マルジナリア4 「存在の一義性」(2004/09)



●小林秀雄の未完のベルクソン論『感想』が第五次全集の別巻として刊行されて二年余り。長年入手したかった幻の論考を書物のかたちで手にしてさっそく読み始めたものの、当初の緊張は持続せず、やがて活字を目で追うだけの怠惰な読書態度とともに精神はすっかり弛緩しきっていった。
 結局その時は、もっとも読みたかった四十九節以降──『物質と記憶』第四章が到達した物質理論、すなわち「内省によって経験されている精神の持続と類似した一種の持続が、物質にも在るというベルクソンの考え」を「今日の物理学が到達した場所」(量子論)に関係させながら、アインシュタイン対ベルクソンという「存在しなかった二人の論争を、一個の思想劇として存在させてみせること」(前田英樹,210頁)を企て、ついに「力尽きて、やめてしまった」(岡潔との対話「人間の建設」)五十六節まで──にはるか及ばないところで未完のまま中断した。
 この夏、再読へのはずみをつけるために山崎行太郎『小林秀雄とベルクソン』(増補版)、前田英樹『小林秀雄』の二冊にあらためて目を通した。

●「「感想」を読む」の副題をもつ『小林秀雄とベルクソン』は、小林秀雄の矛盾を恐れない過激な「原理的思考」(152頁)と理論物理学との「きわめて密接な関係」(13頁)──「小林秀雄の批評は、アインシュタインの「相対性理論」の出現と、ハイゼンベルグらの「量子物理学」の出現とに代表される、かつてない大きな二十世紀の「科学革命」という歴史的状況の中から生まれてきたものであった」(18頁)──を「様々なる意匠」による文壇デビュー以前から丹念にたどってみせる。
 そのうえで、「小林秀雄という批評家の「火薬庫」」(240頁)ともいうべき『感想』について「それまで、秘密のベールにつつまれていた小林秀雄的思考の急所を、ベルクソン論という形で公開した」「原理論の書」(70頁)、「ベルクソン論というよりベルクソンを素材にして、小林秀雄が、様々な思考実験を行った評論」(71頁)、「小林秀雄自身による小林秀雄論」(223頁)、「遺書」(89頁)と規定している。
 小林秀雄と理論物理学というテーマ設定そのものはいま読んでも画期的だと思うが、『感想』刊行後となってはもはやそれだけでは物足りない。

●たとえば山崎氏は、小林秀雄が理論物理学に「異常なまでの関心」(23頁)をもった理由をめぐって、小林が物理学革命の中に自身の体験してきた文学革命と同じものを見出したからであり(23頁)、またアインシュタインの例に見られるような矛盾を恐れない過激な思考力の展開のためである(26頁)と書いている。
 ここで言われる文学革命の実質は「物」的世界像から「場」的世界像への転換であって、それは小林自身のドストエフスキイ論のうちに表明されていた。──ドストエフスキイは「人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして扱い、主客物心の対立の消えた生活の「場」の中心に、新しい人間像を建てた」(『「地下室の手記」と「永遠の良人」』)のだが、「ここに現れた近代小説に於ける世界像の変革は、恰も近代物理学に於ける実体的な「物」を基礎とした従来の世界像が、電磁波的な「場」の発見によって覆ったにも比すべき変革であった」(『「罪と罰」について』)。

●あるいはそれは「様々なる意匠」に出てくる「人間喜劇」から「天才喜劇」への転換、つまり「小説家小林秀雄の挫折」から「批評家小林秀雄の誕生」にいたる「知的クーデター」(51頁)のうちに表明されていた。
 そこには──ニールス・ボーアが「量子論にあっては、私達は俳優でもあるし、観客でもある」と表現した「観測問題」とともに──「実在」の客観的記述をめぐる理論物理学のパラダイム転換とパラレルなものが潜んでいる。
《小林秀雄が「観測者」としての「作家」を問題にしたということは、……きわめて画期的なことだと言わなければならない。つまり、作家は「人間」という対象を観測する古典物理学的な観測者である。これに対して、「観測者」としての「作家」を観測する批評家の誕生は、世界観、ないしは存在観の変換を背景にしている。》(62頁)

●小林秀雄と理論物理学をつなぐいまひとつの側面、すなわち「過激な思考力の展開」をめぐって、山崎氏は──小林自身の言葉で「ある人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。その人の宿命にかかっている」と表現された──「宿命の理論」をもちだす。
 山崎氏によれば、宿命の理論は「小林秀雄の批評のアルファでありオメガ」(54頁)であって、それは「概念と実在の一致」が真理であると考えるような認識論が崩壊したあとで、それにとってかわるべきもう一つ別の認識論へとラディカルに思考軸の座標変換をはたす、極限から極限への命懸けの飛躍を伴うものであった(53-54頁)。
《小林秀雄は新しい理論によって、新しい解釈を提出したのではない。小林が提出した問題は、理論が現実と一致することは決してありえないという、理論的思考そのものの不可能性という問題であった。(略)小林はあくまでも理論の人として、その理論の可能な限りの極限をめざした人である。そしてその理論の極限において、あらゆる理論がそのパラドックスに直面して崩壊していく様を見た人なのだ。すくなくとも小林秀雄は、アインシュタインの相対性理論からヘイゼンベルグ、ボーアらの量子物理学にいたるまでの理論物理学の歩みをたどれるだけの理論的能力の所有者だったことを忘れてはならない。小林のベルクソン論は、まさしく量子物理学の説明が終わったところで中断している。小林秀雄ももうそれ以上先へ進むことができなかったからだ。》(81-82頁)
 
●それ以上先へ進むことができなかったのは、むしろ『小林秀雄とベルクソン』の方である。そもそも山崎氏の議論は、理論物理学の話題を抜きにしても語りうるものだ。そこには『感想』における小林秀雄の思考が強いられた「錯綜」や「紆余曲折」(前田196頁)に拮抗するもの、あるいは「実在[レアリテ]の複雑紛糾」(『物質と記憶』第七版の序、『感想』258頁)に由来するもの、端的に言えば「観念論や実在論が存在と現象に分けてしまう以前の物質」(同)に対するさしせまった「問い」──「彼の全身を血球とともに循る」(「様々なる意匠」)ほどの──を見出すことはできない。

●ここで、先にふれた『感想』五十四節の冒頭を正確に引用しておこう。《内省によって経験されている精神の持続と類似した一種の持続が、物質にも在るというベルクソンの考えは、発表当時は、理解し難い異様なものと思われたが、今日の物理学が到達した場所から、これを顧みるなら、大変興味ある考えになる。物理学が、[プランクの]常数hの有限値の為に、物的世界を、マクロコスムとミクロコスムの二つの世界に区分して理解しなければならなくなった事は、「実用の[プラティック]」世界の奥に「運動性[モビリテ]」の世界が在るというベルクソンの哲学的反省に一致している。そうは言えないとしても、両者は決して無関係ではあるまい。》(『感想』357頁)

●いまひとつ、『感想』五十五節の末尾から。《物資の持続は、これをどこまでも分析して行けば、限りなく早い諸瞬間の継起になり、それらは、遂に、互に等価なものに、同質の振動になって了うであろう。これが、絶えず新たに繰返される現在なのである。そして、持続に於て継起する諸瞬間の完全な等価とは、まさしく、絶対的必然性を意味する。ただ、注意すべきは、そういう、各瞬間が、それに先立つ瞬間から数学的に導かれる厳密な必然性が、物質の持続の真相であるとは、ベルグソンは断言していない事である。(略)予言は的中したと言っても過言ではない。少くともこうは言えるだろう。ベルグソンの物質理論は、彼のメタフィジックのほんの一部を成すものだが、彼が、自分の仕事を、ポジティヴィスム・メタフィジックと呼んだ真意は、今日のフィジックが明らかにした筈だ、と。》(『感想』367-368頁)

●私は何も現代の「フィジック」──竹内薫(『世界が変わる現代物理学』)が言うところの「SF化」する現代物理学──や宇宙論や分子生物学や脳科学が明らかにした(明らかにしようとしている)事柄に即して、小林秀雄が『感想』で取り組んだ「問い」を引き継ぎ、小林が言うところの「物質精神連続体」としての実在の二重性をめぐる「メタフィジック」の構築をめざすべきだったと言いたいのではない。
 山崎氏はたしかに小林秀雄の批評が孕んでいたある「秘密」の所在を明らかにした。それは正当に評価されるべきだし、『小林秀雄とベルクソン』は決して暇つぶしに終わらぬ面白い読み物だったけれども、その論考自体は小林流の批評ではなかった。少なくとも小林秀雄が『物質と記憶』に迫っていった渾身の緊張をもって『感想』に挑んだわけではなかった。

●前田英樹の『小林秀雄』はスリリングな論考だった。とりわけ、絵画記号をめぐる『近代絵画』や音声言語をめぐる『本居宣長』との(三部作としての)関連性において、『感想』が成し遂げた達成を様々な水準における二重性──生活上の行動がもつ「能動性」と実在との接触に関わる「受動性」(33頁)、知覚(科学)と直観(哲学)による経験の「二重化」(180頁)、物質と精神という「実在が私たちの経験に与える二重の相」もしくは「経験の事実としての二元論」(181頁)、あるいは知覚(物質)と記憶(時間)の各々がもつ「現実的[actuel]」と「潜在的[virtuel]」という二つの次元(189頁)、知覚における無意識と記憶における無意識の「二重の潜在性」(190頁)、等々──に即して腑分けしきった叙述は、質量ともに本書の白眉をなすものだ。

●前田氏は、「モビリテ」の世界は「プラティック」な行動の世界の奥に、すなわち「物質の潜在的次元」にあると言う(206頁)。そして量子論が顕わにした極微的物質の世界は、その存在の仕方においてベルクソンの「潜在性」と通じ合ってくるのだが、「潜在的なものを、現実的なものを語る用語によって説明すれば、理性にとって堪えがたい矛盾、あるいは逆説を引き起こすしかない」と書いている(204頁,207-208頁)。
《『感想』が執拗に繰り返すように、私たちの生は、記憶と知覚とに、二重化され、記憶と知覚とはまたそれぞれに二重化され、知覚に与えられる物質もまた二重の構造をもって現われる。この二重性は、あらゆる水準において〈現実的なもの〉と〈潜在的なもの〉との関係を取るが、「常識」は自然の設計がもたらすこの二重性を、行動の中で一挙に統一して生きている。小林のベルクソン論が一貫して説くことは、この統一[ユニテ]から身を起こし、こうしたユニテが自然のなかで不断に果たしている二つの方向への分極を同時に果てまで辿ってみよ、ということである。(略)だが、行動が果たすユニテの二つの方向への分極を、同時に果てまで辿っていくことは、どのようにして可能なのだろうか。量子論のパラドックスは、潜在的なものの構造を現実的なものの用語法によって思考し、その結果を数式の統計的可能性によって表現する、というところから来ていた。それならば、重要なものは言葉、すなわち、実在が持つ二重の方向を同時に辿りうるような言葉だろう。小林が、この問題を徹底して取り上げるのは、言うまでもなく、宣長論においてである。》(209頁)

●ところで私が『小林秀雄』を読みながらつねに想起していたのは、かの「精妙博士」ドゥンス・スコトゥスの名であり、ジル・ドゥルーズ(『差異と反復』)がスピノザの実体やニーチェの永遠回帰の系譜に位置づけたスコトゥス由来の「存在の一義性」という概念だった。
 山内志郎(『天使の記号論』)によると、存在の一義性とは存在が神と被造物、無限と有限とに中立的である(両者の間の共約不可能性の条件となる)ということだが(154-156頁)、それだけではない。そこにはあたかも受精以前の卵はオス、メスの「いずれでもないが、いずれともなりうる」という、「事物に内在する積極的なものが現実化をなす」(160頁)内在的超越の思想が込められている(157頁)。そしてそのような意味での存在の一義性において要となるのが潜在性(virtualitas)である(164頁)。
《〈存在〉の一義性の構造の骨組みだけ取り出せば、〈存在〉概念が矛盾対立を引き起こしうる統一性を持った概念であることは、〈存在〉の一義性の〈十分条件〉であり、〈存在〉の中立性は、その必要条件であり、〈存在〉の潜在性における第一次性(primitas virtualitatis)ということが、その必要十分条件である、ということだ。》(169頁)

●「しかし、結局、何が分かったのだろう」(山内170頁)。──小林秀雄の批評と理論物理学と西欧中世哲学。実在の二重性、実在との接触をめぐる三組みの思想の跡を丹念に読み解き重ね合わせてみること。企てる前に力尽きたこの試みに向けて、「無学を乗り切る」ことはもちろん「大体の見当」をつけることさえできない(岡潔との対話「人間の建設」)。