ケルト的[1]
 
 
 
 

 霊性という言葉に惹かれています。
 数年前、シモーヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』(みすず書房)を読んで、ギリシャ的霊性の大成者としてのプラトンを知り、また井筒俊彦『神秘哲学』(中央公論社)を読んで、ギリシャ哲学の根底に自然神秘主義的体験があることを知りました。
 それ以来、ギリシャ密儀宗教やグノーシス主義、プロティノスの神秘哲学を経て、いま私の関心は、オリゲネスやスコトゥス・エリウゲナといったキリスト教霊性神学へとむかいつつあります。
 しかしそれと同時に、このまま神学や哲学の深い森のなかに迷いこむ前に、いましばらく具象的な表現の世界に踏みとどまっていたいとも思っています。
 
 以前、ギリシャ、ユダヤ、ケルト、日本を「表現の民」の四類型としてとらえ、これらの関係を抽象することで、そしてこれに霊性(と知性)を組み合わせてみることで、なにかしらまことしやかな理論めいたものが導きだせはしまいかと考えたことがあります。
 それはもちろんたんなる思いつきにすぎなかったのですが、いつか腰をすえて、できるものなら自分なりに展開してみたいものだと念じていました。
 とりあえず「ケルト的」という(タイトルともテーマともつかない)言葉を“霊感”のよすがに、素材の収集や覚書、読書ノートや思索の断片を記録してみようかと考えています。
 
 いつ頃からか、愛蘭土の地に憧れに似た思いをいだくようになっていました。
 ラファエル前派の絵画に描かれたアーサー王伝説に心惹かれ、ドルイドという謎めいた言葉にいたく想像力をかきたてられ、司馬遼太郎さんの『愛蘭土紀行』が出版されたときには、もういっぱしのマニア予備軍に育っていて、昨年の『ケルト美術展』とNHK人間大学での鶴岡真弓さんの装飾芸術論の講義をかかさず視聴してからというもの、こころのなかの深いところでケルト熱が(螺旋状に)うずいています。
 
 そういうわけですから、これはずいぶんと個人的な作業であり、いったいどこへ行き着くのか(それとも行き暮れてしまうのか)わからない試みです。
 
★四つの民の物語[ケルト的−0]1999.3.3
 
 その書物にはまだ名前がない。饒舌と寡黙の四つの民の物語。場所と思考と表現をめぐる紀行。それは、旅というよりはむしろエグザイル、逃走・追放・漂泊の二人のアイルランド人作家から始まる。
 
 饒舌なイオニアとアイリッシュの饒舌。これらを結ぶ線上にラフカディオ・ハーンがいる。ラフカディオとは、母の国ギリシアの島の名(レフカダ)からとられたもの。彼がやがて棄てることになるファーストネームのパトリックとは、父の国アイルランドの守護聖人の名である。
 
 ハーンはアイルランドから西へ向かって漂泊の旅に出る。古代ケルトのエグザイル(流浪)をかたどるように。まずアメリカへ、次いでフランス領西インド諸島(マルティニーク島)へ、そして極西の国日本へ。アイルランドとギリシアと日本がここで交わる。(民族学者ハーンのクレオール語の採取。小泉八雲の耳。)
 
 ジェイムズ・ジョイス。『ユリシーズ』の制作意図について、イタリアの批評家にあてた手紙のなかでジョイスは次のように書いている。これは二つの民族の叙事詩である。ユダヤ人レオポルド・ブルームとアイルランド人スティーヴン・ディーダラスの物語。ユダヤとアイルランド、そしてギリシア(叙事詩)がここで交わる。(多言語。列挙。渦巻。W.B.イエイツの「ガイアー」。)
 
 ケルトとユダヤをつなぐ媒介。(たとえばドゥルーズ/ガタリの『千のプトー』あるいは『カフカ マイナー文学のために』。)日本とユダヤ、日本とギリシア、日本とケルトをつなぐ媒介。(たとえば芥川龍之介。)
 
 ──そういう書物を僕は読みたい。
 

★四つの機能・四つの原理[ケルト的−1]1999.3.5
 
 1917年10月24日、結婚4日目の日の午後、ケルト・リヴァイヴァルの中心人物であった詩人W.B.イエイツの新妻が、突然自動筆記をはじめた。驚くべきことに、<我等がここに来たのは、おまえに詩歌の隠喩[メタファ]を教えるためである>と、謎の伝達者は彼に語りかけたのである。
 
 妻の手によって書き留められ、やがて睡眠中の妻の口を通して話されることとなった事柄をもとに、イエイツは1925年“A VISION”を著し、1937年にはその改訂版を発表した。(W.B.イエイツ『ヴィジョン』鈴木弘訳,北星堂書店)
 
 興味深いのは、イエイツに対して明らかにされた事柄の内容よりも、むしろイエイツと伝達者たちとのやりとりの方なのだが(たとえば、伝達者の一人は庭でふくろうが鳴くのを耳にして<ああしたひびきを聞くと、たいへんいい気持ちになる>といったとか、イエイツが出す質問のなかに伝達者たちの使わない用語が出てくると彼らが憤激したなど)、ここでは『ヴィジョン』の中に書き残された「四つの機能」と「四つの原理」をとりあえずメモしておくことにしよう。(これら謎めいた四組の封印の解かれる日がいつか来ることだろう。)
 
 四つの機能──意志[Will]と仮面[Mask]、創造心[Creative Mind]と運命体[Body of Fate]。意志とその対象(あるいは「あるがままの姿」と「あるべき姿」)、思惟とその対象(あるいは「認識者」と「認識対象」)。
 
<存在者が自身を独立した存在者として意識するようになるのは、「対立」と「離反」とにともなう明白な事実、すなわち、<意志>と<仮面>との情運的「対立」、<創造心>と<運命体>との知的「対立」、<意志>と<創造心>、<創造心>と<仮面>、<仮面>と<運命体>、<運命体>と<意志>の、それぞれにおける「離反」があるからである。>
 
 死後の生に密接に関連する四つの原理──外殻[Husk]、情念体[Passionate Body]、精霊[Spirit]、天上体[Celestial Body]。
 
<<精霊>と<天上体>とは、精神とその対象(統合された神の理念)をいい、<外殻>と<情念体>とは、<意志>と<仮面>との関係に相当し、感覚(衝動、心象。自身に関連ある心象を聞いたり見たりする働き──耳、目など)と、その対象をいう。<外殻>は人間の肉体を象徴的に表現したもの。《原理》は相互葛藤をとうして現実を示現するけれども、なにものをも創造しない。>
 
(以上の事柄と直接の関係はないが、イエイツは『ヴィジョン』の中でヘーゲルの『論理学』に三度言及している。)
 

★仮面の説・謡曲その他[ケルト的−2]1999.3.7
 
 大久保直幹氏は「W.B.イェイツ 人と作品」で、『アシーンの放浪』を書き続けていた当時の心境を綴ったイェイツの自叙伝の内容を紹介している。──『アシーンの放浪』はアイルランドの神話を素材にした叙事詩で、三百年間、美女ニイヴァとともに「舞踏の島」「恐怖の島」「忘却の島」からなる不老の国を経巡った後、懐郷の念にかられてアイルランドに帰り、老人と化すアシーンの物語。1886年に書き始められ、1889年に上梓された。
 
<名も知れぬ人が鑿を振るった古代の彫刻やスコットランドの民謡やアーサー王のロマンスの如く、個々の芸術家の存在が隠れてしまうような芸術を再現したいということ。感覚的、音楽的な語彙を創造し、自己の為だけでなく、中世日本の画家が其の家の遺産として自分の様式を伝えたように、後のアイルランドの詩人達にそれを残したいということ、あらゆる情熱的な人物は、歴史上の、或いは想像上の他の時代と結合しており、その時代にのみ自己のエネルギーを湧かすイメージを見出し得るという「仮面」の理論を不明瞭ながら抱き始めたこと。>(336頁)
 
 また、『月の沈黙を友として』(1918)の紹介。
 
<内容は、「人間の霊魂(Anima Hominis)」と「世界霊魂(Anima Mundi)」の二つの部分に分けられ、前者においては、優れた芸術家や聖者や英雄は自己とは対照的な自我を追及するという反対我[アンティ・セルフ]、或いは仮面の説を展開し、この説は、序の詩として据えられた「我は汝の王なり」に象徴的に歌われている。[略]
 
「世界霊魂」では、死者の霊魂の状態や遍歴、またその霊魂と生けるものとの交流を扱っている。「世界霊魂」は「普遍的精神」とか「大いなる記憶」とも呼ばれ、死者の霊魂が携えてきた前世の記憶が蓄積されたプールのようなものであり、その記憶は生を享けた人間や生物の意識下に流入し、世代世代に伝わってゆく。鳥が巣を造ることができたり、哺乳動物が胎児を形成することができたりするのも、この流入の結果であり、人に夢や幻想を見させ神話を形成させるのも、その流入である。時や場所を隔てた個々の人間が知らず知らずのうちに同じようなイメージや夢を描き、同じような想念を抱くのは、こうした一つの普遍的精神から共通の記憶が流入するからである。イェイツの比喩によれば、「われわれの日常の想念は、光り輝く広漠たる海の浅い岸辺に砕ける水沫」なのである。イェイツは、このような意識下にある共通の精神を探り当てることによって民族の文学といったような普遍的な文学を創造することができると考えるのである。これはユングの集合的無意識を想わせるようなところがある(尚、「反対我」とか「仮面」といった概念もユングのいう「ペルソナ」を想わせる)。
 
所で、死者の霊魂が自由の境地に至るためには前世の記憶を「世界霊魂」のもとへ携えてゆかねばならないが、その記憶は暫くは霊魂の外にあり、それらと合体するためには霊魂は執拗に前世の所業を追想し、生を再体験しなければならない。霊魂は単に前世の生を追想するだけでなく、その所業に罪悪を感じ、良心の呵責に苦しむことがある。霊魂は、このような追想の過程を過して、幸いにして前世の記憶をかち得ると、それを「世界霊魂」へと指し向け、自らも至福の境地へと赴くのである。われわれにとって一つ興味深いことは、追想したり、呵責に苦しんだりする霊魂の例として、イェイツが日本の謡曲の亡霊に言及している点である。>(354-5頁)
 
*W.B.イェイツ『神秘の薔薇』(井村君江・大久保直幹訳,世界幻想文学体系第二十四巻,国書刊行会)
 

★ブリコラージュ・宮澤賢治その他[ケルト的−3]1999.3.7
 
 高山宏「キャロル、イェイツ、世紀末」から。
 
<その年譜を見れば世紀末から大戦にかけての秘密結社の消長が大略つかめるほどに秘教の世紀末にどっぷりとつかっていたイェイツではあって、ネオ・プラトニズム、カバラ、タロット、降霊術、薔薇十字会、インド学と、この反世界の蒐集狂は凡ゆるヘルメス学を渉猟した。そのブリコラージュの成果が『幻想録』(1925年)である。ポオの『ユリイカ』、キャロルの『記号論理学』正続、イェイツの『幻想録』、そして世界書物[ル・リーブル]のためにマラルメが遺した膨大なノート──詩と幾何学とが分ちがたく一つになりながら、終末に断片化した世界をもう一度ブリコラージュして一個の世界解式を織りだそうとしているこれらの作品の中にこそ、僕などはモダニズムの鍵があると見ている。これらを支えている暗流は、古今東西の宇宙生成論、錬金術、アルス・コンビナトリア、数秘術、マニエリスム、つまり広義のオカルティズムであろう。モダニズムそのものが畢竟プラトンの注にしかすぎないのだ。>
 
<イェイツの創作態度は彼の所謂「断片の寄せ集め」[ピース・トゥギャザー]に尽きていて、『幻想録』にしても彼の勉強に応じて一枚のパリンプセストの如く、どんどん自己目的的に複雑精緻になっていった。ダイダロス的工学知で鎧った小宇宙[ミクロコスム]に断片を集め続けて、百科全書的な円環の内に世界を閉じるのだ。閉じた空間のいやます精緻。照応すべき大宇宙[マクロコスム]を見失った世紀末知性、「アクセルの城」の宿痾である。>
 
 鈴木建三「アイルランド的想像力」から。──イエイツらアイリッシュ・ルネッサンスの詩人たちのヨーロッパ志向とジョイスの自発的亡命(セルフ・イグザイル)等々、彼らの想像力(アイルランド的想像力)を生み出した精神構造の共通性について述べた後で。
 
<私が冒頭でジョイスのイェイツへの反逆の言葉を語ったのも、逆にこの姿勢そのもののなかに、この二人の詩人の底に流れるマージナル文化の特徴が鮮やかに読みとれるからに他ならない。/こう考えれば、シャノンの流れのほとりを歩きながら私がしきりに思い出していたのが、日本のマージナル地域、呪術とフォークロアの世界であった東北が、大正、昭和初期のヨーロッパ的なものの衝撃のなかで生み出した、言葉の異常なほどの天才宮澤賢治の、「げに人々崇むるは青き Gossan の銅の脈/わが求むるはまことのことば/雨の中なる真言なり」という言葉だったのも、あるいはそう無関係ではなかったのかも知れない。>
 
*W.B.イェイツ『神秘の薔薇』(国書刊行会)月報25[1980]
 

★日夏耿之介[ケルト的−4]1999.3.7
 
 日夏耿之介(1890〜1971)。──1912年12月、西条八十らとともに早稲田系の文芸同人誌『聖盃』を創刊(1915年6月まで全29冊)。この雑誌は八号から『仮面』と改題された。
 
 1914年3月、『仮面』同人その他と月例の「愛蘭土文学会」を開催。(一高三年の芥川龍之介もこれに参加している。後に書かれた随想「『仮面』の人々」には、早稲田の連中が「正常なる僕[芥川]に悪影響を及ぼしたことは確かだ」とある。)
 
 1917年12月、第一詩集『転身の頌』を刊行。
<凡そ、詩篇は、所縁の人に対して、実在が、そのまことの呼吸の一くさりを吹き込めたものの、或る機会の完き表現でなければならぬ。それは、選ばれたものにも儘ならぬ、選ばれぬものへの宿命的示唆である。媒霊者のない自動記書である。>(『転身の頌』序)
 
 1922年5月、訳詩集『英国神秘詩鈔』を刊行。同年発表された「全神秘思想の鳥瞰景」では次のように書かれている。
 
<あらゆる時代のあらゆる国々の神秘家は、その汎神論者風たると超越神論者風たるとを問はず、あるひは、哲学的たると神学的たるとを問はず、一切有を底流する実在を直接の体験によって認識し、神学的主理説や宗教上形式主義を斥けて、神人一如、忘我、法悦の心境に彳立することによつて福祉を感じる人々である。けれども、時と処を異にしてその特徴も亦自ら千差万別であることはいふまでもない。たとへば、神秘家の独逸的なるものと、ケルト的なるものとは、仏蘭西的なるものと西班牙的なるものとが異るが如くに異り、東方波斯白法衣派[スーフィズム:引用者註]の神秘世界は、西洋文芸復興期に栄えた神秘家の世界と、内質に多大な差別がある。>
 
 これら様々な神秘思想の源流として“Lofty Mysticism”たるプラトーン哲学にまで赴いた日夏耿之介は、プローティヌス、アウグスティヌス、ディオニシウス・アレオパギータ、そして「愛蘭の哲学者」ヨハン・スコーツス・エリュゲーナへ、さらにスコラ期の神秘家、エックハルトやヤーコブ・ベーメらの独逸神秘派、西班牙、仏蘭西の神秘道へと降っていく。
 
<英国は如何か。批評家マシウ・アーノルドがケルト文学論で述べた如く、英民族の複雑さは、テュートンとスカンディナビヤとケルトとの混血から来てゐるので、従つて英国神秘主義の特徴はライオネル・ジョンスンの云つた如く…ラテン的理想主義に偏せず、テュートン的形而上学に片寄らない「奇怪と偏畸とにみちみちた文学、情緒の微動してゐる思想の文学」の中にあり、その領土は、哲学の中よりも、宗教の中よりも、一番、文学の中、特には詩歌の中に円満に現はれてゐる。>
 
 十三世紀以後の英国詩史を概観し、「英国神秘詩人の最大なる者」ヰリヤム・ブレークやオーズオース、エミリ・ブロンテらに言及した後で、日夏耿之介は次のように総括している。
 
<近代の神秘詩は更にイエエツ William Butler Yeats (1865─)とA.E.(George Russell 1867─)に至って、かなり変形して基督教本部の神秘説以外に大乗仏教の涅槃思想や玄秘学[オッカルティズム]の神秘的一面等に深い感化を得て総じて大陸の近代神秘説と一縷の交渉を保つてゐる。畢竟するに、十九世紀の英国神秘説はあらゆる方面に分散され各方面で別種の収穫をあげたので以上の如き神秘説本部に近い詩人以外に、ニューマンやキーブル等牛津運動の一派の神秘思想はキーツよりロゼッティ一派に及ぶ芸術至上主義のそれと対立し、習慣を重んじるテニスン、宇宙的霊を信じるシェリ、篤信の女人妹ロゼッティ、夫人ブラウニング等近代思想の複雑多岐多彩な各方面の特質とわが性格の特質と相交錯した一点に立って神秘的思惟を行つた。>
 
 なお「全神秘思想の鳥瞰景」は、そのほかスヱーデンボルグ、エマスンをはじめ、ノヴァリス、ユヰスマンズ、オスカア・ワイルドらに触れている。
 
*『日夏耿之介詩集』(思潮社)
 

★芥川龍之介─「ケルトの薄明」より[ケルト的−5]1999.3.7
 
 芥川龍之介は『新思潮』第1巻第3号(1914年4月発行)に、柳川隆之介名で「「ケルトの薄明」より(イエーツ)」を発表している。これはW.B.イエイツ(1865−1939)の“ The Celtic Twilight ”(1893)から、次の三章を翻訳したもの。──以下、それぞれから任意の一節を引用する。
 
I 宝石を食ふもの[The Eaters of Precious Stones]
<其模糊たると、歴々たるとを問はず、夢は常に其赴くが儘に赴いて、我意力は之に対して殆ど一劃を変ずるの権能すらも有してゐない。夢は夢自らの意志を持つて居る。そして彼方此方と揺曳して、其意志の命ずるまゝに、われとわが姿を変へるのである。>
 
II 三人のオービユルンと悪しき聖霊等[The Three O'Byrnes and the Evil Faeries]
<幽暗の王国には、無量の貴重な物がある。地上に於けるよりも、更に多くの愛がある。地上に於けるよりも、更に多くの舞踏がある。そして地上に於けるよりも、更に多くの宝がある。太初、大塊[the earth]は恐らく人間の望を充たす為に造られたものであつた。けれ共、今は老来して滅落の底に沈んでゐる。我等が他界の宝を盗まうとしたにせよ、それが何の不思議であらう。>
 
III 女王よ、矮人の女王よ、我来れり[Regina,Regina,Pigmeorum,Veni]
<自分はそれから、精霊が人間をつれてゆくと云ふ事が真実かどうか、真実ならば、精霊がつれて行つた霊魂の代りに、他の霊魂を置いてゆくと云ふ事があるかどうかを訊ねた。「我らは形をかへる」と云ふのが女王の答であつた。「あなた方の中で今までに人間に生まれた方がありますか。」「ある。」「来生以前[before birth]にあなた方の中にゐたものを、私が知つてゐますか。「知つてゐる。」「誰です。」「それを知る事はお前には許されてゐまい。」>
 
*『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)
 

★芥川龍之介─春の心臓[ケルト的−6]1999.3.7
 
 また芥川龍之介は『新思潮』第1巻第5号(1914年6月発行)に、同じく柳川隆之介名で「春の心臓──W.B.Yeats──」を発表している。イエイツがA.B.に献じた“The Secret Rose”(1897)から「The Heart of the Spring」を訳出したものである。──以下は、死にゆく老聖者が少年に語る物語の一節と、老人の死後の少年の述懐。
 
<己は数世紀に亘るべき悠久なる生命にあこがれて、八十春秋に終る人生を侮蔑したのだ。己は此国の古の神々の如くにならうと思つた。──いや己は今もならうと思つてゐる。己は若い時に己が西班牙の修道院で発見した希伯来の文書を読んで、かう云ふ事を知つた。太陽が白羊宮に入つた後、獅子座を過ぎる前に、不死の霊たちの歌を以て震へ動く一瞬間がある。そして誰でも此瞬間を見出して、其歌に耳を傾けた者は必、不死の霊たちとひとしくなる事が出来る。己は愛蘭土にかへつてから、多くの精霊使ひと牛医とに此瞬刻が何時であるかと云ふことを尋ねた。彼等は皆之を聞いてゐた。けれども砂時計の上に、其瞬刻を見出し得る者は一人もなかつた。其故に己は一身を魔術に捧げて、神々と精霊との扶けを得んが為に生涯を断食と戒行とに費やした。そして今の精霊の一人は遂に其瞬刻の来らんとしてゐる事を己に告げてくれた。それは紅帽子を冠つて、新しい乳の泡で唇を白くしてゐる精霊が、己の耳に囁いてくれたのだ。明日黎明後の第一時間が終る少し前に、己は其瞬間を見出すのだ。それから、己は南の国へ行つて、橙の樹の間に大理石の宮殿を築き、勇士と麗人とに囲まれて、其処にわが永遠なる青春の王国に入らうと思ふ。>
 
<御師匠様は外の人のやうに、数珠を算へたり祈祷を唱へたりして、いらつしゃればよかつたのだ。御師匠様のお尋ねなすつた物は、御心次第で御行状や御一生の中にも見当つたものを。それを不死の霊たちなどの中に、お探しなさらなければよかつたのだ。ああ、そうだ。祈祷をなすつたり、数珠に接吻したりしていらつしゃればよかつたのだ。>
 
*『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)
 

★芥川龍之介─貉[ケルト的−7]1999.3.10
 
 読売新聞・日曜附録(1917.3.11)に掲載された「貉」で、芥川龍之介は、推古天皇の頃、陸奥で初めて貉が人を化かすようになった経緯を物語り、その最後に次のように書いている。──なお、引用文で言及されているイエイツの作品は「Our Lady of the Hills」である。
 
<化かすやうになつたのではない。化かすと信ぜられるやうになつたのである。──かう諸君は、云ふかも知れない。しかし、化かすと云ふ事と、化かすと信ぜられると云ふ事との間に、果してどれ程の相違があるであらう。
 独り貉ばかりではない。我々にとつて、すべてあると云ふ事は、畢竟するに唯あると信ずる事にすぎないのではないか。
 イエエツは、「ケルトの薄明り」の中で、ジル湖上の子供たちが、青と白との衣を着たプロテスタント派の少女を、昔ながらの聖母マリアだと信じて、疑はなかつた話を書いてゐる。ひとしく人の心の中に生きてゐると云ふ事から云へば、湖上の聖母は、山沢の貉と何の異なる所もない。
 我々は、我々の祖先が、貉の人を化かす事を信じた如く、我々の内部に生きるものを信じようではないか。さうして、その信ずるものゝ命ずるまゝに、我々の生き方を生きやうではないか。
 貉を軽蔑すべからざる所以である。>
 
*『芥川龍之介全集 第二巻』(岩波書店)
 

★芥川龍之介の愛蘭土[ケルト的−8]1999.3.10
 
 鶴岡真弓氏は、芥川龍之介を含む大正の文学者たちが愛蘭土に対してもった皮膚感覚的なまでの親近感をめぐって、次のように書いている。
 
<結論めいたことをいえば、芥川という大正期の作家における「アイルランド」なるものとの因縁は、この作家特有の発想に由来するものでは決してなかった。アイルランドという主題は、彼の「内面」から単性的に生まれ出たものではない。起源は「アイルランド」を対象化した大正期の政治的/文学的「図式/制度」にあった。>
 
 ここでいう図式/制度には、アイルランドを英国の対立項としてとらえる観念の図式/制度が前提として横たわっていた。すなわち、詩人の国、戯曲の宝庫としての愛蘭土への傾倒は、植民地と本国をめぐる従属と対立の政治的関係において──そしてアイルランドと日本との接合を観念することによって──浮上したものだったのであり、この意味で、いわば明治・大正期の文学者たちは愛蘭土を必要としたのである。
 
<アイルランドの演劇や詩が英文学とともにまた西洋諸国の文学とともに明治・大正の日本に自然的に影響を与え、日本人がそれを受容した、という文学史的解説は嘘で、日本人が自らもった英─愛の構図という制度/制約が、アイルランド演劇の価値を見出させ、その制度をもった彼ら自身が「愛蘭土」という意味を持ち込んだのである。>
 
 しかし、こうした観念としての「愛蘭土」をめぐる図式は、明治期にあって小国日本とアイルランドとをパラレルに見ていたものが、植民地統治に深入りしていった大正期にあっては、英─愛関係を日本─朝鮮関係とパラレルに見る視点へと逆転していたのである。鶴岡氏は、このことを菊地寛の「朝鮮文学の希望」(1924)を通じて確認している。
 
<菊地が(民族運動の先駆をなすと信じて疑わない)大正の文壇(文学)が、なぜ「愛蘭土」を必要としたのかは、ここではっきりとしている。日本の植民地政策が西洋のそれになぞらえられ正当化されねばならないとき、「愛蘭土」は「朝鮮」としてもてはやされ、あれほど頻繁に言及されたのである。詩であれ戯曲であれ日本人によるアイルランドの文学的所有は、朝鮮の領土化という思想と同じ透視図法のうえに横たわっている。菊地のいう文壇・文学は、そこで無自覚に倒立したナショナリズムになった。>
 
 それでは、芥川龍之介の愛蘭土はどうだったのか。彼もまた朝鮮=愛蘭土という図式を完全には免れていない。しかし菊地にあった「現実としての愛蘭土(への欲望)」は、芥川にあっては「詩(言葉)の観念」の領野に溶け出していったのではないか、と鶴岡氏は書いている。大正日本の「閉じられたコスモポリタニズム」という制度によって招来されたアイルランド文学をも、己の詩(言葉)の思想のなかに引き込んだのではないか、というのだ。──鶴岡氏は、このことを「貉」を通じて確認している。
 
<ここで日本の中世伝説とアイルランドの伝説とが、芥川の「詩(言葉)」と「観念」をめぐる思想において出合っている。つまり「芥川の愛蘭土」は彼のもった「言葉という観念の美しさ」のなかにみごとに溶解していったのだ。>
 
*鶴岡真弓「芥川龍之介の愛蘭土」(『正論』平成10年10月号)
 

★TEARS OF STONE[ケルト的−9]1999.3.14
 
 先日、ずいぶんと久しぶりにCDショップに立ち寄って、ワールド・ミュージックの看板がかかったコーナーをのぞいてみると、「ケルト」が他を押し退けて一等地をしめていました。噂にはきいていたけれど、昨年の『タイタニック』以来(?)ブームがピークに達しているようです。
 
 記念に一枚、勘をたよりに買い求めたのが、ザ・チーフタンズの『ティアーズ・オブ・ストーン』。リーダーのパディ・モローニによると、「世界各地で活躍する女性アーティストの深みのある歌声と伝統的なアイルランド音楽がもつシンプルな美しさを結びつけたい」という夢に向かって、三年かけて制作したアルバムだという。
 
 急ぎ足で家に帰ってさっそく聴いてみたところ、なんといきなり、女優ブレンダ・フリッカーによるイエイツの「ネヴァー・ギヴ・オール・ザ・ハート」の朗読からはじまった! アヌーナというグループのバック・コーラスも実にいい。
 
 ゲール語で(?)歌われる「ア・ストァ・モ・クリー」も最高に素敵だったし、ジャズ・シンガーのダイアナ・クラールによる「ダニー・ボーイ」も忘れ難いし、矢野顕子の「サケ・イン・ザ・ジャー」もよかったし........というわけで、いまだに痺れっぱなしの状態。これほどまでに「衝撃的な」音楽との出会いは、実に何十年ぶりといってもいいほどの出来事でありました。
 
 それにしても、僕のアイルランド音楽への「傾倒」は、U2、エンヤあたりですっかりとまってしまっていました。『ティアーズ・オブ・ストーン』の日本語版解説には、<今や音楽はアイルランド国民が世界に誇る文化遺産であると同時に大きな輸出品だ>とある。不明を恥じています。
 
*THE CHIEFTAINS『TEARS OF STONE』(BVCF-31023:BMGジャパン)
 

★白川静の講演(1)[ケルト的−10]1999.3.17
 
 今回は、ケルトとは直接の関係がない話題。
 
 京都に「文字文化研究所」があります。昭和六十二年六月の創立で、現在十二年目。二年前から白川静氏が所長兼理事長をつとめています。『字訓』『字統』『字通』の三部作を完成させ、今年で八十九歳を迎えるこの「字聖」(と僕は呼びたい)が、三箇月に一度の割合で計二十回、研究所の会員をはじめ広く一般を対象に連続講演会「文字講話」をはじめるとの新聞記事を見つけて、先日(三月十四日)その第一回「文字以前」を聴きに出かけました。
 
 何よりも白川氏の姿をこの目で見、その声をこの耳で確かめておきたかった。講演開始前の紹介では、当面、六月に第二回「人体に関する文字」、九月に第三回「身分と職掌」を予定し、第四回は来年一月に白川氏の「鳩寿」(きゅうじゅ)の祝いを兼ねたパーティ形式を計画しており、その先は未定とのこと。三百名近い聴衆のなかに紛れこんだ僕は、同じ時代に生まれあわせた幸せを実感できるのもほんとうにあとわずかだったのだと、高まる期待に胸を高ぶらせていました。
 
 壇上にすっくと立った「字聖」は、一時間半に及ぶ講演の間、張りのある力強い声で淀みなく、そして最後には熱っぽく、漢字以前の「図象」への思いと古代王朝成立過程で図象が果たした重要な役割の解明へ向けた現在の学問的情熱を語り続けました。そこには確かに古代世界が現在し、文字が生まれ出ずる臨界点のエネルギーがわきたっていました。僕はちゃんとしたメモも取れず、ただその言葉に圧倒されていたのです。
 
*「文字文化研究所のしおり」から、設立の趣旨を抜粋。
<文字文化はあらゆる種類の文化を包含しているが、わが国ではとくに中国と同様、毛筆による「書の文化」が伝承されてきた。しかし今日、文字は現代文明のなかで、実用的・芸術的・書写的等々のものが、それぞれ野放しで独走している。今一度、文字文化のあるべき姿を見直し、先人たちが残した世界の偉大な文字文化の資料を研究して、これを正しく伝えることにより、よりよい社会形成のために貢献することを当研究会の目的とする。>
 

 文字と霊性、装飾と霊性、舞踏と霊性。さらに、詩や音楽や建築などを加えて、これらをひっくるめて考えてみるならば、「表現と霊性」とでもいうべき大きなテーマが浮かび上がってくるのではないかと思います。そしてそれこそ「ケルト的」のタイトルで切れ切れの情報を脈絡なくスクラップしていく作業がめざすべき究極のテーマだったはずで、その出発点というか個人的な関心の源泉が「文字以前」の世界にあったのだということを、白川静さんの講演を聴いてあらためて確認しました。
 
 ところで肝心の講演の内容は、「字聖」の声と姿を記憶にとどめることに専念していてちゃんとしたメモを取らなかったので、ややおぼろげにしか覚えていません。(なんとか復元して、その「香り」のようなものだけでも記録しておけばよかった。)
 
★白川静の講演(2)[ケルト的−11]1999.3.28
 
 講演「文字以前」の概要。(私家版ノートからの抜粋ゆえ一部不精確)
 
1.文字が生まれるまで
 五十万年前の北京原人は言葉と火を操る「脳」力をもっていた。
 五万年前の人類は絵を描く「脳」力をもっていた。
 五千年前のエジプトで文字(ヒエログリフ)が生まれた。
 文字が生まれてわずか五千年で人類の歴史は激動した。
 
2.文字以前の口承
 ホメロス、アイヌのユーカラなど、文字以前の社会では情報は口承で詩歌のかたち(叙事詩)をもって伝えられた。
 その名残は日本の『古事記』にも残っている。(白川氏による暗唱。)
 中国で叙事詩的なものが少ないのは、早くから文字化してしまったため。
 川田順造『無文字社会の歴史』に記載されたアフリカのモシ族の事例紹介。
 
* 川田順造『無文字社会の歴史』(岩波書店:1976)から。
<モシ族の中でも、従来の推定では、最も古く王朝を樹立したといわれていた南部モシ族の、テンゴドル王の宮廷で、私が歴史伝承の採集をはじめたばかりのころのことである。王の系譜は、住民の主作物であるとうもろこしの収穫後の祖先祭をはじめ、大きな祭のときに、とくにていねいに朗誦されるが、二十一日に一度のダー・カサンガ(大きい市の日)の早朝にも、宮廷の前庭でベンダ(語り部・楽師)が朗誦するから、さしあたりそれを録音したらよかろう、と王様が私にいった。つぎのダー・カサンガの朝、私はくらいうちに起きて、まだひとけのない宮廷の前庭に行ってみた。やがて、顔見知りのベンダたちがやってきた。さしかけの下にあぐらをかき、大きなひょうたんに牛の皮を張った太鼓を、両手で調子よくたたきだした。私もすぐ録音をとりはじめたが、前奏と思われる部分があまりながくつづくので、あとの朗誦にそなえて、テープの節約のため、途中で録音をとめ、系譜の朗誦がはじまったらすぐ再開できるようにして、待ちかまえた。そうやって四十分もたったろうか、終始真剣な面持で太鼓をたたきおえると、ベンダは、ほっとくつろいで汗をぬぐい、私に、録音はうまくできたかね、というようなことを言い、それではと立ちあがって、太鼓をかついで門を出て行ったしまった。私はしばらくそこに待っていたが、まもなく夜が明けはなれて、ソグンカンバ(小姓)たちが、前庭の掃除をはじめた。年かさの小姓に、ベンダはまたもどってきて系譜の朗誦をするのか、と不自由な片言できくと、朗誦ならいますんだではないかという。私はようやく意味がのみこめたが、太鼓の音だけで、歴代の王とそれぞれの王への賛美を表わすということが、その後いろいろな機会に解るようになった。>(4-6頁)
 

★白川静の講演(3)[ケルト的−12]1999.3.28
 
 以下、講演会で配布されたレジュメ全文。(一部転記不可。図版省略)
 
 説文解字の叙に「庖犠氏のとき、天地の象、鳥獣の姿により、易の八卦を作り、神農氏が結縄、黄帝の史蒼頡が文字を作った」とある。文字以前に八卦があったという主張であるが、易の成立過程を思わせるような資料が、陶文・甲骨・金文にみえる。人は、その時代から、占に託して理念に遊ぶことを好んだのであろう。
 
 記号をしるすことは古くから行われ、彩陶(仰韶)土器(前五千年〜三千年)には、地域によって種々の記号を刻しており、氏族を区別するためのものである。記号の起源は、旧石器末期のマドレーヌ文化(下限、前一万二千年)まで遡る。石に彩色
したこれらの記号は、狩猟の成功を祈る呪術的な目的のものと解されている。
 
 より複雑な、あるいは連続した関係を示すために、結縄や絵手紙が用いられた。インカでは多くの縄にそれぞれの結び目をつけ、重要な契約関係も、織布に織り込んだ絵模様で示された。手紙も簡略な絵で理解させることができた。
 
 オリエントでは、エジプトやシュメールの聖刻文字が前三千年前に成立し、前二千年頃に民衆化した字が成立する。エジプトの聖刻文字が、一般化する過程での字形の変化は、漢字の字体変化の過程に近い。神刻文字時代の文は、文字というよりも図象に近い。固有名詞は枠で囲まれ、カルトゥーンとよばれる。
 
 記号が、特別の意象のもとに組織されるとき、図象という。それは例えば呪術者やトーテムと異なって、より広汎な社会的・政治的組織と関係をもつことがあり、殷代の図象がそれに当たる。この種類は類別にして凡そ三十種、その複合形式のようなものを併せると、ほぼ三百に近い。
 
 この図象のうちには、身分的なものと、職能的なものとがあり、たとえば*は一般の子の形と区別され、王子の身分をいう。所領のあるときはその地名を併せて、子鄭・子雀のようにいい、いわゆる身分封建の形をとる。ここに四十例をあげたが、甲骨文には八十名に近い子某がある。公孫は*形の標識を用い、その銘文例は一七◯器にも及んでいる。子某の集合体を多子、親王家の集合体を多子族という。王家を中心とするこれらの下に、おそらく各図象をもつ氏族が職能的な服属関係をもち、そこからやがて文字が成立する。図象の中には、それに文法的機能を与えれば、そのまま文字として使用しうる多くのものが含まれているからである。
 

★ケルトの眼─膨張する鏡[ケルト的−13]1999.4.4
 
 鶴岡真弓『ケルト美術への招待』(ちくま新書)「序章 ミクロのなかのマクロな世界」から。
 
<ケルト美術は、極小のスケールに極大のスケールを現出させる、「顛倒の視覚」を創造する。ある光景を想像してみるとよい。自分の頭上からも足元からも自分と相似した形が無限の連続体をつくり、遥か彼方まで続いている。気の遠くなるような自己相似の連なり=フラクタル構造は、遠近法の固定的パースペクティヴを無効にして、無限の合わせ鏡のなかに迷い込ませる。
 まさにこの光景こそ、ケルトのミクロな文様の内側に隠された構造である。小さな壷の中に大宇宙があったという中国の「壷中の宇宙」の喩えのごとく、極小世界の中にこそ極大世界が生まれていくという視覚[ヴィジョン]だ。>(19-20頁)
 
<世界の中心に「人間(像)[アンスロポモルフ]」を置き、可視的世界の親和的縁どりとしての「情景」を模倣的に描く古典的な表現者の眼は、安定した遠近法のなかでものを捉えて、そのあるべき姿の全体を“描写”しようとする。しかし三次元のイリュージョンを懐疑する北方の画家たちは、部分を細密に誇張し、それを真新しい奇怪な存在[もの]として現出させる。冠の宝石の一粒一粒、あるいは聖母の足下のじゅうたんのけばが、生きもののように立ち上がってくる。
 これは現代思想家ドゥルーズの言葉を借りれば、「遠く」から「光学的」にものを見る古典的視覚(つまり遠近法の視覚)に抗い、「近く」から「触覚的」にものをとらえようとする視覚である。装飾美術は万華鏡的な反復的ないし累乗的集合を創造する。「図」と「地」を主客顛倒させて、「地」は無限を映し出す膨張する鏡のようなものに限りなく近づく。それはまたドゥルーズのいう秩序的な「条理空間」に対する、区切りのない滑らかな「平滑空間」ということができる。中心がないこと、どこまでもずれていく視点の促し。対象を光学的に客観する視覚の無効化。ドゥルーズがセザンヌの言葉から引用しているように、「それが麦畑であることがわからなくなるほど、対象にぐっと近づく」位置で、「指と化した目」のみが触覚できる存在のカオスである。ドゥルーズは、後者(「平滑空間」)の視覚はヨーロッパ美術の歴史でみるとき、ケルト美術がひとつの源泉であるとしている(『千のプラトー』一九八一、宇野邦一ほか訳一九九四、河出書房新社)。>(22-3頁)
 
<ケルトの眼は、眼前に展開している可視の世界像(あるいは、そのように想像できる世界像)を客観化し、三次元の奥行きのなかに、その全体を統一的に再現させようとするのではなく、ものの質感や色彩やフォルムを、可能なかぎり微細・極小のなかに拡大し、“細部”の存在性を強調して、ある生成的な運動のミクロコスモスを現出させようとする。遠近法の無効によって信じられた世界像を顛倒させること、そして視覚を全体から細部へ集中させる能力によって、世界に潜む小さな[ミニアル]存在や周辺[マージン]に棲む要素が、眼前に躍り出るシステムをつくり出すこと。
 そのような意味において、「ケルトの視覚」は私たちの「視ること」、「世界像をつくりあげること」という根本的な行為に、きわめて現代的な批判の相をもちうると言えるかもしれない。>(23-4頁)
 

★平滑空間─偏位と螺旋・渦巻[ケルト的−14]1999.4.25
 
 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(宇野邦一他訳,河出書房新社:1980/1994)第14章「一四四◯年──平滑と条里」から。
 
<最も単純に、空間がどのようにして条里化の極限を逃れるかを考えてみよう。一方では、偏位によって、つまり最小のずれ、重力の垂直線と、それが接線をなす円弧のあいだにある無限小のずれによって、空間は条里化の極限から逃れていく。もう一方では、螺旋または渦巻き、つまり、頻度または蓄積、配分の法則にしたがって空間内の点をすべて同時的に把握する形象によって、空間は条里化の極限から逃れていく。このような法則は、平行線の条里化に対応する「短冊状」とでもいうべき分配とは相反するものである。ここで、最小のずれから渦巻きにいたるまで、その結果として現われるものは肯定的であると同時に必然的でもある。この二つのあいだに広がるのは、まさに平滑空間であり、偏位をその要素とし、螺旋によって繁殖するのだ。>(545頁)
 

★平滑空間─近接像=把握的空間[ケルト的−15]1999.4.25
 
 『千のプラトー』第14章から。(承前)
 
<美学モデル、遊牧民芸術。──実践的な面でも理論的な面でも、いくつかの概念が遊牧民族とそれを継承するもの(蛮族、ゴチック、現代)を定義するのに適している。まず、遠くからの像と区別される「近接像」である。それはまた、光学的空間と区別される「触覚的空間」、というよりむしろ「把握的空間」とでもいうべき概念である。把握的という言い方は触覚的という言い方よりも適切である。というのは、把握的という言葉は二つの感覚器官を対立させないで、眼もそれ自体で光学的な機能以上の機能を持つと考えさせるからである。アロイス・リーグルは賞讃すべきページを書いて、この近接像=把握的空間という対概念に、美学上の根本的な地位を与えた。とはいえここでわれわれは、リーグルによって(次にはヴォーリンガーそして今日ではアンリ・マルディネによって)提出された規準をいったん無視し、あえて一歩を踏み出して、これらの概念を自由に使ってみよう。われわれには〈平滑なもの〉こそが、近接像の特権的な対象であるとともに把握的空間(触覚だけではなく視覚にも聴覚にもあてはまる)の要素でもあるように思われる。反対に、〈条里化されたもの〉は、より遠くからの像、より光学的な像の方に依拠しているようだ──眼だけがこうした像を持つ唯一の器官だとはいえないにしても。次にここでもまた何らかの変形によって修正することが必要になる。このような変形において、平滑と条里のあいだの移行は、必然であると同時に不確定で、一瞬にしてすべてが変わるほどである。相対的に遠くから見るものだが、描くのは近くからというのは絵画の法則である。物を離れて見るのはいいとしても制作中の絵を離れて見る者は良い画家とはいえない。実は「物」についても同じことがいえるのだ。麦畑をもはや見ないこと、麦畑に近づきすぎて目印を失い、平滑空間のなかで迷わなければならないとセザンヌは言っていた。条里化はその後でも起こるだろう。デッサン、地層、大地、「幾何学という頑固者」、「世界の尺度」、「地質学的な基盤」、「すべてが鉛直に落ちていく」……。次には条里化されたものが、「カタストロフ」の中で消滅し、新たな平滑空間ができ、次にはまた別の条里空間がやってくる……。>(548-9頁)
 

★平滑空間─東方と北方の間隙[ケルト的−16]1999.4.26
 
 『千のプラトー』第14章から。(承前)
 
<この三人[引用者註:リーグル、ヴォーリンガー、マルディネ]は把握的空間を、エジプト芸術の帝国的な条件のもとでとらえている。彼らによれば把握的空間は、背景−水平線の存在、空間を面に還元すること(垂直と水平、高さと幅)、個体性を閉じ込めその変化を捨象する直線的輪郭、によって定義されるのである。このようなものが、不動の砂漠を背景に、どこから見ても平らな面を現わすピラミッドの形である。反対に彼らは、ギリシア芸術とともに(ついでビザンチン芸術、そしてルネサンス芸術まで)どのように光学的空間が生まれてくるか、明らかにする。この光学的空間は背景を形態に合流させ、さまざまな面同士を干渉させ、奥行きを獲得し、体積をもつ立体的な広がりに働きかけ、遠近法を組織し、凹凸や陰影、光や色彩を作用させるのである。だが、彼らがこうして把握的空間を見出すのは、最初からそれが変異する点において、つまりそれがすでに空間を条里化する役をになっているような条件においてである。光学的空間は、こうした条里化をより完全により細かに、というよりむしろ別の仕方で完全にし細かくするのである(これは同一の「芸術意志」ではない)。いずれにしても、すべては、古代帝国から都市国家、あるいはより進化した帝国にいたるまで、条里空間において起きているかのようだ。リーグルに遊牧民や蛮族の芸術に固有の要素を無視する傾向が見られるのは偶然ではない。そしてまたヴォーリンガーが、非常に広義なゴチック芸術の観念を導入するとき、これを、一方では北方のゲルマン人やケルト人の大移動に、もう一方では東方の古代帝国に帰しているのは偶然でない。だが両者のあいだには遊牧民が存在していたのであって、彼らは彼らが衝突した古代帝国にも、彼らが原因となった民族移動にも還元されないのだ。まさにゴート族は、サルムート族やフン族とともにステップの遊牧民の一部であり、東方と北方の交渉を可能にしていた最も重要なベクトルであり、この二つのいずれにも還元不可能なものである。一方で、エジプト帝国にはヒクソス族、小アジアにはヒッタイト族、中国にはトルコ−モンゴル族があり、もう一方で、ヘブライ人はハビル族、ゲルマン人はケルト族、ローマ人はゴート族、アラブ人はベドウィン族というように、それぞれが遊牧民とかかわっていた。遊牧民の独自性はそれがもたらした結果に性急に還元されてしまい、無視されている。遊牧民は帝国または移住民の一部にすぎないと見なされ、そのいずれかに分類され、遊牧民に固有の芸術「意志」は否定される。ここでもまた、東方と北方を仲介した者が絶対的な固有性をもつこと、仲介者、間隙が、まさに実質的な役割をもつことは否定されているのだ。そもそも彼らはこの役割を「望む」わけではない。彼らにあるのは生成変化だけであり、「芸術家になること」を発明するのだ。>(551-2頁)
 

★平滑空間─ゴチック的生命性の線[ケルト的−17]1999.4.29
 
 『千のプラトー』第14章から。(承前)
 
<ギリシアの有機的な線は、体積または空間性を従属させるものだが、これは体積や空間性を平面に還元するエジプトの幾何学的な線を継承するものである。対称性、輪郭、内と外を持つ有機的なものは、やはり一つの条里空間の直線的な座標系に結びつく。有機体は直線によって延長され、遠くに結合される。人間や顔が優先されるのはこのためである。なぜならそれはこの表現形式そのものであり、至高の有機性であると同時に全有機体と計量的空間との一般的関係でもあるからだ。反対に、抽象的なものは、ヴォーリンガーが「ゴチック的」変身と呼ぶものによってのみ開始される。ヴォーリンガーが次のように語っているのは遊牧民の線のことなのだ。この線は機械的であるが自由活動の線であり、渦を巻いている。この線は、非有機的だが生き生きしている。そして、非有機的であるからこそ生き生きしている。それは幾何学的なものとも有機的なものとも区別される。それは「機械的」な関係を、直線にまで高めている。頭部は(もはや顔ではなくなった人間の頭部さえも)連続する過程のなかで、リボンのように延ばされたり巻かれたりするし、唇は螺旋状にめくれている。髪の毛は、衣服は……。このようなリボン状、螺旋状、ジグザク、S字形の熱狂的に変容する線は生の力を解放しているのだが、この生の力を、人間は矯正し、有機体は閉じ込めている。それをいま物質が、物質を横切っていく特徴、流れ、飛躍として表わしているのである。すべてが生き生きしているのは、すべてが有機的で組織されているからではない。それどころか有機体とは生を横領するものなのだ。要するに、非有機的な、強度の芽吹く生、器官を持たない強力な生、器官をもたないだけになおさら生き生きとした〈身体〉、有機体のあいだを通過するすべてのもの(「有機的活動の自然な枠組みが一度壊されるなら、もはや限界はなくなる……」)。遊牧民芸術においては、しばしば装飾的な抽象線と動物的モチーフのあいだに、二つの相反する傾向が指摘されてきた。もっと微妙な言い方をすれば、これは線が表現特徴を統合し拉到する速さと、そのように横切られる動物的素材の緩やかさや凝固のあいだの対立でもある。始まりも終わりもない逃走線と、ほとんど不動の自己旋回のあいだの対立である。しかし、誰もが結局、これは同一の意志、同一の生成変化にかかわっているということで同意している。ところでその理由は、抽象的なものが、偶然または連想によって動物のモチーフを発生させるからではない。厳密には、そこで純粋な動物性が非有機的または超有機的なものとして生きられているからであり、そのような動物性は抽象作用にこそよく結びつくのであり、この動物性は物質の緩やかな重さと、線に属していてもはや精神的なものでしかない極限の速さとを結合しうるのである。この緩やかさは極端な速さと同じ世界に属している。要素のあいだの速度と緩やかさの関係、これはいずれにせよ有機的な形態の運動と器官の限定を逸脱するものだ。線が逃れる動きの軽やかさによって幾何学を逃れるのと、生が自分の場で渦を巻き、交替し続けることによって有機的なものから身を引き離すのは、同じことである。〈抽象作用〉に固有のこのような生の力こそが平滑空間を描くのだ。抽象線とは平滑空間の情動であり、有機的表象作用とは条里空間をつかさどる感情だったのだ。こうして、把握的−光学的、近接的−遠隔的の差異は、抽象線と有機的線との差異に従属すべきものとなり、それらの原則は二つのタイプの空間の一般的対立のうちに見出されるものとなる。そして、抽象線は幾何学的、直線的なものとしては定義されなくなる。ここから生じる問いがある。現代芸術において何を抽象的と呼ぶべきか。方向を変える一つの線、いかなる輪郭も引かず、いかなる形を限定することもなく……。>(554-5頁)
 

 鶴岡真弓さんの『ケルト美術への招待』序章に出てきた「平滑空間」という言葉の出所をたずねて、ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』のめくるめく世界へと足を踏み入れました。
 
 翻訳書が出版された日に購入して、晩酌のようにちびちびと二年近くかけて本篇571頁のうち246頁まで読み進めたところで中断していたものを、実に三年ぶりで手にしたのですが、これはもう全篇「ケルト的」といってもいい陶酔の世界(ありとありとあらゆる概念が響きあい絡まりあうポリフォニックな世界)で、何もかも放り投げていつまでも浸っていたいと思わせる力がありました。
 
 さて、今回はその第14章──滑らかな空間と区画された空間、遊牧民空間と定住民空間の対概念を、「技術的モデル」(織物とパッチワークなど)「音楽モデル」(オクターブと非オクターブなど)「海洋モデル」(ゲーテの旅とヘンリー・ミラーの旅など)「数学モデル」(ユークリッド空間とリーマン空間など)「物理学モデル」(仕事と自由活動など)そして最も多くのページを割いた「美学モデル」の提示を通じて反復的に叙述した「一四四◯年 平滑と条里」(この章名に出てくる年号にはどのような秘密が封印されているのだろうか)──の一部を読んだわけです。
 
 平滑空間は偏位を要素とし、螺旋によって繁殖する──とか、抽象線(抽象作用)とは平滑空間の情動であり、有機的表象作用とは条里空間をつかさどる感情だったのだ──とか、よくはわからないけれどもぐっとくる言葉の盛り籠のような文章が続きました。
 
 「美学モデル」に流れるセリーを抽出すると次のようになります。(平滑空間をめぐる叙述は、とりわけ装飾的抽象線と動物的モチーフをめぐる叙述は、そしてヴォーリンガーがいう北方的・ゴチック的線とは、まさにケルト美術そのものをいいあらわしているものだといっていいでしょう。)
 
◯把握的=近接像(近い)=抽象線(遊牧的線=抽象作用)=平滑空間
◯光学的=遠隔像(遠い)=具象線(有機的なもの=表象作用の形式)=条里空間
 
 次へ進む前に(といってもまだ『ケルト美術への招待』へ帰還するわけではありません)、抜き書きできなかった文章を一つ、以下に記録しておきます。(白川文字学の話題にもリンクを張ることができると思うので。)
 
<文字がいまだ存在しないか、または存在するとしても外部か隣接地域に存在するので文字を持たないところでは、線はなおさら抽象的なものになる。さまざまな帝国において見られるように、文字が抽象化の役割を担うとき、役割を失った線は必然的に具体的に、また具象的なものにさえなっていく。>(553頁)
 
★アナモルフォーズ─奇妙な遠近法[ケルト的−18]1999.4.29
 
 神崎繁『プラトンと反遠近法』(新書館:1999)。このとても魅力的な(ように思える──というのも、まだ全体を通して読んでいないので)書物から、たまたま目に止まった言葉の、前後の脈絡を欠いた抜き書き。(追記。個人的な事柄ですが、著者は僕と同郷の人で、もしかすると同じ高校で一年か二年、同じ校風に染まっていたかもしれません。)
 
<デカルトは『省察』の第六答弁で、「大きさや距離、形は、推論によって一方から他方を導き出すことによってしか、知覚されず……習慣によって、われわれはこれらを素早く推論・判断するので、というよりそれ以前の判断を想起するため、この働きを単純な知覚から区別しない」と述べる際、彼が『屈折光学』に言及しているのは、従って極めて自然なことだったのである。デカルトは、このような遠近法の事例ばかりでなく、より極端な変形を試みる「歪んだ遠近法」、つまり「アナモルフォーズ」にも接していたことは、メルセンヌの若い友人にそのような『奇妙な遠近法(La Perspective curieuse)』[1638]の著者・ニスロンがいたことによって、充分推測されることである。だが、それ以前にデカルト自身、そのような遠近法や屈折光学を利用した視覚的トリックや機械学を応用した仕掛けに、若い頃から興味を持っていたことは、『思索私記』の記述などからも明らかである。だが、これらの関心が、解析学的な後の探究と全く無関係でないことは、以上のことからも理解されよう。それは、同じく遠近法の問題に関心を持ちながら、幾何学の観点からこれを後の射影幾何学へと展開するきっかけを作ったデ・ザルグやパスカルとも、また力学的観点から遠近法的思考を「単子論」へと発展させたライプニッツとも、異なった反応を示している。しかし、このようにルネッサンスの光学的探究から発展した「遠近法」が、近世哲学を代表するデカルト、パスカル、ライプイニッツの三人の哲学者に、三者三様の影響を与えたことは、さまざまな脇役者の登場とともに、まさに「見物」[スペクタクル]と言うしかない。>(201-2頁).
 

 ヴォリンゲル[Wilhelm Worringer]著『抽象と感情移入』。原著初版の出版は一九◯八年、草薙正夫訳の岩波文庫第一刷が一九五三年。僕がいま手にしているのが今年二月に刊行されたその第三◯刷。以下に目次を転記しておきます。
 
 第一部 理論
  第一章 抽象と感情移入
  第二章 自然主義と様式
 第二部 実証
  第三章 装飾芸術
  第四章 抽象と感情移入の観点から選び出された建築及び彫刻の例
  第五章 ルネッサンス前の北方芸術
 附 録 芸術における超越性と内在性について 
 
 鶴岡真弓さんの本をはじめ『千のプラトー』にも Worringer の名は何度となく出てきました。いつかは読んでおかなければならないと思っていたこの高名な書物は、文字どおり巻を措く能わずの興奮をもたらす傑作でありました。
 
 簡にして要を得た叙述。いささかの隙なく構築された論理の織物。そうであるにもかかわらず、いやそれゆえにスケールの大きい想像力の飛翔とひりひりするような刺激(ほぼ同時期に出版されたアインシュタインの論文にも似た読後感)を与えてくれる書物。──これからしばらくこの古典的名著の世界に浸ってみることにします。
 
★抽象と感情移入─序[ケルト的−19]1999.5.1
 
 本書の意図は体系を与えることではなく、単に多くの切断面のうちの一つを示すことに限定されている。(57頁)──ヴォリンガーは『抽象と感情移入』の執筆目的をそのように述べています。あるいは、我々が試みようとするのは単に区別することだけだ(51頁)とも。
 
 ここでいわれる「切断面」(いかにもドゥルーズ好みの語彙)は、次の二つの「芸術意欲 Kunstwollen 」(『千のプラトー』にもその名が出ていたリーグルの用いた概念)の間に示されます。以下、第一部・理論篇から抜き出したキーワードの羅列。
 
◎感情移入=客観化された自己享受=個人的存在に向けられた自己放棄の衝動=古代ギリシャ的・ルネサンス的=現世人=外界に対する感覚的な確実性・親和性=擬人的汎神論・多神論=自然主義=生命の有機的な真実性への近迫
 
◎抽象衝動=抽象的空間恐怖=一般の有機的生命性にまで拡大された自己放棄の衝動=東方的(とりわけエジプト)・北方的=救済欲求をもつ彼岸的人間=存在の不可測性に対する本能的感受性=憂鬱な超越的宗教=様式(幾何学的−結晶的合法則性)の概念=人間的有機体の諸条件から離脱した純粋な自己創造・永遠化(触覚的平面)
 

★西田幾太郎とヴォリンガー[ケルト的−20]1999.5.5
 
 岩波文庫の西田幾太郎哲学論集第三巻に「歴史的形成作用としての芸術的創作」(1941)が収められていて、西田はそこでヴォリンガーを大きく取り上げています。(『抽象と感情移入』の訳者あとがきの指摘で「再発見」しました。)以下、この論文から若干の文章を書き抜きます。
 
◎抽象的衝動─美学の根本的出立点
<ヴォリンゲルは感情移入の美学と反対に、人間の抽象的衝動から出立する美学を主張する。而して非古典的な芸術をこの立場から説明するのである。しかし私はなお一層かかる考を徹底して、それを美学の根本的出立点と考えるのである。感情移入の美学も、かかる立場からでなければならない。斯くして感情移入の美学が心理学的立場を脱することができると思うのである。芸術的創作の衝動というのは、歴史的形成作用として歴史的世界の自己形成の立場から明かにせられなければならない。>(90頁)
 
◎中間に位するもの─ゴシック建築と古代北方の夢想線的な装飾芸術
<ヴォリンゲルはゴシック芸術の形成意欲を論じて……、原始芸術の幾何学的様式から古典芸術の有機的生命様式への中間に位するものと考えている。幾何学的な抽象線が形成意欲を表現している間は、芸術は超越的である。それは解脱的欲求に基礎附けられているのである。しかしかかる傾向が緩和せられるに従って、芸術はもはや単に超越的とはいえなくなる。ゴシック芸術はあたかもかかる立場に立つものである。原始芸術や東洋芸術の非生命的な無表情的な抽象線的なるに反して、ゴシック芸術の線は表情に豊に生命に充ち満ちているのである。ゴシックの形成意欲は原始芸術の如く理智欠乏的でもなく、東洋芸術の如く理智断念的でもなく、古典芸術の有機的調和が示す如き理智的でもない。無限なる生命意欲の発露である。超現実的なるものへの無限の欲求である。ゴシック建築というものは、かかる形式意欲の表現である。而して古代北方の夢想線的な装飾芸術というものが、既にかかる意義を有ったものであるという。超越的と内在的と何処までも相反する中間に、芸術的意欲というものが考えられる時、それはゴシック的なものでなければならない。而してそれが内的と考えられ、精神的と考えられる。>(172-3頁)
 
 しかし、と西田幾太郎はそこに「第三の立場」なるものを提示します。
 
◎東洋芸術─内在的方向(未来へ)と超越的方向(過去から)の中間
<絶対現在の自己限定としての歴史的世界には、いつも過去と未来との同時存在面が含まれていなければならない。過去と未来との矛盾的自己同一的なる所に、歴史的現実があるのである。作られたものから作るものへとして、未来へという方向が内的であり、過去からという方向が外的である。前者が内在的方向であり、後者が超越的方向である。東洋芸術は原始芸術と同じように超越的方向に発展したというのではなく、ゴシックと同じく中間の立場において、しかも全くこれと反対の方向に発展したものということができる。東洋芸術の精神的というのは、かかる意味においてのみ精神的である。ゴシック式の尖塔に無限の生命の表現を見るのではなく、黒楽の茶碗に天地を包むのである。>(173頁)
 
 東洋芸術はゴシックと逆の立場において精神的である、と西田幾太郎いうのです。いわく、西洋芸術は物の空間を把握するが、東洋芸術は心の空間を把握する。
 
◎塔と茶室─東洋芸術においては質量が即イデアである
<ヴォリンゲルは北方古代の夢想的な装飾線には、始もなく終もなく、中心もないというが、それは線の連続、線の形についてのことであろう。東洋画の線は固、無始無終、現実即実在の歴史的空間を把握するにあるのである、我々の自己の於てある場所を限定するのである。東洋画は、物において心を現すのでなく、心において物を現すのである。東洋芸術の線はギリシャ的に有機的でもない、然らばといってゴシック的でもない、ましてエジプト的でもない、仏即是心的である、自然法爾的である。ピラミッド、パルテノン、ゴシックの塔と茶室というものを並べて見たならば、思半に過ぐるものがあるであろう。ドヴォルシャックはゴシック建築においては必ずしも質量を排除しようとはせなかった、かえってそれをイデアの表現としたというが、東洋芸術においては質量が即イデアであるのである。東洋芸術には、彼の芸術史において、古典芸術においてと異なった意味において、自然に対する新たなる関係といっているものとまた異なった意味においての、自然に対する新なる関係というべきものがあるのであろう。>(174頁)
 
 ──『抽象と感情移入』も終えぬうちに、ずいぶんと先走ってしまいました。上記岩波文庫128-133頁に「リーグル−ヴォリンゲルの芸術論の要点」が簡潔に叙述されていて、これを読むと下手な要約や紹介などやる気が失せてしまいますが、蛮勇をふるって先へ進むことにします。
 
(東洋芸術をめぐる西田説についても、いずれ機会があれば立ち戻り、ふと頭をよぎった対概念──湯浅泰雄氏がいう西方的・西洋的な「メタ・フィジカ」と東方的・東洋的な「メタ・プシキカ」──もおりまぜながら、吟味してみたいと考えています。)
 

 芸術の発展史はあたかも宇宙のように球形なのであって、反対極をもたない極というものは存在しない、とヴォリンガーは書いています(169頁)。近代美学すなわち「自然主義」の極に対する「様式」の極。
 
 『抽象と感情移入』はこの二つのモチーフをめぐって、あたかも遁走曲(フーガ)か追復曲(カノン)のような「世界感情(=霊性?)の対位法」を華麗に奏でます。──以下、下手な要約の試みは断念して、ヴォリンガーが残したいくつかの言葉を忠実に蒐集することにします。
 
★抽象と感情移入・1[ケルト的−21]1999.5.8
 
 第一章 抽象と感情移入
 
◎模倣衝動は美学の外に立つ
 ヴォリンガーの議論は、独立した有機体としての芸術作品はその内的本質(芸術法則)において自然とは何らの関係をももたない、という前提から出発する。したがって、模倣衝動という人間の原始的な要求の充足は芸術とは何のかかわりもない。(このことは『抽象と感情移入』の全編を通じて、それも感情移入衝動に基づく自然主義、抽象衝動に基づく様式の双方に関して、繰り返し強調される。)
 
<厳密な意味で芸術といわれるものはあらゆる時代において、或る深刻な心理的要求の満足を求めたのであって、純粋な模倣衝動の自己満足やこの自然原型の模写に対する遊戯的な悦びを求めたのではなかった。>(29頁)
 
◎世界感情の凝結としての芸術作品
<芸術的要求の──吾々の近代的立場からいえば様式的要求の──心理学というものはまだ書かれたことがない。それは世界感情の歴史というべきものであろう。そしてそれはかかるものとして宗教史と同じ価値をもつであろう。私の解釈によれば、世界感情とは人間が宇宙に、即ち外界の諸々の現象に、当面してその都度見舞われる心理状態である。この心理状態は質的には心理的要求として、換言すれば、絶対的芸術意欲として顕われる。そして外面的には芸術作品として、即ちその特性が同時に心理的要求の特性であるところのものの様式として凝結する。かくて芸術の様式的発展において、種々なる民族の神統記[テオゴニー]におけるが如く、いわゆる世界感情の種々なる発展過程が読みとられるのである。>(30頁)
 
◎感情移入─美的享受は客観化された自己享受である
<感情移入の要求は芸術意欲が生命の有機的な真実、即ち一層広い意味での自然主義に傾く場合に限ってのみ、芸術意欲の前提と見做されることができるのである。吾々のうちにある有機的に美しい生命性を返してやる代償として得られるところの幸福感──それは近代人によって美と呼ばれるところのものであるが──は、あの内的な自己活動の要求の満足である。そしてこのような自己活動の要求はリップスによれば、感情移入過程の前提と見做されるものである。吾々は或る一つの芸術作品の様々な形式において吾々自身を享受する。美的享受は客観化された自己享受である。一つの線や一つの形がもつ価値は、吾々にとっては、それらが含んでいる生命の価値のうちに存している。線や形は、吾々が漠然とその中へ沈潜させている吾々の生命感によってのみその美を獲得するのである。>(31頁)
 
◎抽象衝動─異常な精神的空間恐怖から生まれるもの、対象の永遠化・純化
 上述のような感情移入の反対極が抽象衝動である。そして『抽象と感情移入』において第一義的に取り扱おうとする問題が、この抽象衝動の分析と、それが芸術発展の内部においてしめる意義の確立に関する問題なのだ、とヴォリンガーは書いている。
 
<ところでこの抽象衝動の心理的前提とはいかなるものであろうか。それはさきの諸民族が有する世界感情のうちに、即ち宇宙に対する彼らの心理的態度のうちに求められる。感情移入衝動が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としているのに反して、抽象衝動は外界の現象によって惹起される人間の大きな内的不安から生まれた結果である。またそれは宗教的な関係においては、あらゆる観念の強い超越的な調子に一致するものである。吾々はこのような状態を異常な精神的空間恐怖と呼びたい。>(33頁)
 
<混沌不測にして変化極りなく外界現象に悩まされて、これらの民族[引用者註:東方の文化民族]は無限な安静の要求をもつに至った。彼らが芸術のうちに索めた幸福感の可能性は、自己を外界の物に沈潜し、物において自己を味わうということではなくして、外界の個物をその恣意性と外見的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによって永遠化し、それによって現象の流れのうちに静止点を見出すことであった。彼らの要求は、いわば自然的関連のうちから、即ち存在の無限の変化流転のうちから、外界の対象を取出すことである。対象において生命に依存せる一切のもの即ち恣意的な一切のものから対象を純化することであり、それを必然的ならしめ、確固不動のものたらしめて、存在の絶対的価値へとそれを近寄せることである。>(35頁)
 
<そこで吾々は次の如き命題を確立する──単純な線や純粋に幾何学的な合法則性におけるそれの発展的形成は、現象界の不明瞭な混沌たる状態によって不安を感じている人間に対して、最大の幸福可能性を提供したに相違ないと。というのは、ここでは生命の複雑さと生命の依存性が僅かの残滓をも止めないままで沸拭されているからである。即ちここでは最高にして絶対的な形式、換言すると、最も純粋な抽象が獲得せられているからである。またここには法則があり、必然性があり、それ以外の場面においては有機体的恣意があまねく支配しているからである。さてしかしかかる抽象に対してはいかなる自然的対象といえども模範として役立たない。>(39頁)
 
◎自己放棄の欲求─抽象衝動と感情移入に共通するもの
 ヴォリンガーは、美的享受における両極──すなわち抽象衝動における「偉大さを減殺するものとしての自我、芸術作品が与える幸福感の可能性に対する侵害者としての自我」と、感情移入における「自我と、自己の生命を専ら自我のみから得るところの芸術作品との最も緊密な結合」──の対立は究極的なものではなく、一つの共通の欲求における程度の差(自己放棄衝動の対象の相違)にすぎないと指摘している。
 
<上述の両極が特徴づけようとするような、美的体験にかかる二元論は(略)決して究極的なものではない。かの両極は単に、すべての美的体験の最も深い究極的な本質として現われるところの一つの共通的な欲求における程度の相違であるにすぎない。即ち一つの共通的な欲求とは自己放棄の欲求である。
 抽象衝動については、自己放棄の強さは比較にならないほど大きな、そして徹底的なものである。この場合それは感情移入の欲求におけるように、個人的存在を放棄しようという衝動によって特徴づけられるものではなくして、必然的なもの、確固不動のものを観照することによって、人間存在一般における偶然的なもの、即ち一般の有機的存在に現われる恣意を放棄しようという衝動によって特徴づけられており。即ち生命そのものが美的享受の障碍と感ぜられるのである。>(43頁)
 
 感情移入による美的経験(客観化された自己享受)もまた自己放棄の衝動に基づくものである。──このような表現は奇異に思われるかもしれない。というのも、感情移入の過程はわれわれのうちにある一般的な活動意志の肯定を示しているからである。
 
<しかし吾々がこの活動意志を他の対象の中へ移入することによって、吾々はこの対象のうちに存在する。吾々が内的な体験衝動をもって外界の対象の中へ身を投じて、外的な形態の中に融け込んでおる限り、吾々はすでに吾々の個人的存在から解放されているのである。いわば吾々は個人的意識における無限の多様性に対して、吾々の個人性が一定の明確な限界の中へ流し込まれたように感じる。このような自己客観化のうちに自己放棄が存在する。(略)芸術作品が観照される場合、俗に我を忘れる(Sich-Verlieren)といわれるが、それはまさに適切な言葉である。
 従ってこのような意味において、あらゆる美的享受ばかりでなく、あらゆる人間の幸福感一般をも、人間の最も深い究極的な本質としての自己放棄の衝動に還元することは、決して大胆すぎるとはいえないだろう。
 それゆえ、その適用を一般の有機的生命性へまで拡大される自己放棄の衝動は、抽象衝動として、感情移入の欲求において現われるような、個人的存在だけに向けられるところの自己放棄の衝動に対して反対極として対立する。>(44-5頁)
 

★抽象と感情移入・2[ケルト的−22]1999.5.8
 
 第一章 抽象と感情移入(補遺)
 
◎抽象衝動─触覚の人・眼の人
<病的状態を呈せしめるあの生理的な恐場症[訳者註:神経衰弱者において見られる恐怖感の一形態で広い場所に出ると恐怖を感ずるもの (Platzangest)]との明白な比較によって恐らく吾々があの精神的な空間恐怖と呼ぶところのものが一層うまく説明せられるであろう。あの生理的な恐場症は普通、人間が自己の前に広がっている空間に信頼できないような、即ち専ら視覚印象に頼ることができなくて、まだ触覚の保証を頼みとしていたような人間の正常な発展の一段階の名残りであると解せられている。人間が立って歩むようになった当座は、即ち眼の人となった当座は、軽微な不安の感情が残っていたに相違ない。彼は慣れと知的な思慮とによって、広い空間に対するこの原始的な不安を免れるに至った。>(33-4頁)
 
◎抽象衝動─マーヤの面紗、ショーペンハウアーの美学
<東方の文化民族は彼らの一層深い世界感情によって、合理主義的意味における発展に反対し、そしていつも世界の外的現象が単にマーヤの華やかな面紗[ベール][訳者註:マーヤ(Maja)は幻影または仮象の世界の意、マーヤの面紗はその襞の中に一切の現象界の姿を見得ると伝えられる不思議な面紗]にすぎないことを知っていたからして、独り彼らだけが、一切の生命現象の不可解な混乱性を自覚しつづけていたのである。従っていかなる世界像による知的な外的支配といえども、彼らを欺瞞することができなかったわけである。彼らの精神的恐怖、あらゆる存在の相対性に対する彼らの知覚は、原始民族における如く認識以前のものではなくて、むしろ認識を越えたものであった。>(34-5頁)
 
 ──これに関連して、ヴォリンガーは「カント哲学の批判」でのショーペンハウアーの言葉(吾々が住んでいるこの可視的な世界はマーヤの造物にすぎない云々)を引用し(37頁)、また章末の註で次のように述べている。
 
<ショーペンハウエルにおいては、美的直観の幸福感は、人間は美的直観によって自己の個人性から、即ち、自己の意志から解放せられて、単に純粋主観として、即ち客観の明澄な鏡として存立するということのうちに存する。[以下『意志と表象としての世界』第三巻からの引用]>(45頁)
 
◎抽象衝動─ノヴァリスの数学的芸術観
 ヴォリンガーは、<ただ共通的な本能によって合体している無差別的な集団のうちに存する力学的な力だけが、あの最高の抽象美の形式を自己自らによって創造した。そして孤立的な個人はかかる抽象に対しては、余りにも無力であった>(37頁)と述べている。また、抽象衝動は幾何学的形式(結晶的美)を知性の介入を排した純然たる本能的創造力によって創造した(38頁)、とも述べている。──ここで、集団的力学=本能的創造力、孤立的個人=知性、と関連づけた上で、本能的創造力を数学の根底にある(と思われる)ところの「数覚」に対応させることができないだろうか。
 
<かくしてこの抽象的・合法則的形式は、それによって人間が世界像の無限な混沌状態に直面して平静をうることのできる唯一にして最高の形式なのである。数学は最高の芸術形式なりという、最初聞いた瞬間にはびっくりするような思想が、近代の美学者達から語られるのを吾々は屡々聞くことがある。それだけでなく浪漫主義的芸術論さえもがその芸術上の諸々の綱領のプログラムの中において、普通一般の曖昧な芸術的感情とは甚しく矛盾するこの一見逆説的な見解に到達していることは注目に値する。しかも、たとえばこの高遠な数学的芸術観の代表者であり、《神々の生活は数学である》とか《純粋数学は宗教である》とかいう言葉の創作者であるノヴァリスの如き人が芸術家ではなかったと敢えて断言しうる人はないであろう。ただこの見解と未開人の素朴な本能との間における本質上の相違は、《物自体》に対する未開人の感情と《物自体》に関する哲学的思弁との間に明確に存在する相違と同じものであるというにすぎないのである。>(38-9頁)
 
◎構造主義の先駆者?
 抽象的・合法則的な法則は無生物の原質(自然の原型)の写し(模倣)ではない。<むしろ、これらの法則は暗に人間固有の組織体のうちにも含まれているものであって、ただその際いかなる認識的努力をもってしても、論理的推測の域を越えることができないだけである(略)という考え方に同意する方が、吾々の思惟にとっては必然的である。>(39頁)──構造主義の先駆者としてヴォリンガー?
 

★抽象と感情移入・3[ケルト的−23]1999.5.24
 
 第二章 自然主義と様式
 
 本章のエッセンスは冒頭に述べられた言葉にほぼ尽きている。すなわち、第一章で定義を下し相互の区別を明らかにした芸術意欲(芸術感情)の両極をその所産に適用すれば、自然主義の概念が感情移入に、様式の概念が抽象衝動にそれぞれ対応する。──以下、気になる言葉の(非体系的な)抜き書き。
 
◎装飾について
<…内容的なものが事実を隠蔽することができないところの装飾において、常に純粋に現われてくるような絶対的芸術意欲は、たとえばルネッサンス時代における如く、外物を模写したり、それを現われた通りに再現したりすることに存するのではなくして、有機的に生命の充ち溢れたものがもつ線や形、その快いリズム、それの全内的存在などを、理想的な独立性と完全性において外に向かって投射し、あらゆる創造に対して、自己固有の生命感情の自由自在な活動のために、いわば舞台を提供しようとするにある。>(48頁)
 
◎文学と造形芸術
<文学的素材は専ら素材によって燃え上がる。……これに反して、美的効果は吾々が形式と呼び、その内的本質が合法則性であるところの素材のあの一層高い状態からのみ出発することができる。>(54頁)
 
◎純粋幾何学的抽象─人間的有機体の諸条件から離脱した純粋な自己創造
<外界現象の混沌として不安な変化極まりなき状態に直面して、静止点・安静の可能性、即ちいろいろな知覚の恣意性によって疲れ果てた精神がそれを観照することによって休息をうることができるような必然性、を創造しようという衝動を吾々は芸術的創作本能の出発点と見做し、絶対的芸術意欲の内容と見做したということを、第一章の論述において吾々は記憶している。この衝動はその最初の満足を純粋幾何学的抽象において見出さねばならなかった。というのは、この純粋幾何学的抽象は、吾々をあらゆる外的な世界関連から解き離して、吾々に幸福感を与えるからである。しかもこの幸福感はその神秘的な解明を観照者の知性のうちに見出すのでなくて、彼の身体的=精神的構造の最も深い根源のうちに見出すのである。安静と幸福感は、吾々が絶対的なものに直面した場合にのみ現われることができる。あらゆる生物は、その最も深い奥底において相互関連を有しているからして、いまやこの幾何学的形式はまた同時に、結晶的=無機的物質の構成法則である。しかし吾々にとってはこのような相互関係は実際には問題とならない。むしろ、幾何学的抽象の創造は人間的有機体の諸条件から離脱した純粋な自己創造であったということ、またこのような幾何学的形式が結晶的形式の法則、広義においては、機械的な自然法則一般と近似的に合致しているとおうことは未開人には知られていなかった、少くとも創造の動機とはならなかった、ということが推測できる。それはすでに述べたように、純粋な本能的創造と思われる。……ここでもまたあらゆる精神的関係はその肉体的意味をもつということが承認されねばならない。>(58頁)
 
◎空間は一切の抽象的努力の敵である
<物を結合し、物の個体的完結性を否定し、もやもやとした大気で充たされている空間は、物に時間的価値を与え、物を現象の宇宙的転変の中へ引き摺り込む。従ってここでは何よりもまず空間はかかるものとしては個体化されないということが問題となる。/それゆえ、空間は一切の抽象的努力にとって最強の敵となる。>(62頁)
<空間的描写の回避と、深さの関係の抑圧は、描写の平面への接近、即ち描写を高さと幅への延長に制限すること、という一つの同じ結果を齎らすこととなったのである。>(63頁)
 
◎重要なのは表象であって知覚ではない
<…芸術意欲の本質は自然原型をその質料的な個体性において知覚することではなくして──何故ならこのことは実際に物の周囲を廻って、それに触れてみることによって可能となるであろうから──それを再現すること、換言すれば、集合体や、純粋視覚的過程が示すようないろいろな知覚要素の時間的継次や、これら知覚要素の複合体などから、表象にとって全体的なものを獲得することである。重要なのは表象であって、知覚ではない。>(63-4頁)
 
◎現世人=理想的なギリシャ人と彼岸的人間
<汎神論や自然主義において満足を見出す人は現世人である。世界像の内部において外面的に彼らを定位せしめるところの悟性に対する彼らの信仰もまた存在の現実性に対する彼らの信仰と同様に、極めて強い。かくて一方の生新な合理主義──精神に対する信仰──は精神が思弁をやめ、或は超越的なものへ関わりをもとうとしない限りで、他方の感覚主義と結合する。感性と知性とが世界像の中で信頼に充ちて並行的に進行し、あらゆる《空間恐怖》を撃退しているところのこのような現世人として、吾々は恐らくかの純粋なギリシャ人を、換言すれば、彼らが血統的に有する一切の東方的要素を終に沸い去って、しかもまだ新に東方的=超越的傾向によって冒されていない範囲で考えられるような理想的なギリシャ人を、念頭に浮かべることができるであろう。
 東方人にあっては、世界感情の深さは、即ちあらゆる知的な支配を嘲る存在の不可測性に対する本能的感受性は、一層大である。そしてそれに反比例して人間的自覚は一層小である。従って東方人の本質の根本的希求は救済欲求である。この欲求は東方人を宗教的関係においては、二元論的原理によって支配された・憂愁な超越的宗教へ導き、芸術的関係においては、ひたすら抽象へ向う芸術意欲へ導く。彼は合理主義的=感性的認識の貧弱さを常に意識して変ることがない。このような彼岸的人間に向ってギリシャ哲学は何事かを語りえたであろうか。>(71頁)
 

 感銘を受けた書物からの抜き書きは、読後の微熱につつまれているうちに一気にやってしまわないと駄目です。少なくとも僕の場合、関心事が刻々と「進化」してしまって、ひとつのことに夢中になれるのはせいぜい一月たらずです。
 
 造形美術に関していえば、いまはジンメルの美学にすっかりはまっています。とりわけ、ゲーテ形態学の「現代」的展開ともいうべき、美学的形象をめぐるジンメルのエッセイ群は、造形美術の原理を論じて社会と個人の関係にまで説き及ぶスリリングな思想細片に満ちていて、とても興奮させられます。
 
 僕はまえまえから、美学と組織論をひとつの視点(たとえば霊性?)でもって「統合」するような学問的ジャンルがありうるのではないか──それはもうすでに存在していて、ただ僕が知らないだけなのかもしれないけれど──と思っていました。
 
 かのマックス・ウェーバーから「素人」と呼ばれた社会学者でもあるジンメルの作品には、そのような存在と認識と表現(実践)が一体となった、新しい「詩学」ともいうべき営みへの手がかりが、まるで宝石箱のようにちりばめられていると思うのですが、これはまた別の話題です。
 
(ちなみに、いま述べたような視点から僕が持続的な関心を寄せている思索家として、ベンヤミンをあげることができます。そしてベンヤミンとジンメルをつなぐ人物がゲーテなのです。──すべてはゲーテにたどりつく!)
 
 そういうわけで、ヴォリンガー『抽象と感情移入』からの引用作業──そして先に見ておいたドゥルーズ/ガタリや西田幾太郎の所論との比較作業──は、第一部「理論」を終えた段階で中断して、当初の予定(?)どおり鶴岡真弓さんのテキストへと帰還することにします。
 
★抽象と感情移入・拾遺[ケルト的−24]1999.6.6
 
 第二部「実証」からの任意の抜き書き。
 
◎<装飾の本質は、その中に一つの民族の芸術意欲が最も純粋に、最も明澄に表現されているという点に存する。>(77頁)
 
◎芸術は自然主義的形象からはじまったのではなくして、装飾的=抽象的形象からはじまった。<芸術的欲求の最初の始原は、感情移入を一切拒否するところの線的=無機的なものへ迫っていくのである。>(82頁)
 
◎<人間が芸術の中へ移し入れるものは、植物の形象でなくして、それの形成法則であった。>(86-7頁)
 
◎<…その過程についていえば、純粋装飾即ち抽象的形象が後になって自然主義化されたので、自然物が後になって様式化されたのではないということになる。(略)…原初的なものは自然原形ではなくして、それから抽象させられた法則である>。(87頁)
 
◎<紀元後一世紀においてヨーロッパの北方全体を風靡した組紐模様の装飾様式に関しては、この装飾が純粋に線的にして無機的な基礎に立っているにも拘わらず、吾々はそれを抽象的装飾と呼ぶことを躊躇する。むしろ吾々は、この線の紛糾のうちに不安な生命を見逃すわけにはゆかない。(略)即ち不安な感情を抱いてその運動に服従することを、吾々に強要するところの強力な狂躁的な生命が現存するのである。即ち無機的な基盤の上に興奮的な運動、興奮的な表現が存するのである。ここに中世期の北方全体にとって決定的な定型が生まれる。ここに後に至って──今日なお見られるような──ゴシックにおいてその頂点にまで達する要素が存するのである。>(107頁)
 
◎<有機的なものを無時間的な圏内へ高めそれを永遠化するために、非有機的なものの法則の救いを求めることは、あらゆる芸術の、わけても造形芸術の一つの法則である。>(119頁)
 
◎<ヘレネ的=有機的伝統とかの初期キリスト教的=東方的な抽象的影響との間の動揺がビザンチン芸術の発展史を形成している。そして最後にイスラムの暴力的な進攻によって、非古代的な抽象的要素の勝利をもって対決が終るに至ったのである。この全時代を通じて、芸術意欲の発展は極端な・飛躍的な・矛盾的な仕方で、あたかも痙攣を起しているときのような状態で進行する。>(130-1頁)
 

★抽象と感情移入・拾遺(承前)[ケルト的−25]1999.6.6
 
◎<ゴシックの伽藍を見ると、それの内的構造が有機的に生けるものであるか、それとも抽象的なものであるかという疑問が吾々を混迷に陥れる。>(143頁)
 
◎<物質はそれ自身の機械的法則に従うだけでなく、これら自己の法則と共に、有機的生命感の溢れた芸術意欲に従属する。それに反してゴシック伽藍においては、物質は自己自身の機械的法則によってのみ生きる。ところがこの法則は、その抽象的な根本的性格にもかかわらず、生命的となっているのである。換言すると、それは一つの表現を獲得したのである。(略)それは人間にとっては、もはや決して死せる抽象ではなくして、生ける力の活動なのである。(略)四方八方から迫りつつ、力強い漸強音[クレシェンド]のうちに天空に遡りゆかんとする・諸々の機械的な力のこの交響楽の陶酔に囚われて、彼[引用者註:北方人]は至幸の眩暈のうちに痙攣的に天上に曳かれていくかのように、或は自己自身を越えて無限界へ上昇するかのように感ずるのである。単に和やかな有機的な運動における均整的な・あらゆる陶酔に反するような平静へ沈潜することによって、あらゆる幸福を得ようとする調和的なギリシャ人から彼はいかに遠く隔てられていることであろうか。>(149頁)
 
◎<ゴットフリート・ゼムペルはこの生ける機械の不気味さを甚しく感じた。そこで彼はこのゴシック様式を石造りのスコラ哲学と名づけた。>(150頁)
 
◎<吾々はすでに、北方の芸術意欲の抽象的傾向が衣文の様式において、これらの傾向の守本尊にまで高められたことを確証した。極めて芸術的に描かれた襞の語法をもつ衣文は身体に対して独自的存在を獲得した。即ちそれは独自的に一つの有機体となったのである。そして変化もまたこのゴシック的な語法の範囲内において行われた。(略)イタリア=ルネッサンスの印象のもとにおいて同時に身体もまた有機化され、リズム化されたことによって、過程は複雑となってきた。従ってついには、身体と衣文とは、同じ種類の音であるにもかかわらず、あたかも二つの別々の管弦楽団が他の音を打消そうとするように相互に競うようになった。吾々がゴシック的バロックと名づけ、その代表物を主として南ドイツにおいて見出すところのゴシックのあの発展段階において、衣文の音楽は集合して一大交響楽となり最後の高調子のフィナーレに迫っていった。(略)この後ルネッサンスの進歩した理解は、身体と衣文とのあの二重効果を排除した。身体が基調となり、衣文は基調に付随する副次的現象となった。ゴシック衣文の様式の響は止み、その最後の記憶は北方の芸術的創作において消えてしまった。(略)
 ここにおいて、線装飾のはじめから後期ゴシックのはち切れそうな脹らみに至るまで続いた長い発展が終るわけである。ルネッサンスが、偉大な自然性が、偉大な民主主義が、はじまる。あらゆる不自然性は──これは抽象的衝動によって制約されたあらゆる芸術的創作の特徴であるが──消失する。ゴシックと共に最後の《様式》は死んでいく。この不自然性のうちにある一切のものを大体感知した人は、ルネッサンスが生んだ新しい幸福の可能性を悦ぶにもかかわらず、この有機的なものの勝利、自然的なものの勝利によって、驚くべき長い伝統を通じて神聖視されてきた価値が永久に失われてしまったことを、深い悲みをもって、いつまでも忘れないであろう。>(157-9頁)
 

★抽象と感情移入・補遺[ケルト的−26]1999.6.6
 
 ヴォリンガーが『抽象と感情移入』の最後で述べていた身体と衣文の関係は、ジンメルが「額縁──ひとつの美学的試み」(北川東子編訳/鈴木直訳『ジンメル・コレクション』ちくま学芸文庫所収)でとりあげた絵画と額縁の関係に、類似しつつ微妙に異なったところがあるように思うので、以下(後の検討のために?)ジンメルの所説を概観しておく。
 
◎ジンメルは、額縁が芸術作品に対して果たしている役割は、境界のもつ二重機能(外に向かっては無関心と自己防衛を、内に向かっては統一的結束を同時に実行する)を象徴化し強化することだ、と書いている。つまり、芸術作品は額縁によって隔離されることで、水に囲まれた島のような位置を世界(自然)に対してもつことになる。──<だから額縁には一カ所でも、世界からの侵入口、あるいは世界への脱出口となりうるような隙間や架け橋が構成上存在してはならない。>(117-8頁)
 
◎絵画が神への奉仕という目的や宗教的体験のなかに取り込まれていた時代には、額縁は固有の有機的生命と重量をもつ建造物だった。ところがやがて芸術が、芸術以外の領域からの支配を脱出するようになると、額縁はたんなる枠としての機能に特化していく。つまり、機械的で図式的な「様式」へ。──<文化発展はけっして、個々の要素が機械的、外面的な形式から有機的生命力と固有の意味をもつ形式へと発展していくとはかぎらない。むしろ逆なのだ。精神が存在の素材をより大規模な、より高度な形態へと組織化していけばいくほど、それまでは固有のまとまりをもち自分自身の理念を体現する生命力を保っていた無数の建築物が個別要素へと格下げされ、より大きな関連のなかで機械的な作用を及ぼすだけのものとなる。そうなるとこの関連だけが理念の担い手となり、個々の要素はたんなる手段と化し、固有の存在としての意味を失っていく。>(124-5頁)
 
◎中世騎士から近代軍の兵士へ、自営職人から工場労働者へ、自治都市から国家のなかの都市へ、自家生産から貨幣経済下の労働へ。そして──それ自身ひとつの全体である芸術作品が、同時に自分をとりまく環境とのあいだで統一的全体を作り上げなければならないという矛盾した要求を課せられている「現代」にあっては──額縁もまたひとつの有機的構造をもつ建造物から、それ自身では意味をもたない形態(様式化された枠)へと「進歩」していかざるを得ない。
 
◎芸術作品と環境のあいだを分離しつつ相互に媒介していくという課題を担った「現代の額縁」のシンボリズム。──<たがいに並立し、相互に独立し、自己充足した存在からひとつの包括的な機構が生み出されると、個々の存在は、いわば自らの魂と独立性をこの機構に差し出し、かろうじてこの機構のなかで機械的に機能する手足として、自らの存在の意味をとりもどす。>(125頁)
 

 先日、近所の図書館で『ケルト 伝統と民俗の想像力』(中央大学人文科学研究所研究叢書8,中央大学出版部:1991)を見つけました。──インターネットで遊んでいてその存在を知り、オンラインで注文できる気楽さからつい衝動買いをしかけたところ、はたと理性が働き手元不如意ゆえ思いとどまったのは、ついせんだってのこと。(買わずにおいてよかったと思う反面、もしも自腹を切っていたならば、本が届いてから少なくとも一週間くらいは心豊かな日々を過ごせたろうにと思った。)
 
 英文学、西洋古典、哲学、キリスト教史、神話学、北欧語、美術史、音楽、日本思想史といった「ケルト文化研究」チームに参加する異分野の研究者十二名の五年にわたる研究発表とディスカッションの成果。目次を眺めているだけでもわくわくしてきます。──以下は、とりあえず読んでみたいと思っている三つの論文の著者とタイトル。
 ◯月川和雄「ドルイドとギリシア・ローマ世界」
 ◯鶴岡真弓「ケルト美術の装飾性」
 ◯熊田陽一郎「ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの思想」
 
 これらの文章に接するその前に、鶴岡三部作(と、僕が勝手に呼んでいる)書物をひととおり概観しておくことにしておきましょう。まずはやりかけのままだった『ケルト美術への招待』(ちくま新書)の再読から。──と思ったのですが、再びその前に、これもまた以前インターネットで遊んでいたときにみつけた文章を、今回は丸ごと引用しておきます。
 
 付記。以下の文章に出てくる「ケルズの書」は、ダブリン・トリニティカレッジのHP[http://www.tcd.ie/kells.html]に収録されている。
 
★トリニティ−・カレッジ図書館[ケルト的−27]1999.7.20
 
「トリニティ−・カレッジ図書館(アイルランド)」/経済学部助教授 亀山幸枝/和歌山大学附属図書館報「あさも」第17号(1996.8.1)[http://dbs.lib.wakayama-u.ac.jp/moku17.html]所収
 
<アイルランドの首都ダブリンにあるトリニティ−・カレッジは、ヨ−ロッパの中でも古い歴史を持つ大学である。1592年、エリザベス女王の勅許を得て、アイルランドのイギリス人子弟のための高等教育機関として創設された。
 大学は、ダブリン市街のど真中、アイルランド銀行本店の向かいに、石造りの、厳めしい正面を構えている。どういうわけかこの門は、大部分が塞がれていれ、歩行者だけが通行できる木戸のような入り口を通って出入りするようになっている。どこか中世の城門を思わせる。この門をくぐり抜けて大学構内を望めば、左手に礼拝堂とダイニング・ホ−ル、右手に劇場と、堂々たる石造りの建物がならぶ。正面に見える鐘桜の向こうには芝生が広がっている。ライブラリ−・スクエアという名をもつその芝生の右側に沿って細長くのびているのがオ−ルド・ライブラリ−である。さらにその奥には、新図書館バ−クレ−・ライブラリ−が控えている。
 オ−ルド・ライブラリ−は1712年から1732年の間に建てられたもので、現存する大学の建物の中で最も古い。内部は現在一部公開されていて、1階には貴重書の展示場とギャラリ−、売場が設けられている。海外からダブリンへやってくる観光客の多くが、このトリニティ・カレッジを訪れるが、その目当てはオ−ルド・ライブラリ−で保存・公開されている『ケルズの書』なのである。
 『ケルズの書』は8世紀から9世紀初頭にかけて作られたとされる新約聖書の装飾写本である。スコットランド西岸のアイオナ島の修道院で製作が始まったが、バイキングの侵入により製作者たちはダブリン北郊のケルズ修道院に避難し、そこで完成されたといわれている。各章の扉絵および本文の文字が精緻なケルト文様(複雑に入り組んだ組み紐状の文様)で飾られており、その見事さはいつまででも見飽きない。
 この写本はその後もケルズの地にとどまっていたが、17世紀なかば、クロムウェル軍のアイルランド遠征に伴いアイルランドが混乱に陥ったとき、ダブリンに移され、その後現在の場所に落ちついた。
 オ−ルド・ライブラリ−のもう一つの見どころはロング・ル−ムと呼ばれる書庫である。東西に細長い3階建ての2・3階を吹き抜けにした構造で、長さは65メ−トルある。南北の壁面には窓が規則的に並び、窓と窓の間の壁と直角に、書架が櫛の歯状に取り付けられている。中央部分はゆったりとした通路である。上下2階分の書架の、上の方の書物をとるために長い梯子が備え付けられいる。照明器具はいっさい見あたらなかったが、部屋のぐるりを取り囲む窓からの明かりで、書庫内は光があふれていた。
 ロング・ル−ムは当初10万冊の書物を収容できるよう設計されたという。これを満たすには100年あまりかかったが、1850年代に満杯になって2倍の20万冊の収容力を持つよう改造された。その大きな書庫もとうに一杯で、現在ではもっぱら古い貴重書の収納に当てられているようだ。非公開の部分は監獄を思わせる鉄格子で守られていて、職員が鉄の鎖についた大きな錠前をジャラジャラいわせて書物をさがしに入っていった。学生たちがふだん利用するのは近代的なパ−クレ−・ライブラリ−の方である。
 トリニティ・カレッジは重厚なイギリス風の由緒ある大学である。国際的にも知られている。しかし現在のアイルランドにあって、いささか奇妙な立場にあるようだ。そもそもイギリスの女王によって、イギリス人およびイギリス系アイルランド人のために作られて以来、この大学はダブリン城に陣取る総督府とともに、イギリスによるアイルランド支配の牙城であり象徴であった。教員も学生もまずイギリス国教会への服従の誓いをたてることが求められ、すなわちカトリック教徒たるアイルランド人は排除されていたのである。
 1922年アイルランドがアイルランド自由国として独立するとともにトリニティ・カレッジはアイルランドの大学となった。名実ともに、とはなかなかいかないようである。それはいまだにアイルランドとイギリスの複雑な歴史の象徴なのかもしれない。>
 

 いま、今泉文子著『ロマン主義の誕生』(平凡社選書:1999)を読んでいます。副題は「ノヴァーリスとイェーナの前衛たち」で、著者のあとがきによると、文学・思想現象を「物語」として語ってしまうこと──ドイツ「初期」ロマン主義を若々しい精神の運動として物語風に描いてみること──への誘惑と抵抗のせめぎあいのなかで書かれたとのこと。魅力的な叙述に引き込まれ一気に読み切ってしまいたくなるのを抑えながら、心と頭に文章が染み込むように少しずつ読み進めています。
 
 ドイツ・ロマン主義という、このとてつもない深さと広がりと高さをもった「文学・思想現象」については、いつか機会があれば別の場で(ベンヤミンかヘーゲルに関連づけて、あるいは「エーテル的」の方で)じっくりと腰をすえて取り組むことにして、ここでは、『ロマン主義の誕生』の次の一節を目にして、ふと思いついた仮説(というより妄想)をメモしておきます。
 
<一七八四年、増えつづける家族を養うため──すでに七人の子供がいた──、父親[ノヴァーリスことフリードリッヒ・フォン・ハルデンベルク男爵の父親]は、ザクセン選帝侯領の製塩所監督官の仕事につく。/製塩所はザーレ川とその支流に沿ったケーゼン、デュレンベルク、アルテルンの三カ所にあった。デュレンベルクのそばにすむことがこの役職の条件で、翌年、一家は同じくザーレ川にのぞむ小都ヴァイセンフェルスに移住する。>(63頁)
 
 ここから連想されたのが、次の二つの書物に書かれた文章でした。(その一とその二との間には飛躍がありますが、実はそこに「妄想」が介在しているわけです。)
 
 その一。鶴岡真弓著『ケルト美術への招待』(ちくま新書:1995)から。──同書序章(26-7頁)に出てくる地図「ケルト美術の世界(前5世紀からローマに征服されるまで)」と『ロマン主義の誕生』(14頁)に掲げられた「関連ドイツ地図」とを見比べながら。(十八世紀末、ノヴァーリスとフリードリッヒ・シュレーゲルが運命の出会いを果たした地、ドイツ・ロマン主義発祥の地は、「大陸のケルト美術」前期を象徴するハルュシュタットのほぼ真北に位置している!)
 
<オーストリア西部、ザルツブルクの東南およそ五◯キロメートルの山中にあるハルシュタットの村は、ハプスブルク家が管理した「塩の御領地[ザルツカンマーグート]」の中心地として栄え、いまも塩の産地として知られている。「ハル」とはドイツ語の「ザルツ」に当たるケルト語で、「塩」を意味し、「塩[ハル]」のつく地名はハライン、ハル、ラインハル、シュヴェビッシュ・ハルなど、他にも現在のドイツやオーストリアに散在している。その村が一九世紀半ば、ケルト考古学の名祖として有名になった。一八四八年、塩山の監督官ヨハン・ゲオルク・ラムザウアーが古代の墓所を発見し、一八七六年からウィーン科学アカデミーの本格的発掘調査が行なわれた結果、そこが紀元前七◯◯年頃に遡る鉄器文明の担い手、ケルト人の遺跡と断定されたからである。>(35頁)
 
<塩はヨーロッパ人にとって、今日も魚や食肉の保存などに欠くことのできない貴重なもの。氷河を戴くホーヤー・ダッハシュタイン、標高三◯◯◯メートル余の山稜を背後にしたハルシュタットは人跡未踏の秘境であったが、ケルト人はそこに「白い宝石」=塩を嗅ぎつけ、バルト海産の琥珀とアドリア海両岸のワインと交換されて、南北に「塩の道[ソルト・ロード]」を通じさせたのだった。>(39-40頁)
 
 その二。三島憲一氏は『ベンヤミン』(講談社:1998)で、<ある意味では、ドイツ観念論やロマン派の思想とユダヤ神秘主義のもはや見えなくなっていた関係を、ベンヤミンほど見抜いていた人はいないと言える>(122頁)と書いている。また、<ドイツ観念論の究極のバリエーションとしてのロマン主義とメシアニズムの両者が決して無縁ではないことをわからせてくれるのが、ベンヤミンの博士論文[『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』]である>(135頁)とも。
 
 以下、妄想です。──ドイツ・ロマン主義において、イサーク・ルリア由来のカバラ神秘主義と深い関係を取り結ぶこととなったドイツ語圏の「自然哲学系の思想」(三島前掲書120頁)、そしてその淵源をなすヤーコブ・ベーメ由来のドイツ神秘主義とは、実は古代ケルト世界を鼻祖とするものなのではないか。
 
 あるいは、フリードリッヒ・シュレーゲルの「無限なるものへの憧憬」とは、プラトンのイデアへの憧れであったと同時に、いやそれ以上に、実はエトルリアやギリシア美術の「自然主義」への反発としてのハルシュタット美術(鶴岡前掲書51頁)を、そしてまた古典古代的「人間像[アンスロポモルフ]」に対する古代ケルト的「渦巻人間」(同56頁)を生み出した「装飾的思考」、すなわち(ギリシアとヘブライのアマルガムたるローマ世界の前についえさった)「北方の視覚」(同20頁)への先祖返りだったのではないか。
 
 もしそうであるならば、ここにもまたケルトとギリシャとユダヤの「三位一体」を見てとることができます。──いまひとつの「三位一体」とは、いうまでもなくジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』。ドイツ・ロマン主義ととともに、眩暈を覚えずには想起できないジョイスの世界へと、鶴岡氏の著書をアリアドネの糸としてたどりつく前に、やりかけのまま放置していた作業を(やや強引に)完了させておくことにします。
 
★大陸のケルト・島のケルト(1)[ケルト的−28]1999.10.2
 
 鶴岡真弓著『ケルト美術への招待』序章(25-30頁)から。
 
<「ケルト美術」とは、ケルト語を話す文化集団が、彼らの最初の文化の中心地であった中央ヨーロッパで、文明のリーダーシップを発揮していく紀元前七◯◯年頃(第一鉄器文化の開始)から、のちにゲルマン=ローマに追われてたどりついたアイルランドなどの極西の島嶼地方で花開かせた初期キリスト教文化の時代(七─九世紀)までに創造された美術をさしている。これは、青銅器時代の終わりと鉄器時代の幕開けからキリスト教時代までの一六◯◯年間にわたっている。つまり、異教からキリスト教時代へ、古代から中世への時間軸[スパン]を貫く。>
 
 この「壮大なケルト文明の時間」と「彼らが移動・定住したヨーロッパの広大な空間」を俯瞰しつつ、鶴岡氏はケルト美術を以下の二つに大別している。
 
(1)大陸のケルト美術 東は小アジア、ボヘミア、西はガリア(フランス)やイベリア半島まで、大陸を東西に横断するケルト人の美術。青銅器、鉄器、黄金、銀など、「優れた冶金師ケルト」の金工品の数々によって幕を開ける。前期にハルシュタットとラ・テーヌの鉄器文明(前700−前200年)の美術を、後期にローマ化したガリア(前200−後100年)のガロ=ローマ美術をもつ。
 
(2)島のケルト美術 アイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、マン島、ブルターニュ、北イングランドに展開する、前[プレ]キリスト教時代(前300−後400年頃)と初期キリスト教時代(500−900年頃)の美術。大陸のケルト美術の中世における再生[ルネサンス]。後者は、本山ローマに対抗するほどの力をもった「ケルト修道院」文化の精華である、「装飾写本」の芸術が中心となって展開した。ケルト教会のシンボルとも言えるケルト十字架、精緻なケルト文様を施した祭具や世俗の装身具の金工品も、装飾写本に勝るとも劣らない高度な芸術性を示している。
 
 そして「第三のケルト美術の黄金期」。
 
<古代や中世の黄金時代から一◯◯◯年を経過した十八世紀末に、ケルト文化への関心がヨーロッパに湧き起こり、アイルランドを筆頭にしてケルト民族のアーケオロジーが始まる頃、ケルトの「意匠[デザイン]」は復活した。神話・伝説を掘り起こした文学との交流を通じて、ケルト美術の表象が、近代のケルトの造形美術のなかに再建されていった。この活動は、ケルト文化圏のアーツ・アンド・クラフツ界に流れこんでいる。本書が第三のケルト美術の黄金期として、近・現代の美術を位置づける理由もそこにある。>
 

 ドイツ・ロマン主義をめぐる補遺。──富岡幸一郎氏は『使徒的人間』(講談社:1999)で、十九世紀のロマン主義的観念哲学のなかで形成されたシュライエルマッハー由来の「宗教概念」と、カール・バルトの「神の言葉の神学」あるいは「イスラエルの神学」とを対比させて論じています。
 
 まず「宗教概念」について。──シュライエルマッハーは「人間の精神に内在する永遠なるもの」としての宗教的心情について語り、そこから「人間中心の文化神学」をつくりあげた。<十九世紀から二十世紀への神学の潮流は、人間精神の分析と個人の宗教意識の探究となり、近代ヒューマニズムの次元で中世的な神人同形論がくりかえされることになった。神は人間学の対象とされ、天は地の反映となった。>(48頁)
 
 次にバルトの神学について。──バルトが行ったのは「神学の哲学化・人間学化にたいする批判」(149頁)であり、その<神学は、「信じるために知解する」哲学的人間によってではなく、この信仰[クレドー]の本質によって呼び出され、召喚された者、すなわち使徒的人間による思考である。/それはいいかえれば、自分が探究されていることを知って、探究することへと呼び出された者たちの思考である。自分自身が思考の対象となっていることを知ることで、思考へと呼びさまされることである。そこでは、つねに大いなる対象から問いかけられることで、はじめて問うことが可能となる。>(155頁)
 
 仮説あるいは「妄想」(ドイツ・ロマン主義におけるケルト・ギリシャ・ユダヤの「三位一体」)をめぐる補遺。──ドイツ・ロマン主義における「無限(=神的なもの?)への憧憬」は、やがて有限(人間)から無限(神)へと至る不可思議な通路を「精神[ガイスト]」のうちに、つまり「内面」に見出すこととなった。
 
 これに対してバルトの「イスラエルの神学」は、人間と神との間に無限の距離を設定し、そこに「存在の究極[エクスタシー]としての救済の光」(富岡前掲書58頁)を「呻き=憧れ」とともに待ち望む使徒たちを見出した。(富岡氏は『使徒的人間』四章で、使徒パウロの『ローマ書』で通常被造物の「呻き」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「憧れ」のニュアンスもあることを紹介している。)
 
 そしてケルトの「装飾的思考」あるいは「北方の視覚」は、不可視の超越的な存在(無限)を抽象的な「かたち」(有限)のうちに──決して「内面」のうちにではない──可視化し、そこに人間や動物や植物といったすべての存在が変容し連動する「無限空間の感覚」(鶴岡前掲書20頁)を表現した。
 
★大陸のケルト・島のケルト(2)[ケルト的−29]1999.10.2
 
 以下、『ケルト美術への招待』からの抜き書き。
 
<グリフォンなりスフィンクスなりのオリエントに生まれた動物文様は、ケルトの工人の手によって渦状・蛇状のフォルムに変えられ、翼や顔や体は、極度にデフォルメされている。おそらく多くの人々の眼に、それはグリフォンともスフィンクスとも映るまい。それは竜か蛇、いや「何か動物様のもの」として現われ出ている。奇怪でデモーニッシュな名をもたない「かたち」である。
 
 単一の意味に包摂しえないそうしたモチーフとして際立っているのが、奇怪な「貌」ないし「人頭」である。
 器物や武器、ワイン壷の取っ手や、刀剣の柄、戦車の付け金や装身のピン、まったく唐突に現れ出る人面は、初期ラ・テーヌ美術[引用者註:紀元前五〜四世紀初頭。ヤコブスタール『ケルト美術』[1994] での様式区分]の中心地ラインラント地方とチェコ・スロヴァキア地方に数多く分布する。ヤコブスタールはこれらを「獣面または仮面」と呼んだ。
 その代表作は、ケルト展[一九九一年春、ヴェネツィアで開催された『ケルト人──始源のヨーロッパ』展]のポスターにも使われた作品だろう。チェコのブルノ=マロメリツェの墓から出た、ワイン壷の覆い飾りと推定される青銅の装飾(前三世紀)の中心部には、いわゆる「世にも恐ろしい動物の仮面」(テリファイイング・アニマル・マスク)がかたどられている。この装飾は一見すると網状の線の交差になっていて、上方には、鳥のトサカのようなものが付き、先端には、動物の蹄のようなかたちも現われている。私たちはこの装飾品を、統一的に「何々を表わしたかたち」と呼ぶことができない。人面らしくもあり獣面らしくもあり、面貌でありながら躯の部位をもっている。それは人や動物の「顔」として特定できない、名無しの両義的な「貌」なのだ。>(81-2頁)
 
<私たちは『ケルズの書』の装飾に、ラ・テーヌ時代以来、ケルト美術が貫いてきた技法[メチエ]の極みを見る。そしてこの極められた装飾のミクロコスモスに執拗にくりかえされる「変容」の構造的テーマというものを見る。事物をつねに変化する相のもとに捉えるという観念は、美術をこえて、変身のテーマによって彩られ、此岸と彼岸の時空を易々と行き来する超自然の存在(神霊や妖精)が活動するケルト神話と響き合うことに気づかされる。>(212頁)
 
<…二十世紀の初頭にドイツの美術学者W・ヴォリンガーは、「装飾芸術」を北ヨーロッパの民族に特徴的な表現であることを見出し、それを、具象美術に圧倒的な信を置く地中海世界の「古典美術」に対置させて、古典美術にのみヨーロッパの視覚芸術の源を辿ろうとする歴史観に修正を迫った。北方ヨーロッパの美術は、人像中心主義[アンスロポモルフィズム]の外部にあって、造形表現から「人間=人像」を後退させ、動物や、自然・宇宙の奥から見えてくるかたちを表わそうとしてきた。北方の風土のなかに生きる人々は、厳しい外界と親和的関係を成立させることの不可能性のなかで、逆に「可視的現世の描写」ではなく「不可視的異界の想像的構成」を行ってきたとヴォリンガーは考える。その美術はもともと可視の世界には存在しないものを描こうとするために、古典の眼からみれば、歪んだ形象、名まえをもたない抽象の美術となる。
 しかしそのかたちは、見えざる自然の諸力への畏怖の感情を孕みつつ、人間存在をはるかにこえた存在の力を視覚世界に呼び寄せようとしている。その抽象のかたち[フォルム]そのものに、超越的な力が宿ることを希うのだ。
 ケルト美術の性格は明らかにこの北方ヨーロッパの美学を力強く支えているだろう。文様という異形美の創造によって、ケルトの人々は、秩序[コスモス]の格子を揺さぶるかのように、存在のおおいなる連動を幻視するのである。>(215-6頁)