規定性>である。こういった<それ自身において複数的なものであるような限界を伴うところの定量は外延量である>。
 また、その規定性を外的な集合数としてもつ外延的な定量の限界は<それ故に単純な規定性へ移って行く>が、<このような限界の単純な規定の中にあるとき、定量は内包量である>。さらに、<この定量と同一的なものとなった限界または規定性>も単純なものとして措定され、度となる。度は<単に一つの多>であり、<止揚された集合数としての数であり、単純な規定性としての数なのである>。
 
[外延量と内包量との同一]内包量・度は他の多くの度と対立するものであって、<他の度を自分から排斥し、この排斥の中に自分の規定性をもつ>ものであるとともに、<それ自身がもつところの集合数としての集合数の中で規定される>ものでもある。つまり、外延量が集合数を内部にもつのに対して、内包量は集合数を外部にもつ点で区別される。
 外延量の数他がその外部の統一の中に崩壊するとそれは内包量であり、内包量もその規定性を集合数の中にもち集合数の外面性を自分自身の中にもっているという意味では外延量である。<このような内包量と外延量との同一性とともに、ここに質的な或るものが現われて来る。>
 
[定量の変化]外延量と内包量の区別は、定量が自分自身の中にもつ矛盾である。それは、<単純な自己関係的規定性>(外延量)であると同時に、それが<自分の規定性を自分の中にもたずに、むしろ他の定量の中にもつといった自分自身の否定>(内包量・度)でもあるという矛盾である。
 それゆえ、定量は<他在との絶対的連続性>の中に措定されている。それは<変化しなければならないもの>であって、その規定は<存在的な限界ではなくて、生成的な限界である>。すなわち、増減こそが、超出こそが定量の本性である。しかし、定量が産出する他者もまた一個の定量であり、<自分自身を越えて自分を駆り立てるところの限界>なのであるから、ここに再び悪無限が生じることになる。
 
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◆数詞には基数[cardinals]と順序数[ordinals]との区別がある。ヘーゲルのいう外延量は基数に、内包量・度は順序数に、それぞれ相当すると考えていいだろう。
 
◆数の体系は数学的実在であり、<概念>である。──素数の分布という複雑窮まりない事柄にも法則が成り立つこと。途方もなく巨大な数がもつ謎めいた本性。(n!+2からn!+nまでの自然数は2からnまでの間に分布するいずれかの素数を因子にもつから、この間に素数は出現しない。ここでnを無限大に近づければ、無際限に素数が出現しない自然数の数列を作ることができる。しかるに素数が無限に存在することは簡単な背理法で証明できるから、この無際限に続く数列の彼方に素数は必ず実在する。ところで、そのような巨大な素数は自然数全体の数列の一体どのあたりに出現するのだろう。)すべての文字と書記法を数字を使って暗号化するならば、数直線上の0と1の間に無限に見出すことができる実数は、その一つ一つがなんらかの有意味・無意味のテキストに対応させることができるから、そこに既刊、未刊のあらゆる書物を集蔵した「神の図書館」があらかじめ宿されていること。その他、数論の守備範囲を逸脱した観念の戯れも含め、数をめぐる考察は面白いし深い。
 

【第8回】定量(続)
 
 第1巻第2篇第2章、定量「C 量的無限性」。エンゲルスはその書簡の中で、ヘーゲルの門弟には師が残した豊富な数学の原稿を出版する力がなかったが、ただマルクスだけがヘーゲルに匹敵するほど十分に数学と哲学に通じていたと書いています。事実、マルクスは千頁に及ぶ膨大な『数学遺稿』を残しており、そこでヘーゲル微分論を踏襲した代数学的微分法論を展開しています。
 
 マルクスによれば、微分法はライプニッツ、ニュートンの「神秘的」微分法からダランベール、オイラーの「合理的」微分法へ、そしてラグランジェに始まる「代数学的」微分法へと段階的に展開してきました。代数学的微分法とは、ヘーゲルの表現に従うならば、無限小を定量としてではなく質的な量的規定(比例関係)の形式においてとらえること(dxやdyを量として扱うのではなく、dx/dyという比の形式においてのみ扱うこと)、いいかえれば幾何学的表象や感覚的直感に根差す極限の観念に頼ることなく純粋に代数学の基礎の上に微分法を確立することです。
 
 しかし、ヘーゲルにとって<質的なものは数学の領域の外にあるもの>ですから、外面的な量的規定の学である数学が質的な量的規定(比例関係)を扱うためには──すなわち、真無限を対象とする有限の演算を権利づけるためには──<その源泉と基礎とが何処か他の所になければならない>のは見やすいことです。
 
 ここに、ヘーゲル数学論の可能性と限界が集約されています。ヘーゲルが示唆する代数学から解析学へ、有限の数学から無限の数学へと至る数学の内的展開の可能性(質的な数学、あるいは弁証法的数学の可能性)は、ヘーゲルが規定する数学の無概念性ゆえに原理的に閉ざされているのです。微分法がその後、極限概念の厳密化を通じて「極限法的」微分法へと推移したことは、この場合単なる後日談にすぎません。
 
 ヘーゲル数学論の現代的意義は、無限を対象とする数学が必然的に被る形而上学化に対してあらかじめなされた批判であることに求められるのではないかと、私は考えています。数学が異なるものに同一性を、同一のものに差異を見出す方法であるとすれば、そして形而上学の全歴史がアナロジーの論理のデータベース(吉永良正『「複雑系」とは何か』講談社)であるとするならば、仮に「情報神学」とでも名づけるべき質的数学の形而上学化への事前の身構えとして、ヘーゲル数学論を読み直すことには意味があるのではないかということです。(1996.12.29)
 
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◆量的無限性◆
[量的無限性の概念]定量は他者へと無際限に変化し、自分の他在に自分を連続させる。したがってこの他者も一個の定量であるが、それは限定された定量そのものの否定者、すなわち無限性である。このように、有限性と無限性は定量の二契機をなす。
 定量は<自分を越えて、自分の規定がそこにあるとせられる、その他者に向かって行く>ことにおいて有限性の契機をもつが、それは自らの限界を無限に否定することの中に究極の規定性をもつものでもある。また、定量は自らの限界に無関心な向自有であることにおいて無限性の契機をもつが、この<他に無関心な向自的存在>はやはり限定されたものである。この意味で、定量の二契機は<いずれも自分の中に他方の契機を、すでにもっているのである>。
 
[量的な無限累進]質的な有限と無限は絶対的・抽象的に対立する。これに対して、量的有限は無限の中に自らの絶対的規定性をもつ。<というのは、定量は元々その自己外有の中で同時に自分自身であるものであり、定量の外面性こそ定量の規定に属するものだからである。>
 したがって、量的な無限累進(限定された定量からそれ自身の中に定量をもつものとして措定された量的無限への無際限な進行)は無限大、無限小という二つの無限の中にその帰着点を見出すものの、この両者はまだ定量の規定を保存していることから無限累進の矛盾も依然として保存されているのである。
 量的有限の彼岸にある恒常的なものとしての無限性は、悪無限性である。<それは質的悪無限性と同様に、永続的矛盾の一項から他項へ、即ち限界からその非有へ、またその非有から再び元の杢阿彌の限界へと、永久に来往するものである。>
 
 カントは『実践理性批判』の中で量的無限累進が(悟性に)もたらす高揚を情趣豊かに描写している。しかし、無限累進は退屈な繰り返しでしかない。
 また、意志と自然・感性との質的対立に打ち克つため量を仲介者とすること──そこでは、意志が自然を止揚する作用と、<存在的なもの>である自然が<止揚されることの中で自分自身を連続的に保ち、止揚されないものとしてある>という作用は同一の作用であって、結局、意志と自然・感性との対立は依然として根底に残る──や、存在と思惟を量的二規定と考え、外的反省によって両者の即自的な(向自的でない)統一を認識することも、量的無限累進にすぎない。
 
[定量の無限性]無限大、無限小という<無限的定量>はそれ自身無限累進であり、表象が描く幻像にすぎない。しかし、この無限累進の中にこそ<定量の本性をなすもの>、あるいは<真に無限なるもの>が含まれているのである。
 定量の特性(質)はその規定性の外面性、無関心性であった。そして、<無限累進の中で単に非有という空虚な意味をもつにすぎなかった無限、或いは到達されないで、ただ求められた彼岸という空虚な意味をもつにすぎなかった無限は、実は質にほかならない>。つまり、無際限な自己超出によって定量が求めているのは<向自的規定性であり、即ち質的契機>にほかならないが、そもそも定量は止揚された質なのであり、この定量の自己超出こそ<否定された質の否定であり、即ち質の回復>なのであるから、<こうして、ここに前に彼岸として立ち現われたところの外面性が定量自身の契機であるということが措定されることになる>のである。
 このようにして質的に措定された定量は量的比例となる。量的比例の中では、他者に対する関係(外面性)が定量の規定性を構成することになり、いまや定量は統一として存在し、このような<外面性の中で本来の自分自身となったのである。>
 
[註釈1 数学的無限の概念規定性]もはや増減され得ない無限大または無限小として規定される数学的無限は、真無限の概念、すなわち有限的定量とその彼岸である悪無限とをともに止揚し、<質的形式の中にある大きさの規定>──他者との比例関係においてのみ意義をもつ<契機>──となっている無限的定量の概念に一致する。
 このことは、<比例の契機としての定量の表現の種々の段階>を低次から高次へと考察することで明瞭になる。すなわち、分数を集合数の形で表わす無限級数、あるいは無限級数の有限的表現(和)である分数から冪比例の関係にある二変量の関数へ、そして微分法へと推移することの中に──そこでは、無限微差(dx,dy)はもはや定量ではなく比例の二契機として、微分係数(dx/dy)の二規定としてのみ見られるべきものである──、たしかに無限に関する真の概念が含まれている。
 しかし、数学は、無限量を有限量の本性に基づく算術的演算に従属させ、無限量をひとまず有限量として取り扱うことの権利づけを行わなければならない。しかし、この難問に対する数学者たちの努力──たとえば、曲線の微小部分を直線と見なすこと(ライプニッツの指標的三角形において、弧を接線として取り扱うこと)や、<変量の質的な比例の規定という正しいカテゴリー>を含む極限の観念に微分の規定を見ること──にもかかわわらず、概念から出発するものではない数学にとって質的なものはその領域外のことなのである。
 
[註釈2 応用の点から見た微分計算の目的]無限小の概念規定性は<二つの定量として互に比をなしているようなものの質的な量の規定性>なのであるが、その<純粋数学的な出発点が冪の展開によって規定された関数の発見ということ以上のものでない>とすれば、問題は<こうして獲得された比例を基にして何をなすべきか>にある。微分計算は実際、具体的対象を解析的対象に還元しその中に諸々の比例を見出す点で──とりわけ空間の規定性への応用(解析幾何)に、また通過した空間と経過した時間との大きさの比によって考察される運動への応用(力学)に──大きな関心を呼び起こしたのである。
 
[註釈3 質的な大きさの規定性と関連する他の諸形式]上述のように、微分法でいう無限小は質的な大きさの規定性である。それは、微分計算において<単に冪規定性一般であるにとどまらず、更に展開の冪に対する冪関数の比という特殊な冪規定として現われる>のであるが、このほかもっと広い形式においても現われる。
 たとえば、線は無限小としての面の規定をもち、その和が面を生ずる。あるいは、<単なる加法の形を取る解析的方法そのものの中に実はすでに乗法が含まれている>といえることから、線に線を乗ずることは、<単に大きの変化ではなくて、むしろ空間の質的規定としての、即ち次元としての線の変化である。>ここでは、質的なものは<単に因子として、積に対する算術的な関係をとる>のである。
 このように、数学における無限小という<消極的に立てられたカテゴリー>の背後には──単に量的規定であるにもかかわらず異なる質的意味によって互いに結ばれている比の二項のように──<大きさが質として、即ち或る他の質のもつ大きさの関数として言い表されることになる>といった<肯定的な諸規定>が、すなわち真無限の概念が潜んでいるのである。
 
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◆時間、空間における世界の限定性と非限定性に関するカントの二律背反を反駁する中で、ヘーゲルは次のようにいっている。──時間は純量であり、時間を切断する<時点>は<今という自分自身を止揚する向自有>である。
 空間量を扱う数学は幾何学である。それでは時間量を扱う数学とは何か。空間の3次元は過去、現在、未来という時間の3次元に対応している。算術や代数学や解析学がこのような時間の構造を分析できるのだろうか。それとも、時間の数学こそヘーゲルがその可能性を示唆するとともに棄却した質的な数学に他ならないのだろうか。
 

【第9回】第1巻第2篇第3章、量的比例
 
 量から質への復帰は、反比例関係(yx=a)において、変数(y,x)が定数(a)を限界として相互に関係づけられながら0以外のすべての数を渡っていくことのうちにその端緒を現わします。(ここで、yx≠aとなるような変数の値の組み合わせは、yx=aを満たす変数の値の組み合わせとは質的に異なるものとなるのです。)
 
 これが冪比例関係(yexp[m]・xexp[n]=a)にまで進むと、<冪とは、単位の各々が集合そのものであるような各単位の集合である>──xexp[2] すなわちxの自乗はxをx回加算することを意味するが、ここでxは単位であると同時に集合数である。また、xexp[3] すなわちxの3乗はxexp[2] をx回加算することであり、以下xexp[n] に至るまで同様の関係が続く。このように、冪は集合数そのものであるような単位からなる集合数である──ことから、ここに出てくる指数(m,n)はいまや質的な性質をもった定量なのです。
 
 ヘーゲルが冪比例関係を重視するのは、ケプラーの神秘的宇宙観への共感ゆえではないかと本多修郎氏は指摘しています。イェナ大学講師としての就職論文「惑星軌道についての哲学的論文」(1801)の中でニュートン流の「実験哲学」への嫌悪を表明したヘーゲルは、その反面同郷人としてのケプラーの宇宙観を尊重するようになったのではないか。そして、ケプラーが誇りとした惑星運行の第三法則──「任意の2惑星が太陽の周囲を回転する周期の2乗は、太陽からそれらの惑星への平均距離の3乗に比例する」──への賛美が、ヘーゲルが冪比例関係を真無限の最高の形態と考えるようになった一つの要因なのではないか、というわけです。(『近代数学の発酵とヘーゲル弁証法』第・部第4章)(1997.1.5)
 
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◆直接的比例◆
 無限的定量(無限大、無限小)にあっては、定量そのものの否定的彼岸である無限性、すなわち質的なもの一般がその契機となるのであった。このように<量的規定性と質的規定性との二契機の統一>としての比例関係の中にある定量は、<単に比例の中にあるのみでなく、むしろ定量それ自身が比例として措定されているのである。>
 
 まず、直接的な比例関係である正比例では<一方の定量の規定性は互に他方の定量の規定性の中にある>が、このただ一つの規定性を示す<比例の指数>もまた何らかの定量である。ところが、<指数は商そのものとして単に集合数の値を、或いはまた単位の値をもつにすぎない。>(y:x=a:1あるいはy=axにおいて、指数aは商y/xである。ここで、集合数yが単位xに基づいて計られる場合、aはこの単位の集合数であるが、x自身を集合数とすればaは単位である。)このように、直接的比例の指数は単位と集合数の二契機の統一という意味での<比例の質的統一>として措定されておらず、一層実在的な比例へ、すなわち<止揚された直接的比例>としての反比例へと推移する。
 
◆反比例◆
 間接的比例としての反比例では、指数は<積として、即ち単位と集合数との統一と見られ得るところにまで>達する。(y:1=a:xあるいはy=a/xにおいて、指数aは積yxである。ここで、yまたはxのいずれか一方が単位で他方が集合数であるから、aは両者の統一である。)正比例にあっては両項(x,y)の変化は比例にとって外的なものであったが、反比例にあっては<その変化は比例の内部に保持されている>。(ny:nx=y:x=a:1であるが、ny:1=a:[1/n] x)
 
 ところで、反比例における指数は<両項の相互限定の限界>であり、無限の彼岸であるものが<同時に現在的な、どれかの有限的な定量として存在することになった>ものである。(x-y座標に図示されたy=a/x上の一点(x,y)と(0,0)(x,0)(0,y)を結んで得られる四角形の面積は常にaである。aは比例両項x、yの限界であって、両項はこの限界の内部で互いに対立的に増減し、彼岸としてのaに悪無限的に接近していく。)
 
 このことを一般的にいうと、<全体が指数として両肢の相互的限定の限界となったということ>であり、また<それ故に否定の否定、従って無限性、即ち自分自身に対する肯定的な比例関係が措定されたということである。>かくして、<指数が二つの定量の無関心的な存立の否定の中で自分を維持するものであり、自分と一致するものであり、その意味でこのような自己超出の規定者であることになった>とき、比例は冪比例へと推移する。
 
◆冪比例◆
 冪比例の指数はもはや直接的定量ではなく、質的性質をもつものである。指数はここでは、<集合数が同時に単位そのものであり、定量はその他在の中で自己同一であるといった単純な規定性>である。すなわち、冪比例は、規定性の外面性という<定量の質>の表現なのであって、定量はその中では<他の定量への自己超出が定量自身によって規定されたものとなっている>のである。
 
 冪比例において、定量は<自分自身との区別という区別の中にあること>になり、規定性の外面性が<いまや定量の概念に適合するもの>となっている。そこでは外面性が<定量の質として措定されている>のであるが、このことによって定量はすでに他の規定へ、つまりその他者である質へと推移している。このように止揚されて質となった定量、<或るものを或るものたらしめるもの>となった定量は、度量である。
 
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◆ヘーゲルが<一般に全体性が措定されるためには二重の推移が必要>であり、<この二重の推移に関する注意は、この学的方法の全体にとって非常に重要なことである>というとき、規定性A(質)と規定性B(量)をめぐる次の関係が、すなわち{A}=B(第一の推移)と{B}=A(第二の推移)が同時に成り立つような<全体性>あるいは論理学の<全体>のあり方──{A}={A,{A}}={B}={B,{B}}={{A},{B}}={A,B}…という動的なあり方──が示唆されている。ここで、a∈A、b∈Bとするとき、B={{a}}とB={{a,
a,…}}とは同一の規定(増減しうるものという量的規定)であるが、A={{b}}とA={{b,b,…}}とは異なる規定(質的規定)である。
 
◆ヘーゲルは、ピュタゴラスのように数を<一般的な、本質的な区別の指示のために使用したというのは、哲学的思索の幼年時代のことであった>といっている。また、『小論理学』の中では、神を三位一体とみるときの三と、空間の三次元や三角形の三辺をいうときの三とは異なるといっている。
 このように数を概念の代わりに使用すること、あるいは冪を始めとして<力とか、実体とか、因果などといった一般に用いられている諸規定>を<生命のあるものの諸関係、または精神的な諸関係>の表示手段とする<象徴主義>に、ヘーゲルは反対する。なぜなら、哲学的な<概念規定性は自分自身を表示するものであり、概念、規定性自身の表示のみが正当で適切なものだからである。>
 ここに見られるヘーゲルの反象徴主義、量的な規定性と質的な規定性との混同(外面的なアナロジー)への批判は、数量的・機械的世界観から質的・有機的なそれへと推移しつつある現代においてこそ一層の重要性が認められるべきものである。