1.世界の三層構造
●この本の論述の趣向、というか概念の道具立てはとても分かりやすい。それは(意図されたものかどうかは別として)形式美にかなっている。まず、本書は初心者向けの第1章と玄人筋を想定した第3章、それらにはさまれて中心をなす第2章の三つの章からなる。そして、そのそれぞれの章うちに相互に関連する三組みの道具立てが設えられている。
第1章に出てくるそれは「神の三つの位階」である。土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神(49頁)。世界に人間には識別できないが理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神(49頁)。世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階の神、すなわち開闢の神(66頁)。
第2章には、神の位階に対応するかたちで三つの原理が出てくる。弱いライプニッツ原理とカント原理と強いライプニッツ原理(=デカルト原理)。(それらは『転校生とブラック・ジャック』(98頁)に出てくる三つの原理、すなわち人格同一性の原理、統覚原理、独在性原理に対応している。)
ここでライプニッツ原理とは「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」という原理であり、カント原理とは「起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる」というもの(105頁)。そして弱いライプニッツ原理は、カント原理の内部でカント的に可能なものの中からの選択(そのうち一つの現実化)としてはたらくもので、強いライプニッツ原理は、カント的な可能性の空間をはじめてつくりだすものをいう(126-127頁)。
最後に、第3章に出てくる私的言語の三段階。それが神の三つの位階や私と今と現実に関する三つの原理に対応しているだろうことは見やすい。また、八木雄二氏の後掲書に出てくる三つのこと、普遍的原理(質料形相論)と個別化原理とペルソナ性が大きく関連しているだろうことも見やすい。
2.存在と概念
●永井氏がこれらの道具立てを駆使して取り組んでいるのは、「独在性の〈私〉」(現に今在る端的な〈私〉)をめぐるメタフィジックスそのものではない(それもあることはある)。自己利益の主体(人)である『私』をめぐる倫理学でも、生物(ヒト)としての“私”をめぐる人間学でもない。私たちの世界の共同プレーヤーたる「単独性の《私》」(概念的に把握された〈私〉)をめぐる論理学(「独在性の〈私〉」の語り方、そしてその語りのなかに見え隠れする「独在性の〈他者〉」とでも呼ぶべき存在者の語り方の問題)である。そういうことだったらよく分かる。でもそれが分かったからといって何がわかったことになるのかが分からない。
あるいは『私・今・そして神』は、要するに「存在」(現実存在=実存)と「概念」(本質)との断絶(と相互包摂=循環関係)をめぐって、そしてそこに言語がどう関与するかをめぐって、言語によってなされた思考の記録である。たとえばそんなふうにいってもいい。でもそれだとちっとも面白くない。
●存在と概念の断絶──「存在」を生み出す「神」と「概念」を生み出す「言語」(「脳」といってもいい)との断絶、永井氏の語彙でいえば「開闢」と「持続」との断絶、あるいは「独在性の〈私〉」と「単独性の《私》」との断絶──は、「その概念自体がそれの現実存在によってしか理解できないものの存在」(88頁)、すなわち神や私の存在をめぐる証明のうちに表現されている。
神の存在をめぐる存在論的証明と呼ばれるものがある。「神はXである」。神は定義上完全だから、このXにはすべての肯定的な規定、たとえば「存在する(〜がある)」という規定も代入できる。したがって「神は(現実に)存在する」。また、私の存在をめぐる存在論的証明ともいうべき論証がある。「我思うゆえに我あり」。これらの証明のなかで論証された神や私は、はたして現実に存在する「あの神」や「この私」を指せているか(175頁,178頁)。本書の中心をなす箇所(第2章11節)に出てくるこの問いのうちに、かの「断絶」は示されている。
永井氏は、この『私・今・そして神』で論じられた存在と概念の関係をめぐる問題が、古代ギリシャ以来の西欧哲学の最も中心的な課題だったと書いている(180-181頁)。でもそれは「事実存在[existentia]」と「本質存在[essentia]」の分岐──「がある」と「である」の分岐、「これ性[haecceitas]」と「何性[quidditas]」の分岐、アクチュアリティとリアリティの分岐、財布の中の十億円と夢の中の十億円の分岐、「蛙飛びこむ水の音」と「古池」との分岐?(長谷川櫂『俳句的生活』参照)、等々──が形而上学の起源をなしたという哲学史家ハイデガーの所説そのものだ。そんなことを「お勉強」するためだったら永井均の著書を読む意味がない。(木田元氏のハイデガー本、最近のものだと『ハイデガー拾い読み』などを読む方がずっと面白い。)
3.〈私〉とペルソナ
●あるいは「開闢の私」(「独在性の〈私〉」)と〈私〉が開闢する世界のうちに持続的に位置づけられる「かけがえのない個」(単独性の《私》)との関係をめぐる「神学」の書。
八木雄二氏は『「ただ一人」生きる思想』で、大要次のように述べている。哲学は普遍的なものを追求する。科学もまた種を普遍的に説明する。いずれも質料形相論という普遍的原理による説明でしかない。これに対して神学は個や個物を対象とする。「なぜなら、個々のものは…神が創造する対象だからである」(141頁)。ドゥンス・スコトゥスが導入した「個別化原理」こそ、霊魂の個人性を含めた「かけがえのない個」を説明する神学の原理であった。しかしこの原理をもってしても人間がもつ「ペルソナ性」を説明することはできない。スコトゥスによれば、神の本性をもつ子のペルソナ(キリスト)の十字架上の死にならい、孤絶(ぎりぎりのところまで一人であること)のうちに思惟の自由を貫徹することを通して人間の個はペルソナとなる、云々。
普遍的原理=質料形相論によって説明できる『私』や“私”ではなく、個別化原理がもたらす「このもの」としての《私》やペルソナ性をもった〈私〉の存在と概念をめぐる「永井神学」?
4.ラカンとパース
●一度目の読みでは、読者は想像界にとどまる。二度目の読みで、象徴界に足を踏み入れる。三度読むことで、現実界が到来する。三部作を書く場合も同様。内田氏の著書を読みながら、私はそんなことを考えている。そして、このラカンの三組みと「永井神学」における神の三つの位階が妖しげな関係をはらんでいるのではないかとも。
さらに、チャールズ・サンダーズ・パースの三組みの記号(イコン・インデックス・シンボル)や三つの形而上学カテゴリー(質・関係・媒介)までもが艶めかしく思えてくる。「存在」と「概念」の対語は、永井均的語彙では「開闢」と「持続」になる。これをさらに「偶然」(「神という発想が嫌いな方は、かわりに単なる偶然と考えていただいても結構」(96頁))と「連続」(「毎瞬新たにつくられるのに、世界はなぜ連続しているのだろう?」(185頁))に置きかえるならば、それはパースの哲学のキーワードそのものだからである。
『転校生とブラック・ジャック』 | 人格同一性原理
(心理的継続)(身体的連続) 解釈学(的心理)
単線的時間系列 |
統覚原理
(世界を開く主体) 系譜学(的認識)
|
独在性原理
考古学(的視点)
無限的時間系列 |
思考実験
五分前に創造されたもの |
現在における過去の痕跡
(たとえば記憶) |
世界そのもの・時間そのもの
本当の過去などというものはな かった |
過去そのもの
|
神の位階 | 低次の神 | 高階の神 | 開闢の神 |
原理 | 弱いライプニッツ原理 | カント原理 | 強いライプニッツ原理
(デカルト原理) |
私的言語 | 第1段階
言語ゲームの中の私的言語 |
第2段階
言語ゲーム |
第3段階
言語ゲームの規則を可能にする 「端的な私の言語」 |
マクタガート | B系列 | A系列 | C系列 |
ラカン | 想像界 | 象徴界 | 現実界 |
パース | 質 | 関係 | 媒介 |
神学 | 質料形相論 | 個別化原理 | ペルソナ |