マルジナリア5 「存在の工場」(2004/11)



●最近、面白く読んだ本のなかにベルクソンをめぐる二つの記述(それぞれ知覚と記憶に関するもの)が出てきたので、まずその引用から始めよう。
 實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学──心を囲い込む近代』(講談社)。實川氏によると、ベルクソンは「自然科学の扱う問題について、科学者と正面から議論のできた、おそらく最後の哲学者」であり、「その学説が一部の専門家や好事家にとどまらず、知的社会全体に影響をおよぼすだけの力を持ちえた、最後の哲学者」(196頁)であった。
 このこととどう関係してくるかは別として、本書に、知覚を環境との関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組みのなかにある考えであって、百年ほど前のベルクソンによっても語られ、その後メルロ=ポンティが洗練された形で示したのだと書いてある(233頁)。この指摘は、次の文章につけられた註のなかに出てくる。
《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは「可能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出して、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい言葉づかいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》(72-73頁)

●内田樹『死と身体──コミュニケーションの磁場』(医学書院)。内田氏はそこで、武道家・甲野善紀の「人間の身体は、一瞬手と手が触れただけで、相手の体軸、重心、足の位置、運動の力、速さがわかる」という言葉と、「人間は指と指がふれた瞬間に無限の情報が伝授される」というポール・ヴァレリーの身体論(運動性記憶の概念)を紹介している。
《一九世紀から二○世紀の初めぐらいには、運動性の記憶とか、運動性の知覚と伝達とかは、ヨーロッパではまっとうな学問として存在していた。それがなぜか一九二○年代にあらかた消えてしまう。「記憶を司るのは頭ではなく身体である。記憶は運動的なものである」というベルクソンやヴァレリーの考え方が一掃され、もう誰も相手にしなくなるのです。(略)プルーストの『失われた時を求めて』では、つまずいてよろけた瞬間にありありとむかしのことを思い出すという有名なくだりがありますね。一九世紀までは、ある構えをすると身体記憶、過去の体感が、場合によっては自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくるというのは「常識」だったんです。それが九○年ほど前に、常識から登録抹消された。》(114-115頁)

●この文章の最後に出てくる「自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくる」には強調符がついていて、これを目にしたとき、私は『思想史のなかの臨床心理学』でのある議論(第一次意識革命をめぐるもの)を想起した。
 實川氏は「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀まで一体だった」(139頁)という。ところが近代になって──臨床心理学による、古代以来の「物質的な無意識」や「無意識の理性」(神の理性)に替わる新しい無意識の「発明」に先だち──物質と精神の二面をもつ中性的で根源的な(自然科学を基礎づける究極の事実としての)新しい意識が「発明」された(142頁)。ユダヤ=キリスト教的な「神の理性」の後継者としての意識が登場し(意識革命)、世界は「神の国」から「意識の国」へと変換された。
《ここで、ひとつ注意しておきたいことがある。「意識革命」が起こり、「意識の国」が築かれたとは言っても、この時代にはまだ、意識は公共のものだったという点である。すなわち、意識は個々人の内側に閉じ込められてはおらず、もちろん感覚も含めて、みなが共有できるものだった。(略)意識が、観察できない個々人の秘められた主観性だと一般に考えられるようになるのは、二○世紀になってからである。》(『思想史のなかの臨床心理学』143頁)

●ところで、私が今回とりあげたいのはベルクソンの純粋知覚や記憶の理論ではない。あるいは(木田元氏が『マッハとニーチェ』で鮮やかに素描した)一九世紀から二○世紀への世紀転換期の「知殻変動」の実質(たとえばダーウィンの進化論が果たした役割など)や、そこから派生した心脳問題の意義といったことでもない。ベルクソンを話題の起点にして、プラグマティズムという一つの哲学的気質がもたらす帰結の一端を見ておきたいと思ったのである。
 ──ベルクソンは『思想と動くもの』(河野与一訳,岩波文庫)に収められた「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム 真理と事象」で、事象[レアリテ]の多様な流れとの接触から生ずる真理(たとえば神秘家の心を動かす真理、その感情に属し意志に依存する真理)、つまり「考えられる前に感ぜられる真理」(344頁)にこそプラグマティズムの起源があると書いている。
《「宗教的経験」に関するジェイムズの本が出た時に、多くの人はこれを宗教感情のきわめて生きいきとした描写ときわめて鋭い分析、つまり心理学としか考えなかった。これは著者の思想に対する重大な誤解である。実を言うと、ジェイムズが神秘的な心をのぞきこんでいるのは、ちょうどわれわれが春の日に朝風の柔らかさを感ずるために窓から乗り出したり、海岸でどっちから風が吹くかを知るために船の往来やその帆の膨らみを眺めるようなものであった。宗教的な感激に充たされた心は実際もちあげられて夢中になっている。ちょうど科学の実験におけるように、それを夢中にしもちあげる力の生きいきした姿をとらえさせるものではないか。そこに疑いもなくウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」の起源があり着想がある。われわれが認識するのにもっとも重要な真理は、ジェイムズにとっては、思考される前に感ぜられ生きられた真理である。》(334-335頁)

●プラグマティズムの眼目は「行為」にある。ジェイムズは『プラグマティズム』(桝田啓三郎訳,岩波文庫)で、チャールズ・サンダース・パースの原理──「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。その行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である」(39頁)──を紹介し、プラグマティックな方法について、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向おうとする態度なのである」(46頁)と規定している。
《プラグマティズムはまったく親切である。それはどんな仮説でも受け入れ、どんなわかりきったことでも考慮に入れるだろう。それだからプラグマティズムは宗教の領域においては、反神学的な偏執を有する実証主義的経験論と、幽遠なもの、高貴なもの、単純なもの、抽象的な概念にもっぱら興味をよせる宗教的合理論とのどちらよりもはるかに有利な地歩をしめることになる。(略)プラグマティズムが真理の公算を定める唯一の根拠は、われわれを導く上に最もよく働くもの、生活のどの部分にも一番よく適合して、経験の諸要素をどれ一つ残さずにその全体と結びつくものということである。もし神学上の諸観念がこれを果たすとすれば、もしとくに神の観念がそれを果たすことが事実として証明されるとすれば、どうしてプラグマティズムは神の存在を否定しえよう。》(65頁)

●その仮説から将来の経験や行為が導き出せないとすれば、もしくは過去回顧的な見地からは、唯物論も有神論も、つまり物質(盲目的なアトムの目的なき結び合わせ)も神(摂理)も同一物である。絶対者、神、自由意志、設計といった神学上の諸概念は、主知主義的には暗闇である。
 ただ未来展望的な見地、プラグマティズムの見地からのみ、それらは「救済の説」としての意義をもつ。たとえば自由意志。それは「この世界に新しいものが出現するということ、すなわち、世界のもっとも深い諸要素においても、また表面にあらわれる現象においても、未来は過去と同一的に繰りかえすものでも模倣するものでもないことを期待する権利」(91頁)という意義をもつ。──ジェイムズは『プラグマティズム』の最終講で、われわれの行為こそが世界の救済を創造するのではないかと問いかけている(210頁)。
《私はあえてたずねる、なぜそうではないのか? われわれの行為、われわれの転換の場、そこでわれわれはみずからわれわれ自身を作りそして生長して行くのであるから、それはわれわれにもっとも近い世界の部分なのである。この部分についてこそわれわれの知識はもっともよく通じており完全なのである。なぜわれわれはそれを額面どおりに受け取ってはならないのか? なぜそれがそう見えるとおりに世界の現実的な転換の場、生長の場でありえないのか──なぜ存在の工場であることができないのか。この工場においてこそ、われわれは事実をその生成過程において捉えるのであり、したがって、世界はそれ以外の仕方では、どこにも生長しえないのではいか。》(211頁)

●しかし、それは非合理ではないか。新しい存在が局所的に現われてくるはずがない。事物の存在理由は全自然界の物質的圧力ないしはその論理的強制のほかはない。だとすれば世界は万遍なく生長すべきであって、単なる部分がそれだけで生長するなどは非合理である。このありうべき非難に対してジェイムズは答える。
《論理、必然性、範疇、絶対者、そのほか哲学工場全部の製造品をお気に召すままに持ち出されて結構であるが、およそ何ものかが存在しなければならぬという現実的な理由としては、誰かがそれのここにあることを欲するというただ一つの理由しか私には考えられないのである。それは要求されてあるのである。──どれほど小さい世界の部分であろうとそれをいわば救助するために要求されてあるのである。これが生きた理由なのであって、この理由にくらべると、物質的原因とか論理的必然性とかは幽霊みたいなものである。》(211-212頁)

●プラグマティズムは「神学」の異称である。私はおぼろげにそう考えている。それは、たとえばパースの「プラグマティシズム」とジェイムズの「プラグマティズム」のうちにスコラ的実在論と唯名論を重ね合わせてみるといったよくある比較論にはじまって、パース(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』,岩波文庫)のいう「仮説についての科学」(71頁)としての純粋数学もしくは「数学的形而上学」(275頁)、前田英樹氏がいう──形而上学の体系的思考(「からごころ」)を批判する共通の立脚点としての、あるいは「今、ここにしかじかの身体を持つ」というところから世界を捉える(身ひとつで「学問の実義」を生きる)こととしての──「深い意味でのプラグマティズム」(インタビュー「『感想』とは何か」,文藝別冊『小林秀雄』74-75頁)、そしてジル・ドゥルーズの「生命論」などをブレンドした新しい神学のことである。

●ジェイムズは「変化しつつある実在という考えについて」(『純粋経験の哲学』所収,伊藤邦武編訳,岩波文庫)のなかで次のように書き、「ベルクソンの研究者たちがパース氏の思想をベルクソンの思想と比較してみるよう、心から勧める」と結んでいる。新しい神学をめぐる(私の)作業はこの比較論から始まるだろう。
《パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふたりの思想は完全に重なり合うものである。どちらの哲学者も、事物における新しさの出現は純然たる本物の出来事であると信じている。新しさは、それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては、多大な「偶然」の関与ということでしかありえないが、その内部に立つ者にとっては、それは「自由な創造的活動性」である。》(165-166頁)

●先の文章(それは仏訳版『プラグマティズム』の序文として書かれた)のなかで、ベルクソンは、自然の力を利用するために機械的な装置を創造するように、われわれは事象を利用するために真理を「発明」するのであって、そこにこそプラグマティズムの真理観の要点があると書いている(339頁)。そこで発明される真理とは(哲学的)概念であり、仮説である。
《赤ん坊は、「物」すなわち過ぎていく雑多な動く現象を通じて不変に独立して存続するなにかについてはっきりした観念をもってはいない。この不変とこの独立を信じようと思いついた最初の人は一つの仮説を作った。その仮説をわれわれはふだん一つの名詞を使うたびに、われわれがものを言うたびに採用しているのである。もしも人類がその進化の過程において別の種類の仮説を採用する方がいいと思ったとすれば、われわれの文法は別のものとなっていただろうし、われわれの思考の分節も別のものとなっていたであろう。/してみると、われわれの精神の構造は大部分われわれの作品、少なくともわれわれのうちのあるものの作品である。私はこれが、表面には指摘されていないとしても、プラグマティズムのもっとも重要な論旨だと思う。この点でプラグマティズムはカント思想を続けているのである。》(『思想と動くもの』341頁)

●これを読んで私は、永井均氏の『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社)の序文を想起した。永井氏はそこで、矛盾対立する哲学上の学説がいつまでも淘汰されずに共存しつづけ、敬意を払われつづけるのは、「哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝えることができないようにできているからだと思う」(7頁)と書いている。
 プラグマティズムは「哲学」の異称でもある。私はいまおぼろげにそう考えはじめている。──哲学工場(というより、哲学的技術が伝承される哲学工房)における工具製造の技芸としてのプラグマティズム。その工具(概念)を使い、存在の工場において稼働する推論の法則(可能態から現実態への仮説形成的=実験神学的な創造の法則)としてのプラグマティズム。

●補遺。《赤ん坊は、「物」すなわち過ぎていく雑多な動く現象を通じて不変に独立して存続するなにかについてはっきりした観念をもってはいない。この不変とこの独立を信じようと思いついた最初の人は一つの仮説を作った。その仮説をわれわれはふだん一つの名詞を使うたびに、われわれがものを言うたびに採用しているのである。もしも人類がその進化の過程において別の種類の仮説を採用する方がいいと思ったとすれば、われわれの文法は別のものとなっていただろうし、われわれの思考の分節も別のものとなっていたであろう。/してみると、われわれの精神の構造は大部分われわれの作品、少なくともわれわれのうちのあるものの作品である。私はこれが、表面には指摘されていないとしても、実用主義のもっとも重要な論旨だと思う。この点で実用主義はカント思想を続けているのである。》(「ウィリアム・ジェイムズの実用主義[プラグマティズム] 真理と事象」,『思想と動くもの』341頁)

●補遺。プラグマティックな宗教というものを考えている。現世利益、信ずる者は救われる。そういった実用宗教もしくは(家庭の医学ならぬ)家庭の宗教の類を考えているわけではない。そもそも宗教はプラグマティックなものである。というか、プラグマティックな思考とは実は宗教的思考のことなのではないか。そういうことを考えたいのである。
 たとえば無限は観念としてのみある「内的実在」で、自然・宇宙すなわち「外的実在」には無限はない。そのような純粋に観念としてのみあるものの論理的構築物を「形而上学的実在」と称するならば、形而上学を検証するものとしてプラグマティズムが考えられる。それは科学的な検証とは次元が違う。宗教的思考こそがそういう意味でのプラグマティズムそのものなのではないかということ。
 ところで、論理もまた観念としてのみある。無限をめぐる矛盾(たとえば無限集合では部分が全体と一致する)は観念=論理に固有なものだ。自然には矛盾はない。その無限を「神」もしくは「無」もしくは「カミ」と名づけることのプラグマティックな意味とは? マッテ・ブランコの論理学。解けない問いを解くこと(ドゥルーズ)。