ベンヤミン・ノート[2]
 
 
 

 ベンヤミン読解の作業から撤退して、はや一年近く経ってしまいました。
 初期の断片的作品からはじめて時系列に沿って主要な作品を読み解きながら、同時に『パサージュ論』の膨大な引用の森に分け入り、そこからなにがしかのアイデアを引き出してみせることで、ベンヤミンという「高次元多様体」を切開していきたいとの(壮大な)思いだけが先行して、力量が伴わなかった結果の撤退でした。
 
 それとともに、ベンヤミンの作品群は、年代記的な時間の枠組みを自在にすり抜けて、ある不可思議の回路を通じて相互にリンクを張りめぐらせた(おそらく10+1ぐらいの次元数をもった)「ハイパーテキスト」を形成しているのであって、個々のエッセイの、それも時系列に沿った読解の積み重ねなどといった迂遠な方法では到底たちうちできない、との「直観」がなさしめたものでもありました。
 
 そういうわけで、しばらく時間をかけてじっくりとテキスト群を「熟読玩味」し、脳髄と身体のすみずみにまで「ベンヤミン菌」を繁殖させてみよう──と思ったところまではよかったのですが、持続的緊張はいったん解除するともう歯止めがききません。昨年の六月から現在までは、それでもお前はまだベンヤミンを読みたいのかという問いを自らに問う冷却期間になってしまいました。
 
 前置きはこれくらいにして、それでは作業を再開しようと思います。
 作業といってもそれは、ベンヤミンへの関心は真正のものだった(真正の「ベンヤミン菌」保持者だった)と得心したうえは、読み解かずんばおくものかの野心をすてて、心静かにたんたんと孤独にその文章の魅力と磁力に身をまかせ、折にふれて思うところがあればこの場に報告するといった気楽なもので、「ベンヤミン論」の試みなどからはほど遠い「ベンヤミン・スクラップ」の類にすぎません。
 
【ベンヤミンと中野重治(1)】1999.3.28
 
 ミリアム・シルババーグ『中野重治とモダン・マルクス主義』(1990:林淑美他訳,平凡社1998)「序章 中野重治を救済する」から。
 
<一九二◯年代の日本の文化的移行は、大量生産、大量消費、大衆政治という全世界的な新たなる転換の一部だった。この年月の間に、マルクス主義はヨーロッパにおいて、文化的象徴と文化的制度のもつ力に直面した思想家たちが革命の遂行に際しての意識の役割を再評価するにつれて、その方向を転換しつつあった。この過程から姿を現しつつあった新しい正典的著作は、「西欧マルクス主義」という項目のもとに分類されてきた。本書の以下の記述では、中野による大正文化のマルクス主義的批判は西洋の主要なマルクス主義文化理論による定式化と並べて置かれることになるが、それは彼の変化したマルクス主義が、ジョルジュ・ルカーチ、バルター・ベンヤミン、アントニオ・グラムシらの理論家によって図示された新しい方向と強い類似性を帯びているからである。>(13頁)
 
<考察される一◯年の間に中野が書いたものは変化したが、それはまた連続性によっても特徴づけられている。都市、写真、そして社会的行動における対話の中心的役割は大正年間の中野にとって一貫した関心であり続けたが、この時期、国家はすべての対抗的文化表現を黙りこませようとしはじめていた。ドイツの同時代人バルター・ベンヤミンのように、中野重治は資本主義文化における生産者としての芸術家の位置に関する理論を定式化した。そしてベンヤミンの十九世紀のヒーロー、ボードレールと同様に中野は「社会的詩人」であって、姿を現しつつあった都市の光景のなかで群衆とわたり合っていた。しかし中野の文化にたいするアプローチはまた同時代人ミハイル・バフチンを思い出させもするのであり、それは中野がバフチンと同様に、ひとつの同時代的な瞬間に共存する多様な諸言語の間の関係がもつ社会的意味を重要なものとしたからだ。バフチンの自らのヒーロー、ドストエフスキーにたいする言葉は同じように中野重治にもあてはまる。>(13-4頁)
 
<中野によれば、歌は、歴史的な行為者たちが社会的・経済的構造のうちで文化の新しい形を生み出すがゆえに、変わる。替え歌(changed song)は歌を変える(changing song)という能動的な過程を含意している。この文脈において彼は、歴史的・社会的に生み出された幾つもの声の間でなされた論争の歴史的過程を暴きそのことによる革命的な変化の促進のために、大正期日本のさまざまな声を演じなおすことを選択した。>(15-6頁)
 

【ベンヤミンと中野重治(2)】1999.4.3
 
 『中野重治とモダン・マルクス主義』「第三章 歌その一 歴史の発見」から。
 
<中野は、日本資本主義の分析を商品流通のシステム内部の位置から展開する。なぜなら、彼は自身を一人の生産者であると見なすからである。彼の労働は物を、つまり新聞や雑誌などの媒体を通じて転売される文学的文章を、自分が再生産しまた生産物を売ることのできる先例のない文化的状況において生産する。芥川もまた芸術の大量生産という問題を提起し、自らをジャーナリストと呼んだ[「文藝的な、余りに文藝的な」]が、中野重治が歴史を発見し歴史意識を概念化したことを救済しようとするこの試みでの重要な対照点は、中野がルカーチの歴史の定式化が設けた理論的限界から脱していたことである。彼は現在に向けて批判を集中させる用意ができていたのである。この現代文化批判を構成する詩とエッセイは、ワイマールの批評家バルター・ベンヤミンの位置と共振する。ベンヤミンもまた一九二◯年代の後半から一九三◯年代はじめの資本主義のシステムにおいて、作家は「文学的生産者」になったという偶像破壊的な信念を自らのものとしていた。>(129頁)
 
<ベンヤミンと中野のマルクス主義は、おそらく同じ源から発している。というのは一九二四年にベンヤミンは『歴史と階級意識』を読み、その意識に関する理論と彼自身の結論との類似性に衝撃を受けたからである。ルカーチの「歴史的発展の内部にある変形力に富む物質的力としての意識」という理論は、この二人の知識人に変革の理論を提供したが、しかし現代文化の考察においては、二人はともにルカーチから逸脱した。ベンヤミンは文化的複製に関する理論を創り出し、中野の詩は詩的形式においてこの過程を捉えた。この二人のマルクス主義者の間に接触があったわけではない。そうではなく、彼らの仕事の場であった都市の資本主義文化の現実が、二人の思想家に、マルクスが『資本論』で述べた商品と社会的諸関係の再生産に関する理論を越えて、それぞれのジャンルと言語で文化の再生産について書くことを可能にする素材を提供したのである。この新しい資本主義的現象が新たな理論と新たな詩を要求していたのである。マルクスとルカーチは歴史と変革の理論を提供したが、この理論をベンヤミンと中野が未来に向けて開いている革命への寄与と見なす、書くことの実践へと変換するために、彼らは現在についての自分たち自身の洞察力に依拠しなければならなくなるのだった。>(130-1頁)
 

【ベンヤミンと中野重治(3)】1999.4.18
 
 『中野重治とモダン・マルクス主義』「第四章 歌その二 大正文化の再生産」から。
 
◎一人の批評家・二人の詩人─都市のヒーローと群衆
<若い中野重治は多くの点で、バルター・ベンヤミンによる彼の十九世紀パリという都市の主人公[ヒーロー]、ボードレールの性格づけに合致する。ベンヤミンの「社会詩人」と同様に、中野は素早く自己を都市に適応させ、そののち「まったく幻想をもたずに文学市場を観察した」[引用社註:「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」]。二人の詩人はどちらも地下に潜り、また急いで詩を書くことを強いられた。そうしてどちらも身をやつした。ベンヤミンは、ボードレールは結局どのような信念によっても動機を与えられなかったので、近代の主人公として役割を演じることを選んだのだと主張した。だから彼は遊民として、無頼漢として、ダンディとして、屑屋として姿を現すことができた。中野の素人で「素樸な人」という構えは、より偽装に近くより首尾一貫していたが、おそらくそれは、ベンヤミンが描くボードレールの素早い「革命的宣言」の放棄とはっきりと対照をなすひたむきな政治的目的が前提とされていたからであろう。
 
 ボードレールに、詩のなかで被抑圧者を後援させもし、彼らの幻想を繰り返させもした「根深い二重性」に、ベンヤミンは批判的であったかもしれないが、ボードレールが歴史的転換の一時機に都市という新しい現象が出現することの重要性を認識していたことも認めていた。この群衆は今にも、あらゆる情報を規格化された新聞紙へ加工する商品文化のなかの読者大衆へと変身させられようとしていた。ベンヤミンによれば、ボードレールはこの変化のもつ重大な意味に気づいていた。ベンヤミンのボードレール研究において、都市は商品と群衆を生産する、性的に刺激する場所として現れた。その点で、ベンヤミンはマルクス理論に群衆の歴史的出現という概念を加え、農業人口の都市プロレタリアートへの変換という背景においてマルクスの階級分析を展開した。ベンヤミンは新しい形態の交通機関――バスや鉄道や市街電車――に乗っている都市の住民たちがより長い間その場限りの道連れである人々を見つめることを余儀なくされるとき、耳よりも眼の活動が優位になりはじめる、というように、人々の関係が都市の生活によっていかに変えられるかということを検討しようと思った。しかし街路の上での共存がこの理論家の主要な関心事であり、そしてボードレールが「恋愛者の生活」という脈絡において群衆を提出したために、ベンヤミンは彼のなかに抒情詩のための新しい主張として群衆を用いた詩人を見出したのである。ベンヤミンにとって群衆は、火事やまたおそらく交通事故の現場で、街路上の空間を共有する私的な個々人のただの集合にすぎない。それは、「市民経済の偶然性が人々を集結させる」がゆえに、それぞれ別個の欲求を満たすためにたまたま集まる市場の顧客に似ている。ばらばらにされた通行人たちの群れに魂を与えるのが、第二帝政期のパリの街路をぶらつく遊民の役割なのである。
 
 ベンヤミンの遊民は群衆から離れ群衆を観察するが、それに反して、ボードレールの遊民は、表面的には、群衆に、そして商品のもつ人を陶酔させる誘惑に身をまかせる。しかし実は、ボードレールの遊民は、都市の興奮が束の間のうわべだけの輝きにすぎないことを認識しながら、それに魅了されてもいるのである。都市はまた、中野重治にとっても、歴史を発見する前にも後にも畏怖を起こさせる魅力をもっていたが、彼は、ボードレールの主人公になるには批判的でありすぎたし、ベンヤミンの悠然たる批評家になるには性急でありすぎた。>(161-3頁)
 

【ベンヤミンと中野重治(4)】1999.4.18
 
 『中野重治とモダン・マルクス主義』「第四章 歌その二 大正文化の再生産」から。(承前)
 
◎「仁丹的文章」と二人の批評家
<一九二六年に、中野は、日本の伝統文化の商品化という見解を「ポール・クローデル」において明らかにした。一九二七年には「帝国ホテル」が、商品文化の超国家的な本質を提出し、そして一九二八年には芥川に関するエッセイ[引用者註:「芥川氏のことなど」]の結びの数節において、中野は文学者が資本主義市場における一人の行為者であることを明らかにした。その翌年に、彼は非プロレタリア的な有力雑誌『新潮』に文学的商品についての明白な暴露記事を発表した。>(167頁)
 
 ここで言及されている中野の文章「文章を売ることその他」の一節。
<留置場では病気になっても薬を買つてくれない。ただ仁丹なら買つてくれることもある。それが「毒にも薬にもならないから。」仁丹が一般に広く売れるのはこの重宝な性質のためである。たぶん仁丹のような文章はよく売れるのであろう。それらの文章は仁丹くらいには効くであろう。そして私は、仁丹の効用に絶大の信頼を置いている。>
 
<ベンヤミンの論文[引用者註:「複製技術の時代における芸術作品」]は、中野の大正期の著作ではほとんど触れられることのなかった媒体、映画のもつ力に焦点をあてたものだが、しかし、ベンヤミンの議論は日本の文化の歴史的変容に関する中野のメッセージを裏打ちしている。一九二◯年代中頃の中野の関心は、ベンヤミンの、革命後の無階級社会のもとにある芸術よりむしろ「現在の生産条件のもとにある芸術の発展傾向」を分析するという選択と一致していた。両者はともに、将来への計画よりも現在についての理解が革命を遂行する力になり得ると考えた。彼らはともに過去の効用に目を向けた。礼拝の対象という本来の状況から引き離された古代ギリシャの彫像が、中世においてどのように「不吉な偶像」として扱われたについてベンヤミンが論じたとき、彼は『ブリューメル十八日』でのマルクスによる文化の論じ方に自らのアウラの理論をつけ加えてもいれば、また「ポール・クローデル」や「帝国ホテル」で述べられた中野の文化の再生産についての考え方を例証しつつもあったのである。二人の批評家はともに時代遅れの伝統から芸術を解放することを支持した。二人はまた、映画と写真のもつ革命的な潜在能力と、こうした芸術形式の操作が浸透してゆくことに鋭く気づいていた。さらに中野は、知識人は生産過程の内部に身を置くべきだというベンヤミンの要請に応えた。中野は、生活のために文章を売っているということを明らかにしたが、しかし、革命的出版物と大手出版社の出版物の双方に発表された大衆市場向けの評論や小説、詩の生産を通して、文化領域のうちで自らの革命的エネルギーを発揮しようという彼の決意は、技術のもつ革命を遂行する潜在能力を彼が認識していたことの証明である。文章を売ることに関するエッセイでの彼の結論は、仁丹的文章のうちで真実を追究する以外にないという告白と、そうした文章において真実を追究することの喜びを表現することをやめなければならないという主張とから成り立っており、彼が大量生産される言葉がもつ両刃の性格を意識していたことを示していた。一九二◯年代末の数年の間、彼は評論と詩のなかで芸術の政治化を擁護することになるが、しかし、一九二六年から翌二七年にかけて、……、中野は、ベンヤミンの方程式の最初の部分を強調した。彼の詩は、政治の耽美化と、マスメディアにおいて文化という名のもとに歴史と政治が均質化されることを攻撃した。中野は仁丹文化という概念以上に、マスメディアの影響力についての現実的な理論を散文の形式では展開しなかった。しかし、この比喩が「文章を売ることその他」に現れた一九二九年には、彼は、ベンヤミンが「最初の革命的な複製手段」とよんだ写真による複製技術の濫用を記録する一連の詩を書いていた。>(170頁)──以下、次回。
 

【ベンヤミンと中野重治(5)】1999.4.18
 
 『中野重治とモダン・マルクス主義』「第四章 歌その二 大正文化の再生産」から。(承前)
 
◎写真をめぐる詩(その1)
 中野重治が一九二六年『驢馬』に発表した「新任大使着京の図」。(ここに描かれた「新任大使」とはポール・クローデルのこと。)
<その男の写真が今朝百の新聞に現れた/妻と娘とを連れ/警官と俗吏とに取りまかれて/何をする気で彼は居るだらう/こゝで又々嘘を吐[つ]かれるのは誰のためだらう/それらの嘘の通り道はどこだらう/それらの嘘の我々へのひゞき具合はどんな風だらう//その嘘吐き男の写真が/妻と娘と警官と俗吏とに取りまかれて/今朝百の新聞に一せいに現れた>
 
<中野と同様に、ベンヤミンは、ある種の写真映像や、絵入り新聞のなかで説明文をつけられ商品化された写真に興味をもっていた。二人ともフォトシャーナリズムが説明文を使用することによって意味を伝えるという前提から考察した。それゆえベンヤミンは、次のような規定をもって写真を政治に貢献させた。「われわれが写真家に要求するものは、自分の写真に、それを当世風の商売からもぎとり革命のために役立つ価値を与える説明文を付与する能力である」[引用者註:「生産者としての作家」]。中野の詩でいえば、表題の「新任大使の着京」が、本当が嘘つきである一人の男を即座に名士に仕立てあげることのできる説明文である。それはまた、写真の発明に続く商品の増大の一部として有名人が出現するというベンヤミンの理論を例証している。この詩は、新聞がその市場拡大のためのひとつの宣伝形態として、「詩人大使」という商品をつくりだしたという申し立てであった。そして新聞は報道価値のある存在をつくりだすことができるのと同様に、言葉と映像の商品化を促す資本主義文化に疑義をはさむために本来は生まれた思想を横奪することもでき、これが、ベンヤミンによって何よりも明確に主張された問題であった。>(173頁)
 

 これまで、ベンヤミンについて立ち入って叙述された箇所を中心に『中野重治とモダン・マルクス主義』を抜き書きしてきました。やや生硬な訳文ゆえ意味のとりにくいところもありますが、ベンヤミンの批評活動が展開された当時のヨーロッパの文化状況を大正期日本のそれと重ね合わせながら、中野重治という、今日ではマイナーな存在となった文学者の思想的軌跡を追い、その「救済」を図るという刺激的な書物でした。
 
 引き続き「ベンヤミンと幸田露伴」といったテーマで、近代日本の思想家・文学者とベンヤミンとの比較をやってみたいと予定をたてていました。たとえば、岩波文庫にも入っている露伴の都市論=首都論や言語論とベンヤミンのそれとの比較検討などは、魅力的な作業になるのではないかと予想していたのですが、ささやかなリサーチの結果、適切な参考文献が見当たらなかったので、あえなく断念。(以前、唐突に思いついた「ベンヤミンと三木清」とともに、後の宿題にとっておくことにします。)
 
 付言。『中野重治とモダン・マルクス主義』に幾度かバフチンの名が出てきたこともあって、「ベンヤミンとバフチン」というテーマにも心惹かれるところがあるのですが、この際、戦線はなるべく一点に絞ることにします。
 
【ベンヤミンと中野重治(6)】1999.4.18
 
 『中野重治とモダン・マルクス主義』「第四章 歌その二 大正文化の再生産」から。(承前)
 
◎写真をめぐる詩(その2)
 中野重治が一九二七年『プロレタリア藝術』に発表した「新聞に載った写真」の抜粋──冒頭と末尾から。(ここでいう写真とは、1927年4月16日付東京朝日新聞夕刊第一面に「上海総工会の会合を包囲して家宅捜索をなす日本陸戦隊」のキャプションとともに掲載されたもの。)
 
<ごらんなさい/こつちから二番目のこの男をごらんなさい/これは私のアニキだ/あなたのも一人の息子だ/あなたのも一人の息子が 私のアニキが こゝに このやうな恰好をして/脚絆をはかされ/思い弾薬嚢でぐるぐる[引用者註:原文は反復記号]巻きにされ/タマを込めさゝれ/つけ剣をさゝれて/こゝに/****会の壁の前に[伏字箇所は「上海総工」]/足を踏んばつて人殺しの顔つきで立たされて居る/……/愛する息子を人殺しにされたことの前に/愛する息子をあなたと同じく人殺しにされた千人の母親たちが居ることの前に/愛する息子を腕のなかゝらもぎ取られ/そしてその胸に釘を打ち込まれた千人の母親たちの居ることの前に/そしてあなたはその中のたゞ一人でしかないことの前に/母よ/私とアニキとのたゞ一人の母よ/そのしばしば[引用者註:原文は反復記号]する老眼を目つぶりなさるな>
 
<ベンヤミンが作家に写真家になれと要求したとき、彼の読者に書き手になれという訴えと同様な申し立てをおこなったのである。[引用者註:「生産者としての作家」]これは中野が「新聞に載った写真」でおこなったことである。彼は、母親に、この表題のない写真に母親自身の説明文を書くという過程の手引きをするなかで写真を組み立てた。真の目的は、しかしながら、文学者を写真家にすることではなく、母親と同じ思いの読者に新聞の写真に意味が与えられなければならないことを教えることである。アラン・スクーラは、サン人の女に彼女の息子の写真を見せたある人類学者の体験を述べることによって、どのようにして「写真を「読む能力」は学習されるか」ということを説明している。この写真が息子の姿であることを母親がわかるために、その社会科学者は各細部を切り離して、母親に写真を「読んで」やらなければならない。これは上に引いた詩において、作者が母親に、彼女が新聞で見ることのできた写真報道をつくりなおす機会を与えるときに、語り手が果たす役目である。作家は、写真が実は、隠されていることを眼に見させる大写しであることを彼女が理解するのを助ける言葉を与えるのである。
 
 リヒトバルクが一九◯七年に書き、ベンヤミンが一九三一年に引用した「われわれの時代ではどんな芸術作品も、自分自身、身近な親類や友人、恋人などの肖像写真ほどには、注意ぶかく眺められることがない」というその同じ洞見に拠って、中野は母に、息子の顔を間近によく見るように懇願する。ベンヤミンが「写真小史」で、人間の顔の写真複製がどのようにその性質を変えてきたか、そしてその結果顔の写真は、もはや最終的には匿名の選ばれた少数の人々の精細な真に迫った肖像ではなく、写真の社会的かつ政治的脈絡の細部を理解するための手段であるということを跡づけることになる四年前、中野は、その母の息子である人殺しの表情に焦点を合わせて大写しにし、そして母に同じことをするように促す。中野は、彼女がその写真を見ている他の無数の母と違わないように、この一人の人間がいかに他の千人と違わないかを明らかにするために、息子を身近に感じたい母の思いを利用する。この点にもベンヤミンの理論はかかわっている。機械的複製に関するベンヤミンの複製概念によれば、現代の大衆は対象を近づけたいと願い、その結果、写真のうちから独特なものや類のないものを探し求めることができるが、しかし写真を使った新聞や雑誌における複製もまた特殊なものを普遍化する。ベンヤミンによると、「今日人々は、あらゆる状況の一回性を、それを複製することによって克服したいという思いと同じくらい、ものを自分たち自身に近づけたい、あるいはさらに大衆に近づけたいという情熱的な思いをもっている」。中野はこの二つの思いを母に求めたのだ。>(182-3頁)
 

【ベンヤミンと中野重治(補遺)】1999.4.26
 
★針生一郎×宇波彰「文化の相互理解をどう進めるか」(富士ゼロックス『グラフィケーション』No.102[1999.4]所収)
 
<針生 最近、『中野重治とモダン・マルクス主義』という本の翻訳がでましたが、そこでは中野重治とベンヤミンを結び付けている。
 宇波 ベンヤミンとバフチンも結び付けていますよ。同時代だと言って。
 針生 そう言われれば、それに通じるところがないことはない。
 編集部 著者は誰ですか。
 宇波 ミリアム・シルババークというアメリカ人です。日本にも、バフチンと三木清を結びつけようとしている、佐々木寛という信州大学の先生がいます。>
 
★石堂清倫「僕は、グラムシを支持するようにこの本を支持します──『中野重治とモダン・マルクス主義』を読む」(平凡社『月刊百科』[1999.4]所収)
 
<シルババークさんは、非常にいいことを言っていると思うんです。それはこういうことだと思うんです。マルクスは若いとき『聖家族』を書いていて、僕は学生のとき訳したことがあるんですが、戦後もういっぺん訳し直して岩波文庫から出した。その中でマルクスは、プルードンが言っていることをブルーノ・バウアーの一派が批判するのに対して、プルードンを擁護するんです。「もしエドガール氏がフランス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうところを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであろう……」。これをグラムシが何度も引用しているんです。それに似た論理を、シルババークさんが採用していると思うんです。グラムシが獄中ノートで、そこのところを引いて、プルードンがフランス語で言っていることと、カントやヘーゲルがドイツ語で言っていることは、同じ対象を意味しているんだ、プルードンの言葉は観念哲学の言葉に、観念哲学の言葉はフランス語の社会主義運動に相互翻訳できるんだ、ということを繰り返し言っているんです。カントは神様の首をはねた。同じことを、ロベスピエールは、国王の首をはねることで実現している。非常におもしろい論文で、これをシルババークさんに送ろうと思うんです。あなたの言っていることは、グラムシはこういうふうに表現しています。僕はグラムシを支持するようにあなたを支持します、と。中野重治は、文学の言葉で言っているわけだけれども、日本の国民の思想を変革の道に導き入れていくために、彼がもっとも妥当だと思う言葉を選んで書こうとしたのが、中野の詩であり、小説であり、評論だと思うんです。そういうふうに僕はシルババークさんの言葉を受け取ります。>