マルジナリア6 「神の位階」(補遺)



●永井氏は、低位の神ならぬ「位階が低い脳」をめぐる問題を論じたところに出てくる「もし開闢そのものがそれによって開かれる世界の中に位置づけられなかったとしたら、それはたいへんなことだろう」、「自由意志もまた、それとして捉えられるためには、複数個存在する諸自由意志の一つとされなければならないのではないだろうか」という文章に続けて、次のように書いている。

《たしか新宮一成さんが、これに関連したことをどこかで書いておられたと思う。どこだったか忘れてしまったうえに、自分の関心に引き付けた勝手な読み方で読んだので不正確な紹介になるが、たとえばこんなことだった。このように世界の内部に位置づけられていない「愛」は、世界の側からの「迫害」として反転して現れうる。それこそがラカン的「鏡像」ということの真の意味だ、というような(まちがっていたら失礼)。この場合、私が世界を愛することと世界が私を迫害することが区別できない。もっと単純な例に言い換えてしまえば、私が服を着ることと服のほうが私に着せかかってくることが、だ。》(79頁)

●さっそく、かつていたく刺激を受けた新宮一成氏の著書、『ラカンの精神分析』『無意識の組曲』『夢分析』の三冊にざっと目を通してみた。私が見たかぎりでは、『無意識の組曲』の第四章に収められた「分裂病と他者の欲望」とこれに続く「精神分析の内景」が永井氏の言及している事柄と内容的に関連している。いずれも素晴らしい論考で、これを『私・今・そして神』と接続させるととても面白いと思うのだが、ここではその雰囲気を味わうだけにとどめておく。

(新宮一成氏の著書を読み返して、『私・今・そして神』との関係の深さに驚いた。とりわけ『夢分析』などは、ほとんど重ね合わせて読むことができる。ウィトゲンシュタイン=永井とフロイト=ラカン=新宮が、カントを基軸にして拮抗している。)

◎まずは「分裂病と他者の欲望」から。

《我々の無意識は、それが夢の中に現れる限りにおいて、我々のことを語らっているような何ものかである。(略)それはむしろ、我々と言語との根本的な関係を物語る。我々は、我々の思考や感情や行動において、常に、我々自身をあたかも外部から見るかのような視座を用意している。そこから見ると、我々の思考や行動は、まとまりのある、愛すべきものに見えるのである。その視座は、言語活動の中にあって我々を支えている。我々はそのような座の中へと、我々を疎外しているのである。
 ラカンの鏡像段階論の意味はここにある。私が、たとえば「かけがえのないこの私」というような概念を私について持つとき、「この私」という言葉につけられた指示語の働きからしても、このような観念が感情や非言語的交流の問題ではなく、言葉の問題であることが分かるであろう。「この」と言う主体と、私自身とは、自己愛的なユニットを形成しているのである。そのユニットにおいて、我々は常に語られており、話されているのである。》(232頁)

《愛が私の意識である限り、それが真理であるか否かは私が決定しなければならない。しかし自分で決定したこの愛が、真実であると私が言うためには、何かが不足しているように思われる。この愛が真実であるための根拠を、私はまだ求め切れていないように思われる。(略)まわりを見ると、誰もが皆、自分の内面の感情を真理として受け取ることをためらっていないように見えるにもかかわらず。皆に比べて、私には何かが欠けているのだろうか、私に欠けているものは何だろうか。このよにして、分裂病にも神経症にも共通に見られる、精神病理現象の母胎としての自己探索が開始される。》(239-40頁)

《私が考えているということ、あるいは私が私の考えだと思っていることが真に私の考えだということを、私の世界の中の何かが、証明してくれるであろうか。論理的には、何もないはずである。なぜならば、それは私の世界の中に含まれているものである以上、いまだ私の考え以上のものではないからだ。私の考えが私の考えたものであるということは、やはり私の考えなのだ。こうして私は私の主体性を真理として確立することができない。》(240-1頁)

《いずれにしても、我々の生への他者の欲望を、我々は認めないわけにはいかない。ただ、我々が我々の主体性を持って生き抜くためには、我々はその他者の欲望に、先んじなければならない。我々が生きるためには、他者の欲望が我々の中に実現しているのを認めるだけではなく、それに先んじるための形式を、創作しなければならないのである。たとえば「生まれる」という言葉はすでにそれ自体でこのような創作物である。これは自動詞である。しかしよく見ればこの言葉は「生む」という他動詞の受動形と区別がつかない。我々はこの自動詞において、生の初めから自己自身であったかのようにふるまいつつ、その一方で、根源的に受動的にこの世に押し出されたのだという事実を、無意識に承認している。我々は、他者の欲望を自己の行為に変えているのである。(略)これが分裂病者を含めた、我々人間の条件である。》(247頁)

《私は愛する、私は考える、などの自己言及的な内面の真理を構成するためには、私に愛させたり私に考えさせたりする他者の欲望を導入して、それに先んじて、愛や思考を欲望する必要があるということを我々は見てきた。(略)彼ら[分裂病者]もやはり、人生のある時期に来て内面の心理を構成しなければならなくなる。そのとき彼らも彼らなりのやり方で他者の欲望を確信し、にわかに積極的な人間に変貌する。それは外部の目にはただならぬ激昂と映るだろうが、そこに他者の欲望が現れていないことはない。
 彼らは、他者が何らかの欲望をもって彼らを迫害しているということを確信する。その確信の重要な特徴は、それが決して彼一人の孤独な確信ではないとされていることである。彼は我々に確信の共有を求める。(略)
 彼らが他ならぬそのような形式で確信を持つのはなぜか。それは彼らが、次のことを知っているからである。すなわち、彼らが今まさに妄想によって到達した欲望の構造を、我々も皆持っているからである。》(249-50頁)

◎次に「精神分析の内景」から。新宮氏はそこでプラトンの「饗宴」に出てくる三つの愛について論じている。──生きたままで愛を成就しようとすること(低次の愛)。身代わりになって死ぬような愛のあり方(ラカンはそこに見られる愛の構造を「愛は隠喩である」と表現した)。そして愛される者が突如として愛する者へと変貌すること。ラカンはそこに一つの「奇跡」を感じとるべきであると提言した。

《たとえば火をつけようとすると、薪が自分から燃え出すとか、果実に手を伸ばすと果実から手が生えてそれを迎えるとかいうことを想像してみるとよい。愛される者が愛する者に変わるとき、その者の内面ではこのような「奇跡」が起こったと言うしかない。そしてこのような「奇跡」が起こらなければ、愛は遂に不毛な空想に終わるだろう。これは隠喩の特別の場合、むしろ根源的な隠喩の作用であると言ってもよい。
 受動と能動が入れ替わるこの特別な隠喩の台座となる、このような薪や果実のような奇跡の対象こそ、我々が探し求める根源的に失われた対象である。我々がそれを欲望するとき、その欲望の意識にほんの一瞬間だけ先立って、それは我々を愛しにやって来るのである。夢はこのような対象であふれている。失われたものは別の姿をとってたちまち我々の所に帰ってくる。》(266頁)

《たとえばフロイトの言う「見る‐見られる」の関係の中で、受動と能動が交代するが、このような一見文法的な現象は、欲動の循環運動のために起こってくる。(略)この往還運動の中で最も重要なことは、その反転に際して「新しい主体が現れる」ということである。そのことを指摘しているのはフロイト自身である。すなわち、「見たい」にせよ「殺したい」にせよ、我々の欲動は他者に向かって動いて行って、結局それはそのまま我々自身の方へ帰ってくるだけなのであるが、反転の際に「新しい主体」が生じるため、我々自身の欲動はあたかもその新しい主体から出てくる何か他なるものであるかのように感知されるのである、ここには、ラカンが先に考えた「奇跡」の質が認められる。何かを蒙る対象が、何かを自ら行うようになるのだ。》(267頁)

◎ここに出てくる「新しい主体」という語を目にして、アレンカ・ジュパンチッチの『リアルの倫理──カントとラカン』を想起した。

 ジュパンチッチは、倫理的主体の「無からの創造」をめぐるカントの命題について、『たんなる理性の限界内の宗教』から次の一文を引用している(52頁)。《これは漸進的な改革によっては達成されえないだろう。むしろこれは、彼の心術の革命によって成し遂げられねばならない……。彼は、ある種生まれ変わることによってのみ、いわば新しく創造され直すことによってのみ、新しい人間になることができる。》

 ここで「カントの命題」とは、「主体は、自らの無意識に従属している[サブジェクト]──あるいは、隷属している──と同時に、最終的には、その無意識の主体[サブジェクト]──その無意識を選択した者──でもあるのだ」(51頁)とか、「主体の存在なしに自由はありえないが、この主体の誕生は、すでに自由な行為の結果である」(58頁)と説明されるものだ。
 ジュパンチッチは続けて、カントとラカンを互いに引き寄せる。《スラヴォイ・ジジェクによる解説を借りて、ラカンの考える倫理的行為についてまとめておこう。行為[アクト]は、行為者を根源的に変化させるという点で、「行動」[コンダクト]とは異なる。行為の後、私は「以前の私ではない」。行為の中で主体は消滅し、そして再び生まれる。つまり、主体は一時的に、皆既蝕における太陽や月のように、消えるのである。それゆえ行為とは、常に「犯罪」、主体が属する象徴界からの「逸脱」である。》(101-102頁)

 こうしてジュパンチッチは、ラカンがいう「現実界」(ザ・リアル=不可能なもの)のまわりを堂々巡りする欲望の倫理──「フロイトによる無意識の発見の思想的出発点となった倫理革命、これを引き起こした人間としてのカント」(ジジェク「序」)が発見したもの──を突き抜けていく。

●『私・今・そして神』の最終頁に次の文章が出てくる。最初読んだときには気づかなかったのだが、これは79頁に出てきた新宮一成氏による「ラカンの鏡像段階論の意味」と同じことである。

《おそらく言語は、たとえ私的言語であっても、それが可能である限り、どこまでも同格の他者の存在を、つまり対称性を要件としている。すなわち、語られた内容と理解される内容との一致、という要請である。(略)世界の内部で対称性の要請が満たされないとき、対称性は世界を超えて想定されるほかはない。(略)私、今、現実、神……世界の内部で理解されるなら、それらはつねに、もし世界内の一存在者でないとすれば何も連動していない歯車にすぎない。だからもちろん、そんなものは存在しないとつねに言える。しかし、通り越して短絡させることができる、機構全体とまったく繋がっていない、その歯車こそが、その機構全体をはじめて現実に存在(つまり実存)させているのだ。》(222-3頁)

 機構全体と繋がっていない歯車とは、「現実界」(ザ・リアル)に飛び交う「妄想」(不可能なもの)の隠喩である。永井氏はそれを、二重の抹消記号(××)の変形としての山括弧(〈 〉)で表記している。

《気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。
 他人との対比が持ち込まれれば〈私〉ということになり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということになる。[以下、身体と〈心〉、外界と〈内界〉、死と〈生〉、非現実と〈現実〉、決定論と〈自由意志〉の対比が続く。]
 対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になるわけだ。〈私〉と他人との対比が持ち込まれると、あたかもそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられるようになり、〈今〉が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる。
 もともとも存在しているのは〈 〉で囲んだほうだけなので、それ以外のものと一緒にその内部に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。人間たちの中に私はおらず、時間の中に今はない。むしろ〈私〉の中に人間たちが、〈今〉の中に時間がある。〈 〉で囲んだほうが存在することそこが、世界の開闢そのものなのである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。》(40-2頁)

 そして、開闢を持続させる(「開闢の奇跡」を複数化させる)ための文法(人称、時制、様相)が象徴界をひらくのである。《「心」とは、世界を開く「開闢の奇跡」を世界の内部に複数個並存させるためにつくられた高度に抽象的な超越概念である。》(52頁)

◎ラカンの「想像界・象徴界・現実界」について。

 内田樹『他者と死者』から。
《象徴界というラカンの術語の意味を、私たちはさしあたり、「私がその理解も共感も絶した他者、いかなる度量衡も共有されない他者に出会う境位」というふうに定義しておくことにする。
 であるならば「想像界」とは、「私が出会う人々が、私たちとともに一つの全体性を構成している、感情移入可能な他我であるような境位」ということになる。》(102頁)

 中沢新一『愛と経済のロゴス』から。
《ラカンは心の構造を、(1)生後間もない幼児の、母親の身体とのつながりをもとに、イメージを核にして形成されてくる「想像界」(2)ことばの体系を受け入れることによって、去勢され社会化された私をつくりだす「象徴界」(3)そこではなにもかもがモノとしてのふるまいをする心の唯物論的な層とも言うべき「現実界」、という三つの領分で構成されていると考えました。》(140頁)

 斎藤環『文脈病──ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ』から。
《「想像界」は、ナルシシックな主体の同一性に依拠する領域だ。ここではコミュニケーションは幻想に過ぎず、すべては自分自身との対話の変奏にすぎない。また「現実界」が依拠するのは、人間の生物種としての同一性と考えられる。ここでのコミュニケーションは主体にとって「不可能」の領域にあり、よってその同一性も、エスの作動を支える何らかの持続性、という以上の意味を持ちえない。それを端的に示すのがラカンの「性感形は存在しない」という言葉だ。(略)それでは「象徴界」を可能にする同一性の単位はなにか。それは「家族」である。》(321-2頁)

 福原泰平『ラカン──鏡像段階』から。
《享受や「もの」といった、語る主体が語るという必然性のゆえにそこに召還した語りえぬ不可能なものの領域を、ラカンは現実界と名づける。よって、現実界は語る主体が語ることでそこに出頭させたものであると同時に、出会いそこねたものであり、常時この両者は同伴しつつすれ違う次元に出現することになる。
 もちろん、語りえぬものがそのままの姿で世界にみずからをさらすことはない。サドが倒錯的な性のうちにその輪郭を浮かび上がらせたように、語りえぬものは不可能なものであり、これは世界の綻びの位置に自己自身を拒みつつ、そっとそのシルエットをほのめかすことで、それを与えているようなものである。主体はこのみずからを拒絶しつつ分け与える存在の核なるものと、常に出会いそこねることである種、無いものを与えられ、その生を保持している。
 現実界とはわれわれが日常触れている現実を支えるものではあれ、日ごろ見聞きし慣れ親しんだランボーのいう「ざらつく現実」世界のことをいっているのではない。それはわれわれの本質を形成するあくまで純粋な失われた虚なる焦点としてあり、「汚れつちまった」人間世界の現実のは相対立するものなのである。ラカンはこうした場所を明確な論理的構造を持つ、数学や位相幾何学の中にまで追いかけていく。》(227頁)

 新宮一成『ラカンの精神分析』から。
《象徴界は、このような黄金数[フィボナッチ数列の隣接項間の比の極限(196-201頁)、あるいは「私が他者をどう見ているかということ」が「私が全体の中で何であるかということ」に等しくなるときに得られる数(94-6頁)]を、自分自身の延長の必然的帰結として内包している。しかし、象徴界は、比(有理数)であるがゆえに、自分自身の極限値である対象a(無理数)を、自分自身にとっての不可能性としてしか内包できない。自己の外部のものが、自己自身の内側に内包されるということ、このような状態を、ラカンは「外密」[エクスティミテ]と呼ぶことを好んだ。外部でありながら最も「内密」な親しさを要求するものであるからだ。
 象徴界は、自己の象徴化の範域である。そのような範域の限界に当たるところに、この範域にとっては不可能なものが、組み込まれている。このように、自己を象徴化する理性が、自己にとっては不可能であるのに、それに対して関係を結ばざるを得ないような外部、これを現実界[ル・レエル]と言う。起源において在ったはずの我々自身が、悦びの名残りとして、更なる象徴化を求めている。我々は、その求めに応じて、無限の果ての現実界へと踏み込んでいくのである。》(202-3頁)

◎新宮一成『夢分析』からの落ち穂拾い(マンガについて、あるいは「三」という数に関連して)。

《…ある種のマンガには、通常の成人が表現できないような太古の感覚の残滓が描き出されることがある。》(7頁)

《フロイトはすでに、「三」は「ファルス」の象徴であるということを述べていた。この場合の「ファルス」の意味は、現実の男性性器から、男性の性欲や生殖能力、あるいは女性と対比した場合の男性一般の存在にまで広がっている。なぜ「三」が「ファルス」なのかということは、フロイトにも理解できなかったし、我々もまた途方にくれるだけである。》(93頁)

《「数」が夢において象徴性をもつにいたった経緯はまだ謎に包まれている。しかし「数」の類型夢論を精神分析全体の中において整合的に位置づけるためには、今の段階では、…「子どもの性理論」に関連していると仮定しておくのが研究の出発点として理にかなっていると思う。(略)人間と「数」との関わりあいの基本は、「人間が増える」ということ、とくに「人間に自分というものが加わったらどうなるか」という自己の存在に関わる問いを、一定の形式のもとに取り扱えるようにすることであろう。また子どもは、人間を生み出すものが「性」の力であるということを何らかのしかたで認識するが、それをすぐに「性行為」には結びつけない。むしろ、人間を増やす力としての「性」を、純粋な形式において理解しようとするだろう。その形式化のために子どもが「数」を用いたとしても、決して不思議ではない。「性」の力によって、自分は「人間と自分」の関係を数理的に処理せざるを得なくなったのだという認識が子どもに生じ、性と「数」との間に切り離しがたい関係ができるのではないだろうか。「数」の類型夢はこのような子どもの自己認識の方式に由来するのではないかということが、今の私の考えである。》(111-2頁)

《…「裸で困る夢」「近親者の死ぬ夢」「試験の夢」の三つの夢はうまくエディプス神話の筋書きに対応する。そこで、医学一般において一つの病気から代表的な三つの症状を取りだし、これを「トリアス」(三徴候)として寝台の一助としているのにならい、ここでも「エディプスの夢トリアス」という概念をつくって、我々の導きの糸としよう》(126-7頁)

《「夢トリアス」のうち、第一の「裸で困る夢」は、幼年期のように裸になって、しかし今や性的存在として母のもとを訪れることに、二番目の「近親者の死ぬ夢」は父を殺すことに、そして三番目の「試験の夢」はスフィンクスによる謎かけに対応し、それぞれ神話の要点を象徴的に表現しているということになる。》(128頁)

◎新宮一成『ラカンの精神分析』からの落ち穂拾い(八木誠一の「統合体」に関連して)。

《…鏡像段階論においてもラカンはやはり、解体された生物学的身体から、鏡像という架空の次元での統合体へと向かう動きを捉えていたのではいだろうか。》(170頁)

◎『無意識の組曲』の副題は「精神分析的夢幻論」。ここに出てくる「夢幻」という言葉は蠱惑的だ。──松岡心平さんの『宴の身体』に、世阿弥によって亡霊供養型の能が複式夢幻能へとしたてられるプロセスをめぐる記述があった。

《そのプロセスは今は詳述できないが、結論から言うと、世阿弥は夢の形式を導入し(例えば「通小町」には夢の設定はなかった)、過去と現在が同一人物において交錯する、より高度に構造化された複式夢幻能をつくり上げた。》(118頁)