マルジナリア3 「魂の学について」(2004/07)



●ここ数年来、私の夏休みの自由研究のテーマだった心脳問題をめぐって、小林秀雄の『感想』に出てくる蛍の話に始まりライプニッツの「モナドロジー」で終わる「宙を舞うモナド」(仮)という文章を書く予定だったけれど、体調、脳調ともに最悪で、休載を申し出ようかと思いかけていたところ、ふと、以前、茂木健一郎さんの呼びかけで企画され、養老孟司監修で徳間書房から刊行される予定だった書物のために寄稿した古証文ならぬ古い文章(『La Vue』No.8に掲載していただいた「魂の経済学序説」につながるもの)のことを思い出したので、今回はそれをそのまま掲載することにします。

●「古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて神であった。…ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ。…あるいは青色の閃光が突如として意識をとらえることがあるかも知れない、そうしたらそれが神となるのだ。…水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象するのである。だが、これは決して単なる質ではない、儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい。」(D.H.ロレンス『現代人は愛しうるか』福田恆存訳)

●心と脳の関係を考えるとき、そこでいう「心」とは何かがまず問われなければならない。意識、感情、感覚、自己、自我、私、精神、霊、魂、表象、情動、意志、知覚・感性・思考・直観等々、これらのうち、どの「心」を対象とするのか、そしていかなる定義(限定)のもとでそれを扱うかによって、問題の様相はまったく異なってくるだろう。
 また、「関係」という語でもってどのような事態を語り出そうとしているのか、見定めておくことが必要だ。それは因果関係なのか、生産関係なのか、それとも推論関係とでもいうべきものなのか。粒子と波動、離散と連続、生と死、有限と無限、内と外、面と体、主観と客観、世界と自我、超越と内在、神化と受肉等々、これら諸々の事柄をめぐる「関係」とは何か、そしてそれは心と脳の関係と相同なのかどうか。(仮にそれらが意味的・論理的な関係にほかならないのだとして、では「意味的・論理的関係」とは何か。)
 そして、そもそも「脳」とはいったい何なのだろう。それが複雑精妙なシステムを内蔵した物質の塊であることなら、誰でも知っている。それでは、生きて働いている脳と、屍体とともに溶解していく脳と、そのいずれもが同じ脳なのだろうか。諸々の脳が累々たる個別の死を超えて創り出してきたこの世界は、脳ではないのか。

●だが、これらの問題とともに、いや、これらの問題とは別の次元で大切なことは、心脳問題というときの「問題」の実質だ。それはどのような内容をもった問題であるのか、ではない。なぜ人は心と脳の関係を問うのか、でもない。なぜかしら「私」はそこに問題を感じ、その問題とともに生きるほかなくて、それは、心と脳の関係を考えることがすなわち「私」の生である、といった事情のもとで生きることへの覚悟あるいは態度と切り離すことができない種類の問題である。
 こうした、いわば形式的感覚に根ざした抽象化の作業(あるいは、その言語的・公共的表現の試み)を徹底することこそ、心と脳の関係を問うことの実質なのであって、そのような問題感覚を欠いた抽象的議論は、せいぜい哲学的駄弁か科学的交換日記でしかない。

●脳との関係で心を考えるとき、私はそれを「魂」──もしくは独在性の〈意識〉(永井均氏の表記法を借用)──と呼ぶことにしている。存在、時間、記憶、他者、情報、精霊、天使的存在等々、いずれを採用することもできるし、「χ」「φ」「ω」等々と表記してもいいものなのだが、「魂」と名づけることで、数千年に及ぶ先人たちの思考(たとえば、プロティノスに始まり、エリウゲナ等々によって反復的に変奏されていったグノーシス的ネオ・プラトニズムの系譜)へと接続することができはしまいかと思うからだ。
 また、魂と脳の関係について、ここでは「魂*脳」の公式を提示しておくに止めよう。「*」に代入できるのは、推論の形式を示す五つの論理詞(連言、選言、含意、同値、否定)に対応する記号である。私の直観が告げるのは、魂と脳は、それらすべての記号が代入可能な高次元の関係を取り結んでいるだろうというものだ。しかも、その一つ一つの記号によって示される推論の形式がさらに複数に分岐するといった、複雑怪奇な関係。(たとえば、「脳⇒魂」で表現される関係は、事象間の帰納[in-duction]的な因果関係や演繹[de-duction]的な論理的同型性を、あるいは「洞察」[ab-duction]による意味関係や「生産」[pro-duction]による理解関係を表現している。)
 そして、魂との関係において「脳」を考えるとき、私はそれを端的に「世界」ととらえる。精確にいうならば、時空構造(宇宙)を孕んだ世界。そこには物質と精神が見えてくるだろう、さらに観察者自身もまたそこに含まれる、いわば汎脳論的世界であって、このような世界において、唯脳論と無脳論がある不可思議な回路を経て重ね合わされることになるのではないかと私は直観している。

●さて、魂と脳の関係をめぐる問題、すなわち魂脳問題をめぐって──より私の関心にひきつけていえば、魂の存在様式やその法則が稼働する時空の問題をめぐって──、西欧世界では古来、三つの学がそれぞれの方法と問題意識でもって取り組んできた。哲学と神学と数学。いずれも「無限」(神や霊性であれ、宇宙・自然であれ、イデア的世界であれ)を対象とする学でもあった。
 私は、その現代版として、神経哲学、情報神学、言語数学の三つの学の可能性を考えている。いまの段階でそれらの内実を十分に構想できているわけではないので、はたして命名価値や流通可能性があるかどうか解らないのだが、以下、脳と魂の関係をめぐるこれら三つの学の守備範囲を概観しておくことにしよう。

●まず、意識哲学ならぬ神経哲学について。それは脳=世界を、すなわち物質と精神の構造と機能を解明し、両者の関係を説明する。物理学(自然哲学)が探究の素材としてきた物質世界と、神学が一般に弁明の対象としてきた精神的世界との関係を、前者から後者への推移に力点をおきつつ説明しようとするのが神経哲学だ。
 ここで物質というとき、私は、「離散」性と「連続」性、そしてそれらを通底もしくは媒介する「論理」性や「無限」性、さらにはこれら四項の相互関係そのものに関係する「情報」によって構造づけられたリアリティ──ヴァーチャルなものであれアクチャルなものであれ、数学的リアリティであれ観測可能という意味でのリアリティであれ──を想定している。
 また、精神というとき、それは個人の内面性や心理をではなく、むしろ身体をめぐる観念に根ざした共同性や言語、あるいは社会の諸過程や歴史といった公共的な事柄を想定している。このような意味での精神にあっても、離散・連続・論理・無限・情報による構造化とその表現(リアリティ)を見出すことができるのではないかと私は考えている。
 ところで、物質と精神の両世界に共在するのが「身体」である。そうすると、神経哲学とは身体器官としての脳の構造と機能を解明する学である、と規定することができるかもしれない。(これを「肉体」と表記すると、問題の様相がかなり異なったものになる。肉はまず食糧であり、したがって屍体であり、料理=埋葬の対象であり、あるいは欲望を、とりわけ生殖と結びつく性欲を内臓したものである。肉体は伝統的に霊性と対立させられてきた観念であって、むしろ次に述べる情報神学の問題領域に属するものだ。)

●次に、純粋魂学ともいうべき情報神学について。それは、生者と死者、機械と幽霊、動物と人間、神と人間等々の関係を問う言語(たとえば、預言と啓示、一人称単数の告白と二人称単数の祈りと三人称単数の戒律、旧約=古い脳を包含する新約=新しい脳の物語言語等々)によって立ち上がるもの、あるいはそれらの言語が稼働するシステムそのものの起源と構造と機能と変容のプロセスを弁明する学である。しかし、このような抽象的な定義では、何も語ったことにはならないだろう。ここでは霊性と魂の、したがって霊性神学と情報神学の違いを素描しておく。
 私の未完の「体系」によると、物質と精神を媒介し通底させるものは生命または〈意識〉である。鈴木大拙が精神と物質を一つにする「はたらき」と呼んだ霊性は、このうち生命に関係するもの、たとえば生命感覚とか「種社会」にリアリティをもたらす内属感のようなものなのではないかと考え、私自身は、これとは異なるいま一つの回路、つまり〈意識〉=魂のはたらきを介した精神と物質の関係を考察することができはしまいかと目論んでいる。霊性が根源的な生命感覚の覚醒であるとすれば、〈意識〉=魂は根源的な物質感覚の覚醒なのであって、それは想念が物質化する(たとえば、カントールの対角線論法において、「天使」的存在ともいうべき実数が無限に立ち上がってくるような)不可思議な時空を切り拓くのではないか、などと考えている。
 こうした「認識=存在=生成」という世界の根源的なリアリティの基底にあるものを、私は「情報」ととらえ、霊性から魂への転換のうちにその生理を解明する、というより創造する学として情報神学を考えている。

●補遺。ある特殊なシステム(たとえば脳)があって、これに対応してある特殊な観測者(脳)がいる。この二つの要素からなる全体を「(情報神学的)原システム」と名づけよう。そして、この原システムから観測者を除去して考えられたシステムを「(神経哲学的)抽象システム」と名づけることにしよう。ここで抽象システムは、その「内部」に「測りがたい」深淵や超越や分裂や矛盾等々をかかえることになるだろう。なぜなら、そこには観測者がいないから。
 この抽象システムにおける不在の観測者は、時として「神」とか「意志」などと呼ばれることがあるが、実はそれは「外部」に仮構されたインターフェイスないしは「外部」へのパスウエイのこと、「鏡」とでも名づけるべきもののことをいっている。たとえば、「鏡」と「自己」の二つの要素からなる擬似「原システム=情報システム」としての精神もしくは神経回路がそれだ。

●最後に、関係の学としての言語数学について。それは、ポイエーシスにかかわる詩譜に属するもの、さらには言語物質論の系譜に属するものといっていいだろう。
 もともと数学は、生命感覚もしくは霊性感覚に根ざしたもの(たとえば、数秘術)だった。これに、この世界を規律し、記述し、表出し、告知する、精神由来の言語が繰り込まれたとき、物質の生成を司る、つまり時空構造そのものの設営にかかわる言語を対象とした新しい数学が誕生するのではないかと私は考えているのだが、これはいまだ夢想の域を出ないものである。──以下、作成途上の研究対象リストを掲げておく。
 1 模倣言語(物質から生命=霊性へ。物質を統治する生命の言語)
    物質言語──DNA、アルゴリズム、プログラミング言語
 2 記憶言語(生命=霊性から精神へ。生命=霊性を統治する精神の言語)
    宗教言語──預言、福音、神託
 3 解釈言語(精神から〈意識〉=魂へ。精神を統治する〈意識〉=魂の言語)
    詩的言語──韻文、譜面、レシピ、指令
 4 表象言語(〈意識〉=魂から物質へ。〈意識〉=魂を統治する物質の言語)
    霊的言語──呪文、マントラ、呪言、ESP
 5 外部性の言語(物質と精神を連接する言語)
    感覚言語──法華七喩、戒律、法律、固有名、言霊
 6 他者性の言語(生命=霊性と〈意識〉=魂を連接する言語)
    歴史言語──暗号、アナグラム

●物質から精神へ(神経哲学)、そして──精神から生命=霊性への回路を経由して──霊性から魂へ(情報神学)、さらに──精神から〈意識〉への回路を繰り込んで──魂から物質へ(言語数学)。
 こうして一つの循環がかたちづくられた。一つの循環=円環が完成するとき、始まりが終わりに接続するとき、そこから異なる次元が、つまり別の時空構造を孕んだ世界が立ち上がり、再び探究が開始される。魂と脳の関係をめぐる、だれもまだ「経験」したことのない思考へと向かって。(この高次元循環システムのエコノミーを考察する、心脳問題をめぐる第四の学を構想することができるかもしれない。たとえば、「普遍経済学」や「生きた貨幣」をめぐる考察等々。)

●空の青みに見入っていると、自我が極微の要素から合成されていること、そしてこれらの要素はどの一つをとってみても確固たる実在ではないこと、ただ関係があるだけだと解ってくる。そのような自我が無限小と無限大を結ぶ奇妙な等式にのっとって空の青み全体に拡散していく。それはもはや私の主観ではない。空そのものにまで広がった自我は、「私」の自我と名づけることはもちろん、もはや「自我」とさえ呼ぶことのできない客観世界をかたちづくっている。ただ空の「青み」が私の感覚に刺激を与え続けるかぎりで、主観と客観は浸透しあっている。
 私が見ているのは空であり空の青みであり、そこに映し出された私ではない私であり、つまりは抽象である。そこには一片のイメージすらない。全き空虚である。ただ空が、空の青みがある。あるという言葉がもはや確たる手触りをもたらさないようなあり方で、空の青みはそこにある。私の主観、私の自我は感覚に収斂されている。抽象と感覚。──心と脳の関係をめぐる私の「問題」がめばえるのは、その時だ。

《参考文献》
D.H.ロレンス『現代人は愛しうるか』(福田恆存訳,中公文庫)
永井均『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房)
養老孟司『唯脳論』(青土社)
大森荘蔵『時間と存在』(青土社)
ルディ・ラッカー『思考の道具箱』(金子努監訳,工作舎)
鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫)