マルジナリア6 「神の位階」(2005/01)



●永井均氏の『私・今・そして神』を繰り返し読んでいる。章節の流れに沿って最初から順を追って読むこと三度目。第一刷の発行日が昨年の10月20日だから、ほぼ月に一度の割合で読んでいる計算になる。それ以外にも折にふれ部分的な拾い読みをしたり、通読する際にも前の頁に戻って復誦し、先の頁に飛んで確認しながら再帰的・反復的に読んでいるので、重要な箇所だと一頁あたり五回以上は目を通している計算になる。
 それほど読んでも十分に読み込んだ気がしない。熟読してもなぜか玩味できない。陶酔(ロジカル・ハイ)もない。本書の平易で丁寧で率直な語り口は、これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださなければならないほどに分かりやすい。それなのに、肝心なところでいまひとつ分かった気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分からなくなる。

●この本の論述の趣向、というか概念の道具立てはとても分かりやすい。それは(意図されたものかどうかは別として)形式美にかなっている。まず、本書は初心者向けの第1章と玄人筋を想定した第3章、それらにはさまれて中心をなす第2章の三つの章からなる。そして、そのそれぞれの章うちに相互に関連する三組みの道具立てが設えられている。
 第1章に出てくるそれは「神の三つの位階」である。土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神(49頁)。世界に人間には識別できないが理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神(49頁)。世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階の神、すなわち開闢の神(66頁)。
 第2章には、神の位階に対応するかたちで三つの原理が出てくる。弱いライプニッツ原理とカント原理と強いライプニッツ原理(=デカルト原理)。(それらは『転校生とブラック・ジャック』(98頁)に出てくる三つの原理、すなわち人格同一性の原理、統覚原理、独在性原理に対応している。)
 ここでライプニッツ原理とは「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」という原理であり、カント原理とは「起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる」というもの(105頁)。そして弱いライプニッツ原理は、カント原理の内部でカント的に可能なものの中からの選択(そのうち一つの現実化)としてはたらくもので、強いライプニッツ原理は、カント的な可能性の空間をはじめてつくりだすものをいう(126-127頁)。
 最後に、第3章に出てくる私的言語の三段階。それが神の三つの位階や私と今と現実に関する三つの原理に対応しているだろうことは見やすい。でも、ここではそのことには触れない。というか、対応関係が私にはまだよく見えていない。また、八木雄二氏の後掲書に出てくる三つのこと、普遍的原理(質料形相論)と個別化原理とペルソナ性が大きく関連しているだろうことも見やすいが、そのことにもここでは触れない。

●永井氏がこれらの道具立てを駆使して取り組んでいるのは、「独在性の〈私〉」(現に今在る端的な〈私〉)をめぐるメタフィジックスそのものではない(それもあることはある)。自己利益の主体(人)である『私』をめぐる倫理学でも、生物(ヒト)としての“私”をめぐる人間学でもない。私たちの世界の共同プレーヤーたる「単独性の《私》」(概念的に把握された〈私〉)をめぐる論理学(「独在性の〈私〉」の語り方、そしてその語りのなかに見え隠れする「独在性の〈他者〉」とでも呼ぶべき存在者の語り方の問題)である。そういうことだったらよく分かる。でもそれが分かったからといって何がわかったことになるのかが分からない。
 あるいは『私・今・そして神』は、要するに「存在」(現実存在=実存)と「概念」(本質)との断絶(と相互包摂=循環関係)をめぐって、そしてそこに言語がどう関与するかをめぐって、言語によってなされた思考の記録である。たとえばそんなふうにいってもいい。でもそれだとちっとも面白くない。

●存在と概念の断絶──「存在」を生み出す「神」と「概念」を生み出す「言語」(「脳」といってもいい)との断絶、永井氏の語彙でいえば「開闢」と「持続」との断絶、あるいは「独在性の〈私〉」と「単独性の《私》」との断絶──は、「その概念自体がそれの現実存在によってしか理解できないものの存在」(88頁)、すなわち神や私の存在をめぐる証明のうちに表現されている。
 神の存在をめぐる存在論的証明と呼ばれるものがある。「神はXである」。神は定義上完全だから、このXにはすべての肯定的な規定、たとえば「存在する(〜がある)」という規定も代入できる。したがって「神は(現実に)存在する」。また、私の存在をめぐる存在論的証明ともいうべき論証がある。「我思うゆえに我あり」。これらの証明のなかで論証された神や私は、はたして現実に存在する「あの神」や「この私」を指せているか(175頁,178頁)。本書の中心をなす箇所(第2章11節)に出てくるこの問いのうちに、かの「断絶」は示されている。
  永井氏は、この『私・今・そして神』で論じられた存在と概念の関係をめぐる問題が、古代ギリシャ以来の西欧哲学の最も中心的な課題だったと書いている(180-181頁)。でもそれは「事実存在[existentia]」と「本質存在[essentia]」の分岐──「がある」と「である」の分岐、「これ性[haecceitas]」と「何性[quidditas]」の分岐、アクチュアリティとリアリティの分岐、財布の中の十億円と夢の中の十億円の分岐、「蛙飛びこむ水の音」と「古池」との分岐?(長谷川櫂『俳句的生活』参照)、等々──が形而上学の起源をなしたという哲学史家ハイデガーの所説そのものだ。そんなことを「お勉強」するためだったら永井均の著書を読む意味がない。(木田元氏のハイデガー本、最近のものだと『ハイデガー拾い読み』などを読む方がずっと面白い。)

●あるいは「開闢の私」(「独在性の〈私〉」)と〈私〉が開闢する世界のうちに持続的に位置づけられる「かけがえのない個」(単独性の《私》)との関係をめぐる「神学」の書。
 八木雄二氏は『「ただ一人」生きる思想』で、大要次のように述べている。哲学は普遍的なものを追求する。科学もまた種を普遍的に説明する。いずれも質料形相論という普遍的原理による説明でしかない。これに対して神学は個や個物を対象とする。「なぜなら、個々のものは…神が創造する対象だからである」(141頁)。ドゥンス・スコトゥスが導入した「個別化原理」こそ、霊魂の個人性を含めた「かけがえのない個」を説明する神学の原理であった。しかしこの原理をもってしても人間がもつ「ペルソナ性」を説明することはできない。スコトゥスによれば、神の本性をもつ子のペルソナ(キリスト)の十字架上の死にならい、孤絶(ぎりぎりのところまで一人であること)のうちに思惟の自由を貫徹することを通して人間の個はペルソナとなる、云々。
 普遍的原理=質料形相論によって説明できる『私』や“私”ではなく、個別化原理がもたらす「このもの」としての《私》やペルソナ性をもった〈私〉の存在と概念をめぐる「永井神学」?

●内田樹氏は『他者と死者』で、レヴィナスやラカンが量産した「邪悪なまでに難解なテクスト」が狙っているのは、わざと分かりにくく書くことでもって「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という「子どもの問い」へと読者を誘導することであると書いている(24頁)。
(ちなみに、ここに出てくる「子ども」はラカンのいう「想像界」にとどまるもの、つまり「間主観的な自我=他我図式」に踏みとどまり「鏡像的な感情移入」によって「大人」が示す「謎」を追尋するもののこと(83頁)であって、永井均的な意味での「子ども」、つまりひねもす「問い」をたれながし、「問い」そのものを生きる「子ども」のことではない。)
 『私・今・そして神』の分からなさは、レヴィナス=ラカン的な意味での難解(方法としての難解?)とはまるで違う種類のものだ。永井氏自身の言葉を使うならば、「理解できるが識別できない」ことが理解できてしまうことの分からなさとでもいおうか。
 たとえば始めて句会に顔をだし、座をしきる宗匠から「なに、『残り火や赤さわびしき夜ふけかな』か。〈や〉と〈かな〉の重複はとんでもねえ。〈や〉は〈の〉とするんだな」(高木卓『露伴の俳話』18頁)などと一喝され恐れ入ったあとで、さて何に恐れ入ったのだったか判然としない、そんな感じ。
(ちょっと違うか。むしろシャルル・ペローの童話「三つの願い」の大きなソーセージや、映画「シックス・センス」でブルース・ウィルス演じる小児精神科医マルコムが「死者が見える」少年コールに披露した手品に出てきたコインのような、「通り越して短絡させることができる」(233頁他)存在がもたらす空虚な感覚?)

●あるいは、ジョゼフ・ブレントの『パースの生涯』(有馬道子訳,46-47頁)に、チャールズ・サンダーズ・パースが自らの「言語表現の困難」(難解な文体)を左利きのせいにしたことが紹介されている。
 著者は続けて、ある論理学者の言葉やパースの甥の報告を引用しながら、アインシュタインとパースが視覚的図式的思考様式におけるつよい類似性をもっていたこと、それは「思考実験」の視覚言語をつくりだすのに二人ともイメージ半球を用いることができたことの結果ではないかということ、またパースは両半球を同時に用いることができるという不思議な能力をもっていて、黒板に論理学の問題とその答えを両手で同時に書くことができたことなどを紹介している。
 『私・今・そして神』の分からなさは、もちろんそうした特異な脳のはたらきによるものではない。そもそも永井均の思考実験は、アインシュタイン=パース的な「視覚的図式的思考」によるものではない。それは、強いていえば「神学的言語的思考」によるものだ。
 ──『私・今・そして神』は「存在」と「概念」の断絶をめぐって言語によってなされた思考の記録であるとか、永井均的思考実験は「視覚的図式的思考」によるものではなく「神学的言語的思考」によるものだとか、分かったような口をきくあなたはいったいどの「私」なんだい。あなたは、マンガがはらむ大狂気や絵日記の恐ろしさに拮抗するだけの「哲覚」的戦慄をもって(そしてつねに〈私〉によりそう「他者」の存在に対するゾクゾクするような問題感覚をもって)、〈私〉をめぐる思考実験にのぞんでいるのか。そもそも考えているのはあなたなのか。「私が考えている」と思ったとすれば、その「私」とはだれか?

●で、いま『私・今・そして神』の三回目の通読に入っている。それは、本書と三部作をなす『マンガは哲学する』や『転校生とブラック・ジャック』までひっぱりだしての大がかりな(?)作業になりかけているのだが、ここで書いておきたいのはそのことの顛末ではない。たとえば同じ本を三度読むことの意味、あるいは三部作を書くことの意味といった事柄である。

●内田樹氏は(『レヴィナスと愛の現象学』に続くライフワーク「レヴィナス三部作」の第二作となる)前掲書で、「何かが二度繰り返されたときにはじめて「謎」は生成する」(75-76頁)と書いている。
 「何を意味するのか分からないが、何かを意味していることだけは分かる」がゆえに、シニフィアンの終わりなき入れ替えを励起する「何か」(87頁)──あるいは、レヴィナスによって「現象」(慎みのない誇らしげな顕現)と対立するものとされた「謎」(おのれを顕示することなしに顕示する仕方)──は、「一度として現在であったことのない過去」の「痕跡」という仕方で、あるいは「私にとって一度として現実になったことのない過去」の経験(=「外傷」)という仕方で、あるいは「ことばに命を与え、命を与えることで消え去るもの」すなわち「前言撤回」という仕方で現出する(87-88頁)。
 デュパンが大臣を二度訪問したように(ポー「盗まれた手紙」)、「主」がモーセを二度シナイ山に呼び寄せ、二度戒律を刻んだ石板を授けたように、何か同じことが二度繰り返されることによって、そこに「隠されていた意味性」がたちあらわれる。「ゲームが二回続き、二度続けて勝つか負けるかすると、そのとき、人はそれと知らないうちに「象徴界」に足を踏み入れている」。ラカンはそう書いている(77頁)。

●また、内田氏はモーリス・ブランショの「複数のパロール」の概念──「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだ。それは同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」(67頁)──をめぐって次のように書いている。
《「私」ともう一人「〈私〉と名乗る他者」の二つの声が輻輳するとき、そこに、「私」のことばによっては決して担いきることのできない「何か」がある種の「倍音」のようにして聴き取られる。それをかつて詩人たちは「ミューズ」と呼び、ソクラテスは「ダイモニオン」と呼び、村上春樹は「うなぎ」と呼んだ。もちろんそれを「神の声」と呼ぶことだってできる。》(89頁)
 ここに出てくる「うなぎ」は、村上春樹がある対談(『柴田元幸と9人の作家たち』)で語った言葉だ。《僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけないと言うんですよ。…僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人だけじゃ、小説というものは成立しないんですよ。そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。》(65頁)
 内田氏はさらに、「主」とモーセの対面関係をプロトタイプとして構成されるユダヤ教的師弟関係をめぐって次のように書いている。《重要なのは「誰」と「誰」が対面しているかではなく、対面的事況そのものが成立することである。(中略)対面的事況とは「私」と「あなた」の「二者」の間に成立するものではない。対話とは本質的に「三者協議」なのであり、外部から到来する「第三者」を歓待する場のことなのである。》(92頁)

●一度目の読みでは、読者は想像界にとどまる。二度目の読みで、象徴界に足を踏み入れる。三度読むことで、現実界が到来する。三部作を書く場合も同様。内田氏の著書を読みながら、私はそんなことを考えている。そして、このラカンの三組みと「永井神学」における神の三つの位階が妖しげな関係をはらんでいるのではないかとも。
 さらに、チャールズ・サンダーズ・パースの三組みの記号(イコン・インデックス・シンボル)や三つの形而上学カテゴリー(質・関係・媒介)までもが艶めかしく思えてくる。「存在」と「概念」の対語は、永井均的語彙では「開闢」と「持続」になる。これをさらに「偶然」(「神という発想が嫌いな方は、かわりに単なる偶然と考えていただいても結構」(96頁))と「連続」(「毎瞬新たにつくられるのに、世界はなぜ連続しているのだろう?」(185頁))に置きかえるならば、それはパースの哲学のキーワードそのものだからである。

●補遺。ロバート・E・ショウの次の発言(「知覚の数学、あるいは意図と場の力学系」,『現代思想』2000年10月臨時増刊号)は、パースの三項関係のさらなる高次展開の可能性を示しているのかもしれない。
《これらのカテゴリー[引パースの三つの形而上学カテゴリー]は、経験を論理的で理解可能なものにするために必要とされました。「質」(quality)というのが第一性もしくは自発性(spontaneity)で、「反応」(reaction)が第二性もしくは現実性(actuality)、「関係性(表象)」が第三性もしくは可能性(possibility)です。これらの三つに加えて、私自身は、「第四性」を加えるべきだと主張したいと思います。第四性とは、システムのテレオノミカルな(teleonomisally:目的的な)自己組織化、もしくは「意図性」(intentionality)のことを表しています。》