マルジナリア7 「世界の背理」(2005/03)



●あいかわらず『私・今・そして神』の周辺をたゆたっている。3月の「哲学的腹ぺこ塾」で報告することになったので、前回読み飛ばしてしまった箇所や根負けして思考を中断した論点、やり残した作業などを洗い出し、洗い出すだけでなく深く読み込み、思考を極め、作業を全うさせておきたいと思った。余力があればこの際、永井均の「私哲学」に鋭く迫ってみたいと思った。たとえば、前期三部作の「独我論」と後期三部作の「中心化された世界の存在論」とでは何が違うのかとか。
 ──ここで前期三部作と私が勝手に呼んでいるのは、『〈私〉のメタフィジクス』(1986)と『〈魂〉に対する態度』(1991)と『〈私〉の存在の比類なさ』(1998)の三冊で、いずれも勁草書房刊。後期三部作は、永井氏が「これらは、それ以前と違うことを問題にしていると思う」(本書6頁)と書き、自ら三部作と呼ぶ『マンガは哲学する』(2000)と『転校生とブラックジャック』(2001)と『私・今・そして神』(2004)の三冊。ただし永井均の哲学はまだ終わっていない、というか実はまだ始まっていないのだから、せめて中期三部作というべきか。

●でも、何度読み返してみても、あいかわらず十分に読み込んだ気がしない。当たり前すぎてつまらない話題がくどくど続くかと思うと、その同じ文章がこれまでとまったく違う(異様な)様相を帯びて迫ってくる。その逆の現象も頻繁に起こる。永井氏自身の言葉を使って表現すれば、まったく同じ文章の「哲学的緊張」が高まったり薄まったり、それが「心の琴線」に触れたり触れなかったりする。私の問題意識、というか「哲学的感度」が永井均の「問題水準」を(時々は)凌駕したり、(たいがいは)到達しなかったりするということなのかもしれない。
 ──ここに出てくる「哲学的感度」は『マンガは哲学する』のキーワードの一つ。そこで永井氏は吉田戦車の『伝染るんです。』について、「こういうマンガを描ける人の哲学的感度は、ほとんど筆舌に尽くしがたいものがある」、「私がこの水準の哲学的感度を感じ取れるのは、ウィトゲンシュタインくらいのもの」だと書いている(文庫版39頁)。
 ちなみに、私自身は(たぶん)これと同趣旨の哲学的実感(感触)をもたらす感覚のことを「哲覚」と名づけている。それはおそらく、表現形式と表現内容がそれぞれのレベルの違いを通り超して交わったときのような「神秘感の伴わない神秘体験」をもたらすものなのだろうと考えている。

●で、昨年から数えて(たぶん)五回目、部分的には十回以上になる『私・今・そして神』の通読に入っているわけだが、「十分に読み込んだ気がしない」というのは、十分に理解できたときの爽快感(征服感)のようなものが読後わきあがってこないというのとは違う。分かるか分からないかという水準でなら、『私・今・そして神』はとてもよく分かる。分かりすぎてつまらい議論だとさえ(時々は)思う。
 ──ただ、よく分からないところもある。私的言語の三つの段階が論じられた第3章は、何度読んでもよく分からない(正確には、何が分かったのかが分からない)。
 そもそも「私的言語」の定義が腑に落ちない。ウィトゲンシュタインの「世界が私の世界であることはこの言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することのうちに示されている」(『論理哲学論考』5.63)に出てくる「この言語」をめぐって、永井氏は書いている。
《せっかく「私が理解する唯一の言語」のように正しく訳しておきながら、実質的にこれを「私だけが理解する言語」のように受け取って、あたかも他人の言語との内容(中身)の比較が成り立つかのように受け取る人が多いのだ。私が理解する唯一の言語(=私が理解するのはただそれだけであるような言語)が問題なのだから、それを他人が理解するかどうか、とか、それが他人と同じか違うか、とか、そんなことが、そもそも問題になるはずもないのに。》(100-1頁)
 これはとてもよく分かる。ところが、第2章に出てくる次のような文章を目にすると私の理解は動揺する。
《私的言語とは、私だけが理解し私だけが使える言語のことである。だから、端的な私的言語とは端的な(つまり現実の)私だけが理解し端的な(つまり現実の)今だけ使える言語のこととなる。》(160頁)
 「この言語」(=私が理解するのはただそれだけであるような言語)と「私的言語」(=私だけが理解し私だけが使える言語)は違うと考えて、先の文章との「矛盾」を解消する方法はあるけれど、一方で、「世界がどこまでも私の世界であるという意味では、言語もまたどこまでも私の言語なのである」(198頁)という指摘には強力な説得力を感じる。
 もっとも、後の文章は「端的な私的言語は不可能」だという文脈で使われていて、しかもその直後に「およそ言語というものが可能であるためには、端的でない私的言語や今的言語は可能でなければならない、とは考えられないだろうか?」(161頁)という、第3章のキモ(第三段階の私的言語論?)につながる論点が提示されているのだから、「私的言語とは、私だけが理解し私だけが使える言語のことである」云々をまともに(永井氏の主張だと)受け取ってはいけないのだろう。でも、うかうか読んでいると訳が分からなくなる。
 いま書いたことはほんの一例で、要するに私には私的言語をめぐる哲学界での議論の本筋が見えていない。だから「玄人筋」を相手にした第3章の議論が腑に落ちないのだろう。

●私的言語とは祈りである。論証抜きで、私はそう直感している。そういう観点から第3章の議論を読み直すと、もしかすると霧が晴れるのかもしれない。ここで、都合よく思い出した(前期の、もしくは前期から後期=中期への移行期にある?)永井氏の文章を引用しておこう。
《誤解を恐れずにいえば、哲学をすることは、ある点でやはり、祈ることに似ているだろう。ひとは、ふだん神の存在を信じていようといまいと、祈らざるをえないときには祈らざるをえない(祈るとは、その行為の内に神の存在を信じることだろう)。同じように、哲学せざるをえない人は、哲学せざるをえない。だから、たとえその内容が無神論的であろうと、哲学をする人は、その行為の内で神の存在を信じるのではないだろうか。》(『〈子ども〉のための哲学』216頁)

●永井氏は「まえがき」で、第2章の「最後に出てくる「どちらか一方が私なら……」という一つの表現の二つの意味が理解できたら、本書の中心主題は理解されたことになる」(9頁)と書いている。
 該当箇所(173-5頁)を抜き書きすると、私が「永井R」と「永井L」の二人の私に分裂してみたら、私はなぜかLのほうであった。この事実の重みは決定的だ。ところが、ふたたび融合した後では、この事実(私はLであったという過去の事実)は跡形もなく消えてしまう。だが、分裂時に成立していた「どちらか一方が私なら他方は私ではない」という事実が消え去るのではない。この同じ一つの表現の、ライプニッツ的意味(特定の側が現に私になってしまっている)は儚く消え去り、カント的意味(どちらか一方だけが私でありうる)は時間を超えて生き残るのだ。
 ──これって当たり前のことじゃないですか。だって、分裂時の私Rが殺人を犯したとすると、その時点で私Lは無罪だけれど、融合後の私は(解離性同一性障害の特異な事例だと認定されないかぎり)有罪となるしかないのだから。つまり分裂時の私Lが無罪だったという過去の事実は、融合後は跡形もなく消えてしまう(分裂時の証人や物証があたとしても意味がない)。
(現在の私と過去の私はともに私だが、現に存在している現在の私にとって想起の対象でしかない過去の私は私ではない。でも過去の私は現在の私に融合している。「どちらか一方が私なら他方は私ではない」という表現のライプニッツ的意味は儚く消え去り、カント的意味は時間を超えて生き残るのだ。だから現在の私は過去の私の罪を償わなければならない。)
 「法人」という制度があるように、法の世界が扱う「人」は概念なのであって、現に存在する「私」ではない。酩酊時、私が私でない状態で犯した犯罪であっても、酔っぱらって前後不覚になると何をしでかすか分からなくなることを承知の上で、むしろこの性行を利用する意図をもって痛飲に及んだとしたら、やはり罪に問われる。そんな意図はなかったと主張しても、そしてそれが事実(私的事実)であったとしても、法が想定する「人」であればそのような行為はさしひかえたであろうと裁判官が外形的に判断して、そのような心証(私的心証?)を形成すれば、「原因において自由な行為」の法理でもって故意もしくは未必の故意が認定される。
 この生身の現に存在する「私」と法が想定する概念としての「人」との違いは、永井氏が207頁で使った例を応用すれば、憲法制定権力(事実としての政治権力)と憲法によって根拠付けられた権力(制度化された政治権力)の違いと同じことである。

●私には「どちらか一方が私なら他方は私ではない」という一つの表現の二つの意味が理解できる。少なくとも、概念としてはよく分かる(ライプニッツ的偶然とカント的必然?)。しかし、正直に告白すると、理解できたからといってそこにぞくぞくするようなリアルな「問題」を感じない。
 ──ここで注記を一つ。私がいいたいのは、私が分裂するなんてそんな非現実的なことを想定した思考実験には「問題」が感じられない、ということではない。
 小泉義之氏は『ドゥルーズの哲学』(2000)で、たとえば太郎と花子をめぐる記憶交換や身体交換といった思考実験の出発点となる「SF的発想」を批判している。
《そもそも、太郎と花子を死なせないような仕方で、記憶や身体を交換することが、自然界において可能なのか。仮に不可能ならば、不可能なことの想定からは理論的に任意の結論を引き出せるから、論争に決着はつかないし、論争は無意味であるということになる。何でもアリになるから、何も分からないということになる。仮に可能ならば、分子生物学の知見から推しても、種々のウィルスや種々の化学物質や種々の機械装置を使用することになるから、交換を開始する時点で、太郎と花子は人間とは別の生命体に変容すると考えなければならない。そして、交換操作が記憶と身体に残す痕跡を消去することは原理的に不可能だから、交換を終了した時点で、人間のパーツを保持した新しい生命体に進化したと考えなければならない。もはや人間は存在しないのである。したがって、同一性に固執して「太郎」や「花子」と呼びかけたいと思うこと自体が、あまりにも人間的な因習なのである。同一性を墨守する思想はあまりに粗雑であり、同一性に拘泥するSFはあまりに稚拙である。ドゥルーズは『差異と反復』を「サイエンス・フィクション」と銘打っているが、そんな新しいSFが求められるのだ。》(14-5頁)
 これに対する永井氏の反論(?)が『転校生とブラック・ジャック』に出てくる。
《われわれはいま、この世界が現実にどうできているか、どうできていないか、を問題にしているんじゃなくて、どうできていざるをえないか、どうできていることはできないか、を問題にしているんだ。手術室間の瞬間移動は、この世界でたまたま成立している物理法則によって物理的に不可能だけど、それを考えることはできる。それに対して、時空連続性とも短期記憶の連鎖とも連合していない裸の《おれ》が世界の中で持続するということは、考えることそのものができない。考えようとしても何をどう考えればいいのかわからなくなるからね。そういったことは、こういう思考実験を積み重ね、組み合わせていくことによってしか、明らかにならないんだよ。この現実がどうなっているかということなら、実験でわかるよ。でも、どうなっていざるをえないかは思考実験でしかわからないんだ。さまざまな思考実験を積み重ね、組み合わせることで、そこにわれわれの思考の限界と世界のあり方の限界が同時に示されるんだよ。》(63-4頁)
 私は小泉氏がいう「新しいSF」に魅力を感じる。そして、「同一性を墨守する思想」とはまったく無縁な永井氏の思考実験がまさにそれなのではないかと考えている。私自身は「新しい神学」と名づけたいと思うし、思考実験とは神学の異称である、少なくとも神学に固有の方法であると思っているのだが、このことはまた別の機会にじっくり考えてみることにしよう(たとえば「火星に行った中国人は赤い猫の夢を見るか?」とか「グレッグ・イーガンの『貸金庫』は哲学の問題をはらんでいるか?」などの考察とあわせて)。

●「どちらか一方が私なら他方は私ではない」の二つの意味が理解できたからといって、そこにある「問題」を実感できない。それと同じことが、「哲学はまだ始まっていない」という節で永井氏が書いている問いについてもいえる。
《「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」──肝心かなめのこの問いに、多少とも肉迫できた哲学者は、史上ひとりもいない。哲学の終焉とか哲学の生き残りとかを語る人々がいるが、私は哲学はまだ始まっていないと思っている。》(150頁)
 ここがキモなのだと思う。「私の分裂」はこの問いの問題性を実感させるための思考実験なのであって、こういうありふれた事実に即した問いかけに「心の琴線」を激しくふるわせる「哲学的感度」をもった人だけが『私・今・そして神』を十分に読み込むことができるのだ。
 実は、正直に告白すると、私も(時々は)ぞくっとくることがある。なにか途方もない哲学的難問につきあたったという「哲覚」的実感(感触)を覚えることがある。そしてその事実はたちどころに儚く消え去り、記憶に残らない。「ぞくっときた」と過去形の言葉で報告できる記憶の枠組みのようなもの(カント的事実?)は残るが、肝心かなめの「ぞくっ」という実感(ライプニッツ的事実?)は完璧に消え去る。だから同じ実感を何度でも初めて味わうことになる。何度読んでも十分に読み込んだ気がしないのは、読むたびに初めてたちあがる実感の同一性を認定する立場がどこにもないからだ。

●「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」──この問いにぞくっとくるとき、私はおおよそ次のような二つの思いが重ね合わさった複合的な思いにとらわれている。
 その一。幼児が言葉を覚え一人前の口がきけるようになって、ある日ふと、なぜぼくはぼくで、ぼくはきみじゃないんだろうと疑問をいだく。それは言葉に精通するなかでしか生まれず、しかも言葉でしか表現できない問いでありながら、言葉(概念)を超えた、あるいは言葉以前の「存在」を問うている。存在の意味や本質をではなく、存在そのもの、そして存在がもたらす感触の違い(ぼくときみの根本的な違い)を問うている。そのような問い、つまり言葉なくして生じず、表現されず、しかも言葉を超え、言葉をもってしては答えられない問いがなぜ問われうるのだろうか。
 その二。私と私でない人間が一斉に消失し、地上から私と私でない人間のすべてがいなくなったとしよう。そして、魂とか神とか空とか呼び名はなんでもいいけれど(それらも所詮は概念にすぎない)、一つの大きなもののうちに融合し統合されているとしよう。そのとき、私と私でない人間との根本的な違いはどうなっているのだろう。すべてが私になるのだろうか。それともすべてが私でないものになるのだろうか。あるいは私が消失した時点で、私と私でない人間との関係も消失するのだろうか。そもそも私と私でない人間との根本的な違いは、そのような「関係」なのだろうか。

●第二の思いは、同じ実感を何度でも初めて味わうとか、同じものが何度でも初めて生まれてくるとか、一回性をもった物語が何度でも反復するといったことへの不可思議な思いと表裏一体をなしている。でも、この「私的思い」の間のつながりを語る言語が私にはみつけられない。
 ──『〈私〉のメタフィジクス』を最初に読んだちょうどその頃、私は八木誠一氏の神学啓蒙書にはまっていた。八木神学のキーワードに「統合体」がある。「互いに異なり、それゆえ相互否定的な一面を有する複数の個が、同時に相互否定媒介的にのみ成り立ち、しかも全体としてひとつのまとまりであるようなもの」(『キリスト教は信じうるか』)。この定義はあまり心の琴線に触れないけれど、八木氏は統合体の例として精神や音楽などをあげて、その統合をもたらす原理なり力が神であると書いていた(と思う)。
 私は、聞きかじりの脳科学の知識(人間の脳は、反射脳=爬虫類の脳、情動脳=前期哺乳類の脳、理性脳=霊長類の脳の三位一体でできている)と組み合わせて、脳もまた統合体であると考えた。そして、その統合をもたらす力、というか現に統合している人間の脳の中ではたらいている力が神であり、同時に神の観念を人間の意識にもたらすのだと考えた。つまり、神は私のうちに臨在している。その私が「かけがえのない私」であろうとなかろうと、そんなこととは無関係に。さらに、私でないという根本的な存在論的断絶に隔てられた他者のうちにも神は偏在している(だって、人間の脳はすべて同じはたらきをしているのだから)。
 私たちは一つ一つ、そして一つなのだ。同じ私が(つまり神が)何度でも初めて存在し、かつ唯一の私が(つまり神が)同時に複数存在する。ここにこそ永井均の「私哲学」(独在性の〈私〉論)のよってたつ「現実的」な基盤がある。永井均の哲学は、だから永井神学なのだ(思考実験による実験神学!)。神学(テオロギア)とは弁明(アポロギア)である。弁明されるべきは神の存在であり、たとえば神にして人であることの背理である。永井神学はやがて、その自らがよってたつ基盤(背理)の構造解明へと向かうだろう。そして、そうした構造解明の持続こそが、実は弁明されるべき背理を構成することになるだろう。私はそう考えた(これは今だからいえることなのだが)。
 ──ちなみに、茂木健一郎氏は『現代思想|脳科学の最前線』(2005年2月号)の港千尋氏との対談で、「脳活動から意識がどう生まれるかという問題は、ヨーロッパでは現代でも神学に直結するテーマとして認識され、議論されている」」と発言している。

●実際、『私・今・そして神』には受肉の秘義(73頁など)だとか神にとっての他我問題(89頁)といった、弁明されるべき背理をめぐる話題が頻出する。それどころか神の位階などという、いったいだれがそんなことを語りうるのか(高階のナレーター問題!)と問い返さずにはいられない話題さえ論じている。「そもそも自分自身が他者の主観的表象にすぎないと信じることは可能か」(200頁)という問いは、ほとんど神は存在するかという問いと同義だと思う(少なくともこの私にとっては)。
 だから本書はやはり、永井神学の『方法序説』であり『省察』なのだ。「私は、本書において、この同じ世界に私と内属している読者の方々に語りかけているのではない」(223頁)と永井氏は書いている。そうだとすると、この書物は「祈りの書」(聖書)であるというべきかもしれない。
 ──そういえば『転校生とブラック・ジャック』では、先生N(イエス)とAからLまで十二人の学生(使徒)による最後の晩餐での会話が記録されていた(さしずめユダは学生Cか)。四人の学生のレポート(福音書)も挿入されていた。そして、〈私〉がいなくなった後の世界を描いた終章「解釈学・系譜学・考古学」は、『私・今・そして神』の到来を予言していた(解釈学的世界=低次の神の世界=想像界、系譜学的世界=高階の神の世界=象徴界、考古学的世界=開闢の神の世界=現実界?)。

●哲学はまだ始まっていない。永井氏のこの言葉は、私には哲学問題の連続発生説の表明に聞こえる。私がいて、私でない人間がいて、そして世界がある。そのこと自体のうちに永井哲学の、いや永井神学のよってたつ基盤があり背理があるのだから、哲学はつねにすでに始まっている。そして、同じ問いを何度でも初めて問うことのうちに、問われている当のものが存在する。
《語ったあとからは次々と一般論に吸収されてしまうとはいえ、それを拒否する形で、つねにいま新たに、そしてつねにぼく自身が、問いを更新していかないと、初めから一般論として立てられたなら、そもそも問いの本質そのものが消えてしまうからね。一般論への吸収を拒むものが現に存在することが、この問題をはじめるためには必要なんだ。》(『転校生とブラック・ジャック』66頁)