エーテル的[1]



★高翔[エーテル的 −0]1999.5.1

 高翔[ボードレール『悪の華』/阿部良雄訳]

沼また沼の上高く、谷また谷の上高く、
山また山、森また森、雲、海原の上高く、
太陽のかなた、*気[エーテル]のかなた、
星ちりばめた天球の境のかなた、

わが精神よ、お前は身も軽く動いてゆく、
そして、波間に恍惚となる上手な泳ぎ手のように、
お前は心晴れ晴れと、深く涯もない空間にひと筋の尾を引く、
言うに言われぬ雄々しい逸楽にふけりながら。

この病的な瘴癘の気から、はるかに遠く天翔けよ。
高層の空気の中へと身を清めに行け、
そして飲め、純粋にして神々しい酒精[リキュール]のごとく、
透明な空間に満ちみちる明るい火を。

霧たちこめた生活に重々しくのしかかる、
もろもろの悩みや、おびただしい悲しみの背後[うしろ]、
かがやかしく晴れ晴れとひろがる境地へ、
強健な翼もて飛び立ち得る者は、幸いなるかな。

その思いは、ひばりのように、朝まだき、
天へ向って自由に舞い上る者、
──人生の上に天翔けり、花々の口きかぬ物たちの
言語を苦もなく解する者は、幸せなるかな!

  *表記不能文字[サンズイ+景+頁]
   :漢音「コウ」:「広大なさま」「清々しい」の意。



 計画も腹案もなしに発作的に始めてしまった「エーテル的」。さてこれから先どう話題をつないでいけばいいのか、かいもく見当がつきません。そこでとりあえず、前々から気になっていた書物を概観することから初めてみることにしました。

 S.G.セミョーノヴァ/A.G.ガーチュヴァ編著『ロシアの宇宙精神』(西中村浩訳,せりか書房:1993/1997)。原書のタイトルは「ロシア・コスミズム、哲学思想アンソロジー」で、文芸批評家セミョーノヴァによる序論と十七人の思想家のテクスト(訳書ではそのうちの六人を選んでいる)を収めたもの。以下に目次を転記。

序論 ロシアの宇宙精神
 上昇進化/精神圏的な課題/愛の変形/人間の「地球上の幽閉」からの脱出
フョードロフ[1829-1903]
「共同事業の哲学」「科学と芸術の矛盾はどのようにして解決できるか?」
ソロヴィヨフ[1853-1900]
「自然における美」「愛の意味」「キリストは蘇りぬ!」
ブルガーコフ[1871-1944]
「経済のソフィア性」「社会主義の魂」
フロレンスキイ[1882-1937]
「器官投影」「ヴェルナツキイへの手紙」
ツィオルコフスキー[1857-1935]
「宇宙の一元論」「宇宙哲学」
ヴェルナツキイ[1863-1945]
「人類の独立栄養性」「精神圏についての緒言」

★ロシアの宇宙精神[エーテル的 −1]1999.5.9

 ロシア・コスミズムとは何か。──十九世紀の半ばから成熟しはじめ、世紀末から二十世紀初めにかけて宗教・哲学、文学・芸術、科学思想などの分野で大きく展開されたこの「潮流」の発生上の特徴について、セミョーノヴァは「世界に対する原理的に新しい態度である」と規定している。

<それは能動進化という理念、すなわち世界には、人類が理性と倫理感にしたがってその発展の方向を決めていく、新しい意識的な発展段階が必要なのだという理念である。(略)より正確には、これはコスミズム的な傾向というよりむしろ、能動進化論的な傾向と位置づけることができよう。(略)重要なことは、意識的・精神的な力を拡大し、物質の精神を操り、世界と人間を霊的な存在とすることである。人類が宇宙に広がって行くことは、この壮大なプログラムの一部にすぎない。コスミストたちは地球、生物圏 biosphere 、宇宙という大きな全体に対する配慮と、至高の価値をもつ存在である具体的な人間の深刻な要求とを、ひとつに結びつけて考えることができたのである。>(9-10頁)



 「エーテル的」を英語で表わすと ETHEREAL で、「霊妙な」とか「天上の」といった(素敵な)意味の言葉になります。ところがこれをひねって(?)みると「似非リアル」とも読めるんですね。(ちょっと無理があるけれども。)

 「似非」というと、まやかし(マーヤーの面紗!)やごまかしなどマイナスの価値を伴う意味と響きをもった言葉ですが、「似非リアル」を「似て非なる現実」と価値中立的にとらえるならば、異界(アナザーワールド)や別世界、可能世界などを表現する語ともとれるわけで、これはまさに「エーテル的」がめざすべき方向を適確にさし示しているように思います。(かなり無理がある。)

 最近、時間の「管理」がうまくいかず、作業が思うようにはかどりません。そんな欲求不満もあって、少し遊んでみました。

★ロシアの宇宙精神・序論─上昇進化(1)[エーテル的 −2]1999.5.29

<人間と世界を変革する夢は、空間と時間における人間の限界を克服することをめざした。(略)ロシアは生物圏という理論、そして生物圏が精神圏へ移行するという科学理論を生み出し、宇宙へ飛び出す現実的な道を切り開いた。そしてほかならぬこのロシアにおいて、すでに一九世紀半ばから、独特のコスミズム的な傾向をもった科学・哲学思想が成熟しはじめ、二◯世紀になって大きく展開されたことは注目に値する。>(8頁)

 セミョーノヴァは上記の文章に続く序論「上昇進化」の節で、能動進化論的な傾向をもったロシア・コスミズムの源流、支流、本流について概観している。──すなわち、地質学、ヘルダーとその影響を受けたラジーシチェフ[1749-1802]の哲学、東方神学(とりわけ神化論、神人の概念)、ベルクソンの『創造的進化』、ロシア最初の理論物理学者ウーモフ、ロシアにおける能動進化論や宇宙論の創始者フョードロフ、ダーウィンの進化論とヘーゲルの弁証法にもとづいた独自の綜合哲学を築きあげようとした劇作家スホヴォ=コブィリン[1817-1903]。

 これらの項目のうちとりわけ興味深いのは、宇宙論とのかかわりにおける地質学と東方神学だ。そこには、ビザンチン化されたグノーシスの響きが濃厚に漂っているのではないかと僕は思う。──以下、若干のキーワードの抽出と引用。

◎地質学。──<人間には大きな意義がある、すなわち、みずからの労働によってこの惑星を能動的に変革しようとする人間の創造的な活動にはきわめて大きな意味があるという考えを、はじめて科学的に表現したのが地質学者だったというのは興味深い。>(13-4頁)──鉱物学者・地質学者・化学者ヴェルナツキイの「生物地球化学 biogeochemistry 」は、「生きた物質」が地球の化学元素の歴史に与える影響を研究対象とする。──ヴェルナツキイが注目した科学者ジェイムズ・デーナ[1813-1895:アメリカ]の「頭化 cephalisation 」の概念。<中枢神経系の萌芽が登場するカンブリア紀以降、神経系、とりわけ脳は、中断されながらも(しかし後戻りすることなく)ゆっくりと着実に複雑化し、完成に近づいていった。>(12頁)──デーナの同時代人ジョゼフ・ルコント[アメリカ]。<ルコントは生物に神経系が現われてから人間が登場するまでの特別な方向性をもった進化過程を、精神生命紀 psychozoic age と名づけた。>(13頁)──あるいはチャールズ・シューハート[アメリカ]の「人為形成紀anthropogenic era」。


★ロシアの宇宙精神・序論─上昇進化(2)[エーテル的 −3]1999.5.29

◎東方神学。──<ロシア・コスミズムのいくつかの支流のひとつである、宗教的な傾向の思想家たちが発展させた「神化」[テオーシス]論の前提も、人間および人類が、現在の肉体的、霊的、精神的な自然性を超越、克服して、変容された存在、不死で至高の神的存在をわがものとすることである。この傾向には、キリスト教の人間論につながる独自の思想伝統があった。>(16-7頁)──東方神学の教義、とりわけ人間の神化に関するグレゴリオス・パラマス[1296頃-1359]の理論については、落合仁司『〈神〉の証明』(講談社現代新書)を参照。

◎生命という現象。──<生きた物質、生命の宇宙的な性質、そして生物圏が精神圏へ移行するという問題に取り組んだヴェルナツキイの創造的な思考は、生命という現象を理解し、生命の生み出した最高のものである人間の課題について考えようとする思想伝統につながっている。>(17頁)──鈴木貞美氏が提唱する「大正生命主義」との同時代性について考察のこと。

◎精神社会。──<進化の意識的な統御、世界の霊化という最高の理想は、フョードロフにおいては互いにつながりあう一連の課題として展開される。それは「隕石」現象、すなわち宇宙現象を統御すること、自然の力の自然発生的で破壊的な動きを意識によって方向づけられた過程とすること、新しいタイプの社会組織、「精神社会 psychocracy 」を子の意識、親和性の意識にもとづいて作り出すこと、死を克服し、人間の肉体的な自然性を変容させるべく研究し、働きかけること、そして宇宙のなかで不死の生命を永遠に作り出していくことなどである。>(22頁)

◎器官創造。──<…フョードロフが要求する生命そのものの創造、すなわち「有機的」進歩とは、直観のもつ可能性を呼びさまし、発達させることによって知性を拡大することであり、直観のレベルでは自然そのものの「創造する陣営」がなしうる「器官創造」を、意識的に自由に行なえるようにすることである。こうした進歩の原動力は不死の夢であるが、この夢はフョードロフによって実現可能なものとして明確な輪郭を与えられている。歴史上はじめて、実験的な認識、自然法則の変革、普遍的な労働という道、死に対する勝利へ導く道が示されたのだ。>(26頁)

 総括。──セミョーノヴァによれば、これらの新しい哲学理念の躍動、すなわち十九世紀半ばの自然科学上のいくつかの発見に刺激された新しい思考は、次の二つの方向へと進んでいった。

◎その一。自然淘汰と生存競争というダーウィンの考え方を進化の推進力ととらえるもの。<この流れの最良の思想さえも、それが現実に向けられるとき歪んだものになる。>(29頁)──<…スホヴォ=コブィリンの…能動進化的、宇宙的な綜合哲学、ウーモフやツィオルコフスキイのいくつかの考えにも、論理と精神の「淘汰」志向が現われている。創造のパトス、世界と人間の構造を霊化しようとするパトスに満ちているにもかかわらず、ときおり冷酷なエリート意識が感じられるのである。スホヴォ=コブィリンにおいては、存在の屑として消えて行く「獣の姿をした」未開のわたしたちの祖先、「不完全な」種族が分類されている。>(30頁)

◎その二、淘汰や生存競争とは逆の法則、すなわち「連帯の法則」によって能動的進化を考えるもの。<もうひとつの支流である道徳哲学的傾向においては、人間の人格はそれだけで十分に意義があり、すべての世代の人々[引用者註:生きている人間だけではなく、死んだ人間もこれから生まれてくる人間も含む]はしっかりと親和的につながっているのだという考えが示されている。これはすべてを包括しようとする理想から来ている。>(30頁)──<…この傾向をもっともラディカルに大胆に表現しているのがフョードロフなのだ。(略)人間の神化という同じ目的を掲げた宗教思想家はほかにもいる。ソロヴィヨフ、フロレンスキイ、ブルガーコフ、ベルジャーエフといった人たちである。>(31頁)



 前回、引用し忘れた箇所があったので、欄外で紹介しておきます。

◎「飛ぶ人」─エーテルでできた肉体をもつ絶対精神
<さらに人間が霊的な存在となるためには、スホヴォ=コブィリン[1817-1903]の夢想においては、とりわけ「飛行」の能力を獲得することが必要となる。「飛行」とはいわば空間の否定であり、空間にたいする勝利である。(略)「技術の人間」に代わって「飛ぶ人間」が現われる。「より高い、すなわち太陽的な人間は、自分の体を光で照らし、大気と同じ比重にする……、そのために人間は自分の肉体を作りかえてパイプ状の肉体、すなわち空気状の肉体にし、さらにはそれをエーテルでできた肉体、すなわちもっとも軽い肉体にする」。自分自身の自然に向けられた改造活動の結果、人間はいまの重い肉体という殻を投げ捨て、不死の霊的な存在となる。これはヘーゲルの「絶対精神」のラディカルな再解釈であり、「絶対精神」はその未来の宇宙的な運命において、現実の人類となる。>(『ロシアの宇宙精神』序論,27-8頁)

★ロシアの宇宙精神・序論─精神圏的な課題(1)[エーテル的 −4]1999.6.19

 セミューノヴァは『ロシアの宇宙精神』序論「精神圏的な課題」の節で、ティヤール・ド・シャルダンやエドアール・ル・ロアが用い、ヴェルナツキイが継承して考察を進めていった「わが国の能動進化としての精神圏という思想伝統」(44頁)につらなる人々とそのアイデアを概観している。

 ここに出てくるいくつかのキーワード──たとえば、新しい地球の被膜としての精神圏(33頁)、霊圏[pneumatosphera](33頁)、労働による世界の変容(34頁)、未来のものとしての精神圏(35頁)、精神圏的な情報の流れ(35頁)、精神圏を作り出す科学的思考(38頁)、将来の神化のための肉体の変容(41頁)、われわれが個性と呼んでいるもの=かけがえのない分解不可能な肉体的・精神的統一体=唯一無二の自己意識(45頁)、新しい精神療法による神経系の老化予防(46頁)、不死のヴィールス(46頁)、死者の復活(48頁)等々──はいずれも刺激的なものなのだが、以下、とりわけロシア・コスミズムに特徴的な(と思われる)事柄に限定して、抜き書きをしておく。

◎肉体を変容させること=独立栄養生物になること
<キリスト教では常に唯心論的な傾向が顕著であった(肉体は霊の牢獄にすぎない)──これはキリストの誓約の精神とはまったく関係のない、本質的にプラトン的、異教的な逸脱である──が、ヘシカスムにおいては、将来の神化のために魂や知だけではなく、肉体をも変容させ、肉体に光を与えることが必要とされる。(略)「知を心に置く」経験、「霊の覚醒」、「知的な祈り」などの経験において重要なことは、さまざまな心霊術で行なわれているように、意識を肉体から引き離し、純粋な霊の壮大で力強い存在のなかに入れることではなく、意識によって人間の肉体のすべての器官と力を霊化し、統御することなのである。
 人類は低次元の自由にひたりきって自己満足しているが、この自由とは、右往左往し、もがき回る自由であり、あらゆる試練を味わい、自然の生物である人間の存在できる領域が与えてくれる可能性のすべてを体験する自由である。そのままでは決して最良の選択として精神圏という理想(あるいは天の国)を選び取るような、高度の自由を手に入れることはできない。そのために人類は、現在の自分の肉体の自然そのものを変革する活動をはじめて、自然の肉体が少しずつこの精神圏という(あるいは能動的=キリスト教的な)高度の理想を実現することができるようにしていかなければならない。これがロシアの宇宙論において、フョードロフ以来の信念となっている考えである。人間の道徳的完成を安定したものにするためには、その前に、そしてそれと並行して、人間の肉体を変革し、他の生物を食べ、押し退け、殺し、そして自分でも死ぬという、自然的な性質から人間を解放しなければならない。一言で言えば、コスミストたちによれば、現在の自分たちの「過渡的」で不完全な状態に対して、現実に能動的に働きかけていく必要があるのだ。そしてコスミストたちの多くは、こうした働きかけを具体的にどの方向に向けていくかを考えた。将来は人間が独立栄養生物になるべきだというヴェルナツキイの注目すべきアイデアも、こうした人間が生物として内的に「肉体的に」進歩していくという理念から生まれてきたのである。>(40-2頁)


★ロシアの宇宙精神・序論─精神圏的な課題(2)[エーテル的 −5]1999.6.19

◎不死から復活へ
<それゆえに、寿命が伸びることは──これが社会にとって重要なのだが──人生のうちでもっとも積極的、活動的であり、経験と能力の豊かな年代が長くなることを意味するだけではない。人間は、人類の歴史的、文化的な経験を概観し、人々や生命に対するさまざまな対処のし方を試みて、もっとも人道的で、効果的なやり方を見つけ出すことができるし、唯一無二の自分の個性を作り上げ、発達させることもできる(この個性にとっては、それだけにまた消滅が受け入れがたいものとなる)。最後にはおそらく、フョードロフが呼びかけたように、過去と自分たちの祖先を研究し、先祖を復活させ、変容させることができるようになるだろう。
 フョードロフのこの理念こそ、ロシア・コスミズムという大胆な思考の頂点をなしている。>(47頁)

◎死者の復活─魂すなわち人間のある種の形式形成原理
<単に個人を不死とするだけではなく、死んだものたちをも復活させるという考えが、フョードロフの理論のきわめて道徳的な回転軸である。(略)フョードロフの予知的な思考が、復活の具体的な方法も求めていたというのは興味深い。そのために最初に人類がやるべきことは、死んだ人たちの遺骸の分散した粒子を集め、それを組み合わせて肉体を作り出すという壮大な仕事である。これはキリスト教の終末論者たちの哲学的直観にまで遡る。彼らは、アリストテレスにしたがって、魂、すなわち人間のある種の形式形成原理が、人間の体の一部となる物質のそれぞれに印をつけているので、死後分散したあとでも、物質はこの個人の刻印を留めているのではないかと考えていた(こうした考えにもとづいて現代科学のクローニングというアイデアが生まれた。[以下、略])。同時にフョードロフにおいては、復活は血縁関係というひとつながりの系列のなかで考えられている。すなわち、文字どおり子が、あたかも「自分のなかから」生み出すように、父を復活させ、さらに父がその父を復活させていき、ついには最初の父、最初の人間にまで至るのである。ここで暗示されているのは、子孫に伝えられた遺伝情報にしたがって先祖を復活させることができるという考えである。フョードロフは、かつて生きていた人々を綿密に研究し、はじめは心のなかで思い浮かべるだけでもよいから、その像を復元する必要があると繰り返し書いている。しかもそこには、世代、民族、集団、家族といった連続性がなければならない。たとえて言えば、フョードロフが課題としたのは、過去の世代の人々を復活させる前提となる、人類全体の遺伝コードの解明であった。だがもっとも重要な課題は、復活させられた人間にその人独自の意識を取り戻してやることである。そうでなければ、わたしたちが得るのはその人の肉体のコピー、ある種の「一卵性」双生児のようなものにすぎないことになる。>(48-9頁)

◎生体エネルギー場─古代人が魂と名づけたもの、すなわち個人の意識
<物理学と生物学がはらむ哲学的な問題を研究している現代ベラルーシの科学者A・K・マネーエフによれば、古代人が魂と名づけたもの、すなわち個人の意識を担っているのは、生体エネルギー場的な非エントロピー的性質をもち、その性質は人間が死んだあとも保持される。「放射された場(たとえば電磁場)はその放射源とは独立して存在しつづけるが、それにもかかわらずそれに対応する情報を保持しているとすれば、有機体が死ぬときに〈放射〉され、その有機体に関する情報をすべて保持している生体エネルギー場の存在も充分に可能性のあるものとなる。この情報にもとづいて、生体系の復元も考えることができる。これは個体発生の際に、生体系がそれに先立つ遺伝情報にもとづいて形成されるのと同じである」。マネーエフは「知は全能である」と確信している。知は「死に打ち勝ち、生体エネルギー場のシステムの遺伝プログラムにもとづいて、非在のなかへ去った人たちすべてを生き返らせることができる」のである。人間が死んだあとになにが残るのか。ある種の不死の本質、魂、「光学的な像」(フョードロフ)、あるいはある種の「生体心理場」(マネーエフ)などといったものが実際に人間から離れていくのか。この本質はどこに保持されるのか、どんな形で保持されるのか。こうした問題は、科学的な知が、人の子らの愛の感情が、解決しなければならない無数の問題のひとつである。>(49-50頁)



 今日、梅雨のあいまの「五月晴れ」の陽光に心地よい眠気を誘われながら、西平直さんの『シュターナー入門』を読んでいて、シュタイナーが晩年のニーチェと「面識」のあったことを知りました。(二十八歳の青年カフカが五十歳のシュタイナーに人生相談をもちかけていたことも初めて知って、いたく刺激を受けたのですが、これはまた別の話題です。)

<……宇宙は素粒子の組み合わせで成り立っている。素粒子の数が有限であるかぎり、組み合わせも有限である。可能なかぎりの組み合わせが尽きれば、繰り返すしかない。その組み合わせは、かつてすでに生じていたであろうし、これからも繰り返されるだろう。ということは、宇宙の同一状態が永遠に反復する。当然、人の人生も、同じ組み合わせで、未来に生まれ変わるに違いない……。/こうして、ニーチェは「人生の繰り返し」という観念を、同じ体験が繰り返されることと理解し、その繰り返しによって、霊的に成長してゆくとは考えなかった。その点が、シュタイナーのニーチェに対する批判であった。>(75-6頁)

 僕は「復活」という観念について、ニーチェの永劫回帰説との関係で考えてみることはできないか、そしてそこで回帰するものに永井均さんがいう〈この私〉は含まれているのだろうか、などと漠然と考えていたのですが、これはまだ生煮えの段階でしかないので、これ以上は書きません。

 ただし、西平さんの紹介している永劫回帰説がニーチェがほんとうに考えていたことなのかどうか──あるいは「ニーチェがほんとうに考えていたこと」云々をおいても、永劫回帰説のほんとうの凄味(?)を伝えているのかどうか──僕には疑問がありますし、またシュタイナーによるニーチェ批判の指摘についても──もしこれを字義通りに読むならば──僕にはずいぶんと迫力のないものに思えてならないのです。

 むしろ『シュターナー入門』の後半に出てくる次の文章の方が、事柄の本質をついているように思いました。(シュタイナーの「死後の発達段階論」を紹介し、そして「生命が生命からのみ生じるように、自我(私)も自我(私)のみから生じる」とシュタイナーが自説の自然科学的な理論性を主張していることへの「違和感」を率直に告白したあとで、にもかかわらずこの理論が魅力的に見えるのはなぜかと自らに問うた箇所の締めの文章。──このくだりは本書の白眉だと思う。)

<ひとつの魂が、今世はこの〈わたし〉に宿っている。この〈わたし〉として生きている。今世の旅を終えれば、〈わたし〉から離れながら、しかし、また再び〈別のわたし〉として転生する。/では、その〈別のわたし〉と〈このわたし〉は同じなのか。違うとしたらどの「部分」が違うのか。一体〈わたし〉は、どこから来て、どこへ行くのか。なぜ、この〈わたし〉として生まれてきたのか。何のためなのか。どんな使命を担ってきたのか。/シュタイナーの地平は、そうした問いを受け入れる。そうした問いを、問いとして語ることを可能にする。そうした人生の問いが、場違いでない空間。答えの出ない問いとつき合い続けることを可能にする空間。問う本人が、その話の中に登場してしまうミュトス(神話・お話)。/シュタイナーの話を聞くたびに、事は我が身の問題となってしまうのである。>(141頁)

 それにしても西平さんの本はよくできた「啓蒙書」で、「超感覚的世界・霊的世界を自然科学の方法で理性的に認識する」というシュタイナー思想の核心となる方法意識をきちんとおさえ、そのことが現在どのような意味をもつのかを、それと語らずして読者に考えさせてしまう力をもった書物だと思いました。

 さて。──『新潮』8月号で、立花隆さんがロシア・コスミズムを取り上げていました(東大講義「人間の現在」第二十五回)。

 まずテイヤール・ド・シャルダンの進化思想が──具体的にはその「精神圏」[ヌースフィア]の思想が──ロシア・コスミズムとの──正確には「地球化学」という新しい学問の創始者ウラジミール・ヴェルナツキーとの──交流を経て、「わたしたちの惑星の新しい地質学的現象」(ヴェルナツキー「精神圏についての緒言」)へと展開していったことからときおこし、次いで同じくヴェルナツキーの「人類の独立栄養性」、そしてツィオルコフスキー、最後に──ロシア・コスミズムの源流にして『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老のモデル──「モスクワのソクラテス」とまでいわれた伝説的司書ニコライ・フョードロフへと、その叙述は進んでいきます。

 ここで引用されているのが『ロシアの宇宙精神』に収録された文章と、スヴェトラーナ・セミューノヴァの『フョードロフ伝』(安岡治子・亀山郁夫訳,水声社)。──後の書物は未見。いずれ入手して、読んでみることにしよう。

★すべての人が認識者になること[エーテル的 −6]1999.7.20

 立花隆「人間の現在」(第二十五回)からの抜き書き。

◎人類の共同事業─反エントロピー
<[引用者註:フョードロフの]共同事業とは何なのかというと、全人類が力を合わせて、より高次の存在に能動進化(意識的にコントロールされた進化)をとげていくことなんです。そして、地球レベルはもちろん宇宙レベルで自然を統御していくことなんです。(略)そういうことを可能にするためには、人類の知を統合しなければならないといいます。すべてを知の対象として、すべての人が研究者になり、すべての人が認識者にならなければならないといいます。/(略)そのためには人間の最大の敵である死を克服しなければならないといいます。また悪を滅ぼさなければならないといいます。/悪というのは、結局のところエントロピーの増大が生む崩壊現象、秩序が失われた状態、世界の欠陥状態、「落下」、未完成状態だから、それに対抗するためには、全世界を合理的自覚を持って反エントロピーの方向に動かしていくことが必要で、そのために全人類が総力をあげることが、人類の共同事業だというわけです。/(略)フョードロフの思想は、あまりにも壮大だから、ここでその全容を紹介するというわけにはいきませんが、大事なポイントは次の一点です。/「世界は、眺めるために与えられたものではない。世界を観照することが人間の目的ではない。人間は常に、世界に対して作用を及ぼすこと、自分の望むがままに世界を変えることが可能であると考えてきた」(著作集)>

 これに続けて立花氏は、マルクスのフォイエルバッハに関する十一番目のテーゼ──「哲学者は世界をただいろいろに解釈しただけだ。しかし、だいじなことは、それを変革することだ」──に言及したあとで、次のように書いている。

<ぼくいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。それなしの変革は、盲目的になり、エントロピー増大の方向に向かうだけです。それは進化ではなく、退化です。>



 最近、深川洋一著『タンパク質の音楽』(筑摩書房:1999)を読みました。著者の紹介によれば、いかなる研究機関にも所属しない「独立の物理学者」ジョエル・ステルンナイメールは、タンパク質を合成する際、アミノ酸が発する波動(物質波)の音楽的性質に着目し、その振動数を七六オクターブさげることで「タンパク質の音楽」へと変換したとのこと。これを生物に聞かせることで、共鳴現象を通じて対応するタンパク質の合成を促進もしくは抑制することができるというのです。

 実際、このことはトマトの栽培で実証されたし、いずれは究極の「音楽療法」に使えそうです。さらにこの理論を応用すれば、二年前の「ポケモン事件」の原因も解明できるのだそうです。というのも、タンパク質と音楽がともに「波動」であることで結びつくのであれば、電磁波という波動による光(色彩)とも対応させることができるからです。以下、ステルンナイメール博士から著者に届いた手紙。

<『ポケットモンスター』のビデオ、確かに受領。問題のシーンは、オレンジ−青−オレンジ−青−オレンジ−オレンジ−青−オレンジ−青−……が速いスピードで変化していた(一秒に二四カット)。アミノ酸の色のコードは知っているだろう。この配列は、主に神経ペプチドの受容体に現われるんだ。その第一が、GABA受容体(β3鎖[てんかんに関係する部分])だ。>(189-90頁)

 ──ソロヴィヨフの「霊的・肉体的な流れ」やゴルスキイの「磁気雲的なエロティカ」などロシア・コスミズムの「事業」とも関係がありそうに思ったので、紹介しました。それからもう一冊、最近読んだ本で、J・ヒルマン著『世界に宿る魂──思考する心臓[こころ]』(濱野清志訳,人文書院:1993/1999)が大いに関係しそうに思いました。

★ロシアの宇宙精神・序論─愛の変形(1)[エーテル的 −7]1999.10.3

 『ロシアの宇宙精神』序論に拠って、ロシア・コスミズムの「宇宙と人間の本性を変革する事業」のうち、これまで能動進化、精神圏と概観してきた。セミョーノヴァによれば、これから取り上げる第三の「性愛の創造的な変質」──<エロスのエネルギー、すなわち性愛の力を霊化し、創造的な目的のために利用しようとする欲求>(53頁)に基づく「プロジェクト」──は、これらのうちでもっとも困難なものである。

 シャルル・フーリエやティヤール・ド・シャルダンなど、プラトン以来多くの哲学者たちがそれについて考え、そしてジグムント・フロイトが昇華理論の科学的根拠としたもの、すなわち性愛のエネルギーが果たす「単なる生殖の欲求よりもはるかに大きな機能」についての理解を大きく変えたのは、ロシアのコスミストたち、正確にはフョードロフ、ソロヴィヨフ、そして彼らの弟子A・K・ゴルスキイの三人であった。

◎フョードロフ─肯定的な純潔
<フョードロフはこの問題の概略を示したにすぎない。復活とは根本的に「反自然的」な行為であり、出産・誕生とは逆のものである。種を作り出す無意識の暗いエネルギーを、世界の認識と統御、そして失われた生の復元をめざす、意識的な明るいエネルギーに作り変え、昇華しなければならない。(略)禁欲・昇華、すなわち否定的な禁欲主義に対してフョードロフは、「創造的な過程、すなわち栄養を摂取する代わりに自分の肉体を再創造する過程」(ヴェルナツキイにおいては独立栄養)を対置し、否定的な純潔に対しては肯定的な純潔を対置する。肯定的な純潔は真に完全な智恵を必要とする。それは死んだ人々を復活させ、彼らと自分自身とを変容させるために、世界のエネルギーと自分の力とを完全に支配する智恵である。>(54頁)v ◎フョードロフ─時間と空間への勝利、あるいは復活と汎在性
<フョードロフにおいて、歪んだ自然秩序を正し、非自然的な不死の存在形態を作り出すという課題は、具体的な行為・事業と考えられていた。時間への勝利、すなわち世代が交代していくのではなく、すべての世代が共存するという原理は、復活の事業において実現される。空間への勝利は「完全器官性」、空間を際限なく移動する能力、すなわち「連続的な汎在性」の獲得という方法で実現される。>(57頁)

◎ソロヴィヨフ─シュジュギア的な関係
<完全な全一性[フョードロフの中心的な概念]においては、すべての人が分かちがたく結びついていながら、それぞれの個性は独立している状態、部分と全体とが、一般的なものと個的なものとが、等しい価値をもつ状態が訪れる。この状態は、フョードロフによれば、三位一体の神の存在が人間社会に投影されたものである。ソロヴィヨフはこの理想をすべて受け入れ、それを「シュジュギア συζυγια」、あるいは「シュジュギア的な関係」と名づける(συζυγιαはギリシア語で「組み合わせ」、「結びつき」を意味する)。シュジュギア(愛の相互作用)は個としての人間の自分より大きなものに対する関係、民族、社会、人類、さらには全宇宙といった全体に対する関係をすべて包括するものでなければならない。>(57-8頁)

◎ソロヴィヨフ─霊的・肉体的な流れ
<「人間のなかのこの霊的・肉体的創造の力は、創造的な力の変化したもの、あるいは内へ向けられたものである。自然のなかでは、この創造的な力が外へ向けられているために、有機体の物理的繁殖という悪しき循環を生み出している。」ここでわたしたちは貴重な直観に出会う。それは有機体のもつ創造的な変革の可能性を解明し、増大させ、大いに利用するには、種を創造する生産的なエネルギーを内部に向けて集中させなければならないという考えである。ソロヴィヨフの次の指摘は興味深い。人類の活動が真に意識的になり、宇宙的なシュジュギアという理想によって規定されるならば、「外の物質世界を徐々に支配し、霊化していく現実的な霊的・肉体的な流れ」を作り出すか、解放することができるというのである。ここで彼は、人間という有機体のなかには周りの世界に向けられ、それを変革していく、ある種の流れがあることを見抜いている。>(59頁)


★ロシアの宇宙精神・序論─愛の変形(2)[エーテル的 −8]1999.10.3

 ソロヴィヨフの「注目すべき直観」(人間のなかには世界を変革していくある種の流れがある)を今世紀の二−三◯年代になって発展させたのが──その「驚くべき人となりや文学・哲学遺産」がいまだ充分研究されていない──ゴルスキイである。彼はまず、「芸術、より正確には創造行為の根底にある心理」を研究対象とした。

◎ゴルスキイ─芸術は新しい肉体についての夢、あるいは復活の原型である
<ゴルスキイは、芸術作品において最終的に対象化される、芸術家という有機体の波動(これはいわゆる霊感の基本的な構成部分である)に注目して考察していく。芸術家はある種の波動、すなわち有機体の波を倦むことなく外に引き出し、物質を媒介としてそれを形象化し、外の世界に確固とした位置を占めるものに変えようとする。創造において表わされるのは、自然によって制御された自己の形成を越えて、自己を広げようとする欲求である。芸術は拡大され、永遠のものとなった新しい肉体についての夢である。芸術とは想像のなかで復活を実現しようとする試みであるというフョードロフの考えを、ここで思い出すことができよう。フョードロフが芸術の起源と考えているのは埋葬の儀式、弔い、死んだ人の姿を絵や彫刻によってとどめようとする行為、すなわちその姿を、せめて見かけだけでも、人工的に再現しようとする行為である。(略)芸術は復活の行為の原型であり、その実現方法そのものの原型でもある。それは、出産する代わりに創造的に作り出していく行為であり(芸術におけるエロス的エネルギーの昇華)、あたかも「自分のなかから」作り出すように生命を復元し、自分のなかから父たちや母たちを生み出すことである(芸術においては自分のなかから、有機体の波動のなかから、新しい形式が構成される)。>(60-1頁)

 ゴルスキイは、「イメージの奔流の運動法則」(詩的創造を支配する想像力の旋風の運動法則)は夢や夢を作り出す法則と同じ種類のものであることを明らかにし、その法則のなかから「自己愛的な鏡像性」「空間の肉体内性」「器官投影」の三つを取り出した。

 まず、「自己愛」とは理想的に充足した自分の肉体に対する愛である。次に、空間の「肉体内性」とは夢に現われる形式の構成原理のことであって、そこでは「肉体すなわち内的な世界」と「外的な環境」を分けている相対的な境界は消えてなくなり、視覚がついに触覚に勝つのである。最後に、「器官投影 organoprojection 」とは有機体全体を表象するようになった肉体の一部を外へ投影することであり、その特殊な例が「器官排除 organodejection 」(その極端な事例が死)である。

 フロイトの性理論が男性的リビドーという限界から抜け出せなかったのに対して、ゴルスキイは女性的なエロティカを前面に押し出し、<人間の体を外に向けて拡大し、外の世界を波動的に支配するという課題を実現するとき、このエロティカ種のがより大きな将来性をもつだろうと考えた>(63頁)。

◎ゴルスキイ─磁気雲的なエロティカ
<成熟しつつある女性の「感情=表象コンプレックス」は「はっきりと形の定まっていない(そしていつもさまざまな形をもちうる)曖昧さ、広がり、可塑性を保っており、その領域はつねに波動に反応する。女性がつねに溢れるほどに満たされていると感じ、放射されるエネルギーの余剰を感じているのは、おそらくその性器の表面の粘液でおおわれて湿った部分が大きいことからきている。(略)それは雲のようなエロスの包囲である。それは曖昧な輪郭をもち、まわりを包みこみ、外の世界へ出ていく。それは大気のような自己愛的な鏡像性に貫かれているが、この鏡像性のおかげで肉体は──同一性の原理をつうじて──空間を征服することができる。ゴルスキイはそれを磁気雲的なエロティカと名づけ、将来人間の体を自己創造的な不死のものに変形させるとき、それがとりわけ重要なものになるだろうと考える。>(63頁)


★ロシアの宇宙精神・序論─愛の変形(3)[エーテル的 −9]1999.10.3

 「意識をもつものとして(頭脳中枢を関与させて)生命を維持し、再生産する方法」を探究したゴルスキイは、「知覚は再生産のはじまりである」という命題を出した。

◎ゴルスキイ─男根の眼、あるいは肉体は眼に満ちている
<人間の知覚の最高の器官は視覚である。皮膚の触覚から発達した視覚は、人間と外界の接触の範囲を信じられないほど拡大した。エロス的な感覚においては皮膚と筋肉の触覚が勝っている。そもそも、この触覚がより高次の感覚である視覚に変化するということがありうるのか。ゴルスキイはありうると考える。それはまず夢を見るという形でつねに起こっているのであり、夢のなかではエロス的な触覚が視覚的な形象として現われるのである。芸術は何世紀にもわたって、こうした視覚と触覚の対応を神話的・象徴的言語や比喩へ(いまだに完璧ではないとはいえ)翻訳してきたと言えるだろう。「夢は、視覚器官と再生産の器官が相互に作用しあう、一種の絶え間ない接触である。そのことは神話や象徴においては男根の眼という概念で表現され」、そこでは性器が巨大な目として表象されている。東方の智恵の眼という考えも同じであり、それはいわば「男根の眼」の頂点なのである。この目は変質された性的なエネルギーとして、肉体という暗いトンネル全体を貫く性的なエネルギーの束として、開かれている。夢を見るという現象よりもさらに明確に意識と意志によって方向づけられ、組織化されたレベルでは、エロス的な衝動が形式構成の衝動に変わり、触覚が視覚に代わるという同様の現象が、芸術において起こっている。
 ゲーテは目と光の親縁関係に注目した。ここでは光が視覚器官を生み出し、目は夢のなかで自分自身を照らすのである。人間の皮膚にあるすべての穴が、皮膚のすべての細胞が、潜在的には視覚器官となることができ、一定の条件下では光を感じる膜に被われ、見ることができるようになる。科学は網膜外の視覚の事例を知っているが、これは強く照らされた物体が目によってではなく、皮膚によって視覚的に知覚される現象である。指の先、胸の太陽神経叢の上の部分、後頭部、首の後部などの皮膚には、こうした「視覚」に対して特に敏感な部分がある。(略)「このようにして透明な肉体、視力をもった肉体という神話や伝説の正しさが証明される。肉体は眼に満ちている。わたしたち自身が無数の眼をもったケルビムをひそかに表わしているのだ」と、ゴルスキイは書いている。>(64-5頁)

 ゴルスキイの思考が大胆に跳躍する基盤となったのは「内的な視覚、思惟的な視覚」という現象、つまりイメージや対象物を鮮明に想像する能力であったとセミョーノヴァは指摘し、ゴルスキイが引用したドイツの実験化学者ルードヴィヒ・シュタウデンマイアーの『実験科学としての魔術』(1912)の文章を紹介している。

 ──「だが、幻覚を空間の一定の場所に投影するためには、わたしたちは目を適応させる必要がある。すなわち目という光学器械をなんらかの形で調整する必要があるのだ……。だが問題は、網膜を興奮させることだけでは終わらない。この興奮は周囲のエーテルにも伝わり、エーテルがその固有の振動をはじめる。だが、このエーテルの振動をわたしたちは光と呼んでいる。こうしてほんとうの光が発生する。網膜によって生み出されたこの光は、目の屈析媒体を普通とは逆の方向に、したがってガラス体、水晶体、瞳孔などを通って進み、外部の世界へ入りこんでいく。その結果、わたしたちが幻覚において光や光学的な対象物を想像した場合に、ほんとうの光、あるいはほんとうの像が発生するのである。〈……〉こうして、わたしたちは次のような原則的な仮定をたてる。すなわち、エーテルの振動(光)を知覚することのできる器官はすべて、必要となればそれに対応するエーテルの波を呼び起こすことができるという仮定である。」

◎ゴルスキイ─変容の設計図
<このようにまだ非常に曖昧ではあるが、知覚の器官を再生産の器官に変える可能性が予感され、無意識的な性による誕生ではなく、意識的な創造によって生命形態を再生産する可能性が予見されている。(略)成熟した女性の体の特権であり、眠っているときの夢と創造的な夢想とを養い育てている磁気雲的なエロティカが、意識によって方向を与えられる。そしてこのエロティカによって、人間の肉体は世界に浸透し、変容された外部世界に光とともに進出していくのである。ゴルスキイの次の言葉はこの大胆な変容の計画を比喩を用いて総括したものである。「飛んでいる夢を見ているときに感じるように、いわば体全体がひとつの男根となれば、すなわち、皮膚全体が完全な意味でエロスを生み出す領域となり、性器の勃起が他の器官すべてに均等に広がれば、そのすべてが再生産の機能を(いまでは意識的に、すなわち互いに調整しあい、一致させあいながら)果たすようになる。この再生産とは、光の設計図(イメージ、像)を闇の混沌とした海のなかに根づかせ、この設計図を用いて無機の物質を有機的な物質に変えること、死んだものを生きたものに変えることである。」>(67頁)



 平野勝巳著『生きてゆくためのサイエンス』(人文書院:1999)に、西田幾太郎の流れをくむ「正統的な京都学派の哲学者」小林道憲氏の「生きている宇宙」(生命論的世界観)というアイデアが紹介されています。以下は、同書でも引用されている小林氏の『生命と宇宙』「あとがき」の一節。

《この宇宙は常なる生成の世界であり、純粋の活動力であり、無限の創造力である。そこに宿る宇宙の根源的意志、あるいは宇宙生命は、相互に作用する個体性の世界を通して、数限りない天体や物体や生命体として表現される。その意味では、天体も物体も生命体も、その個体は、不断に生成流転する大宇宙を映す小宇宙である。生物ばかりでなく、物体も天体も一つの生命体であり、宇宙そのものが一つの生命体なのである。かくて、本書は、「意志」「相互作用」「生成」の三概念を軸にして、現代の生命論や宇宙論を哲学的に解釈し、宇宙生命の永遠を説こうとしたものだということになる》。

 今回、チジェフスキイの「宇宙生物学」をめぐる記述を読んでいて、ふと小林氏の「宇宙生命」を想起しました。──ロシア・コスミズムと「京都学派」。この両者の似て非なる関係は、たとえばキリスト教的な生命観・時間論とインド的・仏教的な生命観・時間論の違いなのではないか、などと考えながら。

★ロシアの宇宙精神・序論─宇宙への進出[エーテル的 −10]1999.11.20

 セミューノヴァは『ロシアの宇宙精神』序論「人間の「地球上の幽閉」からの脱出」の節の冒頭で、次のように述べている。──人間(ミクロコスモス)と宇宙(マクロコスモス)との一体化の体験は、古代以後何千年もの間人々を支配してきたが、ロシア・コスミズムが登場してはじめて、人類(集団的なミクロコスモス)がマクロコスモスに向けて変革活動をはじめる必要性が哲学や科学の問題として論じられるようになった。

 たとえば、宇宙生物学の創始者であるA.L.チジェフスキイは1920年代のはじめに、地球上の生命現象が宇宙の物理的な現象とつながっていることを明らかにした。<敏感な神経節と同じように、ひとつひとつの生きた細胞は「宇宙の情報」(ヴェルナツキイの用語)に感応するのであり、「大宇宙」はこの情報を細胞のひとつひとつに浸透させているのである。>(72頁)

 また、ヴェルナツキイの教え子のひとりであるN.G.ホロードヌィは、この新しい世界観を表わす概念を「人間宇宙論 anthropocosmism 」と名づけ、人間思考の原罪ともいうべき「人間中心主義」に対置した。──そして、自ら「もっとも純粋な唯物論者」と名乗ったK.E.ツィオルコフスキイの「宇宙哲学」。ツィオルコフスキイはフョードロフとともに、人類の宇宙への進出は不可避であると考えた。

<ツィオルコフスキイの考えでは、宇宙の生命は実にさまざまな(信じられないような)形態でうごめいており、最高に完成されて高度な意識をもった不死の存在にいたるまでのさまざまな程度の発展段階にある。彼の自然哲学的な考えには特殊な汎神論的「汎心主義」を見ることができる。彼は宇宙がひとつの物質体であると考えていた。そこでは、それ以上破壊できない「原初的な市民」であり、原始的な「我」である原子が、分解されつつある死んだ体を離れて無限の旅を続けている。原子にとってほんとうの至福の生は、宇宙の不死で至高の生物の頭脳のなかではじまる。しかもそのとき、きわめて長い「非在」の期間、原子が低次の質料であった期間は、いわばまったく存在しないのである。頭脳の原子が確実に不死の至福に達することができるようになるのは、苦痛にさらされた不完全な生命形態が地球的、宇宙的な規模で消滅し、原子がそうした生命形態のなかに入りこむことがありえなくなったときである。>(76頁)

<ツィオルコフスキイは、空間と時間に対する人類のふたつの全地球的な勝利が互いに関連しあい、依存しあっているという考えが基本的に正しいことを裏づけている。実質的に不死となった生物の活動舞台となるのは、無尽蔵のエネルギー資源と物質資源をもつ無限の宇宙だけである。宇宙に飛び出すことによって、どれだけ長く続くかわからない有機体の生命活動を維持することが可能となる。同時に、根底から変形された肉体をもつ長寿で不死の生物だけが、地球外の信じられないような環境のなかで生き抜き、宇宙をわがものとし、変容させることができるのだ。……「生命の進化の過程で現れたものであり、生命の静的で最終的な発現ではない理性が有限であるということ。種としてのわたしたちが立っている進化段階には最高の形態の意識が現に存在し、わたしたちと同じ種のヒト(homo sapiens)、あるいはわたしたちに代わって登場する種の異なるヒトが、完全でくもりのないものとなったこの意識をもつようになるだとうということ。それは地質学的にすみやかに起こるはずである。わたしたちが生きている時代は精神期だからである。脳の構造が本質的に変化し、この有機体は惑星の外に飛び出すだろう。」>(81頁)

 1920年代の初めには、革命の高揚のなか、「インタープラネタリズム」(惑星間主義)と「インモルタリズム」(不死主義)──すなわち、宇宙の制服と個人の不死の実現──という二つのスローガンを掲げた「ビオコスミスト」(生命宇宙主義者)たちの運動が展開されたほか、N.A.セトニツキイ、ゴルスキイ、V.N.ムラヴィヨフなどがフョードロフの理論を受け継ぎ深めていった。しかし1930年代になると、コスミズムや能動進化の理念を掲げた人々はさまざまな迫害を受け、多くの思想家は「抑圧的な国家機構のキャタピラーに押しつぶされた」。


★ロシアの宇宙精神・序論─総括[エーテル的 −11]1999.11.20

 セミューノヴァは序論の最後で、ロシアの宇宙論的、能動進化論的な哲学と科学の特徴をあらためて強調している。それは、現在は「上昇進化」への過渡的・危機的な段階にあるという認識と、来るべき新しい意識的・能動的な進化段階(精神圏あるいは霊圏)をもたらす主体は、「進化し、創造的に自己を越えていく宇宙的な生物」としての人間、より精確には死者も含めた「人類総体」であるという認識である。

 そこでは、現代世界の基本的な創造の力である科学もまた、新しい方向が与えられる。すなわち、科学はさまざまな学を統合した「生命に関する普遍的な宇宙科学」として、明確な道徳的・倫理的基準たる究極の目的(宇宙変革という共同の事業)に奉仕しなければならないものとされたのである。

 こうしてロシア・コスミストたちは「能動進化と精神圏が論理的にも客観的にも不可避であることを立証した」と、セミューノヴァは指摘し、第二次世界大戦が始まったころ、ヴェルナツキイが日記に書いた文章を紹介している。「「野蛮化の力」は敗北するにちがいない、なぜならそれは精神圏的過程に逆らい、世界の発展の客観的な法則に逆らっているからである。」──以下、補遺として。

<ロシアのコスミストたちの理念は長い間葬り去られるか、あるいはほとんど価値のない科学・文化遺産として扱われてきた。あるいはまた、「観念的なたわごと」とか「気まぐれ」といったおどろおどろしいレッテルを貼られて、隅に追いやられていた。この二、三十年の間にようやくその復活がはじまったのだが、それはますます本格的なものになりつつある。>(85-6頁)

<ロシアのコスミズムという思想潮流は全人類的な意義をもっている。それは深遠な理論を提供し、現代だけでなく、はるかかなたの遠い未来に対しても驚くべき洞察を見せてくれる。集団的な希望、惑星的な規模の希望に地平線を切り開いてくれるような原理的に新しい思考形態が求められている今日、ロシアのコスミストたちの残したものはとりわけ人々を惹きつけるものとなるだろう。>(90頁)