『大論理学』ノート[1-1]
 
 
 
 

【第0回】
 
 ヘーゲル『大論理学』を読むことにします。
 最近、ライプニッツが面白くなってきて、しばらくかじって堪能してから取りかかろうかと考えていました。下村寅太郎も「ライプニッツにおいて直接的に普遍的なる精神…が、カントの批判哲学において否定され裁断され、ヘーゲルにおいて弁証法的に否定の否定において快復され、止揚される」と指摘していることですし。
 ところが、そこが素人の強味、読みたい思いが高じるやあっさりと計画を放棄し、一気に一世紀以上飛び越えてしまいました。
 
 テキストは岩波全集版。3巻×3編×3章に序論を加えて28章を、月に2回、1章ずつ読むとしておおよそ1年少々。ヘーゲルを理解し解釈することを目論むのではなく、ヘーゲルを味わい、ヘーゲルを楽しむことに専念する。思考が思考を思考する運動の渦中に身をもって巻き込まれてみる。だから、もっと時間をかけてもいいし、もっと素早く読み切ってもいい。
 サブテキストは、岩波文庫『小論理学』。参考書は、姜尚暉『ヘーゲル大論理学精解』(ミネルヴァ書房)、見田石介『ヘーゲル大論理学研究』(大月書店)、『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣)、レーニン『哲学ノート』。これらはたまたま手元にあったり、近くの図書館で貸出を受けられるものをあげただけのことで、よく判らないところは飛ばしてもいいけれど、もしこだわってみたくなった時にひもといてみる。
 だいたいこんな感じで始めてみようと思っています。
 
 少し個人的な事情めいたことを書きます。
 
 私がヘーゲルに関心を持つようになったきっかけは、ウィトゲンシュタインにあります。(『論理哲学論考』は、私にとってはいまでも汲めども尽きせぬ謎を孕んだ秘教の聖典です。)
 一頃、ウィトゲンシュタインに関する書物を読み漁っていた中で、出典は思い出せないのですが、誰かが彼になぜ形而上学をやらないのかと訊ねたくだりがありました。残念ながらウィトゲンシュタインがどう答えたかは失念してしまいましたが、決して形而上学に対して否定的な言い方ではなかったと記憶しています。その時、私は彼の答えに一瞬意外な思いをしたものです。しかし、よく考えてみればそれも当然であって、なぜなら『論理哲学論考』とは現代の形而上学、あるいは存在論の書に他ならなかったではないかと、直ちに思い直したものです。このエピソードに出てくる形而上学こそヘーゲルの作品であると、私は勝手に思い込んでしまった。
 ついで、若き日のウィトゲンシュタインが心酔したというショーペンハウアーへと関心が移り、『意志と表象としての世界』をおりに触れて読み継ぎ、ほぼ4年近くかけて読了する中で、敵役としてのヘーゲル像が鮮明に刻印されていきました。ここで、弁証法的な感受性の変容とでもいうべき転回が生じ、一気にヘーゲルへの関心が帰結されたというわけです。
 このような軽いヘーゲル熱が『論理学』へと収束していくについては、二人の日本の思想家の著作の影響がありました。
 
 池田晶子『事象そのものへ!』(法蔵館 '91)。論理を扱った「存在の律動」その他のエッセイの中で、<実存と論理のせめぎあいを生きた>ウィトゲンシュタインと<徹頭徹尾、大人だった>ヘーゲルについての躍動する文章に接したこと。とりわけ、<弁証法は「方法」ではない。常に、既に、生きられている事柄そのものなのだ>という文章は印象深い。
 池田晶子『考える人』(中央公論社 '94)。口伝西洋哲学史とサブタイトルを付した書物の劈頭にヘーゲルをもってくるセンスにまず痺れ、<哲学の醍醐味は、ヘーゲルに極まる!>との潔い断言に心を揺さぶられ、気がつくと憑かれたように『小論理学』に読みふけっていた。  
 
 岩波文庫の上巻を終え、本質論をかじり始めた頃に出会ったのが、中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波書店 '94)。禿げかかった頭をかきあげながら亡命先のベルン図書館で『大論理学』に没頭するレーニンは、ときどき奇妙な錯覚におそわれた、<これはほんとうに、あの悪名高い「絶対的観念論」の哲学者が書いたものなのだろうか? いや、ここにあるのは、表現の角度を変えた、唯物論哲学なのではなかろうか? ヘーゲルはすでにのりこえられた、などと語ったのは、いったい誰だ?>   これは随分と楽しい読み物で、とりわけキリスト教神学の三位一体論とヘーゲル概念論との構造的な同型性を論じるスリリングな展開にすっかり魅了され、不覚にもヘーゲル『論理学』はこれで了解と、文庫本下巻を読みかけのまま放置してしまった。
 それでも、同年復刊の始まった岩波全集版『大論理学』を、いつか読むこともあるだろうと、とりあえず購入しておいた。
 
 阪神・淡路大震災。神戸の西端に住む私の家では大した被害はなかったものの、震災の教訓から蔵書を大幅に整理縮小することにした。買ったきりで読みもしなかった書物を思いきって処分した中で、それでもどうしても気になって手元に残したのが『大論理学』。それと知らず背表紙を眺めているうち、かつての微熱が再発してきた。震災の経験が存在論への感受性を研ぎ澄ましたなどとは言わないけれども。
 
 以上、くだくだと書きました。別段の意図はありません。読み流してください。
 
 話は変わりますが、『大論理学』を読もうと思い始めてから、全体の感じをつかむため大急ぎで『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)を読んだのですが、ちょっとひどいものでした。
 と、偉そうに書いたものの、私にこの本以上の要約ができるとは思えません。ただ、ヘーゲルの面白さはあの文体──池田晶子さんがいう「哲学の言葉」、つまり<認識しつつあることが、そのまま表現となるような、表現することで、さらに深く認識へと導かれていくような、もっと力強い「哲学の言葉」>──にあるのであって、分かりやすく言い直すとかえって分からなくなる。
 それに、ヘーゲルの思想には間違いはあるものの学ぶべきところも多い、などといった「外在的」な評言がいたるところで使われていて、それが気に入らない。ヘーゲルに肩入れするつもりは毛頭ないが、間違いはあるものの、などど評言するのも思惟なら、ヘーゲルという質料を舞台として自己展開しているのも思惟なのだ、このことから逃れられる立場がどこにあるというのか、ヘーゲルを批判するなら潔くヘーゲルを読むな、ウィトゲンシュタインのように。(1996.10.30)
 

【第1回】序文と序論
 
 神戸・元町の「アマデウス」というモーツアルトのレコードばかりかけている喫茶店で書いています。ヘーゲルとモーツアルト! 大人と子供! この異様な取り合わせをあえて総合するとすれば、自分自身の内容を産出する純粋形式の能力、純粋概念の自己媒介的運動、否定の否定と肯定の肯定との出会い云々と、それらしい言葉が次々と湧いてくる。それというのも、ついさきほど読み終えたばかりの『論理学』序文・序論の語彙群が私の脳髄を埋め尽くしているからでしょう。
 
 序文と序論を通じてヘーゲルが語ろうとしているのは、主観と客観の対立、存在と概念の区別といった「あれか、これか」の<分離的悟性>や<意識>の青臭い議論を卒業したところから論理学は出発するのだ、古い形而上学を嗤う浅薄な思考様式を嗤い、霊魂であれ世界であれ神であれ空虚な想像物でしかない<表象>を具体的な生きた統一、すなわち<概念>において掴み取ることこそ論理学の営みなのだということだと思います。『精神現象学』とカントがその役割を終えたところから『論理学』は始まるというわけです。
 
 以下、要約とノートを報告します。岩波全集版の武市訳を参考に引用と補足で概略を述べた要約と、感想、細部へのこだわりなど備忘録がわりの個人的注釈を記載したノートでレジュメを構成するのは、最近復刊された三枝博音『ヘーゲル・大論理学』(こぶし書房 '96)と、かたちだけはよく似ています。この在野の大哲学者に敬意を表しつつ、私なりにヘーゲル論理学を追究してみます。(1996.11.5)
 
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◆第1版の序文◆
 ここでは三つの事柄がいわれている。
 第一に、カント以後の哲学的思考様式の大変革の結果、古い形而上学は葬り去られたこと、そしてこの間に学問と現実との両面に現われはじめた新しい精神の高揚を踏まえて、<本来の形而上学をなすものであり、純粋な思弁哲学をなすものである論理学>の改造が必要であること。
 第二に、論理学改造プロジェクトの根本をなす観点は、哲学的方法の新しい概念を問題にし、内容の本性を学的認識の推進力とする点にあること、つまり認識の絶対的方法とは<概念の内在的発展であるところの精神の運動>に他ならず、それは同時に<内容そのものの内在的魂>であること。
 第三に、『精神現象学』において叙述された意識の自己展開の道程、すなわち外面性の中に囚われている(対象にとらわれている)意識が<自分の本質を思惟するところの精神>へと自らを展開する道程の中に示される<純粋本質性の自己運動>こそが論理学を構成するものであること。
 
 とりわけ第二の論点が重要である。
 対象を規定する悟性(知性)と規定を無に解消する否定的理性、あるいは<普遍を産出し、普遍の中に特殊を把握する>肯定的理性(ヘーゲルのいう「概念」とは、まさにこのような意味において「把握されたもの」である)との対立、そしてこれらの高次にあるものとしての精神。
 精神は<自分の単純性の中に規定性を産み出すとともに、またこの規定性の中に自分自身との同等性を生ずる>。このような、自ら差異を産出し差異を通して自らを表出する精神の運動(あたかも胚が諸器官を産出し<普遍の中に特殊を把握する>個体を表出するように)、あるいは概念の内在的発展のプロセスこそが弁証法であり、論理学とはその叙述に他ならない。
 
◆第2版の序文◆
 ヘーゲルが死の7日前に書いたものだという。
 第1版の不完全さを取り除こうと研究を重ねたが、そしてプラトンが『国家篇』を7回書き直した逸話にならうなら77回の推敲を重ねるべきであったとろ、<現代の関心に汲々として麻痺し切った空想の饒舌が果たして思惟に専念する認識の冷静な寂境に耳を貸すであろうかという疑惑の下では、この現在出来上がっているような形で満足するほかなかった>と、ヘーゲルは苦しげに語っている。
 
 だが、問題はむしろ論理学そのもの、というよりも『論理学』が素材とせざるを得なかった材料にある。
 第1版の序文でも述べられていたが、『論理学』は<一面では一般にわれわれの精神を本能的に、無意識的に貫いているものであるところの、そしてそれがわれわれの言語の中に這入って来る場合でさえも非対象的で、したがって気づかれることなしにあるような思惟規定を問題にするものであるが、同時にまた反省によって抽象化されており、反省によって素材と内容に対して外的な、主観的形式として固定されているような思惟規定の改造をしようとするものでもある>。
 こここでいう思惟規定、つまり思惟を縛る鎖としてのカテゴリーを純化し、カテゴリーの中で精神を自由と真理とに高めるためには、旧来の形而上学と論理学が用意した材料、無秩序に放り出された生命のない骸骨の骨格の意味しかもたない材料を内容として(あたかも上位脳が下位脳を包含するようなかたちで)初めからやり直すしかなかったのである。
 
 第2版の序文では、没意識的な自然的論理学から意識的な学的論理学への展開、後者においてはさらに、思惟規定を単なる形式と見る立場から概念そのものと見る立場へと至る展開が駆け足で叙述されている。これらは序論を前提にしたものであることから、ここでは立ち入って論じない。
 
◆序論 論理学の一般的概念◆
 論理学がいかなるものであるかを予めいうことはできない。むしろ論理学の全論述の成果として論理学についての知識が与えられる。思惟の学としての論理学の行程の中で、思惟の概念そのものが産出されるわけである。序論では、したがって論理学それ自体ではなく、従来の論理学との対比を通じたヘーゲル論理学の方法が示される。
 
[従来の論理学]一般に、論理学は思想の内容ではなくその形式、すなわち認識の形式的条件や思考の規則のみを扱うものとされてきた。これは主客の関係に対する日常的な意識・偏見を理性の中にまでもち込むものであり、全くの誤謬である。
 この点では、思惟と対象とを一致するものと見た古い形而上学の方が思惟に関してすぐれた考えをもっていた。だが、いまや分離に固執する抽象的悟性、すなわち分離的悟性が哲学を支配し、<真理は感性的実在に基づくものである><理性はそれが単なる理性であるかぎりは単に妄想を産むにすぎない>と主張している。
 ただ、このような一見退歩と見える主張の根底にはむしろ深いものが潜んでいるのであって、それは分離する悟性と関係づける理性とは矛盾するものだという洞見の中に求められる。この矛盾の洞察こそ、理性が悟性の制限を超越し理性の真の概念に至るための偉大な否定の歩みである。
 
[新しい論理学とその方法]論理学考察の新しい立場は、『精神現象学』に叙述された意識の最高形態、すなわちそこにおいて対象と対象そのものの確実性との分離が解消される絶対知の概念を前提にしている。この論理学は決して形式的なものではなく、その内容は<自然と有限精神との創造以前の永遠な本質の中にあるところの神の叙述>だといってもよい。
 また、その方法は<内容の内的な自己運動の形式についての意識>であって、<否定が同様にまた肯定的なものである><結果の中にはその結果を生んだ原因が本質的に含まれている>といった(生命の系統発生や個体発生、文明の栄枯盛衰といった生命史、精神史を通底する法則にも比すべき)論理的命題を認識することによって獲得される。すなわち<内容がそれ自身においてもつところの弁証法>がそれである。
 
◆序論 論理学の一般的区分◆
 論理学は純粋思惟の学である。『精神現象学』で論じられように、そこでは主観的存在と客観的存在との意識上の対立は克服され、存在と概念はロゴスの中に含まれる二つのモーメントとして、不可分ではあるが区別されたものとして統一される。(レーニンが『哲学ノート』の中で<意義深い言葉! 弁証法の精神の本質!>と評したヘーゲルの言葉を引用すれば、その統一は<抽象的ではなく、死んだものでなく、動かないものでなくて、具体的なもの>である。)
 
[客観的論理学と主観的論理学]すべての概念は、一方で自足的・直接的・没意識的な(無機物における結晶構造のような)存在的概念として見られ、他方で自立的かつ必然性をもって自らに内容を与える能力をもった概念そのものとして見られる。
 これに対応して、論理学も有としての概念を扱う客観的論理学と概念としての概念を扱う主観的論理学とに区分される。客観、主観とは極めて漠然とした多義的な表現だが、ここでは外的なものによらず自分の中で自分を規定する自由な自立的主体のことを主観といっている。
 また、概念は<具体的な生きた統一>であるとともに不可分な諸規定をもつものであることから、これらの規定を反省的に(あるいは関数的に)関係づける媒介としての概念、すなわち本質の概念が必要となる。それは存在的概念から概念そのものへの推移の途上にあるものであって、いまだ先に述べた意味で主観的なものではない。
 以上で、論理学の三つの部分が示された。客観的論理学としての有の論理学と本質の論理学、主観的論理学としての概念の論理学がそれである。
 
[先験的論理学批判]われわれの認識の根拠を専ら問題にしたカントの先験的論理学は、ここでいう客観的論理学の一部に当たる。カントの一番の狙いはカテゴリーを自意識へ取り戻すことにあったが、そのために彼の観点は意識と意識の対象との対立の中にとどまることになった。しかし、思惟は意識のような有限性の色合いをもたない無限的なものとしてとらえるべきである。
 もとより近世ドイツ哲学の基礎と出発点をなすカント哲学の功績はいかなる非難によっても傷つけられるものではなく、とくに思惟の形式面の考察を通じて<無限な形式の認識、即ち概念の認識>が導入されたことは哲学の進歩にとって大事な点であった。だが、真にこの認識に達するためには、自我や意識という形式がとる有限的な規定を脱ぎ捨て、形式をその純粋性にまで純化させなければならなかったのである。
 
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◆ヘーゲルのいう精神、あるいは一般的にガイストというドイツ語のもつ豊穰さ、奇怪さをどのように把握するかが問題だ。勘をたよりにいうならば、ドイツ観念論と呼ばれる哲学的思考様式の根底に、太古的イメージをもつ<黒い花>としてのガイストが、物質と意識を自在につなぐ呪言として鳴り響いているのではないか。
 
◆ヘーゲルは、思惟の形式は言語の中に表出され貯えられているという。また、思惟規定そのものを表わす豊かな論理的表現をもつドイツ語、多くの語が異なる意味、反対の意味をもつドイツ語の長所について言及している。
 このような自国語をめぐるロマン主義的な感性、言語の中に思惟と存在の律動を読み取る感性(事物 [Ding] と思惟 [Denken] をめぐる言葉遊びにもその一端がうかがえる)は、ガイストに対する独特の感性と不可分のものなのではないだろうか。さらにいえば、概念という語彙に対する不当なまでの意味の重ね合わせについても同様のことがいえるのではないか。
 
◆概念について。要約の中で「即自的」概念の例として結晶を、「即自的」かつ「向自的」(あるいは「対自的」)概念の例として胚をあげた。胚は外部から栄養と酸素を取り入れて自己展開する。ゆえに、いまだそのものとして「向自的」ではない?
 ところで、結晶構造を特徴づける対称性を認識するのは私たちの両眼である。物質界の対称性を把握するために、私たちは一つではなく二つの眼をもっている。ヘーゲルの子孫にして数学者・SF作家のルディ・ラッカーは、私たちが世界を離散型と連続型という相反するパターンに従って見てしまうのは、ディジタル脳とアナログ脳の内的分業のせいではなく、むしろ離散−連続の分裂こそがリアリティの根本的な特徴であって、私たちの脳は存在の二つの様式を扱うことができるように発達したのではないかといっている(『思考の道具箱』)。
 
◆ヘーゲルの時代に、力のカテゴリーから極性のカテゴリーへと物理学において根本的な役割を果たす思惟規定が推移したということ。ヘーゲル以後の、とりわけ今世紀の物理学の躍進を踏まえるならば、<自然の対象そのもののもつ実在性に基づいて>、そしてまた観察者の問題も視野に入れて、どのようなカテゴリーを立てることができるのだろうか。
 
◆彫塑的 [plastisch] という語彙は興味深い。武市は「立体的というほどの意味に見てよい」と註を付しているが、可塑性、自在性、応変性、自己創発性といった意味合で見る方が面白いように思う。陳腐な例えだが、彫刻の素材の中にあらかじめ宿っている作品が芸術家の身体を媒介として自己を具体化するプロセス──それこそが必然性と内在性に彩られた思惟の展開の叙述の比喩としてふさわしい。
 
◆思惟の学は数学を「彫塑」性において凌駕するとヘーゲルはいう。本質的にトートロジーの反復として遂行される幾何学の証明が補助線の外挿によってその内在的必然性に破綻をきたすのに対して、哲学は(というより論理学は)最も空虚なものでありながらも後のすべての展開をその萌芽の中に蔵している始元をもつものであるから、<数学の整然とした体系的建築>を嫉視することはないというわけだ。
 無限の形式、すなわち概念を扱う論理学。ある数学者によれば数学もまた無限を対象とする学である。ヘーゲル論理学と数学の関係を、ヘーゲルが念頭においた数学がいかなるものであったかも含めて探究するのはこころはずむ試みである。本多修郎『近代数学の発酵とヘーゲル弁証法』(現代数学社 '89)を導きの糸として、いつか取り組んでみようと思う。
(某日この本を漫然とながめていて、マルクスが数学をめぐる膨大な草稿を残していることを知った。ウィトゲンシュタインの数学の基礎をめぐる考察といい、改めて西洋哲学が、いやおよそすべての哲学的思考様式が、数学との間に緊張を孕んだ関係を取り結んでいたことに驚く。神学もまた無限をめぐる学であるとすれば、ここに一つのトリアーデを考えることができるのではないか。)
 

【第2回】第1巻第1篇第1章、有
 
 いよいよ弁証法の、精神の運動の渦中へと身を投じることになります。ヘーゲル自身がいうように「有、無、成」は論理学の最初の命題であり、以後の展開の基礎となるものです。有論・本質論・概念論の3巻が有論に集約され、有論を構成する質・量・度量の3篇が質篇に集約され、さらに質篇を構成する有・定有・向自有の3章が第1章に集約される。すなわち、「有、無、成」が論理学の全過程をそれ自身のうちに表出しているわけです。
 
 このように論理学の展開は螺旋状をなしています。(螺旋は無限の象徴である。ジル・パースは『螺旋の神秘』の中でそういっている。)そしてすべての展開が完了したとき、<あらゆる存在の具体的な、しかも最後の最高原理として出て来た絶対精神が今度は更に、その発展の終局において自由に自分を外化して、自分を直接的有の形態に解放し、──世界の創造を決意する>、このような論理学の円環運動という大仕掛が用意されているのです。これぞヘーゲル!
 
 有は無であり、無は有である。有と無は同一であり、かつ同一でない。そして、この命題そのものの中に成が表出されている。──ヘーゲルが頑強な反論者を想定してくどいほどに論証を重ねるこの命題は、しかし私には(日本人には、と一般化はしないにしても)あまりに馴染みやすく、むしろありふれた表現にさえ思われます。
 しかし、くどくどいわなくても分かってしまうこの思考の性癖は実にやっかいなものであって、私が(日本人が、とはここでもいわない)分かってしまうのは、世界の実相は言語(ロゴス)を超越しているという一つの哲学的認識が没意識化して生み出される日常的思考様式(歴史意識あるいは復讐心の欠如といってもいい)を身につけているからに他なりません。
 
 なにしろヘーゲルは神の世界創造を言語で(認識論的に、あるいは主観的に)遂行しようと目論んでいるのです。はじめに「有」ありきと宣言するのはヘーゲルという自我ではなく思惟そのものだというのですから、それが分かってしまう私の思惟とは何ものなのか。背理への鋭敏な嗅覚をもたない者はカントを飛び越してヘーゲルが直観的に分かってしまう、この分かり方とは何なのか。
 いずれにしても、第1巻第1篇第1章、有は、『論理学』が終局した後に再度考察すべき問題を多く、しかもつかみどころのないかたちでかかえているようです。(1996.11.15)
 
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◆何を学の始元とすべきか◆
 論理学を何から始めるべきか。このような始元をめぐって、それが直接的なものか媒介されたものかという問題がある。しかしこの二つの規定は不可分のものである。
 序論でも述べられたように論理学は『精神現象学』を前提としており、論理学の始元は精神現象学の結果としての純粋知識の中で立てられるという点で、それは媒介されたものである。しかし、一方でこの純粋知識は<他のものと媒介とに対する一切の関係を止揚>し区別を没したものである点で直接的なもの、すなわち純粋有である。
 論理学の始元は純粋有である。それは論理学の全展開の最後にくるものを根拠として生まれる最初のものであるとともに、後続のすべての過程の根底に存し何時も必ず内在しているものである。このような、最初のものが最後のものであり最後のものがまた最初のものであるといった円環運動が、論理学の本性である。
 
[始元の分析]なぜ有を論理学の始元とするのか。始元という観念そのものから、あるいは関係や事柄や自我から、さらには絶対者や永遠なもの、始元とされることについて何人も争い得ない神をもって始めないのか。
 ここで始元という観念を吟味してみよう。始元は何かがそこから発生するはずの無である故に有を含んでいる。その何かはまだないとともに既に存在している(なぜなら始元は後続の全過程に内在しているから)。故に有と無は区別されたものであると同時に区別のないものである。このように、始元の観念そのものから始めても、<有が無に推移し、そこから有と無の統一が生ずる>といった有を始元とする論理学の叙述よりも満足がいくものにはならない。論理学の<始元そのものは単純な内容のない直接性の形の中にあるところの、分析することのできないものと見るべきであり、それ故に全く空虚なものと見るべきである>。
 
◆有の一般的区分◆
 有は他者に対立するものという規定をもち、この点で本質と区別される。有と本質は概念の二つの領域である。また、有は自身の内部で自分を規定するものである。有はここでは次の三つの規定に、すなわち規定性そのものとしての質、止揚された規定性としての大きさ・量、および質的に規定された量としての度量に分けられる。最後に、有は抽象的な無規定性と直接性、すなわち始元である。
 
◆有と無◆
 有は純粋の無規定性であり、空虚である。有の中には思惟されるべき何ものもない。したがって、有は無である。
 無は完全な空虚性であり、全くの没規定性と没内容性である。ところで、何ものも直観または思惟されないことは何かが直観または思惟されることとの区別の上に立つものであるから、無もまたわれわれの直観または思惟の中に「ある」。したがって、無は有である。
 
◆成 有と無との統一◆
 有と無が<区別されているが、しかしまたそのままま解消してしまっているような区別を通して行われる運動>、いいかえれば<一方が他方の中でそのまま消滅するという運動>が、すなわち成である。
 
[註釈1]パルメニデスは<はじめて絶対的な抽象性の形で思惟自身をつかんだときの思惟の純粋な感激>をもって「ただ有のみが存在する」と語った。東洋の哲学、特に仏教では無、すなわち空が絶対的原理とされた。ヘラクレイトスは、成というもう一段高い全体的な概念をもち出していった──無も有も存在しない、あるいは「万物は流転する」すなわち「万物は成である」と。まさに<哲学上最初であるものは、また歴史的にも最初のものとして提出されねばならなかったわけである>。
 成は、有と無との統一である。この統一は論理学の最初の真理であり、後続のすべてのもののエレメントをなす。したがって、<成そのものは勿論、それ以下のすべての論理的規定、即ち定有や質や、一般に哲学の全概念はこの統一の例証である>。
 ここで肝心なのは、有であれ無であれ無規定性、単純な抽象性において見なければならないこと、具体的な<ある物>の観念をそこにもち込んだり、規定的な有すなわち定有と無規定的な有すなわち純粋の抽象とを取り違えてはならないということである。
 
[註釈2]有と無は同一であるという命題は、有と無の同一性を表現するとともに区別されたものとしての両規定を含んでおり、それ自身の中で矛盾をもつものである。しかし子細に検討すれば、<自ら消滅するものであるような運動>を表現している点で、<その命題そのものの中に、その命題の内容をなすはずのもの、即ち成が出ているのである。>
 
[註釈3]有と無は第三者としての成の中にあるにすぎず、それ自身では存在し得ないものである。すなわち、有も無も真ではなくて成だけが真である。また、有から無への、無から有への推移は直接的で抽象的でまだ何らの関係でもないのであって、無が有の根拠であるとか、無が有の原因であるといったりすることは許されない。
 有と無を切り離し、有から無への、無から有への推移を否認しようとしても、有それ自身からは一歩も前進することはできず、前進はただ外部から何か別のものが有に結合されることによってのみ起こり得るにすぎない。<一般に前進することに対する権利づけ、即ち第一の始元を止揚することの権利づけがあるとすれば、それは他のものが第一の始元に関係し得るものだということが第一の始元そのものの中に含まれていることでなければなるまい。>
 
[註釈4]高等解析学が用いる無限小の大きさについての概念に対して、大きさはあるかないかであってその「中間状態」はないと悟性は反対する。しかしすでに述べたように有と無は同一であり、その「中間状態」でないようなものは何も存在しない。<数学の光輝ある成功>は、実にこの悟性が反対する極限の概念の採用から生まれたのである。
 
◆成 成の二契機◆
 有と無は成の中で止揚される。両者は<いまもまだ互に区別されてはいるが、しかし同時に止揚されているような>二つの契機(モーメント)として、<無に対する関係としての有>と<有に対する関係としての無>として、それぞれ成の中に「ある」のである。したがって、成は二重の規定をもつ。一方では直接的な有が無へ推移し、他方では直接的な無が有に推移する。すなわち、成とは生起と消滅である。
 
◆成 成の止揚◆
 有と無は成の中で消滅するが、成は有と無の区別に基づいてある。このように成は自分自身の中に自己矛盾をもっている。そこで、成が<有と無との統一への推移となるとき、しかもこの統一が存在するものという形をとった統一であり、言いかえると統一が二契機の一面的な直接的統一という形態をもつようになるとき、その成は即ち定有である。>
 
[注釈]止揚と止揚されたもの、すなわち観念は、極めて重要な哲学の概念の一つである。止揚されたものは媒介されたものであって、それによって無になるのではない。また、それは非存在ではあるが、止揚される前にもっていた規定性をまだ即自的に保有している。(武市は訳者註で、化合の現象を例にあげてヘーゲルの叙述を説明している。──水素と酸素は化合して水の中に「止揚」される。)
 
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◆第2版の序文でヘーゲルは、近頃では極性のカテゴリーが光の現象にまでもち込まれるようになったと書いていた。これはゲーテの『色彩論』を意味している。<一般的に見れば、色彩は二つの側に向けて自己決定し、対立関係をあらわしている。この対立関係はわれわれが分極性と名づけるものであり、+と−によって簡潔に表現することができる。>(ゲーテ『自然と象徴』高橋義人編訳,冨山房)
 ヘーゲル弁証法の淵源にゲーテ自然学があることはほぼ間違いないようだ。実際、ゲーテは『色彩論』序文でヘーゲルを念頭において次のように書いている。<哲学者からわれわれは感謝していただけるものと思う。現象をその根源にまで遡って追究し、単にあらわれ、存在するだけの次元、それ以上の説明を要さない次元まで観察を推し進めることができたからである。>(上掲書)
 ヘーゲルとゲーテの関係をめぐる考察は刺激に満ちている(「原植物・原動物とそのメタモルフォーゼによるゲーテ形態学の叙述」対「概念とその自己展開によるヘーゲル弁証法の叙述」。あるいは「ニュートン・カント」対「ゲーテ・ヘーゲル」など)。というよりもゲーテ自然学そのものがスリリングだといった方が正確かもしれない。
 
◆ヘーゲル論理学の<最初の概念、あるいは最初の命題である有、無、成>(第2版の序文)をカントールの超限順序数を使って表現してみよう。
 カントールは、いかなる存在も仮定しないで集合だけからなる世界を考えた。何も存在しない世界における最初の集合は空集合φである。φはそれ自身一つの元ももたないと同時に、集合{φ}の唯一の元である。このように、空集合φから始めてそれまでにつくった集合全体の集合を順次つくっていく過程でできる集合を「超限順序数」という。(竹内外史『集合とはなにか』,講談社)
  0=φ,1={φ},2={φ,{φ}},3={φ,{φ},{φ,{φ}}},………
 ここで、 φと{φ}の関係を有と無の関係に置き換えて考えることができるならば、{φ,{φ}}こそが成の表現である。
 まず、何も存在しない世界において唯一存在する集合φは<純粋の無規定性であり、空虚>であり、<だからこの有、無規定的な直接的のものは実は無>である。いいかえれば、φは<無に対する関係としての有>である。φはまたすべての集合の元である点で、<始元をなすもの>であるとともに<後続の全ての根底に存し>ている。次に、φを唯一の元とする集合{φ}は、<何ものも直観または思惟されない>ことを意味するφが<われわれの直観または思惟の中に有る>ことを表現している。この意味で、{φ}は<有に対する関係としての無>である。したがって、{φ,{φ}}は有と無の二つの契機をもつもの、すなわち<いまもまだ互いに区別されてはいるが、しかし同時に止揚されているような二契機>をもつ成を表現している。
 (φを無に、{φ}を有に置き換える、あるいはφを無と有の統一に、{φ}を有から無・無から有への推移に置き換えて考えることもできるだろう。さらにいえば、{φ}を成の表現と考えることも可能かもしれない。いずれにせよ、上記の議論は一つの思考実験ならぬ思考遊戯の試みである。)
 

【第3回】第1巻第1篇第2章、定有
 
 難解な文章が続きます。これを「頭」で理解し解釈しようと焦るのは抽象的悟性であって、私たちが取るべき方法は<彫塑的な精神>を発揮すること、<ひたすら事柄に随順して、それに耳を傾ける>ことでしょう。たとえば<定有は規定された有である。定有の規定性は存在する規定性、即ち質である。>このような文章にたじろいていては一歩も前へ進めません。
 
 定有とは、第1章で論じた有が無規定であったのに対して、規定された有である。その規定とは、まさに規定されているということそのもの、いいかえれば規定が存在するということ(存在する規定性)であって、これを質という。「無規定の存在」という言葉があれば「規定された存在」という言葉が出てくる。それが言語の、したがって思惟の理法である。たとえば原因に基づく結果は規定された存在、すなわち定有だが、どのような内容の規定がそこに働いているかはひとまずおいて、規定されていることそのものを有(存在)の質としてとらえてみよう。ヘーゲルがいいたいのは、ただそれだけのことなのだ。
 
 以上は私なりのヘーゲルの読み方、正確には武市訳の読み方にすぎません。読みの深浅は別として、今のところこれ以外の読み方は私にはできない。
 今回は「A 定有そのもの」「B 有限性」までの要約。「C 無限性」は次回(12月上旬予定)にまわします。(1996.11.25)
 
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◆定有そのもの◆
 定有とは規定された有であり、具体的な有である。それは成から生ずるもの、<有と無との単純な統一体>であることから、肯定的な規定と否定的な規定をもつ。ここではまず前者、すなわち存在するものという肯定的な規定が展開される。
 
 定有の規定性が分離され存在的な規定性ととられると(規定されていることそのものが定有の規定性だと見られると)、それは質である。質は<全く単純なものであり、直接的なもの>であるから<質そのものについて、これ以上何も云い得ない>。
 しかし、質は無という規定の面からも見なければならず、そうなるといま述べた存在的な規定性は、区別され反省(反射)された規定性と見られることになる。このように、他と区別されて存在的なものと見られるとき、その質は実在性である。また、拒否を伴うものという面から見られた質は、否定である。
 
 規定された有としての定有一般。その定有から区別された規定性としての質。そして質の中には実在性と否定との区別があった。しかし、実在性・否定は始元の無規定的、抽象的な有・無とは異なり、規定された有、すなわち定有であって、定有に属するものとして措定されている。<質は一般に定有と分離されてはおらず、定有は規定された、質的な有にほかならない。>
 
 このように、区別が止揚されているということこそが定有自身の規定性であって、この意味で定有は<定有するもの、即ち或る物>なのである。或る物は否定の否定として、自らへの単純な関係の回復として存在するものであり、自分自身との媒介である。また、或る物は成でもあるが、その契機はもはや単なる有・無ではなく、定有するもの(有)と否定者・他の物(無)という規定がその契機となる。<成としての或る物は推移であるが、この推移の両契機そのものがまた或る物であり、それ故にこの或る物は変化である。──つまり、それはすでに具体的になったところの成である。>
 
◆有限性◆
 ここでは定有の中に潜む否定的な規定が展開される。
 
[或る物と他の物]いずれかの定有の外部にあるもの、すなわち他の物でないような定有はない。この意味で、定有は或る物であるとともに他の物である。他の物から見られた或る物は他者であるが、それは或る物それ自身に含まれるものであり、したがって他者の他者である。
 このように或る物は他の物に変化しながら自己同一的であることから、或る物は二つの契機から構成される。すなわち、他在──<特定の定有の外的規定であり、或る定有の外部にある他者>──の非有という意味での自己関係である即自有と、他在に対する関係としての、あるいは他在そのものとしての向他有がそれである。或る物とはこの二つの契機の下にある基体であって、したがって即自有と向他有は或る物の中で非分離的に存在する。
 
[規定、性状、限界]向他有は或る物が持つもの、すなわち一個の質、規定である。というのも、或る物の<即自性は向他有の止揚であり、向他有から自分に復帰したものだからである>。このように単純な或る物の中では即自性は向他有と統一しているが、このような即自性である質が或る物の規定である。
 ところで、質的な存在の領域(有論の領域)では<区別は止揚されておりながら、やはりその区別に直接的な、質的な有が対立するものとしてある>ことから、内的な規定性はこれと区別される外面的な規定性、すなわち性状へと推移する。性状は、外的な影響と関係の下にある或る物についての規定性である。つまり、或る物の二契機のうち即自有が規定に、向他有が性状にそれぞれ対応しているわけである。
 性状は<内在的な、しかし同時に否定された向他有、即ち或る物の限界>を構成する。限界とは、二つの或る物、或る物と他者を結合させるとともに互いに分離させるものである。<或る物は限界によって或る物自身なのであり、限界の中に自分の質をもつ。>そして、内在的な限界をもつものとしての或る物が自己矛盾のために自分を越え出ようと駆り立てられるものとなるとき、或る物は有限的なものである。
 
[有限性 有限性の直接性]有限的なものは滅びるものである。有限性の質は肯定的存在へと推移しないところにあるのであり、その意味で有限性は永遠である。しかし有限者が肯定的存在の中で滅亡するのでなく、<再びあのもうずっと以前に消滅してしまっている最初の、抽象的な無に逆戻りする>ことになるとすれば、それは矛盾である。以下の展開において、有限者はこのような矛盾として自分の中で崩壊するものであることが示されるだろう。
 
[有限性 制限と当為]まず或る物はそれ自身一個の限界をもつが、<この限界が或る物の内在性とその自己内有の質を構成するものとして有限性となるのである>。このように限界が或る物の否定者であると同時にその本質的なものでもあるとき、それはむしろ制限となる。また、限界は否定によって否定されるもの(限界によって限界づけられるもの)として措定されたものであるから、規定そのものとしての即自有の規定性でもある。したがってこの即自有は<制限としての自分に対する否定的関係>、すなわち当為である。
 有限者とは<その規定のその限界に対する関係>であって、この関係において規定は当為であり、限界は制限である。したがって制限と当為は有限者の二つの契機である。有限者とは実はこのうち制限の面だけが措定されたものなのだが、当為であるという意味において有限者はその制限を越えて行く。<こうして或る物は当為としてその制限を超克している。しかし、このことはまた逆に云えば、或る物が単に当為としてその制限をもつということでもある。>
 
[有限者 有限者の無限者への推移]制限と当為。この有限者の二契機は質的に対立している。つまり有限者は自己矛盾を抱えている。そこで有限者は自分を止揚し滅亡するのだが、この滅亡することそのものが有限者の規定なのであるから、この意味で有限者は滅亡の中にあって滅亡せず、単に他の有限者となるにすぎない。このことを有限者の二契機についていえば、当為は制限を越えて進むがそこにある他者とは制限にほかならず、制限もまた自分自身を越えて他者、すなわち当為を目指すが<当為は制限と同様に即自有と定有との分裂であって、そのかぎり制限と同じものである>。このように有限者は滅亡を通じて自分自身と合致するのである。<この自分との同一性、即ち否定の否定は肯定的な有であって、その意味ではこれは・・・有限者の他者である。──そしてこの他者は即ち無限者なのである。>
 
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◆Charles Sanders Peirce は‘Evolutionary Love’の中で、偶然的進化と必然的進化と創造愛的進化の三つの進化の様式を区分し、人類の思想の歴史的発展と関連づけて検討している。ヘーゲル哲学は、ここでは創造愛的進化とまちがわれやすい特徴をもった必然的進化主義とされ、<その理論全体の考えがほとんど崇高なほどにすばらしい>と絶賛されている。<かれ以前には、論理学というものは思想の主観的指針や監視装置の役目を果たすことを念願としてきたのであるが、かれは、論理学をたんにそういうものにはしないで、それが思考の原動力になることを、しかもたんに個人的思考の原動力ではなく、討論、思想史、歴史一般、発展一般の原動力になることをもとめた。>
 しかし、ヘーゲル論理学の推理の連鎖には自由な選択の余地がまったくない。<結局のところ、この方法には生きた自由というものが実際には欠けている。ここではすべての運動が巨大なエンジンの運動であり、その運動は高貴な目標に到達しようとする盲目で神秘な運命によってあと押しされているのである。もし、ヘーゲル哲学が、本当に生きたはたらきをしていたのだとすれば、それはこのようなエンジンであっただろうと、わたしは言っているのである。しかし、実際には、それは・・・架空なエンジンなのである。・・・言ってみれば、それはボール紙で作った哲学のモデルであって、本当は存在しないのだ。>
 パースはここでヘーゲル論理学をも止揚する、より大がかりな弁証法を示しているのである。(上山春平訳「進化の三様式」,中央公論社『世界の名著 パース・ジェイムズ・デューイ』所収)
 
◆現にそこにあるものとしての定有が「或る物」であると同時に「他の物」でもあることを論じた箇所で、ヘーゲルは次のようにいっている。<われわれは「このもの」という表現によって完全に規定された何かを表わし得るものと考えているが、しかしその場合に言葉が悟性の作品として、個々の対象の名前の場合を除いては、単に普遍を云い表わすものにすぎないことが看過されている。>
 しかし、そうであるにもかかわらず私は「この私」(永井均『<私>のメタフィジックス』勁草書房)という表現が普遍以外のものを──たとえば柄谷行人のいう「単独性」(『探究・』講談社)を──表現するものであることを知っている。
 第1巻第1篇第2章、定有「C 無限性」。全体のわずか27分の2まで進んだにすぎないところで、最も重要なカテゴリーである(と私には思われる)無限性、すなわち<絶対者の新しい定義>が出現する。しかしこのことに驚くのはヘーゲル論理学への無理解というもので、なにしろ論理学は精神現象学が到達した絶対知の概念を前提にしており、その内容は<自然と有限精神との創造以前の永遠な本質の中にあるところの神の叙述>なのであり、実は論理学の始元において既に無限者は<規定をもたない自己関係として有や成として立てられ>ていたのですから。
 

【第4回】定有(続)
 
 悪無限と真無限。無際限に延長される直線と自己完結した円(むしろ螺旋)。ヘーゲルはここで実に刺激に満ちた議論を展開しています。悪無限、すなわち悟性によって把握された無限なものは、有限なものにとっては到達し得ない彼岸の存在でありそのゆえに真理をもたず、また否定とその否定(Aと¬A:有限者と有限者にすぎない無限者)の交互出現の退屈な反復的繰り返しをしかもたらさない。これに対して、<対立する契機をその統一の中に把握する>思弁的思惟によって、理性によって把握された真無限は、あたかも死すべき存在である大工の息子に受肉した神性のごとく、真なる実在として<具体的な内容を獲得している>。実在する無限! この魅力的なカテゴリーは、汲めども尽きない豊穰なロゴスの湧出点でしょう。(1996.12.1)
 
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◆無限性◆
 無限者は有限者の否定という規定をもち、制限性は無限者においては否定されている。しかし、無限者が有限者から引き離して見られるとかえって有限化されるものである。肝心なことは<無限性の真実の概念を悪無限から区別し、理性の無限を悟性の無限から分けることである>。
 
[無限者一般]無限者は否定の否定として肯定的なものであり、真実の有である。自分の否定を否定し、このような無限者になることが有限者の本性である。有限性の止揚によって無限者一般が生ずるのではない。むしろ<無限性は有限者の肯定的規定であり、有限者が真に即自にもつ本性である。この意味で、有限者は無限者の中で消失するのであり、従ってそこに存在するものは無限者のみである>。
 
[有限者と無限者の交互規定]無限者の存在を直接性の形態から見るとそれは有限者の否定である。そこで両者は独立に存在するものとして質的関係に立ち、さらに進んで相互に他者として対立することになる。<このように無限者が有限者に対立して互に他者と他者という質的な関係の中にあるものとなるとき、この無限者は悪無限、または悟性の無限と呼ばれるべきもの>である。
 悪無限とは<それ自身有限な無限者>にすぎない。有限者は自己を超出し無限へと推移するが、無限もまたここでは制限されたものであり限界をもっているものであるから再びその他者である有限者へと推移し、同様の関係は無際限に進行する。このような有限者と無限者の交互規定、<自分自身と自分の否定との両者を否定するところの交互規定こそ、無限累進として登場するものにほかならない>。
 
[肯定的無限性]無限累進の中では、無限者と有限者は全体の二契機としてあるにすぎない。そこでは無限者も単に有限者に対立するにすぎないものであって、それ自身一つの有限者である。しかし<他面ではまたこの自分の自分自身との区別を止揚して自分の肯定に高まり、この媒介によって真実の無限としてある>のである。
 ここでいう真無限とは一つの成である。かつての有と無、あるいは或る物と他の物(定有するもの)を契機とした成とは異なり、それは<いまや無限者として、それ自身生成するものである有限者と無限者とを契機にもつ>ものである。悪無限を直線にたとえるならば、真無限は円である。
 真無限こそが実在的なものであり、その中にある有限者は観念的なもの(直接的に存在する物ではなく、それ自体具体的であるとともに具体的なものの中で止揚されその契機となったもの)である。
 
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◆「或る物」を椅子とすると、その規定は姿勢を保つこと、向他有は堅牢性、規定性は木、性状は可燃性。──これは訳者註(74)で紹介されている例解だが、不毛な議論である。私は「椅子」の実在性や観念性や概念性には興味はない。
 ヘーゲルは始元の有を論じる中で、<はじめて絶対的な抽象性の形で思惟自身をつかんだときの思惟の純粋な感激をもって>ただ有のみが存在すると語ったパルメニデスに言及し、<哲学的に最初のであるものは、また歴史的にも最初のものとして提出されねばならなかった>と指摘している。また定有の章の最後に付された註釈の中で、水や物質や原子といった古代や近世の哲学の諸原理は思想であり観念的なものであって、直接的に存在する物・感覚的個別性をもった物ではないといっている。<あのタレスの水でさえも直接的な物ではない。>
 このようにヘーゲルの論理学は思惟(ロゴス)の自己展開を歴史的に、また精神の運動として内的必然性に即して(観念論的に)叙述しようとするものである。したがって或る物と他の物、有限性と無限性の関係をめぐる議論を進めるとき、ヘーゲルの脳髄の中にはある歴史的段階にある思惟の<形>が像を結んでいたに違いない。少なくとも「椅子」の規定や規定性が問題にされる局面は、そこでは想像すらできないのである。
 
◆ウィトゲンシュタインは、世界がいかにあるかではなく、世界があるという事実が神秘なのだという(『論理哲学論考』6.44)。ここにパルメニデスの<感激>(あるいはヤコブ・ベーメの<悩み>)に呼応する表現を見ることができる。ところで世界が「ある」というとき、それは純粋有、定有、向自有のいずれなのだろうか。それとも、ヘーゲル論理学の全プロセスとはいささかも関係なく存在する「私の世界」の神秘をウィトゲンシュタインは語っているのだろうか。
 彼はまた次のようにいっている。『論理哲学論考』の読者は、登り切った梯子を投げ捨てるようにこの書物を乗り越えなければならない(6.54)。──ここ出てくる(椅子ならぬ)梯子とは「或る物」なのだろうか。
 
◆コリン・ウィルソンは『宗教とアウトサイダー』の中で、人生の意味という問題についてわれわれが語りうる唯一の方法は、その問題を生きた人間という形で示すことだと書いている。ここに出てくる表現(語りうる、示す)はウィトゲンシュタイン独自の思考法から取られたものであり、この文章自体ウィトゲンシュタインに言及したものである。
 ウィトゲンシュタインが人生の意味という問題を生きたのかどうかはまた別の問題として、差し当たってここではヘーゲル論理学の全叙述が「示すもの」とは何か、そしてヘーゲル自身の人生が何を示しているのかが私には気になる。
 
◆フォン・ノイマン流の定義では、集合Aの元とその真部分集合A’(A’⊂A)の元との間に一対一の対応が成り立つとき(A〜A’:AとA’が対等であるとき)、集合Aは無限集合である。無限集合の元の個数を濃度という。つまり真部分集合と濃度の等しい集合が無限集合である。たとえば、Aを自然数全体の集合、A’を正の偶数全体の集合と考えれば、Aは無限集合である。(カントールは自然数全体の集合の濃度を示す基数として、ヘブライ語の第一アルファベットを使って「アレフ・ゼロ」という記号を与えた。)
 ここで、A’を除くAの部分集合をA’の否定と考えると、A={A’,¬A’}と表記できる。これが無限者A’と有限者¬A’の二契機をもつ真無限Aの記号表現である。(苦しいのは¬A’もまた無限集合であり得ることだ。現に先の例でいえば正の奇数全体の集合も無限集合である。しかしここは思考実験ならぬ思考遊戯の特権を生かして、A−A’=A”ではなく¬A’と表記した点、単純な否定という質的関係性に基づく規定を施した点で、真無限の契機としての有限者、真無限中にある観念的なものとしての有限者が表現されているといえはしまいか。)
 
◆マッテ・ブランコは「分裂症における基礎的な論理-数学的構造」(廣石正和訳,現代思想 '96.10)で、無意識の論理が、通常の科学的な二値論理を代弁する「一般化の原理」(個体を集合の元であるかのようにあつかう:さらにこの集合を上位の集合の部分集合としてあつかい、以下同様に進む)と、その違反・逸脱としての「対称の原理」(あらゆる関係の逆をその関係と同一のものとしてあつかう:非対称的関係を対称的であるかのようにあつかう)からなるバイロジカルなものであることを論じている。そして対称の原理からの帰結の一つである部分と全体の同一性を、無限集合のアイデアを使って考察している。
 ここに示された無意識の思考、分裂症的思考の論理-数学的構造は実に興味深い。それはラカンの黄金数やトポロジーを使った議論(私は噂でしか知らない)にも通じるところがあるのではいかと思うが、考えてみればそれらはもともとフロイトの欲望の理論に端を発しているものだし、構造主義の最も良質な芳香にくるまってもいるわけだ。
 

【第5回】第1巻第1篇第3章、向自有
 
 時代を先取りすることが天才の天才性であるとすれば、ヘーゲルは天才だ。そして、そのことを知っている私も、ヘーゲルの時代に生きていれば天才である。しかし、いかなる時代をも超越することが天才の天才性であるとしたら、そしてヘーゲルがこのような意味で天才であるとしたら、どうしてそのことが私に理解できよう。
 
 このような文章を『大論理学』の余白に書き込んだのは、ヘーゲルの次の叙述に接したときのことでした。<空間的牽引という感性的観念は牽引される一者の流れを絶やさない。即ち牽引点において消失する原子に代って他の一群の原子が、それも云わば無限に、空虚の中から立ち現われて来るのである。>
 
 時代を先取りするヘーゲル。集合論を先取りし、量子論、素粒子論を先取りするヘーゲル。しかもロゴスの自己展開の純粋に論理学的な追究から、どうしてこのような実在の構成機序を掴み取ることができるのか。それは時代の先駆けというよりも、むしろ時代を超えた根源的な思惟そのものの現われではないのか。
 
 やや大袈裟にいえば、私はヘーゲルを読みながら魂を震わせていたのです。ここには何か決定的な事柄が述べられている。とても言語では表現できない事柄が、あたかも術語と数式や図を一切使わずに表現された高等数学書を読んでいるようなもどかしさを覚えさせはするものの、ほぼ完璧に言語化されている。
 
 一つの試作として、大論理学の記号表現を与えてみました。まだラフスケッチであり、十分に得心のいかないものは今回掲載しませんでした。量をめぐる議論の中で、余裕があればさらに洗練させていきたいと考えています。現代集合論の、それも極めて基礎的な知識を応用するだけで、少なくとも質をめぐるヘーゲルの叙述は余すところなく記号的に表現できると、私は確信しています。(1996.12.8)
 
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◆向自有そのもの◆
 二元性・有限性の領域にある定有の中で単純な統一をなしていた有と規定性(否定)は、それゆえに差別されたものであったが、有限性の中で否定は無限性(措定された否定の否定)へと推移したのだから、いまやそれは<単純な自己関係>となり、否定自身の中で有と和解する。それこそ絶対的に規定された無限的な有、すなわち向自有である。
 
 向自有は<その他在を超越したところに、それがこのような否定として自分への無限の復帰であるところに成り立つものである>。感覚対象・知覚対象を表象し、対象の内容を観念的なものとして自分の中にもつ意識は、<それ自身すでに即自的に向自有の規定をもつ>。一方、自意識にあっては外的対象に対する関係は捨てられているのであるから、自意識は<完成され、措定されたものとしての向自有>であり、抽象的な無限性の現前の一番手近にある。
 
[定有と向自有]自意識に比べると向自有の無限性はいまだ質的な規定性をもつにすぎないものであって、<単純な有に癒着した無限性>である。向自有の規定性は無限の規定性である。しかし向自有は定有を契機としてもつものであり、かつて定有の中で他の物、向他有という形で出ていた規定性は、向自有の中では向一有(一者に対する有)という形で出てくる。
 
[向一有]向一有の契機は、<無限者との統一の中にある有限者、或るいは観念的なものとしてある有限者>を表わす。向一有は、ある規定性を自分の中で契機としてもつものと当該契機とに共通な一個の観念性であって、向自有と向一有は<観念性の本質的な、不可分の契機>である。自我、精神、神は、無限であるがゆえに観念的なものであり向自的に存在するものであるが、同時に向一的であるという契機をもつ。<神自身が神に対し向うその相手のものであるかぎりにおいて、神は向自的なのである。>
 
[一者]向自有とは<向自有自身と向自有の契機である向一有との単純な統一>であり、そこには<止揚の自分自身への関係というただ一つの規定>があるのみである。向自有の二契機(向自有自身と向一有)は無区別性の中に沈没しており、この無区別性は直接性・有である。それはその否定の地盤の上に立つ直接性であって、その中では向自有の<内的内容の面は消失し、自分自身の全く抽象的な限界の面が正面に出るから、──それは即ち一者である>。
 
◆一者と多者◆
 一者としての向自有は、<他者への関係と自分への関係との絶対的統一であり、有と定有との措定された統一である>。
 
[それ自身における一者]一者は自分自身への関係という絶対的規定性をもった有であり、措定された自己内有である。その概念上、一者は自分から離れて他者に向かう方向をもっているが、無限の自己規定こそが一者の契機なのであるからそこには他者は存在せず、それが向かう方向は自分自身である。
 このような単純な直接性の形態にある一者の中には何もない。この無は自分自身への関係という抽象に他ならず、一者の中にあって自己内有と区別されたものとして措定されている。<無が一者の中にあるものとして措定されると、それは空虚としての無である。──この意味で、空虚は直接性の形態にある一者の質である。>
 
[一者と空虚]自らを一者および空虚と規定することによって、向自有は再び定有を獲得する。向自有の二契機、すなわち向自有そのものと向一有は、その単純な統一(有)から出て互いに外面的なものとして対立する。<このような定有の形態にある一者こそ、原始論的原理として古代哲学に現われた、あのカテゴリーの段階をなすものである。>
 
[多くの一者─反発]一者は<ただ自分にのみ関係するもの>であり、<空虚を自分の外に存在するものとなすもの>である。直接的に現存するものとして固定された一者が関係する相手は、<空虚という無規定的な否定ではなくて、同様にまた一者である>。こうして、一者はただ一者と成る。そこには有から無への推移としての成はなく、<一者自身の内在的関係>がある。このような否定的な自己関係は反発である。
 反発は多くの一者を措定するが、それは一者自身によるものであるから、反発とは一者の<自己外脱出>である。多くの一者は反発によって生じるのではなくすでに存在するのであるが、それらはまた<一者の自己自身の反発によって措定されたもの>、いいかえれば<措定されないものとして前以って措定されている>ものである。<従って多数は他在としてあるのではなくて、一者に完全に外的な規定であるように見えることになる。>そこでは、純粋な非有としての空虚が多くの一者の限界を構成している。
 反発は一者の即自的な本性、すなわち無限性の表出に他ならず、<一者そのものが多くの一者なのである。>
しかし一方で、多数性は一者に外面的なものでもあり、<この意味で、一者の多数性は、何ものにも囚われずに、自由に自分を産出して行く矛盾として、無限性なのである>。
 
◆反発と牽引◆
[一者の排斥]多者は存在する他者であり、それらの相互関係は<関係のないこと>という外面的な否定的関係である。(<有の直接性の中に措定された無限性>という矛盾)こうして反発はその相手を直接的に見出すことになるが、<この点から見ると、反発は即ち排斥である>。
 多者は反発を通して自己を保存する。しかし、排斥という面では一者は他の物によって反発され止揚されるのであって、排斥を通して<他の一者>として措定される。このように、<多くの一者は単に存在するのみでなくて、その相互の排斥を通じて自分を保持する>のである。
 ところで、多者は有と措定の面では<ただ一個の肯定的統一>である。そしてそれは単に外面的な結合にとどまるものではない。多者が排斥する一者は、それによって自分自身(多者)に関係しているのであり、また多者は相互に反発し、それぞれの差別性と外面性を止揚して同一性へと推移していく。<こうして、この多くの一者が自分を一個の一者の中へ措定することは牽引である。>
 
[牽引としての一個の一者]反発は一者を多者へと自己分散させ、牽引は多者がもつ観念性を実現させる。反発(多者)は牽引(一個の一者)へと推移する。<牽引は反発と不可分のものである。>
 牽引作用はまず(有としての)多者がそれぞれ同様にもっているものであるが、この多者の<措定された否定を通して牽引としての一者が立ち現われて来る>。その結果、多者は<もはやその観念性の中で自分に復帰するのではなく、却ってそれぞれの他の一者の中でこの観念性をもつことになる>のである。この唯一の一者は<実現された観念性>であり、その中には反発と牽引との統一がある。
 
[反発と牽引との関係]ここで反発と牽引が統一へと至る過程について、立ち入って見ておこう。
 まず最初に反発は直接的なものとしてあり、これに対して外部から付加される牽引とは無関係である。両者はこのように相対的な関係にある。しかし、排斥するものは排斥されるものと(論理的には)結び付いており、このような関係の契機がまさに牽引なのだから、<牽引は反発そのものの中に存在する>のである。このように反発は牽引を媒介としているのだが、一方で牽引は反発を媒介にしている。その結果、反発は、そして牽引もまた<自分自身との媒介>であることになる。
 反発は多者を措定し、牽引は実在的な一者を措定する。一者がその他者(多者)を措定すること、すなわち反発は、同時に観念性の中にある一者の<自己脱出>である。一方、多者がそれ自身において崩壊しその他者(一者)を措定すること、すなわち牽引は、同時に多者を観念性の中に規定することである。
 このように、反発は同時に牽引であり、牽引は同時に反発である。両者はここに統一され、向自有の展開は完成した。その結果、一者は<無限に、即ち措定された否定の否定として、自分自身に関係するもの>、すなわち媒介であり、成である。しかしこの成の契機(反発と牽引)は不安定なものであるから、成は単純な直接性の中に崩壊する。そして、この<いまや新しく獲得された規定をもつ>有こそ、量である。
 
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◆ジョルジュ・バタイユは、アレクサンドル・コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』で展開した精神現象学を踏まえて、ヘーゲル哲学は死の哲学、あるいは無神論の哲学であるといっている。<ユダヤ=キリスト教の伝統に従う人間学は<人間>のなかに、自由と歴史性と個体性を強調するけれども、ヘーゲルの人類学はまさにこのユダヤ=キリスト教的な人間学なのだ。実際、ヘーゲルにとっての人間は、ユダヤ=キリスト教にとっての人間と同様に、霊的な(つまり「弁証法的な」)存在なのである。だがしかし、ユダヤ=キリスト教の世界観では、「霊性」は現実界の彼岸においてはじめて完全に自己実現し、自己を表現するのである。厳密な意味での<聖霊>、真の意味で「客観的に現実の」<聖霊>、これは、ユダヤ=キリスト教においては、神、すなわち「無限にして永遠の存在」なのである。ヘーゲルの言うところでは、「霊的な」、つまり「弁証法的な」存在は、「必然的に一時的であり有限なので」ある。これはすなわち、死だけが、霊的な、ヘーゲル的な意味における「弁証法的な」存在の実存を保証しているということだ。>(酒井健訳「ヘーゲル、死と供儀」,人文書院『純然たる幸福』所収)
 またバタイユは、イエナ大学時代の講義録からのコジェーヴの引用──<人間の内に、存在しているのは闇なのである。自然の内部、もしくは内奥[アンチミテ]なのである。>──を踏まえて、さらには若きヘーゲルの「狂気の体験」を念頭において、ヘーゲル哲学の体系はこのような内奥の深淵の無化であるといっている(『内的体験』)。バタイユ自身は、ヘーゲル弁証法の彼方に「不可能なもの」、すなわち「非−知」を見ているのだが、この不可知のものこそ若きヘーゲルがかいま見た内奥の深淵にほかならない。
 
◆ヘーゲルは観念論の原理をめぐる註釈の中で二回、無意識という語を使っている。
 その一。外的な有が自我の単純性の中に止揚され私の中に観念的にあるような主観的観念論は、<それが意識一般の無意識的な観念論としてあるにせよ、或るいは意識的にそれが原理として主張され>ているにせよ、ただ表象の形式に関係するものである。
 その二。ライプニッツの表象する存在、すなわちモナドは本質的に観念的なものである。表象は一個の向自有であり具体的な規定だが、ここでは観念性というだけの意味しかもたない。<というのは、ライプニッツにあっては無意識的なものもまた一般に表象するもの、知覚するものだからである>。それゆえ、この体系の中では他在は止揚されている。
 ヘーゲルにとっての無意識とは止揚された他在(他者としての自己)のことにほかならない、と断定するのは短絡的すぎるだろうか。
 
◆抽象、単純、絶対、不可分──ヘーゲルがこれらの語を使うとき、それはその叙述が論理詞を使って形式論理学的に表現できることを意味している。(例:AとBの単純な統一はA∨Bと表現できる。あるいは、AとBが不可分であることはA∧Bと表現できる。)
 また、止揚、措定、観念といった語を使うとき、それはその叙述が集合論の考え方に準拠した──集合とその元という異なる次元の事柄を同時に示す──記号表現に置き換えられることを意味している。(例:Bが止揚されてAの契機となる、BがAの中で措定されている、あるいはBがAの中で観念的なものとして存在するといった叙述は、いずれもA={B}と表現できる。)
 これら二つの語彙群は、存在論的に異なった事態を示している。ヘーゲル自身の区分に従うならば、<有として、即ち命題の形で静的な統一として把握され、表現されるべき>ものと、<一個の成として、過程としてのみ把握され、云い表わされるもの>との違いである。(例:単純な二重否定「¬¬A⇔A」と、措定された二重否定「A={A(⇔A∨¬A),φ(⇔A∧¬A)}」とは、決定的に異なる事態を表現している。なお、A⇔A∨¬Aは、後に一者という形態における向自有の記号表現を与える際に出てくる。)
 ウィトゲンシュタインが「世界は事実の総体であり、物の総体ではない」というとき、事実(あるいは集合の元の関係)を語る記号は第一の語彙群、世界(あるいは集合とその元の関係)を示す記号は第二の語彙群に関係している。さらに、ヘーゲルのいう<成>は事実から世界への推移を意味し、また<成の崩壊>は世界が再び事実へと推移すること(ロゴスがより上位のカテゴリーを目指して螺旋の階梯を一段上ること)を意味している。このように、事実と世界、形式論理学的に表現できる事柄と集合論的に表現できる事柄とは重層的な、しかも内在的な原理に基づいて組み立てられる階層構造をなしている。
 ──以下、これらのことを実地に見てみよう。
 
[真無限]その真部分集合との間に一対一対応が成立する集合が無限集合であった。A’⊂AかつA’〜Aであれば、A={A’,¬A’}は無限集合である。(¬A’はA’に属する元をAから除いた残りの元からなる部分集合、すなわちA−A’を表現している。)また、A={A’,¬A’}は真無限Aの記号表現でもあった。
 
[向自有]ここでA’=Aであるとするならば、つまりAが自分自身を元にもつ無限集合であるならば、A={A,¬A}を得る。これは向自有の記号表現である。つまり、向自有(A)は向自有自身(A)と向一有(¬A)の二契機をもつ。(¬Aが向一有の表現であることは、A=真無限であること、したがって¬A=有限者であることから説明できる。なぜなら、向一有の契機は<無限者との統一の中にある有限者、或いは観念的なものとしてある有限者>を表わすからである。)
 
[一者]また、<向自有は向自有自身と向自有の契機である向一有との単純な統一である>が、このことを形式論理学的に表現すればA⇔A∨¬Aとなる。その結果、向自有の記号表現はA={A,¬A}={A∨¬A}={A}となり、これは<一者>を表現している。(なお、ここで消去された¬Aは向自有の<全く抽象的な限界>、あるいはAの外部、集合Aに属さないものを表現することになる。)
 
[空虚]ところで、¬AとはAからその元であるAを消去して得られる部分集合を表現しているものでもあったから、¬A=A−A=φ、すなわち¬Aは無である。この無が一者の中で措定されると<空虚>である。(A={φ})また、この空虚は<直接性の形態にある一者の質>である。(A={A}={{φ}})
 以上のことは、向自有と向一有が<観念性の本質的な、不可分の契機>であることの記号表現、すなわちA={A,¬A}={A∧¬A}={φ}によって導くこともできる。あるいは、<一者は否定の自分自身への抽象的な関係としては空虚である>ことの記号表現として、A∧¬A⇔φをとらえることができるかもしれない。
 
[原子]かくして定有の形態にある一者の記号表現、A={A,φ}が得られた。ここで元として現われるAが<原子>である。また、ヘーゲルが、空虚を運動の根拠とする<最初の思想家達>の見解は<否定的なもの中に生成の根拠、絶えざる自己運動の根拠があるという深い思想>を含んでいるというとき、その思想は、A∧¬A⇔φ、したがってA={φ}と表現できるものである。
 
[反発]反発を集合論的に表現すれば、
   {{{{・・・{A,φ}・・・},φ},φ},φ}⇒A,A,A,・・・
となる。これをより簡便に表現すれば{A,A,A・・・}⇒A,A,A,・・・であり、排斥もしくは<自己脱出>のニュアンスをより強く出すならば{A,A,A・・・}⇒Aとしてもいい。これらの両辺に見出される多くの一者の関係は無関係、すなわち空虚(φ)である。
 なお、反発を形式論理学的に表現すればA∨¬A⇒Aであるが、これは誤謬である。
 
[牽引]索引の集合論的な表現は、反発の逆、すなわち
   A,A,A,・・・⇒{{{{・・・{A,φ}・・・},φ},φ},φ}
である。その簡便な表現も同様にA,A,A,・・・⇒{A,A,A・・・}、あるいはより端的にA,A,A,・・・⇒Aである。
 なお、牽引の形式論理学的表現は反発のそれと同じである(A∨¬A⇒Aで、¬A⇒Aの部分、一者[A]の否定である多者[¬A]から一者[A]への移行の部分に着目)が、これもまた誤謬である。
 
[反発と牽引の統一]向自有の展開が完成すると、一者は<無限に、即ち措定された否定の否定として、自分自身に関係するもの>となる。このことは{A,φ}⇒Aとして、より正確には{A∨¬A,A∧¬A}⇒Aとして表現できる。ここで、{A}⇒Aの部分が自己脱出としての反発に、{φ}⇒Aの部分が多者の崩壊としての牽引に相当する。つまり、反発と牽引はここでは統一されているのである。
 ところで、{A,φ}⇒Aは成としての一者が再び有(集合の元)へと推移したことを意味している。この新たな有は、集合A={a,a,a,・・・}の元であり、その質は量である。