マルジナリア9 「世界の界面」(2005/07)



●『マッハとニーチェ』を読んで以来すっかり木田元さんの哲学本に、というよりその語り口に魅了されている。同じ話題を何度も何度も繰り返し反復しながら語り直す(「遣い回す」ではない)まるで落語の名人を思わせる話術は、それに接するたび既知の事柄が「いま・ここ」でアクチュアルに立ち上がってくるし、だから同じ話を何度でも初めて聴く時のように愉しむことができる。たとえばハイデガー哲学の祖述・語り直し(「焼き直し」ではない)の名人芸にただただゆったりと身をゆだね、逐行的に細部を味わいつくし繰り返し反復しながら読み直すことで、大袈裟にいえば「生きる歓び」のようなものを感じとることができる。
 保坂和志が『反哲学史』の文庫解説で「この本を読んだら…まずはもう一度この本を読み直してみるのが一番いいんじゃないかと思う」と書いている。哲学するということは哲学を語り直す(読み直す)ことと同義で、それも「何度でも」語り直す(読み直す)ことに意味があるのであって、それはAはAであるという認識や知識を情報として受けとることとはまるで違っている(「A」は概念であってもいいし、たとえば生命物質=身体のような個物や「私」であってもいい)。哲学するとはAが(現に「いま・ここ」で)Aであること、あるいはAが(木村敏の言葉を借りれば「Aは、Aそれ自身と非Aの境界あるいは差異である」という生命現象一般に見出される論理に従って:「リアリティとアクチュアリティ」,『講座生命2』101頁,哲学書房)Aになる生成の現場を身をもって、極端にいうと生き死ににかかわる切実な問題として何度でも生きる(生き直す)ことそのものなのだ。保坂さんが言いたかったのはたぶんそういうことではないかと思うが、違うかもしれない。

●木田元を讃えることがここでの本題ではないので、話題を先に進めよう。(以下に出てくるハイデガー云々はほとんど木田元さんの書物、たとえば『反哲学史』や『ハイデガー拾い読み』などからの受け売りです。)
 ハイデガーによると、西洋の形而上学的思考はプラトン/アリストテレスによる存在の二区別に端を発する。すなわち「形相(エイドス)」あるいは「それが何デアルかという存在」と「質料(ヒュレー)」あるいは「それガアル(かないか)という存在」の区別で、この二つの存在概念はそれぞれ中世スコラ哲学における「本質存在(エッセンティア)」と「事実存在(エクシステンティア)」に引き継がれていった(『反哲学史』110頁)。そしてその嫡出子たる自然科学──あるいはプラトンの「コーラ」やアナクマンドロスの「ト・アペイロン」にまで遡る「それ自身では何ものでもないもの」としての「ヒュレー」(斎藤慶典はそれを「空」と形容する:「「アクチュアリティ」の/と場所」,『講座生命5』84頁,河合文化教育研究所)を「マテリアル」に貶めた「物質的自然観」──を生み、やがて形而上学の終極において、存在者の全体が「何であるか」を言う「力への意志」とそれが「いかにあるか」を言う「永劫回帰」の概念へと変奏されていった(『反哲学史』229頁)。

●それでは二つに分岐する以前の存在概念はどのようなものだったか。ソクラテス以前の思想家たちが一様にそれをめぐる著書を残したと伝えられる「生きた自然」すなわち「フュシス」である。(「フュシス」は「現われ出る」を意味する「フュエスタイ」という動詞から派生したもの。ちなみにハイデガー/木田元によると、アリストテレスのデュナミス/エネルゲイアの概念には個物が「無限定な隠蔽態から非隠蔽態の明るみへ、一定のエイドスをとって現われ出ること」というソクラテス以前の伝統的な存在観が反映している(『ハイデガー拾い読み』209頁)。)
 ハイデガーは『形而上学入門』で、フュシスについて「それは、おのずから発現する[アウフゲーエン]もの(たとえばバラの開花[アウフガング])、自己を開示しつつ展開すること、このように展開することにおいて現象へと踏み入ること、そしてこの現象の中で自己をひき止めて、そこで永くとどまること、簡単に言えば発現し‐滞在する支配[ヴァルテン]を言う」(32頁)とか「存在そのものであり、これのおかげで初めて存在者は観察可能になり、いつまでも観察可能なのである」(33頁)と書いている。
《ギリシア人はフュシスが何であるかということを自然の諸事象において初めて経験したのではなくて、その反対である。存在についての詩作的‐思惟的根本経験が基礎になって、彼らがフュシスと名づけざるをえなかった或るものが彼らに開示されたのであった。この開示を基礎として初めて彼らは狭い意味での自然を見る眼をもちえたのであった。したがってフュシスは、もともと天をも地をも、石をも植物をも、動物をも人間をも、人間と神々との作品である人間の歴史をも意味し、最後に、そして第一に、運命[ゲシック]のもとにある神々自身をも意味する。》(『形而上学入門』33頁,平凡社ライブラリー。ただし訳文は『ハイデガー拾い読み』138頁)

●ところで「エクシステンティア」の概念は「アクトゥアリタス」(現実性:アクチュアリティ)というラテン語と等価であって、この言葉には「働く」という意味の動詞「アゲレ」の過去分詞形「アクトゥス」が含まれている。このことからハイデガーは、神の創造作用であれ(スコラ哲学の場合)主観の表象作用であれ(カントの場合)およそ西洋形而上学の根底にプラトン/アリストテレス以来の「制作的存在論」がひそんでいると主張する(『ハイデガー拾い読み』107-108頁)のだが、それはここでの本題ではない。
 「アクトゥアリタス」はアリステレスの「エネルゲイア」(現実態)のラテン語訳である。そうすると「エネルゲイア」と対になる「デュナミス」(可能態)のラテン語訳「ヴィルトゥス」(潜在性:ヴァーチュアリティ)──そこには力を意味する語(virtu,vis)が含まれている──は「エッセンティア」という概念と等価なのだろうか。そしてまたここに出てきたアクチュアル/ヴァーチュアル(現実的/潜在的)の軸は、ベルクソン/ドゥルーズによってこれとの差異が強調されたリアル/ポッシブル(実在的/可能的)の軸──「レアリタス」(実在性)には「もの」を意味する語(res)が含まれている──とどのような関係を切り結ぶことになるのだろうか。

●木村敏は「離人症再論」の副題をもつ「リアリティとアクチュアリティ」で、離人症とは「行為的直観」や「共通感覚」(対象の運動や変化に関する実践的感覚)や「環境のアフォーダンス」の障害であって、そこで失われるものは公共的・客観的・三人称的な実在に関する「リアリティ」ではなく、私的・主観的・一人称的な「アクチュアリティ」であると書いている。
《動詞の時制を借りていえば、リアリティが「過去形」あるいは「完了形」で表現されるのに対して、アクチュアリティは「現在形」──あるいはより適切には英語でいう「現在進行形」──でしか展開しない。リアリティが存在者の指標であるとするならば、アクチュアリティは生成そのものの特性であって、いかなる形でも存在の標識にはならない。ただ、人間の志向的意識は、あらゆるものを知のノエマ的対象に変え、(ニーチェの言葉を借りれば)「生成に存在の刻印を押そうとする〈力への意志〉」によって支配されている。こうしてアクチュアリティを知のノエマ的所与として捉えようとすれば、それはたちまちリアリティとしての存在者に姿を変えてしまう。》(『講座生命2』98頁)

●ベルクソン/ドゥルーズによると、リアリティ(実在性)はポッシビリティ(可能性)と対をなし、アクチュアリティ(現実性)は「アクチュアリティがアクチュアリティとして実現されていない状態」すなわちヴァーチュアリティ(潜在性)と対をなす。
 木村敏はこのことをコンピュータにプログラムされた囲碁のゲームと生身の棋士の場合との違いで説明している(99-100頁)。前者においてある局面で打たれる石は多数の可能性のなかから確率論的な計算によって特定されるものであるのに対して、後者では打たれる石はそれぞれに潜在的な働きあるいは勢いをもっている。「本来囲碁というゲームは、単なる碁石の計算可能な配列による勝負ではなく、この「勢い」の布置による勝負である」。しかしゲームが終了すると、あるいはその途中であっても第三者が客観的に盤面を眺めたとき、碁盤の上には静止した多数の石の「リアル」な配列しか見えてこない。「そこではかつてのヴァーチュアリティが、こうも打てたであろう、という可能性に姿を変えている」。
 それはあたかも紙の上に書かれた文字の「アフォーダンス」すなわち「意味のアクチュアリティ」が消え失せたとき、そこに「怪物じみた、淫猥な、一言でいえば不条理」で「グロテスク」な描線の集合が「裸の実在」として出現しているのに等しい(92頁,104-105頁)。あるいはまた離人症患者において「アクチュアル/ヴァーチュアルな実質」すなわち「つねに自らを現実化しつつある自己の潜在性」が失われたとき、そこに対象化された「自己」の形骸が「リアル」に存在しているのに等しい(102頁)。
《潜在と現実の──ある意味で「虚実皮膜」の──境界におけるアクチュアルな活動が、身体と環境の境界でわれわれの生を維持している。このアクチュアリティこそ、ふつう「自己」の名で呼ばれているものの「実質」である。自己とは、それ自身がそれ自身との境界あるいは差異でありながら、環境あるいは世界との境界において生成し続けている「自己現実化」の動きに他ならない。》(104頁)

●垂直方向にアクチュアル/ヴァーチュアルの軸を引く。それは下方(潜在性)から上方(現実性)への力の矢印となるだろう。C.S.パースにならって普遍(確定されないもの)から個別(確定されたもの)へと言ってもいいし(『ヨーロッパ精神史入門』第7章)、木村敏の言葉を借りて「ディオニューソス的ゾーエー」から「アポロン的ビオス」(『関係としての自己』序論)へと言い換えてもいい。リアル/ポッシブルの軸はこの垂直軸(生成軸)に直角に交差する水平軸(存在軸もしくは認識軸)をなす。それは(離人症患者でないかぎり)アクチュアリティとリアリティが表裏一体のものとして現象する世界の界面である。そしてこの二軸の交点において「私」が制度化される。
 この図式はフェリックス・ガタリが『分裂分析的地図作成法』(49頁)で示した「四つのカテゴリーの交差行列」と相同である。この謎めいた図式(主体性が生産される場としての地図)が開示する四つの象限がいったい何を意味しているのか、私にはよく判らない。アリストテレスがプシューケーの能力のうち感覚と思考の間にあるものとして掲げた「ファンタシア」──ラテン語の imaginatio やドイツ語の Einbildungskraft (カント哲学の文脈で「構想力」)につながるもの(「実数 real number」に対する「虚数 imaginary number」に相当するもの?)──がこの図式のうちにどう位置づけられるのか、それもよく判らない。あるいはラカンの「前未来形」──「わたしは言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。わたしの語る歴史=物語のなかでかたちをとっているのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。そんなものはもうありはしない。いま現在のわたしのうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のなかで実現されるのは、わたしがそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来形なのである。」(『エクリT』,訳文は内田樹『死と身体』146頁)──がこれとどう関係してくるのか、それもよく判らない。そもそもそこに言語がかかわってくるのかこないのか、それもまた判らない。

●先に引用した文章の中でハイデガーはフュシスについて「最後に、そして第一に、運命のもとにある神々自身をも意味する」と書いていた。これを読んで、私はD.H.ロレンスが『黙示録論』で古代ギリシャ人の「神」をめぐって書いた文章を想起した。
《古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて神であった。…ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ。…あるいは青色の閃光が突如として意識をとらえることがあるかも知れない、そうしたらそれが神となるのだ。…水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象するのである。だが、これは決して単なる質ではない、儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい。》(『現代人は愛しうるか』福田恆存訳)
 私は「フュシス」とは「クオリア」のことではないかと考え始めている。少なくとも「本質存在」の概念に根ざす力(生命そのもの)と「事実存在」の概念に由来する物質(生命物質=身体)とが接触する界面(脳内現象)において、つまり先の二軸の交差によって切り拓かれる世界の断面において、分岐以前の「生きた自然」は「クオリア」として現われ出るのではないか。

●木村敏は「自分であるとはどのようなことか」(『関係としての自己』)で、クオリアは「個人と世界の界面現象」として「個人と世界とのあいだにそのつど新たに成立するアクチュアリティ」であると書いている(89頁)。離人症患者において失われる「自己の実感」とは「世界がクオリアをおびて立ち現れている、いいかえれば私と世界のあいだにアクチュアリティが成立しているという行為的事実」(90頁)にほかならない。
 しかしこの自己のクオリアは「けっして単層構造のものではない」(92頁)。というのも「自己のクオリアは、それが私と世界の界面現象であることからみて当然考えられるように、そのつどの場の関数である。そして人間の場合、この「そのつどの場」はほぼ「そのつどの対人的な場」の意味に解して差し支えない」(91-92頁)。こうして木村の議論は集団的な「場のクオリア」に及び、「有機体と環境世界の界面現象としての主体」(ヴァイツゼカー)という概念を経て人間以外の生物にまで及ぶ。(はては「生命それ自身」(ゾーエー)と「個別的生命」(ビオス)の区別を経て「父母未生已然の自己」にまで及んでいく。)
《渡り鳥にとっては群れがまとまって越冬地に向けて移動する飛翔それ自身が、合奏の演奏者にとっては全員で演奏している音楽それ自身が、何にもましてアクチュアルな「事実」ないし「そうであること」[ウィトゲンシュタインの「世界とはそうであることのすべてであり、事実(こと)の全部であって事物(もの)の全部ではない」を踏まえている]である。/世界が「そうであること」のすべてであるのなら、自分が(上に述べた自己の重層構造をひっくるめて)自分自身であるということも、自己にとっての世界だということになり、世界との界面現象としての自己(あるいは主体)は、自己自身との界面現象として捉えられることになる。》(99頁)

●木村敏はある対談で、クオリアは「質感」というより「感触」と訳す方がいいと語っている。またクオンタ(量子)がクオンタムの複数形であるように、クオリアも複数形で、量子に対する「質子」なのではないかと語っている(中村雄二郎・木村敏「対談「場所」をめぐって」,『講座生命5』55頁)。
 斎藤慶典(「「アクチュアリティ」の/と場所」,『講座生命5』)はこの木村の提案を「魅力的」(88頁)としながらも、「現象するものならびにそれを見てとるもののもとでどのような「感じ」をともなって現象が現象するのかを問うことと、そのような仕方で現象することそのものをあらためて問うこととは、まったく別の問いであり、後者の問いにおいては現象することの内部に位置する「感じ」を云々する余地はもはやない」(77-78頁)と違和感を表明している。
《…世界のすべてを現象へともたらすこのはたらきが受容されることがもしあるとすれば、それは、それ自体としてはまったく何の実質ももたない(この意味で「空」であると言ってもよい)このはたらきが、世界の「無」(何も現象しないこと)との鋭い対比の中で浮かび上がったその瞬間を措いてほかにはありえないように思われる。そのときすべてが現象するのである(「無」との対比で言えば、そのときすべてが「存在」するのである)。すなわちそれは、現象すること(存在すること)の受容であり、現象すること(存在すること)を被ること(passion あるいは leiden、だがそれは「感情」ではないのだ)であり、かくして現象すること(存在すること)の贈与なのである。》(79頁)
 斎藤慶典の議論はここから確率論的な表現をもつ量子力学の「実在」の考え方へと進んでいく。さらに『レヴィナス 無起源からの思考』では、世界の起源──世界の開闢という太古、「一度も現在であったことのない過去」、それほどに「遠く」かつ「深い」過去、垂直の過去、「いま・ここ」の根底においていつもすでに生じているような「太古の」時──において最初に響いた「光あれ」に言及し、「私は言葉として、隔時的な時間の内に生きるのである。この隔時的時間の内で、世界は現象し・存在するのだ」(隔時性=私と決して時間をともにすることのない者との関係)と書いている(146-148頁)。いずれも途方もなく「魅力的」な議論なのだが、そのこともまたここでの本題ではない

●世界には第二の界面がある。現象することと何も現象しないこと、すなわち「空」(ヴァーチュアリティ)と「無」との界面。それはもはや「ある」とは言えない。それは「界面」ではなく「世界の底」、あるいは生命と物質と言語が統一される場と言うべきかもしれない。