マルジナリア7 「世界の背理」(補遺)



●前回、『私・今・そして神』をめぐって「やり残した作業」と書いたとき念頭に浮かんでいたことをいくつか書いておく(ついでに少し作業を進めてみる)。

 本書に二度(135頁と152頁)、デリダの『声と現象』の一文が引用されている(219頁でも今的言語=時間上の私的言語に関連して『声と現象』が参照されている)。これは時間上の私的言語=今的言語の)。「〈私〉の宣言には私の死が構造的に必然的である」(邦訳182頁)。これは「知覚陳述に知覚作用が随伴しようとしまいと、〈私〉の陳述に〈自己への現前〉としての生が随伴しようとしまいと、それは意義作用の機能遂行には全くどうでもよいことである」という文章に続くもので、エクリチュールはいつもすでにパロールに先立つ(『私・今・そして神』152頁)とか、このぼくの特殊性をめぐる問題は語ったあとから次々と一般論に吸収されてしまう(『転校生とブラック・ジャック』66頁)というのと同じことだ。

(内田樹氏が『他者と死者』の88頁で引用しているブランショの言葉も、たぶん同じことをいっている。「神を見た者は死ぬ。ことばの中でことばに生命を与えたものは息絶える。ことばとはこの死の生命なのだ」。あるいは、新宮一成氏が『無意識の組曲』の259頁で引用しているラカンの言葉も。「私は私が存在しないところで考える。ゆえに私は、私が考えていないところに存在する」。ついでに同書から新宮氏の文章を引用しておく。「「私は在る」は、無意識においては「私はかつて生きていた」として書かれている。無意識からの話は、まるで死者からの言づてのように響くことになる」(252頁)。「存在の言語は死体であり、現の存在は文字である」(263頁)。)

●私の分類では、デリダのテーゼ(の読み替え、というか位置づけの変更)は後期(中期)の永井哲学に固有の問題圏域をひらく。それは、「私の死」と「私の生」、存在と概念、私的言語と言語ゲーム(公共言語)のウロボロス的絡み合い、相互入れ子のフラクタル構造をめぐる問題で、あるホームページの「現在の研究テーマ」の項に掲載されていた「中心化された世界の哲学・《社会・個人》主義vs《多世界・独在》主義という対立の時間化」と同義である(たぶん)。

 このことを、『私・今・そして神』に何度か出てくる(113頁,197頁)「往路」と「復路」の対句表現(「開闢」と「持続」というライプニッツ=永井的対概念のカント=永井的ヴァージョン?)を使ってより正確に述べるならば、前期永井は復路(持続する私=公共言語で哲学する私)から往路(開闢の私=私的言語で哲学する私)を望見していたが、後期(中期)永井は往路と復路を同時に、というか往路と復路を組み込んだ世界の構造そのものを見ている。

●具体的に確認しておこう。『〈子ども〉のための哲学』(1996)では、次のように書かれていた。

《ぼく自身がとらえた存在の偶然性の問題は、ぼくの問題の理解者が理解するときにはふたたび(何度でも)概念の必然性の問題に変換される。一方で、このような存在の概念化は避けられないことだ(これがいつもすでに始まっているというのが、ぼくが解するところのJ・デリダの洞察で、これはたしかにするどい)。
 だが他方で、むしろ逆に、その概念的必然性の向こう側にあるもうひとつの存在の偶然性ということが、考えられないだろうか。いいかえれば、この〈奇蹟〉の向こう側にあるもう一つの〈奇蹟〉ということ。(略)このような思考の可能性を、普遍的な独我論のような形に落ち込むことなくうまくすくい出すこと。こんなところがぼくにとっての他者という問題の感触だ。》(120頁)

 『転校生とブラック・ジャック』では、「〈私〉の宣言には私の死が構造的に必然的である」に続くデリダの文章、「そのうえなお私が《生きて》いようと、そして私がそのことを確信していようと、それは意義作用に付随したおまけにすぎない」を踏まえて、次のように書かれている。

《そんなことはあたりまえで、問題は、そうしたすべてが、「私の生」という、意味作用の単なる「おまけ」にすぎないはずのものの内部現象にすぎない、ともいえることにあるんだ。本当に興味深いのは、そのこともまた構造的に必然的なのかどうか、ってことなんだよ。》(66頁)

●そして『私・今・そして神』では、この二つの構造的必然性をめぐるメタ構造(開闢によって開かれた世界の中で開闢が持続する)が摘出されるわけだ。

 いま「メタ構造」と書いたのは、たとえば「(弱い)ライプニッツ原理⊂カント原理⊂(強い)ライプニッツ原理」とか「(第一段階の)私的言語⊂言語ゲーム⊂(第二段階の?)私的言語」と表示できるもののことなのだが、ここで「a⊂b⊂a'」かつ「a'⊂a」の関係が同時に成り立ち、この(ラカンが「外密」[エクスティミテ]と呼んだ外部が内部に内包される、もしくは無限集合において部分集合の濃度が全体と一致するのと同様の)巨大な背理が世界の根本に据えられることになる(「低次の神⊂高階の神⊂開闢の神」においても同様。ここに出てくる三つの項はいずれも神なのだから)。
 

●このことに関連して「発見」したことがあるのでついでに書いておく。それは、神の位階ならぬ哲学問題の位階とでもいえるものだ。

 永井氏は「私の脳と私の意識との関係は、その私の意識の中に登場する他人の脳と他人の意識との関係とはつねに一段階ずれるのであり、そのずれこそが問題の本質なのだ」、「言い換えれば、心脳関係の問題は、つねに他我問題(他人の心の問題)をはらんでいる」(71頁)と書いてる。これを読んで思い出したのが、中島義道氏の『時間を哲学する』に出てくる次の文章だった。

《いきなり宣誓しますが、私は知覚ではなくむしろ想起こそ「心身問題」のモデルだと思っております。それをみな知覚の場面で論ずるから、答えられないことになる。心身問題の原型は想起、すなわち「刻印」というブラック・ボックスにおける現在と過去との関係なのですが、知覚をモデルにしたとたんに心身問題を引き起こす張本人である「時間」は消去されてしまい、大脳の〈ウチ〉に想起の「場所」を求めるというあたかも空間論のようなかたちをとってしまうのです。》(101-2頁)

 永井‐中島説を総合すると、哲学問題の関係は「他我論⊂心身論(心脳論)⊂時間論」と表すことができる。ここで「時間論=自我論」(「〈今〉論=〈私〉論」)と「自我論⊂他我論」(「〈私〉⊂〈神〉」あるいは「受肉の秘義⊂神にとっての他我問題」)を導入すると、先のメタ構造と同型の機構ができあがる。