マルジナリア8 「デタッチメントの哲学」(2005/05)



●ちくま学芸文庫から古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』が刊行された。この本はかつて講談社の選書メチエ版で読み、とても興奮したことがある。永井均さんが解説を書いているので、選書メチエから同日付けで出た『他界からのまなざし──臨生の思想』とあわせて速攻で買った。古東さんの本では『ハイデガー=存在神秘の哲学』も素晴らしかった。そのあまりの濃度に圧倒され序章だけ読んで中断している『〈在る〉ことの不思議』ともども、しばらく古東さんの骨太の叙述に浸ってみることにした。(「骨太の叙述」は永井さんの言葉。「私の哲学上の仕事は、いわば古東哲学の内部にあって、その細部を穿り返しては埋めなおすような作業にすぎない」と永井さんは書いている。)
 
●古東さんは『現代思想としてのギリシア哲学』の第五章「ギリシアの霊性」で、プラトンがいうプシューケー(たましい)とは「器官なき身体としての〈ミ〉」のことだと書いている(205-7頁)。ここでいわれる〈ミ〉とは、物体としての身体(肉体)に対する「機能しつつある生ける身体(身)」のことで、肉体が外部から観察することによって一個の物体のように表象できる(物象化された)身体位相であるのに対して、〈ミ〉は「そもそも、観察し物象化するその眼自身がソコを生き、ソコで可能になっている前提」である。
 そのような、〈今ここ〉に刻一刻と立ち起こるリアルな「生ける身体」の生起現場に立ち会うことはとんでもなくむつかしい。《ぼくたちの思考や感情は、すぐに外界へ旅立ってしまうからだ。〈今ここ〉ではない〈いつかどこか〉の対象像やカレンダーばかりに、意識は吸い寄せられてしまう構造になっているからだ。だから、文字どおりあまりに「身近」すぎる〈今ここ〉の生きた身体(ミ)は、クリプトグラム(墓碑銘・暗号記号)と化し、意識作用の欄外にすぐにその正体を消してしまう。生ける身体(ミ)とは、「空白の身体」。ぼくたちは、じつはふだんは「身元不明者」というわけだ。》(203頁)

●ここに出てくる「意識作用の欄外」や「空白」という語彙を目にして、私は、この「マルジナリア」の連載を通じて私自身が(ほんとうに)取り組みたかったことがなんだっかに思い当たった。それは一言でいってしまえば「考えているのは私ではない」という思いの実質を記録することで、この「私ではない」は「私の意識ではない」といいかえてもよい。
 古東さんは、世阿彌の「離見の見」や大杉栄の「自我の棄却」をフッサールの間主体性(モナド共同体)論や現象学的還元に結びつけるという離れ業をやってみせた『他界からのまなざし』の第四章「空白の共同体」で、人間の作為や知的構想をはるかに越えた場所、つまり「措定的な知性や意志にとって絶対的な外部にとどまる非知の位相」を「空白」と呼んでいる(130頁)。そして、人為的な共同体や日常のコミュニケーションを可能にする超越論的制約として、そのような場所ですでにつねに成立している存在論的コミューン、つまり「人や物が存在するという事実とともに最初から開かれている「〈形而上学的〉原事実」としての共同体」のことを「空白の共同体」と呼ぶ(146頁)。
 大雑把な言い方だが、私は古東さんのいう「空白の共同体」を意識作用の欄外に居住まいする「哲学者たちの共同体」のことだとみなしている。そこには物質としての私や人称・固有名をもった私はいない。だから考えているのは私ではないし、書いているのも私ではない。(私は「自動機械」のようなものとして、そこに在る。)私が引用するのは他者の言葉ではない。それはすでに私が考えたことであり、私が書くはずだった文章だ。そこには何も実質的なことは書かれていない。そこに記されているのはただ墓碑銘であり、暗号記号でしかない。「クリプトグラム」とは哲学書の別称である。

●古東さんは、プラトンの哲学書などこの地上に存在しない、プラトン哲学を理解したければ対話篇の行間に記された痕跡を糸口にして追体験するしかないと書いている(『現代思想としてのギリシア哲学』323頁)。また、ハイデガーが死の数日前に残した「道。著作ではない」(Wege-nicht Werke)という「全集編集上の留意」という覚書をめぐって、「これら膨大な全集草稿は、ある場所へ読者をはこぶ道であって、その場所について直接記述するような著作(思想の所産)ではない。そう明言する。遺言。はんぱに聞いてはなるまいせりふだ」と書いている(『ハイデガー=存在神秘の哲学』67頁)。
 そのような「形式的指標」(ハイデガー)の言説作法──古東氏いわく「形式的指標とは、実質ある叙述をさけることで、かえって「現実的なものとの前記号的[前言語的]な接触」を読者自身がひきおこすことができるよう、しくまれた語り方」(『ハイデガー=存在神秘の哲学』64頁)──で書かれた複数の哲学書を同時進行的に読みかじり、前言語的(原比喩的?)な脳の働きでもって非同一のうちに同一を、非連続のうちに連続を見いだしたとき、意識作用の欄外、空白(沈黙)の領域で私は興奮する(存在の感触とか実在感覚とか、そんな漠とした表現でしかいいあらわせないものが起動する)。そしてそのことを意識作用をもって記録する。そこには何も実質的なものはない。

●上野修さんの『スピノザの世界』を読んだ。スピノザの異例・異様な思考世界をとても手際よく簡潔かつ無味乾燥に(これは悪口ではない)解説している。「『エチカ』のこのあたり[第5部の最後、定理21から42]を読むといつも異様な緊張を感じるのだが、きっとそれは、証明している自分自身が証明されているという特異な必然性経験をしてしまうからだろう」(181頁)とか「このあたり[同定理32の系]に来ると『エチカ』はいったい何ものが語っているのかわからなくなってくる」(184頁)とか、旅のガイダンスとしては最高のフレーズだと思う。
 考えているのは自然(事物)であって、私(精神)ではない。本書のキモは次の文章のうちに凝縮している。《スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まなければならない。》(108頁)
(ちょっと気になるのは、たとえば『エチカ』第2部でデカルト由来の心身合一の問題がいとも早々と解決されてしまうことにふれた箇所で、「…「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか」(123頁)といった表現が出てくるところ。これと似た表現が「あとがき」にも出てくる。「…それら観念がみな無限に多くの私の(?)並行する精神であるということになっちゃうのではないか」。これはやめてほしいと思う。)

●講談社の『本』5月号に上野さんが「スピノザから見える不思議な光景」という短い文章を書いている。
 スピノザは「地球に落ちてきた男」を思わせる(「とても地球人とは思えんよ」)。スピノザは神を非擬人化すると同時に人間を非擬人化している。スピノザの哲学は(「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ。すなわち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無限な思考宇宙の一部分である。われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然に思考がないとするのは不自然である。われわれの中で事物自身が事物自身について肯定したり否定したりするようになったとき、われわれの精神は「自動機械」となって、自分のいる場所(自然)がずっと「神」であったとわかる。「カメラが引いていくと、帰還した地球の故郷が実は惑星ソラリスの変様部分であるのが判明するあのタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」のラストシーンを思い出す。」
 この文章を読むと、『現代思想としてのギリシア哲学』の序章「月から落ちてきた眼」を思い出す。古東さんはそこで「エイリアン」もしくは「クセノス」(異邦人・異星人・客人)としての哲学者像を描いていた。この哲学者の「外からの視線」が「他界からのまなざし」であり、そのようなまなざしをもって、つまりたましいの向け変え(ペリアゴーケー)、実存変容をもってこの世界のありさまを感じ考え生き直すことが「臨生」である。
 ちなみに『他界からのまなざし』を読んでいると、装置、機械、技法といった語彙が頻出する。この文体はスピノザの「霊的自動機械」を思わせる。上野さんは『エチカ』は「説明の体系」であり「一個の証明機械」であるという。この「『エチカ』で稼働する証明機械、これは『知性改善論』の言っていたあの「霊的自動機械」を思わせる」(77-78頁)。

●「地球に落ちてきた男」とか「月から落ちてきた眼」とかいわれると、大森哲学のことを想起する。正確には「大森哲学の感触」を想起する(そもそも「大森哲学」なるものはない。そこにあるのは、ただ神秘体験なき神秘主義の感触で、それは永井均さんの書き物に通じている)。最近「ことだま論」(『物と心』)と『知の構築とその呪縛』を読んだ。大森荘蔵の文章を読むたび、その理路に圧倒され、かつそこに「無理」を感じる。
 言葉や概念が少しずつ「人間的な」意味を剥奪され、言葉以前、概念以前、古代のギリシャ人が「ピュシス」と呼んだ「とほうもない分からなさ」(『現代思想としてのギリシア哲学』48頁)の方へとなだれこんでいく。「古代中世の略画的世界観がもっていた、活物自然と人間との一体感」(『知の構築とその呪縛』17頁)とか「自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである」(238頁)と書かれてはいるが、そこには「一体感」を感じる私はいない。もちろんそのような私などいなくなってもいいのだが、人は論理でもってそのような境地には導かれない。
 『時間と自我』の「はしがき」に、過去とは夢物語であり「限りなく無意味に近い制作物ではあるまいか、こうした恐怖を感じさせる奈落に面しては立ちすくむ以外にはない」(8頁)と書いてある。『時間と存在』の「はじめに」には、「これまで度々経験したことだが、自分で出した奇怪な考え[ここでは「自然科学的世界の空性」という結論]に馴れるのにかなりの年月が必要だろう」(13頁)と書いてある。池田晶子さんの「埴谷雄高と大森荘蔵」(『魂を考える』)には次のように書いてあった。
《物質は「実在」しない、過去もまた「実在」しない、それらは全て、言語によって制作された「存在の意味」なのだ、と落としどころに見事に落とす大森の論理の運びは痛快である。分析哲学者ならずとも、快哉を叫んだ人は多いと思う。けれども、快哉を叫んでいるこの自分は、すると、いったい「どこ」に立っているのか。足下に開いたでっかい暗い黒い穴ぼこ、これはいったいなんなんだ、いったいどうしろと言うのだ。/このような感性と、そのような問いを、そもそも所有していないことが研究者ということなのだということを私は理解していたので、研究会後の飲み会の席で、こっそり尋ねたことがある。先生、率直なところ、どのようにお感じなのですか、と。/彼は、一瞬の沈黙のあと、いつものきっぱりとした口調で、こう言った。/「ゾッとします」》(91-92頁)

●今回の話題はほぼ尽きた。以下は、補遺。──エチエンヌ・ジルソンの『神と哲学』を読んだ。四つの講義(「神とギリシア哲学」「神とキリスト教哲学」「神と近代哲学」「神と現代哲学」)を収めた二百頁に満たない小冊子だけれどけっこう濃い。とりわけ四頁ほどのスピノザをめぐる叙述が際立っていた。「スピノザの宗教は、哲学だけによって人間の救済に到るにはどうすればよいかという問に対する、形而上学的に百パーセント純粋な解答である。」(128頁)「スピノザの形而上学的実験は、少なくとも次のような断案の決定的証明となったことは確かである。すなわちそれは、およそいかなる宗教的な神であれ、その真の名が「在る者」でない神は単なる神話にすぎないということである。」(129頁)
 ちなみに「キリスト教の神を見失った世界が、この神を見いだす以前の世界[タレスやプラトンの世界]に似てくるのは、やむをえないことである」(『神と哲学』166頁)というジルソンの指摘は、というより『神と哲学』の第一章そのものが『現代思想としてのギリシア哲学』と響きあっている。

●補遺、その二。ダマシオが『スピノザを求めて──喜び、悲しみ、感じる脳』[Looking for Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain]という本を書いているらしい。『現代思想』2月号に掲載された桜井直文さんの「身体がなければ精神もない」によると、「かれ[ダマシオ]の求めているスピノザはそこにはおそらくいない」。
 その三。ジュリアン・ジェインズ『神の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』。意識は生物学的進化によって生まれたのではない。それは言語に基づいている。意識は幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二分心」(bicamerai mind =直訳すれば「二院制の心」)の精神構造の衰弱とともに、ほぼ三千年前に誕生した。この仮説は、古代ギリシャ哲学が「神の死」(ギリシャ神話は神の殺害のおとぎ話である)の後の精神状況(死んだ神にかわる新しい至高性の希求)から生まれたとする古東さんの議論とつながる。『知の構築とその呪縛』に出てくる「略画的世界観」から「密画的世界観」への転換の議論とも響きあっている。
 その四。茂木健一郎さんが『中央公論』6月号に「なぜナショナリズムは相互理解されないか」という文章を寄せている。茂木さんがそこで「科学のすばらしさは、対象に対して認知的距離(ディタッチメント)をもって接することができる点にこそある」と書いている。